2008年9月5日金曜日

そこはかとない日本

「福田内閣メールマガジン」の最終号についてもう一つ気になっていることは、福田氏が書いた政治哲学の内容です。「太陽と海と伊勢神宮」の三つが「永遠の今」であると。「永遠の今」という字を見て20世紀の神学者パウル・ティリッヒを思い起こした日本のキリスト者は多いでしょう。しかし私の関心はそちらではなく、なぜ福田首相は最後の言葉に「伊勢神宮」を選んだのかです。右傾化を読み取る人は少なくないでしょう。でも、私は何か違うものを感じました。福田氏に踏めなかった「踏み絵」があるというメッセージではないか。そんな気がしました。日本は今後どこへ向かっていくのでしょうか。そこはかとない日本を前にして、黙っていることができず、しきりと何かを書きたくなる私がいます。



「46週間内閣」の謎

本日配信された「福田内閣メールマガジン」の最終号は「第46号」でした。短命の一言に尽きる内閣でした。



この短さがあまりにも気になりましたので「安倍内閣メールマガジン」の最終号を見ましたところ、ちょっとびっくりしたことは、こちらも「第46号」であったことです。もちろん偶然の一致でしょうけれども、なんとなく不可解なものが残ります。



5年続いた「小泉内閣メールマガジン」の最終号は「第250号」でした。原則的に毎週木曜日の午前7時きっかりに配信されてきた(ように見える)彼らのメールマガジンです。つまり二つの内閣のメールマガジンの最終号が「第46号」であることの意味は、彼らの政権がきっかり46週間で幕を閉じ(させられ?)ているということです。共に「46週間内閣」であったということです。



この数字的な一致の理由は、それほど多くはないような気がします。おそらくは安倍氏が首相になる前に、安倍氏自身でも福田氏自身でもない(そしてもしかすると自由民主党の内部にいるのでもない)第三者が、政権交代についてのアジェンダを作成したのではないか。そのアジェンダを忠実に実行する秘密チームのようなものがあるのではないか。「まずは安倍に46週間、次は福田に46週間、そして次は○○、その次は○○」というような何かが。



政治にかかわる人々がその種のアジェンダを作成することや、その種のプランナーたちがいることは当然といえば当然のことですが、問題はそのような何らかのアジェンダが「忠実に」実行されてしまうこと自体です。最高権力者であることになっている(はずの)首相自身を一週間の狂いもなしに(きっかり46週間!)「忠実に」従わせるアジェンダと、それを実行するための秘密チームが存在するとしたら、それはほとんど「恐怖政治」と呼んでもよいような何かです。



もしこの推測が当たっているとしたら、福田氏の辞意表明の「唐突さ」の意味と、辞意表明中の「悔し涙」の意味、あるいはまた、そもそも政権担当中からの福田首相の「やる気のなさ」や「無表情」の意味がうまく説明できるようになります。福田氏から麻生氏への「禅譲の密約」というようなたぐいのものは、あったかもしれませんが、それはあくまでも個人レベルの話であり、自由民主党内部の話です。



私が気になっているのは、そんな小さな話ではありません。もっと気持悪い何か、戦慄を覚えるような何かです。安倍氏と福田氏の「任期」をちょうど46週間にしておくことで(「46」という数字そのものには意味はないように今のところは感じられます)、この「任期」を一国の最高権力者に守らせたことを暗に国民に悟らせようとしたフィクサーの意図を感じます。一種の犯行声明に近いものです。



2008年9月4日木曜日

この思い、日記には書いておきます

日本キリスト改革派教会における女性教師・女性長老の「実現」のために未だになされていないことは、大会の議決権をもつ人々による、同志の議員連盟(議連)をつくることです。いまや議論は出尽くしています。お互いの腹の探り合いをしている段階は終わっています。その意味で、賛成・反対それぞれの議連をつくるときがすでに来ているのではないかと私自身は感じています。私自身は女性教師・女性長老の「実現」を願っている者ですので、そのグループが結成されたときは、喜んで参加させていただきます。

2008年9月3日水曜日

「田村でも金、谷でも金、母でも金」みたいでちょっと嬉しい

ちょっとだけ自慢させてください(日記のなかで誰に自慢するつもりだい?)。



「今週の説教」という語で検索した場合の結果として、私の説教サイトを探り当ててくれる順位がついに、グーグルでも第1位、ヤフーでも第1位、MSNでも第1位になりました!(本日現在です。この順位は日々変動しています)。



