2021年6月20日日曜日

生涯のささげもの(2021年6月20日 主日礼拝) 

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 515番 きみのたまものと 奏楽・長井志保乃さん

【付録】湘南の浜辺から江ノ島を望む(2021年6月18日)

「生涯のささげもの」

コリントの信徒への手紙二8章1~15節

関口 康

「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」

今日の朗読箇所は、使徒パウロのコリントの信徒への手紙二8章1節から15節までです。この箇所の趣旨は「献金のすすめ」です。

ただし、そのことがはっきり分かるようには書かれていません。回りくどい書き方だと言うのは言い過ぎです。しかし、パウロが言いにくいことを言いにくそうに書いている様子が伺えます。それはたとえば、この箇所のどこにも「お金」という言葉が用いられていないことから感じます。その代わりに用いられているのは「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」(4節)です。

ここで「聖なる者たち」の意味は、キリスト者であり、教会です。「慈善の業と奉仕」と聞くと今のわたしたちは、教会バザーのようなことをすぐ連想するでしょう。しかし、ここで言われているのは、パザーのようなことに限りません。

要するにここでパウロが求めているのは、わたしたちが自分の働きで得た収入のすべてを自分のために用いるのでなく、その一部を教会の働きのために献げることです。そのことを総称して「慈善の業と奉仕」と書いていますが、「お金」という言葉を用いるのを避けたがっているようにも見えます。

今日の箇所の内容は、大別すると以下の3つの部分に分けることができます。

(1)マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて(1~7節)
(2)慈善の業と奉仕は、命令ではなく、自発的に行う(8~12節)
(3)慈善の業と奉仕は、全体の釣り合いをとるために行う(13~15節)

第1の部分である「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて」の趣旨は例示です。「諸教会」と書かれているのは、単独の教会でなく複数の教会を指しています。今のわたしたちなら「教区」や「支区・分区」などの教会的な行政区を表現する名称を付けるであろう区域内の複数の教会を指していると言えます。

しかし、この当時に「マケドニア教区」というような名称が用いられるなどして明確な組織化がなされていたとは思えません。もう少し緩やかな仕方で、しかし実際に行われた「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」を例として挙げています。

そして印象深い言葉が2節に記されています。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」(2節)。

「極度の貧しさがあふれ出る」というのがどのような状態を指すかは、献金をしてきたわたしたちは分かります。「豊かさ」ならば「あふれ出る」が当てはまりそうだが、どうすれば「貧しさ」があふれ出るのか教えてほしいと抗議口調で言いたい気持ちが起こらないわけではありませんが、実際に「貧しさ」は「あふれ出る」ものです。ただしこれは理屈では説明できないことです。実際に体験してみるしかありません、としか申し上げようがありません。不思議な、不思議な話です。

しかし、ひとつだけ説明できそうなことがあります。それは、ここで言われている「貧しさ」と、その対義語として「豊かさ」と言われていることは、保有しているお金の分量だけを指していないということです。それがはっきり分かるのが7節の言葉です。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」(7節)。

これが、パウロが考える「豊かさ」の定義です。信仰、言葉、知識、熱心、そして愛されることにおいて豊かであることが真の「豊かさ」であるというのです。この中に「お金」がありません。そして「この慈善の業」は、具体的には教会の活動を支える献金を指しています。

つまりそれは、お金という点では自分の収入ではなく支出のほうなので、「慈善の業において豊かな者になる」は「豊かに献げる者になる」と言っているのと同じです。それが「極度の貧しさがあふれ出る」状態を示していると言えるでしょう。

このあたりで、現在の私自身の話をすると、まるで自慢話をしているように響いてしまうかもしれません。多方面に差しさわりが出るので、私の過去の経歴について詳しいことを明かすわけには行きません。

しかし皆さんはご存じのとおり、まだわずか3年前の2018年4月に昭島教会にたどりついたときの私は、パウロがコリントにたどりついたときの心境として「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(コリントの信徒への手紙一2章4節)と書いているのと同じ状態でした。その前年の2017年度の1年間、私は日本キリスト教団の無任所教師でした。

私が高校からストレートで東京神学大学に入学し、卒業と同時に日本キリスト教団の補教師になったのが1990年4月です。それ以来26年間、教会の牧師として働きましたが、27年目に無職を体験しました。牧師28年目に昭島教会に副牧師としてお招きいただき、アマゾンの八王子倉庫で週30時間アルバイトをしながら、石川献之助先生をお助けすることを始めました。

その1年後(2年前)に明治学院中学校東村山高等学校(東京都東村山市)で聖書科非常勤講師の職を得て、アマゾンをやめました。さらに翌年(昨年)、アレセイア湘南中学校高等学校(神奈川県茅ヶ崎市)でも非常勤講師になり、今年から上記2校に加えて平和学園小学校(同上所)でも教えています。

つまり今の私は、昭島教会の牧師と、2つの中高一貫校と1つの小学校で聖書科の非常勤講師であるという状態です。「極度の貧しさがあふれ出る」とはこういうことを言うのかもしれません。教会の皆さんを傷つける意図などは全くありませんが、今の私が金銭的に豊かかどうかは皆さんがご存じです。

また、信仰、言葉、知識については、豊かでないと務まらないはずの職責にありながら、覚束ないところが多すぎて、皆さんを不安にするばかりで申し訳なく思っています。

しかし、ひとつだけは自信があります。パウロの言葉を借りれば「わたしたちから受ける愛」(7節)において私は豊かです。「愛される豊かさ」を、今の私は教会においても学校においても味わわせていただいています。「豊かさ」はお金だけの問題ではないということを実感しています。

覚束ない働きで良いとは思いません。「教会も学校も」とか「複数の学校で」と分散すると意識も働きも散漫になります。私個人の願いは、いずれ教会の働きに集中できるようになることです。

パウロの言葉を借りて、皆さんに献金のお願いをしているように響いてしまっているとすれば申し訳ないことです。牧師である者にとって「献金のお願い」は「言いにくいこと」に属します。だから、自分で言わず役員さんに言ってもらう牧師が多いです。献金の中に牧師自身が受け取るものが含まれているからです。

しかし、すべては神と教会のためであるということを、忘れずにいたいと願う者です。そして、これから新たに牧師になる人が起こされることを祈る者です。

(2021年6月20日 主日礼拝)

2021年6月13日日曜日

世の光としての使命(2021年6月13日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」

今日の朗読箇所は、使徒パウロのフィリピの信徒への手紙2章12節から18節までです。新共同訳聖書で「共に喜ぶ」と小見出しが付けられている段落です。12節の初めに「だから」と記されているのは、この箇所までに書かれたすべての内容を受けています。パウロがこの箇所までに書いていることには辛辣な内容が含まれています。

この手紙をパウロは「監禁されている」状態、すなわち獄中から書き送っていることを彼自身が明らかにしています(1章7節、1章13節など)。辛辣な内容は、そのことに関係しています。パウロが監禁されている状態にある中、「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいる」(1章10節)というのです。

それはどういうことか。「一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(1章15~17節)というのです。

パウロが言おうとしていることは、なんとなく分かります。キリストを宣べ伝えることを競争心や利己心や名誉心などで考えている人たちがいる、ということです。

私が説教した日の礼拝に何人集まったか。何人の人が洗礼を受けることを決心したか。自分が牧師をしている教会に何人の信徒が所属しているか。そのようなことを比較と競争で考え、あの人より私は優れているとか劣っている、など言い始める。他の教会や他の伝道者と協力関係を結ばず、蹴落とす対象と見る。

パウロは今、獄中で監禁されていて身動きがとれない。これはチャンスであると競争心をむき出しにして元気づいた人たちがいるということでしょう。それに対してパウロは大らかなことを書いています。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが宣べ伝えられているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(1章18節)。

