2009年3月19日木曜日

質疑応答(5)罪の二次性

(5)私も、被造世界を喜び楽しむことが神の意志であると思っております。しかし、それを具体的な生活の中で実践しようとする時、被造世界全体が堕落の影響によって「喪に服している」という面も忘れてはならないと思わずにはいられないのです。そうなると、被造世界を「喜び楽しむ」という時、そこには何らかの形で神を「喜び楽しむ」こととは、区別をつけなければいけないのではないでしょうか。



「喪に服している」というご見解には、正直ちょっとした驚きを禁じえませんでした。「堕落」(corruptio)の影響があるのは当然のことですが、イエス・キリストにおける「贖い」(redemptio)の影響のほうはいかがでしょうか。「贖い」とは、改革派神学の伝統においては「再創造」(recreatio)です。その意味は、創造の原初性の再獲得です。堕落した全被造物に「はなはだ善きもの」(erant valde bona! 創世記1・31)としての原初性が回復されるのです。



この「再創造」は終末だけに起こる出来事ではありません。それはイエス・キリストの十字架と復活による「贖い」によってすでに始まったことであり、今なお進展し続けており、終末における完成の日まで継続されます。花婿としてのイエス・キリストは、すでに来られています。祝宴はすでに始まっています。それにもかかわらず、どうしてわたしたちがいつまでも喪に服し続けなければならないのでしょうか。



「堕落」ないし「罪」についてファン・ルーラーが主張していることは、彼の言葉を借りれば、「罪は二次的なものないし二番目のものである」(De zonde is iets secundairs, een tweede)ということです。第一番目はもちろん「創造」(schepping)です。創造こそが「神の善きみわざ」です。天地を無から有へと呼び起こしてくださった神の力、そしてまたイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださった神の力と比較するならば、人間の犯す罪の力や影響などどれほどのものでもありません。もし人間の犯す罪の力が神の救いの力に勝利するというなら、人間は「神以上の存在」であると認めることを意味してしまいます。(さらに続く)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」



質疑応答(6)改悛的霊性

(6)これらの問題を掘り下げていくと、そもそも「世」をどう見ているかという点に帰着するように思います。私は、元々神に造られた良いものとしての「世」が堕落の影響によってその善性を見失ったため、現在我々の目に広がる「世」は無批判に享受できないものと見ている面があると思います。それに対してファン・ルーラーは、神に造られた良いものとしての「世」を強調しているのだと思います。もしこの分析が正しいとすれば、焦点は「ファン・ルーラーにおける被造世界の堕落の影響」にあると思うのですが、いかがでしょうか。



わたしたちが受け継いできたらしき「一切の(神学的)議論を堕落と罪の問題から始める伝統」は、改革派神学の場合は、その根元にドルト教理基準のTULIP(カルヴァン主義の五特質!)があると思われます。



しかし、ドルト教理基準は本質的に「コントラ・レモンストランティア」であり、アルミニウス主義者からの批判に対するレスポンスにすぎません。すなわち、あれは「コントラ」ないしアンチテーゼとしてのモチーフを初めから持っているものであり、ドルト教理基準自体は何らカルヴァン主義の本来的なテーゼではありません。それゆえ、ドルト教理基準から全改革派神学を出発させることは根本的かつ方法論的に間違っています。「全面的堕落」(Total Depravity)は改革派神学における第一のテーゼではありえないのです。



しかし、改革派教会も含む日本のプロテスタント教会が色濃く受け継いでいるのは、そのような歴史的・伝統的・信条的な神学思想というよりももう少し根の浅いものであると、私には感じられます。私が考えるのは、むしろビリー・グラハム的な大衆伝道のやり方の中にある「まず最初に罪意識を徹底的に叩き込むことによって人を回心へと導く」というあれです。典型的な心理的誘導方法(Psychological Inductive Method)です。



しかし、私はこのことをビリー・グラハムひとりの責任にするつもりはありません。パネンベルクが指摘した、プロテスタンティズム特有の「改悛的霊性」そのものを問題にしなければならないと考えています。



