2013年11月16日土曜日

「○○フォーティーエイトになりました!」とは決して言いたくないです

今日は独りでひっそり自分の誕生日を祝いました。

一昨年も昨年もfacebookの皆さまから怒涛のバースデーメッセージをいただいて、うれしかったです。

誕生日を非公開に設定してみたら、一日中し~んとしているので、それはそれで寂しい誕生日でした(ウソです、ぜんぜん寂しくありません)。

48歳になりました。

昨年の誕生日の時点で、「来年関口は『ぼくは○○フォーティーエイトになりました!』とか騒ぐに違いない」と予測されていましたので、それだけはするまいと、かたく心に誓いつつ、去る一年を過ごしてまいりました。

人生はややしんどいですが、とりあえず前に進んで行くしかありません。

ぼくは今の10代、20代くらいの人たちを応援したいです。

30代以上の人たちは、どうぞご自由に、自分の力で生きて行ってください。よろしくお願いいたします。

それではまた。

もうすぐ日付が変わりますので、これにて終了します。

2013年11月14日木曜日

余裕のやっちゃんです

全く個人的なつぶやきなのですが。

ぼくの属する「東関東中会」は、

これまでは毎年の第二回定期会を11月23日(祝)に固定してきましたが、

今年はいろいろ考えて11月4日(月)に行い、もう終わってしまいました。

それで何が起こったか。

今とっても精神的に余裕がある状態なんです。ぽけーっとしています。

中会会議というのは「決めごと」をする場ですので、

会議までは心理的に混乱状態ですが、

会議が終われば決議内容を実行に移すだけです。すっきりさわやかです。

というわけで、今年に限っては、クリスマスまでポカン顔の関口です。

教会の牧師室や牧師館の、掃除とか片づけとか、しています。

まるで、いつでも引っ越しできるような、さわやかさです。

余裕のよっちゃん、というやつです。ぼくはやっちゃんですけどね。

「教会を動かす」の含意は「教会をよくする」です

前稿の続き。

「教会を動かす」の含意は、もちろん「教会をよくする」です。

歴史が証明するとおり、巨悪がはびこるのは社会だけでなく教会も然りです。

ぼくは悪人かもしれませんが(だとしたら、すいません)、ぼくは巨大ではないので「巨悪」ではありえません。ぼくが片付けば済むならいつでも退場しますけど、何の変化もありません。

ぼくのことはともかく、社会だけでなく教会にも巣食う巨悪の根源を正当な手続きで排斥し、かつ教会をよくすることが「動かす」です。

でも、教会は簡単に動かせません。

教会を利用してビジネスをしようと思いついた人は、たいていあきらめて出て行きます。営利目的で教会を乗っ取るのは容易ではないというか、全く不可能だからです。

教会はカネにはなりません。特定政党や特定企業に利用されることも断固拒否します。

それは教会の保守性(「この世で最も保守的な存在としての教会」トレルチ)の良い面だと、ぼくは思います。

しかし、悪い面もあります。

健全な批判精神を持っている人たちが、多くの場合、教会の周辺においやられてしまいます。

何も変えたくない、変わらないでほしいと願っている人たちが、ど真ん中に居座る。

ど真ん中に居座って、それで何かを懸命にしてくれるならいいけど、何もしない。

偏執的にミクロ的な一真理に固執し、不毛な同語反復を続け、さまざまな可能性に目を向けず、自派の存続を揺るがす人たちを組織票で抹殺する、といったやり方を好む。

これも「教会」ですよね。だけど、動かさなくてならないと思う。

世界で最も保守的なものを変革できれば世界は変革しうるんじゃないかな

昨日は「教会(キルへ)はインドのカースト制度を除けば多分この世の中で最も保守的なものである」というエルンスト・トレルチの言葉(1921年)に改めて接し(久しぶりに読みました)、

