2012年11月20日火曜日

日本人の神学者はもっと「英語の」論文を書くべきか

日本の神学(聖書学、教会史、組織神学、実践神学)の国際的評価を上げるために、日本人の研究者たちは、もっと「英語の」論文を書くべきか。

この問題は、大学や神学校の教育に一度も関わったことがないぼくごときでも、一度ならず悩んできたことです。

ぼくは、18歳から「神学」なるものに接し、いま47歳ですから、かれこれ29年になります。

大先輩たちにはとてもとても敵いませんが、ぼく的には、よくも飽きずに続けて来られたものだと、自分に呆れる思いです。

それくらいのスパンで「神学」なるものを続けてきた者としての、上の問いへの(暫定的な)答えは、「否」です。

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聖書学に関してはガチのシロウトなので、的外れのことを感じているだけかもしれません。

しかし、こと聖書にとっての重要な問題が「翻訳」にあるとぼくは考えているので、英語の論文が多産されるよりも、日本においてなら「日本語の」論文がたくさん書かれるべきだと思う。

ヨハネ福音書ならヨハネ福音書の、この言葉・あの言葉が、現代の日本語においてどのようなニュアンスと響きを持ち、意義と価値があるかが解明されていくほうに、もっともっと時間と力が注がれるべきではないかと、愚考するばかりです。

たとえばの話ですが、もしぼくがヨハネ福音書について、論文という形で何か書けと言われた場合に選ぼうとするのは、3章16節の「神はそのひとり子をお与えになったほどに《コスモス》を愛された」の《コスモス》で、現代人は何をイメージすればよいのか、というようなテーマだったりします。

それが英語(圏)でイメージされていることと、日本語でイメージすべきこととがズレている気がしているから。

それを日本語でどう「翻訳」すべきかを徹底的に考え抜き、苦悶し、それをまとめて論文にする。

この論文は、ぼくは日本語でしか書けないと思うし、翻訳不可能なものだと思う。

これは聖書学だけのことではないですよね。教会史でも組織神学でも実践神学でも同じです。

最初から日本語の言語体系の中で考え抜いて書かなければ、決して表現できない神学というのがある。

それは翻訳不可能です。

本来的に翻訳不可能なものが「英語」に訳されていなければ国際的に評価されない、というのであれば、それは国際学会のあり方自体が歪んでいるんだと思います。

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まあ、でも、二つに分かれますよね。

ぼくが関わったことがある国際学会といえば、「アジア・カルヴァン学会」とか「国際ファン・ルーラー学会」くらいですが、この二つの学会はまさに対照的でした。

「アジア・カルヴァン学会」は、原則として毎年一回、日本、韓国、台湾等に集まっています、どの国で開催する場合でも、集まる人たちがアジア人ばかりでも、すべて英語で発表します。アジア・カルヴァン学会は国際カルヴァン学会のブランチで、会長はオランダ人ですが、その会長が英語で講演します。

「国際ファン・ルーラー学会」は、史上一回しか行われたことがありませんが、オランダ人、ドイツ人、アメリカ人、南アフリカ人、そして我々日本人が合計200人ほどアムステルダムに集まりましたが、レジュメ一枚配られず(?!)、全員が自分の母語で(!!)講演しました。

「分っかるかい!」と腹が立ちましたが、すっごいビックリしたし、目からうろこが落ちました。これこそ「本来の」国際学会だと思いました。200人の神学者たちは、それぞれの言語を聞きわけて、うなずいたり、笑ったりしていました。

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日本の評価を上げるために、日本の研究者が、なにがなんでも「英語で」論文を書かなくてはならないということになるでしょうか。それこそ自虐かもしれませんが、日本の研究者が英語で書いたような論文を、海外の研究者がどれくらい読み、評価してくれるでしょうか。あまり期待しないほうがよいのではないか。

「グローバルスタンダード」という美名のもとなる英語至上主義みたいなものも、趨勢としてはやむを得ない面もあるでしょう。

だけど、英語は万能なわけじゃない。こと微細なニュアンスを考え抜かなくてはならない文系の学問では、英語なんかに訳せっこない論文もあるはずですよね、と思う。

「コスモス」の話を繰り返せば、英語ならworldとかuniverseとか訳しておけばいいかもしれませんが、それは宇宙なのか万有なのか、世なのか世界なのか、世間とか俗世とか訳さなくてはならないのか、そんなふうに訳して今の子たちに意味が理解できるのか、みたいなことをえんえんと、あーでもない・こーでもないと考えてみることが、日本のコンテキストでは重要だと、ぼくは思う。

そういうのって、他国の言葉に訳せますかね?

オランダのライデン大学神学部で長く教えた著名な教理史家のハイデルベルク信仰問答やベルギー信仰告白やドルトレヒト信仰規準の研究書など見ると16、17世紀のオランダ語と現代のオランダ語の比較とかしている。

それ、どうやって日本語に訳すんですかね?英語にさえ訳せそうにないです。

アタマ抱えますよ、ガチで。