2009年11月29日日曜日

説教の「商業主義化」に反対する

拙文に対して御意見をいただくことができましたので、以下、謹んでお答えいたします。



「説教集批判」だなんてことを書くと、この業界から“干される”ことを熟知しつつ、すでにとっくの昔から干されきっている者にしか書けないことだと思って、勇気(?)をもって発言しました。



お察しのとおり、「金銭の授受」は私にとっては大問題です。それだけというわけではありません。しかし、この問題は短い言葉でお答えできるものではありません。私がブログに書いてきたこと、これから書こうとしていることのほとんどすべては、この問題に集約していきますので、「そのうち書きます」というあたりでご勘弁いただけますと助かります。



ちなみに、私の説教のブログ公開に「ポジティヴな意図」(「ネットで伝道しましょう!」など)は皆無に等しいということは、すでに白状済みです。



牧師になりたての頃教会員とモメタ原因の一つに「あなたは説教の中でこう言った。あれは私への当てこすりだ」、「それは違う。私があなたに当てこすりなんか言うわけがない」という不毛な口論(言った言わない論争)が続いた時期があり、それへの反省として、説教で言ったことのすべてをブログで公開することこそが教会員に「言質」を与えることになる、と考えてのことです。書物にして売ろうなどという話とは、全く次元がかけ離れているものです。



また、批判対象としている「説教集」には、リソグラフで印刷してホッチキス止めした私家版のようなもののことは全く含まれていません。また、ブログで無料で公開している説教も含まれていません。それらと、キリスト教書店の本棚に並んでいる「説教集」との違いは、私などが念押しなどするまでもなく、多くの人々の目に歴然としているでしょう。



私が問題にしているのは、いかにも威嚇的な装丁をもって日本の諸教会と牧師たちとを圧倒せんとする「権威ある」説教集のことです。著者の名前をはっきり書いても私自身は一向に構いませんが、有名な「塾」とその「塾長」の名前と結びつく話をしているということは、お分かりいただけるはずです。



しかし、その「塾長」には大いなるリスペクトも持っております。7月6日には直接お会いしてお話しする機会がありましたし、その後メールもいただきました。「私怨」のようなものは皆無です。



それに、「装丁」に関しての責任は、著者自身のほうよりも出版社のほうにこそあると言わねばならないかもしれません。大した内容も無いものを物々しく作り、高く売る。この点には確かに問題があります。そのような「権威ある」説教集なるものによって、神の言葉と教会のために格闘し、泣き笑っている者たちの日々の苦闘が、どこかしら高みから見下ろされているような感覚が私にはあります。



もう少しはっきり書きましょう。



「権威ある」(装丁の)説教集には、「わが教会の牧師のクズ説教を聴いて惨めな思いに陥るくらいなら、自室でこの説教全集を読んで日曜日の貴重な休日を過ごすほうがましだ」という、多くの信徒の内心にあると思われる、打ち消しがたい素朴な思いを強化し、助長するものがあります。これは当て推量で書いていることではなく、現にそういう声を何度となく聞いてきました。



そのようなものを、当の牧師たちこそが有難がって読んでいる姿が、なんとも滑稽です。だって、批判されているのはわたしたちです。「悔しい」とか「恥ずかしい」とかいう感情は無いのだろうかと、正直思う。



それとも、その牧師たちは「このような優れた説教集から今後とも学び続けていきさえすれば、いつの日か私の説教も、このような権威ある『装丁の』説教集になっていくに違いない」という夢か幻でも思い描いているのでしょうか。それはもはや私などの拙い想像力を超えるほどの勘違いなので、フォローしきれませんが。



リソグラフ私家版やブログ版の説教集を応援することならば、やぶさかではありません。「高いばかりで内容がない、あのような説教全集よりも、こちらのほうがはるかに良いぞ」と多くの人々に言わしめる説教集を、我々の手で作ろうではありませんか。



なお、私が書いてきたことには、初めから「若干の逆説性」があります。言いたいことは、キリスト教書店に並んでいる(「席巻している」とさえ言える)あの『説教全集』のようなものが全く不要になるほどまで、各個教会の牧師の説教たちの実力をアップさせていかねばならないということです。このこと以外のことを、私は実は全く言っていません。



これが「逆説」であるということには説明は不要かもしれませんが、あえて付言すれば、あのような『説教全集』に市場のニードを許しているほど、各個教会の牧師たちの説教は惨憺たる有り様であるということを、徹底的に反省する必要があるでしょうということです。



そのような中で今日、私の目にいちばん愚かしく見えているのは、自分の書斎の本棚のいちばん目立つ位置にあの(威嚇的な装丁をもった)『説教全集』を並べつつ、定期的に「塾」に通い、ことあるごとに「塾長」のお言葉を復唱することこそが自分の説教の実力アップになると言いたげな、一部の牧師たちの姿です。



あんなふうなことで、説教の実力がアップするはずがない。そんなことは、おそらく彼ら自身も分かっています。分かっているけど通う。なぜか。



私の目に映る彼らの姿は、谷川俊太郎さんが朝日新聞のインタヴューで言っておられる「短歌・俳句は結社として、作品がお金にからんだりします」とそっくりです。彼らは短歌や俳句の場合と同じ意味での「結社」です。「説教結社」です。



なぜそれが「お金にからむ」のか。短歌・俳句の場合はその結社に加わっているかぎり、「世に認められるチャンス」(出版や発表の機会)が確保される(と思い込まされている)のです。結社ににらまれると“干される”のです。



事実誤認かもしれない点は、事実が確認できるまで保留してもいいですが、関口ごときがどこで何を言おうとあの方々はびくともしませんので、今はどうか言わせてください。私が抱いている結論めいた思いは、次のようなことです。



説教批評なることが本来行われるべき場所は「教会法廷」(church court)であり、また、そこで判定基準とされるのは厳密かつ歴史的な教義学的判断を伴う「教理規準」(doctrinal standard)なのであって、「塾長のみこころ」のようなものの恣意的なサジ加減が事を決するのではないということです。



その説教批評が「塾長」個人でなく、「塾」の諸々のリーダーたちの複数審査員による場合でも、結果は同じです。私は、説教は(お笑い界の)「M1グランプリ」のようなもので評価されてはならないと思っているのです。谷川俊太郎さんのおっしゃる「好きか嫌いか」あるいは「売れてるか売れていないか」で。そのようなことこそが悪い意味の「説教の商業主義化」、「~資本主義化」、「~ミシュラン化」であると言いたいのです。「売ってやろう、うけてやろう」という心性は、説教の心性にそぐわないのです。