16世紀の宗教改革者たちが強調したことは、罪責意識そのものではなく、罪の自覚によって怯える魂がイエス・キリストによって自由にされるという点にありました。ところが、彼ら以降のプロテスタンティズムは、あまりにも過度の罪責意識を強調しすぎるあまり、洗礼を受けてイエス・キリストと共によみがえった後も(この意味での「よみがえり」は単なるメタファーではありません!)、いつまでも堂々巡りを繰り返す不健康なメンタリティに留まり続ける人間性を涵養してしまいました。パネンベルクの議論は正鵠を得ています。



「創造→堕落→贖い」と来た後に、またしても「堕落」が息を吹き返しているような議論をしてしまうのは、おそらく福音派だけではないと私は理解しています。改革派も同じです、というか改革派のほうがひどいかもしれません。(さらに続く)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」



質疑応答(4)神を喜ぶ自由



(4)創造者を「享受」することと被造物を「享受」することとの間にもし些かの区別もないとなるなら、逆に我々が「神を喜び楽しむ」ということもまた「贅沢」「遊び」ということになり、そこにある種の「不必要なもの」という概念、つまり「人間の主な目的」ではなく、オプショナルなものに成り下がるという思想が入り込むことにはならないのでしょうか。



(4)の質問はとくに重要なものだと思いました。「神を喜び楽しむこと」も、もちろん「贅沢」であり「遊び」です。ファン・ルーラーの線を伸ばしていけば当然そうなります。



私が「不必要」と書いたことは、なるほどたしかに「オプショナルなものへと価値を低めている」という反応ないし反発を招きかねません。



しかし、これはオランダ語のnoodzakelijkheid、ないし英語のnecessityをどう訳すかにも依ります。「必要性」と訳すと反発されるようなら、「必然性」と訳すと少しは理解されるものが出てくるかもしれません。しかし、問題は論理的(ロジカル)なことにとどまりません。「必然性」と訳しますと、論理的なことだけに限定されてしまう危険性があります。



この「必然性」を説明するために持ち出すことができそうな例は、(あまり良い例ではありませんが)「わたしたちがもうける子どもの数」などです。



結婚して子どもを産む。一人にしようか、二人にしようか、三人以上にしようか。何人「でなければならない」理由は、どこにも無いはずです。お二人の自由です。「どうぞご勝手に!」です。誰からも強制されません。「何人産まなければならない義務」などは、誰にもありません。そもそも「子どもを産まなければならない責任」さえ、人間にはありません。



そのようなところで義務だ、責任だ、役割だ、使命だと言い出すところに「使用」(uti)の伝統が臭います。しかし、たとえば「女性は子を産むために使用される」だなんてことは、もはや絶対に言うべきではありません。



「神の創造のみわざ」も、だれから強制されたものでもありません。神に向かって「創造しなさい」と命令したり、「神よ、あなたには天地万物と人間を創造する義務と責任がある」と説教したりする存在とは何なのでしょう。そういうことができるのは、おそらく「神以上の存在」だけです。



わたしたちの「神を喜び楽しむこと」についても、義務だ、責任だ、役割だ、使命だとやりだすのが我々の伝統(アウグスティヌスの伝統!)なのかもしれません。しかし、義務だ責任だと言っては脅され、命令されて、強制されて、嫌々ながらさせられることが、どうして「神を喜び楽しむこと」(fruitio Dei)でしょうか。全く矛盾しているではありませんか。いかなる強制もなく、自由のうちに仕えることが「神を喜び楽しむこと」ではないでしょうか。(さらに続く)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」



質疑応答(3)享受と使用

(3)アウグスティヌスが使用(uti)と享受(frui)という点に具体的に見出したのに対して、ファン・ルーラーがこの区別性を取り払ってしまうとすれば、彼はどこに両者の区別性を具体的に見出したのでしょうか。同じ「喜び楽しむ」あるいは「享受」(frui)と言う時、そこには「使用」(uti)と「享受」(frui)の差異ほどではないにしても、創造者を「享受」することと被造物を「享受」することには、何らかの区別性があるのでしょうか。



