2013年5月16日木曜日

「罪に市民権を与えること」に対するファン・ルーラーの批判、そしてオランダの「ウルトラ改革派」と「リベラル派」をめぐる鼎談

私が5月14日に書いた日記 (「体」と「欲」と「罪」の関係は「当然」でも「必要」でも「必然」でもない)について藤崎裕之先生と沼田和也先生から貴重なコメントをいただきました。

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(藤崎)原罪とこれから私が犯す罪との違いも自覚しなければならないと感じています。「罪人である」ということと「罪を軽く見る」ということは全く違うことですよね。ましてこれから罪を犯しても神様から許してもらえると考えるのは、傲慢ではないかと思うわけです。それでも罪はさけられないですけれど。

(沼田)去年ペリカンの教理史を読んでいて、もっぱら西方のキリスト教界において原罪の教理が発展したのだと知りました(ことにアウグスティヌスにおいて)。この「原罪」を、自己卑下や自己嫌悪ではなくて、神さまのもとに自己の限界を(可能な限り)正しく知るような、そういうありかたとして学んでゆきたいと思います。間違っても「どうせ原罪があるんだから、罪人なんだから、ワルイことすんのはあたりまえ」みたいなところに落ち着かないために。

(関口)藤崎先生、沼田先生、貴重なコメントありがとうございます。私が「罪の問題」について考えるときにいつも思い浮かべるテキストは、私訳で申し訳ないのですが、ファン・ルーラーの「ウルトラ改革派とリベラル派」(1970年)という論文の第4章「罪に市民権を与えること」です。

「ウルトラ改革派」というのはオランダ国内にある(いまでも生き延びている)独特の改革派教会の一群のことです。オランダとは異なる教派構成をもつ日本のキリスト教界の”現象”の中にファン・ルーラーが指摘しているのとぴったり合致する具体例を言うのは難しいのですが、まあ、でも、推して知るべし的な類推はできそうな話だと、私なりに受けとめています。可能でしたら、ぜひご一読くださいませ。そして、ご感想などいただけますと、どんなことでも(お答えできることなら)お答えいたします。

A. A. ファン・ルーラー「ウルトラ改革派とリベラル派」(1970年)
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1970.html

(藤崎)印刷してじっくり読みますね。

(沼田)拝読しました。リベラルへの批判は、そのまま私自身へのそれとして深く響きました。それにしても、ウルトラ改革派への批判としてファンルーラーが論じていることは、以前私もぼんやりと「罪という言葉のインフレ」として感じていたことを、とても論理的に代弁してくれていているように読めて、嬉しく思いました。

悔い改めの言葉としての「罪」が、連発されるうちに安くなり、あって当たり前の前提みたいなものに成り下がり、いつでもどこでも罪→絶望→キリスト→希望、みたいな説教「のみ」になってしまうこと。これに対しても、私自身において、彼の批判するリベラル的な傾向同様に自戒し続けたいです。

ところで原罪について、幼児洗礼の正当性を弁証するために「生まれた時から罪がある」と、ことにアウグスティヌスが主張したとペリカンは語りますが、もしかするとペリカンの歴史認識においてもファンルーラー的な問題意識が働いたのかもしれません。過剰に(教理史としてはやや踏み込み過ぎた表現で)アウグスティヌスの原罪論と予定論を批判しているように思えましたので。

(関口)藤崎先生、沼田先生、ファン・ルーラーの論文「ウルトラ改革派とリベラル派」(1970年)に興味を持っていただき、ありがとうございます。この論文はファン・ルーラー62歳の絶筆です。これを書き終えた後、おくさんに「終わったよ」(het is af)と言ったそうです。それからまもなくして(どれくらいの時間が経ったかは分かりません)三度目の心筋梗塞が起こり、絶命しました。

この最期の論文の中でファン・ルーラーは、「改革派の右翼には異端が潜んでいる。彼らの横に立つとリベラル派の異端が児戯に見える」という”命題”の論証を行いました。私はまだ全訳できておらず、ネットに公開しているところまでがマックスですが、なるべく完訳したいと願っています。

完訳できない(途中で止まってしまっている)理由は、私に時間と心理の余裕が無かったことや、オランダ語というマイナー言語の取っつきにくさもさることながら、上記したとおり、「リベラル派」のほうはともかく、オランダにおける「ウルトラ改革派」は、日本にはぴったり合致する対応物としての教派やグループが存在しないので、日本の中で「改革派」を名乗る人たちの中で自称・他称の「やや極端な」人たちのすべてが、ファン・ルーラーの名を借りて批判されてしまうようなことになっては困るなという私の中の躊躇があって、訳し方や扱い方・扱われ方は慎重にしなければならないなと思っているうちに、訳出が停滞してしまいました。

