仕事が「収入」で、勉強は「支出」。
それ、単純すぎる考え方だと思いますよ、ね?
仕事ができる(=収入を得られる)ようになるために勉強する(=投資的に支出する)、のかなあ。
それも違うと思うにゃー。
勉強って、やればやるほど自分の無知が分かって謙遜になれると、大昔の人は考えた。
なんか、今さらながら、そういうことじゃないかなっと思うんですけどね。
つまりは、勉強を完全に放棄してしまったオトナみたいな感じになることが、いちばん傲慢な態度だってことですね。
やだなー。自戒、自戒。
しかし。
今の子どもたちの多くは、よほど資産家の子弟でもなければ、大学を卒業した時点で、500万以上の「借金」(多くは「日本育英会の奨学金」という名の「借金」)を抱えています。
それは「将来の就職のために必要な先行投資。就職すればすぐに取り返せる」という“見通し”に基づく話でしたが、今は大学を卒業して10年経っても20年経っても定職に就けない人が少なくない。
言っておきますが、定職に「就けない」(cannot)のは、その人のせいではないですよ。どこの会社も新規採用の門を極端に狭めているのだから。”ある世代”の人たちを保護するために。
だから、子どもたちは、大学に支払った分の「借金」を返すことができない。請求書は怒涛のごとく。「人から借りたものは返すのが人の道ってもんよのお」という任侠道の人たちの出番が生じる。
しかし、仕事は無い。その「借金」を返済できるほどの「収入」はない。
それで、多くの人が、”逆算して”後悔している可能性が高い。
(1)あの「借金」(=奨学金貸与)は無駄だった。「大学」なんか行かなきゃよかった。
(2)しても意味の無い(=「借金」の返済もできず、見ず知らずの任侠系の人たちから脅迫を受け続ける人生を送らなければならなくなるような)「勉強」など、しなきゃよかった。
(3)勉強よりも、「体で」稼げば良かった。
こういう悶絶ものの歯車(実践的三段論法!)の中で、今の若者たちは切り刻まれています。
「人間が勉強すること」を資本主義的な集金システムの中に組み込みすぎた現代社会を、ぼくは心のどこかで憎んでいるのかもしれません。
ぼくごときが何を言っても、多勢に無勢ですけどね。