2018年8月26日日曜日

主の祈り


マタイによる福音書6・9~13

関口 康

「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。』」

私も夏休みをとらせていただきました。木曜日の「聖書に学び祈る会」を2週続けて休会しました。「説教要旨」を作るのを2週分サボりました。旅行に出かけることはできませんでしたが、映画を2本観ました。ドクターヘリの活躍を描いた「コード・ブルー」と、昔のテレビドラマ「スパイ大作戦」の現代版「ミッション:インポッシブル」です。のんびりしすぎたことをお詫びします。来月から気合いを入れます。

今日取り上げるのは「主の祈り」です。このテーマについてこの教会でお話しするのは初めてですが、過去に牧師をしていた教会で繰り返しお話ししてきました。過去の説教原稿はすべて保管しています。それを引っ張り出して読み直しました。同じことを申し上げる部分もあるのをお許しください。

この祈りは新約聖書の2箇所に出てきます。マタイによる福音書6章9~13節と、ルカによる福音書11章2~4節です。両者を比較すると分かることが2つあります。

第1に、文脈が異なります。マタイでイエスさまがこの祈りを教えられた相手は複数の「弟子たち」(5章1節)です。ルカでは「弟子の一人」(11章1節)に教えておられます。その弟子が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とイエスさまにお願いし、それにお応えになる形で、この祈りを教えられました。

第2は、ルカの主の祈りはマタイのそれよりも短いです。どこに違いがあるかを具体的に言うのは長くなるのでやめます。好ましいと思うのは両者を無理やり一致させようとしていないところです。しかし、強調点に違いがあると考えるのは可能です。私にとって興味深いのは、ルカの主の祈りには「天」も「地」も出てこないし、「悪い者」も出てこないことです。

この違いが何を意味するのかについて思い当たることがあります。「天」と「地」、また「悪い者」がいるとすれば反対側に「善い者」もいることになりますが、そういう世界観の基本構造は「上下関係」に近いということです。

そのような「天」と「地」との差や、「善い者」と「悪い者」を対比させるような垂直的な世界観がマタイの主の祈りに見え隠れしています。しかし、ルカの主の祈りには上下関係を示唆する垂直的な世界観を表わす言葉が出てきません。水平的な世界観に立っているように見えます。

しかし私は、どちらのほうがよいかという話をしたいわけではありません。代々の教会が重んじてきたのは、マタイの主の祈りです。私が教えたミッションスクールでは、1年生の最初の聖書の授業でマタイの主の祈りを学ぶことになっていました。学校礼拝の中でそれを唱えるからです。

私がこれまでいろんなところで主の祈りについてお話ししてきた中で強調してきたのは、主の祈りの「目標」は何かという問題です。主の祈りを唱えて生きるわたしたちがめざすべき先はどこかという問題です。そしてその結論は、主の祈りの目標は「地上」であるということです。

その「目標」が最もはっきり示されているのが、第3の願いです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。

「天で御心が行われる」のは当然のことです。「天」は神のおられるところを指すからです。神のおられるところで神の御心が行われるのは当たり前です。極端に言えば、天国で御心が行われることについて、わたしたちがあえて祈る必要はありません。人が祈ろうと祈らなかろうと、神は天で御自身の力を遺憾なく発揮なさるでしょう。

しかし、「地上」は別です。地上では神の御心は人の目と心から隠されています。よく分かりません。よく分かるのは、我々が生きている現実世界には神がどこにもおられないかのようだということです。神の恵みであると言われる信仰も希望も愛も喜びも、まるで現実世界とは全く無関係であるかのようだということです。

だからこそ、わたしたちは「地の上にも御心が行われますように」と祈る必要があります。主の祈りの「目標」が「地上」であると申し上げたのはその意味です。

主の祈りには全部で6つの祈りがあります。第3の願いの趣旨は「我々が生きている地上の世界が天国さながらになりますように」という祈りです。それは地上の世界は全くそうではないということの表明でもあります。地上には悲しみと嘆きが満ちています。だからこそ、わたしたちは「神の御心が地上で実現しますように」と祈るのです。それは「この地上の現実が変革されますように」という意味になります。

しかし、逆の言い方をすれば、すでに天国にいるかのように完全に変革された新しい世界となったそれは今の我々の悲惨な現実とは全くかけ離れたものかと言うと、そうではありません。今の現実から「罪が取り除かれる」だけです。それ以外の変化はありません。地上の世界から罪が取り除かれたら、そこは天国です。面白くもおかしくもないかもしれませんが、そうとしか言いようがありません。

たとえば、多くの人が違和感を覚えるヨハネの黙示録という書物があります。あの書物が描き出す天国を異様だと感じる人は多いかもしれません。天国があまりにも色彩鮮やかにカラフルに描かれているからです。天国は無色透明ではありません。金、銀、財宝でギラギラ輝いています。まるで世俗的な天国です。聖書の世界は意外なほどそういうところがあります。わたしたちの「常識」を再点検する必要がありそうです。

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」の「地にも」の「も」は、ついでに、という意味ではありません。全く違います。御心が天で実現するのは当たり前のことなのですから、主の祈りの趣旨としては「地」のほうが「天」よりもはるかに大事です。主の祈りの「目標」は「地上」にあります。

第2の祈りの主旨も同じです。「御国が来ますように」。「御国」と「天国」は同じです。多くの人は「天国」はどうしても「行くところ」であると考えてしまいます。ゴー・トゥー・ヘブンと。しかし、イエスさまが弟子たちに教えた祈りは「天国」が「来ますように」(キングダム・カム)です。イエスさまが教えてくださった天国は「行く」(ゴー)ところではなく「来る」(カム)ところです。

これは「天国が地上へと近づいてくる」という思想です。空中に浮かぶ巨大な大陸のようなものが落ちてきて地上の世界をめちゃくちゃに破壊してしまうような情景を思い浮かべることができるかもしれません。

つまりそれは、地上の現実が天国さながらになることを求める祈りです。地上の現実の変革を求める祈りです。地上の現実には罪と悪に満ちている。この罪を取り除いてください。この地上を天国にしてくださいという祈りです。

第1の願いの趣旨も同じです。「御名が崇められますように」と祈ります。「主の御名を崇める」のは人です。第一の願いの主語は人です。「崇める」の原意は「大きくする」であると言われます。転じて、重んじること、尊重すること、礼拝することを意味します。

ですからそれは、地上の世界に神を礼拝する民がもっと多く引き起こされますようにという祈り、あるいは「教会」が多く生み出されますようにという祈りと矛盾しません。

第1から第3までの願いは、いわば理念です。主の祈りの思想の枠組みです。そのすべての視線は「地上」へと向いています。そしてその第1から第3までの願いにおける理念が、第4から第6までの願いにおいて具体的に展開されます。

第4の祈りは、毎日の食事の確保の問題です。子どもたちは毎日の食事が当たり前に出てくると思っているかもしれませんが、大人と親にとってそれは当たり前のことではありません。どうすればそれが可能になるかを大人たちは知っています。第四の祈りの趣旨は、ただ食事だけの問題ではなく、生活全体が整いますようにという祈りです。

第5の祈りは、対人関係における罪のとがの赦しの問題です。第6の祈りは、罪を犯すことへの誘惑からの救出の問題です。これらはすべて「地上の事柄」です。地上で解決されるべき問題です。

しかし、私がこの話をしますと必ず返ってくる反応があります。「がっかりしました」と言われます。「この嫌で嫌でたまらない世界を我慢して生きてきて、やっと天国に行けると思っていたら、天国も地上も大差ないと言われる。そんな天国なら私は行きたくありません」と実際に言われました。

高校生たちの反応は違いました。かなり面白がって聞いてくれました。「宗教じみていない」とか言ってくれました。「天国に逃げ込む」考えが私にないからです。すべての解決は死後の世界にある、という思想が私にはありません。

なぜ私が「天国と地上が大差ないこと」を強調して申し上げるかには理由があります。私は牧師として、教会の方々から個人的に伺ったお話を外部に漏らしたりはしません。しかし、もう20年以上前のことで、しかも私はこれまでいくつかの教会で牧師をしましたので、どこの教会の話であるかを特定できないと思いますので、実例をご紹介します。

熱心なキリスト者のご夫婦でいらした方のご主人が病気で亡くなられた直後に、ご夫人が重い精神の病にかかられ、希死念慮にとらわれました。その方が「早く天国に行きたい。早く死にたい。死ねば主人に会えるんでしょ。私も早く天国に行きたい」と私に何度も訴えられました。

そのときです、「天国と地上は大差ない」ということを全力で語る世俗的な牧師になってやろうと心に誓うものがあったのは。「この地上から罪が取り除かれたら、そこはもう天国なのだから、わたしたちは一刻も早く死にたいなどと言わないで、一刻も早く地上から罪が取り除かれるために神さまに全力で働いてもらえるように祈りましょう」ということを一生懸命に語り始めたのは。

早く天国に行きたいという願いを持つ方と、変身願望を持っておられる方は必ず私につまずきます。ごめんなさいと謝るしかありません。

しかし、よいではありませんか。「そこにはもはや罪がない」という以外の何も変わらない、そんなつまらない天国には行きたくないと思われるなら、生きていこうではありませんか。しつこく、粘り強く、しがみついてでも。「御心が地上で実現しますように」と祈り続けていこうではありませんか。

(2018年8月26日)

2018年8月19日日曜日

敵を愛しなさい


マタイによる福音書5章43~48節

関口 康

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

4月から続けて学んで来ました使徒パウロのローマの信徒への手紙の学びを先週から中断して、マタイによる福音書に基づくイエス・キリストご自身の御言葉に目を向けています。今日の箇所に記されているのは、イエスさまがおっしゃった言葉の中で最も有名な言葉です。

どの御言葉が最も有名で、他はそうでないという言い方は一概にできないことは分かっているつもりです。多くの人の心にとどまり、忘れることができない、まさに衝撃的な言葉として有名であると申し上げておきます。

それは、先ほど朗読していただきました箇所の中にある「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)という言葉です。この中でも特に有名なのは、前半の「敵を愛しなさい」という言葉です。

これがなぜ多くの人の心にとどまり、忘れることができない言葉であるかといえば、このようなことは、わたしたちには絶対にできないことだからです。

東京都三鷹市にある東京神学大学に私が入学したのは、今から34年前の1984年です。当時はご存命だった北森嘉造先生から学部1年の最初に受けた講義の中で、この「敵を愛しなさい」というイエスさまの御言葉について北森先生がおっしゃったことを、私は忘れることができません。