2009年11月26日木曜日

『他人の説教は使用してよいか カットアンドペースト時代の説教』(2008年)を読んで痛感すること

「一昔前のパソコンか」と思うほど起動も作動も遅い私です。昨夜ふと気づかされたことは、「これはブログに書いておこう」と思うときは、たいてい何かの釈明をしたくなるときであるということです。自分の過去の発言に不足や過誤があると判明したときに、古くなった情報をアップデートしたくなる。私にとってはこれこそが「ブログ発信」の根本契機です。そうであったということに今さらながら気づかされました。何もわざわざ大げさに字にするまでもないことではありますが、今夜まで憶えていられそうにないので書きとめておきます。



私自身は、新聞や雑誌というものを「説教の原稿用紙のマスを埋めるための題材を探す眼」で読むということは一切ありません。今書いた表現そのものは比喩で、私は説教を「原稿用紙」に書いたりなどはしていません。しかしひとまず確信していることは、そのようなプロセスを経て書き上げられるような「説教」は、とても聞くに堪えないものだということです。



説教者である者の務めは、いうならば「聖書自身がうずうずするほど語りたがっていることを代弁させていただく」というようなことなのであって、聖書の意思を差し置いて何か別の題材を探してあげる必要はないし、聖書が語りたがっていること以外の事柄でマスを無理に埋めてあげる必要もない。そのようなやり方では聖書に対して失礼な態度であるし、聖書が迷惑します。今書いたことも比喩といえば比喩です。



この点はブログも同じでしょう。題材を無理に探さなければ書けないようなら、書かなければよいのです。ご親切に「ブログネタ」を提供してくれるサイトまでありますが、その「ネタ」自体がすでにつまらないし、そのようなものを追いかけて書かれたブログ記事はもっとつまらない。書き手の側に「書きたい」「伝えたい」あるいは「書かねば」「伝えねば」という強い意思がなければ、ブログも、そして説教も、底無しに虚しいだけです。



昨日の朝日新聞のほぼ一面を用いて掲載された谷川俊太郎氏インタヴューは面白かったです。



「批評の基準というものが共有されなくなっていますから、みんな人気ではかる。詩人も作家も美術家も好きか嫌いか、売れてるか売れてないかで決まる。タレントと変わりなくなっています。ぼくの紹介は『教科書に詩が載っている』『スヌーピーの出てくる人気マンガを翻訳している』谷川さんです。でも、それはあんまりうれしくない。」



谷川氏のおっしゃる「批判の基準というものが共有されなくなっています」という点は、前世紀初頭ハイデルベルク大学とベルリン大学で神学と哲学を教えたエルンスト・トレルチが問題視した「万事の歴史化(Historicization)のもたらす価値基準の相対化と流動化」を彷彿する見方です。万事の資本主義化(ないし「商品化」)に対して十分な意味でその中に巻き込まれつつ、どっぷり浸かりつつ、ほとんど飲み込まれつつ、しかしそのことをなんとなく憂う気持ちを抱いていそうな感じも、「谷川氏はトレルチ的だ」となど思いながら読めるものでした。



そして、「当然!」と言っておきますが、谷川氏の見方には大いに共感しましたし、説教者として肝に銘じるべきところが多くありました。



「(詩と)資本主義とは特に(折り合いが悪い)。短歌・俳句は結社として、作品がお金にからんだりしますが、現代詩は、貨幣に換算される根拠がない。非常に私的な創造物になっています。」



「(今の若者は)どう生きるかが見えにくい。圧倒的に金銭に頼らなくちゃいけなくなってますからね。お金を稼ぐ能力がある人はいいけれど、おれは貧乏してもいい詩を書くぞ、みたいなことがみんなの前で言えなくなっている。それを価値として認める合意がないから『詩』よりも『詩的なもの』で満足してしまう。」



今の私がとにかく考えさせられていることは、教会の説教の問題です。谷川氏が「詩」について語っておられることのほとんどすべてが「説教」にも当てはまるのです。こう書くと鋭い人にはすぐに見抜かれてしまいますが、「『説教集』なるものを売る意味が分からない」と書いたことと全く同じ内容を別の言葉で言い換えてみたくなっています。「説教の商業主義化」、「~の資本主義化」、「~のミシュラン化」、まあ何でもよいわけですが、そういうものが現代の教会の説教に、致命的な(悪い意味の)「変質」をもたらした。そう言いたいのです。



神学校を卒業したばかりの説教者たちの中に、初めから自分の説教の「商品化」を目指して原稿用紙を前にする人間は皆無であるか、あるいは、いるとしても極めて稀でしょう。天才肌の人か、変人か。そんな輩(やから)は説教者の風上にも置けないと、誰でも直感することでしょう。しかし、どうしたことか、そのうち説教者たちは、自分の原稿の「商品化」を目論見はじめる。「説教だけでは食べられません」と現実を突きつけられ、配偶者から突き上げられるからか。



「教会員から勧められたから」、「神学校の先生から~」、「出版社から~」は言い訳になりません。日本にもいる、とりわけ「神の言葉の神学の説教(学)者たち」が、ほぼ半世紀ほどもかけてひたすら続けてこられたことは、「神の言葉という名の商品」を販売しようとすること、短く言えば「神の言葉の商品化」でしょう。気色悪い、と書いたのはこのことです。



「ネタ不足」ゆえに新聞や雑誌の記事から切り貼りされた説教は、聞くに値しません。しかし他方、明らかに「ネタ不足」なのに、そのことを認めず、そうでないふりを貫くために、商品化された説教集から切り貼りされた説教は、もっと犯罪的です。



過日、東関東中会教師会でS. M. ギブソン著『他人の説教は使用してよいか カットアンドペースト時代の説教』(Scott M. Gibson, Should We Use Someone Else's Sermon?: Preaching in a Cut and Paste World, Zondervan, 2008)を英語版原著で学びました。説教の盗用(カットアンドペースト=データの切り貼り)の問題を真剣に取り上げた好著でした。面白かったというよりも悲しかった。「盗用説教」は重大な罪であるということがよく分かりました。日本語版が出版されないかと期待しています。



どんなに拙くても構わないから、説教者であるかぎり自分の言葉で書き、語れと私は言いたい。他人の猫を借りてきても、あなたの懐でおとなしくしてはくれません。自分の言葉で語りえたうえでなお教会員や先輩牧師から「あまりにも拙すぎて、とても聞くに値しない」と批判してもらえるなら、むしろ喜ぶべきです、他人の説教を「盗用」までして称賛を受けようとするくらいならば。その批判が耐えられないなら即刻辞職すべきです。神が、あなたを牧師として召しておられなかったのです。



