2009年9月6日日曜日

はじめのことば

「『キリスト教民主党』研究」「はじめのことば」を書きました。



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はじめのことば



関口 康



日本国内で「キリスト教民主党」(Christian Democratic Party)を云々することがどれほど困難で危険を伴うことであり、また、どれほど虚しさや惨めさが漂う取り組みであるかは、よく分かっているつもりです。



そして、そのようなものがわが国に生まれる可能性というような次元に至っては、どれほど早くても半世紀ないし一世紀以上先のことであるという点も明言しておかねばならないほどです。



しかし、国際社会に目を転じてみますと、「キリスト教民主党」を名乗る政党が世界80数か国に存在し、力強い活動を続けていることが分かります(「世界のキリスト教民主党一覧」参照)。なかでもオランダとドイツの「キリスト教民主党」は、現在の政権与党を担当していることで特に有名です。



これで分かることは、「キリスト教民主党」という具体的な形式をもってのキリスト者の政治参加(Christian Political Engagement)は、理論上の空想にすぎないものではなく、世界史の過去と現在において多くの実践事例があるということ、平たく言えば、成功と失敗の歴史があるということです。



そして私がしきりに考えさせられていることは、日本におけるキリスト者の社会的発言と実践の目標は何なのかということです。どうしたらこの国の政治の場に、わたしたちキリスト者の声が、歪められることなく正しく届くのでしょうか。



「教会は政治問題を扱う場ではない」と語られることが多くなった昨今、それではキリスト者は、いつ、どこで、どのようにして政治に参加すべきでしょうか。



それとも、そもそも「キリスト者としての政治参加」(Political Engaging as a Christian)ということ自体がもはや無理なことであり、今日においては時代遅れであると言われなければならないのでしょうか。我々が「キリスト者として」立ちうるのはもっぱら教会の内部だけであり、せいぜい日曜日の朝の一時間だけである。社会と政治の場においては、中立者のふりでもして、自分の信仰を押し隠して立つというような、世事に長けた使い分けをするほうがよいでしょうか。あるいは、「素人どもは黙って手をこまねいていなさい。どうせ歯が立ちっこないのだから」というご丁寧なアドバイスに聞き従うべきでしょうか。



あなたに謹んでお尋ねしたいのは、このあたりのことです。



「キリスト教民主党」について誰かが、ただ《研究》するだけで、わが国にもそのような政党が即座に誕生するというようなことがたとえ奇跡としてでも起こりうるのであれば、誰も苦労しません。私自身はそのようなことは夢想だにしておりませんので、どうかご安心ください。



しかし、《研究》そのものは、誰にでも、そして今すぐにでも始めることができます。とにかく誰かが研究し続けているということが重要です。同じテーマについての先行の研究者たちを批判する意図などは皆無です。どのような協力でもさせていただきますので、お気軽にご連絡いただけますとうれしいです。



なお、このサイトはこのたび全く新規に開設したものというわけではなく、「ファン・ルーラー研究会」や「信仰と実践」(廃止)という名前のサイトで公開してきた政治ジャンルの情報提供サイトを引き継ぐものです。また、「キリスト教民主党」「改革派教義学」は姉妹関係にあります。両者の歴史的かつ思想的な相互関係はそのうち明らかにしていきます。古くからお付き合いいただいている方々には、これからもお世話になりたく願っております。



2009年9月5日土曜日

「キリスト教民主党」研究(4)

たった今、私のブログにコメントが付きました。いわく、「キリスト教を使った侵略者は国外退去」だそうです。そのコメントは、即刻削除しました。



この種の誤解や馬鹿らしい中傷誹謗に、いちいち答えていくことはできません。それをやりはじめると、この国のほとんど1億人ほどの人々を相手にしなくてはならなくなり、その状態が少なくともあと百年は続くでしょう。その苦痛たるやローマのコロシアムでライオンの前に立たされた初代のキリスト者たちと同じか、それ以上でしょう。それに耐えられる人間は、たぶんいません。



インターネット上の中傷誹謗には、人をとことん追いつめるものがあります。日本ではキリスト者として社会的発言をするだけで、なんと「キリスト教を使った侵略者」扱いですから。やれやれです。



「キリスト教民主党」研究(3)