北森先生はこうおっしゃいました。「敵とは、絶対に愛することができない相手のことである。絶対に愛することができない相手のことを『愛しなさい』と言われているのは、だれにも絶対にできないことを『しなさい』と言われているのだ」と北森先生は説明されました。34年前の記憶ですので、完全に正確ではないかもしれませんが、間違ってはいないと思います。

北森先生のおっしゃるとおりであると私は受け容れてきました。北森先生がおっしゃったから正しいと受け容れてきたのではありません。イエスさまがおっしゃったのはわたしたちにできる範囲のことではないということを、北森先生の説明で気づかされ、納得したという意味です。

だれにも絶対にできないことを「しなさい」と言われるのは、たしかに無茶苦茶なことです。支離滅裂だと感じる方がおられるかもしれません。しかし、もしこれが、努力すればできる範囲内のことを「しなさい」と言われているのだとすれば、努力してできるようになった人と、努力しないからいつまでもできない人に分かれるでしょう。

そして、努力してできるようになった人は、努力しないからいつまでもできない人に優越感を抱き、見くだすようになるかもしれません。いつまでもできない人は、できるようになった人に劣等感を抱き、卑屈になるかもしれません。

しかし、もしこれが、だれにも絶対にできないことであるとすれば、だれひとり優越感を抱くことはできないし、だれひとり劣等感を抱く必要はありません。「あなたは、まだできないのか。早くできるようになりなさい」などと、だれひとり指導的な立場に立つことができません。それでいいのだと思います。

しかし、ここで絶対に(という言葉をあえて使います)間違えてはならないことがあります。それは、イエスさまがおっしゃった「敵を愛しなさい」という教えがだれにも絶対にできないことであるとしても、だからといって「しなくてもよい」ということにはならないということです。できないことはしないというのは、失敗して恥をかき、屈辱を感じるのが嫌だからです。初めからしない、手を出さない。それで守れるのは自分のプライドだけです。自分の優越感だけです。

牧師も教師です。学校の教員と全く同じではないかもしれませんが、教える立場にあるという点では同じです。自分にできないこと、自分ができていないことを人に教えるとどうなるかを、よく知っています。「まずあなた自身が手本を見せてください。あなた自身ができるようになってから言ってください」と必ず言われます。

そう言われたときに教師がとってはならない最も悪い態度は、自分はできているふりをすることです。できていないのに。うそをつくことです。それは詐欺です。二番目に悪い態度は、自分ができないことについては「これはしなくてもよいことだ」と教えはじめることです。もしかしたら、こちらのほうがもっと悪いかもしれません。

このあたりでそろそろ、イエスさまはなぜこのようなことをおっしゃったのかという点に話を移していきます。今日の箇所に目を落としていただきますと、イエスさまは「敵を愛しなさい」とおっしゃる前に「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」(43節)とおっしゃっていることが分かります。

しかし、いわゆる「引証付き」の聖書をお持ちの方はすぐにお分かりになるのは、イエスさまが引用しておられるのは旧約聖書のレビ記19章18節ですが、そこには「敵を憎め」という言葉は見当たらないということです。それどころか、レビ記19章18節に記されているのは「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」という御言葉です。

「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というのは、ご承知の通り、イエスさまが強調してお語りになった教えです。日本最古のプロテスタントのミッションスクールである明治学院(の高等学校)の校訓がこの教えです。英語でLove your neighbor as yourselfです。これは、旧約聖書の教えでもあり、イエス・キリストを通して新約聖書に受け継がれ、キリスト教会がとても大事にしてきた教えです。

しかし、ここでわたしたちが考えなければならないのは、「隣人とはだれのことか」という問題です。「隣人とはだれのことか」という問いかけを聴くだけで教会生活が長い方々は、ルカによる福音書10章25節以下に記されているイエスさまがおっしゃった「善きサマリア人のたとえ」をすぐに思い起こされるに違いありませんが、今日はそこまで話を広げないでおきます。しかし、内容は共通しています。そのことだけ申し上げておきます。

「隣人」とはだれのことでしょうか。旧約聖書のレビ記19章18節に、その定義はありません。しかし、「復讐してはならない」とは記されています。この復讐の問題が、理解の鍵になります。

復讐といえば、個人的な仇討ちから国と国との戦争までの範囲のことを考えなければならない問題ですが、旧約聖書の教えは両方を含んでいます。そして、古代社会の状況を考えれば、「隣人」の意味として、自分と同じ民族、自分と同じ国の人々すなわち同胞の範囲を超えた人々のことを指すことはまずありえないと考えられます。

つまり、少なくとも旧約聖書においては「隣人を愛しなさい」という教えは、守るべき家族、愛するべき同胞を愛することを指していたと思われます。

そしてその場合、だからといって、対立する敵国と戦争することによって復讐を果たしなさいというようなことを旧約聖書が教えたわけではないということも、先ほど指摘したレビ記19章18節を見ると分かります。

しかし、ここから先は難しい問題に立ち入ることになります。実際に復讐を果たすことをしてはならないと禁じられることと、それを果たすことをしなくとも心の中で感情的に相手に対して激しい怒りを覚え、憎しみを抱くことまで禁じられることとは別問題であるということです。

旧約時代に実際にどうであったかは私には分かりません。しかし、今日の箇所でイエスさまがおっしゃっていることの中に「隣人を愛し、敵を憎め」と言われていることから考えると、旧約時代において自分自身の同胞を愛することは、たとえ復讐を果たすことを実際にはしなくても、心の中で感情的に同胞以外の人々や敵国の人々を嫌い、憎しむこととがセットになっていたかもしれません。

急に話を飛躍させますが、野球でもサッカーでも、自分が心から愛するチームを持っている人の中に、そのチーム以外のチームを憎むことがセットになってしまう人がいます。人間の心理の中にそのような要素や現象があるように私には思えます。心理学を勉強なさった方は、その現象を学術的に何と呼ぶかをご存じかもしれません。

イエスさまが禁じておられるのは、それです。自分の愛すべき同胞、守るべき家族を愛することの裏側に姿を現わす、まさに自分の愛すべき同胞、守るべき家族の命を脅かす「敵」に対する「怒り」や「憎しみ」が禁じられています。

全くの素人考えですが、愛の感情と憎しみの感情は似ているところがあるような気がします。両方とも、強ければ強いほど心臓がドキドキします。血圧が上がります。興奮します。心臓にも脳にも負担がかかります。冗談のような言い方をしていますが、実際にはふらふらの状態です。重くなればまっすぐ立っていられません。身体も心も病んでしまいます。

「敵を愛すること」は北森先生が教えてくださったとおり、絶対に不可能なことかもしれません。「自分を迫害する者のために祈ること」も非常に難しいことであるのは間違いありません。

しかし、とにかく「祈ること」だけならば、かろうじてできるはずです。怒りと憎しみの感情が抑えられないほど湧いてきて、興奮して相手につかみかかり、大声で怒鳴りつけ、刃物を取り出して相手を切りつけたくなったとき、その衝動を抑えるために、自室に引きこもり、目を閉じ、腕を組み、神に祈る。そこまでならば、かろうじて、なんとかして、できるはずです。

そういうのは事なかれ主義の臆病者のすることかもしれません。「自分の家族や同胞の命を脅かす存在に対して激しい怒りと憎しみを抱き、勇敢に立ち向かうことこそ正義ではないか」という考えもあるでしょう。

しかし、とにかく落ち着く。冷静になる。「興奮しているこの私を、とにかく何とかしてください」と神に祈る。自分のために祈る。自分の助けを求める。「自分を迫害する者」のために祈るよりも前に。

乱暴なまとめ方かもしれませんが、今日の説教の結論は、とにかく落ち着け、ということです。興奮するな、ということです。冷静になれ、ということです。自分を落ち着かせるために自分のために祈れ。

そのことまでならば、なんとかなるでしょう。そこまでできたなら、これから私はどうすればよいかということが、興奮しているときよりも、はっきり分かるようになるでしょう。

(2018年8月19日)

2018年7月29日日曜日

感謝の生活

ローマの信徒への手紙6章15~23節

関口 康

「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」

今日は7月最後の日曜日です。「私事で恐縮ですが」という言い方は当てはまらないかもしれませんが、私を担任教師にしていただいて4か月になります。1年の3分の1が経過しました。残り3分の2です。

4月の最初に私がお約束したのは「主日礼拝で1年間かけてローマの信徒への手紙を取り上げます」ということでした。しかしそれは、私がまだ皆さんのことを何も存じ上げない段階でのお約束でした。つまり、私から皆さんへの一方的なお約束でした。

しかし、「お約束」と申し上げていますが、「約束」というのは一方的なものであってはいけません。お互いに納得することが大切です。一方的に言うだけなら脅迫です。

なぜこのようなことを申し上げているか。お名前は伏せますし、今日ここにおられる方かどうかも伏せますが、ある方からご意見をいただきました。それは「たまにはイエスさまのお話を伺いたい」というご意見です。

それもそうだと思い直すところがありました。ここは猛然とアピールしますが、私は教会の皆さんからそういうご意見をいただくと、すぐ動きます。何のこだわりもありません。自分が立てた計画とか目標だとかいくら言っても、もしそれが一方的なものなら何の意味もないと思っています。ご意見をいただけたことに感謝しています。

来月から計画を変更いたします。具体的にどうするかは考えさせてください。1年間の説教予定表を自分で作りましたが、それを皆さんにお配りしているわけではありませんので、「どうぞご自由に」と思われるかもしれませんが。

こういうところも私の自己紹介の一面であると受けとめていただけますと助かります。私には何のこだわりもありません。そういう人間だと思っていただきたいです。

私がかつて働きを得た教会で、自分の立場や自分の考えで教会を変えてやろうなどと考えたことは一度もありません。それで叱られることが何度もあったほどです。あなたは優柔不断であるとか、自分のポリシーがないのかとか、さんざんです。

しかし、お叱りを受けるたびに私が思うのは、私よりもはるかに前から教会はあるということです。大げさではなく事実として2千年前から教会はあります。自分のやり方や考えで教会をどうにかしてやろうと考えること自体が傲慢の極みです。

強いて言えばそれが私のポリシーです。「自分のポリシーで教会をどうにかしてやろうという考えを一切持たない」というポリシーです。

だんだん何を言っているか分からない感じになってきましたので、このあたりでストップします。しかし、今日までは先週の週報で予告したとおりにさせていただきます。ローマの信徒への手紙の6章15節から23節までの箇所を、司会者の方に朗読していただきました。

