話を単純化しすぎかもしれませんが、
20世紀ドイツの(健全な)神学の課題が
「ナチス国家との対峙」にあったとすれば、
20世紀オランダの(健全な)神学の課題は
「ナチスの蹂躙からの自国の解放」にあったと、
ぼくはとらえてきました。
目標は同じであるようでもあり、
違うようでもあります。
20世紀オランダの(健全な)神学にあるのは、
「国家=悪」VS「教会=善」
という構図ではなく、
「国家にいくらか寄り添い、助ける教会」
という構図だと思います。
また話を単純化しすぎかもしれませんが、
そこにあるのは
「預言者的」というよりは「祭司的」な何かです。
「甘い!」とか「権力志向だ!」とか
批判されてしまうかもしれませんが、
「けんか腰では伝道はできない」と、ぼくは思うので、
その種の批判は、
理解できる面があることを十分に感じながらも
やや甘受する姿勢で
進んで行こうと考えています。
「甘くて」すみません。
2013年8月24日土曜日
夏休み、終了しました
えっと、ぼく
今日で夏休みが終わりました。
明日から通常モードに戻ります。
何もしなかったようでもありますが、
多くの収穫があった夏休みでした。
たったの一週間、
何も変わってないようでもありますが、
ぼく的には
過激に、飛躍的に、前進した
夏休みでした。
ありがとうございました。
今日で夏休みが終わりました。
明日から通常モードに戻ります。
何もしなかったようでもありますが、
多くの収穫があった夏休みでした。
たったの一週間、
何も変わってないようでもありますが、
ぼく的には
過激に、飛躍的に、前進した
夏休みでした。
ありがとうございました。
2013年8月19日月曜日
夏期休暇中のご挨拶とお断りです
ネットつながりのお友達のみなさま
残暑お見舞い申し上げます。
立秋をすぎたとはいえ連日の猛暑の中、いかがおすごしでしょうか。
えっと、ぼくは今週(8月18日~24日)、夏期休暇中です。
本来なら、という言い方はおかしいかもしれませんが、
メールやブログやFacebookやTwitterも休むべきかもしれませんが、
まあ、ぼくの場合、メールもブログもFacebookもTwitterも
どこまでが仕事で、どこからは仕事でないかの区別が難しい状態ですので
閉じたり開いたりしています。
でも、これまた、ぼくの場合ですが、
メールやFacebookのメッセージに返信することや、
Facebookのお友達の書き込みやぼくの書き込みへのコメントへの返信に
「いいね!」を押すことについては、
毎回、細心の注意を払い、神経をすりへらしながら行なっていますので、
(身も心もガクガクブルブルふるわせながら、ポチッと)
これらに関しては、休ませていただくことになるかもしれません。
ですから、今週のぼくは、
どなたの書き込みにも「いいね!」を押さないかもしれませんし、
(押すかもしれません)
メールやFacebookのメッセージやコメントに返信しないかもしれませんが
(返信するかもしれません)
「あ、そーいえば、あいつは休暇中だったな」ということで、
お見逃しいただけますと幸いです。
パソコンそのものも、
スイッチを切っているかもしれませんし、
つけっぱなしかもしれません。
というわけで、
苦しい言い訳ばかりの「残暑お見舞い」になりましたが、
皆さまのご多幸をお祈り申し上げて、筆を擱きます。
それでは、また。
主の2013年8月19日
関口 康
残暑お見舞い申し上げます。
立秋をすぎたとはいえ連日の猛暑の中、いかがおすごしでしょうか。
えっと、ぼくは今週(8月18日~24日)、夏期休暇中です。
本来なら、という言い方はおかしいかもしれませんが、
メールやブログやFacebookやTwitterも休むべきかもしれませんが、
