2012年12月10日月曜日
「第四章 AKBは世界宗教たりえるか」は考えさせられました
昨日アマゾンから届きました。
濱野智史『前田敦子はキリストを超えたーー〈宗教〉としてのAKB48ーー』(ちくま新書、筑摩書房、2012年)。
205ページありますが、90分で読み終えました。「うすい」本です。
「読む」というほどのものではない。チラシです。「眺める」でいい感じ。
まあ、でも、これからお読みになる方々のことを配慮して、ネタバレはしないでおきます。
濱野という人の本は、ぼくは初めてです。1980年生まれだそうで。
「キリスト」うんぬんと言われているので総毛立つ向きもあるかもしれませんが、目くじらを立てるほどの内容ではないです。
ただ、もうちょっとヒネリというか深みというか、あるのかなと期待しましたが、そのへんはちょっと。
首筋に力が入りすぎというか。あんまり面白くはないです、文章としては。
最もきわだったテーゼはこれかなと思いました。
「筆者〔濱野氏〕の考えでは、AKBのセンター、それはキリストでも天皇でもない、おそらく有史以来誰も見たことのない、情報社会における新たな宗教的/超越的存在である」(73ページ)。
よほど好きなんだな、と思うだけです。熱意はどうぞご自由に。
しかし、「第四章 AKBは世界宗教たりえるか」は、「たりえる」と「確信」する筆者の一本調子に辟易しながらも、筆者とはたぶん全く別の視点から考えさせられるものがありました。
ぼくは「たりえないんじゃないかな」と思いながら読んだクチですが(ぼくAKB嫌いじゃないですよ)、
その理由として思い当たったのは、「だって、AKBってテレビとネットなしには成り立たない存在じゃん」ということです。
そして、「テレビ」と「ネット」は「電気」の産物。
「電気なしにはAKBは世界宗教たりえない」。
でもね、世界化した古来の宗教には「電気の力」無かったよ。
そんなことを考えさせられました。
ついでに、昨年(2011年)4月6日に、ぼくがブログに書いたことを思い出しました。
タイトルは「大節電時代の幕開けと教会の存在理由」。
http://ysekiguchi.blogspot.jp/2011/04/blog-post_06.html
なんだか恥ずかしい文章なのですが、「教会」そのものにはいざとなったら「電気」は要らないという旨、書き散らしたものです。
その意味では、聖書と神学書は、「電子書籍化」の趨勢には最後まで白旗をあげないで、「紙の本」であり続けてほしいです。
世界の終末には、たぶん「電気」は無い。
その日にも聖書と神学書を読むことができるように。
駄文、お許しください。