この検索結果は、私にとっては奇跡の瞬間芸のようなものですので、今日の日付を記念すべく書きとめておきます。



時々チェックしているうちに気づいたことは、各検索サイトの検索結果の上位にランクインしているのが、私(日本キリスト改革派教会牧師)のサイトと、日本カトリック教会の神父さんのサイトと、日本福音ルーテル教会の牧師さんのサイト。



つまり、うんと単純化して言えば、「カトリック、ルーテル、改革派」で三つ巴の競争(?)をしているように見えるということです。



まるでこの三者が16世紀っぽい説教競争を21世紀のインターネット内で再現しているかのように見えて、面白いです。



ただし、残念ながら、各検索サイトにおける順位が何を意味しているのかを、私は知りません。上記三つの検索サイトごとに結果が微妙に違っているところを見ると、それぞれの検索サイト会社が各自で持っている何らかの統計結果を反映しているのではないかと想像できます。



2008年9月2日火曜日

インターネット時代における「帝王教育」の不可能性

「福田首相辞意表明」のニュースを見ながらもう一つ考えさせられたことは、福田さんが流した涙の原因です。

本来なら、今こそ泣きたいのは、自分の国の首相が突然職務を放棄することで大恥をかいた国民です。それなのに福田さんはまるで自分が被害者でもあるかのように泣き出す。

こともあろうに悔し紛れにひとりの記者をつかまえて、「私は自分を客観的に見ることができる人間である。あなたとは違うんです」。

元首相であった父のもとで受けたであろう何らかの「帝王教育」が、福田さんに極度の自己愛を抱かせたのではないでしょうか。

そう言えば安倍さんも、辞めるとき泣きました。心神喪失状態に陥りました。「お前は他の人間と違う特別な人間である」という自意識を幼い頃から植え込まれていたからではないでしょうか。

しかし、それは、このインターネット時代においてはもはや不可能な自意識であるはずではないでしょうか。

皇室の子どもたちの将来も心配です。自分たちに対する批判的なブログも見たことがないような「帝王」たちは、これからは、無知の謗りを免れないことになりはしないでしょうか。

このインターネットが存在するかぎり、現代社会における宗教と政治の「世俗化」は不可逆的に進行していくでしょう。

この流れを堰き止めることはもはや不可能であると私は考えています。好むか好まざるかにかかわらず、我々はこの「世俗化」に向き合い、かつ付き合っていかざるをえません。


日本語の誤り(3/3)

私の知るかぎり、「第二の人生としての牧師生活」を志す方々の多くは、(少なくとも外見上は)謙遜な方々ばかりであり、周りから見れば「牧師になるにふさわしい」と認めてもらえそうな方々ばかりです。しかし、その人が謙遜であることと、批判を向けにくい相手であることとは別です。日本キリスト改革派教会には牧師の70才定年規定がありますので、「第二の人生」を迎えた人は、そこから牧師の道をめざすことはできません。そういうのは概念矛盾だと考えている牧師たちが多いはずです。ここから先はまるで私の自己弁護みたいに響いてしまうかもしれませんが、本来「牧師」は(かつてのヨーロッパでは)ギムナジウムと大学を卒業したらすぐになって、そこから退職までずっと続けるもの、つまり純粋に「職業」だったはずです。しかしそれが日本の教会では(時々なぜか改革派教会の中でも)いつのまにか「牧師は職業ではない」とか言われ、すっかり誤解され変質してしまっています。「牧師は職業だと思いますけど」と返すと、「サラリーマン牧師めが!」と罵倒され白眼視されるケースまであります(「サラリーマン牧師」という物言いを批判的な意味をこめて語ることはサラリーマンの方々に失礼です)。「牧師の身分」という表現を(これは改革派教会にも少なからず)さらっと使う人がいます。 しかし牧師は「身分」(ステータス)でしょうか。全くの誤解です。いつから日本のプロテスタント教会はカースト制度さながらの縦社会になったのでしょうか。牧師は純粋に「職務」(オフィス)であり、その意味での「職業」です。「牧師の身分」という言葉を悪気なしに使っている人まで批判するつもりはありません。しかし、こういうのも私は「日本語の誤り」であると考えています。レトリックが決定的に不足しているのです。



日本語の誤り(2/3)

