2017年9月30日土曜日

神学に流行り廃れはない

内容とは関係ありません

個人や自分に関心がない神学がもしあるとしたら必ずしもそうでないかもしれないが、そうでない神学はおそらく必ず「今の私はなぜこうなのか」という問いから出発する。「今の世界がこうだから私はこうなのだ」という答えもあれば「今の世界がこうであるにもかかわらず私はこうだ」という答えもあろう。

しかし、それはなんら答えではないと感じる人は多い。謎は已まない。「ならば今の世界はなぜこうなのか」と問いはじめる。「政治が」「経済が」「教育が」と答え探しをしはじめる。それは決して無駄ではない。そのあたりをすべてスキップして「神が」「運が」「星が」と言い出さないほうが誠実である。

しかし人の関心は「神」なり「運」なり「星」なりに早晩たどり着く。そこから先が神学の出番であるわけではない。この認識が重要だと私は考えている。神学はもっと前の、いちばん最初の「今の私はなぜこうなのか」という問いからすでに始まっている。「なんでやねん」がすでに十分に神学の問いである。

そしてその「なんでやねん」は多くの場合、言い切りで終わる。「なんでやねん」という問いかけに対する答えの多くは、客席からのゲラゲラ笑いである。答えを知っているから笑っている人もいれば、自分も答えが分からないから笑っている人もいるだろう。しかし、ゲラゲラ笑い自体が答えではないだろう。

神学も同じだ。「なんでやねん」という問いの答えが神学ではなく、その問い自体が神学であり、その問いの多くは言い切りで終わる。神学が天文学のように仮説と実験を重ねて結論を導き出すことはありうる。しかし「人類はここまで解明できた」という話にはなりにくい。聖書学はそれに近いかもしれない。

そうではなく神学はむしろ、太古の昔から存在する多種多様な思想を、通時的にというより共時的に扱い、そのうちのどれが妥当かを主体的に選択し、責任的に決断することに重きを置く。どの思想は時代遅れでどの思想はそうでないというような見方も言い方もできないと思っている。神学に流行り廃れはない。

「三位一体論が流行してるんだよねえ」とか「売れ筋は贖罪論だぜい」とか「やっぱ聖霊論っしょ」とか、そういうトレンドは出版業界にはもしかしたらあるのかもしれないが、神学そのものの展開とは無関係だ。どれが古くてどれが新しいとかはない。新しいから良くて古いから悪いということもその逆もない。

三位一体の神学はどのゲートから入っても構わない

記事とは関係ありません

神が三位一体であるという教えで我々は、神の内部の(ad intra)三つの位格(御父、御子、御霊)の区別にとどまらず、神の外部の(ad extra)外見上は大きく異なる三つの経綸(創造、贖罪、聖化と完成)の区別をしたうえで、三つの働きはただおひとりの神によることを教えようとする。

神の内部の(ad intra)の位格と外部の(ad extra)の経綸は一対一対応ではない。御父は創造のみ、御子は贖罪のみ、御霊は聖化と完成のみを担当なさるのではない。御父も御子も御霊も、創造も贖罪も聖化と完成も担当なさる。外部の経綸は区別できない(sunt indivisa)。

人間が神を見る場合、内部(ad intra)の透視はできないので、外部(ad extra)の経綸を見て内部の各位格の関係性を類推するしかない。そして出発点は常に神を見ようとする自分自身でしかありえないので「聖化から」出発するしかない。聖化から贖罪そして創造へとさかのぼるしかない。

神の内部(ad intra)との関係についても、たとえ透視はできないとしても「私の内に宿る御霊」(inhabitatio Spiritus sancti)は私との明確な接触点を有する神だと言える。それゆえ出発点は「御霊から」になる。御霊から御子そして御父へとさかのぼることになる。

しかも聖化は御霊だけの働きではなく御父と御子の働きでもある。神認識の出発点を「御霊による聖化」だけに限定するのは不適切であるし、目標を「御父による創造」だけに限定するのも不適切である。しかし聖化から贖罪そして創造へ、御霊から御子そして御父へという「後ろからの」発想の順序は正しい。

それはいわば、結果から原因へとさかのぼる順序に近いと言える。「今の私はなぜこうなのか」という自分自身のありのままの存在に対する現実認識から出発して、そのいわば究極的な原因を探し求める思索の中で、神までたどり着く人もいれば、別の何かにたどり着く人もいる。これ以外の経路はたぶんない。

「贖罪論一点張りの神学」には私も批判的だが、「贖罪論は不要だ」と考えたことはいまだかつてない。どちらの選択肢も三位一体の神学には不可能である。三位一体の神学は「創造論も贖罪論も聖化論も終末論も大事である」と必ず語る。どのゲートから入っても構わない。全体を見て回るには何年もかかる。

