2012年11月25日日曜日

天国は平等です


マタイによる福音書20・1~16

「『天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、彼らは、「だれも雇ってくれないのです」と言った。主人は彼らに、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から初めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。』」

今日も最初に少し、説教のタイトルのことに触れることから始めさせていただきます。「天国は平等です」と書きました。これは、今お読みしました聖書の個所でイエスさまがおっしゃっていることを短く一言でまとめるとこうなる、という意味で書かせていただきました。

そうしましたところ、ご覧になった方から「本当ですか」というご意見をいただきました。「とても信じられない」というニュアンスでした。なぜ信じられないのか、その理由は何となく分かります。おそらく、天国は不平等なところに違いないと思っておられるのです。

なぜそう思われるのでしょうか。その理由もだいたい分かります。天国は不平等であると思っている人は、この地上の世界こそが不平等であると感じているのです。

地上の世界は不平等です。それははっきりしています。世界にはいろんな人がいるということは、小さな子どもでも知っています。背が高い人や低い人、体力や能力や財力がある人と無い人、国籍や人種や性別。平和な国と戦争の絶えない国。世界は不平等である。しあわせな人と、ふしあわせな人がいる。

そのことを納得しなさい、受け入れなさい、我慢しなさいと言われても、それは無理だと反発する人は多いでしょう。「地上の世界なんて所詮そんなもんだ」というようなニュアンスの理解を示すことくらいはできるという人はいるかもしれません。

しかし、深刻な問題はそこから先です。「天国は平等である」という字を見ると「本当ですか」と反応し、「信じられません」という気持ちを抱く人たちは、本当は、この世界が不平等であると思っているのではないのです。あなたがた教会はどうなのですか。教会は不平等ではありませんか。そういう気持ちを抱いているのです。

このような問いかけに教会はどのように応えるべきでしょうか。今日皆さんと一緒に考えたいことは、この問題です。しかし、回りくどい話はしたくありません。すぐ結論を言っておきます。

それはイエスさまの出された結論です。イエスさまがおっしゃっていることは「天国は平等です」ということです。もしそうであるならば、教会においてもできるかぎり平等を実現していかなくてはならないのです。「天国は平等かもしれないけれども、教会は不平等であってもよいのだ」などと開き直るべきではありません。わたしたちは、他人に厳しく、自分に甘いというようであってはなりません。

わたしたちは主の祈りの中でいつも「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。その意味は、神の御心が天国で実現しているように、地上でも実現できるようにしてくださいということです。地上の教会は完全なものではなく、不完全なものです。しかし教会は、天国において実現されている神の御心を、不完全ながらも地上で実現することを目指すことが求められているのです。

そのため、もし天国が平等なところであるならば、地上の教会もまた平等であることを目指さなくてはならないのです。

今日の個所に書かれているのは、イエスさまのたとえ話です。「天の国は次のようにたとえられる」と書いてあるとおりです。その内容は次のとおりです。

ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行きました。その主人は、一日働けば一デナリオンを支払いますという約束で労働者を雇い、ぶどう園に送りました。

そうしたところ、九時ごろ行くと、何もしないで広場に立っている人たちがいました。「きみたちは何もしていないなら、ぼくのぶどう園で働いてくれ。一日働けば一デナリオン支払うから」と、彼らを雇ってくれました。

十二時ごろにも三時ごろにも、何もしないで広場に立っている人たちがいたので、またその主人は、その人たちを一日一デナリオンでぶどう園に雇ってくれました。五時ごろにも行くと、同じように、何もしていない人たちがいたので、彼らも同じように雇ってくれました。

夕方になって、その日の給料を払う時間になったので、その支払いが始まりました。最初に給料を受け取ったのは、いちばん最後、五時ごろに雇われた人たちでした。約束どおり彼らに一デナリオンが支払われました。

それを見て、朝早く雇われた人たちが、ある期待を抱いたのです。五時ごろからたった一時間だけ働いた人たちに一デナリオンが支払われたのであれば、朝早くからまる一日働いたぼくたちには、もっと多くの支払いがあるだろうと考えました。しかし、その人たちに主人が支払ったのも一デナリオンだったのです。