政治の話題をもう一つ。



ちょうどぴったり一年前の今日のことだったと今気づいたのですが、2008年9月4日(木)に「『46週間内閣』の謎」という一文を、このブログに書きました。「安倍内閣メールマガジン」と「福田内閣メールマガジン」がいずれもキッカリ「第46号」をもって終了したことに奇妙な一致を感じ、思わず書いてしまったものです。



もっとも、一年前に私が書いた内容は、半分以上ジョークでしたが、カルト団体がしばしば用いる「謀略説」の一種でしたので(「UFOはナチスの残党が作ったものである」とか「世界のすべてはユダヤ金脈によって牛耳られている」といったたぐいの言説)、「実に恥ずかしいことを書いたものだ」と苦にしながら、「ま、いいか」と放置したままでした。



ところが、です。昨日届いた「麻生内閣メールマガジン」の最終号がなんと「第44号」でした。きっかり46週間というわけではありませんでしたが、わずか二週間違い。ここまで来ると、謀略説、俄然有利です。「フィクサーは誰か。出てこい悪党!」と言いたくなります。



しかし、しかし。謀略説はお詫びして取り下げたいと思います。一年前に「フィクサー」(って・・・)を疑った人物は、違っていたようですから。



今回の選挙に大きな意味を感じた一つは、「公明党」の大敗ならびに与党からの転落、そして「幸福なんとか党」に一議席も与えなかったことです。



私自身は「宗教多元主義」という呼び名で知られる有名な立場、すなわち「あの富士山も、静岡県側から登ろうと、山梨県側から登ろうと、頂上では皆同じである。宗教も、どれを選択しようと、何も信じなかろうと、結果は同じである」とする立場に賛成することができません。正しい宗教的理念に立って政治的に行動する人々がいることを応援する気持ちさえあります。そのため、宗教政党ないし“教会政党”としての「キリスト教政党」の存在を否定することができません。もし日本に「キリスト教政党」が誕生した日には心から喜んで支持したいと思っています。



しかし、そのことと「政治のカルト化」は全く別のことです。わが国の多くの人々に願うことは、「カルト」と「宗教」をどうかきちんと区別していただきたいということです。この区別をなかなかしていただけないことが「キリスト教政党」について真面目に議論することを困難にしている大きな理由にもなっています。



最近は、中学生くらいになっても「神社」と「寺」の違いも知らないという子どもたちが増えているようです。「牧師」と「神父」の違いなど知る由もないといった具合です。だからこそカルトの出る幕があると言えるのか(我々としてはますます警戒心を強めなければならないのか)、それともカルト自身も行き悩んでいるのか(少しは安心してよいのか)は、まだよく分かりません。



2009年9月4日金曜日

「キリスト教民主党」研究(2)

一昨日の「『キリスト教民主党』研究」という文章に、もう少しだけ付言しておきます。



たった今知ったことなのですが、今月18日にバルト神学受容史研究会というグループの編集による『日本におけるカール・バルト 敗戦までの受容史の諸断面』(新教出版社、2009年)という本が発売されるようです。素晴らしいことだと、感動しました。これはぜひ買われ、読まれるべき書物です。まだ手に取って見たわけではありませんが、今からお勧めしたいと思います。



バルト神学受容史研究会編
『日本におけるカール・バルト 敗戦までの受容史の諸断面』(新教出版社、2009年)
http://www.shinkyo-pb.com/post-1031.php



一昨日書いたことも、まさにこの「日本におけるバルト神学受容の歴史」という問題にストレートにかかわることなのです。これは逆説であり皮肉でもあるのですが、「20世紀最大の神学者」にして「反ナチ教会闘争の理論的指導者」とまで言われた「社会派キリスト者のスター」であるカール・バルトがその神学思想によって現代のキリスト教会に残した結果は、「教会の政治的無効化ないし無能化」でした。今や「教会の預言者的な叫び声」など誰の耳にも届かないし、関心ももたれません。



もちろん「キリスト教だの教会だの牧師だのというようなものには、どうか引っこんでいてもらいたい。あのような連中は放っておくと面倒なことになるので、何とかして政治的・社会的に無効化ないし無能化しておかなければならない」とでも願っている方々はバルト神学をどうぞいつまでも信奉し続けてください。あるいは「現時点でそういう結果になっていることの責任はバルト自身には無く、もろもろのバルト主義者たちが悪かったのだ」とでも言って、どうぞあなたの尊敬する教父をかばい続けてください。しかし、私はそういうあなたに全くついて行くことができません。