たとえば今の日本で「不純な動機で洗礼を受けました」とか「不純な動機で牧師になりました」という人が何人いるかは私には分かりませんし、それが何の得になるのかはもっと分かりません。しかし、たとえそうであっても問題ないと、もしパウロならそう答えるかもしれないと考えることができる根拠が、ここにあります。

わたしたちにとっても決して他人事ではないでしょう。信仰生活や、あるいは牧師生活が長くなればなるほど、最初は純粋だったかもしれない動機の中に、いつの間にか不純物が入り込むことがありえます。「みなさんはどうですか」と皆さんにお尋ねしないでおきます。その代わりに、私も自分の話をしないでおきます。「お互いさま」ということにしておきましょう。

パウロは、たとえ動機は不純でも、とにかくキリストが告げ知らされているのだから問題ないとしたうえで、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(1章27節)と書いています。「キリストの福音にふさわしい生活」は、「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦うこと」(1章27節)を指しています。

この「一つの霊によって」「心を合わせて」ということと、信仰生活と福音宣教の動機に競争心や利己心や名誉心が入り込むこととは矛盾しているかもしれません。しかし、ここから先は大人と子どもの違いだと申し上げておきます。

たとえ心の中に別の動機があるとしても、すべてをさらけ出さないでいるのが、大人としての態度ではないでしょうか。そしてそのことと、今日の箇所の最初に記されている「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)がつながっているでしょう。

「不平や理屈を言わずに行うこと」の勧めは軍隊式であるとお感じになる方がおられるかもしれませんが、必ずそこに結び付けなくてもよいでしょう。黙って従う。それは、あらゆることに反抗心をむき出しにして、現場を混乱に陥れ、そこで協力して共に働く人々の働きや目標達成を妨害することを意味することの反対を指しているとすれば、どうでしょう。

言いたいことを我慢することには苦痛が伴います。言うべきことを押し黙ることは無責任の面が生じます。しかし、だからといって、言いたいことの最初から最後まで言わなければ気が済まないというのは子どもの状態でしょう。もう少し成長する必要があるでしょう。

その続きに書かれている「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15~16節)は、成熟した人の姿を指していると言えるでしょう。

また同じことを申します。その「世にあって星のように輝く、非の打ちどころのない神の子」になることと、動機に不純なものが入り込んでいることとは矛盾しているかもしれません。神はわたしたちの心の中のすべてをご存じであるというのも、そのとおりです。しかし、自分の心の中にあることをすべて外へとさらけ出すことが、その人の心の純粋さを表すかといえば、そうではありません。そこは区別すべきでしょう。

パウロが推奨しているのは、「キリストを模範とすること」です。そのことが、今日の朗読箇所の直前の2章1節から11節までに記されています。この箇所の中で私がいつも思い起こし、自分の戒めとしているのは、3節から5節の途中までに記されていることです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

特にこの中の「互いに相手を自分よりも優れた者と考える」というのは、順位や序列を一切考えずに、要するに自分は誰よりも下であると考えること以外の何を意味するでしょうか。

「私はあの人よりは下だが、あの人よりは上である」と常に考え続ける状態は、苦しいです。相対評価と言います。イエス・キリストはそうではないと、パウロは信じ、またそのように初代教会の人々は信じました。6節から8節までに記されているのは、初代教会の信仰告白です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6~8節)。

イエス・キリストの「謙遜」が、わたしたちの模範です。神であられるキリストが、その立場をすべて捨て、すべての人の僕になられました。そのキリストにならって、わたしたちもすべての人の僕であるべきです。

これは教会の中だけの話ではありません。「世にあって星のように輝く」すなわち「世の光」として生きていこうとする、わたしたちの人生の目標です。

(2021年6月13日)

2021年6月6日日曜日

悔い改めの使信(2021年6月6日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 奏楽・長井志保乃さん


「悔い改めの使信」

使徒言行録17章22~34節

関口 康

「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」

今日の聖書の箇所に登場するのは使徒パウロです。パウロは生涯で3回の伝道旅行を行ったことが知られています。今日の箇所に描かれているギリシアの首都アテネでパウロが伝道したのは、第2回伝道旅行のときです。

ギリシアにとってアテネは古代から現代に至るまで最大都市であり、文化や芸術や学問の中心地であり続けてきました。そのアテネにパウロが行きました。

パウロがアテネに人生の中で何度行ったことがあるかは分かりません。しかし、少なくとも彼がユダヤ教徒からキリスト教徒へと改宗した後にアテネを訪ねたのは、このときが初めてだったのではないかと思えてなりません。

なぜそう思うのか。今日の箇所にはっきり書かれているとおり、アテネの至るところに偶像があるのを見て「憤慨した」(16節)と証言されているからです。

パウロに限らず、ある人が過去に一度も体験したことがないことを新しく始めるとか、いまだかつて行ったことがない場所に初めて行ったときに、その人が「憤慨する」としたら、明らかに違和感の表明でしょうし、もっと強く言えば「居たたまれない」「苦痛でたまらない」というような感情を抱いたことを意味するでしょう。

しかもここで、アテネでパウロが抱いた「憤慨」の理由が「この町の至るところに偶像がある」のを見たからであるとはっきり書かれていることから分かるのは、それは決して大げさな意味ではなく、一方の「ヘレニズム」と歴史家たちが名付けてきた古代ギリシア文明において培われてきた宗教性と、他方のかつてはユダヤ教徒だったけれどもキリスト教徒へと改宗したパウロが、いずれにせよ「広義のヘブライズム」と総称できる、彼自身の宗教的な自覚とが激突したことで発生した否定的な感情であろう、ということです。

つまり、別の言い方をすれば、と言いましても、なるべくすべきでない言い方であり、パウロに失礼な言い方ではあるのですが、それをあえてお許しいただくとすれば、もしパウロがかつてユダヤ教徒だったこともなければその後キリスト教徒にもならなかったとしたら、そこで「憤慨」という感情を抱かなかった可能性が高いと言えるかもしれない、ということです。

しかし、それはとても失礼な言い方です。パウロが自分で言うならともかく他人から言われるようなことではないでしょう。わたしたちが「もしあなたがクリスチャンでなかったら」というような仮定の話をされても困るのと同じです。

それはともかく、パウロはアテネの「偶像」を見て「憤慨」しました。そして、その「憤慨」の感情を抱いたまま、彼はアテネ伝道を開始しました。その調子は明らかにけんか腰です。アテネの人々を言い負かしてやろう、説き伏せてやろう、という姿勢です。17節に「それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた」と記されているとおりです。

私の気になるのは、アテネのユダヤ人ともパウロが論じ合ったことが記されていることです。その論争が「偶像」の問題と直接関係しているかどうかは分かりません。もし関係あるとしたら、パウロはアテネのユダヤ人たちに「なぜ偶像が至る所にあるのに黙っているのか」とけしかけたのではないかと考えてみました。パウロにとって黙っていられない、我慢ならない空気がアテネに蔓延していると感じたゆえの「憤慨」だったのでしょうから。

そのようなパウロの伝道姿勢に対するアテネ市民の反応が、18節あたりに記されています。「『このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた」(18節)。そして、その人々がパウロを、おそらくからかい半分の調子で、アレオパゴスへと連れて行きました。

アレオパゴスは、パウロの時代よりずっと前に最高裁判所があった場所です。そこで「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19~20節)と人々が言いました。それでパウロが語り始めたのが、22節以下の「アレオパゴス説教」です。内容は単純明快です。

この街の至るところに偶像があります。その中に「知られざる神に」と刻まれている祭壇まであるのを見かけました。知らない神さままで拝んでしまわれるあなたがたは、なんと信仰のあつい人たちでしょう。しかし、あなたがたが知らずに拝んでいる神さまのことを私が教えてあげましょう。それは天地万物を創造された真の神さまです。

