2020年4月12日日曜日

復活節の喜び(2020年4月12日 イースター礼拝宣教)

ヨハネによる福音書 20 章 1 節~18 節



石川献之助



今日は 2020 年のイースターの復活節の記念の聖日であります。



私はこの日をどんなに大切に思っているか。私は小さい時から教会の牧師である父と、ま

たその生き方に共鳴してその助け手となった母の間で育ち、「献之助」という名前をつけられて、自分が選択をするよりも両親の信仰に基づいて、あるいはその信仰を通して私の生涯をこの福音の宣教の務めに生きる教会の働きに生涯を捧げる者として、その名前を付けてくださったそういう命運のもとに、今年92 歳という長い生涯を、ただそのひとつの方向に生きてまいりました、福音の宣教を託されている者であります。



この昭島教会は、私に託された主の命令に基づいた、あるいは恩恵にもとづいた務めでありますけれども、すでに高齢ゆえ不自由な体でありまして、教会の役割を進んで担ってくださる昭島教会の役員の方々のみならず、後任の伝道者としての務めを引き受けてくださった関口先生のその業によって補われながら今を歩んでおります。



すでに皆様のお手元に郵送された週報の 2 ページの上の右のほうに 「3511 号」と書かれております。なんと戦後の日本の、散々に戦争で痛めつけられた昭島の地で、本当にこの世に生きていく生活の困難を背負っている昭島の市民の方々に福音を述べ伝え、生きる希望と、そして福音によってもたらされる永遠の命の希望を述べ伝えるために、私は弱冠 25 歳でこの昭島の地において開拓伝道の業を始めました。実にそれから 67 年の時を経て、この 3511 回目の礼拝でお話を委ねられている者であります。



そしてこの復活節というものは、私どもの救い主イエスキリストの三十有余年の御生涯の最後、実に世界の罪深い者の、全ての者の救いのために、十字架にかけられて遂げたその尊い死の後、三日目にそのイエスが甦られたことを記念する日であると聖書にしるされております。



そのテキストに基づいて、この復活の出来事を伝えるそのような記録は世界でも他にはないわけでありますから、本当にその事実を伝える知らせとして、最初の事をしるしたヨハネによる福音書の 20 章1節以下の記録を心に留めたいと思います。そして、その知らせは 2000 年余り経ちました、2020 年の今も私たちのもとに届けられているのであります。



これは本当に尊い知らせだと思います。この知らせに基づいて、私どもの信ずる主イエス・キリストが十字架の上において死なれたはずのそのイエス・キリストが、三日目に甦ってしかも最初に己をあらわされたその主イエス・キリストのそのような記録が書かれているわけであります。



そしてそれは、普通は長い時の経過が全てをぬりかえてしまうはずでありますが、でも変わらずに、永遠の命を私たちに約束されたイエス・キリストは、十字架の死を経て三日目に甦られた「甦りのイエス」にかわられた、イエスについて記念をすることを心に深く銘記して、新しい命に生きるそのような神の最も偉大なる御業について、私たちは神に感謝しその信仰を新しくする日として、世界中でこのイースターの日を中心に、この安息日の日曜日の礼拝をおこなっているわけであります。



本当にこのことは私たちの良識を越えたことでありまして、信仰によって聖霊の導きのもとにそのことを認識させられたときに、人間として創られ、生まれ、そして生きてきた人間は、そこに希望を、永遠の命の希望を告げられて、そしてこの日、感謝と喜びの内に礼拝を行っているのであります。



このことを告げたヨハネによる福音書の 20 章の始めに、キリストの御言葉の中で最初に弟子たちにイエス・キリストが己を復活の御姿をもって、再び愛の方として私どもの救い主としてご自身をお示しになったこの箇所を心に留めることこそ、イースターの礼拝の中心であるということを覚えていきたいと思います。それでこの礼拝においては、ヨハネによる福音書の 20 章の1節から18 節までの御言葉が今読まれたわけであります。



そして私はこのことを毎年このイースター礼拝の度に心に留めたわけでありますが、今日はこの礼拝において、この教会を中心にあつまっている兄弟姉妹は、新型コロナウイルスの世界的な脅威にさらされているこの地球の上での、人類の歴史上初めてという試練の中に置かれ、私たちは集まることの危険ゆえ、為政者の意向に従って霧散して、私たちの教会ではそれぞれの置かれている場所でひとり祈ることによってこの復活節の主日礼拝を執りおこなうことを皆さんにお知らせしました。



そして今、形は違っても復活節の喜びを分かち合うという、讃美と感謝と喜びの信仰を更新する、そういう礼拝を守っているわけであります。



私たちはそのことを忘れることなどありません。そしてその信仰に生きている兄弟姉妹たちが全世界で、ある報告によれば 20 億という多数の人々がその信仰に生きているわけであります。



イエス様は復活されて生きて私たちと共にある、私たちの歴史を共に生きていて下さるということを新たに知らしめられる、そういう希望の日であるということをもう一度思い起こす、そういう日であるということを新たに皆さんと一緒に心に留めたいと思う次第であります。このイースターの理解と喜びとは、時の経過によって増し加えられることさえあれ、決して薄れることはないと思います。



私は過日イースター礼拝で引用した具体的な例をひとつ挙げて、そのことを新たにしたいと思うのであります。一度人間としてこの世の歴史の中に生まれてきた私たち一人ひとりでありますけど、一度生まれ、そしてその命は私たちの目に見えないたくさんの罪の結果として、必ず神様の厳しい裁きのもとに人類は希望を失っていくわけでありますが、そこに救い主としてのイエス様が遣わされ、そして全ての人々の罪の許しを十字架にかかり、達成されたのであります。



それで日本の現実の中におかれている、そのような希望の無い人々の救いのために、その周辺の人々に声をかけて、特に 2500 名のお医者さんと看護師の方々が集まる前でその限りある人生を望みなく終わっていくそういう人類の救いのために復活のイエス様の希望が与えられているということについて、研究会において報告されたお話です。



沢山の人々が地上の命を終えて亡くなっていく愛する者の死は、なおとても耐えがたいものであります。そしてイエス様によって信仰を与えられた私たちも同じような命運のもとにあるわけですが、イエスキリストによって永遠の命の希望を与えられることによって、この世の生活を積極的にあるいは喜びに希望に満たされてそして生きていく、そういう者がそれでも命の終わりの時を持つわけであります。



けれどもその中で、ある親子のお別れの言葉を紹介したいと思います。それはお父さんが臨終の時が来たことを悟って、はっきりと小さな声ではあるけれども「いってくるね」といって亡くなったということです。そして娘さんの方は「いってらっしゃい」と答える臨終の光景が紹介されていたのであります。



この紹介された家庭は、クリスチャンとして復活の信仰を与えられていた人たちでありましたから、亡くなるお父さんは「いってくるね」と言い、そして娘さんは「いってらっしゃい」と言う。しっかりとしたごく自然な言葉を遺して終わりの時を迎えた。この報告は多くの人を感動させました。



今、私たちは、新型のコロナウイルスの世界的な宇宙的な感染拡大の報道のもとに人類の将来を心配しています。けれども、この言葉を通してイエス様が与えて下さった永遠の命の希望は、本当に全ての人に希望を与えるものであるということを深く教えられました。



同じ信仰に生きている、またその復活の事実を聖書を通して教えられている、その中に、希望を持っている私たちは、そのように自分の人生を送り、また愛する家族の死を看取り、隣人として生きているたくさんの人々にこの福音を述べ伝えていくことの大切さを深く教えられた次第です。



私たちはいつものように教会に集まって、恵みの時を持つことは出来ません。けれどもこうして分散してコロナウイルスに負けないように、自宅で礼拝を守っています。



週報の中に今日与えられた聖句として、「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。十字架にかかって亡くなったはずの主イエスキリストが生きていらっしゃる、その復活の姿を見て喜んだという、これは事実の報告でありまして、私たちもこの言葉を改めて日々の人生の希望として、イエス様に感謝して、イエス様と共にこの復活の信仰を新しく日々の力として、命として、この年も生きていきたいと深く思わされた次第です。



それでは一言お祈りをいたします。



天の父なる神様 あなたがこの 僕しもべに、昭島市を中心とした戦争に希望をくじかれた日本の一角の地に、死によって貧しくなり、希望を失い彷徨っている人々にこのイエスキリストの復活の希望の福音を述べ伝えるという務めを与えられて、67 年という歳月が経ちました。



あなたはこの宣教の務めは何年経ってもそれは新しく、その福音を必要とする罪深い人類の歴史が続いていくことを思う時に、どうぞこの教会を守り、育て、励まし、どうかその福音を述べ伝えていく教会でありますように、心からお祈りいたします。