この問題の重要性の大きさたるや、もしこれを無視するならば、すなわち、この問題が含む重大な問いかけに我々自身が真剣に取り組むことなく、未来を切り開くべく努力することも怠るならば、日本の神学の寿命はあと二十年ももたないのではないかと思うほどです。



そして「神学の死」は「教会の霊的生命の死」を意味します。教会の立派な建物は残るでしょうし、何らかの集会も残るでしょう。「いっそ神学(シンガク)などという質草にならないものには死んでもらったほうが、集会の人数が増えてくれてよいのだが」という正直で真っ当な意見があることも知っています。しかしだからといって譲るつもりはありません。「神学の死」は「教会の死」です。「神学を殺すこと」は「教会を殺すこと」です。神学なき説教、あるいは「神学が杜撰(ずさん)な教会」に苦しめられた過去の日々には、もう戻りたくありません。



しかし、同時に言わなければならないことは、現在の我々がまさに真剣に取り組むべき課題は、疑いなく日本のキリスト教界に最も大きな影響を与えてきたカール・バルトの神学の問題点を鋭く見抜いた上で、「バルト神学」そのものと「日本におけるバルト受容史」とを徹底的かつ全面的に「歴史化」すること、すなわち「過去のものとすること」です。



それはちょうど、前世紀の初頭のバルトが19世紀の神学的巨頭シュライアマッハー(Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher [1768-1834])を「過去のものとした」のと同じことです。今度はバルト自身が、そして彼の神学そのものが「過去のものとされる」番です。



「バルトなどとっくの昔に『過去のもの』になっているではないか。何を今さら」と言われるかもしれませんが本当にそうでしょうか。「カール・バルトという妖怪」が、いつまでも日本の教会に徘徊し続けているのではないでしょうか。あの「神学者」が、あの牧師が、あの教会が、大きな力を持ち続けているかぎり、そう判断せざるをえません。



2009年9月3日木曜日

信仰の道を共に歩もう

ブログを使い始めた頃はこれを「伝道」のために用いるつもりなどは全く無かったのですが、結局私の関心は「伝道」へと向かっていくようだということを改めて自覚させられます。



信仰の人生とはどうしてこれほどまでに楽しく愉快なものなのかと日々感嘆している人間(私)が、この楽しさを何とかして多くの人々に伝えたいと願っているこの気持ちには偽りも揺らぎもありません。



そんな私ですので、どこに何を書いても、結局「伝道」になっていくようです。



ブログのトップページに長らく「リフォームド / プロテスタント ウェブライブラリー」といういかにも適当に(いいかげんに)考えた大仰な名前をつけてきましたが、このたび大きく路線を変更し、「信仰の道を共に歩もう」という名前にしました。



信仰の道を共に歩もう
http://www.reformed.jp/



くどいようですが、私のブログがこんなふうなものになっていくことを当初は全く予想も期待もしていませんでした。自分でも何がしたいのか、どういうことを目指しているのかが分かっていませんでした。



しかし私は今や、おそらく頭の天辺からつま先まで「牧師」なのです。これ以外の何も私にはできそうもありません。どんなに辛い日々が待ち受けていようとも、なんとか耐えていきます。



「キリスト教民主党」研究(1)

わが国に「民主党政権」が誕生したことに触発されて何か新しいことを始めたくなりました。手始めに「『キリスト教民主党』研究」というサイトを新設しました。そして、そのトップページに「世界のキリスト教民主党一覧」をアップしました。日本国内にこの種の情報はほとんど皆無ですので、「こんなにたくさんあったのか」と驚かれる方が多いのではないでしょうか。



「キリスト教民主党」研究(新設)
http://cdp.reformed.jp/



キリスト者がきわめて少数であるわが国に、公党としての「キリスト教民主党」が誕生するのは、たとえどれほど強く願ったとしても、半世紀か一世紀以上先のことでしょう。しかし、ただ手をこまねいているというのでは、無策のそしりを免れないでしょう。誰かが何かを始めなければ、どんなに小さくても何らかのアクションを起こさなければ、永久に何も生まれないでしょう。



