2012年1月29日日曜日

愛があふれる教会をめざします


コリントの信徒への手紙一12・31b~13・7

「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

いまお読みしました個所の最初に「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12・31b)と書かれています。「最高の」と言いますとそれ以上のものが存在する余地が無くなってしまいますが、原文にそこまでの意味はありません。「非常に優れた」とか「飛び抜けて優れた」というくらいの意味です。「非常に優れた道」、それは「愛」であるということが今日の個所に記されています。しかし、愛以上のものはどこにも存在しない、というような排他的な意味ではありません。

実は、愛にも弱点があります。愛の始まりは、また始まってから後も、かなりの面で一方通行的なものだからです。「片想い」という言葉があるではありませんか。片想いは未完成で不完全な愛です。しかし、愛であることに変わりはないのです。それは痛みを伴います。悲しみや切なさがあります。弱点だらけです。しかし、それが愛なのです。ですから、愛以上のものが存在しないというわけではないのです。パウロもそんなことを言っているのではありません。愛は「非常に優れた道」、あるいは「飛び抜けて優れた道」であると書いているのです。

しかし、今日の個所でパウロがたしかに強調していることは、愛の重要性です。しかも、私が重要だと思いますことは今日の個所が置かれている文脈です。この個所は明らかに、12章の初めから書かれてきたことの続きです。それが意味することは、今日の個所もまた、「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」(12・1)という言葉から始まっている話の流れの中で理解されなければならないということです。つまり、今日の個所でパウロが強調している「愛」は、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きているわたしたちキリスト者に与えられる「霊的な賜物」の一つであるということです。

しかも、「霊的な賜物」とは、聖霊なる神がわたしたちの存在の内部に新しく与えてくださる性質のことです。それが意味することは、「霊的な賜物」としての「愛」は、わたしたちが生まれつき持っているものではないということです。先天的・遺伝的に「霊的な賜物」を初めから持って生まれた人はいません。すべては生まれた後に与えられるのであり、イエス・キリストを信じる信仰と共に与えられるのです。

ですから、今日の個所にパウロが書いているような意味での「愛」を今はまだ自分は持っていないというような自覚がある人でも心配することはありません。これから身につけることができるのです。

前置き的な話を、もう少しだけ続けさせていただきます。今日の個所を理解するための前提として、もう一つ重要な点があります。それは何かと言いますと、今日の個所に「人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも」(1節)とか「預言する賜物を持ち」(2節)とか「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも」(2節)とか「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも」(3節)とか「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」(3節)とか書いていますが、これらのことはすべて、先週までに学んだ12章の内容と非常に深く関係しているということです。

もう少し具体的に言います。12章に「ある人は霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」(12・8~11)と書かれていました。この中に「知恵」「知識」「信仰」「異言」などの言葉が出てきます。これらはすべて霊的な賜物なのですが、たとえこのようなものをいくら持っているとしても、もしそこに「愛」が無いのであれば、すべては空しいかぎりだと、パウロは書いているのです。別の言い方をすれば、「知恵」や「知識」や「信仰」や「異言」などと「愛」とを比較したうえで、これらのものよりも「愛」のほうが上であると言っているのです。

重要な点はまだあります。12章にパウロが書いていた「霊的な賜物」を与えられた人々というのは、すべて教会につながっている人々のことだったわけです。そのような「霊的な賜物」を与えられた人々が教会の中でいろいろな仕事をする、という話でした。教会の中の一人の人、あるいは特定の少数の人々だけが、教会の中のすべてを何もかも一手に引き受けるのではなく、教会のみんなで役割分担をしていくのだ、という話でした。それで「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」といった具合に、教会の中にいろいろな職務を担う人々がいる。そのようないろいろな働きをなす人々が寄り集まってひとつのキリストの体なる教会を造り上げていくのだ、という話でした。

これで分かることは、今日の個所に記されている「愛」の話も教会の話であり、教会の中での愛の話であるということです。教会の活動の話であり、あるいは教会の組織とか制度の話です。教会から切り離しても成り立つような、一般的な愛の話ではないのです。パウロがしているのは教会の話です。教会を成り立たせる根拠もしくは土台は愛であると言っているのであって、それ以上のことは語っていないのです。教会の中にたとえどれほどたくさんの人が集まっていても、どれほど活発な活動がなされていても、どれほど整った組織や制度があっても、どれほど立派な建物があっても、そこに「愛」が無いような教会は空しいかぎりだと言っているのです。教会とは無関係な、あるいはまたキリスト教信仰とは無関係な、一般的な愛の話をしているのではないのです。そのことをぜひご理解いただきたいと願っています。

