2025年3月6日木曜日

ファン・ルーラーはホーケンダイクの指導教授だった

デイヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』英語版

【ファン・ルーラーはホーケンダイクの指導教授だった】

先週2025年2月24日(月)日本基督教団東京教区東支区社会部主催の社会セミナーが富士見町教会(千代田区)で盛会のうちに終了した。私は主催者の中の人。講演者、川上直哉先生に心から感謝。詳細はクリスチャン新聞3月9日号をぜひご一読を。私が今から書こうとしているのは、関連事項ながらやや別件。

川上直哉先生は、現在爆売れ中の快著『私の救い、私たちの希望』(ヨベル、2004年)のご著者。まさに時の人。私は面識が無かったので、川上先生をお迎えするにあたり、まずはご著書を読み始めた。同時に、副題にあるデイヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』の日本語版と原著英語版を入手した。

ところが、そこに躓きの石。ボッシュのセンパラ(フルネームで言いなさい)に「ファン・ルーラー」が登場しない。南アフリカ・オランダ改革派教会のボッシュが「宣教の神学者」ファン・ルーラーを知らないはずがない。ファン・ルーラーは同時代の神学者から無視され続けた人。そのたぐいかと落胆した。

しかし、それは誤解だった。ボッシュのセンパラ(省略やめなさい)に「ファン・ルーラー」が登場しないのは客観的事実。だが、ボッシュが紹介する多くの神学者たちの中にファン・ルーラーと深い関係にある人がいた。その人の名はJ. C. ホーケンダイク(Johannes Christiaan Hoekendijk [1912-1975])。

ホーケンダイクは戸村正博訳『明日の社会と明日の教会 (新教出版社、1966年)等で日本でも昔から知られてきたオランダ改革派教会(NHK)の神学者。ホーケンダイクの博士論文の指導教授がファン・ルーラーだったことが分かった。ファン・ルーラーはボッシュの本に登場しないが、しっかり仕事していた。

「宣教(apostolaat)」概念でクレーマーとファン・ルーラーはつながる。ホーケンダイクとファン・ルーラーは師弟関係。世界教会協議会(WCC)初代総幹事ヴィサー・トーフトもオランダ改革派教会(NHK)。クレーマーとヴィサー・トーフトの名前が『日本基督教団史』(教団出版局、1967年)に出てくる。

2008年12月11日(木)オランダ留学中の石原知弘牧師の案内で、ユトレヒト大学図書館内のファン・ルーラー文庫(Van Ruler archief)に行き、閲覧させてもらったのは日本の終戦(1945年8月15日)についてファン・ルーラーが書いたメモ。バイブルサイズくらいの用紙に小さい字でびっしり書かれていた。

私はこれからもファン・ルーラー研究を続ける。オランダ語は一向に上達しないが、翻訳は語学が得意な人にお任せしたい。私の関心は彼の思想、発言、行動、影響にある。ファン・ルーラーは1970年12月に62歳で亡くなった。インターネット時代は知らないが、アポロの月面着陸(1969年7月)は知っている。

また原稿を2つ抱えている。私にオファーは二度と無いと思っていたのでありがたいが、うれしい悲鳴。ひとつは「戒規」に関する件。とてつもなく深刻な問題であることを改めて認識し、頭を抱えている。もうひとつはファン・ルーラーの紹介。光栄なことだ。私の人生が問われる。蘭学事始、はじめの一歩。

2025年3月5日水曜日

「宣教」か「伝道」か

ヘンドリク・クレーマー『宣教の神学』『信徒の神学』日本語版

【「宣教」か「伝道」か】

日本語版があるヘンドリク・クレーマー『信徒の神学』『宣教の神学』独語版("Theologie des Laientums" und "Die Kommunikation des christlichen Glaubens")をドイツの古書店に注文完了。「宣教」か「伝道」か。ファン・ルーラーはクレーマーの「宣教」(apostolaat)概念を継承。

ファン・ルーラーのapostolaatを「伝道」と(誤って)訳すと袋小路に陥る。「宣教」は包括概念なので、それを「伝道」と誤訳してしまうと、それと区別される狭義の「伝道」について「福音の宣べ伝え」など奇異で不適切な用語を造語せざるをえなくなり、ボタンの掛け違えが起こる。実際に起こっている。

ファン・ルーラーのapostolaatを「伝道」と訳したい人は「キリスト教会の、政治・社会の諸問題に対する取り組み」を意図的に締め出すことに躍起である。しかし、ファン・ルーラーが継承したヘンドリク・クレーマーの「宣教」(apostolaat)概念に教会の政治・社会への取り組みは明確に内包されている。

上記の事実について文献的な確証を得るために、クレーマーの『信徒の神学』と『宣教の神学』のドイツ語版を注文した。ネットは便利。ポチッと押すだけ。あとは待つのみ。早く来い来いクレーマー。「宣教」か「伝道」かだのいう空虚な議論を終わらせたいとひそかに願う。とネットに書く毎度のパターン。

北村慈郎先生の名誉回復を求めます

北村慈郎牧師を表敬訪問しました(2024年10月2日~3日)


主張「北村慈郎先生の名誉回復を求めます」

関口 康(日本基督教団足立梅田教会牧師)

学生時代から尊敬する小海基先生からご依頼いただきましたので、本稿の執筆をお引き受けしました。私が高校からストレートで1984年4月に東京神学大学の学部1年に入学したとき、小海先生は大学院2年生でした。学生寮での自主的な勉強会でバルトやボンヘッファーの神学について小海先生から手ほどきを受けました。40年越えの関係です。

私は昨年(2024年)3月1日付けで足立梅田教会牧師に着任しました。私に足立梅田教会を転任先として紹介してくださったのは東京神学大学の学長です。足立梅田教会に来るまでの私は、この教会が北村慈郎先生の牧者としての歩みの「原点」であったことを知りませんでした。