日本の特にプロテスタント教会が「キリスト教政党」を求めてこなかった(あるいは意図的に拒否してきた)理由は必ずしも明らかにされてきませんでした。もちろん単純に「キリスト者の数が少なすぎて為すすべがなかった」と言えばそれまでであり、説得力もあります。実際、日本のキリスト者の多くは「キリスト教政党」という言葉を聞くとジョークだと思って腹を抱えてゲラゲラ笑いだすのです。そのような現実があることを私は知っています。



しかし、数の問題以上に思想的ないし「神学的な」理由もあったと思われます。少なくともその一つにバルト神学の圧倒的な影響を数えなければならないと私は考えています。



「キリスト教政党」の成立の要件は、「神学」(theologia)以上に「キリスト教哲学」(philosophia christiana)です。換言すれば、「キリスト教」(christiana)と「哲学」(philosophia)との《順接的》関係性の確保です。そのとき我々に問われることは、教会の外(extra ecclesiae)なる「世界」(mundum)における政治、経済、文化、教育、芸術といった一般的・普遍的な事柄を「キリスト教へと改宗した人間であるならば」どのように見、どのように態度決定するのかです。



ところがバルトは「キリスト教哲学」を全面的に退けました。次のように述べています。「キリスト教哲学(philosophia christiana)は事実上、いまだかつて決して現実のことであったためしはなかった。それが哲学(philosophia)であったなら、それはキリスト教的(christiana)ではなかった。それがキリスト教的(christiana)であったら、それは哲学(philosophia)ではなかった。」
(Karl Barth, Kirchliche Dogmatik, I/1, S. 5 カール・バルト著『教会教義学』第一巻第一分冊、原著5ページ)



今はこれ以上詳述できませんが、書きとめておきたいことは、このバルトの神学的思惟の呪縛から解放されないかぎり、日本に(公党としての)「キリスト教政党」が誕生する日が訪れることは永久にありえないだろうということです。



バルトにおいて「キリスト教」と「哲学」との関係性は《逆接的》ないし対立的なものとしてしか描かれません。彼にとって「キリスト教」とは(『ローマ書講解』から『教会教義学』に至るまで一貫して)永久に「数学的点」であるところの「イエス・キリストにおける神の自己啓示」のみにとどまり続けるのであって、決して「線」にも「面」にもなっていきません。したがって、それが「世界」において形態(ゲシュタルト)を獲得することもありえないのです。



日本で「キリスト教政党」の問題に取り組むためには、このバルトの問いかけを回避できません。「キリスト教」と「哲学」との関係は、バルトが示唆したように、ただ逆接的・対立的なものでしかありえないのでしょうか。キリスト者である人間は「世界」に対して批判的・攻撃的なスタンスしか採りえないのでしょうか。この難問が我々の喉元に突き付けられています。



なお、新サイト開設に伴い、従来サイトの一つのURLを変更しました。



関口 康 小説(URL変更)
http://ysekiguchi.reformed.jp/novel.html





2009年9月2日水曜日

復活の光(2008年)

SCENE001 胃がん検診

「まず最初に胃を膨らませる薬。そのあとバリウムね。」
生まれて初めての経験てのは恐ろしい。言われるままにするしかなかろう。
「金具のついた服は脱いでください。」
「・・・はい。」
ベルトのバックルは金具だ。ここでズボン脱ぐの?
「棚の上の籠の中のを穿いて。」
パジャマのズボンだ。しわくちゃだ。
「穿きました。」
「じゃ、これ飲んで。」
ん?結構飲めるぞ。お腹がすいてるからかな。豆乳のようだ。ちょっと冷たいし。
「では、レントゲン室に入ってください。」
前の人が出てきた。次に僕が入る。ガラス張りの部屋の扉が閉まる。

SCENE002 寝坊

「お父さん!お父さん!遅刻する!」
・・・ナ、何だあ?・・・あ、いけね!
「うわ!ごめん、ごめん。寝坊しちゃった!」
「何か食べていかなきゃ。何か買ってきてある?」
やべ、また買い忘れた。
でも食パンはまだ二、三枚残っている。昨日の朝は食パンじゃなかったはずだし(どうだっけ?)。
「これをトーストして、ハムとチーズを載せよう。それでいいな。」
「うん、分かった。」
「トイレ行って歯磨きしたら、車で学校まで送ってやる。早く準備しろ。」
「はい。」
今夜の献立は何にしようか。

