2011年7月30日土曜日

もしパウロの時代にブログがあったら(1)

いま毎週日曜日の礼拝の中で、新約聖書「コリントの信徒への手紙一」の連続講解説教を続けています。今は7章を読んでいる最中なのですが、まあ難しいといえば難しい、でも、すごく興味深いところであることも分かってきました。

このところ、ギリシア語の本文をじっくり研究するだけの余裕が無いのが残念なのですが、とにかく一冊二冊の注解書にかじりつきながら、パウロの言葉の真意を探っているところです。

以下にご紹介するのは、たったいま(「たったいま」です)大急ぎで、新共同訳聖書を開きながら、これまで学んできたパウロの意図をできるだけ反映させてパウロの文章を読みなおすと、こういうふうになるんじゃないか、という一つの例(あくまでも「一つの例」)として、書いてみたものです。

ですから、「翻訳」と言うには及びません。「超訳」で構いません。味付けとしては、「ブログ風テイスト」を加えてみました。パウロの時代にブログがあったら、こういう文章を書くんじゃないかなと、想像してみた次第です。

--------------------------------------------------

コリントの信徒への手紙一7・25~35

使徒パウロ著/関口 康「超訳」


まだ結婚したことが無い人たち、いますよね、そういう人たちにこの際ちょっと言っておきたいことがあるんですよ。まあこれはあくまでも私の意見ですけどね。神さまからこう言えと言われて言うわけじゃないんですが、神さまからこの仕事を任されている者として言っておきますよ。

それはね、要するに、とにかく今は相当ヤバい状況なんだということですよ。今まさに危機が迫っているんです。そういうときには、私は皆さんにあんまり無茶なことや急激な変化が起こるようなことをしてもらいたくないんです。今のまま、現状のままに留まっていてもらいたいんです。

いま結婚している状態にある人なら、もうわざわざ離婚の手続きなんかしなきゃいいし、もしまだ結婚していない人なら、今さら相手を探そうだなんて思わなきゃいい。結婚することが罪だとか、まだセックスしたことがない人がセックスすることは罪だとか、そういうことを言いたいわけではないですよ。

私が言いたいのはね、「結婚すること」と「苦労すること」はほとんど同義語だ、ということですよ。そういう苦労をね、私はあんまりあなたたちに味わわせたいとは思わないんですよ、このご時世ですからね。

皆さんに言っときますよ、もうすぐ世界は終わりますからね、そのときが近づいてますよ。

これからの生き方はね、

・家族がある人は、ないふりをする。
・いつも泣きべそばっかりの人は、いまだかつて泣いたことがない人のふりをする。
・冗談ばっかり言っていつも笑っている人は、いまだかつて笑ったことがない人のふりをする。
・買い物好きの浪費癖の人は、財布のひもが固い人のふりをする。
・世の中の弟一線でバリバリやってきた人は、世事に疎い人のふりをする、

とまあ、こんな感じになっていくと思います。

だって、もうね、今のままの現状がこれからもずっと維持されるということは、ありえないんですよ。だから、あんまりもう、じたばたしないで開き直るしかないんですよ。

一人で生きている男の人ならね、「どうすれば神さまに喜んでもらえるだろうか」を考えることに集中できますけどね、結婚してしまったらね、そんなことはもう無理になりますよ。だってね、男の人が結婚したら、それから毎日が「どうすればカミサンの機嫌をとれるだろうか」とね、そういうことばっかりで心いっぱい頭いっぱいになってしまってね、集中力もへったくれもない状態になっていくものなんです。

一人で生きている女の人や、まだ結婚したことがない女の子たちは、体も心も神さまに清めていただこうと、ひたすら神さまのことを考えることに専念できますけどね、結婚したらね、そこから必ず変わっていきますよ。寝ても覚めても「どうすればダンナの機嫌がとれるだろうか」と、そんなことばっかりになって、世事にくたびれてしまう。

今言っていることは、あなたがたを責めてるわけじゃないですよ、厳しいことばっかり言って、「おれの言うことを聞け」とか言って、自分の価値観を押しつけたいわけじゃない。

心の中がグチャグチャにかき乱されっぱなしの日常から少し離れるときも必要だ、そんなふうにして落ち着くことができるときもある、そのような信仰生活を続けてもらいたい。私の言いたいことは、ただそれだけなんです。

2011年7月29日金曜日

私はなぜ洗礼を受けたか

とくに何の脈絡もなく、唐突に書く。私はなぜ洗礼を受けたか。それは1970年12月26日。1965年11月生まれだから、当時はもちろん5才。幼稚園児としての最後の年の、クリスマス礼拝のときだった。

受洗の意思は明確であった。やる気満々だった。いや、正確に言えば「飲み食いする気満々」だった。だから私の洗礼は幼児洗礼ではない。誰から勧められたわけでもない、と言いたいところだが、もしかしたら親が「どう?」くらいは言ったかもしれないが、それは忘れた。牧師から勧められることはありえない。消去法で考えれば、親が勧めたのでなければ、私が自分で意思決定をしたのだ。それ以外の可能性はない。