この箇所にパウロが書いていることは何か。彼自身が書いているとおり「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明している」(19節)ところであると言えそうです。しかしそれはあくまでも当時の人々にとっての「分かりやすさ」ですので、今のわたしたちにとって分かりやすいかどうかは別問題であると言う他はありません。

この段落でパウロが言おうとしていることを私なりに要約してみます。パウロが最も言いたがっているのは、いわゆる信仰義認の教理についての疑問に答えることです。

わたしたちが義とされる(すなわち「救われる」)のは、自分の行いや業績、功績、功徳を積むことによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるというのが、いわゆる信仰義認の教理です。

そして、その場合の「信仰」が「働きなし」(4章5節)であるということをパウロが強調しています。要するにわたしたちは「何もしなくても救われる」のです。

その意味は、何か良いことをし、良い仕事をした人だけに報酬もしくは給料として「救い」が与えられるわけではないということです。「救い」とはそういうものではなく神の恵みなのだということです。乱暴な言い方をしてしまえば、神の恵みとしての「救い」は、何もしていない人にもばらまかれるものです。

しかしこのようなことを言いますと、おそらく多くの人が疑問を抱き始めます。もしパウロの言うとおりだとすれば、何もしないどころか、「積極的に悪いことをしようではないか」とか「どんどん罪を犯そうではないか」などと言い出す人が出てくるに違いないし、実際に出てくるではないかという疑問です。

もしそうだとすれば、真面目に生きること、正直に生きることがまるで愚かなことであるかのようになってしまいます。真面目な生き方は窮屈でつまらないものかもしれません。悪事を働き、罪を犯すほうが、よほど面白い生き方かもしれません。

しかし、各個人がそのような考えで行動しはじめると社会はどうなるでしょうか。神を信じることが犯罪の抑止力になるどころか、推進力になってしまうでしょう。宗教が道徳の土台になるどころか、破壊力になってしまうでしょう。まるで教会こそが犯罪の温床であるかのように。それで社会的信頼を得られるでしょうか。

そんなことになるわけがない、というのがパウロの結論です。その結論をめざしていろんなことを言っていますが、そのためにパウロが用いているたとえそのものが、わたしたちにとって納得できるものかどうかは別問題です。これで納得できるなら、それはそれで問題はありませんが、何を言いたいのかさっぱり分からないと思う方がおられるかもしれません。その気持ちも私には少し分かります。

パウロが用いているのは、奴隷のたとえです。わたしたちは罪の奴隷になるか、神の奴隷になるか、そのどちらかであると言っています。わたしたちが救われるとは、わたしたちを奴隷にしてきた罪のもとから解放されて、神の奴隷になることだというのです。

「救い」とは「罪から救い出される」ことです。わざわざ「罪から」と記されていなくても、「救い」という字を見るたびに「罪からの」という字をいちいち補って読むことが大切です。

しかし、わたしたちは「世の中から救い出される」のではありません。それは誤解です。てこの原理(支点、力点、作用点)で「世の中から」取り外されてしまうことが救いだというなら、救われた者はどこに行くのでしょうか。まるで救いとは世の外で生きることであるかのようになってしまいます。それは死ぬことを意味するでしょう。救いは「世の中で罪から救われること」でなければ意味がないでしょう。

そして「神の奴隷になる」とは、神の義の奴隷になることを意味しています。それは、わたしたちは正しい神に服従することによって正しい生活ができるようになる、ということです。そうである以上、信仰義認の教理が教会を犯罪の温床にすることになるなどありえないのだと、かなり噛み砕いていえば、要するにパウロはそういうことを言っています。

しかし、どうでしょうか。この説明でわたしたちが納得できるでしょうか。昔のことは分かりませんが、現代社会においては「どちらも嫌だ」と思う人のほうが多いのではないかと私には感じられます。「罪の奴隷」であるのも嫌なことだが、「神の奴隷」になるのはもっと嫌だ。そういう抑圧的なことを言い出すから宗教は苦手なのだと反発する人が圧倒的に多いのではないでしょうか。

よりによって、なぜ「奴隷」なのか。神の奴隷になることが救いであるなどと言われれば言われるほど絶望的な気持ちになる。神は我々を自由にしてくれるのではないのか。なぜ絶対服従を求めるのか。窮屈で仕方がない。

いま申し上げているのは、私がそうだと思っているという意味ではないです。宗教が嫌いだ、教会が嫌いだとおっしゃる方々の心の中にあるかもしれないことを想像しているだけです。外れているかもしれません。

しかし、私の考えを言わせていただけば、パウロの言い分を弁護したい気持ちです。パウロはなぜ「罪の奴隷」のほうだけでなく「神の奴隷」のほうまで言っているのでしょうか、真意が何であるかはパウロ本人に聞いてみるしかありません。ですからここから先は私の想像です。しかし、パウロが用いている奴隷のたとえは私には納得できるものです。

それは、わたしたちは「神の奴隷」にしてもらわなければならないほどまでに「罪」がわたしたちを支配し、拘束する力は強いということです。両方に二股をかけて、神にも罪にも自由に行き来しようとするのは甘いということです。「罪」という会社でどれだけこき使われても、もらえるボーナスは「死」しかないよと。

やや本筋から外れることを申しますが、この箇所にパウロが「悪の奴隷」ないし「悪魔(サタン)の奴隷」と書いていないのは、私にとっては興味深いことです。そのほうが話としては分かりやすいかもしれません。しかし、パウロはそのように書いていません。書いていないことが重要だと思います。

なぜそう思うかといえば、そもそも「悪魔(サタン)」とは何者かという根本的な謎があるからです。聖書に登場します。神でも人間でもない超自然的な存在であると長いあいだ、教会で信じられてきた存在です。そうではなく「悪魔」は人間であると理解するようになった人々もいると思います。あるいは、ただの比喩で、実際には存在しないと考える人もいると思います。

私はそのあたりはどちらでもいいと思っています。ここでも私の優柔不断ぶりをいかんなく発揮します。しかし、悪魔はわたしたちにとって信仰の対象ではありませんので「悪魔(サタン)の存在を信じる」必要はありません。

それよりも罪の問題のほうが重大です。罪の存在を信じるか信じないかなどと愚かな議論をする人はいないと思います。これほどまでに罪があふれている世界に生きているわたしたちの中に。

聖書が語る「罪」と一般的な「罪」の意味内容が異なることは私も分かっていますが、両者は無関係ではないし、完全に別のことを言っているのでもありません。わたしたちは、神にしっかりつかまえてもらわないかぎり罪の奴隷のままです。神だけがわたしたちを罪の強い拘束力から解放してくれます。

これがパウロなりの「分かりやすい説明」です。神への感謝の生活が、神のもとで始まります。

(2018年7月29日)

2018年7月22日日曜日

ツルになりたかった牧師

日本基督教団王子北教会(東京都北区豊島)

コリントの信徒への手紙一1章18~25節

関口 康

「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」

みなさま、おはようございます。関口康と申します。今日は王子北教会の「特別礼拝」の説教者としてお招きいただき、ありがとうございます。

ごめんなさい。今申し上げたのは、うそです。私は王子北教会から招かれていません。私のほうから沼田和也先生に頼み込んで「王子北教会で説教させてください」とお願いしました。「謝礼は要りません」ともお伝えしています。うそをついたことをお詫びします。うそつき牧師と呼んでください。申し訳ありません。

説教を申し出た理由は、沼田先生が悩んでおられることが分かったからです。インターネットを神と教会のために役立てたいという沼田先生の願いが、必ずしもその願いどおりになっていないことが分かったからです。行く手が阻まれているようだと感じたからです。

私も沼田先生と同じように、インターネットを神と教会のためになんとか役立てたいと願っています。しかし、私もうまくいきません。特別礼拝のために配布してくださいましたチラシに私の肩書として「インターネット歴20年」と書いていただきました。そう書いてくださいと、これも私がお願いしました。



長さ自慢をしたいのではありません。「なんとか歴何年」と名乗るとすぐさま競争が始まるのが世の常です。「私のほうがもっと長い」とか言い出されます。しかし、競うつもりはありません。そんなのはどうでもいいことです。私はただ事実を述べているだけです。

とはいえ、全く意味もなく書いたのでもありません。私は1965年11月生まれの現在52歳。高校からストレートで東京神学大学に入学し、大学院まで6年間を過ごし、日本キリスト教団の教師になったのが1990年です。それ以来、牧師の仕事しかしたことがありません。牧師歴28年目です。

しかしその間、まるで他のことは何もしていなかったかのようにインターネットとのかかわりの部分だけが突出していると、はたから見ると見えたかもしれないほど、力を注いできたことを否定しないでおきます。

その私もインターネットの活用に関しては全くうまく行っていません。行く手を阻まれていると感じています。しかし、だからと言って私はインターネットから退却するつもりはありません。その理由については後でも申し上げますが、最初に短く言えば、私が過去20年インターネットでしてきたのは、字を書くことだけだったということです。それ以上でもそれ以下でもありません。

それが悪いと、私にはどうしても思えないのです。やめたほうがいいだの言われなければならないようなことだとは。それで沼田先生とスクラムを組むことにしました。同盟を組んで難局を突破することにしました。

私は昔から万年筆が身についたためしのない人間です。手書きで何かを書くときはシャーペンかボールペンで書きます。しかし、私が東京神学大学の学部4年を卒業したのは1988年ですが、卒業論文はかなり無理して万年筆で書きました。学校指定の400字詰め原稿用紙に。その2年後の1990年に提出した修士論文はワープロで書きました。その切り替えが始まった頃でした。

修士論文の主査に大木英夫先生がなってくださいました。評価は「C」。ギリギリ及第。それでも大木先生は私の修士論文をほめてくださいました。「ワープロがきれいだ」と、そこだけほめてくださいました。冗談ではなく事実です。

その翌年の1990年、私は日本キリスト教団の補教師試験を受け、高知県南国市の日本キリスト教団南国教会とその伝道所である南国教会大津伝道所の両方で伝道師として働きを始めました。そして翌年1991年に結婚しました。

結婚前の1年間は、妻は大学4年生として東京にいました。私は高知。高知に行く前に婚約式をしましたが、高知と東京の距離はあまりに遠く、会うことができないどころか、電話すらままならない状態でした。

当時の教会の雰囲気を覚えている方がおられるはずです。携帯電話が普及していなかったころ、教会の公用電話とは別に私用の電話回線を持っている牧師はほとんどいませんでした。牧師が教会の電話を使うのは当たり前でした。