SCENE003 買い物


昨日も来たスーパーの中を今日も歩いている僕。大根の前にしゃがんでいる女性店員の横を通過。
「いらっしゃいませー。」ハイハイ、いらっしゃいましたー・・・。
この時間に男性の客はいない。目立ってるのかなあ。まあ、そんなことに誰も関心ないか。
買い物と言っても昼に食べるものだけだ。
ごはんはもうすぐ炊ける。レトルトカレーでいいや。いざというとき用に、四つほど買い込んでおこう。
夕食の材料は、またあとで買いに来なければ。昨日と同じメニューじゃ、子どもたちがかわいそうだ。
それから、ペットボトルのウーロン茶。
今日は温かい。子どもたちが帰ってきたら「のどが渇いたよお」と言うだろうから、2リットル。
お、レジに男性が並んでいる。75才というところか。
「1230円でございます。それでは、2030円お預かりいたします。800円おつりでございます。
ありがとうございました。またお越しくださいませー。」
毎日来てるよー!
・・・最近、ひとりごとばっかり言ってるよ、オレ。

SCENE004 結婚指輪と片頭痛

僕の日課は定まらない。名刺には「哲学者」と書いてみたいのだが、小説家のようなイベント屋のような仕事に不定期で取り組んでいる。会社勤めはしたことがない(ことにしている)。
それでも一つだけ決まっていることがある。朝起きるとすぐに結婚指輪をはめ、夜眠る前に外すことだ。
指輪の内側には二人の名前が書いてある。ノビタとシズカ(ウソ)。しばらくサイズが合わなくなっていたが、数年前にダイエット大作戦を敢行してからは、爪楊枝が二本入る余裕ができた。右手でくるくる回すことだってできる。
「そう。」
もう一つ日課があった。
最近、片頭痛がひどい。薬局で買える頭痛薬を飴玉のように口に放り込む癖がついた。一種の薬物依存だ。
原因は分かっている。僕は今、深い暗闇の前に立っている。

SCENE005 深い暗闇

深い暗闇とは何か。答えが分かるなら、それは暗闇ではないのだ。
不気味ではある。何かとんでもないものが僕を待ち受けている。
被害妄想ではない。生傷はすでにある。
強いて名づけるとしたら「現実という名の暴力」。
しかし、無理しても耐えて行こうと思う。行く先は他にはない。
まあ何とかなるだろう。道はないかもしれないが地面はありそうだ。
温泉に興味はないが風呂につかれば安眠もできる。
生温かい血が、僕の中をゆっくりと流れている。
根拠なき勇気なら、誰にも負けない。

SCENE006 帰宅

ギ・・・。
「ただいまー。」
「あ!おかえり。ど?」
「にゃ、別に。」
「そ。ま、おつかれ。」
「ん。」
「ねる?」
「ん。あ、駅前でパン買ったけど。食べる?」
「お、ありがと。一緒に食べよか。」
「・・・。」
振り向くと、もう夢の中。
ホント、お疲れさま・・・。

SCENE007 復活のひかり

少しずつ少しずつ、確実に時間が流れている。
さびしい。
賑やかなところが好きなわけではない。
「あなた」を独り占めしたいだけだ。
でも、叶わない。しばらくのあいだは。
「しばらくのあいだは」? そうだ!!
僕は必ずまた立ち上がる。
死ぬまでにしなければならないことがある。
動け、指。動け、足。お願いだから。
脳からの命令に反応してくれ。
僕に残された日は、限られている。

SCENE008 傷心

198X年、第三京浜。横浜に向けて時速17Xキロで疾走中。
「・・・やばいな。」
アクセルをゆるめる。助手席には僕より背の高い、五歳上の女性。
何の感情もない。ありえない。あるのは違和感と、冷え切った手足。
前の夜、僕はひとりで泣いていた。察してくれたようだった。
自動車を近くの駐車場にとめ、コンサート会場まで歩いた。
僕は左。「恥ずかしい」という感情が芽生え、二歩ほど離れて。
顔を直視できなかった。