あなたは主であられ、そして永遠に生きていて下さいますから、私たちはそのことを信じていますけれども、色々な歴史的な過程の中で、どうぞ心強くどんなときにもこの復活のイエス様の希望を人々に伝える務めに励み、どうかこの教会が育ち、またその使命感を持ち続けていくことが出来ますように。私たちの周りの人々にその務めを果たす者として、歩めますように。



この試練が本当に私たちの希望となり、いつも務めとして新しく更新させられて私たちの希望として持ち続けられていきますように。どうぞ主イエス様が、教会員一人ひとりの現実に隣人として伴っておられることを忘れずに、かえって強められてこの困難を乗り越えて、この教会が新しくされる時でありますように。



今日このような形で行われる礼拝にも、復活節の礼拝を行えたことを深く感謝いたします。私たち自身が本当に復活の信仰を希望として、これからの生涯を生きていくことが出来ますように、祈るべきことは沢山ありますけれども、この大切な祈りをイエス様のお名前を通して御前にお捧げいたします。



アーメン



 礼拝(上)

 
 


礼拝(下)

 
 


祝会(上)

 
 


祝会(下)

 





2020年4月11日土曜日

イースター礼拝(4月12日)予告

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-5)

明日(4月12日日曜日)の昭島教会イースター礼拝は「各自自宅礼拝」です。看板に「2020年4月5日より各自自宅にて礼拝を守っております 感染防止のため」と記しました。明朝10時30分にいつもどおり礼拝開始のチャイムを鳴らします。思いをひとつにして世界の救いを祈ります。

2020年4月5日日曜日

十字架への道



ヨハネによる福音書18章28~40節

関口 康

「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

おはようございます。今日の礼拝に付ける名前をどうするかで悩みました。「各自自宅礼拝」と週報に書きました。意味が分かるようで分かりません。いま世界で起こっている未曾有の事態に対してひとつの意思表示をしたいと願って付けた名前です。

今日の礼拝は「休会」ではありません。わたしたちは、いま礼拝を行っています。今日の礼拝は「開会」されています。

イエス・キリストが死者の中からよみがえられた週の初めの日としての日曜日を「主の日」と聖書が呼び、世の終わりまでその日をキリスト教安息日(Christian Sabbath)として守り続けることは教会の本質に属することであり、状況に応じてどうにでもなるという次元の事柄ではありません。

そして、安息日の本質は、神を礼拝することにおいて「魂の」安息を得ることです。その意味での安息を得るために、教会は主の日毎に目に見える形ある礼拝を行ってきました。

それは教会の歴史的な伝統でもあります。しかし、それだけではなく、「神が」命じておられることであると信じているからこそ、わたしたちは万難を排して、たとえどんなことがあっても、主の日ごとの礼拝を守ってきました。

しかし、そのことと、だからといって教会に属する者たちは、たとえ病気で苦しんでいるときも、死の恐怖と直面する事態の中にあるようなときも、体を打ち叩き、心を奮い立たせて、教会の礼拝堂というこの建物に必ず集まって、定例集会としての主日公同礼拝に、何がなんでも出席しなければならないというようなことを言い出すこととは、全く別問題です。

そのようなことを要求する教会がもしあるとしたら、イエス・キリストがお語りになった大切な言葉を忘れています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコによる福音書2章27節~28節)と、イエスさまがはっきりおっしゃいました。

「安息日の主でもある人の子」であられるイエス・キリストが、病で苦しむ人々と共に、死の恐怖に直面している人々と共に必ずいてくださるということを、その人々にはっきり分かるように伝える責任が、イエス・キリストの教会にあります。

それでは、今日、2020年4月5日の東京に位置するイエス・キリストの教会の取るべき姿勢は何なのかということを、わたしたちは考えざるをえません。少しも大げさでなく、全人類がいま死の恐怖の前に立たされています。全人類のだれもいまだに治療法を知らない感染症の病原が、わたしたちのすぐ近くに迫っています。

今日、教会の礼拝堂に集まっていない人々は、礼拝をサボっているわけではありません。少しも大げさでなくわたしたちは、各自のいま考えうる最良の避難所に避難している状態です。それが「自宅」です。その意味で「各自自宅礼拝」です。

そして、牧師である私にとっての「自宅」は、牧師館がある「教会」です。だから、私は教会が自宅だから、教会で礼拝をしています。しかしだからといって、私がいまささげている礼拝は、たとえ牧師がひとりでささげる礼拝であっても、教会堂の建物の中で行えば、それが礼拝であるという意味を持つものではありません。

そして私は、私の避難所である教会でひとりで礼拝をささげている様子を録画して、インターネットで公開しようとしています。しかし、だからといって私はこれを「インターネット礼拝」であると考えていません。

私は「インターネット礼拝」というのに反対なのです。インターネットが苦手な方やアクセスするためのパソコンやプロバイダに支払う費用を捻出することに経済的な困難を覚えている方を切り捨てることになると思っています。「今はみんなで集まることができないのでインターネット礼拝をいたしましょう」というようなすっきりした三段論法に乗せられることに対して強い警戒心がある、とても飲み込みが悪い人間です。

ですから、この際はっきり言っておきます。私が今しているのは「インターネット礼拝」ではありません。私の「自宅」である教会で、私がひとりでささげている「私の各自自宅礼拝」を録画して公開しようとしているにすぎません。

先ほど朗読した聖書の箇所は、いつもしているのと同じように、日本キリスト教団の聖書日課に従って選んだ箇所です。ヨハネによる福音書18章28節から40節まで(新共同訳 新約聖書205ページ)です。

わたしたちの救い主イエス・キリストが十字架にかけられる前の夜、十二人の弟子たちと共に「最後の晩餐」を囲まれ、その後ゲツセマネの園で弟子たちと共に祈りをささげられたのち逮捕され、祭司長たちと最高法院の議員たちのもとに連行されて裁判をお受けになり、さらにそののちローマ総督ポンティオ・ピラトのもとにも連行されて、ピラトの尋問をお受けになるその場面です。

イエスさまは、祭司長たちと最高法院の議員たちのところでは、何を尋ねられてもほとんど何もお答えになりませんでしたが、「あなたはメシアなのか」と尋ねられたときだけ「それはあなたが言ったことです」とお答えになりました。しかし、イエスさまのお答えに「わたしはメシアではない」と、そのこと自体を否定する意味はなく、むしろ肯定されました。

今日の箇所に出てくるピラトのところでも、イエスさまは同じ態度を貫かれました。ピラトがイエスさまに「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)と問うたとき、イエスさまは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(34節)と答えておられます。

そしてそのうえで、イエスさまは「わたしの国は、この世には属していない」(36節)とお答えになりました。するとピラトが「それでは、やはり王なのか」(37節)と問うてきましたが、イエスさまは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(37節)とお答えになりました。

難しいといえば難しい、なんだかよく分からないやりとりではあります。しかし、イエスさまの意図は明確です。「そもそも国とは何か」という果てしなく大きな問題が背後にあります。

国と国を隔てる国境は、だれがどのようにして決めたのか。その国のリーダーである王、ないし同等の立場にある人は、何の権限でみずから王の名をなのり、実力を行使するのか。このようなことをいろいろ考えなくては「国とは何か、王とは何か」という問いかけに答えることはできません。

イエスさまはユダヤを武力で支配していた王たちと同じ意味での「王」ではありませんでした。ユダヤを支配下に置くローマ帝国の王たちと同じ意味の「王」でもありませんでした。しかし、だからといってイエスさまは、ご自身が「王」であることを否定しておられません。

「それでは、やはり王なのか」というピラトの問いかけに対して、「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」とお答えになったのは、ご自身が「王」であることを否定する意味ではなく、地上ではなく天におられる世界の創造者である神のひとりごとしてお生まれになった、神の真理を世界に示す「王の王」(King of kings)であるということを明確に示されたのです。言葉を濁してわけの分からないことをおっしゃったわけではありません。

そうでないからこそ、このイエスさまの答えは当時の権力者たちを怒らせるまさに直接の原因になり、十字架につけられる理由になりました。イエスさまが自分はメシアであるとしたことと、そして安息日論争は、イエスさまを十字架にかけるに値する冒とく罪を犯したと告発された原因そのものでした。そうであることをイエスさまは分かっておられました。ご自分がメシアであり、王の王であるという真理をはっきり示されることにおいてイエスさまは十字架につけられました。