繰り返しになりますが、創造者と被造物の区別性を「享受」と「使用」の区別に求めること、すなわち、わたしたち人間の倫理的態度に求めることが、なぜ必要なのでしょうか。



創造者と被造物との区別を設けてくださったのは神御自身です。なぜ人間が、自らの態度をもって(一方に対しては崇敬ないし礼拝をもって、他方に対しては軽蔑と尊大さをもって)区別しなければならないのでしょうか。



わたしたち(その中には私自身も含まれています)が「被造世界を享受すること」に躊躇があるのは、それを軽んじるなり憎むなりするように教え込まれてきたからではないかと思うのですが、その教えないし命令は神から出たものではないでしょう。アウグスティヌスもカルヴァンも神ではないし、直接啓示の仲保者でもありません。



わたしたちにできることは、「創造者は被造物ではないし、被造物は創造者ではない」というこのきわめて単純な事実を確認することだけではないでしょうか。



ファン・ルーラーの場合、神の場合も、世界の場合も、「享受すること」(frui)においては区別も差もありません。それはちょうど、17世紀のフラネカーとライデンで活躍したヨハネス・コクツェーユス(Johannes Cocceius)が、御父なる神と御子キリストの関係についても、神と人間との関係についても、同じ一つの「友情」(amicitia)という概念で説明したのと似ています。(さらに続く)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」



質疑応答(2)世を軽んじる罪

(2)聖書以来、「この世と調子を合わせてはならない」ということ、「この世を軽んじる」ということは、多くの神学者たちが論じてきました。アウグスティヌス然り、Imitatio Christiの著者然り、カルヴァン然りです。「この地上を喜び楽しむこと」と「この世と調子を合わせてはならない」という教説とは、ファン・ルーラーの神学の中でどのように調和を保っているのでしょうか。



そもそも、「享受されるために」この世界とわたしたち人間は造られたのです。つまり、「享受されるべきこと」こそが事物の本質であり、創造者の意図なのです。



キリスト者に求められていることは、神の意図に従うこと(≠この世と調子を合わせること)です。神の意図に従わないこと、それに逆らうことを「罪」と呼ぶのです。



神の意図が「被造物(=世と人)は享受されるべきものである」ということであるならば、なぜわたしたちはそれを喜び楽しんではならないのでしょうか。世はむしろ、世自身を軽んじたり憎んだりするのではないでしょうか。人間はむしろ、人間自身や自分自身を軽んじたり憎んだりするのではないでしょうか。



「この世は罪と悪に満ちている」と言って人生を嘆き悲しみ、絶望し、ため息と不平ばかりを口にし、他人と自分自身を傷つける。このような「世を軽んじる」態度はなんら神の意図に従っていません。ファン・ルーラーは、そのような(敬虔主義的・禁欲主義的な)態度を指して「創造者なる神への冒涜」と呼んでいます。



むしろわたしたちキリスト者は「世と人と自分自身に逆らって」世と人と自分自身を享受すべきではないでしょうか。これがファン・ルーラーの提起した問題であると言えるでしょう。



私自身を含む(改革派)正統主義者の落とし穴は、「これはアウグスティヌスとカルヴァンが主張したことだ」と言われたが最後、ほとんどそのままを無批判に受け入れてしまいそうになることです。しかしわたしたちは、彼らから悪いものまで受け継ぐ必要はありません。やはり彼らへのストア主義の影響は明白であると私は見ています。聖書的でないものを、知らず知らず持ち込んでしまっているのです。(さらに続く)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」



質疑応答(1)汎神論の懸念

拙論「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」をお読みくださった方から以下のようなご丁寧な質問をいただきました。ご本人の許可を得ることができましたので、質問内容を公開用に編集させていただいたうえで、謹んで回答いたします。



(1)講演の引用文では「この世界こそが神の世界である。この世界こそが、まさに神の栄光の舞台(theatrum gloriae dei)なのである。この地上の生が、神の栄光の現実化である」と言われており、この辺りにファン・ルーラーの神学的根拠がありそうですが、地上において働かれる「神御自身」とその舞台である「地上そのもの(被造物)」を、同様に「喜び楽しむこと(享楽)」が許されているのは、なぜなのでしょうか。ともすると、両者を非常に近付けて「喜び楽しむこと(享楽)」を許すと、汎神論的(pantheistic)な思想に接近してしまいそうですが、ファン・ルーラーはこの辺りに警戒心を持っていたのでしょうか。もし持っていたとすれば、どのように汎神論的思想と自らの神学を区別されていたのでしょうか。