しかし、もちろん、このようなことをパウロは教会を裁くためにだけ書いているのではありません。「教会よ、あなたがたには愛が無い、愛が無い、愛が無い、愛が無い」とただ責め立て、あげつらい、ぐうの音も出ないほど締めつけるために書いているわけではありません。そういうのは教会に対する拷問です。パウロという人が物腰においても、言うことにおいても、書くことにおいても厳しい人であったことは否定できません。しかし、「あなたには愛が無い」というのは、殺し文句です。パウロの意図は、教会を否定することではなく、肯定することであり、励ますことです。「愛があふれる教会をめざしましょう」という呼びかけであり、自分自身もこの愛に生きていきますからという決意表明でもあるのです。教会に向かっては「あなたがたには愛が無い」と言いながら自分自身は誰も愛そうとしないというのでは何の説得力もありません。「他人に厳しく自分に甘い」というのは最悪のパターンです。パウロはそういう人ではなかったと思います。

4節以下に、「愛」とは何なのかについて具体的に記されています。しかしこれも、くどいようですが、すべて教会の話であるということが忘れられてはなりません。教会に連なっているわたしたちに、教会の中で求められる「愛」の形はどのようなものなのか、ということが記されているのです。

しかし、もちろん、そうは言いましても、わたしたちが愛さなければならない存在は、教会の中にいる人たちだけではなく、教会に通っていない人たちも当然愛さなければなりません。キリスト者はキリスト者だけを愛すればよいのであって、キリスト者でない人たちのことは憎まなければならないというのは明らかに異常な話です。そういうことを今日私は話そうとしているのではないし、パウロもそういうことを言っているのではありません。ただ、今日の個所に書かれていることの趣旨は教会の中の話であるということを言いたいのです。一般的な愛については、この個所に書かれていることの応用で対応していくことができるでしょう。文脈がある話なのですから、その文脈を無視しないでくださいと言いたいだけです。

しかしまた、もう一回ひっくり返して考えてみますと、パウロが書いている趣旨からしても、また、わたしたち自身の教会の中で味わってきたことの実感からしても、教会の中での、キリスト者同士の愛と、一般的な愛とでは、何とも言葉に表現しづらい質的な違いというものがあるということも私は否定することができません。それは、教会というこの場所には、まるで自動給湯機のようにスイッチを入れるだけで、あとは放っておいても自動的に愛があふれているというような意味ではありません。正反対です。教会こそは非常にデリケートな場所であって、ある意味で他の場所以上に丁寧かつ慎重に愛を注ぎ、その愛を手塩にかけて育て、守っていかなければならない。そうしなければ、あっけなく壊れてしまうところなのです。

どうしてそうなのかといえば、いちばん単純なところを言えば、教会にはいろいろな人が集まっているからです。ここには、いろんな種類の心の傷を持った人がたくさんいるのです。教会は神さまがたててくださったところなのだから、どんなに乱暴なことをしても、びくともしない強いところなのだというのは誤解です。教会は神に助けを求めて集まっている弱い人間の集まりです。私自身も、他の牧師たちも、もちろんみんな弱い人間です。教会は、自分は神なしには生きていくことができない人間であることを自覚し、認め、神の助けのもとで、神と共に生きていくことを決心し、約束している者たちの集まりなのです。そのような壊れやすいデリケートな存在である教会を大切に守り、支えていくために必要な「愛」とは何なのか、ということをパウロは書いているのです。

もう時間が無くなってしまいましたので、4節以下の「愛」の説明の詳細に立ち入ることはできなくなりました。来週もう少し詳しくお話しいたしますので、今日は特に印象的な言葉を一つだけ拾っておきます。それは最初の「愛は忍耐強い」という言葉です。

それは要するに、我慢するということです。忍耐という形の愛をパウロが最初に取り上げていることは、やはり理由があることなのです。教会は自分の思いに任せてどんなに乱暴なことでも言いたい放題に言ってもいいとか、したい放題にしてもいい場所ではありません。わたしたちは教会では少し黙っていなければならないのです。教会は憂さ晴らしの場所ではないのです。そういうことをする人がいると、教会の中で必ず傷ついている人がいます。教会においてこそ、我慢が必要です。しかし、その我慢ないし忍耐がわたしたちを鍛えるのです。「忍耐は練達を生む」のです(ローマ5・4)。

(2012年1月29日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年12月18日日曜日

星空の下で喜び生きる(2011年クリスマス礼拝)

ルカによる福音書2章1~21節

関口 康

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」

いまお読みしました聖書の箇所に記されていますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになったときに起こった出来事です。そのときどんなことが起こったのでしょうか。ここに書かれているのは、大きく分ければ、二つの場所で起こった二つの出来事です。

第一は、イエス・キリストを身ごもった母マリアと夫ヨセフの身に起こった出来事です。

第二は、ヨセフとマリアがいたのとは全く別の場所にいたベツレヘムの羊飼いたちに起こった出来事です。

第一の出来事のほうから見ていきます。ここに描かれているのは、イエス・キリストを身ごもったマリアと夫ヨセフの二人が皇帝アウグストゥスの命令に従って住民登録をするために遠い町まで旅をすることになったという話です。