2017年9月26日火曜日

ヘッペ『キリスト教倫理』オランダ語版(1882年)を入手しました

久々に古書を買った。注文して6日で届いた。ヘッペ『キリスト教倫理』フニンク訳オランダ語版(1882年)(中央)。発行者序によると本書は看過された手稿の没後出版。私のヘッペ蔵書は3冊目。左から『改革派教義学』『キリスト教倫理』『特にオランダの改革派教会における敬虔主義と神秘主義』。




ヘッペ(Heinrich Ludwig Julius Heppe)は1820年3月30日ヘッセン州カッセルに生まれ、1879年7月25日マールブルクで没したドイツの神学者、教会史学者。1844年マールブルク大学で博士号の学位を得た。1845年からカッセルの聖マルティン教会の牧師。

1850年マールブルク大学神学部助教授、1864年正教授。ヘッペの専攻分野は教義学とヘッセン教会史研究。マールブルク大学でヘッペはルーテル派の信条主義者フィルマー教授(August Friedrich Christian Vilmar [1800–1868])のけんか相手だった。

ヘッペが1861年に出版した『改革派教義学』(原題Die Dogmatik der evangelisch-reformierten Kirche)は、1935年にカール・バルトの巻頭言がついたビツァー編集版となり、そのビツァー版をトムソンが英訳して1950年に英国で出版された。

カール・バルトは、ゲッティンゲン大学教授だったときヘッペの『改革派教義学』(1861年)を読んで触発されたことが『教会教義学』執筆の足掛かりになった。ファン・ルーラーは、ヘッペ『改革派教義学』のビツァー編集版(1935年)をユトレヒト大学神学部の教義学講義の教科書として採用した。

19世紀のドイツ国内で「改革派教義学」を教えたヘッペが「ルーテル派の信条主義者フィルマー教授のけんか相手(アンタゴニスト)」だったという点は非難されるべきではない。ルーテル派の圧倒的優位のドイツの中で改革派(カルヴァン主義)の立場に立つ少数の人々を神学的に擁護していたに違いない。

そのドイツ人ヘッペが書き残して出版に至らなかった手稿『キリスト教倫理』を、オランダ改革派教会の著名な神学者J. H. フニンク(Johannes Hermanus Gunning [1858-1940])がオランダ語に訳して出版していたことを今日初めて知った。驚き、興奮している。

目次を見るとキリスト教倫理の歴史的概観に始まり、各論では結婚、家庭、国民としてどう生きるか、教会の信徒としてどう生きるかなどに踏み込んでいることが分かる。19世紀のドイツで改革派(カルヴァン主義)の神学者がそれらをどのように教えていたかを知ることができるようになったのはうれしい。

2017年9月25日月曜日

関西学院大学理工学部で説教させていただきます

2017年10月16日(月)関西学院大学理工学部(兵庫県三田市学園2-1)チャペルアワー(礼拝)で私がチャペルトーク(説教)をさせていただくことになりました。テーマは「どうすれば人を好きになれるか」、聖書の箇所はローマの信徒への手紙7章19~20節です。よろしくお願いいたします。

大学入試シリーズ『関西学院大学』教学社

「ネットしかしていなかった」わけではない

記事とは関係ありません

ネットに書けるのは公開可能なことだけだ。それが急速に拡散するので「書いたこと」ばかり目立つ。「それしかしていない人間」だと誤解されることもある。しかし実際は「書けないこと」のほうが多い。私もそうだ。教会や中会や大会のことは「書けなかった」。しかしすべての労力をそれらに注いでいた。

ただ、使用するメディアの新旧交代の過渡期ではあった。「手書きでないと牧師らしくない」「封書を受け取れば封書で、はがきを受け取ればはがきで返信すべきだ」という固定観念をもつ世代の圧倒的支配力のもとで、メールやブログやSNSを「仕事に」活用するという切り替えが始まりつつある頃だった。

しかも、私はずっと田舎の牧師だった。都会の教会との情報格差に苦しむ中でネットを始めた。今は都会にいるので情報には困らない。しかし自分さえよければいいとは思わない。田舎の教会の現実は30年前と大差ない。情報不足で苦しんでいる。私がネットから撤退できないと思っているのはそれが理由だ。

とはいえ、都会の教会が主催する講演会や演奏会などの案内をネットで知らされても、ジェットや新幹線でも使わないかぎり参加できるはずがない。そんなのはどうでもいいとは言わないが、知らされても困ることは現実に少なくない。そのような宣伝チラシの拡散より地方の教会が必要としている情報がある。