そのようなイエスさまのお姿に「なんてばかなことを」と、わたしたちは思いません。世界と国の支配的立場にある人々のすべてがおかしいとまでは、私は思いません。しかし、あまりにもおかしなことばかり言い、うそとごまかしを押し通し、人々を助けるどころか犠牲にし、ひどい目にあわせる支配者が、わたしたちの眼前にいると感じるとき、十字架につけられたイエスさまのお姿のほうに、むしろ魂の平安を見出します。「なんてまっすぐな方だろう」と。

そして、そのようなイエスさまと共に生きていこうとするとき、この地上の人生にもまだ希望があると感じることができます。うそとごまかしだけで世界が成り立っているわけではないことが分かるからです。

今日の礼拝をこのような形にしたのは、政府の要請に従ったのではありません。社会の要請でもないし、医者や専門家の要請でもありません。そうすることが必ず間違っていると言いたいのではありません。そうではなく、「だれに従うのか」という問いは、教会の本質ないし存在理由にかかわることだと申し上げています。

イエス・キリストの教会が従うのは、イエス・キリストだけです。その結果として、国や社会の要請と合致する場合ももちろんありますし、そうであることを願うばかりです。教会が伝道というわざを行うのは、教会に集まる人が増えればいいというような勢力拡張の意図からするのではなく、イエス・キリストにおいて示された真理を多くの人々と共有できる社会や国になりますように、という願いがあるからです。

ですから、わたしたちは、今日は各自の自宅で礼拝をささげています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」とおっしゃった安息日の主イエス・キリストの要請に従って、全人類を脅かす死に至る病から身を守るために、各自の自宅に避難しています。

今日の礼拝は「休会」ではありません。学校でたとえれば、「保健室登校」や「出席停止」です。それは欠席にはなりません。その趣旨をご理解いただきたいと願っています。

(2020年4月5日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)

2020年4月3日金曜日

【謹告】昭島教会と共に歩んでくださっている皆様へ

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-5)

昭島教会と共に歩んでくださっている皆様へ

主イエス・キリストの聖なる御名を賛美いたします。

いつも昭島教会のためにお祈りいただき、ありがとうございます。

本教会は、新型コロナウィルス感染防止対策として、4月5日(日)主日礼拝につきましては、教会に集まってくださった方がおられた場合は、玄関で週報をお渡しし、そのままお帰りいただく形をとることにしました。

礼拝でお祈りするのは牧師だけです。皆様はどうかご自宅でお祈りください。

また、毎週木曜日の「聖書に学び祈る会」も、新型コロナウィルス感染の危険が去るまで休会することにいたします。

今後のことにつきましても、当ホームページ(http://akishimakyokai.blogspot.com/)
で情報を公開いたしますので、URLをご登録いただき、ご活用いただきたくお願いいたします。

質問やご意見は、教会メールアドレス(akishimakyokai@gmail.com)にお送りくだされば、牧師がお応えいたします。

いずれにしましても、決してご無理のないよう、ご自宅でお過ごしになることを願っています。

なお、専門家の貴重なご意見をいただきましたので、以下、ご紹介いたします。

(1)マスクの着用は正しく行ってください。「マスクはしっかりつける、近くでお話ししない」等のルールは、しっかり伝えて、もしできていないような場面を見たら、その場できちんと「やさしく」注意してくださいね。

(2)手洗いをしっかり行い、各自が清潔なハンカチで拭いてください。タオルの共用は絶対ダメです。

(3)なるべく使い捨てのペーパーを使ってください。ペーパータオルの入手が難しいので、テッシュペーパーでも構いません。個人のハンカチが汚染されていたら、意味がありませんので。

(4)ドアノブ、手すり等の消毒も徹底して行ってください。

【参考】消毒薬の作り方(動画)

以上、ご理解・ご協力のほど、なにとぞどうかよろしくお願いいたします。

2020年4月3日

日本キリスト教団昭島教会
主任牧師 関口 康

2020年3月30日月曜日

キリストの沈黙(東京プレヤーセンター)

礼拝後の記念撮影。説教者は前列左から2番目

マタイによる福音書26章63~64節

関口 康

「イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。『生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。』イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見る。』」

みなさんこんにちは。日本キリスト教団昭島教会の関口康です。今日はよろしくお願いします。

東京プレヤーセンターの「365日礼拝」で説教させていただくのは、今日が2回目です。前回はなんと4年も前の、2016年4月16日でした。

「あれから40年!」という落語がありました。40年ほどではありませんが、前回からの4年の間に、私の身に大きな変化がありました。個人的な近況報告は場違いかもしれませんが、今日の話に関係すると思うところがありますので、最初に触れることをお許しください。

第一の変化は、引っ越ししました。4年前は千葉県柏市に家族と共に住んでいました。今は昭島教会の牧師館にひとりで住んでいます。2人の子どもが2年前にそれぞれの学校を卒業し、就職しました。同じタイミングで私が昭島教会の牧師になりました。妻も自分の職業を持っています。家族の職場が昭島市から遠いので、私が単身赴任することにしました。

第二の変化は、いま申し上げたとおり、2年前に昭島教会の牧師になりました。前回は千葉英和高等学校で聖書を教える常勤講師でした。今回は昭島教会の牧師であると共に、明治学院中学校東村山高校の非常勤講師です。非常勤講師は1年契約です。契約期間は明日3月31日までです。契約が更新されるかどうかは明後日4月1日まで非公開です。更新されそうかどうかは私の顔でご想像いただきたいです。今日はマスクをしているのが残念ですが。

さらに、第三の変化としてカウントするのは早いのですが、と言いますのは、これも公開可能になるのは明後日4月1日だからですが、もうひとつ別の学校でやはり聖書を教える非常勤講師をすることが内定しています。学校の名前を言うのもフライングですので、やめておきます。

それより前に、これはすでに確定していることですので第三の変化だと言えますが、2年前の2018年4月から昨年2019年3月まで1年間、牧師をしながらアマゾン八王子フルフィルメントセンターで肉体労働のアルバイトをしました。30年前に東京神学大学を卒業してから教会の牧師しかしたことがありませんでしたので、この第三の変化が人生最大の意味を持っています。

個人的な近況報告が長くなって申し訳ありません。申し上げたかったのは、前回と比べて今回の私は非常にパワーアップしています、ということです。最も大きな変化は、アマゾンで筋肉がつきました。クマと戦っても勝てそうな気がします。

さて、今日朗読していただいた聖書の箇所は、マタイによる福音書26章の63節と64節です。ここに記されているのは、わたしたちの救い主イエス・キリストが十字架にかけられる前の夜、弟子たちと共に最後の晩餐をなさった後に逮捕され、大祭司カイアファの屋敷に集まった祭司長たちと最高法院の議員による裁判をお受けになった場面です。

今わたしたちは「受難節」を過ごしています。それで、この箇所を選ばせていただきました。大事な点は、イエスさまが「黙り続けておられた」(63節)と記されているところです。

直前の節に「そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか』」(62節)と記されているとおり、イエスさまは何を言われても、沈黙しておられました。

大祭司が「お前はメシアなのか」と尋ねてきたときだけ、「それは、あなたが言ったことです」(63節)と答えておられます。これで分かるのは、イエスさまは一切口を閉ざして、ひとことも何も言うまいと心に誓っておられたわけではない、ということです。

もし言うべきことがあれば言う姿勢でおられました。しかし、言うべきでないことについては、沈黙なさっていました。

なぜイエスさまが沈黙なさっておられたかは、イエスさまに教えていただく以外にありません。しかし、思い当たることがないわけではありません。それを一言でいうと、あくまでも私なりの理解ですが、このときイエスさまはだれかをかばっておられたということです。

それはもちろん、イエスさまが何かをお語りになることによって不利な立場に立つ人々です。その人々は、大きく分けるとふたつのグループに分かれると私は理解します。

第一のグループはイエスさまの弟子たちです。今日の朗読箇所の前後に記されているとおり、使徒ペトロがイエスさまの裁判の様子を見に、大祭司カイアファの屋敷の庭まで来ていました。そのことを、イエスさまはご存じでした。マタイによる福音書は記していませんが、ルカによる福音書に「主は振り向いてペトロを見つめられた」(22章61節)と記されています。だからこそ、ペトロは号泣したのです。

自分が近くにいることをイエスさまはご存じだったと分かったので泣いたのです。イエスさまのことを三度も「知らない」と言っているペトロの声が聞こえていたかもしれないのに、「おい、お前、おれだけ置いて逃げるな、卑怯者」とペトロにおっしゃらなかったイエスさまのお気持ちが分かったからこそ、ペトロは泣いたのです。