牧師の仕事は説教だけではありませんが、日曜日の朝の礼拝の説教だけなら、毎週四千字ほどの作文です。四百字詰め原稿用紙10枚分。小学生や中学生がそれを耐え難い分量だと泣きわめくのは理解できますが、高校生以上ならばそれくらい難なく書けます。牧師を名乗る者がその程度の宿題を果たすことができず、「盗用」せざるをえないというのであれば、その牧師は何もしていないのと同じです。「職務怠慢」どころではない、「職務放棄」です。



毎週の説教原稿を書く仕事は「関口ごとき」にもできることです。それもできない人は「関口以下」です。悔しくありませんか。



説教のブログ公開は、それが「盗用説教」かどうかを“衆人環視”する方法としても十分に活用できそうです。この説教者がどの記事を盗用したかなどは、GoogleやYahoo等の検索で即時に判明する時代ですから。



今日は午後から家庭集会です。そろそろ出かける準備を始めねばなりません。



2009年11月20日金曜日

また原稿書きに没頭していました

また一つ、雑誌に掲載していただく原稿を書いていました。アリスター・E. マクグラス著『ジャン・カルヴァンの生涯 上 西洋文化はいかにして作られたか』(芳賀力訳、キリスト新聞社、2009年)の書評です。



1400字程度のごく小規模の書き物でしたが、月並みにいう「短い文章ほど書くのが難しい」を、このたびも体験しました。19日(木)の午前中から書き始めましたが、途中で休んだり、「できた」と思って一度編集者に送った後、いろんな問題が見えてきたので全面的に書き直したりして、結局は今朝の4時ごろ脱稿することになりました。



2009年11月18日水曜日

「説教集」なるものを売る意味が分からない

「Googleで『説教』」という一文を、一昨日に書きました。その翌日の昨日、同じようにGoogleで「説教」を検索してみましたら、あらら、私の「今週の説教」は、上位グループの中から消え、はるか後方を走っていました。一夜明けると、あっという間に下位転落です。



いえ別に、だからどうしたと言いたいわけではありません。「悔しい」というような思いはありません。牧師を引退する日まで、ただひたすら黙々とこの競争を続けていくだけです。「これは面白いことになったぞ」と血沸き肉踊るものを感じています。



自分の説教が(キリスト教書店に整然と並ぶ)『説教全集』のようなものになっていくことを憧れたり夢見たりしたことは一度もありませんし、そういうことには全く興味がありません。それどころか、ああいうやり方には違和感を覚えるばかりです。



そもそも、「説教集」なるものが書店で売られているという現象自体が私には全く理解できません。この仕事を20年近く続けてきましたが、「説教集を売る」という行為の意味がいまだに分かりません。事の初めから言えば、「そもそも説教とは金で売ってよいものなのか」という疑問さえ持っています。私が抱いている問いをより正しい文法に則って問い直すなら、「金で売るものが説教なのか」です。違うんじゃないかと思っています。



もっとはっきり言えば、私は、「説教集」なるジャンルの本がキリスト教書店の棚から消え失せる日が来ることを願ってきました。もちろん、現時点では、この国の中でそのような本が売られ、買われるべき何らかのニードがあるからこそ、そのようなたぐいのものが流通しているのでしょうから、他人のしていることに無理にケチをつけるつもりはありません。ただ、「気色悪いものを感じる」とは言っておきます。



そして、今の私が信じていることは、次のことです。すなわち、もし各個教会の牧師たちが自分の説教にもっともっと力を注ぐようになれば、あのような「説教集」なるジャンルの本へのニードは、たちまちのうちに失われていくだろうということです。



そうです、私が今書いているのは、「あんなくだらない本を読むよりも、うちの牧師の説教を聴くほうがはるかにましだ」と言ってもらえるようになりさえすれば、日本の教会はたちどころに復活するだろうという話です。



「説教集」なるジャンルの本が、大した内容も無いのに、ひどく勿体ぶった豪華な装丁で日本の教会を威嚇し続けるかぎり、気の弱い牧師たちはすっかり萎縮したままです。萎縮するほうが悪いと言われるならばそれまでで、そちらはそちらでみっともないものが確かにありますが、「威嚇する側」にいると思しき人々の姿は、さらにみっともない。



言うまでもないことですが、日本の教会が復活する日には、私が出しているような「説教ブログ」などは、もっと不要になることでしょう。とはいえ、私のうちに「皆さまのニードにお応えし(てあげ)ましょう」というような、それこそ勿体ぶった動機などはさらさら無く、誰の指図でも命令でもなく、何の必然性も無く、本当にただ好き勝手に続けていることなのですから、もし読んでくださる方が一人もいなくなったとしても、続けていくつもりです。



2009年11月15日日曜日

Googleで「説教」

自慢げな書き方をすると反発を招くだけですが、まあお許しください。



以前からGoogleで「今週の説教」という検索語で探すと第一位に表示されることを感謝し、かつ誇りに思ってきました。



しかし、どんなことであれ、欲の皮というのはだんだん突っ張ってくるものです。「今週の」を外した「説教」だけを検索語にしても上位に表示されるようになってみたいものだと、願うようになりました。



とはいえ、「説教」だけとなりますと、いわゆる「キリスト教会の礼拝の説教」だけにとどまらず、「お説教」や「説教くさい」などの言葉まで引っかかってきますので、第一位を獲得するのが難しいことは分かっております。



しかし、最近はかなりうれしい状況になってきました。実際に「説教」だけの検索を試みていただくと、その結果をご覧いただけます。「キリスト教会の礼拝の説教」という意味の「説教」に当てはまるのは、以下のサイトです(2009年11月15日現在)。



第一位 小石泉牧師の説教集



第二位 説教塾



第三位 モーセ神父の説教集



第四位 四国説教塾



第五位 晴佐久昌英神父の説教集



第六位 山陽聖約キリスト教会の説教集



第七位 関口康「今週の説教」



(以下略)



※Wikipedia(インターネット辞書)等の「説教」や「説教者」に関する用語解説やAmazon.com(インターネット書店)等の『説教集』の広告は除き、実際に説教の文章を公開しているサイトだけに限定させていただきました。



この結果が示しているものが何なのかは、Googleの仕組みをまるで知らない私にはよく分かりませんが、上位にあるほうが見ていただきやすいことだけはおそらく確実ですので、見ていただいている方々に感謝しつつ、謹んで報告させていただく次第です。



「塾」には敵いませんが(とてもとても)、プロテスタント系(牧師)の個人としては第三位にランクインさせていただいたことを非常にありがたく思っています。



「説教の評価に(インターネット的な)競争原理はそぐわない」という思いは、私とて同じです。しかし、「塾の先生」に良いの悪いのと評価していただくことに匹敵するほどの緊張感や畏怖心は、それなりに味わっております。何度となく書いてきましたように、「ブログ公開」は説教の改善に役に立つと信じております(「説教の改善方法について」「私がインターネットで説教を公開している理由」など参照)。