地方の教会が必要としている情報とは何であるかを特定するのは難しい。それぞれの意見があろう。私はそれを「中身のある話」だと考えてきた。それが説教であれ教理であれ神学であれ、中身がしっかり詰まった情報だ。チラシばかりが届いて「中身が知りたければお買い求めください」というだけでは困る。

しかし、そんなことを考えながらネットに力を入れているうちに、「電脳牧師」「パソコンいじってるだけ」「信徒の顔を見ているのか」と、見知らぬ人からネットで、あるいは他教会の人から面と向かって言われた。歯がゆくて仕方がなかったが黙るしかなかった。信念を持っていたので耐えることができた。

今は牧師がネットを使うのは当たり前の時代になり、私ごときよりはるかに多くの情報を発信しておられる方々が多くおられる。私ごときが「電脳牧師」などと呼ばわられる理由はもうない。自称したことは一度もないし、不愉快ですらある。謹んでご返上申し上げたい。ラベル貼りはいいかげんにしてほしい。

厳しい言葉で終わると「悲しいね」か「ひどいね」ボタンを押されてがっかりするので、しめの言葉はいつも肯定的でありたいと願っている。さて、それをどう書くかな。それが難しい。希望のメッセージを何か。どんなひどいことを言われても、最後は感謝と喜びを語るメッセージを。書いてきたつもりだが。

2017年9月24日日曜日

「字ばかり書いていた」日々を思い起こす

うちからみる東京スカイツリー。右下45度に小さな東京タワー(2017年9月23日撮影)

昨年度1年間の学校教員生活のためか、意識の中ではすっかり遠い過去になってしまったが、私が日本基督教団に「戻って」2年に満たない。日本キリスト改革派教会に対する批判があって「戻った」わけではないので、思い出すのは良いことばかりだ。書けることは忘れないうちに書いておこうと思っている。

もっとも、私は日本キリスト改革派教会への加入の際、同教会の大会の教師試験を受けたわけではなく、東部中会の加入試験を受けただけだ。加入時にはすでに日本基督教団の正教師だったので、私の教師任職(按手)は日本基督教団のものであって、日本キリスト改革派教会で「再按手」されたわけではない。

日本キリスト改革派教会での19年半のうちの最初の1年半は神戸改革派神学校の学生だった。その後17年は東部中会の2つの教会の牧師だったが、大半の労力を「新中会設立」に注ぐことになった。私が願ったわけではない。しかし私は「新中会設立のために日本キリスト改革派教会にいた」ようなものだ。

「中会」とは英語のpresbytery(ブレスビテリ)の訳語だ。東部中会は英語でEast Presbyteryと訳される。Tobu Presbyteryと書く人もいた。日本基督教団の中に「連合長老会」を作っている教会群があるが、「連合長老会」もpresbyteryの訳語だと思う。

誤解がないように書くが、日本キリスト改革派教会東部中会の「新中会設立」計画は、私が加入するよりずっと前から立案され、実現に向けた努力が重ねられていた。私が「新中会設立」のために大それたことをしたなどとは思っていない。いわば偶然立ち会った。しかし、そんな私でも多くの苦労を体験した。

私が東部中会に加入した1998年7月の8年後の2006年7月に我々は「東関東中会」を設立した。英訳すればEast Kanto Presbyteryだ。私は常任副書記として初代四役の末席に着いた。それ以前の新中会設立準備委員会のような組織でもずっと書記だった。字ばかり書いていた。

そのとき味わった苦労は日本基督教団でもきっと役に立つだろうと思っている。「いかに」役に立つかはまだ分からないし、言えない。光の面だけでなく陰ないし闇の面も(十分すぎるほど)学んだので、「改革派教会」や「長老教会」のあり方を絶対視するつもりはない。地上の制度に完全無欠はありえない。



小金教会の主日礼拝に出席しました

日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)

今日(2017年9月24日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市)の主日礼拝に出席しました。今泉幹夫牧師の力強い説教と美しい会衆賛美に励まされました。午後の勉強会にも参加し、旧日本基督教会の伝統を継承する改革長老教会としての歩みに接し、感激しました。ありがとうございました。

2017年9月16日土曜日

「丁寧な牧会」とは何かと考えている


毎週教会に通っても聖餐式で無視されるのが不服で受洗(6歳)。毎週説教を聴いても理解できないのが不服で神学部入学(18歳)。日本の教会にファン・ルーラーの神学が十分紹介されていないのが不服で翻訳開始(31歳)。自分の翻訳が一向に日常の日本語にならないのが不服でブログ開始(42歳)。