しかし、それだけではありません。もうひとつのグループがあると私は理解します。皆さんを驚かせてしまうかもしれません。もうひとつのグループは、その場所にいた祭司長と最高法院の議員たちです。その人々に対して、イエスさまは「かばう気持ち」をお持ちでした。だからこそ、イエスさまは沈黙しておられました。

どういうことでしょうか。イエスさまを苦しめている相手を、イエスさまがかばっておられたと私は言っています。そんなことがありうるでしょうか。しかし、わたしたちもそういうことを全く考えたことがないだろうかと自分の胸に手を当てて考えてみるとよいのです。ただし、そこで必ず、別の次元の事柄が入り込んで来るだろうと思います。

私を苦しめている人々がいる。しかし、その人々が、まさにいま、私を苦しめることにおいて罪を犯している。私が何かを言えば言うほど、その人々がうそをつき、でたらめを重ねる。偽証の罪を増やしていくことになる。その罪をこれ以上その人々が犯さないように、私は沈黙する。こういうことをわたしたちが、いまだかつて一度も考えたことがないだろうかと、自分の記憶を探ってみたらよいのです。私は「ある」と思います。

この文脈で私の話に戻すのはよろしくないかもしれません。しかし、もうひとつ変化がありました。第四の変化です。それは、千葉英和高校で働いた翌年の2017年4月から2018年3月までの1年間、「無職」を味わったことです。それは苦しい一年でした。

しかし、なぜそうなったのかについては割愛します。私が自分を正当化しようと思えばいくらでもできます。あえて「沈黙」します。考えてもみてください。教会の牧師たちが苦しみに合うことがあるとしたら、ほとんどは「教会で」受ける苦しみです。しかし、そんな話を牧師である者が教会の外に出すことはできません。神の御前で恥ずかしいことです。そこで牧師は、教会を「かばう」必要があります。

かっこうつけたいのではありません。イエスさまと自分を横に並べて誇るつもりもありません。「沈黙」には自分を守る意味もあります。「あの人が悪い」「あの教会が」「あの牧師が」と言い出せば、きりがありません。相手も必ず反論してくるでしょう。報復が起こるでしょう。

そういうのを「泥仕合」と言います。私の手元にある『広辞苑』は古い第4版だけです。その中に「泥にまみれて争うこと。転じて、互いに相手の秘密や弱点や失敗を暴露し合う、みにくい争い」と定義されています。

この「みにくい争い」をイエスさまは、祭司長や最高法院の議員にさせたくなかったのです。その人々も「神に仕える」立場にある人々です。その人々の泥仕合は「神の前で」恥ずかしいことです。だからこそ、イエスさまは「沈黙」なさったのです。そのように私は理解します。

イエスさまは弟子たちをかばい、御自分を十字架につけて殺そうとしている人々さえもかばい、おひとりで十字架を背負われました。「そこに愛がある」と、最初の教会の人たちが信じました。新約聖書の著者たちもそのように信じました。わたしたちはどのように信じるべきでしょうか。「それは各自で決めることです」としか、私には言いようがありません。

しかし、これもかっこうつけて言うつもりはありませんが、わたしたちがやはり、自分の胸に手を当てて思い出す必要があります。いまだかつてただの一度でも、「泥仕合」で問題が解決したことがあったでしょうか、なかったのではないでしょうか、ということを。「互いに相手の秘密や弱点や失敗を暴露し合う、みにくい争い」(広辞苑第4版の「泥仕合」の定義)のことです。

一時的には、すっきりした、せいせいした、溜飲が下がった爽快感を味わえるかもしれません。しかし、その次の瞬間は地獄です。いずれ報復されることを覚悟しなければならないでしょう。何の解決にもならないことは目に見えています。

東京プレヤーセンターで私の3回目の出番があるかどうかは分かりません。しかし、もし次回のチャンスをいただくことができるなら、さらにパワーアップして帰って来たいと願っています。

(2020年3月30日、東京プレヤーセンター礼拝、御茶ノ水クリスチャンセンター404号室)

2020年3月22日日曜日

香油を注がれた主

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-5)

ヨハネによる福音書12章1~8節

関口 康

「イエスは言われた。『その人のするままにさせておきなさい。』」(7節)
 
おはようございます。今日もマスクをしたままでお許しください。そして先週と同じように、時間を短縮してお話しいたします。

今わたしたちは受難節を過ごしています。わたしたちの救い主イエス・キリストの御受難を覚える季節です。しかしまた、折しもわたしたち自身が苦しみを味わっています。

わたしたちが味わっているのは「不安」の苦しみです。それは決して小さいものでも軽いものでもありません。世界がこれからどうなっていくかをだれひとり知りません。

だからこそ、今のわたしたちに最も必要なのは「心の平安」です。それは安心であり、平和です。そして、安心してもよいだけの「根拠」です。それが無い、あるいは分からないから、偽りの情報に翻弄されたりしています。

しかし、なんとかして、自分の心に強く言い聞かせてでも、落ち着きましょう。冷静であることが大事です。

いま私の心にしきりに去来する言葉があります。それは、16世紀ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが言ったとされながら出典は不明であるとされている「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える」という言葉です。

「世界が滅ぶ」などという言葉を今の状況の中で使いたくありませんが、大事なのは後半です。「私は今日りんごの木を植える」です。出典が不明である以上、マルティン・ルターの言葉だと断言することはできませんが、とにかく大事なことが言われているのは確かです。

どれほど不安なときも、明日世界が滅亡することが分かったとしても、そんなことはどうでもいいことだと軽く考えて、そんなことよりも神さまのおられる天国だけを見上げていればよいのだ、それでいいのだというようなことを私が言いたいわけではありません。そんな考えはよぎりもしません。

そうではありません。「わたしは今日りんごの木を植える」のです。落ち着いて、日常的な地上の事柄に取り組み、汗を流すのです。労働のたとえが含まれているかもしれません。働いて疲れて横になれば、ぐっすり眠ることができるでしょう。

今日朗読していただいた聖書の箇所に記されているのは、「過越祭の六日前に」(1節)イエスさまがベタニアという村に行かれ、ひとつの家庭に迎えられ、食事をなさった場面です。

そこにマルタ、マリア、ラザロの3人姉弟がいました。末の弟のラザロについては、病気にかかり一度死んだのにイエスさまによってよみがえらされたという驚くべき出来事があったことが、ヨハネによる福音書の11章1節以下にかなり詳しく記されています。

マルタとマリアについては、ルカによる福音書10章38節から42節に出てくる話がよく知られています。今日の箇所にも記されていますが、マルタは「給仕」の役回りだったようです。

そして妹のマリアは、ルカによる福音書に描かれていることとしては、お姉さんが給仕している最中でもイエスさまの前に座り込んで、じっと話を聞く。それでお姉さんの怒りを買ってしまうタイプの人でした。

この3人姉弟をイエスさまは心から愛しておられました。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(11章5節)と、ひとりひとりの名前を挙げて記されているとおりです。

そして、その3人と共にイエスさまは「過越祭の六日前に」食事をなさいました。六日後が過越祭であることは、イエスさまはもちろんマルタもマリアもラザロも知っていました。過越祭にもイエスさまは食事をなさいました。それが、12人の弟子たちと共に過ごされた「最後の晩餐」です。

ベタニアの3人姉弟の家で食事の前だったか、最中だったか、終わってからだったかは今日の箇所だけでは分かりませんが、マリアが半ば唐突に「純粋で非常に高価なナルドの香油」を一リトラ(約326グラム)持ってきて、イエスさまの足に塗り、自分の髪でぬぐいました(3節)。

もし食事の前あるいは最中だったとしたら、強烈な香りで食事がぶち壊しになったと考えられなくもありません。もしそうだとしたら、そういうことを後先考えず、迷惑をかえりみず、唐突にできてしまうマリアは、なんらかの配慮が必要な存在だったかもしれません。

そこで腹を立てたのがイスカリオテのユダでした。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)と言いました。

「1デナリオン」は、当時の労働者の1日の賃金です。それの300日分です。ひとりの労働者のほぼ年収です。

なぜ、それほど高価な香油がその家にあったのかは分かりません。憶測はよろしくありませんが、いろいろ想像できなくはありません。

それをマリアはイエスさまにささげました。お金に換えて別のものにしてではなく、ナルドの香油そのものをイエスさまのために使いました。「なぜそんなことをするのか、もったいない」とユダのようなことは考えないで。「純粋で非常に高価なナルドの香油」そのものをイエスさまに、マリアはささげました。

もっとも、ユダは「貧しい人々のことを心にかけていたから」そのように言ったわけではないと、ヨハネによる福音書は説明しています(6節)。別の理由があったのだ、と。しかし、この点を掘り下げていきますと別の話になりますので、今日は割愛いたします。