実際、私自身の中にとにかく残っている記憶は、牧師のところまで行って「洗礼を受けさせてください」と、自分の意志と言葉で”要求した”日の一部始終だ。

動機についても鮮明に憶えている。その顛末については、前にもどこかに書いたことがある。

そのクリスマス礼拝よりも半年くらい前だったろうか、教会で聖餐式があったとき、パンもぶどう酒ももらえず、目の前をスルーされた。ひどく頭に来たので、あれをもらえる方法は何かを親に聞き、洗礼というのを受ければいい(パンとぶどう酒をもらえるようになる)のかと初めて知った。

神に誓って言うが、当時の私は、特別ひもじい生活をしていたわけではない。いくら幼稚園児だったからといえ、あんなママゴトのような小さなパンだ、ぶどう酒だ、が欲しかったわけではないのだ。そんなことではない。何が頭に来たかといって、おれが小さい頃から来ているこの教会の中で、おれを無視し、おれの前を素通りしてよいものがあってよいはずがない、という思いだった。

「そういうのは傲慢だ」などと言われたくはない。当時の私が激しく自覚したことを、当時の私が適切な言葉で言い表せたはずがない。しかし、オトナになった今なら言える。それは、「おれは、ハンパなくこの教会のメンバーだ!それに関しては誰にも文句を言わせたくない。どこにも逃げやしないから心配すんな。ていうか、他になりようがないよ。ほかの人はともかく、おれに関しては信教の自由とか別にいいから。だから、お願いだから、おれに洗礼授けてくれ。頼むからおれの前をスルーしないでくれ」という意識だった。

これらのことを、あとづけの脚色として書くのではない。受洗記念日は教会が記録するものであって、自分で勝手に捏造できるものではない。私が5歳で成人洗礼を受けた事実を、教会が客観的に証明してくれる。

千葉県柏市の高級住宅街内の一公園での放射線測定 放射性セシウム5万​ベクレル以上を検出(2011年7月20日)



Youtube上にアップされた映像を紹介します(私が録画したわけではありません)。私の住んでいるところは松戸市と柏市の市境(の松戸側)ですので​、柏市の出来事は他人事ではありえません。柏市民が声をあげたの​を受けて、柏市がやっと重い腰をあげたとも知りました。

「検査結果報告書」をご覧になりたい方は、ここをクリックしてください。

「廃棄土壌管理処分場」の建設候補地に挙がっているらしい場所がわが家から片道​3キロ

353661926

画像の出典: http://twitpic.com/5uk7ae

私もここ(http://togetter.com/li/165303)で見ただけの話ですので、現時点では確たることは何も分かりませんし、政治に直接タッチしている者ではありませんので、事の詳細を知る立場にはありません。そのことをあらかじめ強くお断りしておきます。

しかし、いま流れている情報の主旨は、松戸市の「21世紀の森と広場」を​つぶして、こういう感じの建物(廃棄土壌管理処分場)を立てましょうという具体的な計画​が進んでいるらしいということです。

しかし、ツイッターの住人たちのコメントを読みますと「村​の皆さん」とか書いてあるようですが、冗談じゃない、松戸市内の「21世紀の​森と広場」のある場所は「村」じゃありませんからね!

東京の中心がどこであるかは知りません。しかし、もしそれを仮に「東京駅」だとするならば、東京駅から現地までの直​線距離は「30キロ」です。東京駅から30キロがどれくらいかを​イメージするための参考になリそうな例を挙げるとすれば、たとえば、東京駅から(東京都)国立駅までが30キロです。東京駅から(神奈川県)横浜駅までも30キ​ロ。東京駅から(埼玉県)大宮駅までも30キロ。

つまり、東京のど真​ん中から数えれば「国立、横浜、大宮」などとほぼ等距離の場所に関​東広域の放射能土を集める最終処分場を作りましょう、という話であると思って​いただけば、事の深刻さをご理解いただけるでしょう。

「21世紀の森と広場」のほうから数えて半径​30キロ以内といえば、北は(茨城県)つくば市、東は(千葉県)成​田市、南は千葉市、西は新宿区、中野区あたりまでを、すっぽりおさめますからね。

ちなみに、「21世紀の森と広場」は、わが家から片道3キ​ロ、自動車で10分弱です。

もう一つ、重要なことに気づきました。「21​世紀の森と広場」の位置は、現在私がPTA会長を仰せつ​かっている公立中学校の学区内です。子どもたちの健康と​安全を守ることがPTAの使命です。


2011年7月26日火曜日

現在「ミニコミ誌並み」だそうです

勝間和代氏の『目立つ力』(小学館新書、2009年)という本は、二年も前に出版されたものですので、もしかしたら巷では「すでに相当古い本」というような評価になっているのかもしれませんが、私は数か月前にたいへん興味深く読みました。