その神さまは、人間の手で造った神殿だとか偶像だとかの中にはお住まいになりません。そもそも、人の手で造ったもので神さまの足りないところを補ってあげましょうなどと考える必要がない満ち足りた方です。

ですから、この街の至るところにある偶像も神殿も、有害無益の無用の長物ですよね、というような調子です。

私がパウロをからかっているわけではありません。しかし、このときのパウロの伝道姿勢に、わたしたちが考えなければならないことがあると思います。

私なりの問いは、今のわたしたちがパウロと同じような伝道姿勢を持つべきだろうか、ということです。「腹立ちまぎれのけんか腰伝道」です。それを恭(うやうや)しい言葉のオブラートに包んで一方的に言い放っているだけです。

それを語る人の胸の中はすっきりするかもしれません。しかし、聞く側の人たちは、ある意味での恐怖や戸惑いを感じて逃げ出すか、売られたけんかを買う式に反発したり攻撃したりするか、あるいはひたすら冗談めかしてからかう姿勢をとるかしか無くなる可能性があるでしょう。

いま申し上げているのは、私の空想でもなんでもなく、現実に体験してきたことばかりです。みなさんも大なり小なり同様の体験をしてこられたはずです。

もちろん人によると思います。しかし、私がみなさんに問いたいのは、今日の箇所のパウロのような宣教のあり方によってわたしたちの中の何人の人が救われたでしょうか、ということです。

「あなたの生き方は間違っている。この国の宗教も文化も間違っている。見ているだけで不愉快でたまらない」と言いたそうな教会と牧師の言葉で心を入れ替えた人が、何人いるでしょうか。

このことを問う私は、偶像や宗教の異なる人々に対して曖昧な態度をとるべきだと言いたいのではありません。しかし、今日の箇所のパウロの説教はわたしたちが必ず模範にしなくてはならないという意味で残されていると考える必要はありません。わたしたちならばどのように語るのかを考えるための材料にすることが許されています。

日本伝道が進展しない原因は、教会にあるかもしれません。悔い改めなければならないのは、わたしたち自身かもしれません。

おそらく人は、愛されなければ、悔い改めることはありません。愛されて、受け入れられて、かわいがられて、安心して、初めて人は自分の心を開くでしょう。

(2021年6月6日 主日礼拝)


2021年5月30日日曜日

神の富(2021年5月30日 三位一体主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 351番 せいなるせいなる 奏楽・長井志保乃さん


「神の富」

エフェソの信徒への手紙1章3~14節

関口 康

「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」

東京他に対する政府の緊急事態宣言がまた延長されました。しかし今、東京の現実は、飲食店の席に間仕切りが置かれ、閉店時刻が早まり、アルコールの提供が中止されていること、そして外出中のすべての人がマスクをしていること、さらに特に学校の現場において毎年の恒例行事であるような体育祭や修学旅行のようなことが次々に中止されていることを除けば、以前の状況とほとんど変わりない状態に戻っています。そのことを私は善いとも悪いとも判断できずにいます。

なぜこの話をするのかといえば、教会はどうすべきかの判断が求められているからです。教会で何かが起これば牧師が責任をとらされることを心配しているのだろうという詮索は心外です。ただ、昨年度1年間の経験を踏まえて今思うのは、教会が率先してやめましょう、閉じましょうの一点張りで動き始めると、そのまま教会の活動自体が終わってしまうだろうということです。なぜなら教会は、義務や責任で縛られて成り立つ存在ではなく、各自の信仰に基づいて全く自由で自発的に集まることによって成り立つ存在だからです。

何が起こるか分からないから礼拝堂に集まってのすべての活動を中止するとすれば、たしかにクラスター発生の責任を回避できるものがあります。しかし、教会の責任ということを強く言うべきことがあるとすれば、神を求める人々の信仰と生活、なかんずく孤独や孤立を余儀なくされ、寂しさを抱えている人々への配慮と支えに対する責任が教会にあると言わなくてはなりません。

その面の埋め合わせが、教会以外の他の何かでできるなら、とっくの昔に教会は役割を終えていたでしょう。他に代わるものがないからこそ、教会に活路を見出し、助けと救いを求めてきたのが私たちの体験的な事実ではないでしょうか。

今日の聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙1章3節から14節までです。表題に「手紙」とあり、送り主が「使徒であるパウロ」と記されています。しかし今日の聖書学者の多くは、これは手紙ではないし、著者はパウロではないとします。

理由として挙げられるのは、使徒パウロの代表的な手紙であるローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙などと比べて、エフェソの信徒への手紙の内容がきわめて抽象的であるという点です。もし著者が本当にパウロであるなら、エフェソの教会が置かれていた状況や、その教会に属する人々についての個別の事実を知らないはずがないにもかかわらず、それらの事柄への言及が全く無い。また、有力ないくつかの写本の中に宛て先の「エフェソ」という地名が記されていないものがある、など。

これが「パウロの手紙」でないなら何なのかといえば、聖書学者たちの意見によれば、パウロの影響を強く受けた別の人によって、当時の地中海沿岸地域の複数の教会で回覧され、各教会の礼拝の中で朗読される文書として書かれたものだろう、ということになります。

私はその意見に反対する理由は無いと考えています。しかし、パウロの影響を強く受けているという点まで否定する意見に接したことはありません。その意味では、他のパウロの手紙と内容的に通じ合っている文書であるとは言えるので、相互に関連づけて語ることも可能です。

そして今日の朗読箇所である1章3節から14節までに記されていることで最も大切な一文は、冒頭の「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(3節)であるということを確認することが重要です。この「天のあらゆる霊的な祝福」の「霊的」の意味は「聖霊による」です。言い換えれば「神は、キリストにおいて、聖霊によって、わたしたちを天のすべての祝福で満たしてくださいました」と言われています。

つまりここに父・子・聖霊なる三位一体の神の働きが記されているということです。「三位一体」という言葉は新約聖書の中に登場するわけではなく、ずっと後の時代の教会で用いられるようになったものですが、キリストと聖霊が父なる神と等しい位格を持つ存在であることが新約聖書の中に全く根拠がないなどということは全くできません。

そして今日の箇所に表現されている深い思想の核心部分は、神が、イエス・キリストにおいて、聖霊によって、わたしたちを天地創造の前からあらかじめお選びになり、そのわたしたちを神の御子イエス・キリストの血によって贖ってくださり、神の子としてくださり、そのわたしたちが頭(かしら)であるキリストのもとにひとつにまとめられ、神の国を受け継ぎ、永遠に神の栄光をたたえる者とされる、ということです。

「天地創造の前」(4節)とは何を意味するのでしょうか。私たちの想像力をゆうに超えるものがあります。天も地も創造される前には何もありませんし、時間もありません。時間も神に創造されたものです。

その創造以前、時間以前、歴史以前に、父なる神だけでなく、イエス・キリストがすでにおられ、聖霊なる神がおられ、その父・子・聖霊がわたしたちを、創造以前、時間以前、歴史以前、つまり永遠の次元においてあらかじめ選んでおられた、というのですから驚きです。

そして、その永遠の次元において選ばれたわたしたちが、頭なるキリストのもとに集められた、キリストの体なる教会であるということを、この箇所が語ろうとしていることは明らかです。

しかし、このようなことを言いますと、それは選民思想だろうと反発を受けることがあります。教会に属するキリスト者である人たちだけが神から特別扱いされていて、他の人々はそうでないとでも言いたいのか、と。

しかし、それは誤解なのです。今日の箇所で、あるいは聖書の中で「天地創造の前に」という点が強調されるときの意図は、「すべては神の恵みである」ということを言いたいだけです。人間のいかなる努力や信心や功徳によらない、ということです。

