2009年10月14日水曜日

ファン・ルーラー研究会結成五周年記念メッセージ

関口 康 (ファン・ルーラー研究会代表、日本キリスト改革派山梨栄光教会牧師)



ファン・ルーラー研究会の皆様、こんにちは。本日は、ファン・ルーラー研究会結成5周年記念日です。これまで毎年この日には、世話人会を代表して、感謝のご挨拶を述べさせていただきました。本日も朝から、どのような言葉を書こうかと、あれこれ迷っておりましたが、午前中は長女の幼稚園の学芸会を参観に行ったり、午後もなんだかいろいろと忙しくしていた関係で、すっかり夜が更けてしまいました。しかし、これはクリスマス同様、年に一度の機会ですので、日付が変わらぬうちに書かなければ、意味が薄れるように思います。言葉が足らないことをあらかじめお断りしつつ、常日頃お世話になっております皆様に一言、心から感謝を申し上げたく存じます。



思い返せば昨年8月のこと、『伝道と文化の神学』と題する一冊の訳書の出現で、わたしたちファン・ルーラー研究会は、ちょっと焦りました。それは、わたしたち自身の訳書をできるだけ早く世に問いたい、と強く願わされる発奮の機会となりました。その意味で、今や「ファン・リューラー」の出版社である教文館様と訳者の長山道先生に、この場をお借りして、心からなる感謝を申し上げたいと思います。



わたしたち自身を省みますと、「今年こそ、今年こそ」と口にしては、なかなか実現しない出版活動ですが、拙速な作品をひねり出すよりも、じっくり熟成した作品を送り出したいとの一念で取り組んでおります。



言い訳が多いと見苦しいばかりですが、翻訳に時間がかかっていることには、いくつかの理由があります。



その理由のうち大きな一つは、これです。 ファン・ルーラーの書物を読めば読むほど、明らかに意図的な “アフォリズム”(短く言い切る文章表現)が多用されているファン・ルーラーの文章は、たくさんの訳注をつけるか、もしくは、大幅な拡張や敷衍を施して意訳するかでもしないと、日本語として全く理解不可能な訳文とならざるをえないことが、分かってきたのです。



また、とくに、ファン・ルーラーが活躍した当時の「オランダ改革派教会」(Nederlandse Hervormde Kerk)の状況が明らかにならないかぎり、彼の言葉の真意を把握することは不可能である、ということが、分かってきたのです。頭を抱えることの多い日々を、過ごしています。



しかし、今ここで、皆様の前で、お約束したいことがあります。それは、わたしたちが今後もし「ファン・ルーラー研究会編訳」の書物を出版することができたときには、その書物は、以下のような特色を持っているであろう、ということです。



(1)原文に忠実な翻訳。



(2)一般の日本人に理解できる文章。



(3)夜、ベッドの上で安心して開くことができ、それによって明日の仕事に就く勇気と喜びが与えられる書物。



こういうものを、わたしたちは、目指しています。この三つの特色は互いに衝突しあうものである、と痛感しております。



わたしたちは、いわゆるプロの翻訳家集団ではありません。本業の合間に時間を創り出しては、翻訳作業に取り組んでおりますが、それなりの「産みの苦しみ」を味わっています。



どうか引き続き、温かいご理解とご協力をお願いいたします。皆様のお祈りだけが、わたしたちの支えです。今後ともお世話になります。



(2004年2月20日)



ファン・ルーラー研究会結成四周年記念メッセージ

関口 康 (ファン・ルーラー研究会代表、日本キリスト改革派山梨栄光教会牧師)



ファン・ルーラー研究会の皆さま、こんにちは。本日(2月20日)は、「ファン・ルーラー研究会」結成四周年記念日です。 この良き機会に、代表を仰せつかっている者から一言、日ごろのお礼と四周年を迎えることができた喜びを申し上げたく存じます。



今から四年前の1999年2月20日、「ファン・ルーラー研究会」は、インターネット上のメーリングリストとして結成されました。当時の世界は、マイクロソフト社肝いりの「ウィンドウズ98」の流行に伴い、インターネットの利用者が爆発的に増えようとしていた時期でもありました。パソコンソフト自体もそれ以前のような専門的技能を持った人々だけしか扱えないものではなく、小人から高齢者まで幅広い層の人々にも利用できるパソコンへと生まれ変わろうとしていました。



その頃はまた、キリスト教界でもインターネット利用の是非が盛んに議論されていました。同志社大学神学部ホームページをはじめ、神学関係の情報も、わずかずつではありましたが、インターネットを通して、広く提供されはじめていました。しかし、他方、当時世間を騒がせていた怪しい宗教団体や犯罪に走る少年たちも、みんなインターネットを利用していたことから、こういう(アングラな?)世界そのものが汚らわしい、まして、聖なる教会がインターネットなどという怪しげな道具を利用する、という考えそのものが如何わしい、と感じていた人々も少なくなかったと思います。



しかし、当時、わたしたちは、「こんな便利な文明の利器を、神学の学びのために使わない手は無い」と単純に考えました。そして、とくにそのとき思いついたことが、神学の学びには不可欠である、「翻訳」という作業でした。