とはいえ、これはあくまでも日本キリスト改革派教会の場合です。他の教団・教派には必ずしも当てはまらない部分があるでしょう。各個教会の牧師の暴走・迷走を訴え出る「法廷」(長老主義の場合は「中会」や「大会」)が存在しない、または機能していない場合、教会役員はじめ教会員が何らかの「自衛手段」を持つべきは当然のことです。 また、「神学校出たての老牧師」の場合なども難しいケースです。「先輩牧師に育ててもらう」と口では言えても、「初めから老牧師である人の先輩がどこにいるのか」という悩みが生じます。この理由から、私は、他の仕事を定年退職した後に「第二の人生を主にお献げしたい」という(それ自体はまことに敬意に値すべき)理由で牧師になろうとする高齢者たちに対して(やっかみとかではなく)非常に大きな疑問を持っています。 そういう人々の多くが、どこかしらアンタッチャブルな存在になってしまうからです。要するに、だれも「彼/彼女」を批判することができません。なかでも自分がそこで長年「教会役員」を務めてきた教会に自ら「牧師」として赴任する老牧師の場合などは、ほとんど確実にそうなります。 しかし「アンタッチャブルな牧師」だなんて全くの概念矛盾です。だってその人が「神の言葉」を語ろうっていうのですから。想像するだけで空恐ろしいものがあります。



日本語の誤り(1/3)

「教会が牧師を育てる」という言葉を聞くことがあります。しかしこれは、私に言わせていただけば、どう考えても日本語の間違いです。百歩譲っても。また長老主義においては「牧師」と「長老」は「霊的に同格である」と規定されているとしても、です。(少なくとも改革派教会の)牧師は「教師」です。「教師が生徒を育てる」は日本語として正しいと思いますが、「生徒が教師を育て」ますか? これって今どき流行りの「モンスターチルドレン」ではないでしょうか(「モンスターペアレンツ」は、もう古いようです)。私の信じるところは、牧師を「育てる」のは、(なるべく同じ中会の)「先輩牧師」か、そうでなければ(神学校の)「指導教授」です。このように書くのは、「教会員が牧師の批判をしてはならない」という意味では(まさか)ありません。批判は、大いにすべきです。しかし、牧師批判を「あなたを育てるために、してあげている」と言われると我々はかなり困ります。そのようなことをこの私に対して面と向かって言った人はまだいませんが、もし言われたときには「そう言いたければ、あなたも教師(牧師)になってください。あなたは私の教師ではありません」と言い返そうと思っています。



野党のコメントにひねりが欲しい

「福田首相辞任表明」をネットで知り、うげぇーと思ってテレビをつけました。ものすごく腹が立ったのは、福田首相が辞任表明の途中で、時々、うっと来ていたところです。「泣くなよ!」・・・え、それとも、自分はみんなから支持されているとでも思っていたのか? 私はてっきり、福田さんは、自分は支持されていないことが分かっていて、それでも「これが自分の仕事だから」という理由で続けているのではないかと思っていました。その種の(やや悪質ではあるが興味深い)図太さを持っているのではないかと感じていました。それならば敬意に値します。しかし突然辞める。辞意表明の最中に泣く。この人は究極の勘違い総理大臣だったのだと、今夜やっと分かりました。こういう人を総理大臣にもつことは国民の恥です。もう一つ。腹こそ立ちませんが、いかにもバカっぽく見えたのは、野党党首たちの、判で押したような、つまらないコメント。もう少しクセ球を投げる野党を見てみたいんです、私は。あえて名指ししますが、典型的にあの福島みずほさんのように(鳩山さんや志位さんもほとんど同じですが)バッティングセンターのピッチングマシーンのようなコメントしか出てこないと、どんなに速度ある球でも、目が慣れてくると、どんな素人でも打ち返せるようになるんです。加えて思ったことは、総理大臣をポイっと辞める人って何のために政治家になったんだろうかということです。総理大臣って政治家になった人たちにとっては究極目標じゃないんですかね(違うのか?)。総理大臣が、現職のまま「周囲の圧力で」死ぬなら、本望じゃないんですかね(これも違うのか?)。もし「周囲の圧力で」辞めるということだとしたら、「総理大臣としては死ねません」ということかと思えてなりません。極端に自己愛が強いだけの人だったのかもしれません。「この内閣は続くかも」と思っていた私の、人を見る目の無さも痛感。今、かなり不愉快です。