しかし高知から東京に電話すると、月に5万円を超える請求書が届く。自分で使った分は自分で払えば済むことですが、なぜこんなに使ったかと言われたりするので、最愛の婚約者に電話することもできない状態でした。

いまお話ししているのはインターネット普及前夜の物語です。そして、私がなぜインターネットを使いはじめたのか、その理由の時代的背景を申し上げています。第一の理由は、最愛の婚約者に電話することに支障をきたす経験をしたからです。東京と地方の連絡にかかる経費負担をどうすれば軽くできるのか。

しかし、それだけではありません。似ていることの別の側面の問題がありました。高知にいたころに痛感したことが、東京と地方のあまりにも大きすぎる情報格差でした。当時流行していたテレビドラマに「東京ラブストーリー」などありましたが、高知の民放は2局(当時)、NHK2局でしたので、曜日も時間もかなり遅れているのを観たりして、話題についていけなかったりして。その情報格差の問題をなんとかして解決したかった。それが私がインターネットを利用することにした第二の理由です。

そのような経緯を経て、私はまず「パソコン通信」を1996年に始めました。福岡県北九州市の教会にいたころです。そして、正確な意味の「インターネット」を始めたのが1998年です。その年、山梨県の教会の牧師になりました。そこで新たな動機が加わりました。

その山梨県の教会は、日本キリスト教団の教会ではありませんでした。私は日本キリスト教団立の東京神学大学を卒業し、日本キリスト教団の教師になり、日本キリスト教団の教会の牧師になりましたが、1997年から2015年までの19年間は、日本キリスト改革派教会の教師でした。しかし、その私が日本キリスト教団に戻ってきてしまいました。なぜ出て行ったのか、なぜ戻ってきたのかについては、話すと長くなりますので、今は割愛します。

そのことよりも、今はっきり申し上げたいのは、1997年に日本キリスト教団を離脱したとき、日本キリスト教団に対する敵意はなかったということです。恨みも憎しみも敵意もありませんでした。しかし、そのことを伝える手段がありませんでした、インターネット以外には。

私の思いをどうすれば日本キリスト教団のせめて元同僚に伝えることができるかで悶々としていたころ、暑中見舞いだったか年賀状だったかを忘れましたが、東京神学大学の同級生(年齢は5つほど私よりも上です)の清弘剛生牧師が送ってくださり、その中に一言「お元気ですか?」と手書きで書いてくれていました。それを見て「そうだ、清弘先生にメールを書こう。私は日本キリスト教団を離脱したが、教団への敵意がないことをメールで伝えよう」と思いました。

清弘先生は天才級の理系の方で、当時からインターネットを駆使しておられました。1990年代に「ウェブチャペルウィークリー」なるウェブサイトを立ち上げ、毎週の説教を公開し、メールマガジンで数百人の読者に配信しておられました。清弘先生がインターネットの私の師匠です。

その後、清弘先生と私とで1999年2月にオランダのプロテスタント神学者ファン・ルーラーの翻訳と研究をする「ファン・ルーラー研究会」なるメーリングリストを立ち上げました。1年後には100人を超え、その後もメンバーが増え続けました。そのせいで、関口康といえばインターネットで悪さをしている人間だと批判的な目を向ける人が増えました。

しかし、私はインターネットで何をしてきたかといえば、ただ字を書いてきただけです。それ以外の何もしていません。そして、強いて言えば、それ以前よりも広い範囲の人々と情報共有ができるようになったので、それを実行に移しただけです。それ以上でもそれ以下でもありません。

しかし、いまだにインターネット害悪論が教会の中に聞こえるのは、どういうわけでしょうか。インターネットには明るく健全な情報だけでなく、暗くて不健全な情報もあるからでしょうか。そういうのと教会の「聖なる」情報が一緒くたにされるのは困るというような理由でしょうか。

その感覚は私も全く理解できないと思っているわけではありません。インターネットの情報が「玉石混交」であるのは当たり前です。しかし、それを言うなら大げさなハードカバーのついた本だって同じです。そこにあるのは、ただの字です。たとえ仮にインターネットが「悪い字」で満ち満ちているとしても、そうだと思う人が「良い字」をインターネットに増やしていけば済むことです。事は意外に単純です。

今日開いていただいた聖書の箇所に「宣教」は「愚かな手段」であるとパウロが書いています。この場合の「宣教」の意味は、言葉で伝えること、広めること、事実を事実として告知すること、情報共有の範囲を広げることです。なぜそれが「愚か」なのか。思い当たる理由は、事実を事実として告知すること自体には取り立てて意味も価値もないことです。

私はよく、ツイッターやフェイスブックで「今日の自作料理」の写真を撮って公開しています。「だから何?」と言われるようなことを。第三者にとってはどうでもいいことを。

同じ次元で言うと叱られそうですが、福音書が描くイエス・キリストの十字架刑も、「イエスは十字架につけられた」と、事実を事実として淡々と告知するだけのところがあります。今の小説家ならきっと細かい心理描写や情景描写をしそうなところで、うるさい解釈抜きで事実だけを記述しています。

読者の側に「だから何?」という反応が起こるのは当然です。しかし、だからこそ、解釈は読者に任されます。そのほうがかえって想像力が刺激されます。「何の意味があるのだろう」と考え続ける人を生みます。

もう一度言います。高級な万年筆で書こうと、達筆の人が毛筆で書こうと、安いシャーペンやボールペンで書こうと、美しいワープロの字で書こうと、字は字です。本質的には何の違いもありません。大げさな装丁の本として出版しようと、ブログに書こうとツイッターに書こうと、字であることに変わりありません。

「字をバカにするな」とも言わせていただきます。それは言葉です。言葉は現実に人を救う力を持つことができます。言葉で激しく傷つけられることもあるし、あったでしょう。しかしまた、言葉でこそわたしたちは慰められ、癒されます。

「字に書いた言葉を広めること」が、究極的な意味での教会の使命であるなら、教会とその牧師がインターネットを利用することに躊躇する理由は、全くありません。

(2018年7月22日、日本キリスト教団王子北教会特別礼拝)

2018年7月15日日曜日

生命がみなぎる

ローマの信徒への手紙6章1~14節

関口 康

「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」

今日の聖書の箇所の内容に入る前にお話ししておきたいことが二つあります。どちらも先週の役員会で話し合われたことです。私は役員会の議長でも書記でもありませんので、その立場からの報告ではありません。私との個人的なかかわりがあることだけを私個人の立場からお伝えしたいだけです。

第一は、教会の応接室のテレビを、牧師館でお借りすることになりました。これは感謝でもあり、お詫びでもあります。先週の説教の冒頭で「うちにテレビがない」とお話ししたのがきっかけです。「私にテレビをください」という意味で申し上げたつもりは全くありません。国内を揺るがす大きな事件や災害を知らない牧師の状態を懸念していただきました。ちゃんとテレビを観てくださいという話になりました。ありがとうございます。

第二は、今日の週報の表紙をご覧いただくとお分かりになりますが、「協力牧師」としてS先生のお名前を記載しないことになりました。事の詳細を申し上げる立場に私は全くありません。それはS先生ご自身がお話しになることです。

「くれぐれも誤解がないように」とS先生がおっしゃったのは、この教会への協力をやめるという意味ではないということです。週報に「協力牧師」として名前を載せるのをやめるだけです。この点はぜひご理解いただきたく、と言う立場に私はありませんので「ご安心いただきたく」と言うべきですが、よろしくお願いいたします。

この機会にS先生に対して私の個人的な感謝を述べさせていただきます。ご承知のとおり私をこの教会にご紹介くださったのはS先生です。しかし、S先生と私が最初にお会いしたのは昨年の11月14日です。わずか7か月前です。それまで全く面識がありませんでした。文字通り見ず知らずの私に関心をお寄せいただき、この教会の皆さまにご紹介くださったS先生に、私は感謝しかありません。ありがとうございました。

S先生に私を紹介してくださった方がおられます。それはM先生です。M先生は私の東京神学大学の先輩です。寮生活を共にしました。と言いましても、M先生が東京神学大学大学院を卒業なさって以来、一度もお会いしていませんでしたので、M先生と私も31年ぶりの再会でした。そのつながりの中で私がこの教会にたどり着きました。ありがとうございます。

そろそろ今日の聖書の箇所に向き合いたいと思います。しつこいほど申し上げてきたことを最初に再び繰り返します。今させていただいているのは「ローマの信徒への手紙を読みながらわたしたちが共有すべきキリスト教信仰の内容を確認すること」です。

この点を強調する私の意図は、わたしたちはパウロの考え方に悪い意味で縛られる必要はないということです。それは特に考え方の順序や角度の問題であると申し上げておきます。わたしたちはいろんな考え方ができます。古代人であるパウロと現代人であるわたしたちの考え方に差があることは明白です。わたしたちはパウロが考えた順序や角度どおりに必ずしも考えなくて構いません。

ローマの信徒への手紙でパウロが最初に強調していたのは、すべての人間は生まれながらに罪人であるということでした。それが出発点でした。しかし、その出発点だけでなく、人間が本質的に善であることを出発点にして考えることもできることをお話ししたつもりです。

そして、罪人であるわたしたち人間が真の救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという話が次に来ました。そのように言う場合の「信仰」が「働きなしの信仰」であることに触れました。「私が信じる」というわたしたちの行為がわたしたちを救うという意味ではないということが明らかにされました。

もしそうだとすれば、熱心に信じる人は救われるが、熱心でない信仰の持ち主は救われないというような話になってしまうでしょう。あるいは、もしそうだとすれば、自分が救われるかどうかの鍵は自分自身の手の中にしっかり握られていることになるでしょう。

「救い」に関してすべての主導権を自分自身が握っていると思い込むのは危険です。天国に行くのも地獄に行くのもすべては自分次第であるというなら、果たしてわたしたちが本当に救われていると言えるかどうかが分かりません。究極的なエゴイズムを意味するからです。

そういうことをパウロはよく分かっています。だからこそパウロは「働きなしの信仰」という点を強調しています。信仰という自分の行為によって自分が救われるというのであれば、自己救済です。それは間違った考えです。その間違いを退けるためにこそ、信仰が神の恵みであり、神からの贈り物であることをパウロが述べています。

しかしここで申し上げておきたいのは、わたしたちは、パウロが言っているからそれは真実であると問答無用で受け容れなければならないわけではないということです。

いや違う、ローマの信徒への手紙であれ、他の手紙であれ、パウロが書いた手紙という次元はもはや超えている。聖書の御言葉になっている。聖書は「神の霊感によって書かれた」言葉である。そうである以上、問答無用で絶対的に受け容れなければならないとする考え方の人がいないわけではありません。しかし、わたしたちは必ずしもそういうふうに考える必要はないと私は申し上げたいのです。