まあ、ぼくの場合、メールもブログもFacebookもTwitterも
どこまでが仕事で、どこからは仕事でないかの区別が難しい状態ですので
閉じたり開いたりしています。
でも、これまた、ぼくの場合ですが、
メールやFacebookのメッセージに返信することや、
Facebookのお友達の書き込みやぼくの書き込みへのコメントへの返信に
「いいね!」を押すことについては、
毎回、細心の注意を払い、神経をすりへらしながら行なっていますので、
(身も心もガクガクブルブルふるわせながら、ポチッと)
これらに関しては、休ませていただくことになるかもしれません。
ですから、今週のぼくは、
どなたの書き込みにも「いいね!」を押さないかもしれませんし、
(押すかもしれません)
メールやFacebookのメッセージやコメントに返信しないかもしれませんが
(返信するかもしれません)
「あ、そーいえば、あいつは休暇中だったな」ということで、
お見逃しいただけますと幸いです。
パソコンそのものも、
スイッチを切っているかもしれませんし、
つけっぱなしかもしれません。
というわけで、
苦しい言い訳ばかりの「残暑お見舞い」になりましたが、
皆さまのご多幸をお祈り申し上げて、筆を擱きます。
それでは、また。
主の2013年8月19日
関口 康
2013年8月9日金曜日
「スマホ後の教会」はどうなるか
(IT!おまえはどこへ)久多良木氏「スマホ後の世界」(朝日新聞デジタル、2013年8月8日)
http://www.asahi.com/business/update/0807/TKY201308070342.html?ref=reca
興味深く読みました。後半も(無料で読めるところまで)読みました。
ぼくの関心はどうしても、「スマホ後の教会」はどうなるか、ということです。
教会に対するネットの「甚大な」影響が明白であることは、そろそろ認めましょう。
ネガティヴな面ばかりであるはずがない。十分に有効活用されています。
「仮想世界」とも、もはや言いがたい。
十分にリアルな言葉が取り交わされています。
一度も会ったことがなく、声を聞いたこともないのに、
お互いの性格や人柄をすでによく知り合ってもいると思う。
嫌なこともあり、致命的な対立に陥ることもあるけど、
顔と名前を出している以上、「絶交」は回避したいという心理も働く。
十分にリアルではありませんか。
ネットで伝道するつもりはないと、以前書きました。
しかし、Facebookに移行してからは、少し方向が変わってきました。
現実に人が教会を訪ねてくださるようになりました。
「メーリングリスト参加してます」
「メールマガジン購読してます」
「ブログ読みました」
を理由に教会に足を運んでくださる人は、ぼくには一人もいませんでしたが、
Facebookは違います。
「ホームページ見ました」
ということで教会に来てくださる方は多いですが、
地図や集会案内を調べるためにご覧になっただけです。
しかし、Facebookは違います。
めっちゃリアルです。
「信頼」のようなものを感じて、足を運んでくださる方が増えてきました。
「スマホ後の教会」、どうなるのでしょうか。将来が楽しみです。
http://www.asahi.com/business/update/0807/TKY201308070342.html?ref=reca
興味深く読みました。後半も(無料で読めるところまで)読みました。
ぼくの関心はどうしても、「スマホ後の教会」はどうなるか、ということです。
教会に対するネットの「甚大な」影響が明白であることは、そろそろ認めましょう。
ネガティヴな面ばかりであるはずがない。十分に有効活用されています。
「仮想世界」とも、もはや言いがたい。
十分にリアルな言葉が取り交わされています。
一度も会ったことがなく、声を聞いたこともないのに、
