2015年2月11日水曜日

深夜にプリンタが壊れて参っているの図

深夜にプリンタが壊れるとつらい
う~ん駄目だ、PCのプリンタが壊れた模様。参った。治らん。ねる。

「こういう神学だけは死んでもすまい」と考えてきたのが強いて名を付ければ「当てこすり神学」だ。「私の立場はA(右寄り)でもなければB(左寄り)でもない」と、AにもBにも当てこすることで自分の立場を表明する。「では、あなたは?」と問われると「私はAでもBでもない立場だ」と答えるのみ。

でもこれ、言うは易し行うは難しの典型例でもある。誰にも当てこすらずに神学を純粋にポジティヴに語り尽くすのは、けっこうな至難の業だ。右からも左からも襲いかかってくる論敵との対決の場面では熱くなり饒舌になるが、「では、あなたは?」という問いにポジティヴな答えを求められると寡黙になる。

しかし真顔で書くが、神学の美しさが遺憾なく発揮されるのは「あてこすり神学」においてではない。A(右寄り)にもB(左寄り)にも当てこすりながらでなければ立場を表明できない論理は、「邪道」とまでは言わないが、「卑屈」とくらいは言っておく。愛しさと切なさと心強さと、筆禍と舌禍と大炎上。

「当てこすり神学」は弁証法である。カルヴァン派は「我々がカトリックでないことは言うまでもないが、ルター派でもなければ再洗礼派でもない。両極端に陥らない中庸の立場だ」と言っていた。ルター派も、同じような論理を用いて「カルヴァン派の極端に陥らない」自己の中庸を主張していたことがある。

言っていることが全く間違っているわけではない。しかし「当てこすり神学」は、なんとなくみっともない。異なる立場に依存しているようでもある。「AでもなければBでもない」立場の人は、AのこととBのことに多くのページを割ける。「では、あなたは?」という問いに答えるまでの時間稼ぎができる。

当てこすりを中断して、最初から最後まで一貫して「私は○○と信じます」とポジティヴに語り抜くような神学が私の理想だ。プロトタイプは「使徒信条」かなとも思う。しかしそれは非常に難しい。「当てこすり神学」のほうがはるかに簡単だ。ほとんど他者の批判をしていればいい感じ。大した責任もない。

さあねようと思いながら、つい長々と書いてしまった。今夜はこれにて。