皇帝アウグストゥスはローマ帝国の最高権力者でした。ヨセフとマリアが暮らしていたユダヤの国はこの当時ローマ帝国の支配下にある属国でしたので、皇帝アウグストゥスの命令は絶対に守らなければならない関係にありました。そのため、皇帝の命令とあらば子どもを身ごもって危険な状態にある女性まで、たとえつらい長旅になろうともその命令に従わなければなりませんでした。

実際、その旅は本当につらいものとなりました。だれでもそうだと思いますが、子どもを身ごもった女性が旅の途中で子どもを産むことになることがうれしいはずはありません。子どもを産んだことがある方にはこの状況がどのようなものであるかをご理解いただけるでしょう。

出産とは激しい痛みがあり、たくさん血が流れ出す恐ろしい場面です。できるだけ安心できる場所で子どもを産みたいと願う人がいるのは当然です。旅の途中で、知らない人たちばかりいる場所で出産したい人などいるはずがありません。

そのような嫌なことを彼らがしなければならなかったのは、ローマ皇帝アウグストゥスの命令に絶対に従わなければならなかったユダヤの人々のかわいそうな状況があったからです。彼らは当時の政治家や軍隊や法律の犠牲になったのです。

そのような中でキリストはお生まれになりました。次のように記されています。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。

これでお分かりいただけるのは、イエス・キリストがお生まれになった場所は人間の住むところではなかったということです。最初に寝かされた場所は、飼い葉桶でした。それは家畜小屋の餌置き場であり、臭いにおいが漂う不潔な場所でした。

しかし、忘れられてはならないのは、彼らには神を信じる信仰があったということです。また、聖書によると、マリアが身ごもっている子どもは「神の子」であり、「救い主」であるという信仰が、マリア自身にもヨセフにもすでにありました。そのことがルカによる福音書1章を読むと分かります。彼らは信仰を全く持っていない状態でつらい目に遭っているわけではありません。

彼らには信仰がありました。だからこそ、どれほどつらい目にあっても、この子どもを産まなければならないと信じていたでしょうし、その信仰があったからこそ、つらい状況を耐えることができたのでしょう。そのようにわたしたちは信じることができます。

しかし、たとえそうであっても、やはりどうしても私が考え込んでしまうのは、彼らが旅の途中に子どもを産まなくてはならない状況に追い込まれてしまったこと自体は、はたして幸せなことだったのか、それとも不幸せなことだったのかということです。

幸せなことだったはずはありません。もっと普通の場所で、あるいはもっと安全な場所で、子どもを産みたいに決まっているではありませんか。

ローマ皇帝アウグストゥスの命令さえなければ、ユダヤの国がローマ帝国の属国でさえなければ、全国民の住民登録をしなければならないという法律さえなければ、危険な目に遭うことはなかったのにと、彼らが当時の政治家や軍隊や法律を恨む気持ちを持ったとしても当然だと思います。

次に見ていきたいのは、同じ日の、別の場所で起こった、第二の出来事です。ベツレヘムの羊飼いたちが野宿をしながら、星空の下で夜通し羊の群れの番をしていました。そのとき彼らの前に現れたのは「天使」であったと記されています。「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」と書かれているとおりです。

ここで私が言いたいのは、最初にご説明した第一の出来事を描いているときと、これからお話ししようとしている第二の出来事を描いているときとで、この書物の著者の語調が変わっているということです。雰囲気がすっかり、がらっと変わっています。

はっきり分かるのは、第一の出来事について記されている段落には「神」も「救い」も「天使」も出てこないということです。

その代わりに登場するのは、「皇帝アウグストゥス」とか「キリニウス」といった政治家たちの名前であり、「勅令」とか「住民登録」といった法律用語です。あるいはまた「シリア州」とか「ナザレ」とか「ベツレヘム」といった地名であり、生まれたばかりの子どもを「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」とか「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という悲惨な現実の描写です。

ところが、第二の出来事に描かれていることは、それとは全く違います。ここには「天使」(?!)が登場します。「主の栄光」(?!)が周りを照らします。そして天使が羊飼いに「大きな喜び」(?!)を告げます。そして「天の大軍」(?!)が加わって神を賛美する大合唱(?!)が始まります。

天使の言葉は次のとおりです。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かしている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。

この天使の言葉の中に出てくるのは「大きな喜び」であり、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ことであり、その方が「主メシア」であるということです。また、その生まれたばかりの子どもが「布にくるまって飼い葉桶の中に」いることは、人類の不幸や苦しみ、あるいは悲惨や嘆きのしるしではなく、あなたがたのために救い主がお生まれになったことを教える喜びのしるしであるということが明らかにされています。

先ほど私は「語調が変わっている」と申しました。第一の出来事と第二の出来事とは雰囲気や明るさが全く違います。その意味は、第一の出来事を描いている段落には全く出てこない「神」や「天使」や「救い」や「救い主」や「喜び」という言葉が、第二の出来事を描いている段落に至って全面的に登場します。