特に考えさせられたのは、ブログのユニークアクセス(異なる人によるアクセス)とそのブログのいわゆる対社会的影響力のようなこととの関係を書いているくだりです。

ユニークアクセス/日   対社会的影響力

100 人未満         まだ完全な個人ブログ
100~1000人未満     一部の人の興味を引きつつあり、ミニコミ誌並み
1000~10000人未満    特定のファン層には食い込んでいる。専門誌並みの力がある
10000~50000人未満    かなり影響力がある。一般雑誌並み
50000人以上         日本有数のブログ。マスコミ並みの力がある

ちなみに、私のブログ(関口康日記」と「今週の説教」と「A. A.ファン・ルーラー著作集」との各ユニークアクセス数を合算しますと「100~1000人未満/日」のステージには到達していることになりますので、勝間氏の言葉を借りれば一応「ミニコミ誌並み」ということになります。

しかし、そのような実感(ミニコミ誌並みの影響力があるという実感)は、このブログを書いている本人には全く無いので、勝間さんのこの本を最初に読んだときには「それは本当なのか」と疑問を抱きました。

しかし、もし私のブログがそれほどの影響力をもっているとしたら(持っていないと思いますが)、そのことを私はやはり率直に「うれしい」と感じます。

実際に面と向かってはっきり言われたことはありませんが、「ネット牧師」とか「ブログ先生」とか、そういう呼ばわられ方は、私はされたくないし、そういう言葉遣いがあまり好きでもありません。

しかし、本や雑誌類が売れない・買われない・読まれない時代の中で、せめてブログでも書くことによってキリスト教的言説をなんとかして世間に広めようとでもするでなければ、それほど遠くない未来にも「日本の牧師と教会はほとんど何も言っていないのと同じだ」と(教会の中の人からも)批判されてしまう時代が来てしまうのではないかと私は考えています。




2011年7月24日日曜日

いろいろ抱えながら楽しんで生きる


コリントの信徒への手紙一7・32~35

「思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」

今日の個所にも引き続き扱われているのは結婚の問題です。ここに書かれているのは結婚に関するパウロの意見です。はっきり申し上げますと、この手紙の中でパウロが結婚について否定的な意見を述べていることは否定することができません。

しかし、私は皆さんを必要以上に不安な気持ちにさせたくありません。なるほどたしかにパウロは結婚について否定的な意見を述べています。しかし、彼自身の中にも、聖書全体の中にも、キリスト教信仰の中にも、結婚すること自体が罪であるという考え方は全くありません。結婚は、してもよいのです。それは神が許しておられることです。結婚は神御自身がお定めになった制度です。そして、パウロも結婚することを許しています。結婚してはいけないと禁止したことはないのです。

パウロが結婚について否定的なことを述べているのは、禁止しているのではなく、心配しているのです。それは先週の個所に書かれていたとおりです。「しかし、あなたが結婚しても罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです」(7・28)。

パウロが言おうとしていることは、ある意味で単純です。また、実際に結婚した人たちにとっては、言わずと知れたことだとでも言いたくなるくらいの当たり前のことです。それは要するに、結婚には楽しい面ばかりではなく苦しい面もあるということです。結婚する人たちは、そのことをすべて承知したうえでなければならないということです。

ですから、私は先週の説教の最後に、パウロが書いていることは逆説であると申し上げたのです。

先週の個所には「定められた時は迫っています」(7・29)とか「この世の有様は過ぎ去るからです」(7・31)という言葉がありました。これはパウロの終末論であると言いました。終末の時が近づいている、その日はまもなく訪れるとパウロは信じていました。わたしたちにとって終末は、神のみもとに召されることであり、天国に受け入れられることであり、永遠の祝福と喜びのうちに置かれることを意味するのですから、悪い意味での破滅や破局を思い描く必要はありません。しかしたとえそうだとしても、終末は、地上に生きる者にとっては、やはり別れを意味するのです。そこに死別の悲しみが伴うのです。

結婚した者たちが味わう最大の苦しみは、心から愛した人と死別しなければならないときが来ることです。死別の苦しみは、愛が深ければ深いほど耐えがたいものとなるでしょう。その苦しみにあなたは耐えられますかという問いかけが、パウロの言葉の裏側にある。私はそのような意味で、パウロの言葉を逆説だと申し上げたのです。

ですから今日の個所に書かれていることも、逆説なのです。しかし、パウロが書いていること自体は全く反論の余地もない事実です。これを否定できる人がいるでしょうか。私は自信がありません。パウロは次のように書いています。「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます」(7・33~34)。

私は自信がないと言っておきながら、すぐに別のことを言わなければなりませんが、いま申し上げたことは、私が「どうすれば妻に喜ばれるか」といつも考えているという意味ではありません。もしそうであれば妻はもっと喜んでいるはずですが、そちらの自信もありません。しかし、あまり私の顔ばかり見ないでください。いま申し上げていることは、私の話としてではなく、一般論として聴いていただきたいことです。