そして、今日の箇所で繰り返されている「わたしたち」が誰を指すかは限定されていません。すべての人に開かれています。この箇所の「わたしたち」の中に私がいると信じることは、だれにでもできます。「私は含まれていないかもしれない」と考える必要は全くありません。

「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ」(6節)と記されています。恵みは「あふれて」います。小さな器の中にとどまっていません。全人類を満たしても余りある神の豊かな恵みから私だけ外されている、と考えるべきではありません。

しかし、この箇所ではっきり分かるのは、教会の使命は何なのかということです。神の栄光をたたえることです。それは主の日ごとに守られる礼拝において集中的に表現されます。

「各自自宅礼拝」には意味がないと申し上げるつもりはありません。しかし、「天にあるものも地にあるものも、キリストのもとにひとつにまとめられる」(10節)ということを体験的事実として味わうことができるのは、「対面礼拝」ならでは、です。対策をとり、互いに気を付けながら、共に集まる礼拝、共に生きる生活を続けて行こうではありませんか。

(2021年5月30日)


2021年5月23日日曜日

言葉が通じる(2021年5月23日 ペンテコステ礼拝)

秋場治憲兄

讃美歌352 あめなるよろこび 奏楽・長井志保乃さん

石川献之助牧師のご挨拶

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます


「言葉が通じる」

使徒言行録2章1~11節

秋場治憲兄

「見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を踏み越えられる、その御名は万軍の神なる主」(アモス書4章13節)

本日は聖霊降臨日、別名ペンテコステ、教会の誕生日とも言われている。ペンテコステというのはギリシャ語で50日目という意味です。「過ぎ越しの祭り」(大麦の収穫を祝う日)から数えて50日目に、「五旬際」(小麦の収穫を祝う日)の祭りが行われた。この五旬際がペンテコステとなりました。

今日は使徒言行録2章を中心に聖霊を受けるとはどういうことであるのかということを学びたいと思います。使徒言行録2章の記事ですが、一つの特徴があります。「聖霊」とはどんなものであるのかという議論は一切していません。ではどんなことを言っているのかというと、「聖霊」の現れ方、働きを述べている。これは使徒言行録だけでなく、聖書全体の特色とも言えます。議論の前に事実があり、教えの前に働きがある。創世記の冒頭は、「初めに神は天地を創造された」という言葉で始まる。

今日のテキストでは聖霊が<聞こえるもの>として出てくる。音として響きわたる。しかも単なる音ではなく、語る人から聞こえてくる言葉として。聖霊が語らせるままに、他国の言葉で語りだした。

<聞こえるもの>の次は、<見えるもの> 炎のような舌が、別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった。炎 というのは、神の臨在を表す。今日のテキストでは分けても<聞こえるもの>。言葉が重視されている。語りだされた言葉には、力があり、息吹があり、威厳を伴う。

この言葉は目には見えないけれども、聖霊が通る道でもある。聖霊はこの道を通て、人の心の奥底へと届けられる。

5節には「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでいた。」当時の天下というのは、ローマ帝国の支配下にある世界のこと。二千年前のエルサレムにも天下のあらゆる所から、人々が集まってきて来ていたことが分かる。9節にはそれらの国々の名前が出てくる。ある研究者はこれらの地名はエルサレムで起こった聖霊降臨の出来事が、これから世界に向かって伝えられていく序論になっていると言っています。これらの地方、また人々の間では、多くの言葉が用いられていた。ここで聖霊に満たされた人々は、他国の言葉で語り始めた。聖霊を受ける(満たされる)というのは、内面的な高揚感だったり、何か神秘的、魔術的な力のように考えがちですが、ここではそういうことは一言も言ってない。聖霊を受けた者は、人間の言葉を語る。しかも聞く人が分かる言葉で語る。

使徒言行録2章で強調されているのはこの点であり、6節、8節、11節と3回も繰り返されている。聞いている人が分かるということが大切。

このような言葉によって人と人は結びつき、互いに理解し合い、共に働くようにさせられる。この言葉によって神と人という垂直的な関係は、人と人という水平的な面に広がっていく。だから使徒信条は「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と展開されている。

ここで思い出していただきたいことがある。創世記11章のバベルの塔の話。

「石の代りにレンガを、しっくいの代りにアスファルトを用い、さあ、天まで届く塔のある町を建てて、有名になろう。 」これは自分たちがこの世の支配者として君臨し、天の神にとって代ろうというもの。ところが神は彼らの言葉を通じなくし、地の表に散らされた。高遠な理想と高度な技術力をもって始まったバベルの塔の建設作業は、言葉が通じなくなって失敗に終わった。ところが今日のテキストでは、言葉が通じるという<新しい世界>を私たちに示している。

これはすでに多くの預言者たちを送られた神は、最後に神の独り子をこの世に遣わし、その独り子の上にすべての人間の罪を置き、これを徹底的に罰せられた。世の支配者として神にとって代ろうという思いを打ち砕き、十字架の赦しの下に、神に栄を帰す者たちを御もとに集めようというのがペンテコステ。

ここには目には見えないけれども罪にまみれた人間を、神の独り子イエス・キリストの十字架の贖いによって、今一度御もとに招き入れようというもの。その神の気合というものが目に見える形で現れた出来事。これは創世記11章の回復であり、これが私たちの出発点。聖霊降臨日が教会の誕生日と言われる由縁(ゆえん)なのです。

それでは使徒たちは聞くものたちの生まれ故郷の言葉で何を語ったか。神の偉大な業(新共同訳)、神の大いなる働き(口語訳)を語った。では神の偉大な業とは何か。神の偉大な業とは、イエス・キリストの生涯、生と死、そして復活のこと。これ以外の、そしてこれ以上の神の偉大な業は無いのです。

使徒言行録2章の後半はペテロの大説教があり、三千人 が悔い改めて洗礼を受けたと記されています。この三千人の人たちというのは、どういう人たちか。これらの人たちはわずかに50日前過ぎ越しの祭りにおいて、宗教指導者たちに扇動されたとは言え「殺せ、殺せ、十字架につけよ」「私たちにはローマの皇帝以外に王はない」とまで叫んだ人たち。

では翻ってペテロと弟子たちはどうであったか。ペテロはイエスを追って大祭司の中庭にまで潜入したが、そこで三度まで「そんな男のことは知らない 」と断言してしまった。マタイとマルコには「その時、ペテロは呪いの言葉 さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた」と記されています。これはもし自分の言っていることが真実でないなら、自分は神に呪われてもいいという意味です。そこまで断言してペテロはイエスとの関係を否定したのです。ルカ福音書では、その時「主は振り向いてペテロを見つめられた。 」と記しています。

ペテロは完全に打ち砕かれてしまいました。ペテロと他の弟子たちは今目の前にいる群衆を恐れて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていたのです。そう考えてくると、一体この出来事の主役は誰か、ということを考えさせられる。

ペテロの大説教は預言者ヨエルの言葉を引用して更に続きます。22節「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。神はイエスを通して、あなた方の間で行われた奇跡と不思議な業としるしによって、そのことをあなた方に証明した」なのに23節「このイエスをあなた方は律法を知らない者たちの手を借りて十字架につけて殺してしまったのです。」ペテロとしては、自分たちもあなた方と同じように大罪を犯した者であるという思いがあったことでしょう。32節「しかし神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。」

(しかしこの復活したイエスは、私の弱さを受け入れて下さった。)

