2012年11月4日日曜日

自分の十字架を背負いなさい



マタイによる福音書16・21~28

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、べトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている。』それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。』」

先日行いました秋の特別集会(2012年10月21日、松戸小金原教会)が終わった後、おひとりの方が貴重なご意見を寄せてくださいました。

それは、この教会に初めて来られる方の中には、礼拝堂の室内のどこにも十字架の像が無いことに驚きを感じる人は少なくないはずだ、ということでした。

屋根の上には十字架が立っているのです。しかし、礼拝堂の中にも十字架が付いている教会は少なくない。改革派教会のことをご存じない方は、当然どこかに十字架がついているし、その上にキリストの像がはりつけられていると考えておられるだろう。しかし、この教会にはそれが無い。どうして無いのかということを、牧師から説明すれば、関心をもつ人は多いのではないか、というご意見でした。

なるほど、と思いました。私はそのことについては、考えることさえほとんど無くなっています。なぜ付いていないのかということについて疑問に思うことさえない。しかし、そのことを疑問に思うことがない我々の姿が、この教会に初めて来られる方々から奇異に見えるかもしれません。そして、その我々の姿が奇異に見えるということにも気づくことさえない。

どうやらそういう事情のようです。私もその方に指摘していただいて初めて気づきました。ありがとうございます。

この礼拝堂に十字架が無いことの理由は単純明快です。最大の根拠はモーセの十戒の第二戒です。「あなたは、自分のために、きざんだ像をつくってはならない」という戒めです。

第二戒で言われている「きざんだ像」とは、宗教的な目的でそれを拝んだり手を合わせたりするために作られる像のことです。そのような目的ではない、いわゆる芸術的な意図で作られた彫刻などまで禁止されているということではありません。

しかし、ある意味でわたしたちは、そのような芸術作品に対してもかなりの警戒心を抱いて来たことは否定できません。美しいものを目にすると、思わず手を合わせてしまう。思わず拝んでしまう。そういうことはわたしたちにはありうることだからです。

たとえそれがイエス・キリストの像であろうと、十字架であろうと、その像そのものに、思わず手を合わせ、思わず拝んでしまうようなものになってしまう可能性があるようなものをわたしたちは警戒してきました。

わたしたちの礼拝堂の室内のどこにも十字架が無いし、イエス・キリストの像が無いことの理由はそれです。そのことを私自身は行き過ぎであるとは思っていません。しかし、結果的に、改革派教会の礼拝堂が殺風景のがらんどうになっていることは否定できない事実です。

今の説明でご理解いただけるかどうかは分かりません。しかし、ぜひご理解いただきたいことは、そのようなあり方こそが改革派教会の最も基本的な姿勢であるということです。

像を置かないことや作らないことだけが重要なことではありません。いかなる意味でも目に見えるものを拝まないということが重要です。あるいは、西だの東だのという一定の方角に向かって拝まなければならないというような考え方がありません。そういうのは端的に偶像礼拝の考え方であると我々は認識します。そういうことはわたしたちにとっては全く意味が無いことなのです。

いわばその代わりに、わたしたちは、目をつぶり、あるいは目を開けたまま、わたしたちの心の中に住んでおられる神に向かって拝み、手を合わせるのです。神は我々の目には見えません。我々の心が目に見えないのと同じです。

心の中の神を拝むと言いましても、自分の胸元を見ながら手を合わせても、意味はありません。重要なことは、わたしたちの心の中に住んでくださる神は、言葉を発せられる方であるということです。その言葉に耳を傾けること、従うことが、わたしたちの心の中の神を拝むことなのです。

聖書に関しても同じです。わたしたちはこの本そのものを拝んだりしません。講壇上の大きな聖書は拝むために置いているのではありません。聖書は拝むためにあるのではなく読むためにあるのです。これは飾りではありません。金色に輝いていますが、こんなものを拝まないでください。

その代わりに、わたしたちの教会にあるのは、わたしたち自身です。わたしたちの教会にはわたしたちしかいません。この教会には人間がいるだけです。あとは殺風景のがらんどうです。

今申し上げていることにおいて、独善的な意味で改革派教会の自慢をしているつもりはありません。他の教会を批判したり否定したりする意図で申し上げているのでもありません。しかし、ぜひご理解いただきたいのです。

それはわたしたちが教会の中にイエス・キリストの像や十字架の像を置かない最大の理由です。そのようなことをイエス・キリスト御自身が望んでおられないから、です。イエス・キリストの像や十字架の像を作ることは、イエス・キリスト御自身の御心に反することなのです。

なぜそのように言えるのでしょうか。今日の個所でイエスさまが弟子たちに対して語っておられる言葉は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)です。