加えて、私は1990年4月に日本基督教団(以下「教団」)補教師准允、1992年12月に正教師按手を受けて計7年間、教団所属教師として四国教区や九州教区の教会で働きましたが、1998年7月より2015年12月まで日本キリスト改革派教会(以下「改革派教会」)の教師であり、2016年春に教団教師に戻った者です。北村先生の教師免職が執行された2010年時点の私は完全な「部外者」で、大変失礼ながら、対岸の火事を見る思いで報道に接しました。

しかしながら、北村先生の「戒規」は、決しておおげさではなく、私の「人生」に大きな影響をもたらしたことを申し上げねばなりません。この件は、昨年(2024年)10月2日(水)から3日(木)にかけて、私が北村先生のお宅を訪ねて直接打ち明け、ご了解いただいたことです。

それは、私が1997年に教団から改革派教会に移籍した理由は、1995年1月の阪神淡路大震災発生後に発生した「ナイフ事件」の当該教師に何らの戒規もなされない教団のシステムに恐怖に近い感情を抱いたからだった、ということです。

私も神の御前で、ひとりの罪人である。その私が何をしようと免職できない教団にとどまるのは危険であると認識し、「戒規」が可能な改革派教会に移籍しました。それが私自身を含む、神の言葉の説教者の暴走を食い止める唯一の手段であると、当時の私は考えました。

それで、改革派教会の教師だったころ、同僚の牧師相手に繰り返し話していたのは、「私が教団を離脱した理由は他人に向けてナイフを取り出した教師すら免職する仕組みがないことに尽きる。教団でもし、1件でも教師免職が行われたら逆立ちして歩いてもよい」ということでした。絶対にありえない、という意味でした。

私が逆立ちして歩かなくてはならなくなったのは(逆立ちはできないのですが)、2010年の北村先生に関する報道に接したときでした。教団を批判する理由が無くなったと認識しました。以上の経緯と、「教師免職」の英断に至られた教団への敬意と、教団は「免職」を行いえない欠陥システムであると思い込んでいたことへの謝罪を、教団教師検定委員会から課題として出された小論文に明記したうえで、教師転入試験にパスして教団教師に戻ったのが2016年春でした。つまり、北村先生の「免職」のおかげで、今の私は教団の教師なのです。

しかし問題は、北村先生に対して教団がおこなった戒規の内実です。申し上げたとおり、私は完全なる「部外者」でしたので、事実経過を精査する立場にありませんでしたし、意見を述べる立場にも、賛否を問われる立場にもありませんでした。それは現在も大差ありません。

比較的詳細な情報を知りうるようになったのは、昨年3月に足立梅田教会に着任してからです。おりしも昨年(2024年)9月に1年遅れの「足立梅田教会創立70周年記念礼拝」を行うことになり、説教者として当教会第2代牧師である北村先生をお招きすることになりました。打ち合わせの際、北村先生ご自身や足立梅田教会の教会員の方々から、北村先生に対して教団がおこなった「戒規」があまりに一方的で卑劣なものだったと教えていただき、由々しきことだと思いました。

つまり、私が支援会の活動に心惹かれるようになったのは、「聖餐を開くか閉じるか」の議論にかかわりたいからではなく、教憲教規違反の被疑者として訴えられた一教師に対して現実に執行された「免職」の正当性に疑義を抱く人々の声に、もっと多くの人が耳を傾けるべきだと考えるに至ったからです。

この点をご理解いただけないかぎり、あっという間に、私まで色付けされてしまうでしょう。実際、足立梅田教会の礼拝説教者として北村先生をお迎えすることを教会ブログで公表しただけで、「関口牧師はオープン聖餐派ですか」という問い合わせが複数の方面から届きました。なんというステレオタイプ。なんという愚かな決めつけ。このような憶測と偏見に基づく監視と弾圧が北村先生ご自身と支援者がたを苦しめる元凶だったのだろうと、わが身で知ることができました。

私は一度ウェストミンスター信仰基準と礼拝指針に同意した者であり、日本基督教団に戻ったからといってその点は撤回していませんので、聖餐論に関して疑義を受ける立場にはありません。失礼なことを言わないでほしい。

日本キリスト改革派教会で信徒や教師に「戒規」を執行する場合の基準は、同教会の教会規程第2部「訓練規定」です。1968年の大会で同規定が設けられ、何度かの大改正を経て今日に至ります。私が改革派教会に在籍していた時期に当たる2008年にも大改訂が行われました。私が教団に戻った2016年以降の「訓練規定」がどうなっているかは知りません。

私が、北村先生に対する教団の仕打ちについて、北村先生ご自身や支援者がたからお話を伺いながら思い起こすのも、改革派教会の「訓練規定」の内容です。

たとえば2008年改正版の同規定第20条に「小会および中会は、その管轄下の人々の信仰と行状についての好ましくない報道に接したときは相当な注意と十分な思慮分別をもって判断し、必要と認めるときはかれらに満足な釈明を求めなければならない」とあります。この「かれら」に当てはまるのは、北村先生と支援者がたでしょう。免職戒規の執行前もその後も「満足な釈明の機会」を設けられたことがないゆえに、抗議を続けておられるわけでしょう。

日本基督教団の「教団(総会)」と「教区(総会)」と「各個教会の役員会」との関係が、改革派長老派教会の「大会・中会・小会」のような3段階の法治システムになっていないことをもちろん私は承知しています。しかしだからといって、教団の一教師を免職する際に、当該教師が牧会している教会の教会総会の承認を受け、所属教区も同意していることを、教団のごくわずかな人々が教師免職に値する重大な教憲教規違反であると判断し、北村先生ご自身との面接すらせずに免職を言い渡すというのは、少なくとも改革派教会では絶対にありえないことですし、30余派の旧教派の寄り合い所帯の日本基督教団だから許されるという論理も、私には容認しがたいです。