ちょっとファイトの念が燃えはじめたぼくだったりします。

なんていうか、

それって逆に考えれば、

トレルチをして「この世で最も保守的」と呼ばしめた「教会」を変えることができるほどの説得力ある言葉と生き方が見つかれば、そのとき世界は変わるってことですよね。

「教会」という、この押しても引いても梃子でも動かない、がっかりするほど鈍重なものを動かすことができる力があれば、世界は動くってことですよね。

そして、その言葉、その生き方、その力は、「教会」の中にいる者たちにしか手に入れることはできませんよね。教会に関わったことない人たちに、教会を動かす力はない。

「世界が変わらない、動かない」と嘆く気持ちは、ぼくも同じ。

だけど、それを言うなら、ぼくらはまず「教会」を変え、動かしてみせなくちゃね。

それができたら、世界も動いてますよね。

こういう考え方、間違ってますかね。

2013年11月13日水曜日

国や社会の形成にとって教会は必要不可欠だと思う

以下、今日読んでいる本から引用します。

日本語版原文では改行なしでつながっていますが、読みにくいので、適当に改行を加えました。

「さてしかしながら、われわれの関連にとって決定的に重要なのは、教会型に基づく社会哲学は、分派型に基づく社会哲学と全く別のものであるという事態である。

結局、完成された理論としての社会哲学をもっているのは教会だけである。というのは、教会のみが学問に対する関心と、この世を支配するのに役立つその学問の力に対する関心をもっているからである。

教会の学問性つまり教会哲学と神学は、それ自体が教会の相対的世界性の一部であり、この世界性と一緒になって一層広範に発展したのである。

しかしことに内容的な面で矛盾しているところが見られる。教会はこの世との妥協を企て、しかも自らの罪の赦しの理念や恩寵の理念を用いてこの妥協をかなりうまく実現することができた。教会はこうして、相対的自然法の諸々のこの世的な秩序を冷静に認めることができた。

また教会はそれらのおかげで、持続するこの世の中で継続的な労働を営む準備をすることができた。

教会は、その全体的な施設の理念、恩寵の理念、権威の理念それ自体において保守的である。それは、インドのカースト制度を除けば、多分この世の中で最も保守的なものである。

教会は、国家と社会における諸々の世俗的な秩序との関連においても保守的である。教会は一般に国家の権威と世襲的な社会組織の安定性に対して、それらによって束縛されることはないが、親和性をもっている。」

1922年(91年前)に発表された文章です。論者の炯眼に圧倒されました。

ただし、読み方というか解釈には、工夫というか予備知識がかなり必要な文章ではあります。

なかでも、「教会」(キルへ)と「分派」(ゼクテ)の明確な区別は、日本のキリスト教界にはピタリとは当てはまりません。

この人の分類法で考えていけば、日本のキリスト教界にあるのはほとんどすべて「分派」(ゼクテ)だ、という判断になるでしょう。

彼にとって「教会」(キルへ)とは、「学問への関心」をもち、「世界と妥協する」存在なのです。

しかし、そのことを踏まえたうえでも、ぼくはやはり、この論者が定義する意味での「教会」の存在が日本に必要だと考えさせられました。

この論者に言わせると、「教会」はインドのカースト制度に匹敵するくらいの「保守的な存在」だということになるようですが、それは当たっているとぼくは思う。

しかし、教会が「保守的」であること自体が悪いことだとは、ぼくは思わない。

一つの国や社会が形成されていくためには、教会のように「腰の据わった存在」が必要不可欠だと思うのです。

反論はあるでしょう。

この文章が発表されてから10年ほど後のドイツに出現したあの極右政党と「教会」(キルへ)との「妥協」はあってはならなかった。それも、そのとおりです。

上記の引用はエルンスト・トレルチの論文「キリスト教社会哲学」の一節です。

(佐々木勝彦訳、『トレルチ著作集』第3巻、ヨルダン社、1983年、24~25頁)。

1922年といえば、トレルチがプロイセン文部省次官を辞した1921年と、57歳で死去する1923年との間に発表されたもの、ということになります。

当時、ベルリン大学哲学部の教授でした。トレルチの個人史においても、ドイツの政治史においても、重要な意義を持つ論文だと思います。

2013年11月12日火曜日

「超訳聖書」のブログを立ち上げました

三つしか記事がありませんので、独立させるのは早いかもしれませんが、

頭と心の整理の必要もあり、「超訳聖書」のブログを立ち上げました。

超訳聖書
http://chouyaku.blogspot.jp/

「萌訳聖書」というタイトルにしてほしいという要望があるんですが、どうしたものか...