ご質問ありがとうございました。どれも当然起こりうる疑問ですので、次回の講演のための参考にさせていただき、そのとき論拠を挙げてきちんとお答えできるようにしたいと思います。



しかし、事はわりあい単純です。この件に関するファン・ルーラーの神学的根拠は、主に創造論です。(経綸的三位一体における)創造のみわざ(creatio)において起こることは創造者(Creator)と被造物(creature)の絶対的区別です。創造論がきちんと機能しているかぎり、そしてこの区別が維持されているかぎり、いかなる汎神論も起こりえません。何の心配もありません。



しかも、創造者と被造物の区別は人間自身が立てた区別ではなく、神御自身がお立てになった区別です。創造者(神)については享受してよいが、被造物(物と人)については使用にとどめるべきであるという見方は、なんといっても人間側からの視点です。神がそのようなことをおっしゃったでしょうか。



そしてファン・ルーラー自身が論じているのは、創造者にとっての被造物の存在とは(神の存在を成り立たしめる上でかならずしも「必然性」がないという意味で)「不必要なもの」であり、その意味での「贅沢」であり、「遊び」であり、「楽しみ」であるということです。つまり、創造者自身が被造物を「享受」しておられるのです!(続く)



カール・バルトの影響(2)

ファン・ルーラーとバルトの関係については、多くの人から繰り返し問われてきたことです。



バルトの場合は「シュライエルマッハー斬り!」で神学の新しい時代を切り開いたのでしょうし、オランダのファン・ルーラーやドイツのモルトマンは「バルト斬り!」で新しい時代を切り開こうとしました。

「キレてねえよ」とバルトは言ったかもしれないし、少しは痛い思いをしたかもしれない。まあ、そんなところでしょう。

かなり有名な事実は、晩年のバルト(1960年代)が『教会教義学』を「第三項の神学」(聖霊論)の光のもとに全部書き直したいとか言いだしたことです。

バルトは、自分の著書の中ではファン・ルーラーにはついぞ一度も触れませんでした。少なくとも私の知る限りは。

しかし、1950年代後半にファン・ルーラーが声を大にしてバルトの「キリスト一元論」を批判し、「三位一体論的神学が必要だ」とか「聖霊論的視点が必要だ」と主張していたことと、バルト自身の「第三項の神学によるKD全編書き直し」発言とは全く無関係ではありえないだろうと、私は見ています。

バルトがファン・ルーラーの名前を知らなかったはずはありません。バルトのオランダにおける親友であり何度も名前が言及されるライデン大学のミスコッテ教授は、オランダ改革派教会におけるファン・ルーラーの「論敵」でした。

ファン・ルーラーに関する情報は、ミスコッテから常に詳細に聞いていたはずです。「バルトとミスコッテがタッグを組んでファン・ルーラーを神学的リングの外に押し出した」と評している人がいるほどです。

私もバルトの近代主義、自由主義批判は正しかったと思っています。しかし、あの批判そのものはアンチテーゼにすぎないものであり、いわゆるジュンテーゼとしての新しいものを生み出すまでに至っていません。

19世紀の文化的プロテスタンティズムを徹底的に批判し、事実上の破壊にまで導いて、その後バルトは何を生み出したのでしょうか。「キリスト教的なるもの」(Das Christliche)を各個教会だけ(しかも都会の大規模教会だけ)、礼拝だけ、説教だけ、牧師だけのモノローグへと狭隘化しなかったでしょうか。

バルトについては今こそ真剣にそのようなことを考える必要があるだろうと、私は考えています。

ファン・ルーラーにしろモルトマンにしろ、新しいものを生み出すに至ったとまでは言えません。新しいものを生み出すどころか、20世紀の急速な世俗化=脱教会化の中で神学者の存在意義が根本から否定されてきた中で、手も足も出ない状況に追い込まれていったというのが本当のところでしょう。