ぶっちゃけた話、わたしたちは、その当時から、日本のキリスト教書店に並んでいる多くの「翻訳」に、いろんな意味での疑問や不満を感じていました。翻訳者が心がけるべき最も重要なことは、言うまでもなく、原著者の意図をできるだけ正確に理解し、他言語の思想体系の中で生きている人々の心の中で深く把握でき、納得できる言葉に置き換える作業でしょう。訳者だけに理解できる言葉、訳者自身も理解できない言葉は、端的に言って「異言」です。しかし、そういう「翻訳」があまりにも多すぎる。原著者の名前に魅かれて買ったは良いが、読んでも理解不可能である。



それでも、神学生になり、牧師になった最初の頃は、「この文章を理解できないのは、わたしの頭が悪いからである」と殊勝なことを考えていました。しかし、こういう殊勝な考え方は根本的に誤っている、と思い始めるようになったきっかけは、(名前を挙げて申し訳ございませんが)神戸改革派神学校で牧田吉和先生と市川康則先生の教義学の講義を聴く機会を与えられたことです。



両先生は、少なくとも私にとって「理解可能な言葉」で語ってくださいました。わたしのような足りない頭の持ち主にも、深い納得と感動を与えていただける「日本語」を語ってくださいました。「分からない日本語」を分からないままで放置しておくようなことを決してなさらない方々と出会うことが許されたときに初めて、わたしは、現在のキリスト教書店に立ち並ぶ、多くの「翻訳」を理解できないのは、自分の頭の悪さだけの責任ではないのかもしれないと感じ、それまでわが身を捕らえてきた「呪縛」のようなものから解放されたような思いになりました。



それで、わたしは考えました。「翻訳」において本当に大切なことは「共同作業」ではないだろうか、と。単純に言って、個人よりも複数、少数よりも多数のほうが「翻訳」にはふさわしい、と。また、わたしは、良質の翻訳なしに日本の神学と教会の発展はありえない、と思いました。諸外国にむやみに依存する必要はないかもしれませんが、諸外国から学ばなければならないことは、まだまだたくさんあるはずです。それが事実であるとすれば、「共同翻訳作業」ということもまた、神と教会に仕えることを志す者たちにとっての、一つの大切な奉仕になりうるのではないか、と。



とはいえ、わたしは、(古い言い方ですが)「象牙の塔」の中で、一部の権威者の下で、少人数でなされる翻訳作業の重要さも理解しているつもりです。「翻訳」という重労働を徹底すれば、何かの本業の片手間にできる副業ではありえません。また、情報管理の観点から見て、専門的な知識と労苦を伴って生み出された作品が「流出」することは好ましくないということも理解できます。



しかし、他方、キリスト教書店で買ってきた本を開きながら、深く感じることがあるのです。



この本が出版される「前」に、一度で良いから、専門外の人々、あるいは教会外(キリスト教界外)の人々に読んでもらうべきではなかったのか。「異言」ではない「理解可能な日本語」であるかどうかを、客観的な目を持つ人々に判断してもらうべきではなかったのか。原著者は、この個所、あの個所で、非常に分かりやすく感動的な文章を書いているのに、訳者がそれを全く台無しにしてしまっている、ということに、どうして気づかないのか!



日本の神学研究者たちの中には、独特の「秘密主義」があるのではないか。「どうせ分かりっこないのだから」という投げやりな態度、マイノリティコンプレックスのような卑屈さ、「難しいことを教えてやってんだ」というような相手を見下げる態度、などなど。こういうことが、わたしの単なる「邪推」であることを、心から願うばかりです。



ともかく、わたし個人は、やや傲慢な理想と現状打破の闘志に燃えて、本研究会の結成メンバーの一人として名を連ねた責任を感じつつ、四年を経た今、現実の力不足と多忙さに押しつぶされつつ、いつも追い詰められたような気分で毎日を過ごしております。現実と理想の恐ろしいまでの乖離に苦しんでおります。



しかし、これは本当に幸いなことだなあ、と実感できるのは、この研究会に参加してくださっている皆様が、たとえ「無言」でも、応援してくださっていることが分かるときです。わたしはこの四年間ずっとメーリングリストの管理人を務めてきた者として感謝のうちにご報告できますことは、現在メーリングリストに登録されている82名のメールアドレスは、四年前の結成から、ほとんど誰もいなくなられないで、ずっと登録し続けてくださった方々のご好意の集積である、ということです。これは特筆すべきことであると思います。



また、多くの他のメーリングリストにおいて見られるような「荒れ」(他の登録者を故意に怒らせたり、傷つけたりするような投稿をめぐって対立・乱戦が起こることの総称)も、これまでに一度も起こったことがありませんでした。管理人であるわたしが、最も過激で、陳腐で、意味不明で、間違いだらけの文章を書いているという自覚がありますのに、見捨てないで、付き合ってくださいました。



もちろんそれは、この研究会の趣旨がもっぱら「ファン・ルーラー研究」にあり、「ファン・ルーラー」という神学者への関心と敬意から来るものであるのだ、とわたしは信じております。わたしの書くような、どうでもよい部分については、どうか適当に読み流すなり、即刻削除してくださるなりして、今後とも本研究会を応援してくださいますなら幸甚に存じます。皆様に心から感謝いたします。



最後になりましたが、毎年、結成記念日である2月20日には同じようなことを書いてまいりましたが、今年もこの機会をお借りして、ふだんお礼を申し上げることの少ない世話人の方々に、謝辞を述べさせていただきます。