2009年11月10日火曜日

「なぜ日本にキリスト教は広まらないのか」と問うことをあえて問う

先ほどTwitterで朝日新聞社の@asahiのつぶやきのフォロワー(いわゆる読者)が「20万人をこえちゃいました」(原文)との一報に接しました。毎日新聞社の@mainichijpeditのフォロワーは現在約19万人弱で追走中です。勝間和代さんのフォロワーもかなり肉薄してきています。

香山リカさん(ファンです)が新著『しがみつかない生き方 「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』(幻冬舎新書、2009年)の中に「勝間和代を目指さない」というルールをお書きになって以来、勝間さんのことを書きにくくなってしまいましたが、私は香山さんと勝間さんを応援したいと思っています。けっこう似ているのではないかとか言うと、お二人ともお怒りになるでしょうか。共著が出るようでしたら買います。ともかく仲良くしていただきたいものです。

それにしても気になるのは「オバマ氏も使っている」というふれこみで爆発的に広がった感のあるTwitterです。「今ごはん食べました」、「おいしかったです」、「次はどこに行こうかな」、「喫茶店でコーヒーを飲み始めました」、「そろそろ帰ります」というような逐一の言葉(つぶやき)がネットブックや携帯電話などのモバイルツールによって書き込まれ、それこそ20万倍ものヴォリュームの拡声器にかけられて津々浦々まで伝えられる時代になったというわけです。面白いと言えば、なるほど面白い。うるさいと言えば、これほどうるさいものはありません。

このことは批判的な意味で書いているのではありません。私もTwitterを試してみている一人ですから。考えさせられていることは、結局自分のことです。私のつぶやきをフォローしてくださっているのは13人の方々。サクラではなく、一度もお会いしたことのない方々ばかりです。「まだ始めたばかりですから!」と書いてはおきますが、それでも現実の数字を見てしまうと何だか寂しい思いになるのは、自意識過剰の証拠なのでしょう。

「増えたらいいな」と、そういうこともあまり考えていません。「今週の説教」と「関口康日記」に一応アクセスカウンターをつけてありますが、前者(開設後3年4ヶ月)はやっと5万アクセスを超えたところ、また後者(開設後1年10ヶ月)はもうすぐ4万アクセスというあたり。地味なものです。ブログがこの程度なのに、どうしてTwitterのフォロワーが増えるでしょうか。

開き直るつもりはありませんが、もし私が今のままの話題(「改革派の」教会と神学の話題)だけで20万人以上ものフォロワーを得られる日が来たら、その時点ですでに日本に(無血の)「革命」が起こっていると言ってもよいのではないかと思います。

キリスト教書として今年(2009年)のベストセラーになっているらしい古屋安雄氏の『なぜ日本でキリスト教は広まらないのか 近代日本とキリスト教』(教文館、2009年)は、買いませんし、読みません。別に不買運動をしたいわけではなく、古屋先生はかつて直接教えていただいた教師(「恩師」と呼ばせていただきたいです)の一人でもありますが、逆に言えば、「ぶれない」先生ですから、読む前から結論が分かりますし、私にとっては何の新鮮味もありません。今年6月に久しぶりに講演を聴く機会がありましたので、そのことを確認できました。25年前と全く同じことをおっしゃていました。

そして、何より思うことは、このような恥ずかしいタイトルの本が飛ぶように売れているという状況自体が私にとってはものすごく恥ずかしいことであるということです。だから、買いません。「神さま、どうか、この国をあのようなタイトルの本が全く売れない国(キリスト教が広まる国)にしてください」と毎日祈っているので、買いません。買い「たくあり」ません。

それでも、たとえ牧師であっても(という言い方自体が間違っているわけですが)毎日突きつけられているのは「数の問題」です。今月の礼拝出席者は平均○名だった、増えた、減った。今年の収入はいくらだった、増えた、減った。地上に生きているかぎり、この種の事柄から逃げることはできません。

しかし、です。私が「若い」からでしょうか、まだまだ当分譲れそうもない矜持(きょうじ)があります。それは上に書いたことの繰り返しです。『なぜ日本でキリスト教は広まらないのか』というような、日本の教会とキリスト者たちの日々の苦闘を愚弄するようなタイトルの(お高くとまった)評論で一儲けしようとは思わないということです。

先週「お金、お金、お金。」と書いたばかりですが、そんな金なら要らない。出版の夢を断念して、一生ブログだけで通します。別にそれでも一向に構いませんし、むしろそのほうがはるかに気楽です。「なんとかしてお知らせしたいこと」があると思っているのでシコシコと文字を書いているだけであって、それをどういう形であれ(おそらくは書籍や雑誌の形かブログやメールの活字かのどちらかでしょうけれど)読んでいただける方がいてくださりさえすれば、それ以上の何も要りません。

それと、彼の状況分析は当たっていないと、私自身は考えています。デタラメとまでは申しませんが、あの種の単純な三段論法によって現実の教会は微動だにしないし、あの程度のことで動くくらいなら、あのようなタイトルの本が書かれる必要もないほど日本にキリスト教は「広まって」いることでしょう。

ちなみに、私の夢(たくさんある夢の一つ)は、いつの日かファン・ルーラーの翻訳と研究についての本を書きあげて香山リカ先生に朝日新聞上に書評を書いていただくことです。勝間さんの『目立つ力 インターネットで人生を変える方法』(小学館新書、2009年)によると、こういうことはブログで大々的に公言しておくほうが実現の可能性が高まるそうですので、恥も外聞もなく書いておきます。

しつこいようですが、同じ「本を書く」と言っても、「なぜキリスト教は広まらないのか」というような本は書かないし、書きたくないし、恥ずかしくて仕方がない。芸能界の暴露本のようなものと大差ありません。


2009年11月9日月曜日

少年易老学難成 一寸光陰不可軽

今朝、ある方に以下のメールを送りました(宛て名のイニシャルはその方の名前とは関係ありません)。



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A様、メールをありがとうございました。



親指だけで文字を書くことが私は苦手なので、携帯電話で長いメールを書くことができる方を尊敬しています(お世辞ではなく)。



時間が短いと感じているのは、なぜか(?)私も同じです。今年は、どうしたことでしょう、本当にあっという間でした。昨年12月にオランダに行かせていただきましたが、あれからまもなく1年なのかと思うと、ぞっとします。



10月25日(日)東仙台教会で礼拝説教と神学講演をおこなった夜に泊まらせていただいた宮島のホテルの床の間に、「少年易老学難成(しょうねんおいやすく がくなりがたし) 一寸光陰不可軽(いっすんのこういん かろんずべからず)」というあの有名な漢詩の全文が書かれた掛け軸がありました。高校のとき習いましたが、当時は国語の教師から何度説明を受けても意味を理解することができませんでした。しかし、今は痛いほど分かります。それはおそらく次のような意味です。