字にしてみると自分の過去の判断と行動に共通点があることに気づく。どうやら私は不満だらけで生きてきたらしい。教師や先輩から嫌われる要素を持ち続けてきたらしい。批判でも文句でもなかった。いわば自分が納得したいだけだった。せめて「分かった」と言えることでなければ承服できなかっただけだ。

分からないことがあれば悔しくなって自分で調べたいと思わないだろうか。自分の文章や翻訳が極度に専門家の人たちの間だけの言葉で(その人々でさえ分かったふりをしているだけかもしれない)日常の日本語でないと思えばもっとよく考えて「普通の言葉」で書けるようになりたいと思わないだろうか。

某キリスト教雑誌のインタヴュー記事で「丁寧な牧会」という言葉を見た。それは「頻繁に信徒訪問するとか、信徒のケアをすることだけではありません。大切なのは牧会の目的です」と。その中にすべてを普通の言葉で語れるようになることが含まれていると私は思う。「普通」とは何かと問われるだろうが。

謎の要素があるほうが宗教性を担保できるという意見もあろう。平易であることを愚かであることと同義語のように受けとる向きもあろう。学術論文の文体でなければ何かを言いえたことにならないとみなされる分野や領域で働いている人々もいよう。しかし、そこにとどまっていていいのかと言いたくなる。

同じ感覚を持つ同世代以下の牧師が少なくないと感じる昨今であるが、「私は牧師らしくない」と自覚している。私もそうだ。たいていそういうことをだれかに言われた経験がある。良い意味だけでなく悪い意味でも。しかし、非神話化と偶像破壊を熱心に推し進めてきた世代の人々からそれを言われると閉口する。

閉口したままでしゃべろうとすると、もごもごになる。もごもごもごもご、もごもごもごもご。これで分かれと言われても無理だというのは分かる。もごもごもごもご、もごもごもごもご。うう、これでは伝わらない。どうしたらいいのだ。口を開いてしゃべるしかないか。でもそうすると、もごもごもごもご。

2017年9月12日火曜日

Gmailを無料で使い続ける方法

長年使用した自作デスクトップ(2015年10月撮影 現在は故障中)

Gmailのクラウドストレージの無料分が満杯になった。メール4万通強。有料版に移行したい気持ちを抑え、全メールをエクスポートしてmbox形式のメールを読み取れるサンダーバードにインポートし、Gmailのクラウドストレージを空にした。サンダーバードでは受信せず、読み取り専用で使う。

サンダーバードにインポートした過去のメール4万通強を懐かしく読み返している(全部は無理である)。最初からGmailではなくNiftyが長かった。Gmail開始時に過去の全メールをGmailに保存した。私が送信したもので残存する最古のメールの日付は1999年12月31日だと分かった。

「1999年12月31日(金)」のメールの宛先は「ファン・ルーラー研究会」のメーリングリスト。内容は業務連絡だ。ウィンドウズ98にPC雑誌付録のウィンドウズ2000試用版をうっかり上書きしてしまい、モデムとプリンターが動かなくなった。皆さんは気を付けてくださいね、とか書いている。

同日「1999年12月31日」清弘剛生先生から投稿があった。ファン・ルーラーのwelbehagenはエフェソ1章5節などのευδοκιαの訳だという発見の知らせ。「御心」「御旨」と訳される。しかしpleasureだ、神の喜びや満足や好意や善意が満ち溢れている!と教えてくださった。

「ファン・ルーラー研究会」のメーリングリストは1999年2月に始めたので、最初の10か月分のメールが私の手元に残っていない。清弘先生と私で初めてファン・ルーラーの論文「地上の生の評価」(1960年)を全訳したときの通信記録がない。当時、清弘先生は大阪、私は山梨。メンバー30名弱。

最近はSNSのやりとりが多くなり、メールはあまり使わなくなった。メールを使い始めた頃は周囲にずいぶん嫌がられた。「パソコンをいじっている」としか見てもらえなかった。「神学をやっている」と言っても誰にも信じてもらえなかった。実際どうだったかは当時のメールを全部読んでもらうしかない。

2017年9月8日金曜日

国際基督教大学高等学校で講演させていただきます

国際基督教大学高等学校ホームページからお借りしました

来月のことですが、2017年10月11日水曜日、国際基督教大学高等学校(東京都小金井市)の3年生向けキリスト教講演会で私が講演させていただくことになりました。情報公開許可をいただきました。ICU高校生の皆さんに早くお会いしたいです!