顧問として常にわたしたちの活動を、学的責任をもって見守ってくださっている牧田吉和先生(神戸改革派神学校校長)、また本研究会の結成当初から関わってくださっている書記の清弘剛生先生(日本キリスト教団大阪のぞみ教会牧師)、会計の石原知弘先生(日本キリスト改革派北神戸キリスト教会伝道者)、さらに朝岡勝先生(日本同盟キリスト教団徳丸町キリスト教会牧師)、栗田英昭先生(日本キリスト教会多摩ニュータウン永山教会牧師)、そして最後になりましたが、牧師たちの身内意識で固まりがちのところを、教会の長老として、学的権威をもって厳しく見守ってくださっている田上雅徳長老(日本キリスト改革派千城台教会長老、慶應義塾大学法学部助教授)に、特別な感謝をささげます。



また、(言葉の壁により)メーリングリストの参加者になっていただくことができませんが、常に応援してくださっているオランダ、南アフリカ、アメリカなどのファン・ルーラー研究者の皆様にも、この場をお借りして感謝を申し上げます。



いつもながら、たいへん長々しい文章となり、申し訳ございません。一年後に迎える五周年記念日のあたりで、そろそろ代表者を変えていただくほうがよいのではないかと感じていますので、その件も今後ご検討いただきたく願っております。今後ともよろしくお願いいたします。どなたもお元気でお過ごしくださいませ。



(2003年2月20日)



ファン・ルーラー研究会結成三周年記念メッセージ

関口 康 (ファン・ルーラー研究会代表、日本キリスト改革派山梨栄光教会牧師)



ファン・ルーラー研究会のみなさま、こんにちは。今日(2002年2月20日)は、「ファン・ルーラー研究会(メーリングリスト)結成3周年」の記念日です!



なんと、3年も続けてきてしまいました。現在登録者70名(海外からの登録社で日本語が読めないとの理由で配信停止中のメンバーを除く)。本当に素晴らしいことであると、われらの神に感謝しています。



いろいろ書き始めると、あれもこれも思い起こされ、長くなりそうなので、やめます。そこで、一言だけ。



「2周年」のときも書いたことですが、研究会の顧問を引き受けてくださっている牧田吉和先生(神戸改革派神学校校長)、ならびに世話人会のみなさまに日頃の感謝を申し上げることで、結成3周年に際し、研究会代表として述べるべきご挨拶と代えさせていただきます。



牧田先生、いつもご多忙中にもかかわらず、私たちの拙い訳文や議論を温かく見守ってくださり、ご指導いただき、本当にありがとうございます。私たちはこれからもファン・ルーラー研究を中心に、広くオランダ改革派の神学や教会への関心を深めて行くことを通して、研究の成果を日本におけるキリスト教伝道、ならびに教会形成・文化形成のために生かして行きたく願っております。今後ともご指導・ご鞭撻いただきたく、こころよりお願い申し上げます。



世話人会の清弘剛生先生(日本キリスト教団大阪のぞみ教会牧師)、田上雅徳先生(慶應義塾大学助教授)、朝岡勝先生(日本同盟キリスト教団徳丸町キリスト教会牧師)、石原知弘先生(神戸改革派神学校特別研究生)、いつもお世話になり、心強く思っております。ふだんはメールだけのお付き合いですが、今年夏に予定している第2回シンポジウム(日時・場所未定)でお目にかかれることを、楽しみにしています。また、ふだん「身内」と思い、ついぞんざいな扱いをしてしまうことを、どうぞお許しください。心の中ではたいへんご尊敬申し上げております。



加えて、現在着々とP. R. フリーズ先生の大著の翻訳を続けてくださっている栗田英昭先生(日本キリスト教会多摩ニュータウン永山教会牧師)、村上恵理也先生(日本キリスト教団松戸教会牧師)、弓矢健児先生(日本キリスト改革派新座志木教会牧師)にも、そのご労苦に対し、深く感謝いたします。先週も、フリーズ先生とメールの交換を行ったばかりですが、先生自身が、日本語版の翻訳出版計画をたいへん喜んでおられます。日本語版の出版社などは決まっていませんが、本書を何とか出版して世に問うことが、日本におけるファン・ルーラー研究の土台になるに違いないと、わたし自身は確信しております。



翻訳は孤独で悩み多い業ですが、かならず報われるときが来ます。さらに多くの翻訳者が備えられることを、心から期待しています。またわたし自身、もっともっと力を付けて行かなければならないと強く願っているところです。



みなさま、今後ともよろしくお願いいたします。それではまた。



(2002年2月20日)



ファン・ルーラー研究会結成二周年記念メッセージ

関口 康 (ファン・ルーラー研究会代表、日本キリスト改革派山梨栄光教会牧師) 



ファン・ルーラー研究会の皆様、こんにちは。本日は、本研究会の設立2周年の記念日です。これまで皆様にはたいへんお世話になり、また「試行錯誤」と称する誤訳・珍訳の連続に付き合っていただき、心から感謝しております。



思い返せば、2年前。東京神学大学で同級生であった清弘剛生先生(日本キリスト教団大阪のぞみ教会)と、関口の二人が、東神大時代の同級生の生原美典先生(日本キリスト教団松前教会)と土肥聡先生(日本キリスト教団室戸教会)の合計四名で、「ファン・ルーラーを原文で読む」ことのみを目的とする、硬派系のメーリングリストを立ち上げました。