そのときイエスさまは、「この人のするままにさせておきなさい」とおっしゃいました。「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」(7節)と。

お金の使い道の話にしてしまうのは単純すぎるかもしれません。しかし、こういう使い方なら意味があるが、そういうことなら意味がないと、わたしたちもしょっちゅう考えたり議論したりします。

イエスさまのために使うのは無駄でしょうか。イエスさまへの愛と敬意、そして信仰のために、価値あるものを差し出すことは無意味でしょうか。イエスさまは、マリアのささげものを喜んでくださいました。わたしたちのささげものをも喜んでくださるでしょう。

他人(ひと)がすることを「それは無駄だ無意味だ」と非難することは、わたしたちもついしてしまうことです。社会や個人の経済が不安定なときはなおさらです。しかし、ここで最初の話に戻します。社会や個人が不安なときにこそ必要なのは「心の平安」です。

今日わたしたちが教会に集まってきたのは、それを得るためだったのではありませんか。私もそうです。他のどんな方法でも得ることができない「心の平安」を、ここ(教会!)に来れば得ることができると思ったからこそ集まってきたのではありませんか。私もそうです。

どうやら今日わたしたちが植えている「りんごの木」は「教会に来ること」でした。それが無駄だ無意味だと、イエスさまは決しておっしゃいません。

今申し上げていることに、今日の礼拝出席をお控えになっている方々を責めたり裁いたりする意味は全くありません。教会としての姿勢は「決して無理をしないでください」と毎週の週報に繰り返し書いているとおりです。

自宅で待機しておられる方々のために、そして全人類のために、共に祈ろうではありませんか。

(2020年3月22日、日本キリスト教団昭島教会主日礼拝)

2019年12月8日日曜日

遣わされた神の御子


ヨハネによる福音書5章31~47節

関口 康

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」

今日はアドベント(待降節)第2主日の礼拝をささげています。しかし、私は今日の説教を、アフガニスタンで先週水曜日12月4日に銃撃を受けて亡くなられた中村哲さんのお名前を語らずに始めることに困難を覚えます。今日アフガニスタンで中村さんの国葬が行われるそうです。

しかし、たいへん申し訳ないことに、私は中村さんについてほとんど何も知らずに生きてきました。いま住まわせていただいている牧師館で役員会の許可を得て教会のテレビをお借りしていますが、私は1年以上前からテレビを見る習慣を失ってしまい、今回のことについてもテレビのスイッチを入れる勇気がわいてきません。

私が中村哲さんの名前を最初に知ったのは30年前です。私が東京神学大学大学院を1990年の春に卒業して最初に赴任したのが日本キリスト教団四国教区の南国教会でした。同じ高知分区のひとつの教会に、もう亡くなられましたが、医師をしておられた役員さんがいました。その方とはすぐに親しいお交わりをいただくようになりましたが、その方がおっしゃったことが、私はペシャワール会の中村哲さんを応援している、高知支部の責任者であるということでした。

それが1990年でした。その方からペシャワール会を紹介する本をいただいた記憶があります。その本は私の蔵書に今でもあると思いますが、見つけることができていません。

しかし、それだけです。その後は中村さんのことを全く知らずに生きてきましたので、その私に何かを語る資格はありません。しかし、ここ数日インターネット経由で流れてくる情報の中で、中村哲さんがクリスチャンだったということと、福岡にあるミッションスクールの西南学院中学校の卒業生だったということを知りました。中学時代に聖書に触れ、その後信仰を与えられ、洗礼を受けて、バプテスト教会に属するクリスチャンになられたそうです。

「それだから」大きな働きをすることができたのだ、というような関連づけをするのは、よろしくないでしょう。まるでクリスチャンでない人は大きな働きができないかのように響いてしまいかねません。しかし、人類の歴史に残るような大きな働きをしてこられた中村さんの歩みの原点が、中学時代に学校で学んだ聖書の教えであったということを知ることができたことで、私はとても励まされる気持ちになりました。

聖書を学ぶ人のすべてがそうなるという意味ではありません。しかし、たとえば私が今、明治学院中学校と東村山高校で聖書を教えている生徒の中から、将来、大きな働きをする人物が現れた場合、それは学校の手柄ではないし、教師の手柄でもありません。聖書の教えそのものがそれだけの力を持っていると言わねばならないでしょう。

しかしまた、今申し上げていることについて、別の観点から考えさせられたことがありました。それは、中村さんがクリスチャンだったというならなおさら、どうして神さまは中村さんの命を守ってくださらなかったのか、あのような惨たらしい最期を迎えることになったのかと、そのように考える方がおられるのではないかということです。神さまという方は、人の努力に全く報いてくださらない、なんと冷たいお方なのだろうかと。

わたしたちの神さまは、困った人を助けてくださり、病気の人をいやしてくださり、死んだ人をよみがえらせてくださり、求める人に永遠の命を与えてくださり、その神さまと共にわたしたちは、地上の人生を終えたのちも、天国において神と共に永遠に生きることを約束してくださっているのではないのだろうか。もしそうだというなら、中村さんがクリスチャンであったという事実とあの方の人生の最期の姿は矛盾するのではないだろうかと。

中村さんについての話をこのままずっと続けようとしているわけではありません。すでにお気づきの方がおられると思いますが、先ほど朗読された今日の聖書の箇所に記されていることが不思議なほど噛み合ってきています。

イエスさまは弟子たちに、あなたたちは聖書を勉強すれば永遠の命を与えられると思って、そういう動機があるから聖書を勉強しているわけでしょう、とおっしゃっています。しかも、ここで説明が必要なのは、聖書に記されている意味での「永遠の命」とはどのようなものかということです。

日本に住んでいるわたしたちが「永遠の命」とか「天国」とかいう言葉を聞くとどうしても思い浮かべるであろうイメージは、地上の時間的な人生が終わった後に、天使の翼が与えられて空の彼方に飛んでいき、そこに行けば神と共にまさに永遠に生きることができる、地上の世界とは全く無関係の別の国に移される、というようなことです。

しかし、聖書の意味での「永遠の命」はそういうものではありません。それがどのようにして実現するかについてはともかく、地上の時間的な人生がどこまでも続き、地上の世界が天国さながらになるというほうが、聖書の教えです。

その意味で、人は死なないのです。死んでもよみがえるのです。よみがえって再び地上の世界に戻ってくるのです。地上の世界が永遠に続くのです。だからこそ、地上の世界と地上の命は大事にしなくてはならないのです。いま送っているこの人生は、どうでもいいものではないのです。

その実現方法が聖書に記されているので、それを学ぶために聖書を研究する。それがあなたがたの聖書研究の目的でしょうと、イエスさまが言っておられます。しかし、イエスさまは、そのような聖書の学び方は間違っているとおっしゃっているのです。

そうではなく、聖書はこの私を、イエス・キリストを証ししていると、イエスさまがおっしゃっています。この本に書かれているのは私のことだよと、イエスさま御自身が御自分を指さしながらおっしゃっているのです。

しかし、それに続く次の言葉が気になります。「それなのに、あなたたちは、命を得るために、わたしのところへ来ようとしない」。この「命」の意味も、永遠の命です。これで分かるのは、イエスさまは、永遠の命を得る方法を知るために聖書を研究すること自体が間違っているとおっしゃっているわけではない、ということです。

そうではなくイエスさまは、そのために「わたしのところへ来ようとしない」ことが間違っているとおっしゃっています。永遠の命は欲しいので、そちらには近づくが、それを得るためにイエス・キリストには近づかないわけです。

その気持ちは、よく分かります。永遠の命を得るためにイエス・キリストのほうに行くとどうなるかは、わたしたちはよく知っていることです。

イエス・キリストは、まさに御自分の命を投げ出し、困っている人を助け、病気の人をいやし、悩んでいる人の相談に乗り、多くの人々をまさに救ってくださいました。しかし、その結果として妬まれたり嫌われたりし、とうとう御自身は十字架にかけられて殺されるという残酷な最期をお迎えになるのです。

それは大変なことだということは誰でも分かることなので、できるだけラクな道を通りたい人はイエス・キリストのほうの道を決して通ろうとしないのです。しかし、イエス・キリストのほうの道を通ろうとする人は、イエス・キリストが味わったのと同じ苦しみを味わうのです。

中村哲さんの話に戻すことは、もうしません。ここから先はわたしたち自身の問題です。

わたしたち自身は、イエス・キリストではありませんし、救い主でもありません。もし仮に、わたしたち自身が十字架にかけられて死んだとしても、わたしたちの死が世の罪の贖いになるわけではありません。イエス・キリストによる贖いのみわざは、すでに完成しています。わたしたちはそれになにひとつ付け加えることができませんし、そうする必要がありません。