お互いの性格や人柄をすでによく知り合ってもいると思う。
嫌なこともあり、致命的な対立に陥ることもあるけど、
顔と名前を出している以上、「絶交」は回避したいという心理も働く。
十分にリアルではありませんか。
ネットで伝道するつもりはないと、以前書きました。
しかし、Facebookに移行してからは、少し方向が変わってきました。
現実に人が教会を訪ねてくださるようになりました。
「メーリングリスト参加してます」
「メールマガジン購読してます」
「ブログ読みました」
を理由に教会に足を運んでくださる人は、ぼくには一人もいませんでしたが、
Facebookは違います。
「ホームページ見ました」
ということで教会に来てくださる方は多いですが、
地図や集会案内を調べるためにご覧になっただけです。
しかし、Facebookは違います。
めっちゃリアルです。
「信頼」のようなものを感じて、足を運んでくださる方が増えてきました。
「スマホ後の教会」、どうなるのでしょうか。将来が楽しみです。
「遊び」の問題は、考えれば考えるほど、ぼくは分からなくなりました
「遊び」の問題は、考えれば考えるほど、ぼくは分からなくなりました。
ファン・ルーラーが母校フローニンゲン大学で、
『ホモ・ルーデンス』のヨハン・ホイジンガ教授から(たぶん直接)「遊び」(spel)の概念を教えられ、
それを神学の中に持ち込もうとしたんです。
それをモルトマンやボーレンが、ファン・ルーラーから受け継いだ面があると、ぼくは見ています。
ぼく自身は、ファン・ルーラーが「遊び」(spel)という言葉を著書や論文で多用するのを、
最初は面白がっていました。
しかし、それが「遊びの神学」だ「喜びの神学」だ、
それがファン・ルーラー神学の特質だ、みたいな取り上げられ方になっていくのが、
だんだん嫌になってきました。
そんなふうにファン・ルーラーをイロモノ扱いして、結局はファン・ルーラーを軽蔑している
そういう人たちの心の中身が透けて見えるような気がして、つまらなくなりました。
あとは、日本語の語感だけの話かもしれませんが、
「真剣に遊ぶ」とか「一生懸命遊ぶ」というのは、ありだとは思いますけど、
「真剣に」とか「一生懸命」とか言った時点で、
プレイしている本人自身は、心理的には「遊んで」ないですよね、日本人は。
「遊ぶこと」と「真剣であること」が対立・矛盾しているかのような言語体系の中に、
やっぱりぼくらは生きているような気がする。
あるいは、「遊んで暮らす」という言葉に代表されるように、
「遊ぶこと」は賃金労働に従事していない状態(だけ)を意味している場面も少なくない。
ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(講談社学術文庫)も読みました。
「遊び」という訳語が悪いのか、別の言葉で訳せば問題は解決するのかは分かりませんが、
「遊び」を軽蔑する人たち独特の冷たい視線というか、鼻で笑うあの感覚は、
笑われている側にははっきり分かります。
だから、「自分は笑われている」と、いったん看取した人は、過剰防衛を始めることにもなる。
ぼくだけの感覚かどうかは分かりませんが、
日本人が「遊び」を軽蔑してきた姿をよくあらわしているような気がするのは、
ほら、あれですよ、
映画「火垂るの墓」の清太と節子が、親戚のおばさんから言われたキッツイ言葉。
「お国のために働いてる人らの弁当と 一日中ブラブラしとるあんたらと なんでおんなじや思うの」というセリフ。
「一日中ブラブラしとるあんたら」というあのおばさんのセリフに、全くギクッとしなかった牧師がいるでしょうか。
ファン・ルーラーが母校フローニンゲン大学で、
『ホモ・ルーデンス』のヨハン・ホイジンガ教授から(たぶん直接)「遊び」(spel)の概念を教えられ、