何度も書きますが、するどいツッコミには耐えられません。

ケンカ腰でかかってくるタイプの批判は無視しますので、悪しからず。

とにかく、ぼくは自分の読み方に、何のこだわりもありません。

また、最新の聖書学的知識などは、持っていません。

強いて言えば、ぼくが試しているのは「文体研究」のようなことです。

まあ、でも、まだほとんど何もできていませんので、

先走ったことを書くのはやめておきます。

2013年11月11日月曜日

のれんに腕押し、ぬかにクギ

だけど、日本だけではないと思いますが、

「プロテスタント」教会は、いろいろグループで細分化しているので、

他からの批判も自己批判もできにくい構造になっていると思うんです。

のれんに腕押し、ぬかにクギで、ひらひらかわすことばかり得意で、

自分にとって都合の良い「教会批判」にはやたら関心が強い割に、

自分に都合の悪い「教会批判」は、自分のこととして聞こうとしない。

ぼくは今、このことを他人事として書いてるわけではないですよ。

他人事になるわけないじゃん、生まれて(あと数日で)48年、

日本の「プロテスタント」教会から離れたことは一度もない人間なので。

ぼくは牧師の子弟ではないですが、

日曜日に教会にいなかった日は両手の指で数えられるほどしかないです。

年数で競うつもりはない、ということは、前から繰り返し書いています。

70代、80代の人に、40代、50代の者たちが、年数で勝てるわけないよね。

「外部」から文句言われるのはイヤですけどね。本当は聞きたくもない。

「何が分かるんだ」と言いたくなる衝動にかられることもあるほどです。

だけど、「身内」をかばい続けるのは、少々疲れました。

ホントに疲れました。

疲れても牧師。

死ぬまで牧師。

やりますよ、牧師。

ためいきもつかないぞ。

ぼくとかがためいきつくと、

「自分はもっとたいへんだ」と、

たいへんアピールしたくなる人たちがいるもんね。

ためいきついてません。ついてませんついてません。

茶坊主、お見合い、どうぞどうぞ

先週の「第19回 カール・バルト研究会」で結構盛り上がったのは、

「茶坊主」の話でした。

その内容を書くと角が立つので、書きませんけどね。

今の日本の(プロテスタント)教会は、

バレーボールの「お見合い」状態なのかもしれません。

ていうか、ダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ」だな。

発信力が強かった世代の人たちがほとんど引退状態にあり、

発信力が弱い、または発信力が無い人たちが、ど真ん中に居座っている。

引退状態にある世代の人たちの発信力にいつまでも期待し、ぶらさがる。

そういうの恥ずかしいと思わないのかな。ぼくは恥ずかしいんだけど。

2013年11月9日土曜日

忘れた頃の「超訳聖書」です

忘れた頃の「超訳聖書」です。

するどいツッコミには耐えられませんので、悪しからず。

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ローマの信徒への手紙8章18~25節

使徒パウロ/著  関口康/超訳


そりゃもちろんね、苦しいですよ、ぼくらだって。

だけど、今ぼくらが味わってる苦しみなんてね、

ぼくに言わせてもらえば、どうっちゅことないんですよ。

だって、この苦しみを耐えた向こう側に、明るい明日が待ってるんだからね。

ただただ、その夢だけ見て生きてますよ、ぼくは。

全世界がぼくらに期待してくれてるんです、はっきり言って。

人生は空しいとか、生きる意味ないとかね、そういうことばっか言ってる世界が、ね。

そういうこと言ってる人たちだって、自分でそうなりたくてなったわけじゃないんだよ。

じゃあ、だれがそうしたのって話になるわけだけど、

もうそれは神さまだとしか言いようがないね。

ぼくらに空しさとかを味わわせる神さまって、どんなだよと、

つい言いたくもなるけどね。

だけど、だからこそ、世界には希望があるんですよ。

だって、空しいままでいたい人なんて、いないんだから。

あとは死ぬしかないとか、どうせ世界は終わるんだからとか、

そういう思いにとらわれてしまってどうしようもなくなっているときでも、

なんとかそこから這い出したいと、だれでも思っているんですよ。

その出口なしの堂々めぐり状態から自由になって、