しかし、日本基督教団の教憲教規であれ、改革派教会の教会規程であれ、「法」であることには変わりありませんので、条文を持ち出して云々するのは、不毛な解釈論争を招くだけで徒労に終わることを私も知っています。

それよりも私がご紹介したいのは、私が改革派教会にいたころ直接かかわった教師戒規の実例です。伝聞ではなく実際の審議に参加しました。「実例」の紹介は個人の特定につながるので慎重にしなければなりませんが、日本基督教団においては北村慈郎先生以外の教師免職の「実例」がない以上、他の教団教派の「判例」を参考にせざるをえないではありませんか。

2つの例を紹介します。1件目は「試問なき洗礼を授けた教師」への戒規です。この例は教師免職の例ではありませんが「聖礼典(サクラメント)」の理解に関係する例なので、挙げます。

教会員のご家族で臨終間近の未信者の病床に当該教師と長老が訪問しました。教師の問いかけへの反応はほとんどない状態だったそうです。しかし教師は、その未信者に病床洗礼を授け、その方はまもなく召されました。その場に立ち会った長老が小会記録に「試問なき洗礼を執行した」と記録したところ、中会の記録調査委員会で問題にされ、中会会議の審議を経て当該教師に戒規が執行されました。戒規の内容は、私の記憶によると、陪餐停止を含む一時的な職務停止と、中会の関係委員会との定期面接と、ウェストミンスター信仰基準の洗礼論についての論文を書くこと、でした。

2件目は「他人の説教を盗用した教師」への戒規の例です。当該教師は、加藤常昭牧師の説教集からの、句読点たがわぬ書き写しを、長年にわたり常習していました。その書き写し説教に感動を示す信徒が多かったので、やめられなくなったようです。当該教師が最後に牧会した教会の長老が説教盗用の事実に気づき、詳細な調査報告書を作成して中会に訴えた結果、当該教師に対し、即時免職の戒規が執行されました。

その際、当該教師もご家族(特にお連れ合い)も、免職の戒規に服することに同意しておられました。教師本人が抵抗しているのに一方的に免職を言い渡すことが改革派教会で行われたことは、1970年代にいわゆる異言問題に関することで1例ある(ただし教師自身が退会届を提出)以外はほとんどないと思われます。

日本キリスト改革派教会にいたころ私の目の前で見た教師戒規の2例が、北村先生に対して教団がおこなった戒規とどういう関係にあるかを論じるのは難しいです。「別ルールである」と言われてしまえばそれまでです。しかし、今の私の目で見ると、北村先生に教師免職の戒規が執行されたまま、再審理も名誉回復もなされないのは、あまりに行き過ぎの仕打ちに見えて仕方ありません。

その一方で、教団執行部側に強い影響力を持っていた教師たちがかなり次々と性的なトラブルを起こしたことが教会内で発覚したにもかかわらず、教師免職ではなく教師隠退や転任という形で救済されているという情報を耳にすると、北村先生だけがなぜ免職なのかが、私にはいよいよ理解不可能になります。

私個人の感覚で言わせていただけば、北村先生がなさったことに対する教師免職という戒規は、量定としては重すぎるものであり、なにがなんでもどうしても、というならウェストミンスター信仰基準の聖餐論についての論文を書いていただくぐらいで十分だと考えますが、日本基督教団のルールにそぐわないことは、もちろん理解しています。北村先生に対しても失礼な言い方で、申し訳ありません。

先ほど紹介した改革派教会での1例目の戒規の件では、「試問なき洗礼」の是非が問われました。現在の日本基督教団で同様の問題が問われているかどうかを私は知りませんが、そもそも「洗礼に先立っての試問」が、教団の教会の中で、どの程度まで厳密に行われているかを調査するほうが有意義であるように思えます。

そのときも「あの長老が小会記録に『試問なき洗礼を執行した』と書かなければ済んだのに」とつぶやく人たちの声を耳にしました。これと同じような声が、日本基督教団の中でも、とくに「洗礼と聖餐の関係」の問題については、いくらでもつぶやかれているのではないでしょうか。性的なハラスメントや説教盗用のような問題には逃げ腰のように私には見える日本基督教団が、聖礼典(サクラメント)の問題に限っては、北村先生の免職戒規を取り下げようとしないのは、バランスが悪すぎるように見えて仕方がありません。北村先生の免職戒規が取り下げられ、名誉回復がなされることを、私個人は祈ってやみません。

(『北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会通信』第35号、2025年3月5日発行、13₋16頁掲載)

2025年3月2日日曜日

奇跡を行うキリスト

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「奇跡を行うキリスト」

マタイによる福音書14章22~36節

関口 康

「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」(26-27節)

以前もお話ししたことがあります。私がどの説教をするときも必ず開いて読む聖書註解はPrediking van het Oude/Nieuwe Testament(『旧約聖書/新約聖書の説教』)というオランダ語で書かれたシリーズです。

旧約聖書/新約聖書の説教シリーズ

なぜオランダ語の註解書なのでしょうか。答えは2つです。ひとつは、このシリーズの新約註解の全巻をまとめ買いしたとき、オランダの古書店から届いた本の見返しに、私が30年近く前から自分のライフワークとして取り組んできた神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])の蔵書シールが貼られていたからです。

ファン・ルーラー教授の蔵書シール

これは奇跡だと思いました。ファン・ルーラー先生が「もっと勉強しなさい」と私を励ましてくださったと信じることにして、このシリーズを自分の説教の土台に据えることにしました。

もうひとつの答えは、このシリーズに限らずオランダの聖書註解が優れていると私が思う点は、学問と信仰のバランス感覚が素晴らしいことです。聖書という文献を信仰と教会の立場からだけでなく、学問的・科学的な立場からも読む必要があります。そのことを私はいくつかのキリスト教主義学校で聖書の授業をさせていただく中で、強く認識させられました。