それを神学の中に持ち込もうとしたんです。
それをモルトマンやボーレンが、ファン・ルーラーから受け継いだ面があると、ぼくは見ています。
ぼく自身は、ファン・ルーラーが「遊び」(spel)という言葉を著書や論文で多用するのを、
最初は面白がっていました。
しかし、それが「遊びの神学」だ「喜びの神学」だ、
それがファン・ルーラー神学の特質だ、みたいな取り上げられ方になっていくのが、
だんだん嫌になってきました。
そんなふうにファン・ルーラーをイロモノ扱いして、結局はファン・ルーラーを軽蔑している
そういう人たちの心の中身が透けて見えるような気がして、つまらなくなりました。
あとは、日本語の語感だけの話かもしれませんが、
「真剣に遊ぶ」とか「一生懸命遊ぶ」というのは、ありだとは思いますけど、
「真剣に」とか「一生懸命」とか言った時点で、
プレイしている本人自身は、心理的には「遊んで」ないですよね、日本人は。
「遊ぶこと」と「真剣であること」が対立・矛盾しているかのような言語体系の中に、
やっぱりぼくらは生きているような気がする。
あるいは、「遊んで暮らす」という言葉に代表されるように、
「遊ぶこと」は賃金労働に従事していない状態(だけ)を意味している場面も少なくない。
ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(講談社学術文庫)も読みました。
「遊び」という訳語が悪いのか、別の言葉で訳せば問題は解決するのかは分かりませんが、
「遊び」を軽蔑する人たち独特の冷たい視線というか、鼻で笑うあの感覚は、
笑われている側にははっきり分かります。
だから、「自分は笑われている」と、いったん看取した人は、過剰防衛を始めることにもなる。
ぼくだけの感覚かどうかは分かりませんが、
日本人が「遊び」を軽蔑してきた姿をよくあらわしているような気がするのは、
ほら、あれですよ、
映画「火垂るの墓」の清太と節子が、親戚のおばさんから言われたキッツイ言葉。
「お国のために働いてる人らの弁当と 一日中ブラブラしとるあんたらと なんでおんなじや思うの」というセリフ。
「一日中ブラブラしとるあんたら」というあのおばさんのセリフに、全くギクッとしなかった牧師がいるでしょうか。
福音とイデオロギー
ただ、つと最近悩ましく思っていること、ディレンマは、
改憲反対「運動」や反戦「運動」の人たちとの関わり方や距離感がつかめない、ということです。
その「運動」を継続していくためには、
(べつにぼくは悪い意味で使うのではないのですが)一定の「イデオロギー」の肩口から投げ出され、正確にピンポイントに同じ結論へと投げ込まれる、バッティングセンターのピッチングマシンさながらのような言説と行動が必要であり、それがその「運動」の特徴でもあり、売りでもあります。
ですが、教会が宣べ伝える「福音」は、そのような意味での「イデオロギー」とは全く異なるものであり、似ても似つかぬものです。
「福音」と「イデオロギー」の区別と関係について、我々は正確に把握できているでしょうか。そのへんが一緒くたになっていて、不毛な混乱を招いている面はないでしょうか。
ぼくは「運動」を否定しているわけではないし、非協力的であるつもりもありません。
ただ、「福音」の自由に生きようとすると(「福音」は、なんら金太郎飴ではありえません!)、特定の「イデオロギー」の人たちから、これまた一定の(ピッチングマシンのような)攻撃を受けるというのは、しんどいことです。
改憲反対「運動」や反戦「運動」の人たちとの関わり方や距離感がつかめない、ということです。
その「運動」を継続していくためには、