サーバーは、最初はニフティサーブ(有料)、次にワンリスト(無料、英文広告付き)、そして今のEグループ(無料、和文広告付き)と、変更してきました。今のEグループは、無料は魅力ですが、広告はいまだに慣れません。



しかし、それからというもの、ひたすら勧誘に勧誘を重ねて、今ではなんと45名の登録者が与えられ、うれしいやら、恥かしいやら。教派の広がりとしても、日本キリスト教団、日本キリスト教会、日本長老教会、日本同盟キリスト教団、そして日本キリスト改革派教会、と広い範囲に及んでいます。また、日本キリスト教団内でも、「改革長老教会協議会」のメンバーや、「メソジスト系」や「バプテスト系」にアイデンティティを感じておられる方々など、さまざまです。ここでお一人お一人の名前を挙げませんけれど、どなたにも、本当に感謝しております。ウソではなく、一通一通メールを送信するたびに、メンバーのお一人お一人の顔を思い浮かべながら(顔を知らない方は、書かれた論文などを思い浮かべながら)、「こんなことを書くと、あの方は、どんなふうに受けとめるだろうか」、と想像力を働かせています。



しかし、ただお一人だけ、名前を挙げて感謝を申し上げたい方は、設立まもなくして参加してくださり、本研究会の「顧問」(アドバイザー)を喜んで引き受けてくださった神戸改革派神学校の牧田吉和校長です。牧田先生の参加により、本研究会の対外的信頼度がぐっとアップしたことは、得がたい恵みでした。また牧田先生は、昨年8月に行った「ファン・ルーラー研究会第1回世話人会」の会場としてご自宅を開放してくださり、奥様にはおいしいケーキなどいただき、本当にありがとうございました。



また、来日講演以来、日本の者たちと知己を得てくださったユトレヒト大学神学部のヘリット・イミンク教授の(もちろんメールによる)ご指導が得られたことも、ネイティブのオランダ語のニュアンスが全く分からない者たちにとって、大きな助けでした。おまけに、Eグループが国際系サーバーであることから、アメリカ最古の神学校、ニューブランズウィック神学校長でファン・ルーラー研究者であるポール・フリーズ教授が、われわれのグループの存在を見つけてくださり、先方からメールでコンタクトを求めてくださり、ご指導いただけることに!



また、オランダ在住アメリカ人のファン・ルーラー研究者ルーベン・アルヴァレイド氏とのコンタクトも生まれ、本研究会との連携のもとに、「英語版ファン・ルーラー研究会」を立ち上げてくださったり。こうして、なんだか、いつのまにか、本研究会が「国際組織」になってしまったことも、インターネットの威力を思い知らされる機会でした。



しかし、まだ、まだ、まだ、まだ(「まだ」がたくさん!)、ファン・ルーラーならびにオランダ改革派神学の研究は、日本では始まったばかり。頂上は遥か彼方、「登山口に着いた」と語ることさえおこがましい段階です。知ったかぶりなど、すればするほど、恥の上塗りです。



というわけで、私共としましては、オランダ語にはあいかわらず泣かされつつ、日々の忙しさのなかにあってもなお、石に噛り付いてでも、このMLの存続と研究会の活性化のために尽力してまいりたいと願っておりますので、今後ともお付き合いいただけるならば幸いです。



また最後になりましたが、 身内と思って、いつもはつい「ぞんざい」になってしまうのですが、このMLの共同管理人でもある世話人会スタッフの皆様に、心からなる感謝を申し上げます。



以上をもって、2周年のごあいさつと代えさせていただきます。それではまた。



(2001年2月20日)



ファン・ルーラー研究会結成一周年記念メッセージ

関口 康 (ファン・ルーラー研究会代表、日本キリスト改革派山梨栄光教会牧師)



みなさん、こんばんは。じつは本日、2000年2月20日は、ファン・ルーラー研究会メーリングリストの「1周年」の記念日です。この機会に、これまでのみなさまのご理解とご協力を心から感謝申し上げたいと思い、謹んでこのメールをお送りいたします。



もっとも、1年前の今日よりも少し前から、清弘剛生先生(日本キリスト教団大阪のぞみ教会牧師)とわたしの二人だけで、「ふたりファン・ルーラー研究会」を続けていました。 でも、だんだん面白くなってきて、この楽しみをたくさんの人たちと共有できたらいいね、というような話になって、思い切ってメーリングリストを始めることになりました。



「オランダ語」と「改革派神学」と「ファン・ルーラー」という、これまでの日本の中にほとんど蓄積のない領域の話で、正直よく「1年」も続けてこれたものだと自分で驚きます。



清弘先生は別格ですが、わたしのほうは本来「勉強嫌い」の人間であること、なかでも語学は大の苦手であること、とても飽きっぽい人間であること、実際いくつかのメーリングリストを、作っては眠らせ、作っては眠らせしてきた常習犯であることなど、考え合わせますと、とても信じがたいものがあります。



それもこれもすべては、参加の呼びかけに快く応じてくださった皆さまお一人お一人の応援のおかげ、そして、抜群の語学力と洞察力をお持ちの清弘先生のおかげであると、本当に心から感謝しています。