聖書は「神の霊感によって書かれた」と言いますが、日本のイタコ、世界のシャーマニズムとして知られる意味での「憑依」がパウロを含む聖書の著者たちに起こったかのように信じる必要はありません。自分の意志も感情も人格も主体性も失って神に「書かされた」のが聖書であるという考え方をわたしたちが採る必要はないし、非常に危険です。「書かされた」とか言い出すのは、人間の無責任に通じます。

今申し上げているのは聖書のことですが、同じことがそのまま信仰にも当てはまります。どの点が最も当てはまるかといえば、信仰もまた自分の意志や感情や人格や主体性を失う意味の「憑依」ではないということです。

神の恵みは人間の中身を排除しません。信仰は神から与えられるものです。その意味で神の恵みとしての信仰によってわたしたちは救われます。しかし、それは「働きなしの信仰」として、それ自体には功績的な意味など全くありえないものです。そうであることと、信仰が与えられた人間の中から意志や感情や人格や主体性が失われることはないということは矛盾しません。

もっと単純で分かりやすい言葉で今申し上げていることを説明したいと願っていますが、思うように行きません。この点は非常に重要なので正確に理解する必要があります。

ある程度理解しやすいかもしれないのはオウム真理教のことです。教祖に帰依することは自分の主体性や人格さえ放棄することを意味していました。外部からコントロールを受けやすい無防備な状態になりました。わたしたちはそうであってはいけないと言いたいのです。

今日開いていただいている箇所にパウロが書いているのは、新共同訳聖書が付けている小見出しに従えば「罪に死に、キリストに生きること」です。この小見出しは正しいし、安心できるものです。

書かれている内容は、わたしたちが洗礼を受ける意義は何かです。印象的な言葉は「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」(5節)です。またその言い換えとしての「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(8節)です。

「洗礼を受ける」とは、客観的な宗教学的な見方から言えば、教会の入会式です。教会の交わりに参加し、仲間になることを指します。それ以上でもそれ以下でもありません。そのことと現実の教会活動に直接的に参加できるかどうかという問題は別の次元のことになります。しかし、教会との関係を前提しない洗礼はありえません。教会の存在を度外視し、無関係であるような洗礼は無意味です。

その洗礼についてパウロが語る中で彼が強調していることは一つではなく二つです。一つではないと申し上げる意味は、洗礼の意味は「死ぬこと」だけではないということです。もう一方の「生きること」も、洗礼の重要な意味です。キリストと共に十字架につけられ、キリストと共に葬られることが重要でないわけではありませんが、もう一つの側面として、キリストと共に生き、キリストと共に復活することも重要です。

乱暴な言い方かもしれませんが、死ぬことばかり考えないほうがよいということです。生きることを考えてよいということです。キリストと共に生き、キリストと共に復活することこそが洗礼の意味であり、目標です。

死ぬ死ぬと、そればかりが強調されますと、洗礼のイメージはひたすら暗いものになります。まるで自分の意志を押し殺すことが信仰であるかのようです。まるで人間であるのをやめることが救いであるかのようです。

そのようなことをパウロは言っていません。わたしたちが洗礼によって死ぬとは「罪に死ぬこと」です。罪は、それを犯された被害者の生命だけでなく、犯した加害者の生命を脅かします。罪悪感、隠ぺい、逃亡生活、実際の刑罰など、罪は加害者にもダメージを与えます。その罪の中から救われ、罪との関係において死ぬことによって生命がマイナスからゼロへ、ゼロからプラスへと転じます。

そのことと、洗礼を受けて教会の仲間に加わることがどういう関係にあるのか、教会生活によってわたしたちの生命がみなぎり、元気になるというのはどういう仕組みなのかということを説明しなければならないと考えましたが、やめます。そのことをお話しする時間が残っていないのでやめるのではなく、私の態度決定としてやめます。

それより「この私を見てください」と言えるようでありたいと思いました。「私を見てください。いつも元気でしょ。生命がみなぎっているでしょ。それは洗礼を受けて教会の仲間になっているからですよ」と。

「この私」は、私だけでなく、すべてのキリスト者のことでもあります。そのことをいくら巧みな言葉で説明できたとしても、実際の教会生活が重苦しいもので、暗い顔でよろよろしているようでは説得力がありませんし、何の意味もありません。

(2018年7月15日)

2018年7月8日日曜日

恵みが溢れる

ローマの信徒への手紙5章12~21節

関口 康

「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

今日の私は、いろんな意味で気後れしています。皆さんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。原因は「うちにテレビがないこと」だと、テレビのせいにしておきます。

なぜでしょうか、先週集中的に日本国内で起こった、いくつかの大きな出来事をほとんど知らずにいます。サッカーのことも、西日本豪雨被害のことも、オウム真理教のことも、いろいろあったようだと、なんとなく知っていますが、詳しいことは全く知りません。

先週木曜日、教会の方から「教会にちゃんと映るテレビがありますよ」と初めて教えていただいたのですが、結局観ることができませんでした。テレビを観る習慣がないわけではありません。むしろ好きなほうですが、まだ状況が整いません。

「そんなことも知らないのか」と言われても仕方がない状態です。情報の最先端を走っておられる皆さんから大きく遅れをとった状態で、著しい情報格差を感じつつ、今ここに立たせていただいていることをお許しいただきたく願っております。

聖書についてはどうなのかということも申し上げておく必要がありそうです。聖書は毎日読んでいます。今日の箇所も、穴が開くほど読みました。しかし、今日の箇所はとても難しいです。何が難しいのかというと、ここに書かれていることをわたしたちの現実に結びつけて理解できる言葉にするのが難しいです。

これも「うちにテレビがない」という話に戻っていくところがあります。今のわたしたちが置かれている現実をよく知ることなしに、今のわたしたちに理解できる言葉で語ることは難しい。そのことを痛感する一週間でした。

しかし、開き直るつもりはありませんが、言いたいこともあります。テレビで報道されていることはあくまでもひとつの見方にすぎないということは、ご承知の通りです。テレビこそ嘘をつくということもありえます。テレビが全く言わないことも当然あります。

ひとつだけご紹介します。オウム真理教で教団ナンバーツーと言われた人は、私の中学と高校の先輩です。彼のほうが3学年上なので面識はありませんが、彼がどのような学校教育を受けてあのような宗教に走ったかの背景が私なりに分かります。中学でも高校でも成績優秀で、医者になりました。

一方、死刑を執行した法務大臣のもとで現在働いている法務省ナンバースリーの法務大臣政務官は、これまた私の中学の同級生です。高校は違いますが、私の高校のライバル校の卒業生です。私は彼を覚えているし、彼も私を覚えてくれています。東大卒業、米国留学、検察庁検事になり、東京地検特捜部や在米日本大使館で働いた後、政治家になり衆議院議員になりました。

私は彼が次の法務大臣ではないかと思っているほどですが、学校教育という観点だけからいえば、オウム真理教ナンバーツーも法務省ナンバースリーも出発点は同じだということです。そして私も同じです。私は中学でも高校でも成績不良者のナンバーワンでしたが。

オウム真理教の問題は、これまでさまざまな角度から論じられてきましたし、今なお謎の要素が多いですが、今の学校教育のあり方が関係しているのではないかという話を聞くと、腹が立つことはありませんが、何とも言えない気持ちになります。

余談が過ぎました。今日開いていただきました、私にとっては「難しい」と感じる聖書の箇所と向き合いたいと思います。

この箇所に何が書かれているかを一言でいえば、聖書に最初の人間として登場するアダムと、イエス・キリストが比較されているということです。そのこと自体、今のわたしたちにとって訳が分からないことだと言っても過言でないと思います。「最初の人間がアダムであると聖書に書いてあるかもしれないが、学校の教科書にそんなことは書いていない。科学的根拠がない」と言われれば、そのとおりです。

あるいは、全く異なる観点から、「教会の信仰において、イエス・キリストは神である。神であるイエス・キリストと人間であるアダムとを比較すること自体が間違っている」という見方もできるかもしれません。どんどん謎の深みにはまっていく箇所のひとつだと、私には思えてなりません。

しかし、パウロが言おうとしていることは、私が今申し上げたような、アダムが歴史的に実在したかどうかとか、イエス・キリストが神であるかどうかというような次元の話から完全に切り離すことはできないとしても、いくらか区別することが可能かもしれません。どう言えばいいのか、それが難しくて分からないのですが。

今日の箇所に記されていることの中でパウロが言おうとしていることが最も分かるのは、18節です。「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」。

お分かりでしょうか。こういう話だと思います。「一人の罪によって」の「一人」はアダムです。「一人の正しい行為によって」の「一人」はイエス・キリストです。そのアダムとそのキリストをパウロが比較しています。なぜ比較するのかというと、両者に共通点があることを浮き彫りにしたいからです。

具体的な話をしはじめると、いろいろ語弊が生じる気がしますので、なるべく避けたいですが、だれかと自分を比較するとか、自分以外のだれかとだれかを比較することは、わたしたちが日常的に行っていることだと思います。この人とあの人の共通点は、とりあえず人間であることだというあたりから始まって、あといろいろ。

やはりすぐ語弊が出てきそうなので具体的な話はやめておきます。「あの人は背が高い」と言うだけで問題になることがありえますので。ある人と他の人を比較するというのは、実際にそれをしない人はいないと思うくらいですが、たいてい嫌な話になります。楽しい話になることは、まずありません。最初に私の中学の先輩と同級生の比較のような話をしましたが、楽しい話ではなく嫌な話です。

私がこの教会で最初に説教をさせていただいたときに申し上げたことですが、「学校の教員ほど嫌な仕事はない。なぜなら、生徒の答案に点数をつけなければならないからだ」と申しました。「生徒に点数をつけること」は不可能ですが、「生徒の答案に点数をつけること」は可能ですし、それをするのが学校教員の仕事です。

評価することと比較することは切り離すことができません。学校だけでなく、どこに行っても比較と評価は必ずつきまといます。その点でパウロがしているアダムとキリストの比較も同じです。楽しい比較ではなく嫌な比較です。

アダムは最初の人間だったのに、彼が罪を犯したので、アダムから生まれた全人類がアダムの罪を受け継いでいるとパウロは考えています。アダムの罪を全人類が受け継ぐとはどういう意味なのか。いわゆるDNAだのという生物学的な遺伝子レベルの話なのか、というようなことを問題にしはじめると、ただ混乱するだけです。わたしたちは現代人ですので、どうしてもそういう次元のことを考えざるをえないわけですが、パウロはそういう話をしているわけではないと思っていただくほうがいいです。