しかしまた、それではわたしたちにできることは何もないのかというと、そうではありません。わたしたちはイエス・キリストの死にあずかることができます。イエス・キリストの死のさまにあやかり、ならうことができます。それは、へりくだって世と人に仕え、自分の命を投げ出して献身と奉仕の人生を送り、それを全うすることです。

それはわたしたちに可能なことです。あの先生にしかできない、あの人にしかできない、というようなことではありません。すべての人に可能です。クリスチャンではない人にも可能です。

イエス・キリストは、わたしたちの人生の模範になってくださるために、父なる神のもとから遣わされた神の御子なのです。

(2019年12月8日、日本キリスト教団昭島教会)

2019年9月1日日曜日

信仰の証し


ヤコブの手紙1章19~27節

関口 康

「あらゆる汚れとあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉はあなたがたの魂を救うことができます。」

今日は主任牧師の説教の当番日ですが、昨日の午後4時頃お電話があり、「体調がすぐれないので、もしかしたら明日教会に行けないかもしれない」とお知らせいただきました。

「そういうときのための副牧師ですので、ご安心ください」とお返事し、その後ただちに説教準備を始めました。予告なく説教者が変更となりましたことをお詫びいたします。

主任牧師はもっと以前からですが、私は今年4月から聖日礼拝の聖書箇所を日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選んでいます。週報に印刷した今日の聖書箇所は、もし今日が私の説教担当日だったとすれば、私も必ず選んだ箇所です。

新約聖書のヤコブの手紙は、私の大好きな書物です。なぜ大好きなのかと言えば、「どんなことにも両面ある」ということを深い次元で教えてもらえる書物だと思えるからです。

何がどのように「両面」になっているのかは、この手紙を読めば分かります。先ほど朗読していただいた範囲だけでも分かりますが、最も鮮烈な響きを持つ言葉が2章18節に記されています。

「しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」。

2章20節にも同様のことが記されています。「ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか」。

新共同訳聖書の中で「愚かな者」と訳されている箇所はすべて「バカ」と言っているのを和らげているだけです。バカ野郎と言っています。

これで著者ヤコブが何を言おうとしているのかについては説明を加える必要があると感じます。しかし、著者自身が言葉を変え、角度を変え、視点を変えながら自分で説明しようとしています。

著者が最も言いたいのは、行いが伴わない信仰はむなしい、ということです。それはもはや信仰ではない、ということです。

著者がなぜこのようなことを、ものすごく強い調子で、まるでだれかを叱り飛ばしているかのような勢いで書いているのかについては、物事を論理的に順序立てて考えた結果として出てきた抽象的な結論がこうであるというような事情ではないと思われます。何らかの具体的な「事件」が背景にあると思われます。

しかも、それはおそらく、信仰者の共同体としての「教会」の内部で起こったであろう出来事です。あろうことか教会で、とんでもないことが起こった。しかもそれは、一度や二度でなく、恒常的に続いている。

具体的に何があったのかについては、本当のところは分かりません。しかし、それを読むだけで当時の情景がありありとした映像として浮かんでくるような描写が2章2節以下に出てきます。次のように記されています。

「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」。

こういうことが当時の教会の中で実際にあったのか単なるたとえなのかは分かりません。そして、はっきり言いますが、教会は金の指輪をしてはいけないところだと思わないでください。「ああ、しまった。今日は金の指輪をつけてきてしまった」と手を隠したりしないでください。そんなことを言いたいわけではありません。

もうひとつの面も同様です。書いてあるとおりではありますが、「汚(きたな)らしい服装」とはなんだ、どういう状態を指して「汚らしい」と言うのか、失礼ではないかと、私もこの箇所を読んでいて、むかむかします。「申し訳ありません」と著者に代わってお詫びしたくなります。

それらのことが枝葉末節であると私は決して思いません。しかし、著者の意図をくみとる必要があると思います。

身なりとか経済的格差とかで人を分け隔てし、「あなたはこちらの席に座ってください」とか、「あなたには席がありません」とか、そんなことを言い出すのが教会だとしたら、そんなものを信仰の共同体と呼ぶことができるのですか、できるはずがないではありませんかと、厳しいかもしれませんが、きわめて真っ当な問いかけがなされていることは間違いありません。

しかし、次のことも言っておきます。わたしたちがはっきり気づかなければならないのは、このようなことを書くのは、教会を心から愛している人だということです。教会などどうでもいいと思っている人は、こんなことは書けません。言っても意味がありません。

最初に私が、ヤコブの手紙が大好きだとする理由として、「どんなことにも両面ある」ということを教えてくれるからだと言いました。しかし私は、いま申し上げたことを次のようなことだと誤解されたくありません。

人を分け隔てするなんらかの「忌まわしい」事件が当時の教会の中に実際にあったと仮定したうえで、「しかし、そうは言っても、現実の教会はヤコブが書いているとおりである。教会も人間の集まりなので差別は当然ある。どんなことにも両面ある」というようなことを、私が言おうとしているのではありません。

言い方は悪いですが、教会を外から眺めるだけで批判している人たちがいます。ひとつふたつの教会を体験して、「ここもあそこも同じだった。私は教会の中でひどい差別を受けた。だから私はすべての教会が信用できない」とおっしゃる方々もおられます。

そのような方々が、教会であるわたしたちへと向ける厳しい視線に、わたしたちが鈍感であるわけには行きません。しかし、本当にそうなのかと、私は言いたくなります。すべての教会がそうであると言えるのか。

教会のわたしたちのだれもかれもが「そうは言っても現実はね」と、物陰でぺろりと舌を出して、ほくそ笑んでいるのか。本当にそうなのか。

私は今、べつに怒っているのではありません。しかし、あまりにも一方的で一面的な中傷誹謗のようなことを言われると、黙っていられなくなるところが私にはあります。ひとつふたつの教会だけ見て、そこで苦痛を味わったという理由で、すべての教会を非難するのは「木を見て森を見ず」ではありませんかと。

「どんなことにも両面ある」と私が申し上げたのは、そのような意味ではありません。そんなことを言いたいわけではありません。

それでは、それは何のことかをそろそろ言わなくてはなりません。それは、聖書や教会の歴史や神学を学んでこられた方々は「ああ、あのことか」とすぐにお察しになるであろうことです。しかし、専門家同士の間だけでしか分からない言葉で会話しても意味がありませんし、それこそ差別に通じます。言い方を換えなくてはなりません。

それで思い至ったのは、一カ月ほど前(7月28日)、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙を聖日礼拝で取り上げてお話ししたことです。それを思い出しました。パウロとペトロが大げんかしたことが書かれていた、あの手紙です。

あのガラテヤの信徒への手紙において使徒パウロが書いていたことが、今日のヤコブの手紙に書かれていることと真っ向から対立する、正反対の内容になっているというのが「どんなことにも両面ある」と私が申し上げたことの趣旨です。

パウロが次のように書いています。

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(ガラテヤ2章16節)。

パウロがはっきり書いているのは、わたしたちが救われるのは信仰によるのであって、行いによるのではない、ということです。行いのない信仰によってわたしたちは救われるのであって、行いは問われない、ということです。

それに対して今日のヤコブの手紙が書いているのは、行いのない信仰を見せてみろ。それほどむなしいことが他にあるのか、ありえないということになりますので、パウロの手紙とヤコブの手紙を並べて読むと「どんなことにも両面ある」と言わざるをえなくなるという次第です。

しかし、ここで私はみなさんにお尋ねしたいのです。「どちらが正しいか」という議論が必要でしょうか。そのような議論は要らないと私は思います。だって両方正しいですから。わたしたちが救われるのは信仰によるのであって、行いによるのではない。しかし、行いが伴わない信仰はむなしい。どちらとも、どこも間違っていません。

そして、両者はあるグループと他のグループとに分かれて言い争うようなことでもありません。両者はむしろ、ひとりの人間の心の中の葛藤のようなものだと言えます。

あるいは、私が子どもの頃によく見ていたアニメの「トムとジェリー」の関係。仲良くけんかするネコとネズミの関係。

もしそうだとすれば、一方が他方の反省材料になると思います。わたしたちの信仰を点検する必要があるときに、わたしたちの行いをチェックする。わたしたちの行いを点検する必要があるときに、わたしたちの信仰をチェックする。

両者に共通しているのは、教会を心から愛する思いです。そこは一致しています。

(2019年9月1日)

2019年8月18日日曜日

隣人を自分のように愛しなさい(行田教会)