また、顧問を快く引き受けてくださった神戸改革派神学校の牧田吉和先生には、特別な感謝を申し上げます。 さらに、メーリングリストのメンバーではありませんが、わたしの幼稚な英文の質問にもかかわらず、非常に丁寧かつ懇切に、そして即座に(いずれも48時間以内)ご回答くださったユトレヒト大学神学部のヘリット・イミンク先生にも感謝したいと思います。 どうか、これからも温かいご理解とご協力をよろしくお願いいたします。



研究会発足1周年への祝辞、また活動内容についてのご意見やご要望など、どしどしお寄せいただけるとうれしいです。



(2000年2月20日)



2009年10月13日火曜日

とにかくこういう本を書きます

一向にまとまらない(片頭痛もちの)頭を抱えながら、紆余曲折の日々を過ごしています。「しかし人生は長くない」と思うゆえに、どんどん増えていく一方でなかなか仕上がっていかない多くの仕事や課題を横目に見ながら、焦りと危機感を募らせています。



神学に関することだけに絞って言えば、要するに『アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー』(仮題)という本を自分自身で書くことができるならば、それこそが最もはっきりした責任の取り方になるだろうと分かってはいます。過去10年間、そのことに特化した生活を送って来たようなものですから。



オランダ語版『ファン・ルーラー著作集』の全訳など、どう考えても(難しく考えなくても)一人の人間に可能なことではありません。五千ページを越えることが確実な状況です。それを正しい日本語にしていく仕事は多くの人が寄ってたかって取り組むことです。特定の個人がひたすら翻訳と研究に専念しうる(それだけで生計が成り立つ)きわめて特別かつ快適な「神学的環境」が日本のどこかにあるとでもいうならば話は別ですが、少なくとも私が生きているうちに(「21世紀前半までに」という意味で書いています)そのような環境が整備されることはありえないだろうと考えております。



もし仮に日本語版『ファン・ルーラー著作集』の実現のために私になしうることがあるとしても(そして私はそのための努力を惜しんだ日は過去10年間のうちの一日もないのですが)、それはその壮大なる事業全体の中のほんのわずかな一部分であるとしか表現しようがありません。



日曜日から昨日にかけて松戸小金原教会の一泊修養会がありました。また、私と一人の長老は修養会を途中で退席し、昨日行われたひたちなか伝道所の教会設立式のほうに行きました。13時から始まった教会設立式は15時頃まで行われました。早く帰宅しなければならない事情が生じましたので、式後の祝賀会は失礼させていただき、15時にはひたちなかを出発しました。



ところがその帰り道、常磐道の掲示板に「谷田部IC~流山IC 事故渋滞20キロ(120分)」と電光表示されているのを見て、げんなり。仕方なく谷田部ICで一般道に降りたのですが、連休の最終日だったからでしょう、下の道も大渋滞。結局、帰宅は19時となりました。



自動車の中で4時間も退屈な拘束に遭いましたので、ひまつぶしがてら、将来の自著『アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー』(仮題)の構想を練ってみました。それが下記の梗概(案)です。「広くて浅い」ファン・ルーラー紹介書です。これまでにメールだブログだで書き散らしてきたことを整理するのも一つの重要な目標ですので、目新しい内容はそれほどありません。



とにかくこういうのを書きます。これは自分との約束にします。タイムスケジュールとしてはオランダで刊行中の『ファン・ルーラー著作集』全八巻が出揃うのが予定では2013年ですので、それを参照するためにはどうしてもその後になってしまいます。目標は2015年、私が50歳になる年です。しかし、そんなには待っていただけない方々のために、ちょくちょく小出しにしていきます。本を書くとは忍の一字であるなと、つくづく思います。



そして、仕上がった段階で自費出版でもするか(そのときわが家に金銭的余裕がありうるとは思えませんが)、どこか引き受けてくださるところがあればお願いするかを考えることにします。



関口 康著『アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー』(仮題)の梗概(案)



上巻 第一部 生涯



下巻 第二部 神学



アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(下) 関口 康

第二部 神学



2.1. 神学の本質



2.1.0. 序
2.1.1.
2.1.2.
2.1.3.
2.1.4.
2.1.5.
2.1.6.
2.1.7.
2.1.8.
2.1.9. まとめ



2.2. 啓示、聖書



2.2.0. 序
2.2.1. 啓示(1)
2.2.2. 啓示(2)
2.2.3. 啓示(3)
2.2.4. 啓示(4)
2.2.5. 聖書(1)
2.2.6. 聖書(2)
2.2.7. 聖書(3)
2.2.8. 聖書(4)
2.2.9. まとめ



2.3. 神、創造、人間、罪



2.3.0. 序
2.3.1. 神(1)旧約聖書と新約聖書の神
2.3.2. 神(2)三位一体の神
2.3.3. 創造(1)存在の奇跡性
2.3.4. 創造(2)天国と天使
2.3.5. 人間 歴史の意味としての人間
2.3.6. 罪
2.3.7. 地上の生(1)人生の価値
2.3.8. 地上の生(2)人生の意味
2.3.9. まとめ



2.4. キリスト、聖霊、救済



2.4.1. 序
2.4.2. キリスト(1)
2.4.3. キリスト(2)
2.4.4. 聖霊(1)
2.4.5. 聖霊(2)
2.4.6. 聖霊(3)
2.4.7. 救済(1)
2.4.8. 救済(2)
2.4.9. まとめ