SCENE009 口笛

それでもその日、女性は恩人になった。
転機は三ヶ月後に訪れた。
富士山は見えなかった。バックミラーの中に「あなた」がいた。
隣から話しかけてくる友人の声は耳に入らなかった。うるさいよ。
僕は心の中で口笛を吹いていた。
下り坂のワインディングロードに沿って巧みにハンドルを操る。
アクセルも、ブレーキも、そっとやさしく、やわらかに。
夕方、10円玉を30個つかんで電話ボックスに駆け込む。
よし、また会える。

SCENE010 大雪の翌日

申し訳ないことに、雪が嫌いだ。
良い思い出がひとつもない。あのことも、このことも、雪の日に起きた。
右足に軽い障碍が残っている。最初で最後のスキーで捻挫したからだ。
交差点を曲がり切れず、後輪が大破したこともある。チェーンは面倒くさい。
上り坂を自動車ごと後ずさりしたこともある。渋滞中だったので冷や汗をかいた。
でも、こんなのは大したことじゃない。
透きとおった人と初めて出会ったのは大雪の翌日だった。
雪はずるい。
うっかりボルテージが急激にピークまで上がってしまったではないか。
人があれほど美しいものかと。
「赤いマフラーが僕を狂わせたんだよな。」
今はそう思うことにしている。

『改革派教義学教本』改訂委員会(仮称)設置の提案

「『改革派教義学教本』改訂委員会(仮称)の設置」を提案いたします。ただしこの「提案」を持ち込む先がまだ見つかりません。しかし、日本の教会の「神学的再生」を求めていくならば結局こういうことに至らざるをえないと信じています。私自身はこの仕事のためならこの命をささげてもよいと思っています。この一事のために涙をこらえて苦心してきました。この件に限ってはある程度ファナティックであることを認めます。しかし「あなたにこの仕事はふさわしくない」と言われるならば、引き下がります。私などよりもっとふさわしい人にお委ねいたします。その方々の仕事を遠くから静かに見守らせていただきます。



改革派教義学の「改訂」の流れ(要旨)
http://dogmatics.reformed.jp/prologue.html



2009年9月1日火曜日

民主党に期待します

「民主党」に私も投票しました。うれしい結果が出たことを喜んでいます。

土肥隆一氏の当選を新聞で確認しました。土肥氏は現在日本で唯一の、牧師の国会議員です。また参議院議長の江田五月氏のことは、社会民主連合の代表をなさっていた時代(1980年代)から応援してきました(私の祖母と母は父・江田三郎氏の時代から応援しています)。

江田氏が日本新党に参加したという報せを聞いたとき(1994年)には喜びましたが、次に新進党のほうに合流なさったとき(同年)には「判断を誤ったのでは」と強い不満を抱きました。

しかし、その後(1998年)民主党に参加なさったことで安心し、爾来一貫して支持してきました。他の民主党議員のことは分かりませんが、新鮮さを感じます。

選挙区が遠いこともあって有効で実質的な協力ができたわけではありませんが、自分にもできることからと、土肥氏と江田氏のメールマガジンを読み、そこから見えてくる日本の現在と将来の姿を心に刻みながら、キリスト者と教会の役割や責任を考えてきました。

世代は全く違いますが、土肥氏は大学(東京神学大学)の先輩、江田氏は高校(岡山朝日高校)の先輩でもあります。江田氏とは面識がありませんが、土肥氏は応援メールをお送りしたところ、なんと松戸まで自動車でかけつけてくださったことがあります。

「自民党時代」を過去のものにしてほしい。不可逆運動が長く続いてほしい。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、ひたすら走り続けることです。

土肥氏と江田氏のお二人にはぜひとも入閣していただき、この国をドラスティックに変革していただきたく願っております。

2009年8月30日日曜日

説教とは何か

ヨハネによる福音書7・14~31

「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、『この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう』と言うと、イエスは答えて言われた。『わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。』群衆が答えた。『あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。』イエスは答えて言われた。『わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。』」

今日は長めに読みました。描かれている場所はエルサレムです。そこで祭りが行われていました。先週の個所で、イエスさまが兄弟たちに「わたしは行かない」とはっきりとおっしゃっていた、あの祭りです。ところが、イエスさまは、兄弟たちが出かけた後、こっそり隠れるようにして上られたのです。

