日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂 |
「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。』ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』イエスは言われた。『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。』『わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。』」
今日も長い個所をお読みしました。ここに記されているのは、イエスさまと弟子たちの会話です。三つの段落に分かれていますが、内容的にひとつながりの話題として読むことができます。
最初の段落から見ていきます。イエスさまと弟子たちがカファルナウムに戻ってきました。この町にシモン・ペトロの実家がありました。その「家」がガリラヤ伝道の最初の拠点になりました。その「家」に再び帰ってきたのです。
そのときイエスさまが弟子たちに「途中で何を議論していたのか」とご質問になりました。しかし、彼らは黙っていました。イエスさまには言えない、言うと恥ずかしい話をしていたからです。彼らが議論していたのは、イエスさまの弟子たちの中でいちばん偉いのは誰かという話でした。つまらない順位争いをしていたのです。
イエスさまは彼らの議論を聞いておられたようです。それでイエスさまはお座りになり、弟子たちを御自身のもとに呼び寄せて言われました。「いちばん先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。これはとても重い言葉です。しかし、これこそがイエスさまの基本的なお考えです。
「いちばん先」とか「すべての人の後」という言葉から連想できるのは、一列に並んで歩いている人たちの姿です。実際イエスさまと弟子たちは旅をしてきました。その中で、いちばん前を歩く人と、いちばん後ろを歩く人が、実際にいたはずです。
いちばん前を歩く人といちばん後ろを歩く人の違いは、一緒に歩いている人たち全員の姿が見えているかどうかです。すべての人が見える位置がいちばん後ろです。
いちばん前を歩く人は全体の歩くスピードを決める面がありますので、その人の役割はとても重要です。しかし、いちばん後ろの人にも大きな役割があります。それは、途中で疲れて歩けなくなった人を見つけて、励ましたり助けたりすることです。あるいは、途中で誰かがうっかり落し物をした場合は、拾って届けてあげることです。
教会の姿を考えさせられます。教会の中でだれがいちばん偉いのかという議論は、私は聞いたことがありません。そういうのはつまらない話です。しかし、イエスさまがおっしゃることを教会が守るならば、いちばん重い責任を負うべき人は、すべての人の後になり、すべての人に仕えなければなりません。
日曜日の礼拝でどの席に座るべきかというような話ではありません。それは次元が違う話です。しかし、重要なことは、教会の全体が見えているかどうかです。
そのときイエスさまは、一人の子どもの手を取って弟子たちの真ん中に立たせ、さらにその子どもをイエスさま御自身が抱き上げられて、言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。
これでイエスさまがおっしゃりたいことは、はっきりしています。子どもは弱い存在であるということです。いちばん偉くなりたい人は、いちばん弱い存在を大事にしなくてはならないということです。自分のペースでいちばん前を歩き、後ろについて来る人の姿が見えていないとか、まして弱い存在を切り捨て、見捨て、置き去りにするような人は、少しも偉くないのです。
「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる者である」と言われているのは、イエスさまはいちばん弱い存在であるという意味でしょうか。それは、そうではないと思われます。イエスさまは弱い存在ではありません。しかし、弱い存在を切り捨て、見捨て、置き去りにすることは、イエスさまのもとに集まっている人たちの中の強い人たちだけと共に歩むことを事実上意味してしまいます。それが問題なのです。
もっとも、イエスさまは、弟子たちに次のようにも言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8・34~35)。
これは厳しい言葉です。ある読み方をすれば、自分を捨てることができず、自分の十字架を背負うことができない、その意味で弱い者、信仰の弱い者はイエスさまの後に従って生きることはできないので、そのような者は見捨てて置いていくという意味の言葉として響いてしまうかもしれません。