第一の出来事について書かれていることは、ただひたすら暗い。人間の現実とはいかに悲惨で、重苦しくて、嫌なものであるかが赤裸々に描かれています。

しかし、第二の出来事について書かれていることの中心は「天使」(?!)の話です。暗い新聞記事を読んだあとに夢見心地の本を読み始めたような気分になります。

しかし確認しておきたいのは、二つの場所で起こった二つの出来事は、同じ日の同じ夜の、そして同じひとりの救い主の誕生を描いているという点では、全く同じ一つの出来事であると考えることもできるということです。

それはいわば、一つのコインを表から見、その次に裏から見るというのと同じことだと考えることができます。解釈の違いであると言われれば、そのとおりかもしれません。

私がいま考えていることをオブラートに包む必要はないでしょう。今のわたしたちが置かれている状況を考えています。

今年は特別に悲しむべき出来事が起こりました。大震災、原子力発電所事故、そこから派生する多くの問題が一気に噴出しました。

わたしたちはいま、絶望していてもおかしくないほどの状況の中にいます。生まれたばかりの子どもを、飼い葉桶どころか、何もないところに寝かさなければならない人がいる。家族を、家を、財産を失った人々が大勢いる。悲惨な現実を数えればきりがない。

しかし、厳しい言い方かもしれませんが、それは事柄のひとつの面です。わたしたちは絶望の数だけを数えるようであってはなりません。全く同じ出来事を、絶望の面からだけでなく、もう一つの面から見直す必要があります。

物事には「神」や「天使」や「救い」や「救い主」、そして「喜び」の面が必ずあります。そして、わたしたちは、物事の二つの面(喜びの面と悲しみの面)の関係はどのようになっているのかを、マリアのように「思い巡らす」必要があります。

「神」だの「天使」だの「救い」だの、そんなものを信じられるものかと拒否しないでください。むしろ、信じてください。信仰をもって世界を見つめ直すとき、世界が少し違ったものに見え始めるでしょう。

世界には、まだ希望はあるし、喜びもあります。わたしたちは、生きてもよいし、生きることができるし、生きなければならないのです。

(2011年12月18日、クリスマス礼拝)

2011年10月23日日曜日

すべての点ですべての人を喜ばせるように


コリントの信徒への手紙一10・23~11・1

「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、『良心』と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の利益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」

今日お読みしました個所に記されていることは、8章から続いてきた「真の神を信じる者たちは偶像に供えられた肉を食べてもよいか」という問いに対するパウロの答えです。結論的なことが今日の個所にまとめられています。

しかし、パウロが出した結論とはどういうものであるかといえば、非常に複雑なものです。「食べてもよいが、しかし、食べてはいけない」。もう何を言っているのか分からない、支離滅裂だと言われても仕方ないような結論です。要するにどっちなんだと問い詰めたくなります。曖昧で、煮え切らない、優柔不断な答え方であると、そうであることを認めざるをえない感じです。

しかし、私自身は、パウロの出した結論に、非常に深く共感し、同意する者です。先週の特別集会の前の週に学んだ個所で「それでも決断は必要である」と語ったばかりです。しかし、わたしたちが現実の場面で下す決断は、実際にはすっきりしたものではないし、あっさりしたものでもないのです。そのようにも言わなくてはなりません。

なぜわたしたちが現実の場面で下す決断が、すっきりしたものでも、あっさりしたものでもないのか、その理由ははっきりしていると思います。それは単純な話です。わたしたちが日々の生活の中で共に生きている仲間は、真の神を信じて生きているキリスト者だけではないということです。

わたしたちの周りにはキリスト者である人もいますが、キリスト者でない人も必ずいます。それは牧師たちも同じです。牧師たちは、教会の人とだけ付き合っているわけではなく、教会以外の人とも必ず付き合っています。かなり厳しい言い方かもしれませんが、信仰を持っていない人とは一切つき合わないと言う牧師がいるとしたら、伝道する気が無い人だと言われても仕方がありません。教会の中だけに引きこもっていて、社会の人々と一切付き合わない牧師は、伝道の仕事を放棄している職務怠慢の罪を犯していると言われても仕方がありません。

もちろん伝道とはまだ信仰を持っていない人々に信仰を持ってもらうように勧め、決断してもらうことです。しかし、その場合に重要なことは、まずは、まだ信仰を持っていない人々との付き合いを始めることです。その人々との接点を得ることです。接点も無い人々に向かって、どうしたら信仰を宣べ伝えることができるのでしょうか。一度も話したこともない、顔を見たこともない、そのような相手との間に、どうしたらコミュニケーションが成立するのでしょうか。それはありえないことです。それとも、わたしたちは、そこに誰もいない空中に向かって説教するのでしょうか。それは空しいことです。