パウロが言おうとしていることを別の言葉で言い換えれば、「結婚は独りで成り立つものではない」ということになるかもしれません。これも考えてみれば全く当たり前の話です。しかし、あまりにも当たり前すぎて忘れられてしまう可能性がある、実は非常に重要なことなのかもしれません。

独りで成り立つ結婚というものなどはありえません。しかし、結婚生活の中でしばしば問題になり、トラブルにもなるのは、どちらか一方が他方に対して横暴な態度をとるとか、あるいは自分の考えや要求を一方的に押しつけるときだったりするではありませんか。

そういうことと比べれば、パウロが言っていることは、はるかにましなことです。「どうすれば妻に喜ばれるか」と、一生懸命考える夫は、良い夫でしょう。そういう人がなぜ責められなければならないのでしょうか。多くの男性はこういう人に見習わなければならないはずです。もしそうであるならば、パウロが「どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣う」人のことを責めているのかといえば、必ずしもそうとは限らないと考えることもできるはずです。あるいは、ここでパウロが「心が二つに分かれてしまう」ことは悪いことだと責めているのかといえば、必ずしもそうとは限らないと読むことができるはずなのです。

あるいはパウロは男性の側の話だけではなく女性の側に対しても、ほとんど同じことを繰り返しています。「独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います」(7・34)。パウロがほとんど同じことを繰り返していますので、私も同じような言葉を繰り返しておきます。「どうすれば夫に喜ばれるか」と心を遣う妻は、良い妻でしょう。そういう人がなぜ責められなければならないのでしょうか。なぜそれが悪いことなのでしょうか。そんなはずがないのです。

しかし、それでも、パウロが言っていることは紛れもない事実であるということは全く否定できません。なるほどたしかに、わたしたちがいったん結婚生活ということを始めたら、何か一つのことに脇目もふらず、ひたすら集中するということができにくくなるでしょう。心も意識もありとあらゆる方面へと拡散していき、分散していくでしょう。学者肌の人や芸術家肌の人にとっては、何か一つのことに対する集中力を奪われることは、本当に困ったことだと認識してしまう可能性があるかもしれません。

ですから、パウロが書いていることも、いま申し上げたとおりのことかもしれません。「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」(7・35)と書かれています。

ここで気になるのは、最後の「ひたすら主に仕えさせるため」という文章です。パウロにとって要するに大事なのは「ひたすら主に仕えること」だけであって、そのための邪魔になるようなことについては、いっさい切り捨てるべきであると言っているのでしょうか。大事なのは、神だけであり、宗教だけであり、教会だけである。その大事なことを守るために邪魔になるようなものはすべて切り捨てるべきであり、全く捨て去るべきであると、そのようなことをパウロは言いたいのでしょうか。

そのようなことをパウロは書いていないということを、これまでわたしたちは学んできたはずです。少なくとも私は、そのような意味にパウロの言葉を読みません。

もしいま申し上げたような読み方をしなければならないのだとしたら、たとえば、すでに学んだ個所に書かれていた「ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない」(7・12)というパウロの言葉をどのように理解すればよいのでしょうか。あるいは、「ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない」(7・13)という言葉はどうでしょうか。だって、結婚すると「心が二つに分かれてしまう」のでしょう?それはその通りだと思いますが、しかしもし「心が二つに分かれてしまうこと」が、悪いことであり、駄目なことであり、許されないことであり、「ひたすら主に仕えること」の妨害や障害でしかないということであるならば、未信者の配偶者とは離縁すべきでないと書いているパウロの言葉は、全く矛盾以外の何ものでもないではありませんか。

ですから、私は、パウロが書いている「心が二つに分かれること」を、彼がただひたすら悪い意味だけで書いているとは思えないのです。そうなってはいけないのだ、心や意識が分散するようなことに近づいてはいけないのだ、ただひたすら神さまのことだけ考えるべきであって、他のことは何一つ考えてはいけないのだと、そのような意味のことをパウロが書くはずがないと、私は信じています。そういう考え方は大げさすぎるし、極端すぎるし、あまりにも現実離れしすぎていて、非常に危険な考え方でさえあると思われてなりません。

そういうことではないのです。パウロはただ、ありのままの事実を書いているだけです。「結婚とは、そういうものです」と、淡々と事実を述べているだけです。結婚には楽しい面だけではなく苦しい面もある。集中力が必要なときも、あっちに走り、こっちに飛び回りしなければならないこともある。あのことも、このこともしながら、わたしたちは生きていく。その覚悟があなたがたにありますかと、パウロはこの手紙の読者に問いかけているのです。