「若い頃は、勉強なんかいつでもできると思って、真面目に勉強などしやしない。しかし、まさに光陰矢のごとし。時間というものは、あっという間に過ぎていくものである。だからこそ、もし夢を実現したいならば、若い頃から寸暇を惜しんで勉強すべきである。



・・・と、今頃気づいた私はすでに年老いてしまった。でも、いまだに夢を捨て去ることができず、悔しい思いをしながらも、老骨に鞭打ちながら勉強を続けているよ」。



こういう言葉の意味が少しは分かる年齢にならせていただいたのかなと感慨無量です。ちょうど一週間後の16日(月)に44歳になります。



自分のことばかり書いてすみません。A様、今後ともよろしくお願いいたします。お兄様にくれぐれもよろしくお伝えくださいませ。



2009年11月9日



関口 康



2009年11月6日金曜日

「10年後の」民主党に期待します

民主党政権が誕生した日に「民主党に期待します」と書きました。もちろん本心から書きました。しかし意図的に書かなかったというか、いったんは書こうとして「いや、今はよそう」と思いとどめた部分がありました。あまり遅くなると「あとだしジャンケン」のようになってしまいますので、そろそろ白状します。

迷った言葉は「10年後の」でした。初めから「10年後の民主党に期待します」と書くつもりでした。応援したいと思ったのは「現在の」ではなく、「次の次の次くらいの」民主党です。まだテレビで顔を見たことがない議員たちと、これから議員になる人たちとに期待しています。

もちろんそのために必要なことは、「民主党政権」なる今の状況を、とにかく10年間維持することです。くだらないスキャンダルに足をすくわれたりしないこと。そのうえで、日本を「前時代的なもの」に戻さないことです。ところが、今の政権中枢にいる民主党の人々は、私に言わせていただけば(私が何も言わなくとも)「前時代的なもの」で満ち満ちています。共感していただける方は多いでしょう。

しかし「だから民主党も同じだ。権力を握った人間の末路はあんなもんだ。政治がどうなろうと日本は何も変わらない」と見るのか、それとも「いや、それは違う。新しい時代に芽生えたものを大事に育てていくべきだ」と思い定めるのかで、これから先の我々の生き方に小さからぬ違いが出てくるであろうとさえ感じています。

現在テレビに顔を出しておられる政権担当者の方々に感じる「前時代的なもの」が、ご両親のお言いつけ(帝王教育?)を素直に守っておられる結果なのか、それともどこかで教え込まれた結果なのかは分かりません(「インターネット時代における帝王教育の不可能性」参照)。

しかし「化石」とまでは言いませんが、ちょっとありえないくらい耐えがたい古さがあります。その正体はまだ見えませんが、いま感じていることは「民主党」の看板を預けることを躊躇せねばならないほどの帝国主義(Imperialism)です。

「帝国主義的民主主義」は完全な概念矛盾です。しかし、そういうものの残滓(ざんし)を民主党の現執行部には感じます。その様相たるや、まさかとは思いますが、「民主主義を勉強しろ!」と親や教師たちから体罰でも受けながら育てられたのかなと心配になるほどです。さまになっていない口先だけのデモクラシー。羊の衣を着た狼。博愛主義の体裁をとった任侠道。

それと、現執行体制に「思想が無い」とは言いませんが「浅い」とは感じます。目先のこと、小手先のことしか考えていない様子がありありと伝わってきます。学生時代は数学と英語とスポーツは得意だったという感じ。見るからにスマートでカッコイイ。教え込まれた事柄についての正確な反復と高速演算の能力は高い。体脂肪率が低くて、テレビ映りがよい。しかし、思想家然としたところがほとんど無い。

もし「官僚に頼らない政治」を本気でめざしておられるなら、すなわち、「事情通の方々に原稿を書いていただくことを前提としない政治」を本気で実現したいと思っておられるなら、もっともっと自分の頭と心で考えなくてはならないはずです。付け焼刃では何も切れません。国会議員自身が思想的に「深い」ものを持たなければ。

私の思いを率直にいえば、政治を行う人は「組織神学」を徹底的に勉強すべきです(政治には組織神学が「役に立つ」とはっきり言ってくれる佐藤優さんを応援しています)。

「組織神学」を学ぶ以外に政治に関する真の意味での「深い」問題解決はありません。教会と神学が二千年来教えてきたことは「神の法(ロー)」であり、「神の統治(ポリティクス)」であり、「神の経綸(エコノミー)」であり、「神の弱者救済(エイド)」です。

法と政治と経済と福祉は「三位一体の神の視点から」徹底的に考え抜かれる必要があります。その神に愛と恵みと喜びがあるのですから、政治のめざすべき目標もまた、愛と恵みと喜びに満ちた社会と個人なのです。それが我々キリスト教会の確信です。

10年後の民主党が「キリスト教民主党」になっているというような妄想を抱いているわけではありません。それどころか、10年後の日本に「キリスト教会」がなおきちんと立っているかどうかのほうを心配しなければなりません。

しかし、10年後の政権与党担当者に期待していることは「神学をしっかり学んだ政治家」であってほしいということです。神学は「誰でも取り組むことができる」という意味で普遍的なものです(「説教と神学は誰でもできる」参照)。そしてきちんと勉強するにはどんなことでも10年かかる。つまり、今から猛勉強を始めていただけば10年後には使い物になるでしょう。そういう人を私は陰ながら応援したいと願っています。

民主党の幹事長なる御仁が、本日、和歌山県高野町で次のように語ったと朝日新聞が伝えました。

「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ。その点仏教は非常に心の広い度量の大きい宗教、哲学だ。欧米人に仏教の神髄を説いてやるのは非常に意義がある。大変うれしい。排他的なキリスト教を背景とした文明は今、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ」。

まさにこれです、何十年も我々を苦しめてきたものは。根も葉もないデタラメな当て推量。世界の40億人ほどの宗教を「排他的」の三文字で十把ひとからげ。右も左も分からない子供じゃあるまいし、67年も生きてきて、国家権力の絶頂点にまで達しながら、まだこんなことを言っているのかと思うと、ため息が出ます。

くだらない。「排他的」なのは貴方だ。「キリスト教もイスラム教も」知りもしないような人には言われたくない。

私が期待しているのは「10年後の」民主党です。低劣な恐怖政治を克服した後に姿を現す、真に民主主義的な民主党。「次の次の次くらいの」民主党。まだテレビで顔を見たことがない議員と、これから議員になる人たち。その方々には、今しばらくの苦難のときを、忍耐と勇気をもって乗り越えていただきたいものです。