(藤崎)なるほど。日本には対象がないということは重要ですね。完読しましたが、その点が僕には不明だったのであり難い指摘です。難しい論文ですね。もう少し熟考してみます。蛇足ではありますが、リベラル派の描写が面白いですね。リベラル派になぜ教会が必要なのか、そりゃもう、今や教会しか耳を貸してくれないですからね。そういう意味では教会は親切ですね。本当に耳を貸してくれているのかさえ疑わしいですけれど。ファン・ルーラーの尺度では僕はリベラルではないのかもしれませんね。

ついでに蛇足ですけれど、日本基督教団の中にある聖霊刷新運動の方々はもともと社会派リベラルでした。この人たちはウルトラ改革派に近いかもしれません。右派と左派というのはころころと入れ替わるから面白いですね。蛇足でした。

(関口)藤崎先生、ありがとうございます。いえいえ、蛇足とは思いません。とても有難いお言葉です。実際問題、ファン・ルーラーの「リベラル派」の描写は、笑いながら訳せる、かなりコミカルなものです。私も、藤崎先生はファン・ルーラーの基準に当てはめれば「リベラル派」ではないと思います。さりとて藤崎先生が「ウルトラ改革派」であることはありえないです。ちょうど良い線ではないでしょうか。お世辞抜きでそう思います。

オランダの「ウルトラ改革派」は、摂理信仰ゆえに生命保険への加入を拒否するとか、黒ずくめの服装(靴下に至るまで黒ずくめ)をいつも着ているとか、そういう人たちですから、日本に全く対応物が無いとは言い切れないのですが、私の知るかぎり、そういうタイプの信仰の持ち主は日本ではたいていアルミニウス主義の側にいると思うのですが、オランダの「ウルトラ改革派」は根っからのカルヴァン主義者であるという点が違うと思います。

この機会に訳文をいじくりました。語尾の「のである」をすべて削除してみました。わりとすっきりした文章になったのではないかと思いますので、また読んでみてくださいませ。以下のくだりなどは、私はとても面白く読める部分です。名指しは避けますが、ここの部分の「リベラル派」と「ウルトラ改革派」は、具体的に顔が思い浮かぶ対象がいます(笑)。

(以下、ファン・ルーラー「ウルトラ改革派とリベラル派」(1970年)からの引用)

この点でリベラル派はたいてい違っていた。たいてい彼らは自分は何者であるかを公表してきた。彼らはリベラル派(vrijzinnig)を名乗ってきた。その意味は常に、「正統主義ではない」(niet-orthodox)ということだった。彼らは、教義とか教会の信仰告白のようなものとは明らかに馬が合わない。そのような言葉にだけは近づかない。リベラル派の側においては、正統主義と正統主義者に対する明らかな反感や敵意や憎悪が語られることさえある。リベラル派の人々は、たいてい、洗練されていて、親切で、信頼できる人物である場合が多い。ところが、正統主義に立ち向かう場面での彼らの態度には、熱狂的で憎悪に満ちたものがある。その原因はおそらく、彼らが過去に味わった何らかの体験にあるのだろう。

この点が、やはり、ウルトラ改革派とリベラル派との大きな差をつくる。ウルトラ改革派の人々は、正統主義と真の内面的な敬虔性の旗のもとで航海する。彼らの船の積荷は、教義の根本構造に全く対立する異端である。しかし、教義そのものは高くマストの上ではためき続けている。それに対して、リベラル派の人々はこの旗を引きずりおろす。彼らの船の積荷は、教会の教義と競い合う十分な異端である。彼らは三位一体、受肉、贖いの犠牲、復活、サクラメント、予定などを問題にする。リベラリズムの中にまだ残っている教会の教義は何だろうか〔もはや何も残っていないのではないかと思うほどである〕。ところが、リベラル派の人々は、代々の教会が教えてきたのとは対立することを彼らが教えているということを公然と述べる。