日本キリスト教団行田教会(埼玉県行田市)

ローマの信徒への手紙12章9~21節

関口 康

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」

みなさま、おはようございます。今日は行田教会の特別伝道礼拝の説教者として初めてお招きいただき、ありがとうございます。

今日の聖書箇所は日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』の今日の箇所です。なぜわざわざこのことを言うのかといえば、私の心の中に、行田教会の皆さんにこういうことを言ってやろうと企むものがあらかじめあって、それに合う聖書の箇所を選んだというような事情ではない、と申し上げたいからです。そのような企みも下心も、私にはありません。

そして、初対面の皆さまですので、距離を縮めるために自己紹介のようなことをお話ししたい気持ちが起こってこないわけではありません。しかし、今日の午後、ごちそうをいただきながらの懇談の時間が設けられているとのことですので、自己紹介は午後にします。すぐに聖書のお話に入らせていただきます。

しかし、ひとつ、西川晃充先生が今日の週報に書いてくださった私の略歴の中に、現在の私が教会の牧師をしながら中学と高校で聖書を教えているという点がありますので、そこだけは触れさせていただきます。

今の学校で教えるようになったのは、今年4月からです。夏休み前の4か月がやっと終わっただけです。1学期の中学の授業で取り上げたテーマが「キリスト教の隣人愛」でした。それが今日の聖書の箇所のテーマと共通していますので、私の中で結びつくものがあります。

多感な生徒たちが実にいろんな反応をしてくれました。学期末レポートを書いてもらいました。そのレポートを読むのが私の夏休みの宿題です。今それに取り組んでいる最中です。その影響が今日の説教にも出るかもしれません。そのことをご了解いただきたいと思いました。

さて、今日開いていただいた聖書の箇所は、新約聖書のローマの信徒への手紙の12章9節から21節までです。私はこの箇所を開くたびに思い出すことがあります。それがいつだったのかも、そのように教えてくださったのがどなたであるかも覚えていませんので、あやしい耳学問で申し訳ないのですが、とても印象に残っています。

それは、今日の箇所の冒頭の「愛には偽りがあってはなりません」(9節)から始まり、13章10節の「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです」まで続く一連の記事は「愛」というテーマで貫かれている。これを「愛の鎖」と呼ぶ、という説明です。

ラブ・チェーンでしょうか、チェーン・オブ・ラブでしょうか、どちらでもいいと思いますが、鎖のようにすべてがつながっているというわけです。「愛の数珠つなぎ」のほうが分かりやすいかもしれませんが、数珠(じゅず)というより鎖(くさり)。

そして、この箇所を「愛の鎖」と呼ぶと説明してくださった方が教えてくださったと私は記憶していますが、途中に挟まる形で別の話題が出てきているようでもある13章1節から7節までの「支配者への従順」という段落も、やはり同じ「愛の鎖」の文脈の中で理解すべきであると説明されました。そのことも私にとっては驚くべきことだったので、記憶に残っています。

13章1節から7節までに書かれているのは、国家権力との関係の問題です。使徒パウロは国家権力に対して従順であれと教えています。そのこと自体は隣人愛の問題と何の関係もないことのように感じられます。

しかし、かつて私に、この箇所を「愛の鎖」と呼ぶと教えてくださった先生は、13章1節以下も関係があるとおっしゃいました。どのように関係しているのかを説明してくださったかどうかまでは覚えていません。ですから、ここから先に申し上げるのは、その方から教えていただいたことではなく、私の考えです。

隣人愛の問題と国家権力の問題が結びつくかもしれないと思えるのは、12章19節以下に出てくる「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」という言葉です。「隣人を愛する」ということは、何をされても自分で復讐しないことを意味する。悪は神が裁いてくださるのだ、というわけです。しかし、「神が悪を裁く」とは、具体的に何がどうなることでしょうか。その具体性を考える必要があると思います。

たとえば、わらで人形を作って釘で打つようなことをすれば、直接手を下さなくても、祟りや呪いなどの形で相手に災いが降り注ぐというようなことなのか。そのような呪術的な話なのか。それとも、悪に対しては国家権力や法秩序が厳正に対処するので個人的な復讐はしてはならない、という意味なのか。もし後者だとすれば、隣人愛の問題と国家権力の問題は、なるほど結びつくところが出てきます。

いまお話ししているのは、今日の箇所に記されている事柄からすれば脱線しています。しかし、今日の箇所の12章9節から21節までよりもさらに広がる13章10節までの全体を「愛の鎖」としてひとまとめにして見ることが大切だということを、まずお話ししたいと思いました。

そして、その全体を通して読むと、だんだん分かってくることがあります。それは、隣人愛についてパウロが書いていることは、どちらかというと動きが少ないということです。「隣人愛とは具体的に何をすることなのか」という問いをもって読んでも、その答えに具体性がほとんどないということです。

1節ずつ見ていくと、いま私が申し上げていることの意味をご理解いただけると思います。

今日の箇所に記されていることの中で、能動的な行為であると言いうるのは、「たゆまず祈りなさい」(12節)と、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」(13節)と、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」(14節)と、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(15節)と、「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」(16節)、そして先ほど触れた「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(19節)です。

なんだ、「すること」は、たくさんあるではないか、具体性もあるではないかとお思いになるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。この箇所でパウロが勧めている隣人愛の行為は「祈ること」と「助けること」と「もてなすこと」と「交わること」です。しかも、それらの内容について、具体的なことは何も書かれていません。

もちろん、それらがすべて能動的な行為であることは間違いありません。しかし、それでは、それは具体的に何をすることでしょうか。どのような祈り方、どのような助け方やもてなし方、どのような交わり方が、キリスト教に基づく隣人愛の具体的なあり方でしょうかと問われると、答えるのが急に難しくなると思います。

とても印象的な言葉として「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(15節)と記されていますが、これは何をすることでしょうか。俳優が演技や芝居として笑ったり泣いたりするのとは違うことでなければならないはずです。

「よし、ここは笑う場面だ」「よし、ここは泣く場面だ」と自分の感情を意図的にコントロールして喜んだり泣いたりしなさいと言われているわけではないはずです。作為的に喜んであげるとか、作為的に泣いてあげる、というようなことではないはずです。そんな芝居はすぐにばれますし。ここで言われているのは、もっと自然なことでしょう。

もしそうだとすれば、今日の箇所でパウロが勧めている「隣人愛」とは、具体的に言って何をすることでしょうか。パウロは「何をしなさい」「何をしなさい」と多くのことを書いているようでもありますが、そのひとつひとつの勧めの具体性を探しても、ほとんど何も見当たりません。

これで分かるのは、少なくとも今日の箇所で使徒パウロが勧めている「隣人愛」の形は、能動的というより受動的であるということです。

積極的というより消極的です。動的(ダイナミック)というより静的(スタティック)です。隣人愛のためにこれこれこういう何かをするというより、どちらかというとじっとしていることのほうが多く、見て感じて受けとめる姿勢です。前に出ていくのではなく、「悪に悪を返さない」「自分で復讐しない」「自分を賢い者とうぬぼれない」と、後ろに引き下がる方向です。

私はそれでいいと思っていますので、パウロを擁護します。「あなたの擁護は要らない」と断られるかもしれませんが。それは、もしかしたら、相手に伝わりにくい愛の形です。激しい怒りを買うかもしれないほどに。

わたしたちに求められている「愛」の形は、そういうのとは全く違うかもしれません。高価なプレゼントをあげる。あなたの長年の夢を実現してあげる。行きたければ月でも火星でも連れて行ってあげる。大きな家を建ててあげる、それが「愛」だと。能動的で、積極的で、ダイナミックな隣人愛には、具体的に目に見える形があるはずだと。しかし、パウロが書いているのは、その正反対であるということです。

私はパウロが書いていることのほうが、今のわたしたちにとっての慰めになり、希望になると思う次第です。

教会も、社会も、個人も、みんな貧しくなってしまいました。昔はもっと羽振りが良かったのに。今は、お金もないし、してあげられることは何もない。そのように多くの人が感じている、今はそのような時代です。

プレゼントしたくても、できない。何かしてあげようと思っても、できない。持っていたものは、何もかも失った。

それでも、あなたを愛している。大切に思っている。祈っている。そんなのは何の足しにも助けにもならないかもしれないけれども、それでもあなたを愛している。

今日の箇所に記されていることを、もしそのように理解してよいなら、多くの人が救われると思います。私も救われます。お金や生活のことで毎日苦労していますので。

救われるような、救われないような話になって、ごめんなさい。

(2019年8月18日、日本キリスト教団行田教会 特別伝道礼拝)