2008年8月31日日曜日

やっと夢がかなった


使徒言行録28・17~31

今日で使徒言行録の学びを終わります。約一年半かかりました。最初の説教のときに私が申し上げたことを、たぶん皆さんはお忘れになっているでしょう。「使徒言行録の学びが終わるまで、皆さん元気でいてください」。冗談で言ったわけではなく本気で言いました。しかしこの間、一人の姉を天におくりました。一人の兄、一人の姉が、遠くに引っ越して行かれるのを見送りました。一人の姉は長期入院中です。仕事が変わった方、身辺が急に忙しくなった方々がおられます。年々体力が落ちていると感じている方は多いでしょう。私も今年前半は、体調不良に苦しみました。すべてこの一年半の間に起こったことです。

「願いがかなう」というのは簡単なことではない。そんなふうに感じます。使徒言行録に紹介されているのは最初の教会の様子、とりわけ伝道者たちの戦う姿でした。しかし、ここで言わせていただきたくなることは、最初の教会の人々やペトロやパウロだけが苦労したわけではないということです。わたしたち自身も苦労しています。わたしたち自身も、ペトロやパウロと同じか彼ら以上に、一日一日、足と体を引きずりながら、いろんなものにぶつかり傷つきながら生きています。しかしそれでもわたしたちが絶望してしまわないで立っていることができるのは、苦しみの日々の中でほっと一息つくことができる瞬間があるからであり、それを神の恵みとして受けとることができるからではないでしょうか。

日曜日の礼拝が皆さんにとってそのような時間でありうるようにするために、私なりに努力させていただいているつもりです。わたしたちの月曜日から土曜日までがつらくて、そのうえ日曜日までつらかったら、わたしたちは、もはや立っていることができません。教会の礼拝は、現実から逃避するための場所ではありません。しかし、現実の戦いのなかで傷ついた人々の安息の場ではあります。今日、日曜日はわたしたちの安息日なのです!ですから、皆さんどうぞここで休んでください。エウティコのように説教の途中で居眠りしてくださっても構いません(ただし、三階から落っこちないように。松戸小金原教会に三階はありませんが)。教会にはどうぞ休みに来てください。遊びに来てください。私にはそれ以外の表現ができません。ここは、お説教に苦しめられる拷問部屋ではないからです。

パウロの夢は、ついにかないました。念願のローマに着きました。パウロはこれまで、いくら祈っても計画を立ててもローマに行くことはできませんでした。ところが、その彼が囚人となってローマ人の兵隊に護送されるという格好で彼の夢がかないました。しかし、過程がどうあれ、パウロにとって重要だったのはローマに行くことでした。なぜパウロはローマに行きたかったのでしょうか。その理由が今日の個所に記されています。

「三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。『兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。』すると、ユダヤ人たちが言った。『私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。』そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。」

パウロの発言の趣旨をまとめておきます。キリスト教信仰を宣べ伝えるパウロの活動をユダヤ人たちが理解してくれない。実際のキリスト教信仰はユダヤ人たちが信じる聖書の教えと反するものではない。ところが、ユダヤ人たちはそれが聖書の教えに反するものであると言い張り、パウロを捕まえて殺そうとした。裁判でローマ人は、パウロのしていることは死刑に当たるようなものではないことを理解してくれた。それでも、ユダヤ人たちが彼の有罪を言い張るので、ローマ皇帝に上訴しなくてはならなくなったというわけです。パウロは、キリスト教信仰を宣べ伝えることは、それによってだれかから責められたり殺されたりするようなものではないことを、ローマ皇帝に認めてもらいたいのです。

もう少し短く言い直します。パウロが「ローマに行かなくてはならない」という確信をもった理由は、キリスト教信仰とそれを宣べ伝えるキリスト教会の“市民権”を保障してもらうためであったということです。これを信じているから逮捕されるとか、これを宣べ伝えているから殺されるというような不当な扱いを今後一切受けることがないように法的に認めてもらうためであったということです。その法の番人がローマにいる。そこでこの問題についてはローマに行ってその人に直接かけあって話してみたいという動機をパウロが持っていたということです。

しかし、この理由は、私にとっては、分かりにくいものです。なぜ「分かりにくい」と言わなければならないのでしょうか。

第一は、わたしたち(念頭にあるのは、21世紀の日本のキリスト者)は、パウロと同じような意味で、キリスト教信仰とキリスト教会の“市民権”を獲得するための戦いをしなければならないような状況にあるとは思えないからです。わたしたちがこの信仰をもって生きることを決心し、そのような人生を歩んだからといって、それによってただちに迫害されたり殺されたりするような状況にあるわけではありません。