結婚というどう考えてもデリケートすぎる問題について、あまり具体的な話をしすぎると必ず語弊が出てくるし、だれかが傷つくということが起こるので、なるべくなら避けたい面もあるのですが、一つだけお許しいただきたい話があります。それは牧師の話です。独身の牧師がいないわけではありません。しかし、神学校を卒業したばかりの若い独身の(現在の日本キリスト改革派教会の場合は、すべて男性の)牧師たちに対して、ほとんどの教会が、他の何をさておいてもまず最初に願うことは「早く結婚してほしい」ということだったりします。これも事実でしょう。

皆さんにぜひ考えてみていただきたいことは、その理由は何なのだろうかということです。パウロが書いていることを尊重するならば、「心が二つに分かれてしまう」ようなことを牧師たちが率先して行うのは間違っているということになるではありませんか。しかし、多くの教会は独身の牧師たちに「早く結婚してください」と言う。その意味は何なのでしょうか。

その答えを詳しく解説する時間は無くなりました。一つのヒントだけ申し上げておきます。教会に通っている皆さんは「あれもこれも抱えながら」生きているということです。そのことを理解できるようになるために、牧師たちも「あれもこれも抱えながら楽しんで」生きていく必要があるのです。

(2011年7月24日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年7月22日金曜日

もう国民は官僚を恐れはしない(2) とんねるず系番組

「もう国民は官僚を恐れはしない」をシリーズ化したい気もするのですが、長期的な執筆のヴィジョンのようなものをもっているわけではありません。

前回は「平成教育委員会」(フジテレビ)をやり玉に挙げましたが、もう一つずっと気になっていたのは、とんねるず系の人たちがやっている「みなさんの・・・」なんとかかんとか、いうテレビ番組ですね。これもフジテレビです。

これは1980年代後半から始まっているので、平成教育委員会より少し先輩です。しかし、平成教育委員会にも同じことが言えそうですが、放送開始の頃は、まだましだった。直視に耐えなくなってきたのは、正確な時期までは言えませんが、おそらくは「第一次小泉内閣」が発足した頃じゃないですかね、Wikipediaによると、2001年4月以降だそうですが。

あの番組の中で比較的人気の高い企画の中に「博士と助手~細かすぎて伝わらないモノマネ選手権~」というのがあるじゃないですか。開始は2004年4月だそうですが(これもソースはWikipedia)、あれには「平成教育委員会」に匹敵するほどの政治利用を感じます。

だって、ですね、「テレビに出られる」とはどれほどエライことであり、どれほど苦しいことなのかということを国民感情の中に焼きつけるために、あんなふうに「スイッチ一つで、床に開けた穴の中に落とす」わけですよね、テレビに出たがっている人を。そして、穴に落ちた人のことを、ただゲラゲラ笑う。

ああいう番組を見ながら、あれはとんねるずの二人が好き放題やっているとか、あんまりそんなふうに考えないほうがよいのだと思っています。テレビ局の仕組みもアンタッチャブルなブラックボックスなのでしょうから、一般人は見えません。しかし、さまざまな利害関係を乗り越えてああいう番組が出てくるまでに激しく複雑怪奇な仕組みがあるのでしょうから、とんねるずの二人の意思が全体を動かしている、などと思わないほうがよいのでしょう。

いずれにせよ、あのような番組を放送している人々が視聴者たちに植えつけたがっていることは、繰り返しますが、「テレビに出られる人」と「出られない人」との間には《これだけの差》があるのだという、寝ても覚めても打ち消しがたいほどの印象です。そのことは間違いなく言えるでしょう。

そして、このことと平成教育委員会などの影響力とが相乗作用を引き起こすことによって、「スゴイ学校」の卒業生か「スゴイ経歴」の持ち主のどちらかの中で「テレビに出られる」人こそが「最強のエライ人」であるという神話を捏造しようとしてきた。神話捏造のために奔走してきた張本人は、(彼ら自身はテレビに出ない)官僚たちその人々だ、と思い至らざるをえないのです。

だって、それは彼らにとっての莫大な利益につながるからです。官僚たちが書きあげた原稿を読む政治家たちの圧倒的な力を誇示できる手段は、長い間「テレビ」しかなかったのですから。一般人でもだれでもそう簡単にテレビに出られては困るのは、芸能界のライバルたちだけではなかった。政治家たちも、その後ろにいる官僚たちも、全く同様の利害関係にあったのです。

しかし、当たり前のことを書きますが、「テレビに出られる人」がエライわけではないですよ。「なぜ」とか「どうして」とか問われても、答えられませんけどね。

それにしても、とんねるず系の番組、いまだに懲りませんね。3月11日以降も、あいかわらず、ゲラゲラニヤニヤ。吐き気を催すばかりですが、見たくない人は見なきゃいいというスタンスなのでしょうね。しかし、なんでもかんでも「不謹慎」という殺し文句を使って排除したいとは思いませんが、あのようなクダラナイ番組をなぜいまだにキープし続けなければならないのか、全く理解に苦しみます。「少しくらいは空気を読めよ」と言いたくなります。