学問とダイレクトに関係するのが職業です。たとえば今日の箇所はどうでしょうか。イエスが水の上を歩きました。会社の上司に呼び出されて「この箇所の意味を社員に説明しなさい」と言われたら、皆さんはどうされますか。そういう面倒くさいことに巻き込まれるのがイヤだから、「私は教会に通っています」と誰にも言えないという方がおられませんか。

子どものころの私がそうでした。教会には生まれたときから休まずに通っていました。しかし、学校では教会に通っているということをひとことも言わずに過ごしました。私は隠れキリシタンでした。高校卒業後ストレートで東京神学大学に入学し、会社勤めをせずに牧師になったことも「逃げること」を意味していると、当時から自覚していました。そんな私が、よりによって学校で教えることになりました。学校が大嫌いだった私が、学校で教える人間になりました。

この話をいつまでも続けるわけに行きません。今日の箇所についても、同じ聖書註解シリーズのマタイ福音書の巻を読みました。著者はニールセン(J. T. Nielsen)です。ベルギーのブリュッセルの聖書学者です。著者の背景は分かりません。しかし、ニールセンがハインツ・ヨアヒム・ヘルド(Heinz Joachim Held [1928-])の名前をあげて「この物語は前の物語と関連しているという H. J. ヘルドの発言には多くの意味がある」と解説しているのを興味深く読みました。

私はヘルドの存在を全く認識していませんでしたが、ウィキペディアドイツ語版にヘルドの紹介が見つかりました。ヘルド先生は1983年から1991年まで世界教会協議会(WCC)中央委員会の議長でした。世界のキリスト教会に大きな影響を与えた人物のひとりと言えると思います。

ヘルド先生が言う「前の物語」は、主イエスが5千人に食事を施した物語です。その話と今日の箇所の物語がどのように関係しているのかといえば、前の物語で弟子たちは空腹で取り乱した群衆と一緒にいたが、この物語で弟子たちは湖の波間にいます。どちらの場面でも弟子たちは追い詰められ、そのたびに主イエスに窮地を助けていただきました。これらの点で2つの物語は共通しているとヘルド先生が主張されました。とても興味深い解釈だと私は思いました。

24節から読んでみます。「ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」

「幽霊」と訳されているのはファンタズマ(φάντασμα)。オバケです。湖を人間が歩けるはずがないという常識的な考えをもって生きて来たのに、その常識に反して水の上を歩いてくる人がいる。人間ではないとしたらオバケ以外に考えられないと結論が出た途端、恐怖の絶叫です。しかし、それがイエスさまだと分かったので弟子たちは安心したという話です。

この箇所が面白いと私に思える点は、主イエスが「どのようにして」(how)湖の上を歩いたかについての方法や仕組みは、弟子たちにとってはどうでもいいことだったということです。

恋人同士が渋谷のハチ公前でデートの待ち合わせをする。大切なことは約束の時間に間に合うことです。会いたい人に会うことです。「どのようにして」(how)ハチ公前までたどり着いたかはどうでもいいことです。それと同じだと思いました。バイクで来たかもしれないし、タクシーかもしれないし、交通費を節約してデート代を増やすために歩いて来たかもしれない。プロセスはどうでもいい。会いたいだけ、ただそれだけ。

ペトロが、イエスさまにできることなら自分もできると思って、私も水の上を歩きたいと言い出しました。やってごらんと主イエスから励まされて歩こうとしたら、ペトロは沈没しました。

すると、ペトロが「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(31節)とイエスさまから叱られます。これはまずいことになりました。私たちがもし水の上を歩けなかったら「信仰が薄い」とイエスさまから叱られなければならないのでしょうか。

私のオランダ語の註解書は、31節の主イエスの言葉を前半と後半に分けて、別の意味であると説明しています。前半の「信仰の薄い者よ」の意味は「重要な瞬間にイエスを完全に信頼できない人々」を指しています。しかし、後半の「なぜ疑ったのか」の意味は「自分の能力を疑うこと」を指しているのであって「不信仰」ではないと説明されています。とてもすっきりするし、励まされる説明だと思いました。

ペトロが主イエスに「そちらに行かせてください」(28節)とお願いしたとき「来なさい」(29節)と答えてくださったことの意味は、主イエスがペトロの力を信頼してくださったということです。ペトロが沈没したのは主イエスへの信仰が足りなかったからではなく、自分の力を信頼することができなかったからだということです。

私は2016年度の1年間は千葉英和高校の常勤講師でした。翌2017年度の1年間は「無任所教師」という名の無職でした。牧師しかしたことがなかった私が二度と牧師の働きに戻れないかもしれないと、絶望的な思いを抱いていました。しかし、私が牧師の仕事から離れていたのはその2年間だけでした。今、素晴らしい教会で働かせていただいています。これは私の奇跡です。

GReeeeN (現「GRe4N BOYZ」)の「キセキ」(2008年)の歌詞を覚えておられるでしょうか。「せめて言わせて『幸せです』と」。

奇跡の合理的な説明はできそうにありませんが、説明できないからこそ奇跡です。苦しいときにいちばん来てほしい方が来てくれた。会いたい方に会えた。それ以上の何が必要でしょうか。

弟子たちが困ったときはイエスさまが必ず駆けつけてくださる。そのことを今日の箇所は読者に強く訴えています。助けられたときは、そのあとで「幸せです」とせめて言えれば、よろしいのではないでしょうか。

(2025年3月2日 日本基督教団足立梅田教会主日礼拝)

2025年2月28日金曜日

「板書説教」自己評価 6か月点検

ホワイトボード

【「板書説教」自己評価 6か月点検】

昨年(2024年)夏から始めたホワイトボードとマーカーを用いた「板書説教」が半年以上。悪い面もあるに違いないが、いま問題にしなくてもいい。以下良いと思える面。順不同。

①同音異義語が多い日本語で、耳で聞くだけで理解できる説教を続けることに限界を感じたことがある説教者たちの活路になる。

②説教中の板書が許可されれば、聖書原典のヘブライ語やギリシア語や、キリスト教の専門用語や現代社会の専門的な知識などの解説に躊躇なく踏み込んで説教することができる。