しかし、私の話には、いつも続きがあります。これで多くの人々をがっかりさせてきました。

教会のほうは教会のほうで、以下のような考え方をしてこなかったでしょうか。

「仏教も神道も非常に排他的だ。その点キリスト教は非常に心の広い度量の大きい宗教、哲学だ。日本人にキリスト教の神髄を説いてやるのは非常に意義がある。大変うれしい。排他的な仏教や神道を背景とした文明は今、日本社会の行き詰まっている姿そのものだ」。

これは民主党の御仁の言葉をそっくりそのまま書き換えてみただけのものです。「説いてやる」というあたりの不遜さもそのまま再現しました。

他人のせいにしたくはありませんが、今からちょうど150年前から日本伝道を開始した(当初は主にアメリカの)プロテスタント宣教師の「伝道精神」の中に、この種の不遜さが潜んでいなかったでしょうか。このような「伝道精神」を、日本の教会は、ほとんどそのまま受け継ぎ、それをかなり長い間、保ち続けこなかったでしょうか。

このことを完全に否定する自信は、私にはありません。教会の側にもいろいろと反省すべき点があるかもしれないと、今朝あたりから考え直しているところです。

とはいえ、民主党の御仁がこのたび突如として発した「バテレン禁制令」にも似た凶悪なメッセージは、かの「9・11」をイスラム教の仕業と見立て、また「イラク戦争」をキリスト教の仕業と見立てての単純な図式化ではないかと何となく想像いたします。だから「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ」となる。「あの連中と比べれば仏教は広い」となる。

このような図式化は、コンビニエンスストアの雑誌棚に立ち並ぶゴシップ系雑誌の表紙に大きな文字で書かれる見出し語にするにも躊躇がありそうな、全くのデマです。しかし、宗教についての知識に乏しい人々には「分かりやすい話だ」と歓迎されてしまうのかもしれません。

イスラム教徒のすべてが「9・11」の主犯者であり、キリスト教徒のすべてが「イラク戦争」の主犯者でしょうか。ありえない。この種の大衆扇動は、ものすごく危険なものです。正直、勘弁していただきたい。いずれにせよ、国家の最高権力者が口にすべき言葉ではない。民主主義の根幹を危険にさらします。

「民主主義ではない民主党」は、概念矛盾であり、何一つ期待できません。

それでは、我々教会の者たちが反省すべき点は何でしょうか。

私が考えさせられているのは、御仁がしたような「キリスト教とイスラム教は○○だ」という十把ひとからげと同じような「仏教は○○だ」「神道は○○だ」という括り方の乱暴さです。

それはちょうど、数年前に再流行した血液型占いのようなものです。「O型の人は○○だ」「A型の人は○○だ」「B型は○○だ」「AB型は○○だ」。まるで60億人のキャラクターがたった四種類しか存在しないかのようです。これは危ない。

しかし、このような仕分けを、なるほどたしかに、一度ならずキリスト教会自身もしてしまったことを否定できません。

たとえば、19世紀末から20世紀初頭にかけてオランダで活躍した改革派神学者アブラハム・カイパーがその著『カルヴァン主義』(Calvinism)に採用した方法は、いわば全世界の思想を「異教主義」「(ローマ)カトリック主義」「ルター主義」「カルヴァン主義」の四種類に区別したうえで「カルヴァン主義」の偉大さを説明するというものでした。

私自身はカイパーを「大衆扇動者」呼ばわりするつもりはありませんが、この種の議論をキリスト教会自身が続けるかぎり民主党の御仁に言い分を与えてしまうことになりかねません。

ちなみに、カイパーが『カルヴァン主義』で行った議論は、ドイツの宗教社会学者マックス・ヴェーバーやヴェーバーの友人だった神学者エルンスト・トレルチのお気に入りのところとなり、とくにヴェーバー経由で日本の碩学たちに受け継がれてしまっているものでもあります。ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はカイパーの議論なしには成り立たなかったものであると断言できます。

このように申し上げている私は、カイパーの議論の「危険さ」を指摘している以上、ヴェーバーやトレルチの議論も「危険」であると申し上げているのです。両者は一蓮托生の関係にあると言えます。

その意味では、日本においては「神学」や「キリスト教学」よりも(その外見上の「学術的客観性」ゆえに)はるかに好意的に評価されてきた「比較宗教学」や「宗教社会学」も、一定の役割があることを理解してはおりますが、そのうえでなお「きわめて危険である」と言わざるをえません。

宗教を「理念型」によって仕分けることは、国家権力者による宗教団体の「管理」を確保する方法であると思われます。しかし彼らに「できること」と「できないこと」、あるいは彼らが「してもよいこと」と「してはならないこと」があるということを、我々教会の者たちとしては、はっきり伝える必要があるでしょう。

しかし、教会自身の反省は、このたびの件に限っては、あまりしすぎる必要はないとも感じています。

このたびの問題は、政権与党の幹事長なる御仁が自分の置かれた立場をわきまえていないとしか思えないことを口にした(それは通常「失言」と呼ばれる)という点もさることながら、もう一つのより深刻かつ重大な点として、御仁が身を置く政権与党の名称が「民主党」(Democratic Party of Japan)であるということにこそあります。

こちらから喧嘩を吹っ掛けるつもりはありませんが、「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ。欧米人に仏教の神髄を説いてやる」などとおっしゃった以上、まずは御仁自身の「仏教民主主義」なるものでも提示していただかなければ、フェアな話とはとても言えないでしょう。その際教えていただきたいことは、「仏教」がその教義においてどのように「民主主義」と結びつくのかです。あるいは、「仏教」がその教義において、現在と未来の「民主主義の国」をどのように形づくることができるのかです。

そのことを、誰かの言葉や著書を読みなさいで済ませるのではなく、御仁自身の言葉と著書で、『仏教民主主義』なるタイトルで世に問うていただきたい。そして世界に広がる「キリスト教民主党」(Christian Democratic Party)を支持する人々と国際的な対話を展開していただきたい。

せめてそれくらいはしていただかなければ、政治家としての御仁の発言は、無責任極まりない、世襲たちの酒席のたわごとであると言わざるをえません。おふざけにしては影響力が大きすぎる。意図的ならば悪質です。

「キリスト教とイスラム教に排他的要素がないか」と問われるならば、「なるほど、そのような要素は過去にあったし、現在もあるし、将来もありうるでしょう」とお答えします。しかし、「はて、仏教と比べられて云々されるほどの排他性が我々にあるだろうか」と自問するなら、「それほどでもない」と自答するでしょう。

