2020年4月12日日曜日

復活節の喜び(2020年4月12日 イースター礼拝宣教)

ヨハネによる福音書 20 章 1 節~18 節



石川献之助



今日は 2020 年のイースターの復活節の記念の聖日であります。



私はこの日をどんなに大切に思っているか。私は小さい時から教会の牧師である父と、ま

たその生き方に共鳴してその助け手となった母の間で育ち、「献之助」という名前をつけられて、自分が選択をするよりも両親の信仰に基づいて、あるいはその信仰を通して私の生涯をこの福音の宣教の務めに生きる教会の働きに生涯を捧げる者として、その名前を付けてくださったそういう命運のもとに、今年92 歳という長い生涯を、ただそのひとつの方向に生きてまいりました、福音の宣教を託されている者であります。



この昭島教会は、私に託された主の命令に基づいた、あるいは恩恵にもとづいた務めでありますけれども、すでに高齢ゆえ不自由な体でありまして、教会の役割を進んで担ってくださる昭島教会の役員の方々のみならず、後任の伝道者としての務めを引き受けてくださった関口先生のその業によって補われながら今を歩んでおります。



すでに皆様のお手元に郵送された週報の 2 ページの上の右のほうに 「3511 号」と書かれております。なんと戦後の日本の、散々に戦争で痛めつけられた昭島の地で、本当にこの世に生きていく生活の困難を背負っている昭島の市民の方々に福音を述べ伝え、生きる希望と、そして福音によってもたらされる永遠の命の希望を述べ伝えるために、私は弱冠 25 歳でこの昭島の地において開拓伝道の業を始めました。実にそれから 67 年の時を経て、この 3511 回目の礼拝でお話を委ねられている者であります。



そしてこの復活節というものは、私どもの救い主イエスキリストの三十有余年の御生涯の最後、実に世界の罪深い者の、全ての者の救いのために、十字架にかけられて遂げたその尊い死の後、三日目にそのイエスが甦られたことを記念する日であると聖書にしるされております。



そのテキストに基づいて、この復活の出来事を伝えるそのような記録は世界でも他にはないわけでありますから、本当にその事実を伝える知らせとして、最初の事をしるしたヨハネによる福音書の 20 章1節以下の記録を心に留めたいと思います。そして、その知らせは 2000 年余り経ちました、2020 年の今も私たちのもとに届けられているのであります。



これは本当に尊い知らせだと思います。この知らせに基づいて、私どもの信ずる主イエス・キリストが十字架の上において死なれたはずのそのイエス・キリストが、三日目に甦ってしかも最初に己をあらわされたその主イエス・キリストのそのような記録が書かれているわけであります。



そしてそれは、普通は長い時の経過が全てをぬりかえてしまうはずでありますが、でも変わらずに、永遠の命を私たちに約束されたイエス・キリストは、十字架の死を経て三日目に甦られた「甦りのイエス」にかわられた、イエスについて記念をすることを心に深く銘記して、新しい命に生きるそのような神の最も偉大なる御業について、私たちは神に感謝しその信仰を新しくする日として、世界中でこのイースターの日を中心に、この安息日の日曜日の礼拝をおこなっているわけであります。



本当にこのことは私たちの良識を越えたことでありまして、信仰によって聖霊の導きのもとにそのことを認識させられたときに、人間として創られ、生まれ、そして生きてきた人間は、そこに希望を、永遠の命の希望を告げられて、そしてこの日、感謝と喜びの内に礼拝を行っているのであります。



このことを告げたヨハネによる福音書の 20 章の始めに、キリストの御言葉の中で最初に弟子たちにイエス・キリストが己を復活の御姿をもって、再び愛の方として私どもの救い主としてご自身をお示しになったこの箇所を心に留めることこそ、イースターの礼拝の中心であるということを覚えていきたいと思います。それでこの礼拝においては、ヨハネによる福音書の 20 章の1節から18 節までの御言葉が今読まれたわけであります。



そして私はこのことを毎年このイースター礼拝の度に心に留めたわけでありますが、今日はこの礼拝において、この教会を中心にあつまっている兄弟姉妹は、新型コロナウイルスの世界的な脅威にさらされているこの地球の上での、人類の歴史上初めてという試練の中に置かれ、私たちは集まることの危険ゆえ、為政者の意向に従って霧散して、私たちの教会ではそれぞれの置かれている場所でひとり祈ることによってこの復活節の主日礼拝を執りおこなうことを皆さんにお知らせしました。



そして今、形は違っても復活節の喜びを分かち合うという、讃美と感謝と喜びの信仰を更新する、そういう礼拝を守っているわけであります。



私たちはそのことを忘れることなどありません。そしてその信仰に生きている兄弟姉妹たちが全世界で、ある報告によれば 20 億という多数の人々がその信仰に生きているわけであります。