(沼田)おもしろいし、みみがいたい・・・・

(関口)そうですかね?(笑)私の目から見れば、沼田先生はファン・ルーラーが言うほどの「リベラル派」ではないように見えますけどね。まあ、明言・断言できるほどの根拠はありませんが、オランダにおいて「リベラル派」(Vrijzinnig)は、まさに反動というか、「正統的カルヴァン主義者」のアンチとして生まれたものだと思いますので、純粋で極端なリベラルが生まれやすい環境ではないかと思うのです。

具体例を挙げていくと語弊が生じはじめること必至ですが、最近のオランダを有名にしている特定の薬物の合法化とか、産婦人科系のある問題の合法化とか、あるいは「積極的安楽死」(positief euthanasie)など、世界のどの国よりも先んじて「新しい」道を開いてきたのはオランダの「リベラル派」(Vrijzinnig)のキリスト者たちと、教会には一切かかわらないタイプの「人道主義者」(humanisten)です。

(藤崎)ファン・ルーラーの言わんとするところは「閉じた信仰の世界で毅然としている人」よりも「無秩序な信仰の世界で溺れている人」の方がよっぽど「まし」だという事でしょうか。ファン・ルーラーのいうリベラル派は、いわゆる「社会派」ではないのですね。自由神学を指しているように思うのですが、それでよろしいですか。

(関口)藤崎先生、二つのご質問ありがとうございます。

第一の問いに対する答えは、微妙です。ファン・ルーラーなら、両方大事、というような答え方をするのではないかと思います。「閉じた信仰の世界で毅然とすること」と「無秩序な信仰の世界で溺れること」と、「無秩序な世界の現実を勇気をもって引き受けること」の、どれを選べばいいですかとか聞くと、全部大事なことだから、四の五の言わないで全部やり遂げなさいと叱られてしまう、そういう鬼教師だったのではないかと、私は想像しています。

第二の問いに対する答えは、「はい、そのとおりです」です。オランダの改革派教会は、こと19世紀以降は基本的にすべて「社会派」です。キリスト教政党(反革命党→キリスト教民主党)を作って直接世の問題に関与しようとする姿勢をもっていますので、ほとんどすべて「社会派」です。第二次大戦後、キリスト教政党を支持せず労働党(共産党)の支持に回った改革派(バルト主義)の人も出てきましたが、それはそれで十分な意味で「社会派」です。

「教会は政治の問題にかかわるべきでない」という人たちもオランダ改革派にもいますが、それは「教会」と「キリスト教政党」を区別した上で言っていることです。つまり、「教会自体は政治的なことからなるべくニュートラルであるべきだ。そのかわり教会はキリスト教政党を応援すべきだ」という考えです。それが良い判断であるかどうかはともかく、その人たちの考えはそのようなものです。

日本のある人たちは「教会は政治の問題にかかわるべきでない」と言いますが、キリスト教政党もないところでそれを言うのは、キリスト教社会倫理の放棄を意味すると私は思いますので、その人たちの信仰は身体的・倫理的表現を伴わない、完全に脳内の妄想にとどまると思います。つまり、それを凶悪なグノーシス主義と呼ぶのだと思います。

(沼田)関口先生の仰る通りだと思います。その「身体的・倫理的表現」が、強力に忌避されるんですよね、教会では・・・やはり、諸テーマをいかに「この私のリアルな」問題として語るか/聴き取るか、みたいな部分が難しいのかなあと思っています。わずかでも自分の身体から離れて語られる/聴かれると、それはとたんに「賛成か?反対か?」の踏み絵、「これを理解しないとはキリスト者といえるか?」の分断に陥ってしまう、と。

(関口)沼田先生、ご理解いただき、ありがとうございます。身も蓋も無いことを書いちゃいますが、日本にも散見する欧米由来の「リベラル」を名乗る思想家たちは、なんていうか、キリスト教というか、神学というか、その中でも「ウルトラ右翼」のそれのアンチとして成立してきた起源も歴史もあると思うので(マルクス然り、ニーチェ然り、フロイト然り)、逆に言えば、キリスト教も神学も機能していないところではカラ振りしてしまうんじゃないかなと思います。

で、いま書いたことは沼田先生の直前のコメントとは直接関係ないことでしたが、ファン・ルーラーにとっての「ウルトラ改革派」と「リベラル派」は「あれか・これか」ではなかったんです。両方大事だと言い切れるところがファン・ルーラーにあり、どっちかにしてしまおうとする単純一元論思考のひと・グループに対して猛然と反対したために、教会政治的に窮地に立たされ、急激に寿命を縮めてしまったようです。