「神の右にあげられたイエスは、約束された聖霊を御父から受けて注いでくれました。あなた方は、今そのことを見聞きしているのです。」

ペテロの大説教は始めこそ「ユダヤの方々、イスラエルの人たち」でしたが、イエスの十字架の段になると、50日前に「殺せ、殺せ、十字架に・・」と叫んだ目の前のユダヤ人たちも自分も同罪であるという思いから「兄弟たち」という呼びかけに変わっています。ペテロや弟子たちが上から目線ではなく、自分たちと同じ所に立っていることに心動かされたユダヤ人たちも同様に「兄弟たち」と応じています。37節では「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか 」とペテロたちに聞いています。彼らの狼狽ぶりが伝わってきます。

ペテロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 」この言葉はペテロ自身の悔いても、悔いても、尽きることのない悔い改めであり、自分自身に対する絶望の中で、自分の足では立っていることさえおぼつかなくなっていたペテロが、よみがえったイエスによって赦され、受け入れられたことそのものでした。

聖霊の賜物とは、イエス・キリストと共にあるということ。

パウロの言葉を思い起こして下さい。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 」(新共同訳)

口語訳では「ある」と訳されていたギリシャ語のev(エン)、英語のinという言葉をNEB は~be united with (~と結ばれている)と訳したのです。新共同訳のローマ人への手紙8:1もこの訳を採用しています。いい訳だと思います。罪に定められることがないとは、私たちの罪を一身に引き受けて下さったイエス・キリストのゆえに、私たちの罪が赦されるということです。

わずかに50日前に「殺せ、殺せ十字架に・・」と叫んだユダヤ人たちも、「私はそんな男のことは知らない。もし私が嘘を言っているなら、この身が神に呪われてもいい。」とまで言い切って自分の身の安全を確保したペテロの弱さも、「今やキリスト・イエスに結ばれている者は」神の前に罪として算定されないというのです。

私たち自身にとっては、極めて重大な過失や罪であっても、神はそれを私たちの過失や罪として取り上げ、数え給わない、キリストにおいて現れし神はこのような神であり、私たちの現実は“赦されている”というところから出発するというのです。

しかし世の中は人の罪を暴くことに熱心です。私たちの良心でさえ、私たちを弾劾してやまない。それに対してイエス・キリストにおいて自らを現したもうた神は、その傷を包み給うというのです。聖書に語られている神は、イエス・キリストのゆえに罪を赦すことに決して疲れ給わない神なのです。

宣教の中では時間の関係で割愛しましたが、参考までにローマ人への手紙8:3を掲載しておきます。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」

神はイエスだけは例外的に有罪の宣告をくだした。言葉を換えれば、イエスだけは赦さなかった。神は独り子イエスだけは徹底的に罰し、徹底的に捨てた。使徒信条によれば「よみにまで」。このことによって神の罪に対する正義は立てられ、同時に私たち一人一人が“赦される道”を開き給うた。しかもこのような愛は、神の愛を受けるに値しない者に注がれ、満たされることになるのです。 

ペテロのように己が義に飢え渇く者は、幸いである。その人は神の義をもって満たされる。悲しんでいる人は幸いである。その人は(キリスト・イエスに現れた)神によって慰められる 。とはこういうこと。

私たちは神のこの熱心と配慮に圧倒されて信仰を与えられ、悔い改める時、聖霊の賜物を受ける。聖霊の賜物とは、私は現に弱く、もろく、つまずき、失敗し、失望している。しかしそのような判断は、私の私に対する判断に過ぎない。神は私たちに対して、もっと異なった判断をなし給うのです。どう判断されるのか。

あなたはわが目に値高し、あなたは私が命をかけて買い取った者ではないか。雄々しくあれ、と私たちの判断、視点とは異なった判断・視点を示して私たちにエールを送っておられる。聖霊の賜物とは、私たちの判断、視点とは異なる判断、視点が示されること。

「聖霊を信ず」ということも、私たちが何か霊につかれた状態になることではなく、自分の人生において、また歴史の中に、教会の中に、働く神の働きを信ずるということです。

このことを今日のペンテコステ礼拝において、しかと心に刻みたいと思います。

(2021年5月23日 ペンテコステ礼拝)

2021年5月16日日曜日

キリストの昇天(2021年5月16日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

旧讃美歌 158番 あめにはみつかい 奏楽・長井志保乃さん

「キリストの昇天」

ルカによる福音書24章44~53節

関口 康

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」

今日も礼拝堂に集まって礼拝を行っています。自宅に留まっておられる方々のことを常に祈りに覚えています。どなたにも無理や強制感が出ないように礼拝の司式はすべて牧師がしています。礼拝当番の表を作るのもやめています。聖餐式と愛餐会は1年以上中止しています。

その状態でも礼拝に足を運んでくださる方々がおられることを、私はうれしく思っています。そのようなことを言うべきでないとお叱りを受けるかもしれませんが、正直な気持ちを隠すことはできません。

そして来週は聖霊降臨日。ペンテコステの礼拝です。昨年度はイースター礼拝もペンテコステ礼拝も各自自宅礼拝でした。今年はこの礼拝堂でペンテコステ礼拝を行います。1年前より状況が悪くなっているのではないかとお感じになる方がおられるでしょう。

図らずも今日から政府の緊急事態宣言の対象が北海道、岡山県、広島県にも拡大されることになりました。そのことも知らずにいるわけではありません。甘く考えているわけでもありません。それは私だけでなく、今日ここにお集まりの皆様も同じだと思います。

たとえそうであっても、礼拝堂に集まっての礼拝を行うことに意義があると信じるからこそ、わたしたちは互いに気を付けながら集まっています。礼拝堂を物理的に閉鎖してしまうと、心のよりどころ、魂の居場所を失ってしまう方々が実際におられると思います。私も同じです。

「礼拝堂の中に神さまが住んでおられる。だからここに来なければ神さまにお会いすることは決してできない」などと言いたいのではありません。教会の交わりの中で、わたしたちは神さまと出会うのです。その中で神の御子イエス・キリストのお姿を見るのです。

ここから先は理屈で説明できる域を超えています。実際に体験しなければ分からない、としか言いようがありません。

今日の朗読箇所はルカによる福音書24章44節から53節までです。ルカによる福音書の最後の部分です。そしてこのルカによる福音書と同じ著者が、いわばこの福音書の「第2巻」として使徒言行録を書いたことで知られています。

使徒言行録の冒頭の部分を見ますと、「テオフィロさま、わたしは先に第1巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と記されているのが分かります。この著者が「先に著した」とする「第1巻」がルカによる福音書です。

そして、その第2巻の使徒言行録の初めのあたりに来週わたしたちがお祝いする聖霊降臨日の出来事が記されています。聖霊降臨日の出来事については来週の説教者にお委ねします。しかし、大事なことは来週の箇所と今日の箇所とのつながりです。今日の箇所に記されているのはイエスさまが弟子たちの前で「天に上げられた」とされる出来事です。それを「昇天」と言います。

そこで何が起こったのかは記されている通りのことしか分かりません。ですし、記されていることを読んだとしても、それがわたしたちに理解できるかどうかは別問題であるとも言えます。

どういうことか。まず今日の箇所に登場するイエスさまは、十字架につけられて死んで、その3日目に復活された、その後の復活されたイエスさまです。そもそも復活とは何なのか。それ自体が理解できずに苦しむ人々は決して少なくないでしょう。しかし、とにかく聖書にはイエスさまが死者の中からよみがえられたことがはっきり記されています。

今日の問題に結び付けて言えば、イエスさまは、物理的な意味での「対面」を重んじられたのです。「リモート説教」ではありません。弟子たちと「対面」するために復活されたのです。

そして今日の場面は、その復活されたイエスさまが弟子たちに説教をなさっています。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)とお話しになっています。

「まだあなたがたと一緒にいたころ」とはどういう意味だろうとお感じになる方がおられるかもしれません。復活されたイエスさまはそのとき弟子たちと一緒におられたのではないだろうかと。細かいかもしれませんが、こういうことに引っかかりながら読むことが大事です。