イエス様は復活されて生きて私たちと共にある、私たちの歴史を共に生きていて下さるということを新たに知らしめられる、そういう希望の日であるということをもう一度思い起こす、そういう日であるということを新たに皆さんと一緒に心に留めたいと思う次第であります。このイースターの理解と喜びとは、時の経過によって増し加えられることさえあれ、決して薄れることはないと思います。



私は過日イースター礼拝で引用した具体的な例をひとつ挙げて、そのことを新たにしたいと思うのであります。一度人間としてこの世の歴史の中に生まれてきた私たち一人ひとりでありますけど、一度生まれ、そしてその命は私たちの目に見えないたくさんの罪の結果として、必ず神様の厳しい裁きのもとに人類は希望を失っていくわけでありますが、そこに救い主としてのイエス様が遣わされ、そして全ての人々の罪の許しを十字架にかかり、達成されたのであります。



それで日本の現実の中におかれている、そのような希望の無い人々の救いのために、その周辺の人々に声をかけて、特に 2500 名のお医者さんと看護師の方々が集まる前でその限りある人生を望みなく終わっていくそういう人類の救いのために復活のイエス様の希望が与えられているということについて、研究会において報告されたお話です。



沢山の人々が地上の命を終えて亡くなっていく愛する者の死は、なおとても耐えがたいものであります。そしてイエス様によって信仰を与えられた私たちも同じような命運のもとにあるわけですが、イエスキリストによって永遠の命の希望を与えられることによって、この世の生活を積極的にあるいは喜びに希望に満たされてそして生きていく、そういう者がそれでも命の終わりの時を持つわけであります。



けれどもその中で、ある親子のお別れの言葉を紹介したいと思います。それはお父さんが臨終の時が来たことを悟って、はっきりと小さな声ではあるけれども「いってくるね」といって亡くなったということです。そして娘さんの方は「いってらっしゃい」と答える臨終の光景が紹介されていたのであります。



この紹介された家庭は、クリスチャンとして復活の信仰を与えられていた人たちでありましたから、亡くなるお父さんは「いってくるね」と言い、そして娘さんは「いってらっしゃい」と言う。しっかりとしたごく自然な言葉を遺して終わりの時を迎えた。この報告は多くの人を感動させました。



今、私たちは、新型のコロナウイルスの世界的な宇宙的な感染拡大の報道のもとに人類の将来を心配しています。けれども、この言葉を通してイエス様が与えて下さった永遠の命の希望は、本当に全ての人に希望を与えるものであるということを深く教えられました。



同じ信仰に生きている、またその復活の事実を聖書を通して教えられている、その中に、希望を持っている私たちは、そのように自分の人生を送り、また愛する家族の死を看取り、隣人として生きているたくさんの人々にこの福音を述べ伝えていくことの大切さを深く教えられた次第です。



私たちはいつものように教会に集まって、恵みの時を持つことは出来ません。けれどもこうして分散してコロナウイルスに負けないように、自宅で礼拝を守っています。



週報の中に今日与えられた聖句として、「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。十字架にかかって亡くなったはずの主イエスキリストが生きていらっしゃる、その復活の姿を見て喜んだという、これは事実の報告でありまして、私たちもこの言葉を改めて日々の人生の希望として、イエス様に感謝して、イエス様と共にこの復活の信仰を新しく日々の力として、命として、この年も生きていきたいと深く思わされた次第です。



それでは一言お祈りをいたします。



天の父なる神様 あなたがこの 僕しもべに、昭島市を中心とした戦争に希望をくじかれた日本の一角の地に、死によって貧しくなり、希望を失い彷徨っている人々にこのイエスキリストの復活の希望の福音を述べ伝えるという務めを与えられて、67 年という歳月が経ちました。



あなたはこの宣教の務めは何年経ってもそれは新しく、その福音を必要とする罪深い人類の歴史が続いていくことを思う時に、どうぞこの教会を守り、育て、励まし、どうかその福音を述べ伝えていく教会でありますように、心からお祈りいたします。



あなたは主であられ、そして永遠に生きていて下さいますから、私たちはそのことを信じていますけれども、色々な歴史的な過程の中で、どうぞ心強くどんなときにもこの復活のイエス様の希望を人々に伝える務めに励み、どうかこの教会が育ち、またその使命感を持ち続けていくことが出来ますように。私たちの周りの人々にその務めを果たす者として、歩めますように。



この試練が本当に私たちの希望となり、いつも務めとして新しく更新させられて私たちの希望として持ち続けられていきますように。どうぞ主イエス様が、教会員一人ひとりの現実に隣人として伴っておられることを忘れずに、かえって強められてこの困難を乗り越えて、この教会が新しくされる時でありますように。



今日このような形で行われる礼拝にも、復活節の礼拝を行えたことを深く感謝いたします。私たち自身が本当に復活の信仰を希望として、これからの生涯を生きていくことが出来ますように、祈るべきことは沢山ありますけれども、この大切な祈りをイエス様のお名前を通して御前にお捧げいたします。



アーメン



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礼拝(下)

 
 


祝会(上)

 
 


祝会(下)