③板書の手書き速度が説教の進み具合をゆったりしたものにし、理解できないまま置いてきぼりにされる出席者がいなくなる。

④前記③の言い換えだが、事前に印刷したプリントを配布したり、パワーポイントとプロジェクターで「文字や画像や動画」を映写しながら説明する方法と比べて、「板書説教」はのんびりしていて、人にやさしい説教になる。漢字の書き順や難読漢字など「今さら聞けない」知識を派生的に得られたりもする。

⑤「板書説教」は字に書いて説明しうること、つまり「言語化可能」という意味で「理性的・合理的」でありうる。説教者自身が理解できていないことを語っているのではないかと疑われる支離滅裂な説教は、そもそも言語化できていないので板書不可能。「板書説教」を聞いた後味は、モヤモヤが少ないはず。

⑥高齢や他の理由で音声が聞き取りづらい方々が「板書説教」や「説教のブログ公開」を喜んでくださっている。「説教で何が語られたかを理解したい」という願いがある。そのニードにスピーディーに、人にやさしく温かく応えられるのは「板書説教」。紙のプリントや、動画やビデオ通話の追随を許さない。

⑦「板書説教」は小学校から高校までの1教室(30~40名程度)か、大学の大教室(200名程度)と同じような造りの礼拝堂に向いているとは言える。「板書説教」が向いている礼拝堂かどうかで関係するのは、収容人員の問題ではなく「残響」の問題。音楽ホールの方向に近づいている礼拝堂は向かないと思う。

⑧「板書説教」は、主日礼拝を行う礼拝堂とは別に「ホワイトボード『もある』部屋」で行われるのでは、あまり意味はない。主日礼拝そのもののど真ん中で「板書説教」が行われてこそ意味がある。説教の声出しの調子も確実に変わる。音楽ホールで歌うように語る声出しの調子で「板書説教」は成立しない。

⑨コロナ後も教勢が戻らない教会が多いと聞く。巨大な礼拝堂を造ったはいいが、がらんどうに少人数という教会があるだろう。けなしているのではない。少人数だろうと集まっておられる方々に敬意を表する。ひとりひとりの心に届く語り方やふさわしい声出しができていない説教者がいないかと心配になる。

⑩「板書説教」は私が始めたことではない。足立梅田教会の初代牧師がお始めになった、当教会の伝統のようなもの。しばらく途絶えていたことを私が再開したにすぎない。初代牧師が青山学院高等部の聖書科教員をなさっていたため、キリスト教学校の「聖書の授業」や「学校礼拝」との区別や温度差がない。

⑪もうひとつ加える。「ホワイトボードにマーカー」ではなく「黒板にチョーク」にするかどうか迷った時期がある。まだ黒板がないので新規購入するかどうかで迷った。しかし、ホワイトボードで通すことにした。チョークをたまに手を滑らせて床に落とすと砕け散る。マーカーは落としてもびくともしない。

2025年2月26日水曜日

立派な信仰

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「立派な信仰」

マタイによる福音書15章21~28節

関口 康

「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた」(28節)

今日の説教題は「立派な信仰」です。

この表現が朗読箇所の28節に出てきます。つまり、聖書の言葉です。主イエスの言葉です。

しかし、この題をご覧になったとき、皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。次の5つのうちからお選びください。

①ぞっとした、②悲しくなった、③腹が立った、④教会に行きたくなくなった、⑤翻訳の誤りかもしれないので説教を聞いてみたいと思った。

⑥どれでもない、も加えておきます。説明が必要でしょう。

昨日観ていたインターネットの番組でも、繰り返し語られていました。今はどういう時代なのかを考えるときに引き合いに出されるのが「宗教ゼロ」という言葉です。

ヨーロッパがそういう状態だと言われます。宗教だとか信仰だとか言われても何をどう考えればよいか分からないし、身につかない。この感覚は、私もかなりの面で共有しています。

それなのに教会の看板に大きな字で「立派な信仰」と書いてある。まったく理解に苦しむ、というような否定的な感情を呼び起こすために、この言葉を選ばせていただきました。お詫びしなくてはなりません。

翻訳の問題かどうかは、日本聖書協会の歴代聖書を読み比べるだけで分かります。

明治元訳(1887年)

大正改訳(1917年)

口語訳(1954年)

新共同訳(1987年)

聖書協会共同訳(2018年)

婦(をんな)よ、爾の信仰は大いなり。

をんなよ、汝の信仰は大いなるかな。

女よ、あなたの信仰は見上げたものである。

婦人よ、あなたの信仰は立派だ。

女よ、あなたの信仰は立派だ。

原文は「Ὦ γύναι, μεγάλη σου ἡ πίστις」(オー・グナイ、メガレー・スー・ヘー・ピスティス)。「立派」「見上げたもの」「大いなるもの」と訳されているのはμέγας(メガス)の女性単数与格μεγάλη(メガレー)です。

これは、メガロポリス、メガバイト、メガトンパンチなどの「メガ」(mega)の語源です。国際単位の10の6乗(100万)。「キロ」は10の3乗(1千)。「ギガ」は10の9乗(10億)。「テラ」は10の12乗(1兆)。

呼びかけの言葉も、翻訳が難しいです。直訳的な意味は正しくても「をんなよ」「女よ」「婦人よ」はなんだか失礼だし、「女性よ」もかなり微妙。「おねえさん」や「おくさん」は論外。そもそも「あなた」と呼ばれるのが不愉快だと言われることもあります。「お前」あたりは論外中の論外。

「おたくさま」は、意外なほど可能性があるかもしません。「おたくさまの信仰はメガトンパンチ級ですね」。

内容に入ります。登場するのは主イエス、弟子たち、そして「カナンの女」です。説明が必要なのは「カナンの女」です。結論から言えば、当時の差別語です。意図的に用いられています。