一つの教団・教派の中で、「我々のほうが神に近い。お前たちは人間的だ」とか「お前たちは神の名を借りた傲慢」とか互いに言い合って分裂しあうのは世の常、教会の常ですが、実はお互いがお互いを必要とし合ってるんじゃないでしょうか。「愛」が必要だと思いますよ、私は。

(沼田)関口先生の、リベラルと保守との愛の関係について言うなら、さらに、リベラルという価値観は保守という価値観があるから成立するのであり、保守という価値観もまた逆向きに然り、だと、最近強く思っています。対極の両端を眺めるあれかこれかも時には決断として重要ではあります。しかし、むしろその愛における両者の関係性を、私は考えてゆきたいのです。

2013年5月14日火曜日

「体」と「欲」と「罪」の関係は「当然」でも「必要」でも「必然」でもない


えっとですね、

哲学や神学の思想的文脈でかなり重要なのは、「体」と「欲」と「罪」の区別と関係はどうなっているのかという問題だとぼくは思います。

いまぼくは日曜日の礼拝で、使徒パウロの「ローマの信徒への手紙」の連続講解説教をしていますのでね、上記の問題は、この手紙の中心テーマと言ってもよいのではないでしょうか。

ややもすると、全部一緒くたにされてしまうんですね。「体」と「欲」と「罪」が一緒くた。

まあ、たしかに、本人の意識感覚だけからすると、区別がつきにくいですしね。「体」が「欲」を持ち、「欲」が余って「罪」へと暴走する。

すべてが切れ目なく、なだらかに・なめらかにつながっていたりすると、どこからどこまでが「体」で、ここからは「欲」で、ここからは「罪」というあたりが自分では分からなくなる。

ですが、「体」と「欲」と「罪」の関係を「当然だ」とか「必要だ」とか「必然だ」とか言いのけて開き直るのは、罪に市民権を与えることになるので、思想的には最悪の部類です。

あとは、「欲」と一言でいっても、衣・食・住その他いろんなこと・もの・ひとを求めて生きるのが人間ではありますが、

「衣・食・住」だけ言っても、「衣の欲」と「食の欲」と「住の欲」は、それぞれ内容が異なるものです。

なんでもかんでも一緒くたにしてはなりません。

というわけで、ぼくはとりあえず昼食にします。

若干出足が遅かったので、300円台の弁当は残っていませんでした。残念!


豚スタミナ丼 460円 698キロカロリー

2013年5月11日土曜日

「第8回 カール・バルト研究会」を行いました


(日付変わって)昨日(2013年5月10日金曜日)21時から23時まで「第8回 カール・バルト研究会」を行いました。






今回からの大きな変更点は、前回まで利用してきたスカイプ(プレミアム)ではなく、グーグルプラス(Google+)の「ハングアウト」を試してみたことです。

「ハングアウト」スゴイです!全くエラーもストレスもなく実にスムーズなコミュニケーションができました。

夕方、「ハングアウト」への移行の準備をしているときに、一人の先生が外出先からアイフォンでビデオ連絡してくださいましたが、これまた全くストレスなく、美しい映像が送られてきて、たまげました。まさに昔見たSF映画の世界そのものでした。

今日のテキストはカール・バルト『教義学要綱』の「5.高きにいます神」(§5 Gott in der Höhe)でした。大いに盛り上がりました。

「第8回 カール・バルト研究会」参加者名簿(五十音順、敬称略)

小宮山裕一(茨木県)
関口 康(千葉県)
中井大介(大阪府)
藤崎裕之(北海道)