それどころか!つい最近ある先輩牧師の口から聞いた言葉をお借りすると、今日の状況は「糠に釘、のれんに腕押し」です。わたしたちが何を信じようと、何を宣べ伝えようと、「どうぞご自由に」という空気に包まれます。全く無関心です!迫害されたり殺されたりするような状況に戻るほうがよいなどと、まさか考えているわけではありません。しかし、いわばその代わりに、無関心の牢獄、無反応・不感症の泥沼の中にいるような感覚があります。これがパウロの時代とわたしたちの時代の決定的な違いであると思われるのです。

もう一つ。第二に申し上げることは、第一に申し上げたこととはいくらか違う次元から見たことです。しかし内容的には重なります。

パウロのローマ行きの理由は、ローマ皇帝に上訴することによって、キリスト教信仰とキリスト教会の市民権を保障してもらうためでした。しかしそこで私がどうしても抱いてしまう疑問は、はたして本当にそのようなことがパウロひとりの力で可能なのだろうかということです。相手はローマ帝国の最高権力者です。歴史が伝えるところによると、歴代の皇帝たちは、人を人とも思わない、凶悪な独裁者でした。そのような人のところまで、まるでネズミ一匹のようなパウロが、単身でのこのこ乗り込んだからといって、何がどう変わるというのでしょうか。あまりにも無謀すぎるのではないか。危険すぎるのではないか。そのように感じられてしまいます。

もっとも、パウロは、これまでの間にすでに、ユダヤの最高法院を相手し、ユダヤの王アグリッパに対しても戦いを挑んできました。だからこそローマにも行き、ローマ皇帝の前にも立つ。そのような勢いを得、自信を抱くことができたのかもしれません。

しかし、ここでわたしたちがどうしても考えなければならないことは、ユダヤとローマは違うということです。ユダヤの王とローマ皇帝は違うのです。ユダヤの王アグリッパの前でパウロがそれを根拠にして語り、しきりと訴えていたのは聖書です。「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」(26・27)。ユダヤの国は、たとえどれほど堕落していたとしても、聖書を土台にして立つ国家でした。彼らの思想や文化の中に聖書の教えが生きていました。だからこそ、パウロが聖書の言葉を引き合いに出して論じることに対して、ユダヤ人たちは大いに反応し、また多くの場合、激怒したのです。両者の対話は、いちおう成り立っていたのです。

しかし、ローマ皇帝の場合はそうは行きません。聖書の御言葉を根拠にして語ったからといって、それを理解してくれるような相手ではありませんでした。どう考えても。それは全く異なる思想、全く異なる文化のうえに立っている相手でした。

聖書の教えが全く通用しない相手と語り合う。言葉の通じない、通じそうもない相手と話す。この点においてはパウロの状況とわたしたちの状況とが重なりあってくるところがあります。私は時々、家族の者から「内弁慶である」と批判されることがあります。そうであることを正直に認めざるをえません。すべての牧師が私と同じであるとは限りません。しかし、牧師たちの多くは、聖書を用いての議論ならば、得意としているはずです。私もそうです。もしそれが聖書に基づく議論であるならば、夜を徹して語り合うことができる用意と自信があります。

しかしです。聖書の教えが通用しない相手には苦手意識をもってしまいます。何をどう話してよいかが分からなくなってしまいます。黙ってやりすごすしかないと考えてしまいます。“引きこもり”になってしまいます。

そのような私であるゆえに、パウロの姿を見ると、大いに反省させられます。相手からネズミ一匹と思われようとも、聖書の教えが全く通用しない相手であろうとも、この信仰、この教会を守るために勇気をもって立ち向かう。このパウロの姿に学ばなければならないことがたくさんあると思います。聖書を知らない人々に、聖書を教えること。この信仰の真の価値を知らない人々に、この価値を分かってもらうこと。これこそが伝道であることは、間違いないことだからです。

「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。『聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。「この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。』パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」

使徒言行録の最後の部分は、いくらかコミカルでユーモラスな調子で書かれています。念願かなってローマにたどり着いたパウロの前に、またしても(!)無理解なユダヤ人が現われ、苦労するのです。「あーあ。まったくもう!」というパウロのため息が、ここまで聞こえてくるようです!

ローマの町はパウロにとって天国ではありませんでした。地獄でもありませんでした。そこでも引き続き、彼の日常生活が坦々と続けられました。彼の日常生活とは、御言葉を宣べ伝えること、すなわち伝道でした。パウロから伝道を取り去ると、彼のあとには全く何も残らなかったでしょう。パウロの人生は、神とキリスト、そして教会のためにすべて献げられたのです。

(2008年8月31日、松戸小金原教会主日礼拝)