それならばどういう話なのかといいますと、パウロが注目しているのは数字の問題です。アダムは最初の人間だったということは、アダムはひとりだったということです。つまりアダムの数字は1(いち)です。その1(いち)であるアダムからすべての人に罪が及んだ。「すべて」の数字は何でしょうか。満点を100点にするとすれば、100(ひゃく)を「すべて」と仮に決めることができるかもしれません。

そのアダムとキリストは同じだとパウロは言おうとしています。どこが同じなのかというと、キリストもひとりだったという点です。ひとりのアダムの罪によって始まった全人類の罪からの救いという神の恵みのみわざが、ひとりのキリストから始まったということです。

アダムの罪がアダムひとりから人類全体に広がったように、神の恵みもひとりのキリストから人類全体に広がっていくのです。1から出発して100に到達するという点で、アダムとキリストは数字的に一致しているというわけです。図式的で、ある意味で抽象的でもある話です。

しかし、それだけではありません。「恵みの賜物は罪とは比較になりません」(15節)とパウロが記しています。比較しながら「比較になりません」と面白いことを言っています。どこが比較にならないかというと、「罪が溢れる」ことがあるかどうかは分かりませんが、神の恵みはあまりにも豊かすぎて溢れるものだ、こぼれおちるほどだというわけです。机の上からばしゃばしゃと。そこに両者の違いがあるとパウロは考えています。

数字でいえば、アダムの罪は1からスタートして100に到達したが、キリストの恵みは100以上であるということです。学校の先生が時々上機嫌で、よく書けている生徒の答案に「はなまる」を付けたりするのと似ているかもしれません。

こんなふうに考えていくと、パウロが書いているのはずいぶん楽しい話のように思えてきます。不謹慎な言い方は慎むべきですが、「神の恵みはすごいんだぞ」と言いたいだけかもしれません。

教会のことを考えさせられます。教会も最初はひとりから始まります。イエス・キリストが最初。最初の弟子はペトロ。現在は世界70億人の3分の1がキリストの弟子です。

開拓伝道の教会も、最初はひとりです。次第に人が増え、長い時間をかけて成長していきます。あるいは、家庭や職場や社会の中で、最初のキリスト者はひとりです。

ひとりであることは孤独であることを意味します。寂しさが伴います。しかし、そのときこそ今日の御言葉を思い起こしましょう。

「孤独に負けてはいけない。キリストもひとり。ひとりのキリストから、救いの恵みが全人類に及び、その恵みは豊かに溢れているのだから」とパウロが励ましてくれています。

(2018年7月8日)

2018年6月24日日曜日

希望が与えられる

ローマの信徒への手紙5章1~11節

関口 康

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

今日はできるだけ聖書に張り付いたお話をします。今朝開いていただきましたのは、ローマの信徒への手紙の5章の冒頭です。他にも例がありますが「このように」という接続詞と共にパウロがこれまで書いてきたことをひとまとめにしたうえで、結論的なことを述べている箇所です。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとします。」

「本当にそうだろうか」と疑問符を付けて、これを書いているパウロに対しても、これを読んでいる自分自身に対しても厳しく問いかけながら読むことが許されているし、そういう読み方でないかぎり意味がないとさえ私は思います。

「わたしたちは信仰によって義とされた」と書かれています。「義とされた」は救われたという意味で理解してもよいと繰り返し申し上げてきました。「わたしたちは信仰によって救われた」。過去形で書かれていますが、救いは過去に一度限り起こった出来事ではなく、それが始まった過去から現在まで継続し、未来へと続く出来事です。その意図をくめば「わたしたちは信仰によって救われている」。

本当にそうだろうか。信仰など持たなければよかったと強く後悔し、今すぐにでもこれを捨てたいと願ったことがかつてなかっただろうか、実は今まさにそういう思いにとらわれていないだろうか。信仰こそ我が身を導く杖だなんて冗談でない。信仰こそ私を躓かせてきたのではないだろうか。人生を破壊し、人間関係を失う原因だったのではないだろうか。この私が「信仰によって救われている」と本当に言えるだろうか。このようにわたしたちは自らに厳しく問いかけてみるべきです。

「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」。これこそ冗談ではない。いいかげんにしてくれと、大きな声でわめきたくなる。何が「神との平和」だ。なぜこのようなことをパウロはさらさら書けるのだろうか。私がこれだけ神と教会のために尽くしても、まるで神は無視だ。いっそ無視してくれるほうがましだ。まるで神が私を標的にして攻撃しているのではないかと感じる。平和どころか戦争だ。神に憎まれ、呪われているとしか感じない。その証拠に私の人生は破滅の一途。

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。いや逆でしょうと言いたくなる。「キリストのお陰で人生めちゃくちゃだ。夢も希望も誇りもずたずただ」と言うほうが、よほど現実味がある。

いま申し上げていることが私自身の心の叫びであるかどうかは、ご想像にお任せします。そうだと思っていただくのも自由、違うと思っていただくのも自由です。そのことよりはるかに大切なことは、現実問題としてわたしたちが知らずにいるわけには行かないし、実際に知っている事柄である、多くの人々がいったん教会の門を叩き、決して短くない教会生活をしたうえで教会と信仰に背を向けて離れているという現実です。

教会に踏みとどまった人々だけが信仰の強い人で、そうでない人はそうでないと、単純に片づけることはできません。教会自身が人をつまずかせる原因になることが十分ありうるし、実際にあることは無視できないし、それはわたしたち自身の心の痛みとして覚え続けるべきことでもあります。

そのひとりひとりの心の奥底まで分け入って踏み込み、躓きの理由は何かを尋ねることは限りなく不可能に近いし、それこそ神とその方ご本人の一対一の関係の中でのみ知られうる事柄です。だれも触れるべきではない。しかし、そこで実際に起こっているのは激しい葛藤であり、神との格闘であるということは、ここにいるわたしたちは大なり小なり体験的に知っていることです。

その意味でならば、私ももちろん知っています。牧師をしながら毎日神さまと大喧嘩です。「全く冗談じゃありませんよ、もう勘弁してくださいよ」と。

私の話になっていくのは、これ以上は自主規制します。それよりも大事な問いがあります。それは、パウロが書いているのは、きれいごとなのかという問いです。彼は悩みもなく生きていたでしょうか。信仰によってあらゆる問題がすっきり見事に解決したと言えるような人生を送っていたでしょうか。だからこういうことを臆面もなく書けたのでしょうか。いろいろ調べてみると、全くそうでない事実が見えてきます。パウロの生涯の詳細について今ここで、いちいち述べることはしませんが。

しかし、もしそうであるなら、ますます疑問がわいてくる。パウロはいったい何者なのか。「わたしたちは信仰によって救われている」とか「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」とか、まるで何事もなかったかのように、しゃあしゃあと書くことができる。

なるほどそうか、この人は宗教をなりわいにしている宗教商売人なので、自分の商売道具について悪く書くことができないと思っているのではないか。自分がどれほど苦労しようとおくびにも出さず、厚かましいきれいごとを平気で書けるのではないか。こういう人の口馬に乗せられるととんでもないことになる、くわばら、くわばら。

私はいま余計なことを言っているようでもありますが、この程度のことは高校生くらいにもなれば躊躇なく書いてくる、だれでも考えることですので、あえて口に出しています。そして、これらひとつひとつの問いは、冷笑されたり無視されたりしてはならないと私は考えます。紙一重の面がないとは言い切れません。パウロもひとりの人間である以上、彼だけを特別扱いすることもできません。

しかし、ここから少しずつですが、彼をかばうような言い方になっていくことをお許しください。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(3節)とパウロが書いていることに、私は彼の本音を見出します。それこそきれいごとだなどと私は思いません。

「そればかりでなく」と書かれると、本筋から少し外れたことが付け加えられているような言い方に見えますが、実際にはパウロはこのことこそ言いたかったのではないかと私には思えます。「苦難をも誇りとする」。私はこの箇所を読むたびに「苦しいですけどね、それも神の恵みですから堪えますよ」と、笑っているのか泣いているのか分からないようなパウロの顔が思い浮かぶような気がします。

そしてこの続きに、この手紙の中でも最も有名な言葉のひとつが登場します。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。

この言葉の意味を考える前に申し上げておきたいことがあります。これは信仰の問題を言っているのであり、神との関係について言っているのであって、それ以外のいろんなことに当てはめて一般論にしてしまわないほうがよい、ということです。

これを一般論にしてしまいますと、だれでもよく分かる話になる面と、一般的には全く理解できない話になる面とが出てくると思います。

だれでもよく分かる話になるのは、スポーツのたとえです。厳しいトレーニングをがんばって受けて体と心を鍛えれば、強くなり、いつの日かトップレベルのアスリートになることができる、かもしれないという希望が与えられる、かもしれない。そもそも最初の厳しいトレーニングを受けなければ、目標としてのトップアスリートの実現もありえない。だからがんばれがんばれ。

たとえばこういう話と、パウロが書いていることは、よく似ているといえばよく似ているかもしれません。あるいは受験勉強のたとえでも同じようなことが言えます。分かりやすいといえば、これほど分かりやすい話は他にないと思えるほどです。

しかし、よく考えるとこれはおかしいです。わたしたちが救われるのは、イエス・キリストを信じる信仰によるのであって、行いによるのではない。それは分かった。しかし、信仰もまたひとつの行為である。そうだとすれば、「わたしたちは自分自身の信仰という行為によって救われる」と考えなければならないのかというと、決してそうではなく、パウロははっきり「働きによらない信仰による救い」を述べています。そのことはすでに学びました。

もしそうだとすれば、わたしたちが信仰生活のために何かトレーニングをしなければならないことがあるのでしょうか。その訓練を受けて「強くなる」必要があるのは、わたしたちのどの部分でしょうか。そして、それによってわたしたちは本当に「強くなる」のでしょうか。かえって傲慢さや頑なさが強くなるだけではないでしょうか。「私は強い信仰の持ち主になった。私と比べてあの人たちの信仰はけしからん」と。それは強くなったと言えることでしょうか。

パウロは繰り返し「イエス・キリストによって」と書いています。「神との平和を得ること」(1節)も「神の怒りから救われること」(9節)も、パウロにとっては、イエス・キリストによることです。それは具体的にどういう意味かを考えるときに重要なのは、イエス・キリストの十字架上の死による贖いによることが6節以降に記されています。