そして、わたしたちがよく知っているもう一つの事実は、だれ一人として、生まれながらに信仰を持っている人はいないということです。信仰は、親から子へ、子から孫へと、血を通して、自動的に遺伝するものではありません。我々自身の言葉と態度を通して、汗と涙を流しながら懸命に伝えなければ決して伝わらないものです。ですから、わたしたちにできる伝道とは、まだ信仰を持っていない人々とまずは知り合いになること、まずは付き合いを始めること、まずは接点を得ることです。それ以外に伝道の可能性はありえないのです。

いま私が申し上げていることをご理解いただけるのであれば、これから申し上げることも、きっとご理解いただけるに違いありません。これから申し上げることは、もしかしたら信仰的確信をもって生きる者たちの心を乱すことになるかもしれません。しかし、そのことを私はパウロから学んできたつもりです。それはこういうことです。もしわたしたちに伝道する気があるならば、わたしたち自身の信仰的確信に基づく言葉や行いをかなりの部分で我慢したり、譲歩したりしなくてはならない面が必ず出てくるということです。それをもし「妥協」という言葉で説明するのを許していただけるなら、わたしたちの信仰生活は、日々妥協の連続であると言わなくてはならない面があるということです。

今日の個所の冒頭にパウロが書いている「すべてのことが許されている」というのは、わたしたちキリスト者の信仰的確信です。わたしたちは真の神を信じる信仰によって、あらゆる迷信や偶像礼拝やタブーから解放されています。何を食べると呪われるとか、どちらの方角に頭を向けて寝ると祟られるとか、どこに入ると汚れるとか、そのようなことは全く起こらないし、ありえません。それは、信仰を持っている人だけがそうだということではなく、信仰を持っていない人も同じです。食べ物の呪いとか方角の祟りとか場所の汚れとか、そのようなものはそもそも存在しないのですから、それが起こるかどうかは、信仰を持っているかどうかに関係ないのです。はっきり言えば、そういうことがあると思い込んでいる人たちは、だれかに騙されているとしか言いようがないのです。

しかし、わたしたちが知っている事実は、次のようなことです。わたしたちが自分の信仰的確信に基づいて、このようなことをいくら語っても、訴えても、全く耳を傾けてくれない人がいるということです。取りつく島が無い人がいるのです。

しかし、それでは、わたしたちはそのような人たちにはもう何もできないのでしょうか。取りつく島が無いのだから、放っておくか距離を置くかしか選択肢はないのでしょうか。ある意味でそのとおりと言わざるをえない面もあります。そのことも事実です。しかし、放っておくことも距離を置くこともできない人がわたしたちの周りには必ずいるということも事実です。それはたとえば家族です。あるいは親しい友人です。わたしたちの人生の中には、「もうこの人とは付き合わない」と言ってしまえば、その後の関係を断ち切ることができるという相手も、いると言えば確かにいます。しかし、みんながみんなそうではありません。たとえ信仰が違い、立場が違うとしても、死ぬまで付き合わなければならない相手も、わたしたちには必ずいるのです。死ぬまで付き合うと言っても、いろんなレベルがあることも事実です。家族ならば、あるいは親しい友人ならば、「付き合う」どころか「愛する」ことが求められているのです。

今日私は二つくらいのことを言っています。第一に言っていることは、伝道とは、まだ神を信じていない人々との付き合いを始めることなしにはありえないということです。第二に言っていることは、神を信じて生きる者たちもまた、まだ神を信じていない人々と付き合うことを避けて通ることができないということです。「付き合うことを避けて通ることができない」どころか、その人々をわたしたちは「愛さなければならない」ということです。

そして、もしそうであるならば、わたしたちの信仰生活は同じ信仰をもって生きている人たちだけが集まって営むものではなく、異なる信仰や宗教や思想を持って生きている人々の中に混ざりながら営むものであるということは明白です。信仰を持たない人々を憎んで、呪って、切って捨てて、軽蔑しながら生きることが、わたしたちの信仰生活ではない。すべて正反対である。このように言わなくてはならないのです。

しかし、私は今日、まだ言っていないことがあります。それは本当は、真っ先に言わなければならないことだったかもしれませんが、あえて後回しにしました。それは、わたしたちは、いろんな信仰や宗教や思想を持って生きている人が複雑怪奇に入り乱れた世界の中にいながら、それでも真の神を信じる信仰を貫いていくことが必要であるし、そうすることが可能であるということです。

それは可能なのです。できます。それは不可能だと言っているのではありません。わたしたちに、それはできることです。ただし、そのときわたしたちのとるべき態度は、パウロが言っているとおりです。「食べてもよいが、しかし、食べてはいけない」。こういう話になっていきます。

どういうことでしょうか。これから申し上げることは、誤解を生むような言葉かもしれませんが、事柄をはっきりさせるために、あえて言います。それは、わたしたちが自分一人でいるときと、あるいは同じ信仰を共有している信仰の仲間たちだけで集まっているときと、そうではない、異なる信仰や宗教や価値観や思想の持ち主たちと一緒にいるときとで、わたしたちの言葉や態度を変えることは許されるということです。はっきりいえば、わたしたちは、教会の中にいるときと、教会の外なる社会にいるときとで、言葉や態度において完璧な首尾一貫性をもっていないことがありうるし、そのような使い分けをすることが許されているのです。