2011年7月19日火曜日

「今週の説教」の人気記事ランキング

このところ更新が滞っていて非常に心苦しく思っているのは、私設ブログ「今週の説教」のことです。原則として毎週日曜日の礼拝説教の生原稿を掲載していくことにしているのですが、ままなりません。「『明日しよう』と考えた瞬間にその仕事は永久にたなざらしになる」とビジネス指南書に書いてあることが見事に的中しているブザマさです。

誰から求められたわけでもなく自分の意思といささかのサービス精神とで始めたことですから、自分のペースでやっていけばよいことです。しかし、別の観方をすれば、自分に対して自分で立てたルールを自分で破っているようなものですから一種の自己矛盾の状態でもあるわけで、大変よろしくない状態であると自覚しています。でも、まあ、できないんだから仕方がない。いろいろ忙しくなってしまって、手が回らないです。

ところで、「今週の説教」も、この「関口 康日記」も、「A. A. ファン・ルーラー著作集」も、アットニフティ社の「ココログ」というサービスを利用させていただいているのですが、私にとってはとても有難いと感じる機能がついています。

それは「人気記事ランキング」という機能です。各ブログ上に公開してありますので、どなたでもご覧いただけます。

この機能についての詳しい説明は割愛しますが、要するに、ブログ上に自分で書いた記事についてのアクセスランキング表を自動的に生成してくれる機能です。

これがなぜ私にとって有難いのかといえば、この「人気記事ランキング」の中に、自分の説教を改善していくためのヒントがあふれていると思うからです。

ちなみに、「過去4か月」のアクセスランキングは、次のとおりです。

1位:「わたしはまことのぶどうの木」
2位:「らくだは針の穴を通れない~誰のための人生か~」
3位:「徴税人ザアカイ」
4位:「苦難の僕―受難週―」
5位:「狭き門より入れ」
6位:「善いサマリア人」
7位:「マルタとマリア」
8位:「わたしが命のパンである」
9位:「いつも喜んでいなさい」
10位:「主の祈り」

もちろん「人気記事ランキング」という表現そのものには軽薄な印象というものを払拭しきれないものがあります。そういうことはよく分かっているつもりです。しかし、このランキング表を見て私が思うことは、「ネット上の評価は、容赦なく客観的であるゆえに、信頼できる」ということです。

ともかくはっきり分かることは、これらの説教が選ばれた(というより「残された」)理由です。自画自賛をするつもりなどは毛頭ありませんが、このランキング表に「残った」説教は、私自身の記憶の中にも鮮明に残っているものばかりです(「今週の説教」に掲載している説教は、現在「301件」です)。

そのことが分かると次に何が分かるのかといえば、説教者である私が、今の時代の中で・21世紀の日本の中で・日本語で「聖書の言葉を解説する」とはどういうことを意味するのかが分かる。今の時代に生きている聴き手側の人たちが、聖書や教会、あるいは牧師と説教とに対して、どのようなことを求めているのかが分かります。

大衆迎合(ポピュリズム)のようなことをしてみせようという話ではありません。そもそも「説教」というものは、説教者だけで成り立つものではありえず、説教を聴いてくださる方々と共に作り上げていくものなのですから、聴き手側の評価や視点を客観的に表示するための何らかの方法が必要だったのです。しかし、そのための適切な方法が、インターネットが普及する以前には見当たりませんでした。

それで、いわば仕方なく、先輩牧師たちや神学校の説教学の教授だったような人たちが「あなたの説教は良い」だの「悪い」だのと講評するのを茶坊主たちがうんうん肯いて聴く勉強会のようなものが、ちょっとした流行を見せるようにもなりました。しかし、それってどれ程度まで客観性なるものが確保できているのでしょうか。「良い」だ「悪い」だ言う聴き手側の基準や根拠は何でしょうか。私にはよく分かりません。「前世紀的な」営みであるような気がします。

私のやり方が正しいかどうかは不明です。しかし、茶坊主にだけはなりたくなかったので、その種の勉強会には関わらないようにしてきました。しかし、上記のとおり、このところ身辺が多忙をきわめているため、ブログの更新すらままならなくなってきました。こういうときはむしろ、高名な先生のもとに通って指導を乞うほうが手っ取り早くてラクかもしれないなと考えなくもありません。「そろそろ白旗を上げようかな」と、すっかり弱気になっている今日この頃です。



2011年7月16日土曜日

もう国民は官僚を恐れはしない(1) 平成教育委員会

確たることなどは知る由もありませんし、すでに一部では論じ尽くされた観方かもしれません。しかし、私にもちょっとだけ言わせてください。ここ数年のわが国における政治と市民との絶望的な乖​離の原因について、私が現時点で考えていることは、それほど複雑な話ではありません。