2.5. 教会、終末



2.5.1. 序
2.5.2. 教会(1)
2.5.3. 教会(2)
2.5.4. 教会(3)
2.5.5. 教会(4)
2.5.6. 終末(1)
2.5.7. 終末(2)
2.5.8. 終末(3)
2.5.9. まとめ



2.6. 文化、社会、政治、教育



2.6.1. 序
2.6.2. 文化(1)
2.6.3. 文化(2)
2.6.4. 社会(1)
2.6.5. 社会(2)
2.6.6. 政治(1)セオクラシーと寛容精神
2.6.7. 政治(2)
2.6.8. 教育
2.6.9. まとめ



アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(上) 第一部 生涯





アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(上) 関口 康

第一部 生涯



1.1. 幼少時代



1.1.0. 序
1.1.1. 出身地
1.1.2. 家族と家系
1.1.3. アペルドールン教会
1.1.4. 信仰告白教育
1.1.5. Th. L. ハイチェマ牧師
1.1.6. 職業学校からギムナジウムへの転校
1.1.7. ギムナジウムの同級生
1.1.8. 牧師への召命と大学受験
1.1.9. まとめ



1.2. 学生時代



1.2.0. 序
1.2.1. フローニンゲン大学神学部
1.2.2. Th. L. ハイチェマ教授
1.2.3. J. ホイジンガの影響?
1.2.4. リンデボームの影響?
1.2.5. 指導教授W. アールダース
1.2.6. 卒業論文『ヘーゲル、キルケゴール、トレルチの歴史哲学』
1.2.7. 学生会活動
1.2.8. 教会生活
1.2.9. まとめ



1.3. 牧師時代



1.3.0. 序
1.3.1. 結婚と家庭
1.3.2. クバート教会
1.3.3. ヒルファーサム教会
1.3.4. 説教と牧会
1.3.5. 文筆活動
1.3.6. 政治参加
1.3.7. ラジオ伝道
1.3.8. 神学博士号請求論文『律法の成就』
1.3.9. まとめ



1.4. 教授時代



1.4.0. 序
1.4.1. ユトレヒト大学神学部「オランダ改革派教会担当教授」
1.4.2. 前任者S. F. H. J. ベルケルバッハ・ファン・デア・スプレンケル教授
1.4.3. 旧約聖書神学
1.4.4. 教義学
1.4.5. 教会規程
1.4.6. その他の教科(キリスト教倫理、オランダ教会史、礼拝学など)
1.4.7. 大学教授の教会生活
1.4.8. 突然の死
1.4.9. まとめ



1.5. 対話と論争



1.5.0. 序
1.5.1. K. バルト
1.5.2. Th. L. ハイチェマ
1.5.3. O. ノールトマンス
1.5.4. K. H. ミスコッテ
1.5.5. H. ベルコフ
1.5.6. G. C. ベルカウワー
1.5.7. W. H. フェレーマ
1.5.8. J. モルトマン
1.5.9. まとめ



1.6. 継承時代



1.6.0. 序
1.6.1. カレンバッハ版『神学論文集』の刊行
1.6.2. オランダ
1.6.3. 南アフリカ
1.6.4. アメリカ
1.6.5. 日本、その他
1.6.6. ブーケンセントルム版『著作集』の刊行
1.6.7. 国際ファン・ルーラー学会
1.6.8. 今後の課題
1.6.9. まとめ



アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(下) 第二部 神学



2009年10月11日日曜日

アブラハムが生まれる前から


ヨハネによる福音書8・48~59

「ユダヤ人たちが、『あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか』と言い返すと、イエスはお答えになった。『わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光を求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。』ユダヤ人たちは言った。『あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。』イエスはお答えになった。『わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、「我々の神だ」と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じく私も偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。』ユダヤ人たちが、『あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、「わたしはある。」』すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」

今日の個所に記されていますのは、いささか野次馬的な言い方をお許しいただきますなら、わたしたちの救い主イエス・キリストとユダヤ人たちとの激闘の様子です。両者は激しく言い争っています。論争というよりは口論に近い。ただし、イエスさまはいたって冷静です。ボルテージが上がっているのはユダヤ人のほうです。彼らはついに石を手に取り、暴力に訴えようとしました。しかし、イエスさまは暴力に対して暴力で立ち向かうような方ではありませんので、その場を去って行かれました。

ユダヤ人たちがイエスさまに「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」と言っている意味については、先週ちょっとだけ触れました。それは、彼らが「わたしたちの父はアブラハムです」(8・39)と言い、また「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」(8・41)と言っていることに直接関係しています。これは彼らのいわゆる純血思想です。我々ユダヤ人はあの偉大なる信仰の父アブラハムの血を純粋に受け継いでいる民族なのであって、他の民族の血はいささかも混ざっていないのであるということを彼らは固く信じていました。そしてその点にこそ彼らの民族としての誇りを持っていました。そして彼らユダヤ人たちは、そのような純粋な我々と比べて、あのサマリア人たちは他の民族の血が混ざってしまっているという意味で純粋でない人々であるとも信じていました。サマリア人たちの血が不純であるということを指してユダヤ人たちは「姦淫」という言葉で表現したわけです。

ところが、彼らはこのときイエスさまがおっしゃったことに非常に腹を立てました。イエスさまがおっしゃったことは「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」(8・44)ということでした。これは、ユダヤ人たちがイエスさまのことを殺そうとしていることを指しておられる言葉です。