それで、彼らは不満を感じました。しかし、主人は次のように答えました。

「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。

これが、イエスさまがお語りになった「天国のたとえ」です。天国というのは、このようなところであるとイエスさまはたとえを用いて説明なさったのです。

これは何の話なのか皆さんにはお分かりでしょうか。話が分かりやすくなるようにするとしたら、イエスさまがおっしゃっている「天の国」という言葉を「救い」という言葉で言い換えた上でもう一度最初から読み直してみるとよいのです。そのように言い換えることは可能です。聖書の中で「天国に行くこと」と「神の救いにあずかること」「神に救われること」は同義語だからです。

それでは「ぶどう園に雇われて働くこと」で、イエスさまは何をたとえておられるのでしょうか。これも結論だけを言います。

それは、わたしたち人間がこの地上の世界において神の御心を行うことを指しています。しかも、わたしたちがこの地上で神の御心を行うために、その前にしなければならないことは、そもそも神の御心とは何かを知ることであり、それを信じることです。具体的にいえば、神の御心が記されている聖書のみことばを学ぶことであり、それを信じることです。

聖書のみことばを学ぶためにわたしたちにできることは、地上の教会に属し、礼拝に参加することです。そのことをイエスさまも考えておられます。イエスさまもまた(シナゴーグで)安息日ごとに行われた礼拝の中で、聖書のみことばを説教しておられたからです。

ここまで申し上げれば、朝早くから雇われた人と、九時ごろ雇われた人と、十二時ごろ雇われた人と、三時ごろ雇われた人と、五時ごろ雇われた人の区別においてイエスさまが何をたとえておられるのかがお分かりになるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。まだ分からないでしょうか。

これも結論だけを言います。ぶどう園での「一日」は、わたしたちの一生です。朝早くと、九時と、十二時と、三時と、五時。これはわたしたちの年齢です。「朝早く」は生まれたばかりのとき、「九時」は子ども時代、「十二時」は青年、「三時」は中年、「五時」は高齢であると考えてよいでしょう。

たとえば私は先々週、47歳の誕生日を迎えました。47年間のすべてにおいて教会に通ってきました。これは威張って言うことではありません。べつに威張るようなことではありません。しかしとにかく私は47歳で47年間、教会に通ってきました。そのような者である私は「朝早くから雇われた人」に当てはまると考えることができるはずです。

このように考えれば、イエスさまのおっしゃっていることの意味はもうお分かりになるでしょう。このぶどう園の主人は、一時間しか働かなかった人にも、まる一日働いた人にも、同じ一デナリオンを支払ってくださるという、とても気前の良い方です。その方は、子どもの頃から教会に通ってきた人にも、高齢になってから教会に通いはじめた人にも、天国においては全く等しい報いを与えてくださる方であるということです。

イエスさまがおっしゃっていることは、まさにそのことです。地上における教会生活にはたくさんの苦労が伴います。つらいことだらけ、嫌なことばかりという面も無きにしもあらず、です。しかし、だからといって、天国においては教会生活の長い人と短い人との差別は無いのです。天国に別の部屋は無いのです。神はどちらの人にも等しい天国の恵みを与えてくださるのです。それが今日の説教の「天国は平等です」というタイトルの意味です。

このような話を聴いて「ねたみ」を起こすのは、教会生活が長いほうの人々かもしれません。神はずるいとか、教会生活の長さは関係ない、天国の報いは同じであるというなら、教会生活そのものがばからしいなどと言い出しかねないのは。

教会生活の経歴が長い人たちは、地上において、すでに長い間、神の恵みと祝福を豊かにいただいてきたことに感謝すべきです。しかし、教会も間違いを犯すことがありえます。教会生活の長い人と短い人とで差をつけようとする。奇妙な配慮が働いたりする。

そういうことを教会がしてしまうとき、「天国は平等です」と教会が言っても「本当ですか」と疑われてしまうのです。そのようなことで教会が間違いを犯さないようにイエスさまが戒めておられるのです。

(2012年11月25日、松戸小金原教会主日礼拝)