2025年9月30日火曜日

電気なしでも成り立つ礼拝

2025年 1 月 2 日 岡山の実家前で撮影。
記事中の「元は海の底だった埋立地」は実家のことです。


【電気なしでも成り立つ礼拝】

2011年の計画停電は、当時私が住んでいた松戸は対象から外されて過ぎ越されたが、直前まで身構えた。そのとき考えたのが「電気なしでも成り立つ礼拝」。いつも電気なしで、と言う必要はないが、電気がないから礼拝できないという状態にしないことが大切と、そのとき考えた。電気の実用化は17世紀以降。

説教原稿は紙か石ころと鉛筆か引っかけるものがあれば何とかなる。週報はガリ版かプリントゴッコがあるといいな。そういうのが一般的だった時代の教会を私も覚えている。その頃から教会に通っていた。足踏みオルガンがあるといいな。日中の礼拝でも室内は意外と暗いのでロウソクと燭台があるといいな。

教会堂に集合してする礼拝の出席者の減少を嘆く声を繰り返し聴いてきたが、そのたびに複雑な心境。「これからはクルマ社会だ」と言われ、核家族化が進み、山の上や郊外や元は海の底だった埋立地の新興住宅地に移住した世代が、若い頃は意気揚々。運転免許返上の年齢を迎え、「教会に」通えなくなった。

いま考えているのは電気なしでも成り立つ礼拝。運転免許を返上した方々が教会堂に物理的に集まるには、遠方の場合は公共交通機関が必要だろうけれど、電車は停電時はたぶん止まる。バスか。教会堂の近くに住んで徒歩か自転車で通えるのは最適解と思えるが、都心の教会はそうは行くまい。足立は別だが。

「踊る大捜査線」シリーズが面白く感じたのは教会も同じだなと思えたから。交番や警察署を見下げる警視庁の姿が都心の教会と重なった。シリーズのはじまりは1997年だったそう。私はその年から神戸→山梨県の現甲斐市→千葉県松戸市。特に松戸で見たのは、近所のキリスト者たちが都心の教会を目指す姿。

徒歩か自転車で通える距離でも、相対的にちっぽけな教会は目に入っていなかったか。一度二度礼拝に出席してつまらないと思ったか。松戸は特に戦後は東京からの移民が多かった。都内の出身教会が流出を嫌がって引きとめていたか。電車もバスも億劫な高齢になってこちらに通う気になられた方が多かった。

「電気なしでも成り立つ礼拝」は「大規模な計画停電の最中のような状況下でも」と言いたがっている。「教会堂のあの装置が作動しなくても」というだけで済まない。集まる手段は当然含まれる。徒歩か自転車で通える距離の教会を大切にするほうが長い目で見るとたぶん良い。「たぶん」としか言えないが。