この御言葉を私の考えに強引にこじつけるつもりはありません。しかし、はっきり言えることは、イエスさまが弟子たちに命ぜられたことは、イエス・キリストの像を拝みなさいということではないし、十字架を拝みなさいということでもないということです。そのようなことは、イエス・キリスト御自身が最もお嫌いになったことなのです。

イエス・キリストについていくことを願い、決心し、約束した人々がしなければならないことは、その人自身の十字架を背負うことであり、イエス・キリストに従うことであり、御言葉に従って行動することです。そのように生きることです。生活することです。十字架は拝むものではない。飾りではない。アクセサリーではない。ペンダントではない。十字架は背負うものです。自分で背負うものなのです。

厳しい言い方になるかもしれませんが、像など拝んでも何も変わりはしません。わたしたちが一つの像に向かって毎日手を合わせれば、何かが良い方向に変わるでしょうか。何かにすがりたい思いをもっている人々を軽蔑してはいけません。そういうのはダメです。しかし、たとえば受験生がすべきことは像を拝むことよりも勉強です。物を拝むだけなら、現実逃避であると言われても仕方がない。

イエス・キリストに従って生きるとは、イエス・キリストの願いどおりに生きることです。十字架の像を拝むことは、イエス・キリストの願いに反することです。矢印が正反対を向いているのです。

しかし、それでは「自分の十字架を背負う」とはどういう意味なのでしょうか。

イエス・キリストが弟子たちに求められたことはそのことでした。今日の個所にはイエスさまが、御自分がエルサレムで多くの苦しみを受けて殺されること、三日目に復活されることになるということを弟子たちに打ち明け始められたと書かれています。するとイエスさまが殺されるという話を聞いてびっくりした弟子のペトロが「そんなことがあってはなりません」とイエスさまを諌めたというのです。その弟子たちにイエスさまが語られたのが「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という御言葉でした。

この文脈から考えられることは、「自分の十字架を背負うこと」と「自分を捨てること」は同じことの言い換えであるということです。別の話ではないのです。同じことです。

それでは「自分を捨てる」とは何のことかが問われなくてはなりませんが、書いてあるとおりですとしか言いようがありません。文字どおり自分を捨てることです。

この言葉の反対の言葉は何かを言えば、その意味を理解できるかもしれません。自分を捨てることの反対は自分を守ることです。自己保身です。自己保身のためなら、自分以外のだれが犠牲になろうとも、自分の家族が犠牲になろうとも構わないというようなタイプの生き方を思い浮かべるとよいかもしれません。その反対が「自分を捨てること」です。

そして、それが「自分の十字架を背負うこと」と同じ意味になります。神、そして隣人を尊敬し、愛するために、自分自身を喜んで犠牲として差し出すことです。そういうことができるようでなければならないと、そのことをイエス・キリストは弟子たちに、イエス・キリストを信じるすべての人々に、そしてわたしたちに求めておられるのです。

わたしたちの教会に像が無いのはそのことにも関係しています。教会の建物の中に拝むべきものが何も無いのですから、礼拝が終わり、教会での活動が終わったら、なるべく早く家に帰ることが重要です。

さっさと帰ってください。この礼拝堂は居心地が良いのです。しかし、ここにじっと留まってはいけません。私の邪魔だと言いたいのではありません(まさか)。日常生活に戻ること、そして常に共に生きている隣人を愛することが、我々の信仰において最も重要なことであると言いたいのです。

わたしたちがいま毎週の礼拝の最後に歌っている「御民に仕えます」(Here I am Lord、芦田高之訳)という賛美歌の主旨は、まさにそのことです。「わたしを遣わし、みわざをなしてください。心を尽して、御民に仕えます」。

この歌詞の意味は、主なる神がこのわたしをこの世に派遣してくださり、このわたしを用いて神御自身のみわざを行ってください、ということです。このわたしは、心を尽して御民に仕えます。ここで「御民」とは洗礼を受けた人たちだけのことではありません。神が造られた全世界の人々のことであり、わたしたちの隣人のことです。

神は今日も、わたしたちを教会からこの世へと派遣してくださいます。たとえこの世の現実がどんなに厳しいものであろうとも、わたしたちはこの世の中で生きるべきです。それが「自分の十字架を背負うこと」です。

それは自分の家に帰ることです。自分の職場に帰ることであり、地域社会のために働くことであり、自分の日常に帰ることです。

そのとき、わたしたちと共に、御自身もまた「自分の十字架」を背負われた、わたしたちの救い主イエス・キリストがいてくださるのです。

(2012年11月4日、松戸小金原教会主日礼拝)