この言葉は、逆の方向から考えるとその意味が見えてくるものです。あなたがたは、今まさにこのわたしを殺そうとしている人殺しである。人を殺したいという思いは、神から与えられるものではなく、悪魔からのものである。ところが、あなたがたは、自分たちの父はアブラハムであると言い、アブラハムが信じた神御自身から生まれたものだと主張する。これはおかしい。まるで、あなたがたがこのわたしを殺そうとしているその思いは悪魔から与えられたものではなく、神とアブラハムから与えられたかのようだ。その理屈を突き詰めていけば、神とアブラハムを殺人犯に仕立て上げることになる。それは、あなたがたにとって都合のよい自己正当化の理屈にすぎない。イエスさまの思いを深く汲みとるとしたらこんな感じになるだろうと思われます。

しかし、彼らはイエスさまの言葉に耳を傾けようとしませんでした。それどころか、ますます腹を立てました。そして、悪いのはこのイエスという男のほうであって、我々は悪くないと考えました。この男を我々が殺すのは当然であり、この男が犯した罪に対する正当な裁きを行わなければならないと信じたのです。彼らが石を手にとって投げつけようとしたのは、怒りに任せて衝動的にそうしようとしたのではありません。これが当時の法律に定められた死刑の方法だったから、そうしたのです。

彼らがイエスさまに見出した罪の具体的な内容は、冒瀆罪でした。このイエスという男は神を冒瀆している。そのように彼らは確信するに至りました。彼らの確信の根拠となったイエスさまの言葉が、この個所に二つあります。第一は「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(8・51)です。第二は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(8・58)でした。「わたしはある」とはモーセの前で示された神のお名前である(出エジプト記3・14)ということは、既に説明しましたとおりです。

先に申し上げておきたいのはこのイエスさまの御言葉の真の意図です。まことの救い主であられるイエス・キリストのお語りになる御言葉を守る人は、死ぬことがない。アブラハムが生まれる前からイエス・キリストは「わたしはある」という方である。この御言葉の意味は、ただ単なる生物学的な不老長寿の話ではないということをわたしたちは知っています。「イエスさまの年齢は二千歳でした」というような話はただのオカルトです。イエスさま御自身はそのような意味でおっしゃっているわけではないのです。

ここから先、深刻な話だからこそ冗談めかした言い方をするのをお許しください。皆さんとふだんお話ししているときにしょっちゅう出る話は「わたしはあまり長生きしたくない」ということです。自由に動けなくなり、また自由に考えたり喋ったりできなくなることに多くの方々が恐れさえ抱いています。私はそのようなお話を伺うたびに「まあまあ、そんなこと言わないで長生きしてくださいな」と内心では思っているのですが、しかしまた、全く理解できないと感じているわけでもありません。

このことで私が申し上げたいことは、そのような生物学的な意味(というよりはオカルト的な意味)で考えられる「不老長寿」が仮に実現したからといって、それによって我々が幸せになるのだろうかという真剣な問いかけです。そんなことはないと多くの人々が考えています。長寿の方々を不愉快な思いにさせる意図はありません。しかし、です。人生の時間が長ければ長いほどよいと思っている人は多くありません。そこに何か別の要素が加わらないかぎり、時間が長いだけでは幸せにならないと思っています。

それでは「別の要素」とは何でしょうか。そのことを、わたしたちは知っています。それは、神の愛と憐みと赦しの力によってわたしたち人間が罪の中から救い出されるという要素です。神を知らず、救いを知らず、罪の状態のままで過ごす人生には牢獄の中にいるのに近いものがあるとさえ感じます。そのような人生なら一刻も早く終わりにしたいと願わざるをえないと言いたくなることさえあります。しかし、そのようなときにこそ、わたしたちはイエスさまの御言葉を思い起こすことができるのです。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」。

この場合の「決して死ぬことがない」の意味は、神と共に永遠に生きる者となるということです。罪によって破壊された神との関係が修復され、神と人間との間の関係が正常化するのです。対立関係にあった神と人間との関係が永遠の和解に至るのです。永遠に生きておられる神と共に永遠に生きる者となるのです。これこそがこの御言葉の真の意味です。「わたしの言葉を守るなら」、すなわち、神の御子なるイエス・キリストの御言葉を通して父なる神の御心を知り、それに従う人生を始めるならば、「その人は決して死ぬことがない」、すなわち、神との関係が永遠に修復されて和解に至り、神を喜ぶ人生を永遠に続けることができるのです。

しかし、このような次元の話を、そこにいたユダヤ人たちは全く理解できなかったし、理解しようとしなかったのです。彼らは言いました。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。」アブラハムは死んだし、預言者は死んだではないか。あの偉大な人々も死んだのに、お前は、自分の言葉を守るなら、その人は決して死なないと主張する。お前は何様なのか。我々の父アブラハムよりも偉いとでも言いたいのか、ふざけるなと言っているのです。

これで分かることは、ユダヤ人たちが「永遠の命」ということをどのようにとらえていたかです。それは、先ほど申し上げたとおりのただ単なる「不老長寿」です。しかも、それは、彼らにとっては「ありえないこと」としてだけ考えられています。つまり彼らは「永遠の命」と「不老長寿」を同じものと考えたうえで、そういうことはありえないと思っていたわけですから、要するに彼らは「永遠の命」など全く信じていなかったのと同じであるということが分かります。たとえそのようなことが聖書に書いてあろうとも、宗教家たちが何度説教しようとも、彼らはそれを信じていなかったのです。ただの絵空事のように思っていたのです。