しかしまた、だからこそ彼らが「バルト後の尻拭い時代」の中で新しいキリスト教的文化の形成のために悪戦苦闘した形跡はありありと残っていますので、それらから私たちが学びうることは多いと思います。



2009年3月17日火曜日

カール・バルトの影響(1)

拙論「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」をお読みくださった方から早速「ファン・ルーラーとカール・バルトは影響を受け合っているのか」という貴重なご質問をいただきましたので、謹んでお答えいたします。



ファン・ルーラーへのバルトの影響は決定的なものです。ポジティヴにも、しかしネガティヴにも。

ファン・ルーラーの大学(神学部)時代の組織神学の教授がハイチェマと言い、オランダ初のバルト主義者と呼ばれた人でした。博士論文執筆の際の指導教授にもなってもらいました。そのハイチェマを介しての影響です。

ファン・ルーラー自身の言葉で言えば、学生時代の(たぶん途中までの)ファン・ルーラーは「純血のバルト主義者」であった(やや冗談めかした誇張も含まれますが)ほどです。

しかし、ファン・ルーラーは学生時代(1920年代!)からすでにバルトの「限界」に気づき、反発も感じていました。ひとことでいえば、バルトの神学は「氷のように冷たい」という感覚であり、歴史や文化などに正当な位置を与えないものだという点への不満でした。

そして、その最初の思いがふくらみ、バルトの神学全体へのトータルな批判へと発展していきました。たとえば、現在『季刊 教会』に連載されているファン・ルーラーの「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差違」(牧田吉和先生の訳)には、バルト神学(だけではありませんが)へのトータルな批判の意図が込められています。

もっとも、年齢的には22歳の差があり(バルトのほうが上)、また国際的知名度(というか国際的売り込み)の上でもバルトのほうがはるかに優っていましたので、バルトはファン・ルーラーをほとんど全く相手にしませんでした。

また、誤解がありませぬように一応申し上げておきますと、拙論「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)」の主旨は、まさか「日本キリスト改革派教会批判」ではないし、「日本のカルヴィニスト批判」でもないということです。もっと広い話です。ここを読み間違えられて、「ああやっぱりな」とか思われてしまいますと、非常に困るところです。



ファン・ルーラーの喜びの神学(1)

先週金曜日に「五つのお知らせ」をしたばかりですが、一昨日と昨日で、二つ終わりました。どちらも楽しかったです。出席してくださった方々にも喜んでいただけたと思います。肩の荷物を少しおろすことができて、ほっとしました。残りはあと三つ。まだまだがんばるぞ。

「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」

(改革派神学研修所 東関東教室「信徒講座 生き生きクリスチャンライフ(1)」、日本キリスト改革派勝田台教会、2009年3月14日)

「聖書をどう語るか―牧師は説教をどのように準備しているか―」

(松戸小金原教会2009年度第1回教会勉強会、2009年3月15日)


2009年3月15日日曜日

地上のことを話しても信じないとすれば


ヨハネによる福音書3・9~15

「するとニコデモは、『どうして、そんなことがありえましょうか』と言った。イエスは答えて言われた。『あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。』」

先週から学んでおりますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストとユダヤ最高法院の議員でありファリサイ派に属していたニコデモとの対話です。ニコデモにイエスさまがおっしゃったことは、こうでした。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。それに対するニコデモの答えはこうでした。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。

このニコデモの答えについて先週私が申し上げたことは、ニコデモはイエスさまの言葉を理解できなかったか、理解できたのにとぼけているのかのどちらかでしょうということでした。もう一度母親の胎内に入ってうんぬんの部分は、タイムマシンのような非現実的なことをイエスさまから言われたと感じて反発したか、腹を立てたかである可能性があるということでした。

ニコデモが腹を立てたと考える場合、彼が感じたことは自分のプライドを傷つけられたということでしょう。母親のお腹の中から出直してこいと言われた。それは、これまでの人生をすべて無かったことにしろ、ということか。生きてきたことはすべて無駄であり、苦労も無駄であり、流した涙も無駄である。そのように考えなければイエス・キリストと共に歩む新しい信仰の人生を始めることができないと言われるのであれば、わたしはそのような道に入ることができない。そのように感じる人がいるとしても、おかしくはありません。