(べつにぼくは悪い意味で使うのではないのですが)一定の「イデオロギー」の肩口から投げ出され、正確にピンポイントに同じ結論へと投げ込まれる、バッティングセンターのピッチングマシンさながらのような言説と行動が必要であり、それがその「運動」の特徴でもあり、売りでもあります。
ですが、教会が宣べ伝える「福音」は、そのような意味での「イデオロギー」とは全く異なるものであり、似ても似つかぬものです。
「福音」と「イデオロギー」の区別と関係について、我々は正確に把握できているでしょうか。そのへんが一緒くたになっていて、不毛な混乱を招いている面はないでしょうか。
ぼくは「運動」を否定しているわけではないし、非協力的であるつもりもありません。
ただ、「福音」の自由に生きようとすると(「福音」は、なんら金太郎飴ではありえません!)、特定の「イデオロギー」の人たちから、これまた一定の(ピッチングマシンのような)攻撃を受けるというのは、しんどいことです。
2013年8月8日木曜日
「忍耐」はやっぱり必要だぜ
負け惜しみだかなんだか分かりませんけど
経済的に豊かでないとか、生活が必ずしも安定しないとか、
いろんな点で追い詰められた状態にあるときは、
そういうときこそ、ぼくは、
なんだかものすごく真剣に物を考えているし、やたら饒舌になる、
というか、ぼくは口や舌はあんまりうまく動かないけど、
とにかくたくさん字を書きたくなるし、何かを告白し、訴えたくなる。
人によるとは思いますよ。苦労が、練達や希望につながらない人もいる。
それは、字にするとキツいけど、
苦労を持続する「忍耐」が欠けている状態なわけですよね、セオリーどおりで言えば。
でも、まあ、その苦労を忍耐している最中に
「プハア、うめえ」とか言いながら快適ライフを送ってるっぽい雰囲気の人たちの
冷たい視線とか感じると、心折れそうになりますよね。
ぼく自身は、どっちでもありうると思ってるんですよ、
「く、苦しい」って言っているときもあるし、
「プハア、うめえ」って言ってるときもある。
陰鬱な「禁欲主義」よりは快活な「快楽主義」のほうがましだとも思う。
辛気くさい顔して社会悪を裁き続けることをアリバイにしながら、
「おいおい、人のことを言えるようでもなさそうだぜ」
と思われてしまうような人間にだけはなりたくない。
だけど、「忍耐」はやっぱり必要だぜ。それができなければ成長はない。
ぼくがいつまで経っても成長できないのは、その「忍耐」が足りないからだけどね。
経済的に豊かでないとか、生活が必ずしも安定しないとか、
いろんな点で追い詰められた状態にあるときは、
そういうときこそ、ぼくは、
なんだかものすごく真剣に物を考えているし、やたら饒舌になる、
というか、ぼくは口や舌はあんまりうまく動かないけど、
とにかくたくさん字を書きたくなるし、何かを告白し、訴えたくなる。
人によるとは思いますよ。苦労が、練達や希望につながらない人もいる。
それは、字にするとキツいけど、
苦労を持続する「忍耐」が欠けている状態なわけですよね、セオリーどおりで言えば。
でも、まあ、その苦労を忍耐している最中に
「プハア、うめえ」とか言いながら快適ライフを送ってるっぽい雰囲気の人たちの
冷たい視線とか感じると、心折れそうになりますよね。
ぼく自身は、どっちでもありうると思ってるんですよ、
「く、苦しい」って言っているときもあるし、
「プハア、うめえ」って言ってるときもある。
陰鬱な「禁欲主義」よりは快活な「快楽主義」のほうがましだとも思う。
辛気くさい顔して社会悪を裁き続けることをアリバイにしながら、
「おいおい、人のことを言えるようでもなさそうだぜ」
と思われてしまうような人間にだけはなりたくない。
だけど、「忍耐」はやっぱり必要だぜ。それができなければ成長はない。
ぼくがいつまで経っても成長できないのは、その「忍耐」が足りないからだけどね。
「デイリーヤマザキ松戸小金原店」を応援しちゃうぞ!