イエスさまがこのようにおっしゃったのは、そのような意味かもしれません。繰り返し申し上げているとおり、マルコによる福音書の11章以下に記されているのは、イエスさまがエルサレムに入られ、十字架につけられるまでの五日間の出来事と三日目によみがえられる場面です。イエスさまは御自分がエルサレムで殺されることをはっきり自覚しておられました。
しかし、そのイエスさまが弟子たちに願われたことは、このわたしと一緒に死んでもらいたい、このわたしと一緒に十字架に架けられてもらいたい、ということではありませんでした。私の代わりにきみたちが死んでくれ、ということでもありませんでした。すべて、イエスさまただおひとりで死ぬことを願っておられました。
弟子たちがイエスさまと共に殺されることになれば全滅です。福音を宣べ伝える人はいなくなってしまいます。イエスさまは、弟子たちが御自分と共に死ぬとか、御自分の身代わりに死ぬのではなく、その正反対に、イエスさまのほうこそが弟子たちの身代わりになり、また全人類の身代わりになって、おひとりで死ぬことを願われました。それは弟子たちがいわばイエスさまから自立し、イエスさまの代わりに福音を宣べ伝える使命を果たし続けることができるようにするためでした。そして、イエスさまの教えに従って生きる教会を生み出すためでした。
そのような事情ですから、教会の中でいちばん偉いのは、イエスさまただおひとりだけです。ほかの誰でもありません。しかし、そのイエスさまの姿を、教会が見ることはできません。わたしたちの目には見えない方が教会の中でいちばん偉いお方であるということをわたしたちは大真面目に信じています。目に見える教会の中には、イエスさまと肩を並べる意味で、いちばん偉い人はいません。
二番目の段落に記されているのはいま申し上げたことと関係しています。イエスさまが弟子たちに次のように言われました。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。どうしてこういう話になったのかといえば、イエスさまの名前を勝手に使って悪霊を追い出している人がいるが、その人が弟子たちの言うことを聞かないので、やめさせようとしましたとヨハネがイエスさまに言ったからです。イエスさまは「やめさせてはならない」とおっしゃいました。「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」とイエスさまはおっしゃいました。
しかしまた、もう一つの面として、弟子たちが問題にしたのは、その相手が自分たちの言うことを聞かないという点がありました。そのような弟子たちの言い分をイエスさまが嫌がられました。彼らの言うことを聞くかどうかは問題ではありません。なぜならいちばん偉いのはイエスさまだからです。
この点も、教会は気をつけなければなりません。自分たちの言うことを聞かない人だからといって、教会から締め出すことや、イエスさまの名前を使うことを禁じることは間違っているということです。わたしたちは、イエスさまより偉くなってはいけません。
三番目の段落に記されているのは、すべてイエスさま御自身の御言葉です。とても厳しい内容です。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。
これも教会に当てはめることができます。イエスさまを信じる人々の群れを「教会」と呼びます。教会の中の小さな者の一人は、イエスさまにとっては、たとえば子どもたちです。あるいは、信仰の弱い人です。これから新しく信仰の道を求めて歩もうとしている人たちという意味での求道者です。あるいは、明確な信仰を告白するに至っていない未信者です。
せっかく信仰の若芽が出たばかり。これから茎を伸ばし、葉を茂らせ、実を結ぶことになるであろう人たち。そういう人たちを若芽のうちから摘んでしまうようなことをしてはいけない。そういう弱い若い人たちを躓かせてはならない。そういう人を躓かせるくらいなら、大きな石臼に首を懸けられるほうがましなのだ。手や足を切り捨ててしまうほうが、目をえぐり出す方が、ましなのだ。
このイエスさまの御言葉を読んだからといって、実際に手足を切り捨てたりはしないでください。そういうことをしてはいけません。あるいは、「あなたはもうすでに、あの人のこともこの人のことも躓かせたではないか。そういうあなたこそが自分の手足をさっさと切り捨ててしまえばいいのだ」と、イエスさま以外の誰かが他の人に言うべきことでもありません。
イエスさまがおっしゃっているのは、だれひとり躓かせてはならないというそちらのほうです。しかし、単なるたとえ話ではありません。大げさに言っておられるのでもありません。イエスさまの切なる願いを真剣に受け止めるべきです。
(2015年2月8日、松戸小金原教会主日礼拝)