「カナン」は、エジプトにいたユダヤ人たちがモーセに率いられて戻って来た先祖の地の古い呼び名です。ならば「カナン人」がなぜ差別語なのかといえば、いま申した歴史が関係します。

エジプトから戻って来たユダヤ人の戦争相手が「カナン人」だったからです。あくまでユダヤ人の立場からすれば、ということになりますが、彼らがいなかった間にカナンに住むようになった人たちが「カナン人」です。現代のパレスチナ問題さながらです。

しかし、この女性がユダヤ人と戦争した時代の「カナン人」の純血を受け継いでいるという話ではありません。もっと広い意味です。そして差別的な意味です。説明自体に苦しみを感じます。「外見や方言などで、見る人が見れば分かる違いを持った人」というぐらいにとどめます。

この女性と主イエスが出会った場所は「ティルスとシドンの地方」(21節)。巻末の聖書地図「6」の最北端です。この女性がしたのは、主イエスに向かってひたすら叫び続けることでした。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22節)。

「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」(23節)とあります。立ち止まられたかどうかも顔を向けられたかどうかも記されていません。どちらもなさらなかった可能性を私は考えます。実際の場面を想像すると、対応なさらなかった理由がなんとなく分かります。

私が抱くイメージは、通りすがりで手早く解決するとは考えにくい深刻な問題を抱えている相手に安易にかかわることが、かえって相手を傷つける場合がある、ということです。

しかしそれでも、どうして立ち止まってくださらないのですか、振り向いてもくださらないのですか、冷たすぎますよ、イエスさま、と言いたくなる場面であることは間違いありません。

主イエスの弟子たちが「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と言っています(23節)。この「ついて来ます」で立ち止まっていなさそうな様子が伝わってきます。弟子たちが厄介な存在を嫌がって舌打ちしたかどうかも記されていませんが、それに近い感じです。

そのとき主イエスが「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった(24節)とありますが、これが弟子たちに対してであって、その女性に対してではなかったことは慰めです。本人に直接言っていません。こういうことを言ってはいけません。

しかし、女性がひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と懇願したとき(25節)、主イエスは口を開いてくださいました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)と。

ひどい答えかどうかは考え方次第です。主イエスは人を「魚」や「麦」にたとえるおかたですから、「小犬」もたとえではないでしょうか。「大きな犬」ではなく「小犬」が選ばれていることに、ユーモアの要素が含まれているかもしれません。「子供」も、「小犬」と背格好が同じぐらいの幼児をイメージしてみると良さそうです。

「大変申し訳ありません。残りのパンが1個しかありません。うちの子(大きな子供を含む)が、お腹が空いたと泣いておりまして、小犬さまにお譲りできるものがありません」ぐらいではないでしょうか。「お引き取りください」とはねつけるような言い方ではありません。

しかし、そのときこの女性から返ってきた答えに主イエスが感動されました。「女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』」(27節)。

こう言いたいのではないでしょうか。

「確かに私は、あなたが守るべき神の家族の一員ではないかもしれない、ただの通りがかりの小犬です。そんなことは分かっています。しかし、あなたのパンが必要な者です。そしてパン屑もパンです。だれかの残りものだろうと、床に落ちていようと、そんなことどうでもいいです。私はあなたの食卓に共にあずかるべき者です。あなたのものは、私のものです。ここから一歩も下がれません」

この確信に満ちた求めを「これはメガトンパンチの信仰だ」と言って受け入れてくださったのです。

「立派な信仰」のイメージが変わったでしょうか。良い方向でご理解いただけますと幸いです。

(2025年2月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年2月25日火曜日

「聖書協会共同訳」の略称を考える

 

【「聖書協会共同訳」の略称を考える】

日本聖書協会の歴代聖書(明治元訳、大正改訳、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳)は約30年周期であることを日曜日の講演で教えられた。最新の聖書協会共同訳が2018年。30年後は2048年。もし私が次の改訳まで生きていられたら83歳。それまでにファン・ルーラーの主張を理解してもらう必要を感じる。

あと、「聖書協会共同訳」(7字)は長すぎるので略記を考えざるをえない。字数無制限の講演レジュメやブログでは問題にならないだろうが、SNSや週報などはせめて3字で略記したい。「聖共訳」(せいきょうやく)か「協共訳」(きょうきょうやく)か。2018年発行だから「十八訳」(じゅうはちやく)か。

略記の問題は面白半分で書いていると思われたくない。今はまだ礼拝では新共同訳を使っているが、そろそろ聖書協会共同訳を買って持っている人が増えてきている。そのため毎週の週報に両方の頁番号を書いているが、「(新共同訳P~、聖書協会共同訳P~)」と、そのことだけで貴重な紙面を費やしている。

アルファベットでも適切ならば問題ない。「聖書協会共同訳」の英語表記はJapan Bible Society Interconfessional Versionだろうか。「JBSIV」か、または「I」のあとに「C」を入れて「JBSICV」か。どうもピンと来ない。単に新しいという意味で「協会新訳」でも良さそうに思うが、原形をとどめていない。

意外と良さそうかもしれない案を思いついた。「せいしょきょうかいきょうどうやく」をローマ字で書いた頭文字をとって「SKK訳」でどうだろう。役員会で提案してみようかな。内部で理解できれば問題ないだろう。全国統一表記でなくていい。どこかで決めて強制する方式ではなく自由度が高いほうがいい。

2025年2月23日日曜日

立派な信仰

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「立派な信仰」

マタイによる福音書15章21~28節

関口 康

「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた」(28節)

今日の説教題は「立派な信仰」です。

この表現が朗読箇所の28節に出てきます。聖書の言葉です。イエス・キリストの言葉です。

しかし、この題をご覧になったとき、皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。次の5つのうちからお選びください。