2017年9月7日木曜日

宝路

「よし、ぼくもキリスト新聞社の聖書ラノベ新人賞に応募するぞ!」と書き始めたが、ちょうど1千字で挫折した。そもそも「ラノベ」が何かが分からない。応募条件の1万字はシロウトには途方もない。企画が盛り上がりますように。

聖書ラノベ新人賞
http://talkmaker.com/info/303.html




「宝路」by 関口康


「すまん走路、お父さん来月から本社勤務になった。一応栄転だが。引っ越しだ。」

二日間ぼくは泣き続けた。友達と別れるのが寂しかった。このときほど父を恨んだことは後にも先にもない。
 
父の会社は、キャンプ用品の製造と販売を専門とするメーカーだった。個人の注文だけでなく軍事施設からの注文が多かったので大企業へと成長した。海外支店もいくつかあった。父は本社で製造部門を長年担当した後、社長の信頼を得て海外支店長になった。

そこでぼくは生まれた。早い話が帰国子女だ。おかげで、両親の母国語と現地の言葉と現地の学校で教わった別の外国語を自由に使える。「走路(そうろ)」という名前は親がつけた。

ぼくの将来の夢は、法律の勉強をして自分が政治家になるか、母国を背負う政治家を生み出す教師になることだった。

両親からよく聞かされたのは、母国を強くしなければならないということだった。国土が狭く、地理的拡大の可能性は乏しい。しかし歴史と知恵がある。軍事力を強化し、国土と国民を守り、わが国を世界一の経済大国にする。それが我々の「使命」であると。

ぼくもそう思っていた。外国で生まれ育ったぼくが目の当たりにしたのは国籍や肌の色や言葉が違うだけで差別し合う人々の姿だった。しかし、それはやむをえないことだと思っていたし、その感覚は今も変わっていない。

父の仕事柄、軍事関係者が頻繁にうちに来ていた。戦争が始まればキャンプ用品はよく売れる。特にテントは破壊された自宅代わりになるし、避難先移動中の家になる。しかし、軍に一括購入してもらえれば何年も遊んで暮らせる収入を得られる。その人々が父と酒を酌み交わしながら、母の手料理をつついていた。

母は軍人が嫌いではなかった。彼らと話している母の表情がぼくは嫌だった。彼らの顔や会話は憶えているし、子どものぼくをかわいがってくれた。

ぼくが勉強面でチャンピオンになり、国内最難関の学校に入学し、法律の勉強を始めることができたのも、父の仕事と無関係ではない。軍のおかげだと言わなくてはならないかもしれない。家庭が裕福でないと学校には入れない。同窓生も裕福な家庭の出身者ばかりだった。

そしてぼくは子どもの頃から複数の外国語を使えたし、国際交流が苦でなかった。栄養豊富な美味しいものを食べさせてもらったので、身体が頑丈でスポーツが得意だった。マラソンだってボクシングだってできたし、今も別の意味で続けている。

(未完)

2017年9月6日水曜日

考える余地はいくらでも残っている


何年か後の私が2017年の私を思い返したときに何を思うのだろうかということに若干興味がある。どのみち今のままではありえない。人にも言われたが、あとは私の決断次第らしい。「らしい」とまだ書くところが未練がましく見苦しい。「覚えやすいがややこしい」はハメハメハ。ハメハメハメハメハ~。

しかしこの期に及んでも、良い方向に現時点で進んでいるし、必ず進んでいくと思っているのは、自分を客観視できない身の程知らずの意識高い系だからかどうかは分からない。牧師にありがちかもしれないが、よってたかって「あるある~」とか言われましてもね。希望の神学は意識高い系でした、みたいな。

神学の本質はタブーなき思考にある。「神しか考えてはならない」のではなく「神まで考えてしまう」のが神学だ。人間の理性は謎解きをやめようとしない。考えるだけならリミッターは要らない。ただし大切なのは自己満足に陥らないことだ。それと「神まで考えてしまう」ことは学位や就職と直接関係ない。

「考えすぎで疲れる」と言われる意味がよく分からない。その経験がない。目と肩と腰に激痛が起こることはあるので、その意味の「疲れ」なら分かる。しかし「考えすぎ」で何が疲れるんだろうと思ってしまう。逆に、どこかでリミッターがかかっているからショートしてしまうのではないかと思ってしまう。

誰かを責める意図は全くない。他人の疲れを論評する立場にない。私に限っては「考えが足りなくて疲れる」ことはあっても「考えすぎで疲れる」ことはない。20年でも30年でも毎日背表紙を見つめているだけの本がある。せめて自分が買った本くらい全部読んで人生を終わりたいので、私は当分死ねない。