「行かない」と言っておきながら行かれたのであれば、嘘をついたと思われても仕方がありません。しかしこの件については、兄弟たちに対する配慮と愛情をイエスさまがお持ちであったと考えるほうがよいでしょうと、先週の最後に申し上げました。イエスさまは命を狙われていたのです。兄弟たちを巻き添えにしたくないとお考えになったに違いありません。

しかし、理由はこれだけではなさそうです。少なくとももう一つあることに気付きました。それは、これまでのイエスさまの行動から推測できることです。カナという町で行われた結婚式で、母マリアが「ぶどう酒がなくなりました」(2・3)と言ったとき、イエスさまは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2・4)とお答えになりました。ここに「わたしの時はまだ来ていません」という重要な言葉が出てきます。

イエスさまはだれかの依頼や指図や命令に従って行動なさることをお嫌いになったのです。どんなことであれ、イエスさまはすべてのことを御自分の意志で行われたのです。しかもイエスさまは、ただ単に「御自分の意志に従って」ということではなく、父なる神の御意志に従いつつ、イエスさま御自身の意志で行動なさったのです。イエスさまの「時」は、イエス・キリスト御自身と、御子の父なる神だけがご存じだったのです。

そして今日の個所でイエスさまは、驚くべき行動をおとりになりました。エルサレム神殿の境内にお立ちになって、堂々と説教をお始めになったのです。すでにこのことだけではっきり分かることがあります。それは、イエスさまは御自分の命など少しも惜しいとは思っておられなかったのだということです。命を狙っていた人々の目の前にお立ちになり、最も目立つ行動をおとりになったのです。

そのこと――自分の命など少しも惜しいと思わないこと――が善いことなのか悪いことなのかは、私には分かりません。もし私がこの場面に居合わせていたイエスさまの弟子の一人であったとしたら、「イエスさま、そのような無謀なことはおやめください。御自分の命をもっと大切にしてください」と言って止めようとしたかもしれません。しかしおそらくイエスさまはそのような言葉を聴き入れてくださらなかったでしょう。イエスさまは、だれの依頼も指図も命令もお受けにならない方なのです。ただおひとり、父なる神の御意志のみに従って行動なさる方なのです。だれが止めても止まらない。すべての人々はイエスさまのお姿をただ見守るしかありません。

イエスさまの説教を聞いたユダヤ人たちが、ある意味で興味深い感想を述べています。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。ここで彼らが言う「学問をする」とは、ユダヤ教のラビ(教師)になる人々が当時通ったとされるエルサレム神殿附属の律法学校に在学して聖書を勉強することを意味していると考えられます。この学校の卒業生として我々が知っている一人は使徒パウロです。その学校でのパウロの教師の中にガマリエルという名の人がいたことなども使徒言行録に記されています。

その学校で教えられていることは聖書であり、ユダヤ教の信仰もしくは神学と呼んでもよいものでした。ですから、ユダヤ人たちが言っている「学問をする」は、今のわたしたちが「神学校で学ぶ」という言葉で言おうとしていることと内容的には同じであるということが分かります。つまり彼らは「この人は、神学校で学んだわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言っているのです。

彼らが述べていることは、なるほど事実です。イエスさまがエルサレム神殿の律法学校に通われた形跡はありません。それでは、どうしてイエスさまは、そういうところで学ばれたことがなかったにもかかわらず、人々が驚くほどに聖書をよくご存じだったのでしょうか。

もちろん最初に考えなければならないことは、イエス・キリストは神の御子であり、全知全能の方なのだから、学校などに通わなくても、あるいは教会などに通わなくても、聖書に書かれていることなど全部知っておられる方なのだ、というようなことです。このような事情であるという可能性を、別に否定する必要はありません。

しかしまた、もう一つの見方として、全く不可能とは言い切れない見方がありうると、私は考えています。それは、イエスさまが聖書を学ばれた場所は、おそらく幼い頃から両親や兄弟と共に通っておられた会堂(シナゴーグ)であるという見方です。このことを私があえて申し上げる理由は、教会の皆さんにお伝えしておきたいことがあるからです。

今年わたしたち松戸小金原教会ですでに二回行った教会勉強会のテーマは「聖書をどう語るか」というものでした。三回目の学びを10月11日から12日までの一泊修養会で行います。