わたしたちにとって大事なことは、イエス・キリストの十字架上の死による贖いと、わたしたちが苦難を忍耐して得られる練達によって生まれる希望との関係は何か、ということです。それは要するにスポーツにおけるトレーニングと同じような意味で強くなることが目的なのか、ということです。

そうではないと、私は言いたいのです。イエス・キリストは十字架上で、世にも稀なる強い人の姿を現されたでしょうか。十字架の釘の痛みの極みの中で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と祈ることができた強い信仰の持ち主としての姿を。

たしかにそのようにもおっしゃいましたが、それだけではありません。最期の最期に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びをあげる完全に無力な人としてのお姿も描かれています。

わたしたちの「希望」は、トレーニングによってつかみとるものではありません。それは「神の恵み」として与えられるものです。しかもそれは十字架上のイエス・キリストの無力な姿に似た者にされるという希望です。

私はなるべく使いたくない言葉ですが、キリスト教の救いが「逆説」の性格を持っていることは明らかです。それを「負け惜しみ」と言わないでください。勝ってもいませんが、負けてもいません。まだ終わっていませんので。

(2018年6月24日)

2018年6月20日水曜日

どうすれば親孝行できるか(桜美林大学)

桜美林大学(東京都町田市)
桜美林大学(東京都町田市)

ルカによる福音書16章27~31節

関口 康

「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

桜美林大学の皆さま、こんにちは。関口康と申します。よろしくお願いいたします。

今日の礼拝が「地域連携特別週間」のそれであるということを、たったいま知りました。今の教会には4月に転任したばかりですので、教会についてお話しする資格はありません。そういう準備は全くしていませんので、別の話をさせていただきます。

最初に私の自己紹介をさせていただきます。しかし、詳しいことを申し上げる時間はありませんので、ちょっとだけ。

私は一昨日月曜日に、東京都杉並区の東京女子大学のチャペルで説教させていただきました。一日置いて今日水曜日は桜美林大学のチャペルにお邪魔しています。一週間で二つの大学をお訪ねすることになりました。

ツイッターでバズった人に「お前、有名人じゃん(草)」というリプを飛ばす人がいます。私も今週ですっかり有名人です。私もツイッターをしますので、ぜひフォローしてください。しかし、今は礼拝中ですので、私の話を聴いてください。礼拝中のスマホいじりは禁止です。

しかし、という接続詞でつなぐ話ではないかもしれませんが、昨日火曜日は八王子に新しくできたばかりのインターネット通販サイト「アマゾン」の倉庫でアルバイトをしていました。

朝8時から夜7時まで10時間(休憩1時間)、時給1000円、週3日。アルバイトしながらでもないと成り立ちにくいのが牧師の仕事でもあります。すべての牧師がアルバイトしているわけではありませんが。

本当は今日もアマゾンのアルバイトに行く予定だったのですが、せっかく桜美林大学のチャペルで説教をさせていただけることになりましたので欠勤しました。事前に欠勤届を出しましたので、無断欠勤ではありません。

昨日の仕事はストーでした。ストーというのは倉庫に大量に届く商材を倉庫の棚の中に入れていく仕事です。私の作業内容は日によって違いますが、私に回してもらえる仕事は、ストー以外はピックかパックです。

ピックというのはお客さんが注文した商品の情報が倉庫に届くので、その情報に基づいて商品を探して集める作業です。パックというのは商品を梱包する作業です。

その倉庫はJR八高線「北八王子駅」徒歩15分のところにあります。アルバイトを探している方がおられるようでしたら、ぜひ応募してください。大募集中ですので、きっと採用してもらえると思います。

このままアルバイトの話を続けるほうがぜったい面白いと思いますが、私は今日、そういう話をしに来たわけではありません。今日の説教に「どうすれば親孝行できるか」という題を付けました。「どうすれば大学生の皆さんが、いちばんむかつく題になるか」を考えました。

私にも2人、子どもがいます。上が23歳、下が20歳。皆さんと同世代です。ということは、皆さんの親御さんが私と同世代の方々だということです。

その私が皆さんに「どうすれば親孝行できるか」という話をするということは、私が自分の子どもたちに「どうすれば私に親孝行してくれるのか」と説教するのと同じです。嫌でしょう、そんな親。殺意を抱くレベルかもしれません。そういうことはよく分かっているつもりです。

そして、今日の説教の結論を先に言えば、皆さんが親孝行のために特別に何かをする必要など全くない、ということです。「ナニそれ?」と思われるかもしれませんが、そうとしか言いようがありません。「そんなことはどうでもいい」というのが今日の結論です。

先ほど朗読していただきました聖書の箇所は、イエス・キリストのたとえ話です。お金持ちの人がいました。その人の家の前にいつも寝ているラザロという人がいました。体中に吹き出ものがありました。それを犬が近寄ってきてなめたりしました。

その後、ラザロは死にました。お金持ちの人も死にました。人生は平等です。貧しい人も死にますが、お金持ちの人も死にます。いずれにせよ人は必ず死ぬという点で、人生は平等です。

死んだラザロは天国に行きました。アブラハムという旧約聖書の登場人物が天国にいて、ラザロを迎え入れてくれました。お金持ちの人は苦しい地獄に行きました。その人が見上げると天国のラザロとアブラハムの姿が見えました。

お金持ちだった人が大声でアブラハムに、そこにいるラザロを私のところによこせと言いました。「お金持ちだった人」と過去形で言いました。だってこの人はもう死んでいるのですから。天国にも地獄にもお金を持っていくことはできませんから。

その人がアブラハムに言ったのは、ラザロの指に水をつけて私の渇いた舌を冷やさせろということでした。するとアブラハムは、それは無理だときっぱり断ってくれました。それはそうでしょう。この人は生きている間、苦しんでいるラザロに施しひとつせず、見殺しにしていたのですから。

すると、金持ちだったその人がまだ言う。私の父親の家に兄弟が5人いるので、その者たちのもとにラザロを遣わして、こんな苦しい地獄に来ないで済むようにラザロを使って言い聞かせてくださいと。そのこともアブラハムはきっぱり断ってくれました。

なんでこの人、こんなに偉そうなのでしょうか。この人のおかしさは、自分はもう死んでいるのに、ラザロがまだ自分の言うことを聞く手下になると思い込んでいることです。

さっきから言いたくて我慢している言葉を言っていいですか。こいつ、ばかです。

私は皆さんにはぜひお金持ちになっていただきたいです。皮肉でなく心からそう願っています。しかし、人を見くだす人間にならないでください。もし私が皆さんの親なら、自分の子どもにそのことをこそ願います。私もつい「ばか」と言いました。反省します。ごめんなさい。

皆さんにはぜひ会社に入ったら、リーダーになってほしいし、スーパーバイザーになってほしいです。マネージャーになってほしいし、オーナーになってほしいです。しかしそうなったとしても、アルバイトの作業員を自分の手下だとかコマだとか、そういうふうに思い込まないでほしいです。

もし私が皆さんの親なら、皆さんがどんなに偉くなっても、人を見くださない、ばかにしない人になってほしいです。すべての親が私と同じ考えかどうかは分かりませんが。

そういう人に皆さんがなることこそ「親孝行」です。親孝行のために特別にしなければならないことは、何もありません。

(2018年6月20日、桜美林大学チャペルアワー)

2018年6月18日月曜日

どうすれば天国に行けるか(東京女子大学)

東京女子大学(東京都杉並区)
東京女子大学(東京都杉並区)

ルカによる福音書14章21~24節

関口 康

「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った、『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

東京女子大学の礼拝でお話しさせていただくのは2回目です。最初は1年前の2017年6月(27日)でした。そのとき「私も就活中です」と言いました。あからさまに言えば、1年前の私は無職でした。どうしてそうなったのかは話が長くなりますので割愛させていただきます。昨年の説教は私のブログで公開していますので、探してみてください。

昨年私が申し上げたのは「同情してもらいたいのではありません。『おじさんも必死で生きています』と言いたいだけです。私は絶対にあきらめません。皆さんも絶対にあきらめないでください」ということでした。勝手な話ですが、そのとき私は皆さんの前で再就職の誓いを立てた気持ちでした。そして、これまた勝手な話ですが、今日は再就職完了の報告をさせていただきに参りました。

失業中、ハローワークに通いました。いろんなアルバイトを探しました。私が持っている免許は、自動車の普通免許と宗教科の教員免許と牧師の免許だけです。「使えないやつだ」と思われたようです。多くの会社から不採用通知を受け取りました。応募したのは、警備会社、湯灌師(おくりびと)、浮気調査の探偵会社、などなど。学校関係は競争率が高すぎて不採用。塾講師も応募しましたが不採用。

やっと採用してもらえたのが物流関係の倉庫でした。ピッキングのアルバイト。しかし、現場が自宅から遠く、交通費がかかりすぎて収入が目減りする一方なので、1か月でやめました。自宅から歩いて行ける距離に印刷関係の会社を見つけて応募したら、なんとか採用してもらえました。

今年4月から教会の牧師の仕事に復帰しました。それ以前の25年間続けてきた私の本業です。本業に戻ることができました。競争率が高いわけではありません。そもそも就職先が少なく、成り手も少ない職種です。

今は牧師の仕事をしながら、昨年の経験を活かしてアルバイトをしています。自転車で通える距離の八王子のアマゾンの倉庫で週3日、1日10時間働いています。内容はピック(注文品探し)とパック(梱包)とストー(棚入れ)です。

なぜこんな話をしているか。皆さんの参考になるかもしれないと思うからです。「おじさんとわたしたちを一緒にしないでほしい」と叱られるかもしれません。ごめんなさい。

この私の話と、今日の聖書に記されていることと、「どうすれば天国に行けるか」という今日のお話のタイトルとの三者がどういう関係にあるかを、そろそろ申し上げなくてはなりません。

これはイエス・キリストのたとえ話です。ある人が宴会を開きました。たくさんの人を招待したいと願いました。ところが、招待した人たちが、いろんな理由をつけて宴会に来ませんでした。腹を立てた主催者が、要するにだれでもいいから無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれと、しもべに言いました。天国とはそういうところだと、イエスさまがおっしゃいました。

たとえ話はその意味を考えなくてはなりません。私なりの言葉で言えば「天国は競争率が低い」ということです。タダでごちそうをいただけるのにだれも来ないし、理由をつけて逃げられる。―チャペルの礼拝のようでしょうか。今日はたくさんの方が出席してくださり、ありがとうございます。空席だらけで、行けばだれでも大歓迎してもらえる。―教会の礼拝のようでしょうか。そうかもしれません。