2019年7月21日日曜日

生命の回復


使徒言行録20章7~12節

関口 康

「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

こういうことは本当はすべて黙っていたい人間ではありますが、行きがかり上と言いますか責任上、何人かの方々にお知らせする必要があり、ご心配いただいていることでもあります。

先週木曜日に学校の今学期の私の仕事が終わりましたが、その翌日の金曜日の朝から激しい頭痛と全身の筋肉痛が始まり、熱まで出てきました。それで一昨日と昨日の2日間、牧師館でずっと寝込んでおりました。

今まで体験したことがないような強い頭痛でしたし、熱が出るのは10年ぶりくらいか、もっと前以来でしたので、いろいろ驚きました。

原因ははっきり分かります。私が担当している中高生の期末試験と提出されたレポート類の採点を、成績処理の締め切りに間に合うように一気にしました。それの反動が出たのだと思います。

前に働かせていただいた高校でも同じようなことをしなかったわけではありません。しかし、そのときの私は常勤講師でした。教会の責任は持っていませんでした。今年の私は非常勤講師です。教会の仕事が私の本業です。

駅前のドラッグストアでアイスノンを買ってきて、頭を冷やしてぐっすり休みましたので、今日はかなり大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません。

最初に私の話になってしまって、ごめんなさい。今日の聖書の箇所も、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に従って選びました。説教題の「生命の回復」も『日毎の糧』どおりです。

『日毎の糧』をどういう人たちが作っているのかを私は知りませんが、今日のこの聖書箇所と説教題で何を言わせようとしているのだろうと、つい考えてしまいました。

今日の箇所に書かれていることを、ざっとまとめます。このときわたしたちと同じように日曜日にみんなで集まって礼拝が行われていました。説教者は使徒パウロでした。パウロの伝道旅行の途中に立ち寄った地での礼拝でもあり、翌朝にはお別れすることになっていました。

それでおそらくパウロのほうも去りがたい思いを持ち、集まった人々のほうもパウロの言葉に熱心に耳を傾けていましたが、パウロの説教がどんどん長くなり、夜遅くなってしまい、それでもまだ続くものだから、つい寝込んでしまったエウティコという青年が、みんなが集まっていた建物の3階の窓から転落して死んでしまったというのです。

わっと騒ぎになったのでしょう。パウロもいったん説教を中断して、エウティコのところまで駆け寄り、抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」とみんなをなだめました。

しかし、ここでわたしたちにとっては驚くべきことが起こります。それは、パウロがまた元の位置に戻り、今のわたしたちがいわゆる「聖餐式」として受け継いでいるパン裂きの儀式を行い、夜が明けるまで説教を続けたことです。

パウロだからできたことでしょうか、二千年前だからできたことでしょうか。いずれにせよ、わたしたちにはいろんな意味で驚かされる話だと思います。

教会の礼拝だから特別扱いであるという面が全くないとは言えないかもしれません。しかし、大勢の人が集まっている場所で、ひとりの人が死んだというのです。それでもその集会をその時点で解散せずに、予定したプログラムが終了するまで続けるのは、いろんな意味で難しいことだと思います。

よほど動かしがたい行事の場合は、生き返ったのだから大丈夫なのだ、集会を続けましょうという話になるでしょうか。パウロ先生にお会いできるのは今日が最後だから、死んだ人のことなどどうでもいいという話になっていないことには安心します。とにかくパウロは説教を途中で中断して青年のもとに駆けつけ、抱き上げたと書かれているのですから。

ここで再び私の話になって申し訳ありません。皆さんにはまだお話ししていないことです。

2007年2月17日ですので12年前ですが、当時私が牧師をしていた教会の礼拝中に、私が救急車で運ばれたことがあります。当時41歳でした。

その教会では、説教者が聖書朗読をしてすぐに説教を始める方式をとっていましたが、私が講壇に立って聖書朗読を始めようとしたときに気を失い、聖書朗読も説教も続行不可能になりました。妻が救急車を呼んでくれて、教会の礼拝はそこで中断されました。

私の気持ちとしては説教原稿をどなたかに読んでいただきたかったし、礼拝を続けていただきたかったですが、そういう状況でなくなりました。申し訳ないことをしました。

そのときの原因も過労といえば過労ですが、直接的には脱水症状でした。12年前は、私の娘がまだ小学生でしたが、自分の目の前で、日曜日の礼拝中に、自分の父親が死んだと、一時本気で受け取ったようで、大きな声で泣いたようです。その声が聞こえないくらい、私は気を失っていました。

私の話はもうやめます。礼拝中に説教者が死ぬ(死ぬ死ぬと不快な言葉を重ねて申し訳ありません)、またはなんらかの事故で礼拝の続行が不可能になる場合がないわけではない、ということのひとつの実例として、私の恥ずかしい過去をさらしました。

しかし、これは本当に難しい問題であると私はとらえています。話の筋がずれるかもしれませんが、東日本大震災の直後の日曜日(2011年3月13日)の礼拝中、私がいた千葉県松戸市の教会でもかなり大きな余震がありました。東京の教会のみなさんも同じ状況を体験されたに違いありません。礼拝堂の窓が割れたかと思うほど激しい音までしました。

そういうときに、それでも神にささげる礼拝なのだから、中断など一切考えずに続行すべきであると考えてよいでしょうか。今日の箇所のようにエウティコが死んだのに、まだ礼拝を続ける、まだ説教を続ける、生き返ったのだから構わないという話になるでしょうか。

話の筋はずれているかもしれませんが、いろんな意味で考えさせられるテーマを含んでいると、今日の箇所を読み直して思わされました。

こういう話もしておく必要があるでしょうか。それは、今日の聖書の箇所に記されている出来事は、キリスト教信仰の根幹にかかわる「死者の復活」とは全く異なることであるということです。

二千年前の人々にとってのいわゆる死亡判定の基準がどういうものだったかは私には分かりませんが、今のわたしたちとは違うかもしれません。今の基準を調べてみました。こういうこともすぐ分かる時代です。

「睫毛(しょうもう(まつげ))反射の消失、対光反射の消失、心音の消失、呼吸音の消失、前腕の橈骨(とうこつ)動脈および頸動脈の触診、心電図モニターで脈拍ゼロの確認」で死亡診断となるそうです。最近大切なお身内を亡くされた方々もおられる前で、このような話をずけずけして申し訳ありません。

二千年前はどうだったでしょう。息をしていないし、心臓が止まっている。それで死んだという感じではなかったかと思います。AEDでドンと刺激すれば、心臓が動き出し、息を吹き返すかもしれない。今日の箇所の出来事は、そういう話だと思っていただくほうがよいと思います。奇跡的な出来事ではありますが、「死者の復活」とは全く異なります。

今日は日本キリスト教団の聖書日課に基づく聖書箇所と「生命の回復」という説教題でお話ししています。先ほどから考えさせられているのは、私は何を話せばよいのだろうということです。今もなおそのことを考えながら話しているところがあります。

冗談のような話にするわけには行かないのですが、今日の箇所からわたしたちが教訓として学びうることは、「ひとりの人が眠り込んで転落死するほど長い説教をしてはいけない」とか、「人がひとりみんなの前で死んだのに、それでもなお礼拝を続行しようとするのはいかがなものか」とか、そのようなことばかりが思い浮かびます。不謹慎で申し訳ありません。

しかし、今申し上げていることを私は、まるで冗談のような言い方をしてはいますが、きわめて深刻に受け止めている面があります。「私の話はもうやめます」と言いましたが、最初の話に戻ります。私が2日間寝込むことになった「原因」に。「せいにする」意味ではありません。

生徒たちが書いてくれた大量のレポートを赤ペンでコメントしながらすべて読みました。かなり多く出てくる意見は「礼拝の説教が長い」「退屈過ぎて死にそうだ」ということでした。

私の説教のことではありません。私の説教は中学校と高校それぞれ月に1回ずつだけです。しかし、そうでない意見もありました。「元気になる」「励まされる」「心が落ち着く」。そのように書いてくれた生徒も大勢いました。

学校の話にしているのは、いくらか逃げの要素を含んでいます。教会ももちろん同じだと思っています。

それぞれ忙しい毎日を過ごしておられる皆さんが、まさに万難を排して日曜日ごとに礼拝に出席してくださっています。なかには遠くから電車やバスや自動車に乗ってきてくださる方々もおられます。

その皆さんにとって「今日は教会に来て本当によかった」と思っていただける礼拝と説教でなければならないと心から願う次第です。

死んでいたのに息を吹き返せるような礼拝を、生命が回復されるような説教を、祈り求めてやみません。

(2019年7月21日)