なかよしのイケメン店長アトウさん率いる
「デイリーヤマザキ松戸小金原店」を
応援しちゃうぞ!企画
同店は、コンビニエンスストアです。
しかし、店内でパンを焼いて販売しています。
それがウマイ!ほっかほかです。
ぜひみなさん、
「デイリーヤマザキ松戸小金原店」に
お立ち寄りくださいね。
ぼくはただの通りすがりの客なだけですけどね。
「千葉県松戸市小金原6丁目11−5」
で検索すれば、地図が出てくると思います。
Googleの地図は、まだ昔の
「スリーエフ松戸小金原店」のままですけどね。
店長は変わってませんからね。
昔ながらのイケメンのままですよ。
いらっしゃい、いらっしゃい\(^o^)/
「デイリーヤマザキ松戸小金原店」を
応援しちゃうぞ!企画
同店は、コンビニエンスストアです。
しかし、店内でパンを焼いて販売しています。
それがウマイ!ほっかほかです。
ぜひみなさん、
「デイリーヤマザキ松戸小金原店」に
お立ち寄りくださいね。
ぼくはただの通りすがりの客なだけですけどね。
| デイリーヤマザキ松戸小金原店 開店(2013年7月31日) |
「千葉県松戸市小金原6丁目11−5」
で検索すれば、地図が出てくると思います。
Googleの地図は、まだ昔の
「スリーエフ松戸小金原店」のままですけどね。
店長は変わってませんからね。
昔ながらのイケメンのままですよ。
いらっしゃい、いらっしゃい\(^o^)/
| イケメン店長 阿藤さん(左) |
2013年8月7日水曜日
ゲオルク・ヴォッベルミン(1869年~1943年) ~ナチス政権に協力したドイツのプロテスタント神学者~
ゲオルク・ヴォッベルミン(Georg Wobbermin [1869-1943])は、高校卒業後、プロテスタント神学を学んだ。博士論文は組織神学部門に関するもので、神学博士号を取得した。1922年以来、ゲッティンゲン大学で組織神学の部門長を歴任した。
ヴォッベルミンは若い頃から国家主義的知識人だった。ナチス政権を最初から支持した。1933年11月にはドイツの大学教授によるアドルフ・ヒトラーとナチス国家に対する宣誓に署名し、ナチスの反ユダヤ主義を共有し、喧伝した。1939年には、ドイツ人の教会生活に対するユダヤ人の影響力の調査とその除去のために、アイゼナハ研究所に協力する意思をあらわした。
ヴォッベルミンの神学的構想(『宗教心理学的方法に基づく組織神学』第一巻1913年、第二巻1922年、第三巻1925年)は、宗教の心理学的解釈に基礎づけられていた。それによって彼はシュライアマハーの継承者であることを証明したが、ウィリアム・ジェームズの著『宗教体験の多様性』(そのドイツ語版)の影響も強く受けていた。それは宗教生活の心理と病理の資料および研究であった。(拙訳)
出典 Georg Wobbermin (Wikipedia)
http://de.wikipedia.org/wiki/Georg_Wobbermin
2013年8月6日火曜日
ぼくは「自分大好き人間」ではないですからね
あー、だんだんイラついてくるんですけど。
ネットやってますとね、
「ぼくの」話とか「ぼくの」写真とかばっかり
掲載しているような気がして、嫌なんですよ、ぼくだってね。
だけど、ずっと前から何回も書いてきたことですけど、
「個人情報保護」という観点が
我が国の重要な価値観として導入されて以来、
どんな親しい人であろうと、自分の家族であろうと、
「他人」のことについて書くなんてことは、
ほんっとに限りなく不可能な時代になってますからね。
写真や文書の引用も難しい。
ぜんぶ自分で撮ったもので、しかも、自分しか写っていないような写真。
または、自分で書いた文章、自分で描いたイラスト。
ネットにアップできるものなんて、
そんな「ぼくの」ものしか無くなってしまったわけです。
「関口はきっと自分大好き人間なんだな」とか、
あざ笑わないでくださいな。
そーゆーのだけは、勘弁してもらいたいです。
ネットやってますとね、
「ぼくの」話とか「ぼくの」写真とかばっかり
掲載しているような気がして、嫌なんですよ、ぼくだってね。
だけど、ずっと前から何回も書いてきたことですけど、
「個人情報保護」という観点が
我が国の重要な価値観として導入されて以来、
どんな親しい人であろうと、自分の家族であろうと、
「他人」のことについて書くなんてことは、
ほんっとに限りなく不可能な時代になってますからね。
写真や文書の引用も難しい。
ぜんぶ自分で撮ったもので、しかも、自分しか写っていないような写真。
または、自分で書いた文章、自分で描いたイラスト。
ネットにアップできるものなんて、
そんな「ぼくの」ものしか無くなってしまったわけです。
「関口はきっと自分大好き人間なんだな」とか、
あざ笑わないでくださいな。
そーゆーのだけは、勘弁してもらいたいです。
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