フランシスコ・ザビエル初来日から数えれば四世紀、プロテスタント宣教師初来日から数えれば150年、「キリスト教」は「仏教と神道の国」から不当に締め出され続けました。この歴史的事実を知らない者は、この国にはおりません。

それとも、「仏教」と「民主主義」の関係は必ずしも明白ではないとお答えになるのでしょうか。たとえば「私は仏教徒ではあっても民主主義者ではない。キリスト教とイスラム教に対しては弾圧的な立場をとり続けることこそが日本の国益につながる」とお答えになるのでしょうか。

そのような思想をもちうる権利は万人に保障されていると思います。しかし、もしそうであるならば「民主党」なるものの責任ある立場にとどまることはできないでしょう。「民主主義」という看板を悪用することは許されないでしょう。

先に「政治を行う人は組織神学を学ぶべきである」と、論理的には飛躍していることを承知しながら書いたことの一切は、このあたりに結びつきます。キリスト教を批判してくださることも結構。我々にとっては、そのようなことは言われ慣れていることです。

求めているのはフェアな議論の場です。それを成立させるために、キリスト教を、その教義を、十分に学んでいただく必要があるでしょう。申し上げているのは、そのことだけです。

2009年11月3日火曜日

オランダ国王首相の名誉博士称号授与式に出席しました

このところ落ち着かず、なかなか思うように書けません。先々週は大阪や仙台までの出張がありました。今日も、新幹線で盛岡まで行かねばなりません(日本キリスト改革派盛岡教会の新会堂献堂式です)。

さて、そのようなあわただしい中ではありましたが、10月27日(火)慶應義塾大学で行われた、オランダ国王首相ヤン・ペーター・バルケネンデ氏への名誉博士称号授与式に出席することが許されました。忘れないうちに書きとめておきます。

授与式が行われたのは、バルケネンデ氏が天皇と鳩山首相との会談を行った翌日でした。私がそのような場所に立ち入ることができたのは、法学部政治学科の田上雅徳先生が推薦してくださったおかげです。ファン・ルーラーについての拙文が慶大通信教育部教材誌『三色旗』に掲載されたことを労っていただいた格好です。

しかし、もちろん、慶大からの正式な招待状をいただき、IDチェックを受けたうえで入場させていただきました。会場の慶大三田キャンパスには、どれだけいるか分からないほど大勢の私服警官たちが、鋭い目で見張っていました。

その授与式には、『三色旗』の同じ号に素晴らしい論文をお書きになった、千葉大学法経学部の水島治郎教授も出席しておられました。水島先生、初めてお目にかかれてうれしかったです!

そのバルケネンデ氏が授章のあいさつとしておっしゃったことは、特筆すべきものでした。かなり流暢な英語で能弁なスピーチをなさいましたが、もしタイトルをつけるとしたら、「アブラハム・カイパーと福澤諭吉」(!)と付けても良さそうな話でした。

カイパーが設立したアムステルダム自由大学はバルケネンデ氏の母校でもあります。また、カイパーが設立したキリスト教政党「反革命党」は、バルケネンデ氏の所属政党(現在のオランダ与党)である「キリスト教民主党」の歴史的ルーツでもあります。

そのようにバルケネンデ氏の存在と歴史的に関係が深いアブラハム・カイパーと、慶應義塾大学の創設者福澤諭吉氏との共通点を、バルケネンデ氏は熱心に語られました。「なんかスゴイことになってきたなあ」と、まるで我がことのように感激しました。

私は、現在の慶大教授会の政治学専攻の先生の中でアムステルダム自由大学で学んだ経験を持っておられるのは田上先生だけではないかと思いましたので、「いよいよ田上さんの時代が来ましたねえ」と肘でつついたら、怖い顔で睨み返されました。田上先生があの顔をするのは「望むところだ」と武者震いしておられるときだと、勝手に解釈しております。

2009年11月1日日曜日

信仰とは諦めることの反対である


ヨハネによる福音書9・1~12

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。』こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム――「遣わされた者」という意味――の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、『これは、座って物乞いをしていた人ではないか』と言った。『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた。本人は、『わたしがそうなのです』と言った。そこで人々が、『では、お前の目はどのようにして開いたのか』と言うと、彼は答えた。『イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、「シロアムに行って洗いなさい」と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。』人々が『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は『知りません』と言った。」

今日から何回かに分けて、ヨハネによる福音書の9章を学んでいきます。この章は、時間をかけて学ぶ価値があります。私はこの章がヨハネによる福音書の一つの絶頂点であると信じています。ここではっきり分かることは、救い主イエス・キリストが父なる神のもとから地上に遣わされた目的です。そのことが見事に描かれています。ひとがイエス・キリストによって救われるとはどのようなことであるのかがよく分かります。ヨハネによる福音書を学び始めて以来、「この書物は難しい、難しい」と頭を抱えながらお話ししてきました。皆さんに我慢を強いてきたことをお詫びする必要があります。しかし、この9章は面白い!そのことをお約束いたします。

イエスさまが歩いておられたとき、その道の脇に「生まれつき目の見えない人」と呼ばれていた男の人が座っていました。その人を見たイエスさまの弟子たちが、イエスさまに次のような質問をしたというのです。「ラビ」とは教師のことです。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と彼らは言ったのです。

この質問の意図は、わたしたちにとって馴染み深いものです。「わたしたち」とは日本人のことです。それは、「生まれつき」の病気や障がいの持ち主はいわゆる何かのばちが当たった人なのだという考え方です。私はこういう考え方がとにかく大嫌いです。聞くたびに嫌な気持ちにさせられます。絶対に受け入れるべきではない、非常に間違った考え方です。いわば「異教的な因果応報論」です。しかし、わたしたちはこの言葉を何度となく聞かされてきました。その意味で馴染み深い言葉です。

ただし、このとき弟子たちは、少しくらいは慎重に物事を考える力を持っていたようです。この人の生まれつきの病気は、何かのばちが当たった結果であるに違いないと、このような考え方を彼らはしました。しかしまた、このとき弟子たちは、いくらなんでもこの人が生まれる前にこの人自身が罪を犯すということは、たぶんないだろうと、これくらいのことは頭に浮かんだ様子です。「お腹の中で罪を犯す人間」というのがいて、そのような本人が絶対に自覚しようのない罪に対する罰を神さまがくだされたその結果が「目が見えない」という彼の生まれつきの病気であるというような奇妙な三段論法を思い描くことは、いくらなんでもできないと思ったようです。

それで彼らがその次に考えたことは、本人の罪でないならば、やはりあの人の両親かということでした。しかし、彼らがたどり着いた結論は、本人かそれとも両親かの二者択一であったということは間違いなさそうです。だからこそ彼らはイエスさまにこのような質問をしたのです。