これまで学んできたことは、教会の特に礼拝の中で行われる説教ないし奨励のわざは、牧師だけの務めではなく信徒の務めでもあるということでした。しかし、このことを考えていこうとする場合にどうしても避けて通ることのできない問題が「わたしは神学校に通ったわけでもないのに、どうして?」ということでしょう。この問いに明確な答えが与えられないかぎり、わたしが多くの人の前で聖書の話をすることなど絶対に不可能である、と確信しておられる方々もおられるのではないでしょうか。

しかし、ここはどうかご安心いただきたいのです。教会に通っておられるすべての方々が聖書の話をすることができます。ぜひお考えいただきたいことは、わたしたちは一体、教会というこの場所に何年通っているのだろうかということです。もちろん、ある方々は半年、一年、三年、五年といったところです。しかし、長い方々は三十年、五十年、七十年です。「わたしは長いばかりでちっとも・・・」と謙遜なさる方は多いのですが。しかし、わたしたちはこれまでに一体、何回の礼拝、何回の説教を聴いて来たのでしょうか。指折り数えてみていただきたいのです。

たとえば私がこの教会に参りましたのが5年半前です。主の日の朝の礼拝でまもなく三百回の説教を行ってきた計算になります。次の質問は、私にとっては恐ろしいものです。私がこれまで皆さんにお話ししてきたことは、皆さんの心の中に全く何も残っていないでしょうか。もしそうでしたら私はかなり真剣に苦しまなければなりません。

なるほど教会は学校ではありません。ここに通っても資格や学位を取得できるわけではありません。成績表も教会にはありません。礼拝の説教は大学や神学校の講義とは区別されるものです。しかし、それにもかかわらずわたしたちは、ここ、教会で、かなり多くのことを学んできたはずです。何年も何十年も通って来られた皆さんが、いま、ここで聞いたことを、多くの人々に語り伝えていくこと。それこそが説教なのです。

二つの例を挙げておきます。一つは、その姿を私はまだこの松戸小金原教会に来てから見たことがないということを残念に思っていることです。かつてはどこの教会にもいたものですが、牧師の祝祷の口真似が上手な子どもたちがいます。教会ごっこのような遊びをしている中で、牧師よりもよほど上手に祝祷の言葉をそらんじることができる子どもたちがいます。説教などは聞いても何のことやらちんぷんかんぷん分からない。それでも子どもたちは礼拝の中でたしかに何かを聴き、たしかに何かを憶えて帰るのです。教会の子どもたちとは、そういう存在なのです。

もう一つは、地方裁判所で長年、書記官を務めた方から教えていただいた話です。その方によると、まだ最近のことだが、書記官を長く務めた人々は、司法試験の合格者でなくても裁判官の席に着いて事裁きを行うことができるという新しい制度ができたということでした。そのお話を伺いながら、法に基づく判断において大切なことは知識だけではなく、経験こそが物を言うのだと教えられました。とても良い制度だと思いました。これと同じことが、聖書にも説教にも当てはまるのです。

脱線しすぎたかもしれません。イエスさま御自身が「わたしが聖書を学んだのはシナゴーグである」とおっしゃったわけではありません。イエスさまがおっしゃったのは、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」ということです。これもまた確かな真実です。イエスさまが聖書をご存じであられるのは、いつ、どこで、だれから学んだというようなこととは関係ないとおっしゃっているのです。「わたしをお遣わしになった方」、すなわち、父なる神がわたしに「語れ」と命じておられることを、わたしは語っているのだと、おっしゃっているのです。

しかし、このことも、わたしたちに当てはまるところがあるでしょう。私の場合も、生まれてから44年間、教会に通ってきたことになりますが、いつ、どこで、だれが私に聖書を教えてくださったかというようなことを全く憶えていません。それが何先生の説教であったかというようなことは完全に忘れています。私はそれでよいと思っています。自分に九九(くく)を教えてくれた小学校の教師の名前を憶えているという方がどれくらいおられるでしょうか。それを誰が教えてくれたかは、忘れてもよいことではないでしょうか。

説教にも同じことが言えるのです。主なる神が、聖書を通して、代々の教会を通して、このわたしに真理を教えてくださったのです。それこそが説教の正しい聴き方なのです。

(2009年8月30日、松戸小金原教会主日礼拝)