旧来の概念としてのいわゆる「エリート」とそ​れ以外の人々との知性ないし知識の差が、実はもはやほとんど​無くなってきている。そのため、早い話が、国民の中に「エリート」を畏怖する​思いが薄らいできている、あるいはほとんど皆無である。しかし、そういう状態では、政治というものは成り立たない。なぜなら、政治とは「上に立つ人」(と称する人たち)が、それ以外の人たちを「支配する」ことであるゆえに。そのため、何とかして、無理やりにでも、その「差」を作り出そうと、旧来の政治体質を受け継ぐ官僚たちが躍起に​なってきたに違いないのです。

​とくに利用されてきたのはテレビでしょう。象徴的なのは約10年前から始まった「平成教育委員会」(フジテレ​ビ)。出演者についてやたら「あなたは何々大学卒業だから」、「あなた​は優秀な経歴の人だから」といった口上を繰り返すことで、その大学​の卒業生、その経歴の人は「スゴイ」という価値観を国民​に植えつける。おそらくその何々大学からは相当な額の広告料がテレビ局側に支払われてきたに違いないわけですが、大学側もテレビの圧倒的な影響力を利用する。そして、それ​らの大学を卒業した政治家や官僚の「スゴサ」をアピール​し、それ以外の人々との「大差」があるかのように演出する​、といった次第です。

でも、出演者たちが答えてるのって、(すみません、「たかが」と言わせていただきますが)「​クイズ」なんですけどね。クイズができる人がスゴイ人、な​んですかね。私にはよく分かりません。

そして、そのようにして、実はあまりスゴクない人たちが「おれたちはスゴ​イんだ、スゴイんだ」を言いたいがために、「スゴイ学校」や「スゴイ経歴」を無理やり創出したうえで、そのルートを通り抜けてきた人たちを特別扱いし、政治空間をまるでその人たちの秘密クラブのようなものとする。そのようにして政治空間をできるだけブラックボ​ックス化し、アンタッチャブルなものにし、あたかも恐怖の対象であるかのように演出する。

という既定路線にそったやり方を、これからも半永久的に続けて行けると思​っていたら、今年3月11日が訪れた。

爾来、それまでの無理やりなブラックボック​ス化によって不可視化されていた政治空間が、外側からでも次第に見​えるようになってきた。その可視化の流れをユーチューブやフェイスブックやツイッターやユーストリームなどが後押しした。彼らが「隠し通せる」と思い込んできたことが、もはや隠しきれなくなった。

「なんだよ、あの連中、ウソばっかりだ​し、恫喝しか能がない人たちの集まりだし、逃げ口上だけは人一倍上手だが、人の弱さや悲しみに対する深い配慮や想像力、あるいは普遍的な良心に裏打ちされているような真の知性や教養が無い」という​ことが、一部の有識者だけではなく、国民の多くの知りうる​ところとなってきた、というのが、2011年7月16日現​在の日本国内の精神状況ではないでしょうか。

2011年7月15日金曜日

次善(セカンド・ベスト)としての「教会の政治的態度決定」を要望いたします

今週の私はいつになく、自分自身が実際に所属していた教団と、その中で実際に味わった過去の経験と、そして私の記憶の中でいまでも元気に生き続けている何人かの重要な登場人物とに対して、きわめて否定的ないし攻撃的なスタンスに立っているということを否定しないでおきます。

あれだけのことを書いた上で今さら白を切るつもりはありません。もし必要あれば、自分が書いたことについてはどのような責任でもとらせていただきます。

しかし、今週書いたこと(特に火曜日に書いた「1983年のアナーキスト」)は、いまだかつて一度もきちんとした形で文章にしたことがないことばかりでしたし、また、このことはもう二度と書かないつもりです。あとにも先にも、こういうのは私の人生の中で一回かぎりです。

そして、語弊なるものをやや恐れつつ言わせていただけば、私は日本基督教団の人々を今でも心から愛しています。いまだかつて日本基督教団の人々を憎んだことなどない。「日本基督教団というシステム」はとことん駄目だと私は思いましたが(「私は」ね)、中身(住人ですね)は実に素晴らしかった。

私が日本基督教団の人々を今でも愛していることは、現実の私を知っているすべての人が証言してくれるはずです。考えてみれば(考えてみなくても)、こんなの当たり前のことですよね。同じキリスト者であることは間違いないですから。

そして、上に書いた「日本基督教団というシステム」に対する失望の件も、私には(「私には」です)耐えることができませんでしたが、その思いを日本基督教団の方々自身に押しつけるつもりなどは全くありません。「耐えられなかった」のは、私の弱さゆえであって、日本基督教団の皆さんのせいではない。何でもかんでも他人のせいにするほど落ちぶれてはいないつもりです。

そして、「日本基督教団というシステム」には最大の長所があるということも分かっているつもりです。それは要するに「スケールメリット」でしょう。これはまた語弊を恐れながら書かなくてはならないことですが、私がいま書いていることの趣旨は、日本におけるキリスト教の他の教団・教派と比較してみたときに、ヒトとカネの力において最もスケールが大きいのが日本基督教団でしょうということです。