そのときその場所に聖書の巻物があったかどうかは分かりません。しかし、聖書に基づいて、その教えの核心は何かをイエスさまが「対面」で説教されています。内容が46節以下に記されています。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と」。

がっかりさせるつもりで申し上げるのではありませんが、旧約聖書のどこを探してもこのようなことは書かれていません。しかし、関連があると思われるのは次の2箇所です。イザヤ書53章の全体(新共同訳旧約1149頁)とホセア書6章2節(1409頁)です。

イザヤ書には「苦難の僕としてのメシア」が描かれ、ホセア書には「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」と記されています。これらの言葉に基づいてイエスさまがご自身の言葉で説教なさっていると読むことができるでしょう。

そしてその後、イエスさまは天に上げられました。記されているとおりに読めば「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(50~51節)。

これはどういう現象だろうと私も考えるところがあり、調べてみました。その中で、英語で記された注解書のこの箇所の説明文の中に、ディパーチャー(departure)という言葉が繰り返し出てくることに興味を持ちました。わたしたちがこの言葉を最も聞く場面は、空港ロビーや飛行機の機内でキャビンアテンダントの方がおっしゃるアナウンスでしょう。

ディパーチャーの意味は「出発」です。イエスさまは「出発された」。あるいは「旅立たれた」。これが「昇天」の意味であると考えることができるなら、イメージが豊かになる気がしました。

イエスさまはどこへ行かれたのでしょうか。旅の目的地はどこでしょうか。それは、父なる神がおられる「天」です。天から来られたイエスさまが天へとお戻りになったのです。そのことが描かれています。

しかしそれは確かに「お別れ」でもあります。「もはやイエスさまは地にはおられない」という切断の意味があります。

それでもイエスさまの弟子たちが、そしてわたしたちが寂しくないのは、イエスさまの代わりに聖霊が、聖霊なる神が、来てくださったからです。来週のペンテコステ礼拝に期待しましょう。

(2021年5月16日 主日礼拝)

2021年5月9日日曜日

イエスの祈り(2021年5月9日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 211番 あさかぜしずかにふきて 奏楽・長井志保乃さん


「イエスの祈り」

マタイによる福音書6章1~15節

関口 康

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

4月25日から始まった東京等の緊急事態宣言が今週終わるはずでした。しかし5月31日まで延長されました。感染症の拡大が収束しないことも残念ですが、政治が有効な手立てをとりえていないようにしか思えないことこそ残念です。わたしたちにできるのは祈ることです。しかし、大切なのは、何を、そしてどのように祈るかです。

今日の聖書箇所も日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。緊急事態宣言に合わせて選んだわけではありません。しかし、この箇所でイエス・キリストが弟子たちに「だから、こう祈りなさい」(9節)という言葉に続けてわたしたちがよく知っている「主の祈り」をお教えになったことを、いまわたしたちが置かれているこの状況の中で改めて確認する機会を与えられるのは、神の導きであると感じるばかりです。

わたしたちは祈ります。祈らなければなりません。しかし、今日の朗読箇所の1節から8節までにイエスさまがおっしゃっていることの趣旨は、人は祈るときにも偽善的でありうるので気を付けなさいということです。とても耳の痛い、厳しいことをイエスさまがおっしゃっています。

文脈からいえば、この箇所でイエスさまは「人に施しをすること」(2節以下)と「祈ること」(5節以下)を共に「善行」(1節)の具体的な内容として挙げておられます。言い方を逆にして言い直せば、「善行」とは「人に施しをすること」や「神に祈ること」を指すと考えておられます。しかし、その「善行」も、人の手にかかると偽善的になされる場合があるので気を付けなさい、とおっしゃっています。

この場合の「偽善」の意味で最も近いのは仮面をかぶって演技することです。心にもないことを行い、語ることです。いまわたしたちは外出するときには必ずマスクをしていますので、「仮面をかぶることが偽善である」と言われると、ぞっとするものがあります。マスクは外すべきではありませんし、そういう意味ではありません。

むしろイエスさまがおっしゃっているとおりです。「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」(2節)。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(5節)。

共通しているのは、人からほめられたい、人に見てもらいたい、つまり人から評価されたいということが動機でありかつ目的であるような善行を、人目につくところで行うことです。それをイエスさまは「偽善」と呼んでおられます。

「それのどこが悪いのか。たとえそれが偽善であるとしても、善いことをしているのだから、結構なことではないか。偽善を恐れて何もしないよりもましである」という反論がありえます。そのような意見にしばしば接します。私自身もどちらがよいか判断に苦しむことがよくあります。しかしイエスさまは、そのような善行のあり方をお嫌いになりました。

祈りについても同じであるというわけです。しかし、これも難しい問題を含んでいます。私の話になって申し訳ありませんが、生まれた時から今日まで55年も教会に通い、30年以上牧師の仕事を続けてきたのに、人前で祈るのが苦手です。だいたいいつも、しどろもどろになります。

もし礼拝を「人前でない」と考えることができるならまだしも、そういうわけに行かないので、事前に祈りの原稿を書いて臨む姿勢のほうが良いと思うところがあります。ふだんの礼拝を軽んじる意味はありませんが、結婚式や葬儀のような場面でしどろもどろの祈りではまずいでしょう。

しかし、原稿や式文を朗読するような祈りをすること自体も私は苦手です。なぜ苦手なのか、その原因を探っていくと、どうやらいつも今日の箇所のイエスさまの言葉が引っかかっていることに気づきます。苦手は克服すべきでしょう。しかし、一筋縄では行かないものを感じます。

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(6節)とイエスさまがおっしゃっています。お祈りが苦手な牧師の話を続けるわけに行きませんが、奥まった自分の部屋で祈るだけで牧師は務まらないでしょう。

しかし、このようなことを縷々おっしゃったうえで、イエスさまがいわばひとつの結論として弟子たちにお教えになったのが「主の祈り」であることの関係を考えることは、問題解決の糸口になると思います。特にイエスさまが「異邦人の祈り」を批判する言葉の中でおっしゃっている「くどくどと述べてはならない」とか「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」という厳しい言葉は、その意味をよく考える必要があります。

逆の言い方をすれば、イエスさまは簡潔で、端的で、時間的にも短い言葉で祈ることを求めておられるということでしょう。原稿を書くなり式文を読むなりすること自体が間違っているわけではなく、演技の台詞のような言葉を長々と述べたからといって、その祈りの効果が上がるわけではないというような意味になるかもしれません。

そしてイエスさまは「主の祈り」をお教えになりました。つまり「主の祈り」は、偽善者の祈りのようでない、簡潔で、端的で、時間的にも短い祈りの言葉である、という意味になるでしょう。本当にそうなっているかどうかは考えどころです。わたしたちにとっては「主の祈り」も、意味も分からず唱えているだけなら、演技の台詞と大差ありません。

わたしたちが用いている文語訳の「主の祈り」は1880年訳です。なんと141年前です。古い言葉のほうが、威厳があるからでしょうか。そうかもしれませんが、意味が分からない人にとっては台詞になるだけでしょう。

最後に言います。私が「主の祈り」の解説をするたびに強調して申し上げるのは、この祈りは徹底的に「地上的な」意味を持っている、ということです。特にそのことがはっきり分かるのは「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」です。

神の御心が「天」で実現しているだけなら、何の意味もありません。絵に描いた餅です。「地」においてこそ、わたしたちの現実の世界と社会においてこそ、御心が実現しなくてはなりません。「神の国」がこちらに「来る」のでなくてはなりません。そのことを祈るのが「主の祈り」です。

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りながら貧困で苦しむ人を無視するわけに行きません。それは世界の中の貧しい国の人々だけの話ではありません。わたしたちの今の現実です。