①ぞっとした、②悲しくなった、③腹が立った、④教会に行きたくなくなった、⑤翻訳の誤りかもしれないので説教を聞いてみたいと思った。

⑥どれでもない、も加えておきます。説明が必要でしょう。

昨日観ていたインターネットの番組でも繰り返し語られていました。今はどういう時代なのかを考えるときに引き合いに出されるのが「宗教ゼロ」という言葉です。

ヨーロッパがそういう状態だと言われます。宗教だとか信仰だとか言われても何をどう考えればよいか分からないし、身につかない。この感覚は、私もかなりの面で共有しています。

それなのに教会の看板に「立派な信仰」と書いてあるのは全く理解に苦しむ、というような否定的な感情を呼び起こすために、あえて選ばせていただきました。お詫びしなくてはなりません。

翻訳の問題かどうかは、日本聖書協会の歴代聖書を読み比べるだけで分かります。

明治元訳(1887年)

大正改訳(1917年)

口語訳(1954年)

新共同訳(1987年)

聖書協会共同訳(2018年)

婦(をんな)よ、爾(なんぢ)の信仰は大いなり。

をんなよ、汝の信仰は大いなるかな。

女よ、あなたの信仰は見上げたものである。

婦人よ、あなたの信仰は立派だ。

女よ、あなたの信仰は立派だ。

ギリシア語の原文は「Ὦ γύναι, μεγάλη σου ἡ πίστις」(オー・グナイ、メガレー・スー・ヘー・ピスティス)です。「立派」「見上げたもの」「大いなるもの」と訳されているのは、μέγας(メガス)の女性単数与格μεγάλη(メガレー)です。

これはメガロポリス、メガバイト、メガトンパンチなどの「メガ」(mega)の語源です。「メガ」は現在の国際単位の10の6乗(100万)です。「キロ」は10の3乗(1千)、「ギガ」は10の9乗(10億)、「テラ」は10の12乗(1兆)です。今日の箇所の「メガス」が「100万」を意味するということではありません。

呼びかけの言葉も翻訳が難しいです。意味は正しくても「をんなよ」「女よ」「婦人よ」は失礼な感じだし、「女性よ」も微妙。「おねえさん」や「おくさん」は論外。そもそも「あなた」と呼ばれるのが不愉快だと言われることもあります。「お前」は論外中の論外。

「おたくさま」は意外なほど可能性があるかもしません。

「おたくさまの信仰はメガトンパンチ級ですね」。

内容に入ります。登場するのは主イエス、弟子たち、そして「カナンの女」です。説明が必要なのは「カナンの女」です。結論から言えば、当時の差別語です。そのような言葉が意図的に用いられています。

「カナン」は、エジプトにいたユダヤ人がモーセに率いられて戻って来た先祖の地の古い呼び名です。ならば「カナン人」がなぜ差別語なのかといえば、いま申した歴史が関係します。

エジプトから戻って来たユダヤ人の戦争相手が「カナン人」だったからです。あくまでユダヤ人の立場からすれば、ということになりますが、彼らがいなかった間にカナンに住むようになった人たちが「カナン人」です。現代のパレスチナ問題さながらです。

しかし、この女性がユダヤ人と戦争した時代の「カナン人」の純血を受け継いでいるというような話ではありません。もっと広い意味です。そして差別的な意味です。説明すること自体に私は苦しみを感じます。「外見や方言などで、見る人が見れば分かる違いを持った人」というぐらいにとどめます。

この女性と主イエスが出会った場所は「ティルスとシドンの地方」(21節)です。巻末の聖書地図「6」の最北端にこれらの地名が記されています。この女性がしたのは、主イエスに向かってひたすら叫び続けることでした。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22節)。

「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」(23節)とあります。そのとき主イエスが立ち止まられたかどうかも、顔を向けられたかどうかも記されていません。どちらもなさらなかった可能性を私は考えます。実際の場面を想像すると、その理由がなんとなく分かります。

私が抱くイメージは、通りすがりで手早く解決するとは考えにくい深刻な問題を抱えている相手に安易にかかわることが、かえって相手を傷つける場合がある、ということです。

しかしそれでも、なぜ立ち止まってくださらないのですか、振り向いてもくださらないのですか、冷たすぎますよ、イエスさま、と言いたくなる場面であることは間違いありません。

主イエスの弟子たちが「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と言っています(23節)。この「ついて来ます」で立ち止まっていなさそうな雰囲気が伝わってきます。弟子たちが厄介な存在を嫌がって舌打ちしたかどうかも記されていませんが、近い感じです。

そのとき主イエスが「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった(24節)とありますが、これが弟子たちに対するお答えであって、その女性に対してではなかったことは、かろうじて慰めです。本人に直接言っていません。こういうことを本人に言ってはいけません。

しかし、女性がひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と懇願したとき(25節)、主イエスは口を開いてくださいました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)。

ひどい答えかどうかは考え方次第です。主イエスは人を「魚」や「麦」にたとえる方ですから、「小犬」もたとえではないでしょうか。「大きな犬」ではなく「小犬」が選ばれていることに、ユーモアの要素が含まれているかもしれません。「子供」も、「小犬」と背格好が同じぐらいの幼児をイメージしてみると良さそうです。

「大変申し訳ありません。残りのパンが1個しかありません。うちの子(大きな子供を含む)が、お腹が空いたと泣いておりまして、小犬さまにお譲りできるものがありません」ぐらいではないでしょうか。「お引き取りください」と、はねつけるような言い方ではありません。

しかし、そのときこの女性から返ってきた答えに主イエスが感動されました。

「女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑(くず)はいただくのです』」(27節)。

こう言いたいのではないでしょうか。

「たしかに私は、あなたが守るべき神の家族に加えていただくに値しない、ただの通りがかりの小犬です。そんなことは分かっています。しかし、あなたのパンが必要な者です。そしてパン屑(くず)もパンです。形が変わっていようと、残りものだろうと、床に落ちていようと、誰かに踏みつけられようと、パンはパンです。それを私にください。私はあなたの食卓に共にあずかるべき者です。あなたのものは私のものです。ここから一歩も下がれません。」