繰り返しになりますが、イエスさまがお語りになる場合の「永遠の命」の意味は不老長寿ではありません。ただし、その一方で我々が誤解すべきでないと思いますことは、それでは「永遠の命」とは何なのかと考えたときに、この世から離れた「あの世」、あるいは物質世界から隔絶された精神世界で、ふわふわとした霊のような状態になっていつまでも生き続けることであるというようなイメージを抱くことも間違いであるということです。しかし、この問題に立ち入る時間が今日はもうありません。イエスさまがおっしゃっていることの核心は、「神との関係」というこの一点にあるとだけ申し上げておきます。神との関係が永遠に続くこと、それこそが「永遠の命」の内容です。

イエスさまが「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」とおっしゃったのも同じことです。神の御子は、父なる神と共に永遠に生きておられる方であるゆえに、「アブラハムが生まれる前から」父なる神のもとにおられた方なのです。つまり、イエスさまがおっしゃっていることは、わたしは神であるということなのです。

このことはもちろん信仰の問題です。イエスさまを「わたしはある」と称する方として、すなわち、真の神として、神の御子として、御子なる神として信じることがわたしたちに求められているのです。

(2009年10月11日、松戸小金原教会主日礼拝)

「今週の説教メールマガジン 第200号感謝号」記念巻頭言

高瀬一夫 (日本キリスト改革派千城台教会牧師)



関口先生、そして松戸小金原教会の皆様、「今週の説教メールマガジン第200号」、おめでとうございます。



説教は語る者より、聞く者の聞き方のほうが大きな力となります。聞いてくださる方があって語る者は励みにもなり、支えられている感謝で毎週語ることが許されているのです。説教者は、説教を聴いてくださるお一人お一人のお顔を思い浮かべながら、みことばに聞き、用意をします。



ほとんどの牧師はその説教を公表していません。語り終えるとそれで全てが終わります。私も説教を文書化することをしておりません。しないのではなく、出来ないのです。真剣に学び、教えられ、また神様が語れと命じておられることを文書化しなければならないと、いつも思っています。しかし、なかなか出来ないでおります。私の知人・友人の方々は、語るだけでなく、それを文書化し、さらに多くの人々に公表すべきであると言われます。でも、できない自分を恥ずかしく思っています。



ところが、関口先生は教会内で公表なさるだけではなく、ホームページやブログで広く公表されておられます。このお働きはとても勇気のいることであり、また大変な努力を必要とする仕事です。毎週毎週欠かさずに説教を公表するということは至難の業であります。私は「文章を書くことは恥をかくこと」といわれたことがあります。確かに、文字にしてしまいますと、語った説教と違うイメージが勝手に読む人々によって抱かれ、誤解され、批判されることがあります。それでもなお書き続けられることを200回も続けられたことに敬服いたしております。



このお働きは常人には出来ないことです。強靭な意志と、人並みはずれた努力と、そして神様がその業を励ましてくださり、健康を祝福してくださることによって実現したと思っています。



関口先生はとても多忙なお方です。教会の牧師としてだけでなく、お子様たちの通っておられる学校のPTAのお働き、地域の方々と共に「九条の会」などにも積極的にかかわっておられます。また中会内の働きにも重責を担っておられます。そして何よりもファン・ルーラー研究者・翻訳者としての働きや、カルヴァン学会などの働きをしておられます。



時々、先生からメールをいただくことがあるのですが、夜中の2時、3時に発信しておられることがあります。いつ寝ておられるのだろうと思っています。こんなに忙しい先生なのに説教を毎週欠かさず公表されておられることは真に驚異的です。この「今週の説教 メールマガジン200号」は、先生の血のにじむような忍耐と努力の結晶であると思っています。



私は書斎で疲れたとき昼寝をしますが、以前、先生の説教を子守唄にしてきながら寝ていました。そのことを先生にお伝えしたのが今回のお祝いの言葉を書くように依頼された理由でしょうか。真に失礼とは思いますが、そんな不真面目な聞き方でも「聞いてくださることがありがたい」とおっしゃる先生の心の広さを感心しています。



先生の説教にはところどころ先生と親しく交わっているものにだけに分かる先生の癖がはっきりと現れています。それを感じるものとして説教を聞かせていただいておりますと、本当に楽しくなります。



そして先生の説教は、先生でなければ語れない大胆さ、福音の力強さ、説得力の豊かさを感じます。この様に先生を用いていてくださる神様の御名を心からほめたたえたいと思っています。



200号は単なる通過点です。300号500号1000号をと先生なら出来ると思います。がんばってください。先生の健康のため祈ります。そして先生を支えておられる松戸小金原教会の信徒のお一人お一人の上に神様の祝福がたくさんありますように祈ります。



最後にこのメールマガジンをいつも読んでおられる方々に心から感謝いたします。暖かいお励まし、お祈りが背後にありますこと、感謝です。今後も先生のこのお働きのためぜひお祈りをお願いいたします。



心からのお祝いの気持ちを文章にしました。本当におめでとうございました。そしてこれからもがんばってください。先生のために祈ります。御名をほめたたえつつ。
 
(2008年2月7日 記す)