もっとはっきり言っておきましょうか。わたしたちには、表の顔と裏の顔があってもよいし、二つの顔を使い分けてもよいということです。わたしたちが自分の生き方の首尾一貫性を追求することは、わたしたち自身の利益です。しかし、それを追求しすぎることによって、他人の利益を損なうことがありうるのです。わたしたちの信仰的確信やキリスト者としての生き方の首尾一貫性という点を重んじすぎて、教会の外側にいる人たちを傷つけるようなことがあるならば、伝道にとってはマイナスでしかないのです。

「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばせようとしているのですから」(33節)とパウロが書いているときの「すべての人」の中には、キリスト者である人だけでなく、キリスト者でない人も含まれています。そしてわたしたちの伝道はわたしたち自身の自己満足のために行うのではありません。信仰をもって生きることはこれほどまでに自由で喜びに満ちた人生であるということを、そのことをまだ体験していない人々に、何とかして分かっていただき、その人々と共に喜びの人生を始めること、それが伝道なのです。

(2011年10月23日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年10月22日土曜日

「地域防災拠点運営委員会」発足

20111022

今日はうれしいことがありました。長女が通っている公立中学校を会場にして「地域防災拠点運営委員会」の発足会が行われ、同委員会が正式に発足しました。もし今後、首都圏直下型の巨大地震が起こった場合、本校は松戸市小金原地区の住民の避難所の一つに必ずなりますが、そのときに我々が学校と保護者と地域自治会との連携のもとでどのように対応すべきかを協議し、非常事態に備える委員会です。私もPTAの代表者として出席を許されました。本校の校長と教頭は迅速に対策案を練ってくださり、『巨大地震への対応マニュアル』を作成してくださいました。素晴らしい先生たちを誇りに思います。




2011年9月16日金曜日

放課後の蜃気楼

ズズタト、ズズタト、タカトントン、タカトントン、トカタカトン、ジャーン!

ドラムの練習中だ。もじゃもじゃ頭の秋保くんが叩いてる。学業成績抜群、明るい性格、友達多数。

ギュワーン。おっと、次はギターだな。長ぼそい顔の三井くん。三井くんの家には正門と裏門がある。正門から玄関まで徒歩二分はかかるお屋敷だ。

キーン。おいおい、マイク、ハウってるよ。ボーカルは道明くん。お父さんは長身の商社マン。道明くんはみんなのアイドル。滑舌が若干悪いが、気にしない、気にしない。

ブベン、ブベン。ベースは坂本くん。ルックスはかなり地味だが、練習熱心。チョッパー系をベロベロベロリンとかできちゃう。

まだ聞こえないのはキーボードだ。小柄な女の子、ミーコ。今日は来てないのかな。

バンド名はまだ無い。募集中。泣く子も黙るロック系なので、「死神エースキラーGTR」とか「マッドビーナス25(トゥエンティファイブ)」とか、やたら強そうなのを考えてるらしい。

おー、いまごろミーコが走ってきた。は、は、は。息切らしてる。遅刻だね。でも大丈夫だよ、まだ彼らイラついてなさそうだし。

蜃気楼がゆらめく灼熱の校庭に響き渡る、魅惑のロックンロール、はじまり、はじまりー。

と思ったけど、あれ?部室から聞こえるのは泣き声。ミーコだ。どうした?

「なにやってんの?」とか三井くんの声が聞こえる。どうやら、ミーコがとんでもない忘れ物をしたらしい。なにやってんだ、ミーコは。

あ、泣き声が止まった。で、またキーンだ。だからマイク、ハウってるって、道明くん!

おー、やっと始まった。ドラムロール。道明くんのシャウト。「アウ!」とか言ってる、あはは。愛されるキャラだよ、あいつ。三井のギターも冴えてるなあ。昨日は、夜遅くまで麻雀やってたはずだが。

一時間たっぷり練習した彼ら。おんぼろの扇風機だけで、よくがんばってるよ。ライブの本番、近いもんなあ。えらいよ。

広い校庭には、野球部とラグビー部と陸上部の子たちがひしめき合っている。ま、棲み分けはいちおう成り立っているけど、危ないぜ、いつホームラン軌道の硬球が、陸上部の子の頭蓋骨を直撃するか分からんね。

お、ミーコが部室から飛び出してきた。ぷぷぷ、また走ってるよ。どこに行くんだろ。もう家に帰るのかな。ま、いいか。でも、かわいいなあ。

え、ぼく?