この確信に満ちた求めを主イエスが「これはメガトンパンチの信仰だ」と受け入れてくださったのです。

「立派な信仰」のイメージが変わったでしょうか。良い方向でご理解いただけますと幸いです。

(2025年2月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年2月20日木曜日

私が3歳になるまでカール・バルトは生きていた

 【私が3歳になるまでカール・バルトは生きていた】

インターネット普及で個人的に助かっているのは、教義学者や聖書学者の略歴が詳しく分かること。我々が学生のころ講義やゼミで紹介された本の著者が、当時はご存命だったとか、もっと前の人だとかが分かる。なぜその情報が必要かは、言うまでもないだろう。どの本もその時代の中で書かれたものだから。

たとえばカール・バルトは1886年5月生まれ。1968年12月に亡くなる。私は、とだれでも自分と結び付けて考えるだろう。私は1965年11月生まれ。私が3歳までバルトは生きていた。日本の60年安保の情報はバルトの耳に入っただろう。だが、5歳の私が父の膝に座ってテレビで見た70年安保をバルトは知らない。

聖書学者も当然、時代の中で考えている。だれからともなくよく聞いた言葉は「アポロが月に行く時代に奇跡や復活を信じるのは愚か」(大意)。おっしゃるとおりと思っている聖書学者と、違いますと思っている聖書学者がいるだろう。どちらにせよ、実際にアポロが月に行かなくてはこの話は成り立たない。

神学に限ったことではない。ヘーゲルやマルクスの研究者が、いま起こっている事件や問題について「ヘーゲルなら」「マルクスなら」「だれそれ先生なら」こう考え、こう発言し、こう行動するだろうという本を書く。別に構わないと思うが、あくまで各著者の想像力による拡張であって、それ以上ではない。

大げさに話を広げるつもりはない。今書いていることの趣旨は、聖書やキリスト教の研究者がたの誕生日や逝去日や略歴は、著述された内容と無関係ではありえず、むしろ直接かかわる重要な要素なので、そういうことをインターネットで知ることができるようになったのはありがたい、ということだけである。

2025年2月12日水曜日

スーパーカブに乗れるようになりたかった

カワサキニンジャ1000(2025年2月11日撮影)

【スーパーカブに乗れるようになりたかった】

35年ぶりに原付ライダーになったのが2021年10月。ほぼすぐに昭島(当時在住)から茅ヶ崎まで直線距離約50キロ(も)ある非常勤先の週2通勤に原付で行くようになった。原付の2段階右折はむしろ助かったが、30キロ制限にかえって危険を感じたので、二輪免許を取得したくなった。コロナとの関係は結果論。

取得したくなったからと言ってすぐ二輪教習を始められるほど当時も今も余裕ある生活ではない。きっかけは実兄が自分のスーパーカブ110を譲ってもいいと言い出してくれたこと。二輪教習を始めたとき考えていたのは、本当の話、排気量を50ミリリットルから110ミリリットルまで増やしたかっただけだった。

でも、免許の区分が狭すぎるとすぐ欲が出て来てもっと大きいのに乗りたくなりそうな気がしたし、子どもの頃から大型バイクに憧れていたので、免許はそのうち取りたい、でも乗るのは一生スーパーカブ110だろうと思っていた。その読みが甘かったことに気づいたのは、CB400での教習が始まってからだった。

手こずりまくったのがとにかくクラッチ。エンスト連発、立ちごけ連発。やっとカラダで覚え始めたのが教習の1段階が終わるころ。これで卒業後スーパーカブ110に乗ってしまうと、せっかく覚えたことが全部無駄になる気がした。それで、実兄に断りを入れて400ミリリットルのバイクをネットで探し始めた。

中古のバイクがどこで買えるかを知らなかった。ネットで探すしかないと思っていた。行きつけのセブンに若いニンジャ400ニキの店員さんがいて仲良かったので「どこで買ったの」と聞いたら「レッドバロンです」と教えてくれた。ニキの紹介だったので話がスムーズに進んだ。持つべきものは友だと思った。

そもそもの動機が「原付の30キロ制限の壁を突破して、せめて50キロで走れるようになりたかった」だけなので、いちばん安いバイクにしようと思っていたし、古い価値観の人間なのでフルカウルとかはこっぱずかしいので「普通の」にしようと思っていた。ネイキッドという呼び方を知らなかった。しかし。

私が普通二輪教習を始めたのが2023年5月。実兄からスーパーカブ110を譲ってもらって乗る予定を変更して中免のバイクを買おうと決心して探し始めたのが同年5月ごろ。その頃すでに中古ネイキッドが目を疑うほど値段が高く、とてもじゃないが買えやしない。消去法でフルカウルを選ばざるをえなくなった。

国内4メーカーのネットカタログや中古車サイトを調べて最終選考に残ったのがCBR400Rとニンジャ400。セブンのニンジャ400ニキ店員が紹介してくれたレッドバロンに良さそうなCBR400Rがあったので「あれにしよう」と店まで行った。店長の話を聞いているうちにニンジャ400Rになった。店長に感謝している。

ニンジャ400Rは長く乗るつもりだった。400Rで首都高を初めて走ったとき「大型にする!」と思った。区間が悪すぎたかもしれない。恐怖の「C2」だった。昭島から犬吠埼まで行った帰り、四ツ木ICから入って湾岸線に行こうとしたら、海から突風。清新町ICで降りる。距離わずか10キロで、首都高ギブアップ。

同じ教習所で大型教習開始。バイク店長に相談したら1000を見せてくださった。試乗はしなかったが、座り心地やハンドルの高さが400Rに似ていて上位互換だと思ったので即決。排気量を50ミリリットルから110ミリリットルに増やしたかっただけの話が、1000ミリリットルまでうなぎのぼりすることになった。