しかし、イエスさまは、もちろん、決してそのようなことをおっしゃったわけではありません。そのようなことをイエスさまが言うはずがないと、わたしたちは、声を大にして言わなければなりませんし、イエスさまを信頼しなければなりません。わたしたちの人生には、無駄な部分など一つもありません。苦労も涙も無駄ではありません。わたしたちは生きていかなければなりません!何一つ無駄なことはないと信じて。すべてのものを両手の間にしっかりと抱えこんで。

ニコデモの疑問に対するイエスさまの答えは、こうでした。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。これは何のことでしょうか。何を意味し、また、どのようにして実現するのでしょうか。このことを今日は考えていきたいと願っています。

今日お読みしました最初の節(3・9)でニコデモが言っていることは、まさに今、私が問うたことそのものです。「どうして、そんなことがありえましょうか」。この翻訳は誤りであると、私が読んだ注解書に記されていました。ニコデモが言っているのは「どのようにしてそれは起こるのでしょうか」であると(C. K. Barret, John, 211)。イエスさまは、水と霊とによって新しく生まれなければならないと言われる。それは具体的にいえばどのようにして実現するのでしょうかと、ニコデモは質問しているのです。

この質問に対するイエスさまのお答えは、少々あきれておられるご様子です。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」。

あなたは先生でしょう。ユダヤ最高法院の議員であり、神の民イスラエルの最高指導者の一人であり、この国の人々を教え導かなければならない人でしょう。知恵と知識に溢れ、常識をもち、情報に事欠くこともないでしょう。そのようなあなたが、これくらいのことも分からないと言うのですか。

そして、そのようなことよりも何よりも、あなたがたイスラエルの教師たちは、聖書を勉強しているでしょう。この聖書という書物をきちんと勉強すれば、わたしが今言ったことを理解できないことなどありえないはずでしょう。それとも、あなたは分かっているのにとぼけているのですか。このような感じのことをイエスさまがおっしゃっている様子が伝わってきます。きついと言えば、これほどきつい言葉はない。強烈なパンチを、イエスさまがニコデモに向かって繰り出しておられます。

そして注目していただきたいのは11節以下です。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」。

私は今、この個所に書かれていることを注目していただきたいと申しましたが、同時に申し上げなければならないことは、この個所に書かれていることは分かりにくく、解釈が難しいということです。丁寧に見ていく必要があります。

まず最初に考えなければならないのは「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししている」の意味です。はっきり記されていないことは、イエスさまが何を知っておられてそれを語り、また何をご覧になってそれを証ししておられたのかです。しかし、考えられる可能性の選択肢がたくさんあるわけではありません。

いずれにせよ明らかなことは、イエスさまがおっしゃっているのは、水と霊によって人が新しく生まれる様子です。それがどのようにして実現するのかについての具体的な内容であり、経緯であり、現象とも言うべきことです。しかし、このように言うと、かえってますます分かりにくくなるかもしれません。

もっと分かりやすく言えば、水と霊によって新しく生まれた人の様子です。ニコデモがイエスさまのもとを訪ねたときには、すでにイエスさまの宣教活動は開始されていました。イエスさまのもとにはすでに十二人の使徒がおり、他にも多くの弟子たちが集まっていました。つまり、そこにはすでに一種の教会ができあがっており、あるいは少なくとも後に「教会」と呼ばれる人々の集まりの原型のようなものができつつありました。つまりそのときにはすでにイエス・キリストの名による洗礼を受けた人々がおり、イエス・キリスト御自身による聖書の解き明かしとしての説教を聴き、その説教によって呼び起された信仰をもって生きている人々の集まりがあったのです。

イエスさまがそれを知ってお語りになり、またそれをご覧になって証ししておられたのは、おそらくそれです。つまり、それはイエスさまのもとに集まっている人々の姿です。教会の姿と言ってもよい。しかし、より厳密に言えば、イエス・キリストの復活と昇天の後に起こる聖霊降臨の出来事によって「教会」になっていく前の信仰者の集まりとしての信仰共同体の姿です。あるいは、わたしたちなりの言い方でいえば、(かなりニュアンスは違うかもしれませんが)、独立した教会を設立する前の伝道所の姿と言ってもよいかもしれません。