次回(第9回)は、2013年5月24日(金)21時から23時までです。

なお、新規参加者を募集いたします。グーグルプラス(Google+)の「ハングアウト」は10名までの同時ビデオ通話が可能だそうです。まだまだ余裕があります。

2013年5月10日金曜日

「名誉」な人たちと大差ない年齢であることに気づくのに時間がかかります


こういうのをどう言ったらいいのか、「遠近感がおかしい」というか、とにかく最近、違和感の連続です。

世間では当たり前のことなのでしょうけど、60代くらいで「名誉教授」とか名乗っておられる方々を、最近よくネットで見かけます。

「名誉教授」って昔はひたすらおじいさん、という感覚でしたし、とがったヒゲとかはやした人というイメージなんかもあって、果てしなく遠い存在でした。

しかし、最近では、まだかなり若く見える、年齢的にはぼくのちょっと上の先輩?というくらいの人たちが「名誉」うんぬん...。

だけど、

そうじゃないんだ、そうじゃないんだ。

そこでぼくが考えなくちゃならないことは、若いのに「名誉」とかなんだい、のほうじゃなくて、

あのね、もうぼくは若くないんだよ、「名誉」な人たちと大差ない年齢なんだよ、

ということなのだと気付くのに、けっこう時間がかかるし、切り替えが難しい。

ぼくも「名誉」が欲しい、という話ではないですよ、要らん要らん。邪魔そうだし。

称号とか要らないけど、ぼくには欲しいものがあります。

説得力が欲しい。それだけですね。

あと、日本の大学を無料にしてほしい。

かないそうもない夢ばかりです。

2013年5月9日木曜日

デジタルから紙にしても、またデジタルに戻されるなら、初めからデジタルのままでも同じかも(という主旨です)

最近のパターンは、Facebookに書き散らして、ブログで清書して、Twitterで広報する「三段ロケット方式」です。

そこまでは、まあいいんですけど、その先にはなっかなか進めないもんですねぇ。

「紙の本を目指してます」とか言うと「デジタルでいいじゃん」とか言われてしまうし。

あ、出版社の若い人に、「リソグラフで刷ってホッチキスどめするの手伝いましょうか」とか言われたこともあるな(むかむか)。

デジタルだけなら相当やってきたつもりなので、ぼくの仕事はもう終わりですね。紙にしたところで「自炊」とかされちゃう時代ですしね。

あーあ、サインとか握手会とかしたかったなあ(ウソです。したくありません)。

2013年5月8日水曜日

祈祷会でハイデルベルク信仰問答の学びを始めました



午前中は祈祷会でした。今日からハイデルベルク信仰問答の学びを始めました。

テキストは『ハイデルベルク信仰問答』(吉田隆訳、新教新書252、新教出版社)とW. ガウルーズ『ただひとつの慰め ハイデルベルク信仰問答案内』(吉川八郎訳、新教出版社)です。

ガウルーズの解説書は今でも売ってるものと思い込んでいましたが、絶版のようですね。アマゾンの「中古品」で9,979円とか高額がついてるのを見て、飛びあがりました。この本は、かぎ付きの金庫に隠すことにします(笑)。

というわけで、無事に祈祷会が終わりましたので、ハイデルベルク城を眺めながら、美味しいごはんを食べたいと思います。

幕の内弁当         398円 676キロカロリー
午後の紅茶おいしい無糖 128円  0キロカロリー

論文の原稿を雑誌の編集者に送りました



10か月の苦悶を経て、やっと今夜、2万字弱の論文原稿を、ある雑誌の編集者(某大名誉教授)に送りました。

感無量と言うべきところですが、爽快感はほとんど無いです。

調べれば調べるほど謎は深まるばかり。しらしらなぞふか、です(意味不明)。

パソコンの壁紙のテーマは「ある日のカール・バルト研究会」です。今夜開いたわけではありません。

就寝前のデトックス。

役職の責任が強まるとネットの住民を妙に攻撃しはじめる官僚牧師さんたちは、ちょっといただけないなあ。

「ネットにリアルを求める錯覚に陥るな」

「ネットの○○を安易に継ぎ接ぎするな」

「ネットで人格が変わるのは如何なものか」

そういう言葉で、ぼくが批判されたわけじゃないですよ。

言ってる人は、ぼくのことも同じように言ってるんでしょうけどね。

ぼく相手に面と向かって言える度胸のある人は、少ないみたい。

言われたら、ぼく冷静に言いますよ。

「べつに人格変わってませんから」とね。

ただ、ネットにリアルを求めることが錯覚、みたいな言い草って、どうなんですかね。

相当リアルだと思いますけどね。

どこがどう錯覚なんだろ、これとか(カール・バルト研究会のことです、笑)。

2013年5月6日月曜日

「なんでやねん」は否定の言葉じゃないですよね?


土曜日からひとりで悶々と考え込んでることは、「ボケ」と「ツッコミ」の関係はどうなってるんだろうかとか、「ノリツッコミ」ってどういう構造してるんだろうか、というようなことです。

ぼく岡山で生まれ育ちましたので、関西人ではないんですけど、子どもの頃から吉本新喜劇のテレビ観てたクチです。

その程度なので、関西文化には全く詳しくないどころか、直接の接点は無いですし、それほど深い興味をもってるわけではないので、関西系のディープネタでマニアックにからんでこられても何の反応も出来ないタイプでもあるんですけど、まあ、でも、親近感はあるほうです。敵意とかは皆無です(この段落は自己防衛本能発動)。

まあ、でも、その程度のぼくにでもわりとはっきり分かるのは、「なんでやねん」は否定の言葉じゃないということです。

あれ否定でも肯定でもないですよね?