キャッキャ言って遊んでる子どもたちの笑顔のような輝きの中で

神さまとぼくらが仲良く生きていけるときが来るんですよ。

それってやっぱりスゴイことなんです。

ぼくらが生きてる世界は神さまが造ったものですよ、それは信じてほしいです。

この世界がぼくらのことを期待してくれててね、

「早く生まれろ~、早く生まれろ~、う~ん、う~ん」てね、

「ひっ、ひっ、ふー」でもいいや、

さあ、これから赤ちゃんがお腹から出てこようとしているときのお母さんみたいに、必死にね、

ぼくらを産むために、全世界がふんばってくれてるんですよ。

産まれてくるぼくらのほうも、サボってるわけじゃないですよ。

ぼくらも必死ですよ。お母さんのお腹の中から自力で這い出しちゃうくらいの勢いあるぜ。

赤ちゃんは出てくるときは、ひーひーとかは言わないけどね、

出てきてから「どぎゃあ」と泣くまではね。

だけど、心の中で、っていうか、口には出せないけど、

赤ちゃんだって必死で泣いてるんですよ。狭いしね。

「こんなところから出てやる~」みたいな感じでね。

いま言ってるのは、もちろんたとえですよ。

何を言いたいのかって?

ぼくらがさ、教会とか信仰とか、何が悲しくてそんなものを守ったりしてるのか。

そんなものを守ろうとするから苦しむことがあるとかね。

そんなことにまるで興味を持ってくれない人たちが圧倒多数の中でね。

「なにそれ?」とか「宗教オタク」とか言われたりもしながらね。

自分でも何やってるのか分からなくなるとき、あるかもしれないよね、はっきり言って。

だけど、ぼくらは教会続けますよ。

信仰とか捨てられないですよ。

そういうことがなんでできるのか、ですよ、ぼくが言いたいことは。

それはやっぱり、さっき言ったことですよ、

全世界がぼくらに期待してるんだってば。

だって、空しいままでいたい人なんか、ひとりもいないんだから。

神さまとか、人生の意味とか、やっぱり知りたいんですよ。

そんなの知らなくていい、なんて人はいないですよ。

全世界がぼくらに期待してくれていると信じることが、ぼくらの希望だし、

そういう希望を持てること自体が、ぼくらの救いそのものですよ。

全世界が教会に期待してくれているかどうか、証拠見せてみろとか言われてもね、

そんなもん見せられませんよ。「期待」って見えるものなのか。逆に聞きたいよね。

だけど、目に見えないけど、本当にそうなんだよ。

信じろとか言っても無理かもしれないけど、信じるしかないじゃん。

目に見えないものだから、ぼくらは信じるんだよ。

もう見えてるものは、信じる必要ないじゃん。だって、目の前にあるんだから、

ぼくはね、自分で言うのもなんだけど、我慢強い人間です。

いつまでも待ちますよ。

ぼくは教会をあきらめない。

Christliche Anthropologie in de Konflikten der Gegenwartは「現代の闘争の中におけるキリスト教人間像」だろうか


サブタイトルは、Christliche Anthropologie in de Konflikten der Gegenwartだったのか。初めて知りました。

それが「現代の闘争の中におけるキリスト教人間像」と訳されています。辞書的意味に忠実に訳されてはいるということは、よく分かります。

しかし、ちょっと厳しすぎる言い方かもしれませんが、訳者の視線は、この本をまだ読んだことがなく、ドイツ語を読むことができない人たちに、ではなく、この本をドイツ語原著で熟読していて、ドイツ語の構文を知っている「身内」に向かっているのではないかと、なんとなく訝しく思えてきます。

いま書いていることは誤訳の指摘ではないし、訳者に対する批判でも攻撃でもありません。ただ、いろいろ感想を述べているだけです。

とはいえ、Konfliktは「闘争」だろうか。「の中における」という日本語に奇妙さはないだろうか。inを間に挟んだ二つの文は、いつでも後者を先に、前者を後に訳さなければならないか、などなど、いろいろ考えさせられています。

たとえばの話、「キリスト教的人間論の今日的議論」と訳すのは間違っているでしょうか。原著者がサブタイトルに込めている意味は、その程度のことだと思うのですが。

この訳書が出版された時期の背景的なことを想像すれば「闘争」と訳したかったのかもしれないことは分からなくもないですが、最大で「葛藤」くらいではないでしょうか。

なんか、そんなことを考えました。