ともかくイエスさまがそれを知り、それをご覧になっているのは、洗礼を受けて群れに加えられ、信仰をもって生きている人間の姿です。信仰者の姿です。もちろんその人々は水と霊とによって新しく生まれた人々です。

つまり、人が信仰者になるのは水と霊がその人の上に注がれた結果として起こることであるという意味で、水そのもの、霊そのものの影響あってのことであると言わなければならないかもしれません。しかし、少なくとも霊は目に見えない存在です。また水は、目に見えないということはありませんが、しかし、水そのものに何らかの特別な力があるわけではなく、水は水です。目に見えるのは霊ではなく、水そのものが持っている力でもなく(そのような力はないと申し上げたわけですが)、水と霊によって新しく生まれた人間であり、その姿です。

それは、ニコデモさん、あなたにも見えるでしょう。あなたの目に見える、見えている、信仰をもって生きている人々の姿。このわたしのもとにいる、教会に集まっているこの人々の姿をどうか見てください。それを見ても、あなたには「この人々は教会に通い始める前と何一つ変わっていない」としか見えないのですか。あなたの目は節穴ですか、とまではイエスさまはおっしゃっていませんが、何かそのようにおっしゃりたいほどの強い言葉が語られていると読むことができます。

注目していただきたい、しかし、解釈が難しいもう一つの点は、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」です。これの解釈は二つに分かれます。

一つは、イエスさまがおっしゃる「地上のこと」とは、ニコデモがそれを「母親のお腹の中に戻ることなのか」と誤解したほどに地上的な意味にもとれる「新しく生まれる」というイエスさまがおっしゃった点であると理解し、それに対して「天上のこと」とは「水と霊によって生まれなければ入ることができない」とイエスさまがおっしゃった「神の国」としての天国のことであると理解する立場です。

かなりややこしい言い方をしたかもしれません。別の言い方をすれば、「新しく生まれる」とイエスさまがおっしゃったことは一種のたとえ話であると理解する立場です。その場合は、洗礼を受けること、信仰をもって生きること、教会のメンバーに加えられて教会生活を送ることも、一種のたとえ話であり、象徴にすぎないことです。それどころか、わたしたち人間がこの地上で体験する出来事は、いわばすべてがたとえ話であり、地上を離れた天国の出来事こそがリアルな現実であるとみなす立場です。

しかし、もうひとつの解釈がありえます。私はこれから申し上げることのほうが正しい解釈であると信じます。それは、水と霊によって新しく生まれること、そのことはすべて地上で起こることであり、それこそがまさに「地上的なこと」であるとイエスさまがおっしゃっていると理解する立場です。

この場合は、洗礼も、信仰も、教会生活も、たとえ話にすぎないものではなく、リアルな現実そのものです。わたしたちは地上でまさに新しく生まれるのであり、新しい人生を始めるのです。地上の現実のなかで天国そのものを体験するのであるとほとんど明言してよいほどの、リアルで劇的な変化を体験するのです。

こう言いますと、「何も変わっていないじゃないか」という声がすぐに聞こえます。このわたしは、またあの人は、この人は、教会に通う前と、教会に通い始めてからと、どこが変わっているのか。何も変わっていないではないかと。

そんなことはないと、私は申し上げたいし、イエスさまもそのようにおっしゃってくださるに違いありません。何も変わっていないどころか、全く違います。

あなたが教会に通っていること、教会のメンバーであること、そのこと自体が重大かつ決定的な変化です!お笑いになるかもしれませんが。

別の言い方をしておきます。わたしたちは、もはや独りで生きていないということです。あなたが絶望しそうなとき、教会があなたを助けます。どこへでも飛んで行きます。教会にできることは何でもします。

そのような仲間がいる。新しい家族がいる。それこそがあなたの新しい人生なのです。

(2009年3月15日、松戸小金原教会主日礼拝)