じゃあ何なのかと聞かれてもサッとは答えられないのですが、強いて言えば「余裕」みたいなことですかね。違うのかな。

ここから先は、本場の人にご登場いただかなくては、ぼくにはなんとも分かりません。

ツッコミとボケの関係は、柔道の「剛」と「柔」の関係だろうかとか、いや、「北風」と「太陽」かなとか、「三角」と「円」かなとか。哲学的な言い方をすれば「受容」と「否認」かな、いや、ツッコミは「否認」じゃキツすぎるなとか。

ノリツッコミっていうのは、途中で加速装置がカチッと入る感じだな、とかね。

そんなことをね、ぼくはいつも考えながら生きてますよ。

こういうのも「説教黙想」の一環なのであります(たぶん)。

2013年5月5日日曜日

いまだに「アメリカの圧力」なんですかね。古くさッ!


「改憲て何なのよ?」と、今さらながらバカみたいな、というか純粋にバカな書き込みしときますけどね。

いまだに「アメリカの圧力」なんですかね。いつの話?古くさッ!昭和?

だけど、アメリカの人たちさ、

悪いけど、「一ドル360円時代」の幻想をいまだに抱いて、日本をいつまでも下に見てると間違いますよ。

え、いま、一ドルいくらよ?え、100円玉よりまだ下なの?小学生のお小遣いレベル?

金の切れ目が縁の切れ目。

カネもってない相手に屈従する人、いませんからっ!

・・・とか言ってみたい。英訳してFacebookに貼るかな(笑)。無力だ(悲報)。

2013年5月4日土曜日

日本の教会と神学は“二重否定”っぽい言葉づかいを口癖のように繰り返しています


ポジティブ言い換え教えます 「辞典」著者の授業人気

(朝日新聞デジタル2013年5月4日)

 【芳垣文子】ネガティブな言葉をポジティブな表現に言い換える例を集めた「ネガポ辞典」(主婦の友社)の著者で、北海道内の大学に通う2人の女子大学生が、今年に入って学校などに招かれ、ユニークな授業を繰り広げて活動の場を広げている。

http://www.asahi.com/national/update/0504/HOK201305030009.html

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この記事というか、この辞書、興味あります。いつ買えるか分かりませんけど。

ぼくは何年か前から意識的にやってきたつもりですが、説教原稿を書き終わったら、それを二度三度読み直してみて、ネガティヴな言葉が見つかれば、その言葉をポジティヴな表現に言い換えて書きなおすだけで、説教の雰囲気がぐっと明るくなります。

逆にいえば、説教以外のことで多忙に巻き込まれ、説教原稿の読み直しさえできないヨクナイ状態になっていると、説教の言葉がどんどんネガティヴになっています。だから、その説教を聞く教会のみんなの表情も暗くなっている。

弁証法神学の影響を受けすぎた日本の教会と神学は(ぼくもいまだにどっぷり浸かったままですからね、他人事として書いてるわけではありませんよ)、まさに「弁証法的な論理」(「正→反→合」ですね)に慣れ過ぎている。

だからだと思うのですが、”二重否定”っぽい言葉づかいを、ほとんど無意識に口癖のように繰り返しているようです。

「しないわけにはいかない」とか。「○○でないわけではない」とか。

あとは、いかに人間は罪深いかをひたすらに強調する。教会は当然悪いけど、社会も悪い。目に見えるものや手で触れうるもの、要するに地上のすべては何もかも悪い、みたいな絶対的な否定を経なければ、「神」を絶対的に肯定できない、みたいな論理とか。

なんかね、そういうの暗い。キザだしね。もったいぶった言い回しっていうか。ナニかっこつけてんのって感じ。

「しないわけにはいかない」は「します」でいいんじゃないでしょうかね。

「○○でないわけではない」は「です」でいいんじゃないでしょうか。

あ、そうそう、

あのね、説教原稿とかに「○○であります」って書くの、ケロロ軍曹みたいですよ。

「です」と2文字で書けるのに「であります」と5文字も書くのは水増しですよね。