富裕層の人たちばかりの教会を作りたいですか。生活に窮する人々を見下げるエリートばかりの教会を作りたいですか。わたしたちは断じてそのように考えません。「主の祈り」の心をもって生きる教会をこれからも目指していこうではありませんか。

(2021年5月9日 主日礼拝)

2021年5月2日日曜日

父への道(2021年5月2日 主日礼拝)

石川献之助牧師

讃美歌21 390番 主は教会の基となり 奏楽・長井志保乃さん
「 父への道 」

ヨハネによる福音書14章1~11節
 牧師 石川献之助

昨日より暦は5月に入りました。本日は日本キリスト教団の教会歴によりますと、主イエス様の復活節第5主日であります。

聖書の箇所は、ヨハネによる福音書14章 1 節からの御言葉が与えられております。そこでは「心を騒がせるな」という語りかけから始まっております。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家に
は住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言っ
たであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来てあなたがたをわ
たしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
(1~3節)

5月は私にとりましては、この世に産まれた誕生の月でもあります。誕生の月を迎える高齢の私個人に、主が語りかけておられるように、この御言葉をききとる思いがしております。

主イエスは十字架の死が間近に迫っていることを心に留めて、弟子たちに沢山の大切な事をお話になりました。その中でペトロの「主よ、どこへ行かれるのですか。」(13 章 36~38節)から始まる問いに続く箇所が今日の御言葉です。

主イエスは「私の父の家には住む所がたくさんある」(2 節)と語りかけて下さいます。主イエスは、私たちが後についていけるように、天と父なる神に至る道しるべをつけて下さったのです。私たちの死後についての不安に対して、主イエスのおられる永遠の住まいである天にお迎えいただくことを約束して下さっている事は、大きな慰めであると思います。

ユダヤ教の支配下にある、ユダヤにおける主イエスの活動は、多くの批判と問題に妨げられていました。その中で弟子たちに共通する不安は、これから自分たちはどこに向かって歩むのか、誰にもわからない中に置かれていたということです。

また、主イエスを失った後の将来についても不安を感じていたと思われます。主イエスはご自身をおつかわしになった父のもとへ行こうとしておられるのであり、父と主イエスは一つであると、弟子たちに繰り返し語られましたが、弟子たちはついに理解することができなかったのです。主イエスがこれから通ろうとしている道、その道のために十字架があるということなど、さらに理解することは難しかったのでしょう。

トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」(5 節)とさらに尋ねました。続いて主イエスは言われました。
 
「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節)

なんという大きな慰めでしょう。主イエスのみが、神へ至る道であります。主イエスにおい
てのみ、わたしたちは神がいかなるお方であるかを知ることが出来るのです。

この問いは、今の私たちにとっても同じであるのです。当時の弟子たちの置かれていた状況は時代的にもあまりにも違いがありますが、私たちは生活の不安の上に、命の不安に怯えながら限りある命を生きているという現代の人生の側面からは、共通点も見出すことができます。私たちが生きようとしている将来は、正に様々な不安に満ちたものではないでしょうか。

私たちは一人ひとり、各々の心を騒がせる課題を抱えながら生きています。主イエスの言われた永遠の命を生きるべく、主イエスの救いに希望を見出すことが求められているのです。このことに心を向けながら、信仰に生きる主イエスが本当に与えようとしている救いに与りたいと願う者であります。この「心を騒がせるな」との主の御声に耳を傾け、主を信頼し心を整えながら、平安を与えられ歩んでいきたいとの思いを新たにした次第です。

私たちはこの世の一回限りの人生において、どこに向かって生きていくのでしょうか。ここにこそ、私たちキリスト者の希望があるのです。私たちには永遠の命が希望として与えられているということを、忘れずに歩んでいきたいと思います。

(2021年5月2日 主日礼拝)


2021年4月25日日曜日

イエスは復活また命 (2021年4月25日 主日礼拝)

 

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3565号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

「イエスは復活また命」

ヨハネによる福音書11章17~27節

関口 康

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」

今日も皆様にお集まりいただき、感謝いたします。今日から5月11日まで東京、大阪、兵庫、京都への緊急事態宣言が出たということを知らずにいるわけではありません。どうかくれぐれも各自でお気をつけくださいと申し上げるほかはありません。教会は現時点では礼拝堂を閉鎖する考えはありません。しかし警戒と対策を続けていく所存です。

例外なくすべての教会は、いつからか始まった存在です。この教会では石川先生がご自身でなさったとおっしゃる「開拓伝道」の時期が、すべての教会の歴史の最初にありました。最初から大勢の人が集まって始まった教会がないわけではないでしょう。しかし、教会の中には、本当に最初はひとりだったというところもあるでしょう。

私も31年前、1990年3月に東京神学大学大学院を卒業した翌月から、日本キリスト教団南国教会に赴任し、当時の鈴木實牧師と共に南国教会の開拓伝道所である南国教会大津伝道所を立ち上げる働きに就きました。

鈴木牧師が南国教会の主任牧師であると共に、南国教会大津伝道所のほうの兼務担任教師になりました。私は南国教会大津伝道所のほうの主任担任教師であると共に南国教会のほうの兼務担任教師となりました。そのような「たすき掛け」などと呼ばれることがある方式で、2つの教会を2人の教師が牧会する形で、開拓伝道に従事しました。

その意味では、石川先生が昭島教会の開拓伝道をなさったというのと内容的に同じことを私もさせていただいた経験があると言えます。それで、私にも体験があるのは、とにかく教会は何もないところから始まるものだ、ということです。

そして、その事実に基づいて今の緊急事態の中で私なりに言いうることは、決して不遜な意味で申し上げるのではありませんが、教会の礼拝になんらかの事情でひとりも集まることができない場合には、牧師がひとりですべてを行うことになっている、ということです。それで寂しいとかなんとか、そのような気持ちになることは私にはありえない、ということです。

そもそも例外なくすべての教会が、だれもおらず、何もないところから始められたものです。仮に今日だれもいなくても、何度でも新たな思いで集まることができるし、「これで終わりだ」などという悲壮な考えを持つべきではありません。教会は神の恵みによって立っているのであり、それ以上の何ものでもありません。人の努力が無視される意味では決してありません。しかし、人は歴史の中で入れ替わっていきます。

今日開いていただいた聖書の箇所のお話をします。登場するのは、イエスさまです。そして、イエスさまが特別に愛しておられた3人姉弟が登場します。それは、姉のマルタ、妹のマリア、そして弟のラザロです。しかし、ラザロは病気で亡くなったばかりです。

イエスさまがこの姉弟を特別に愛しておられた理由は、記されていません。はっきり書かれているのは、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛していた」(5節)ということだけです。しかし、なんとなく想像がつくのは、家族の中に他の人と比べて弱さの度合いが強い人がいる場合、配慮の必要がある、ということです。

書かれていないことをいろいろ想像しはじめると、きりがありません。この姉弟の両親は描かれていません。両親がいたのかいなかったのか分かりません。姉のマルタが一家の大黒柱として全責任を引き受けて常に忙しく立ち働いていたのではないかとか、妹のマリアは家にいるときはじっと座っている時間のほうが長かったのではないか(外で働いて疲れて、家の中では身動きがとれなかった?)とか、弟のラザロは体が弱く病気がちだったのではないかなど。

そのような家庭内の状況を、イエスさまがすべて把握しておられ、いつも心にかけておられたのではないかなど想像することが可能です。しかし、そのイエスさまが心にかけておられた家庭の中のラザロが亡くなりました。そこでわたしたちも驚く出来事が起こります。それは、イエスさまがその家庭にすぐに来てくださらなかった、ということです。