主人に招かれた人々が、なぜ誰も来なかったのでしょうか。タダでもらえるものには価値がないと思ったからでしょうか。自分が一生懸命頑張って手を伸ばして自分の力で勝ち取り、つかみ取るようなものでなければ。

要するにだれでもいいの例として、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の自由な人」をイエスさまが挙げておられることに差別の意図はありません。それだけは誤解のないように言っておきます。しかし、競争社会の中で遅れがちになりやすい人々であるのは否定しにくいことではあるでしょう。

「世の中は違う。そんなに甘くない」と思われるでしょうか。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。競争そのものが目的ならば話は別ですが、人生は競争だけで成り立つものではありません。

就活に悩んでいる方にぜひ考えていただきたいです。一度でいいから競争心を捨ててみませんか。「自分はあの人より上である、あの人より下かもしれないが」というその競争心を。生きていくために、仕事を得るために、世のため人のために役立つために。忍耐して生きのびたごほうびとしての「天国」に迎え入れていただくために。

(2018年6月18日、東京女子大学 日々の礼拝)

2018年6月17日日曜日

約束が与えられる

ローマの信徒への手紙4章13~25節

関口 康

「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼るだけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

すでに何度かお話ししましたが、私の両親がキリスト者で、二人とも教会学校の教師をしていたこともあり、私は生まれたときから教会に通っていました。

その影響で、と言いますか、その環境の中で、と言うほうがぴったり当てはまりますが、子どもの頃から実は今日に至るまで拭いきれずにいる「教会」というものに対する私の中でのイメージは「連れて行かれる」ところだったりします。否でも応でも。

それは間違ったイメージであるということは、一方では分かっているつもりです。「連れて行かれる」を漢字の熟語にすると「連行」です。国語辞典で調べてみると、連行とは「本人の意思にかかわらず、連れて行くこと。特に警察官が犯人・容疑者などを警察署へ連れて行くこと」だと書かれていました。お前の主体性はどこに行ったのかと叱られるかもしれません。

しかし他方で、私は牧師の仕事を始めて28年目ですが、今に至ってもそのイメージを拭いきれずにいます。かえってますますその感覚が強まっているとも感じています。私が牧師だからこそそのように感じるのだと言える要素があるかもしれません。

ここで申し上げたいのは、私が教会に抱くイメージのそれは、キリスト者として果たすべき「義務」だからとか、「責任」だからとか、「神の命令」だから、というような言葉で表現できることではないということです。

そうではなく、まさに「恵み」です。「神の恵み」です。それ以外に表現しようがありません、少なくとも私には。ただし、その中に強制の要素がある。「強いられた恵み」というのは矛盾に満ちた言い方かもしれませんが、まさにそれが当てはまる。そのように思うのです。

教会は日曜日だけ存在する存在ではありません。教会は建物や組織の意味だけでなく、キリスト者の存在そのものが教会です。ふだんひとりひとりが別々にいるときは教会の姿は見えにくく、日曜日に集まると、よりはっきりと姿を現します。

しかし、それはそうとしても、日曜日に集まることが教会のほとんどすべてを集中的に現していると言えないわけではありません。その中で牧師に与えられている責任は説教の準備をすることです。日曜日は7日ごとに巡ってくる。ある意味で「襲い掛かってくる」。否応なしに。体調や状況如何にかかわらず。

感謝の気持ちはもちろんあります。感謝の気持ちしかありません。しかし、これは私の考えですが、教会は牧師にとって居心地の良い場所だけであってはならないと思っています。それは悪い意味での自己満足です。教会の私物化に通じます。教会は牧師の職場でもあるからです。

15年前に出版された『バカの壁』(2003年)が一世を風靡した養老孟司氏が何冊かの本に繰り返し書いていたのは、正確な引用ではありませんが、こういうことでした。「仕事して給料をもらえるのは仕事が苦しいものだからだ。仕事が楽しいというのはおかしい。職場は遊園地ではない。仕事が楽しいなら、職場に入園料を払わなくてはならないだろう」。すべてが教会に当てはまるとは思いませんが、痛いところは突いていると思います。

何の話をしているかといいますと、牧師はつらいよという話ではないし、教会はつらいよという話でもありません。わたしたちは「神の恵み」について語ります。「恵み」と言うかぎり、神から一方的に「与えられるもの」であることを意味します。それは、わたしたち人間の意志や願いにかかわらず、まさに「与えられるもの」であるという性格を持っています。

場合によってはそれは、わたしたち人間の意志や願いに反して与えられることもあります。自分が欲しいものだけ自分で選ぶことができるわけではない。欲しくないものまで押し付けられる。そのため、わたしたち人間の側からすると、強制的な要素があると感じるところが出てくるのではないかと思うのです。

今申し上げていることの文脈で、わたしたちには信教の自由があるので、いかなる意味でも強制があってはならないという話を持ち出すのは全く間違っています。信教の自由の理念は正しいものです。しかし、それとこれとは全く違う話です。今申し上げているのは、わたしたちが生まれたことも、人間として生きていることも、自分の願いや祈りの実現であるとは言えないという意味で強いられたものであると言っているのに近いことです。

わたしたちのうちのだれが「生まれたい」という明確な意志をもって生まれたでしょうか。DNAとかそのあたりの謎のレベルで「私は生まれたがっていた」と主張する人がいるかどうかは知りませんが、そういう話とは区別して考えていただきたいです。そういう話ではありません。

少なからぬ少年少女が、あるいは大人になってからも、私はなぜ生まれたのか、私はなぜ生きているのかという悩みを解決できずにいます。私は生まれたかったわけではない、生きていたいと思わないと。

実際そのとおりだとしか言いようがない面があります。身も蓋もない言い方をしてしまえば、親にとって子どもは、子どもの意志とは全く無関係であるという意味で「勝手に」産んだものです。だからこそ親の責任は重大であると言わなければならないことは事実です。

いま、うちにテレビがありませんし、仮牧師館から牧師館に引っ越してから私用のインターネットがまだつながっていませんので、最近のニュースが全く分かりません。親が子どもを殺したとか、親子関係が悪かった人が人を殺したとか、そういう痛ましい話がいろいろあるようですが、どれも噂話のようなこととして間接的に聞いているだけで、具体的な中身がさっぱり分かりません。

ですから、いま申し上げているのは時事の出来事についてのコメントではありません。聖書的・キリスト教的な意味での一般論をお話ししているにすぎません。

先週は「信仰が与えられる」という題でお話ししました。今日は「約束が与えられる」という題です。来週は「希望が与えられる」という題であることを週報で予告しました。「信仰」も「約束」も「希望」も未来に属する事柄です。6月の関口牧師の説教は「与えられる未来シリーズ三部作」であると覚えていただくとよさそうです。

この「与えられる」に私がこめた意味が、ある意味で「強いられる」でもあると申し上げたいのです。私は二人の子どもの父親です。私は子どもたちに「ごめんなさい」と謝らなくてはならないかもしれません。「こんな目に合わせて、ごめんなさい。こんな時代に、こんな苦しい世界に立たせてしまって。もっと良い時代に生まれたかったよねえ」と。そう言うと、人のせいですが。

そこで私が「でもね、それはぼくも同じだよ」とか言い出すのは無責任な言い逃れかもしれませんが、そういう連鎖のようなところが人生にあります。人は面倒な時代の中に生まれ、その人自身が面倒の原因を作り出す。それぞれの時代に、それぞれ異なる悩みがある。大げさに言えば、人類の歴史は、そのような連鎖によって作り出されてきたものでもあります。

今日の箇所にパウロがアブラハムの生涯について、とくにイサク誕生の経緯に触れて書いています。イサクの側の視点は全く考慮されません。すべてあくまでも親であるアブラハムの側からの視点だけです。「あなたに星の数ほど多くの子孫を与える」と神が約束してくださったにもかかわらず100歳になるまで一人の子どもも与えられなかったアブラハムに、やっとイサクが与えられました。

子どもが与えられるかどうかということ自体の問題ではありません。神の約束が実現するかどうかの問題でした。アブラハムは、その約束がいつになっても実現しないので、約束そのものを疑ったことも全くなかったわけではありません。神の約束の内容とは違う方法で子どもをもうけたことまで聖書に記されています。しかし、最終的にアブラハムは神の約束に立ち戻り、それを信じ続け、ついにその約束の実現を見ることができました。

アブラハムがしたことは「あきらめなかった」ということだけです。子どもを産むことができる身体的な能力という意味での限界を超えてもなお、「神の約束は必ず実現する」と、神とその約束を信頼し続けました。

私は、100歳のアブラハムと90歳のサラに初めての子どもとしてイサクが与えられたという創世記の物語を「奇跡物語」としては受けとめていません。超自然という意味での奇跡の要素は全くありません。夫婦に子どもが与えられることに超自然の要素はありません。強いて「奇跡」だと言いうるところがあるとしたら、100歳のアブラハムが自分に子どもが与えられると信じることができた、そのことです。その信仰が奇跡です。

当時の年齢の数え方と今の年齢の数え方が違っていたのだ、というような合理的な解釈の可能性があるかもしれませんが、そういうのは私にとってはどうでもいいことです。重要なことはアブラハムもサラも「高齢者」であったということです。

そして彼らがイサクに託したのは信仰の継承でした。その信仰はアブラハムに与えられた「あなたに星のような多くの子孫を与える」という神の約束を信頼することであり、同時に未来において信仰の民が多く与えられることへの希望を持つことを意味していました。このあたりで、アブラハムの話とわたしたちの教会の話が結びついてくるものがあると私には思えます。

もうずいぶん前からですが、「日本の教会の未来がない」と嘆く声を教会の中で繰り返し聞いてきました。やれ少子高齢化だ、やれ教会に高齢者しかいない、やれ子どもや若者がいない、だから我々には未来がないと、絶望の三段論法を教会自身が言い続けるのです。

あと10年で多くの教会が消滅するそうです。すでにそれは始まっています。毎年いくつもの教会が閉鎖や合併を余儀なくされています。それはすべて事実です。

しかし、その話を聞くたびに何とも言えない気持ちになります。少子高齢化が「問題」であると言われると拒絶反応すら抱きます。だからどうしたのかと言いたくなります。教会は、恵みによって信仰によって受け継がれるものです。年齢は関係ありません。

パウロが取り組んだ「異邦人伝道」とは具体的に言うと何でしょうか。人生の多くの時間ないしほとんどの時間を異教徒ないし無神論者として過ごしてきた人を神の子どもにすることです。その仕事をわたしたちはパウロから受け継いでいます。

(2018年6月17日)