いま申し上げたことは、もちろんあくまでも私の想像です。彼ら自身がイエスさまに期待した答えは、彼が受けている罰の原因は、彼自身の罪ではなく、彼の両親の罪にあるということではなかっただろうかと私は考えます。本人が生まれる前に罪を犯すということは、どう考えてもありえないことです。ばかげているとしか言いようがありません。

しかし、両親の罪であると言われる場合には、どうでしょうか。もしかしたら多くの人が納得してしまうかもしれません。単に宗教的な「神の罰」という話としてだけではなく、たとえば遺伝の話、あるいは今の人が言うところの薬害の話、あるいは妊娠中にかかった病気や怪我や事故の話、あるいはいわゆる「生活習慣病」と呼ばれるようなものを両親またはどちらかの親が持っていて、そのせいで子どもが苦しみを味わっているのだというような話。あえて名づけるとしたら「医学的な因果応報論」です。このような話になっていきますと、そのような子どもたちを持っている親たちの中には、とても肩身の狭い思いにどんどん押しやられていくものを感じる人が出てくるでしょう。

こういう話になってきた場合には、「全く身に覚えがないか」と問われると、そうとも言い切れないと感じるであろう親たちは決して少なくないはずです。いまさら責められても自分たちから生まれた子どもに対して何をどうしてあげることもできないのだけれども、「お父さん、お母さん、あなたがたにも責任があります」と指摘する人がいれば、心の中で悲鳴をあげながらではありますが、「なるほど言われるとおりかもしれない」と認めざるをえないものを持っている親たちはいるのだと思います。

しかし、まさにいまさら責められてもどうしてあげることもできないと思うのが親でもあります。生まれてきた子どもが自分に似ていると、親たちはたいてい喜びますが、子どもたちには迷惑な話かもしれません。子どもたちが思春期になる頃に「あなたの子どもとして生まれてきたことが残念だ」と言われてしまう日が来る(すでに?)かもしれません。

しかし、そんなことをお互いに言いあってみても何一つ状況は変わりませんし、幸せになる要素は何にもありません。ただ傷つけあい、ただ嫌な思いをし、子どもたちも親たちも、泣きわめくくらいしかなすすべがありません。「あの人の病気はだれの犯した罪のばちですか。本人ですか、両親ですか」。誰のせいなのか。誰が悪いのか。こういう問いかけ自体が大きな落とし穴であり、罠です。問うことそれ自体を禁じることはできませんが、問うてみたところで、誰も幸せになりません。

もしこの問いにイエスさまが「それは本人ですよ」と、あるいは「それは両親に決まっていますよ」とお答えになったとしても、それによって弟子たちに何が分かるというのでしょうか。そもそも彼らはこの質問によって何を知りたかったのでしょうか。生まれつき目の見えないという人がもう二度と生まれないように、再発防止策(?)でも考えたかったのでしょうか。そのような医学的関心からでしょうか。いや、そんなはずはありません。おそらくはただの興味本位です。あるいは、イエスさまの弟子である人々は同時に聖書を学ぶ人々でもあったわけですから、「この障がい者の問題」を聖書的に考えるとしたらどのような答えが出るだろうかというようなことを考え始めたのです。私自身は、そのような考え方や態度や物の言い方が、本人に対しても、親たちに対しても、いかに失礼で迷惑なものであるかと、常日頃から感じています。

弟子たちの言葉をお聞きになったイエスさまが怒りを覚えられたかどうかは分かりません。しかしイエスさまがおっしゃった言葉は、かなり激しい勢いで、弟子たちの前にまるで仁王のようにお立ちになっておっしゃっているように思います。そして、イエスさまは、生まれつき目の見えない人と、その人の両親が置かれた苦しい立場を強く弁護し、かばおうとして、おっしゃっています。そのように捉えることは間違ってはいないだろうと私は信じます。

仮に百歩譲ってそれが本人の罪によるものであろうと、両親の罪によるものであろうと、共通しているのは、そのことが分かったところで、だれも幸せにならないという点です。たとえば、こういう話を聞くことがあります。「あの人は熱心なクリスチャンなのに、どうしてあんな重い病気にかかっているのだろうか。やはり神などおられないのか。それともあの人は自分や家族が犯した罪の罰を受けている、とでも考えるべきなのか」。もちろんこういうことを“考えること”が絶対に許されないとは思いません。“考えること”は万人に許された自由です。しかし、問題はこの先です。わたしたちは、自分の頭で考えたことを何でもかんでも口に出して言ってよいわけではありません。こういうことを言うと、いつ・だれが・どのような形で傷つくだろうかと、それこそ深く考えなければなりません。

弟子たちが「神などおられない」と考えることは無かったかもしれません。そのように考えることは、神を信じる彼らにはできなかったでしょう。その選択肢を選ぶことは、弟子たちにはなかったでしょう。しかし、その選択肢を選ぶことができないからこそ、的外れな責任追及の矛先が本人や両親に向かってしまうことはありえたでしょう。「神」を疑うことはできないゆえに、とことん「人間」を責め続ける。そのような「神中心的因果応報論」に陥ることがありえたでしょう。

すべての不幸は人間の罪の結果であると考えることが全く間違っていると申し上げているわけではありません。しかし、そのことと、何か特定の病気や障がいが、あの人・この人が犯した罪の結果として起こったことなのだと、そのような結び付け方をして誰かを傷つけることとは、全く違うことなのです。しかし、このような一種独特の歪んだ考え方、間違った信じ方が弟子たちの中に染み付いてしまっていたかもしれない。この個所を読む限り、そのように考えてみることもできそうなのです。

病気や障がいの中で苦しんでいる人々の側からすれば、それはあなたのせいだ、自業自得だと言われることに反論するのは難しいと感じるでしょう。あるいは、誰かのせいだ、親のせいだと言われることにも、言い知れぬ苦痛を味わうことでしょう。この病気が、障がいが、動かしがたい事実として、自分の目の前に立ちふさがっているかぎり。責められれば責められるほど絶望するしか道が無くなるのです。明るく生きること、いや、生きることそれ自体を諦める以外の道を奪われてしまうのが、我々のよく知っている「因果応報」の考え方です。

しかし、イエスさまのお答えは、絶望の闇を払いのけるものでした。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

もう時間ですので、続きは来週お話しします。最後に一言だけ申し上げておきたいことは、イエスさまがこの人の前でおっしゃったことは、「お上手な言い方をなさった」というような次元で捉えてはならないものであるということです。その人の苦しみの原因を美しい言葉で解釈してあげた、というようなことではありません。事実として神の業がこの人に現れました。彼は神を信じるようになりました。それによってこの人は「諦めること」をやめました。それが彼の救いになったのです!

(2009年11月1日、松戸小金原教会主日礼拝)