ラザロが亡くなったという連絡がイエスさまの耳に届いていなかったわけではないし、臨終の場に立ち会うことができなくても、連絡を受けた日から行動を開始してくだされば、そのこと自体で遺族の心は慰められるでしょう。しかし、聖書が記しているのは、イエスさまは「ラザロが病気だと聞いてからも、なお2日間同じ所に滞在された」(6節)ということであり、イエスさまが来てくださったのは「ラザロが墓に葬られて既に4日もたっていた」(17節)ということです。

それで、ラザロの2人のお姉さんたちが我慢できなくなりました。イエスさまに激しく食ってかかりました。「あなたがここにいてくだされば、弟は死ななかったでしょうに」(21節)とまで言いました。マルタが言ったのと同じことをマリアも言いました(32節)。あなたのせいで弟は死んだ、と言わんばかりです。言いがかりだとは思いますが、言いたい気持ちは理解できます。すぐ来てほしかった、と言いたいだけです。それ以上の何の気持ちもなかったと思います。

そのように言われたイエスさまが、どのように反応なさったかが描かれています。「心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか』」(34節)。「イエスは涙を流された」(35節)。しかし、ここで大切なことはイエスさまが何に腹を立てられ、興奮され、涙を流されたのかです。

イエスさまがすぐかけつけてくれなかったことに不満を抱き、噛みつくように怒っているラザロのお姉さんたちの言いがかりでイエスさまの心が深く傷つき、悲しくなられて泣いてしまわれた、という話ではありません。

そうではありませんけれども、イエスさまがなぜすぐに彼女たちのところに行かれなかったのかは、たしかに謎です。謎ですけれども、私は理解できます。様子を見た、というような冷たく突き放すような意味ではないと思います。しかし、それに少し近いところがあるかもしれません。

それが何であるかを具体的な言葉にするのは難しいです。今のわたしたちのことを考える材料になるかもしれません。ある人が病気になる、亡くなる。その方の家族が看護や介護で苦しむ。喪失感や寂しさで悲しむ、嘆く。そのような中で、教会がその方々に寄り添うこと、配慮することの意味は何か、というような問題です。

とにかく一刻も早く駆けつけることに意義がある、かもしれません。しかし、感染症の問題がある中で、それをしたくてもできないような場合、「教会は(あるいは「牧師は」)私に何もしてくれなかった」という不満が出てくることには必然性があります。しかし、大切な問題は、その先にあります。「そのとき教会は何をなしうるか」という問題を、今日の箇所が投げかけています。

(2021年4月25日 主日礼拝)


2021年4月18日日曜日

新しい命(2021年4月18日 主日礼拝)


讃美歌21 327番 すべての民よ、よろこべ 奏楽・長井志保乃さん

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「新しい命」

コロサイの信徒への手紙3章1~11節

関口 康

「さて、あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。」

先週予告した今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書でした。しかし、コロサイの信徒への手紙に変更しました。変更の理由は、実際に読んでみてピンとくる箇所でなかったからです。

もう少し丁寧にいえば、マタイによる福音書のその箇所は、イエスさまが厳しい裁きの言葉をお語りになっている箇所だったからです。しかし、今のわたしたちは、裁きの言葉に耐えられません。慰めと励ましの言葉が必要です。そう思いましたので、変更しました。

タイトルは変更していません。むしろ今日選んだ聖書の箇所のほうが先週予告した「新しい命」というタイトルにふさわしい内容です。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます」から始まる箇所です。これは驚くべき言葉ですが、裁きの言葉ではありません。とらえ方によっては厳しい内容であると感じられる面がないわけではありませんが、まさにとらえ方の問題です。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(3節)とありますが、これは何のことでしょうか。わたしたちは死んだのでしょうか。「いや、まだ生きている」としか言いようがないでしょう。

少し前に説明があります。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(2章11節)と記されています。いろんなことが書かれていますが、すべては一度に同時に起きることです。それはわたしたちが洗礼を受けることです。洗礼を受けるとは死ぬことである、というのです。

「ちょっと待ってくれ」と言いたくなるでしょうか。死んでいないし、殺されるのはまっぴらだと。たしかにわたしたちは死んでいません。その意味では、考え方の問題であるという言い方が許されて然るべきです。

洗礼を受けることは、キリストと共に死にキリストと共に復活することであると、わたしたちは考える。「考える」と言うと「哲学ではない」と言われるかもしれませんので「信じる」と言うほうがいいかもしれません。しかし、この件に関しては「考える」でも「信じる」でも大差ありません。わたしたち自身のことをまさに考えれば、分かることです。

今日この礼拝に集まっているみんながみんな、洗礼を受けている人たちばかりではありません。しかし、はっきりしているのは、だれも死んでいないということです。礼拝は、あるいは教会は、生きている人たちの集まりです。しかし、今日の箇所には「あなたがたは死んだ」と書かれています。「あなたがたはキリスト共に復活させられた」と書かれています。何を言っているか分からないでしょうか。そんなこともないと考えている、あるいは信じているのが、教会のわたしたちではないでしょうか。いえ、わたしたちはそういう者たちです。断言しておきます。

死んだとか復活させられたとか、考えるとか信じるとか、何を言っているかちんぷんかんぷんでしょうか。そういう方がおられるかもしれないので説明が必要でしょう。私がいま申し上げていることとの関係で最も注目すべき思想は、2章13節の途中から14節の途中まで記されている「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」です。

契約の問題です。それはわたしたちを縛るものでもあります。税金や借金の問題であるといえば分かるでしょう。払えなければ返せなければ、いつまでもどこまでも追いかけてくる。しかし、その人が死ねば契約は終わりだというわけです。逃げ切ったという話になるかどうかは分かりませんが、それ以上追いかけることはできなくなるという話ではあります。

そのことを、ある意味でたとえ話として持ち出して洗礼の意味を説明しているのが今日の箇所であると言えます。死んだとか復活させられたとか、何の話なのかといえば、すべてはひとつの問題に集中しています。それは、あなたがたが過去に縛られていた一切のものから自由にされたのだ、ということです。

先祖代々受け継いできた宗教や、そのしきたりからも自由にされています。思想・信条、教育内容からも、自由にされています。「私の家は代々、何宗の何派なので、それを受け継がなくてはならない」というようなことは一切ありません。それは、今のわたしたちにとっては教会も同じです。親がそうだから私もそうする、というだけで済まないし、それは理由になりません。

わたしたちは、縛られるために洗礼を受けるのではありません。死んで復活させられて、その意味で過去のすべての縛りからとにかく一度解放されて自由になって、その意味での個人として、自分の意志でキリストと共に生きることの決心と約束をすることが、教会で洗礼を受けることの意味であると言っているのです。

だからこそ、過去の縛りの中に含まれる「悪いこと」を受け継ぐことの言い逃れも断たれる面があるのは、もしそれを厳しい裁きであると感じるならば、そう言えるかもしれません。今日の箇所の5節以下に書かれているのが、その「悪いこと」です。

「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(5~10節)。

教会でも時々、「逃れられない罪」とか「逃れられない悪」とかいう言葉を聞くことがあります。その趣旨が全く理解できないわけでもありませんが、「果たして本当にそうなのか」という疑問が私の中で湧き起こることがあります。

今の箇所に「捨て去りなさい」「捨てなさい」と繰り返されています。何を「みだらな行い」や「不潔な行い」と言うか、何を「うそ」と言うかと細かいことをほじくりたいのではありません。「逃れられない」と、あたかも永遠の運命に縛られているかのように言って、罪と悪にとどまり続けることは、洗礼の趣旨に反する、ということです。そのような卑怯な言い逃れを教会が率先して広めるべきではありません。わたしたちは、罪と悪から自由にされたのです。

(2021年4月18日 主日礼拝)