ただ見てるだけー。聞いてるだけー。ぼーっとね。図書室じゃないよ。教室でもない。暑くて死にそうな校庭のベンチに一人で座ってんの。蜃気楼が面白くてね。

だって、こんな時間、今だけだぜ、たぶん、と思うもの。大学とか入ったら、みんなバラバラだしね。

また会えるのかな。


2011年9月14日水曜日

神学者たちへの(かなり屈折した)エール

今まさに、神学を恥じる小児病のようなものにかかっているところかもしれません。「神学では食えない」と痛感するから。しかし、それじゃあ何ならば食えるのかとか、哲学なんかもっと食えないじゃんとか、そもそも物書きで食えると思っている妄想こそどうよとか考えはじめると、その小児病が少しは解けて我に返れるものがあるんですけどね。

それはともかく、神学の再構築には大賛成です。既存の本に唾を吐きかけ、「こんなもの」と罵倒する態度をもってではなく、また我々は本だけ読んで(神学的に)生きているわけではないのだから、既存の本がもたらした教会的実践的諸帰結や諸現象のほうにも目を向けて、いわばそこから「帰納的にも」神学を再構築していくことに賛成です。

あとは神学部や神学校というフレームワークというかゲシュタルトというか、まあインスティチュートで良いと思うのですが、そういうものは、「必要悪」とまでは言いませんが、どんなに欠陥や問題点が多いとしても、不可避的だし、要りますねえと思います。

それは、「ファン・ルーラー研究会」というインターネット上の(ただの)メーリングリスト(にすぎないグループ)を12年半ほど続けてきて思うことです。神学部、神学校を(少なくとも直接的な意味で)背景にもっていないグループがいかに無視され、軽んじられるかを12年半ほど痛みをもって感じ続けてくると、もうね、少しくらいは面の皮が厚くなりますよ。

カネのために神学をするんじゃない。それは声を大にして言いたいですよ。でも、「神学では食えない」と失意のうちに神学を断念する人の多くは、神学部や神学校という枠の中に入れてもらえない個人プレーヤーです。ネットに何千万字の文章を書いても、一円にも換金されない。「学校」という枠の中にいる人々ならば、カビの生えた講義ノートを毎年引っ張り出して読み上げるだけでも、地位も名誉も、ある程度の財産までも保障される。

月並みな言い方ですが、一人のイチローの陰に、失意のうちにプロ野球の道を断念した何千、何万のプレーヤーがいる。神学部、神学校の教授たちも然りですよね。なりうる人、なった人には、やっかみも集まりやすいけど、がんばってほしいなあと思います。

既存の神学部、神学校に不満を抱く人々の中に新しい学校を作りたがる人がいますけど、そういうのを見ると虚しさを感じるばかりです。既存のものを作り変えましょう。ただし、自分の生きている間にできそうなことまでしか約束できない。「三百年後に実現いたします」とか言う詐欺商法はやめる。今ある神学部、神学校を二十年、三十年くらいの単位のスパンで小改革していく。そのために教会が全力を尽くして応援する。そういうやり方を私は好みます。

2011年8月23日火曜日

筆談の記憶

ち、あーあ、始業のチャイムが鳴っている。

またしても無為な時間を過ごさなければならない。うんざりだ。

「無為な」だって?まさか、そんなはずはない――はずなのだが。

教室に現われたのはカワバタのおっさん。世界史の教師だ。いやいや、のっけからなかなか興味深い話をしてくれる。まあ教科書どおりなのだが、「えー歴史というのは、古代、中世、近世、近代、現代といった感じに区分していくと、その動きというか流れをうまくとらえることができるようになるのでありましてー」どうたらこうたら。クルトゥーア・ペリオーデ(文化的歴史区分)とか言うらしいというのは、それから数年後、大学で学んだことだ。

しっかし、やっぱだーめだ、興味の集中力が続かん。睡魔が襲う。夢見心地に拍車をかけるのは、出来の悪い生徒は教師からいちばん遠い、優秀な生徒たちに迷惑をかけない、いちばん後ろの席に何となく追いやられていること。

いちばん後ろだが教室右側から二列目なので、外の景色は全く見えない。教室の右側は廊下側で、廊下の向こうには中庭があり、中庭の向こうには別の教室棟が立っているので、山も空も雲もどのみち見えない。「目のやり場に困る」とはこのことだ。女の子たちは授業中は無表情なので(そりゃ真剣に勉強しているわけだし)、見とれるほどの魅力無し。気温と湿度のやたら高い虚空には、カワバタちゃんのダミ声と、彼の目の前に座っている何人かの優秀な子たちの鉛筆のカリカリ音と、ミンミンゼミの鳴き声だけが響く。

ふと薄目で隣を見ると、ぼくと同類の子が「またやるかい?」と言いたげな目でニヤニヤしている。「またやるかい?」の内容は、筆談だ。その子の席は右端のいちばん後ろ。もっとも彼は、その後かなりがんばって優秀な成績を上げ、優秀な仕事に就いたようなので(「優秀な」の定義はともかく)、ぼくなんかと同類だったのは、ほんの一時のことだったと、彼の名誉のために言っておく。