そしてそのことは、まさに今の状況の中でこそ、期待すべきことですよね。「日本基督教団というシステム」が実際に持っているそのスケールメリットを、世のため・人のため、そして被災地の復旧・復興のために惜しみなくふんだ​んに用いていただくのでなければ、これからの日本の中でキリスト教について語ることは、​本当にもう、どうしようもないほど恥ずかしいことになってしまうでしょう。

も​ちろん小規模の教派もがんばりますよ、ていうか、もうすでに必死で全力でがんば​ってますよ。でも、まるで「スケール」が違いますからね、日本基督教団は、他と比べて。皮肉とか嫌味とかじゃなくて、事実として「日本最​大のプロテスタント教団」なのですからね。

私が日本基督教団に対してこの面での期待をもっていることには、ここに繰り返し書いてきたことが当然関わっています。それは「日本にはオランダやドイツには存在する『キリスト教民主党』(Christian Democratic Party)というものが存在しない」ということです。

キリスト者である政治家が日本には全く存在しないわけではなく、実はけっこうたくさんいるのです。しかし、その人々の「信仰に基づく決断」を一政党としてのアクションという仕方で現実政治の場において生かすことができるようなシステムが、今の日本にはまだ存在しません。いま書いたことはだれもが知っている事実です。

しかし、私が言いたいことは、ここから先のことです。

実際問題としても、神学の問題としても、我々は「教会は政治にかかわるべきではない」というような屁理屈をいつまで通せると思っているのでしょうか。その屁理屈はちょうど、もし日本にキリスト教主義の保育園や幼稚園や学校や社会福祉施設が存在しなかったとしたら、日本の教会は日本の子どもたちの教育や社会福祉にはかかわらなくてもよい、と言っているのと同じような理屈です。

もしキリスト教主義の学校が存在しないなら、教会が子どもたちをキリスト教主義で教育するしかないでしょう。それと同じように、もし我々の国にキリスト教政党が無いのであれば、教会が政治に取り組むしかないでしょう。

私自身の考えでは、日本にヨーロッパ型の「キリスト教民主党」が誕生することが最善の選択肢です。しかし、それは今の様子では百年先でも二百年先でも不可能です。現時点では悪い妄想にすぎません。

だからこそ、《現時点では》「教会が」政治と社会問題に対して徹底的に取り組まなければならないのです。それは「最善」(ベスト)ではないかもしれませんが、「次善」(セカンド・ベスト)ではあるのです。

そして、教会が政治に取り組むこと、つまり、(20世紀のオランダのバルト主義者が実際に用いた表現を借りていえば)「教会の政治的態度決定」(Politieke stellingsname van de kerk)において不可欠な要件は、政治に取り組むその教団・教派・教会の「スケールメリット」が確保されていることです。規模の小さな教団・教派からは逆立ちしても出てこないほど多くのヒトとカネの力が、教会が政治に取り組むためには必要なのです。

こういう話をするとすぐに「教会よ、お前もか」と罵倒される。「結局は金まみれ、利権まみれか」と軽蔑されるのかもしれない。しかし、被災地の復旧・復興という課題を前にすると、今の日本の教会がいかに乏しく惨めであるかを、否が応でも見せつけられる。人もいない、お金もない。これで何ができるのか。

私にとっては、その言葉を聞いたほとんど最初の日から全く不思議でならなかったのです、「教会は伝道すべきである。しかし、政治にかかわるべきでない」とは何のことなのだろうか、ということが。

「教会は伝道すべきである」とは、信者の人数を増やすべきであるという意味であることは分かる。

「しかし、政治にかかわるべきでない」というのであれば、人数が増えた教会が政治的に無関心(ノンシャラン)であることを意味するわけだから、つまりそれは、完全なる現実逃避へと向かっていくように、という呼びかけではないだろうかと。

「日本最大のプロテスタント教団」の皆さまにおかれましては、東日本大震災以降のわが国においては、これまで以上にもっと真剣に、日本の政治に直接目を向けていただき、一つ一つの問題に全力で取り組んでいただくことを謹んで要望いたします。これこそが、そしてこれだけが元日本基督教団教師であった者としての唯一かつ最後のお願いです。

貴教団が「日本最大」であることのメリットは、どこをどう間違えてもまさか貴教団に所属している人たちの自己満足のためではないはずです。まして、それは「日本最大教団における最大教会」の人たちの(それ自体は意味不明な)優越感のためではありえないはずです。

日本にキリスト教政党ができるまでは、日本基督教団に「事実上のキリスト教政党のようなもの」としての役割を果たしていただく他はないのです。

私はいま、このことを一度言いました。生まれて初めて文字にしました。もう二度と言いません。これで終わりにします。