彼は吹奏楽部所属、トロンボーン担当とか言っていた。演奏中の姿を見たことはない。若い頃の田村正和の目じりを、指でさらに吊り上げたようなフェイス。潜在的なファンは多かったらしい。何より、ぼくの半分しか体重が無さそうなスリムなボディ。

しかし、そこから先の記憶が全く正確でない。当時ルーズリーフなんてのを使っていたかどうか。はっきり憶えているのは小さな紙切れだったことだけ。ノートの端っこを破ったんだっけなあ。そんなことをした気はしないのだが。

その小さな紙切れに細かい文字が新たに書き加えられるたびに、ぼくと同類の子とぼくとの間を不断に往復し続ける。もうどこにも残っていないんだけどね。その紙切れは、我々の、なんていうか、細胞レベルの閉塞感を追っ払ってくれる、自由と喜びの輝きをもっていた。

カワバタちゃんの目を盗めていたとは思わない。時々ギョロリと睨まれたし。たしか一度だけ教室から追い出されたことがあったような気もする。あのね、ぼくらの脳みそって、実に便利なものらしいのよ。自分に都合の良い記憶だけを残し、都合の悪い部分は適当に殺処分してくれるという。だから、ほんとに忘れました。記憶にございません。

あれから三十年。キツネ目の彼は(あ、言っちゃった)どこで何してるんだろう。元気でいてほしい。ただそれだけだよ。

��「FB高等學校文學部」開設記念随想、2011年8月23日)


2011年8月22日月曜日

山岡洋一さん、ありがとうございました

たった今届いたメールマガジンに強い衝撃を受け、大げさでなく心臓が止まるかと思うほどの痛みが走りました。まだショックから立ち直りきれない。

私が日本で最も尊敬してきた一人の翻訳家であり翻訳理論家でもあった山岡洋一さん(62歳)が一昨日8月20日(土)に心筋梗塞で亡くなられた。同氏主宰のメールマガジン「翻訳通信」の号外を通じて、ご遺族が知らせてくださいました。

今月1日に第111号(2011年8月号)を受けとり、山岡さんの言葉の一字一句にいちいち首肯しながら、ほとんど舐めとるように読んだばかりでした。

山岡さんの主著となった『翻訳とは何か』(日外アソシエーツ、2001年)で翻訳論の新しい世界を教えていただき、爾来、私は変わった。たった一度だけですがメールのやりとりをさせていただいたことがあり、神学の翻訳を志している私に「翻訳の原点のような仕事に取り組んでおられて羨ましい」と温かい言葉を返してくださいました。

私の願いは、神学の翻訳をする人全員に山岡さんの本を読んでもらうことです。我々が根本的に間違っている部分を山岡さんの本が教えてくれたと思っています。

最もショックを受けているのは山岡さんのご遺族に違いないのですが、メールマガジンの読者(2500人以上)も今ごろ、私同様のショックを受けているところだと思います。まだ涙は出てきませんが、心の支えを失った感覚です。じわじわ来そうです。

書きこみをやめるという意味ではありませんが、今週(私の夏休み)は、偉大な翻訳家の生涯への敬意をこめて、喪に服したいと思います。

東浩紀氏の「娯楽でしか繋がれないのは貧しい」という意見に同意します

ついさっきツイッターで東浩紀氏がつぶやいたことに触発されて、何か書きたくなりました。

東氏曰く、日本は「テレビと娯楽しかない国。ネットユーザーがいくら増えても、芸能人とアニメの話しかされない国。この状況はソーシャルメディアの普及ごときで変わるものではないと、もはや半ば諦めています。」納得ですね。

「年収1億でも年収100万でもみな同じアニメ見てるよね」と「娯楽で繋がる可能性」を肯定的に評価する人々に対し、最近の(とくに3.11以降の)東氏は距離を置きたがっている。「娯楽でしか繋がれないのは貧しい」と言っている。海外で「政治」が果たしている役割を担うものが、日本には無い(大意)。

今これを堂々と書ける東氏は、けっこう炯眼の持ち主のような気がします。

でも、「それ見たことか。言わんこっちゃない」というようなことを、私は口が裂けても言いませんからね。「今こそ○○の出番だ」とか「これからは○○の時代だ」とかもね。

でも、心の中では当然そう思ってますよ。思ってますよ、当たり前じゃないですか。

日本に決定的に足りないのは○○です。それが無いから、いまの状況になっているんです。

2011年8月11日木曜日

Ustream「東日本大震災を経て」



今年3月11日の東日本大震災の発生前にしばらく続けていたUs​tream放送「ファン・ルーラーについて」をなかなか再開でき​なかった理由を話しました。

Ustream放送「ファン・ルーラーについて」の5回分は以下のリンクでご覧いただけます。

ここ(↓)です。
http://www.ustream.tv/channel/ysekiguchi