2020年3月22日日曜日

香油を注がれた主

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-5)

ヨハネによる福音書12章1~8節

関口 康

「イエスは言われた。『その人のするままにさせておきなさい。』」(7節)
 
おはようございます。今日もマスクをしたままでお許しください。そして先週と同じように、時間を短縮してお話しいたします。

今わたしたちは受難節を過ごしています。わたしたちの救い主イエス・キリストの御受難を覚える季節です。しかしまた、折しもわたしたち自身が苦しみを味わっています。

わたしたちが味わっているのは「不安」の苦しみです。それは決して小さいものでも軽いものでもありません。世界がこれからどうなっていくかをだれひとり知りません。

だからこそ、今のわたしたちに最も必要なのは「心の平安」です。それは安心であり、平和です。そして、安心してもよいだけの「根拠」です。それが無い、あるいは分からないから、偽りの情報に翻弄されたりしています。

しかし、なんとかして、自分の心に強く言い聞かせてでも、落ち着きましょう。冷静であることが大事です。

いま私の心にしきりに去来する言葉があります。それは、16世紀ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが言ったとされながら出典は不明であるとされている「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える」という言葉です。

「世界が滅ぶ」などという言葉を今の状況の中で使いたくありませんが、大事なのは後半です。「私は今日りんごの木を植える」です。出典が不明である以上、マルティン・ルターの言葉だと断言することはできませんが、とにかく大事なことが言われているのは確かです。

どれほど不安なときも、明日世界が滅亡することが分かったとしても、そんなことはどうでもいいことだと軽く考えて、そんなことよりも神さまのおられる天国だけを見上げていればよいのだ、それでいいのだというようなことを私が言いたいわけではありません。そんな考えはよぎりもしません。

そうではありません。「わたしは今日りんごの木を植える」のです。落ち着いて、日常的な地上の事柄に取り組み、汗を流すのです。労働のたとえが含まれているかもしれません。働いて疲れて横になれば、ぐっすり眠ることができるでしょう。

今日朗読していただいた聖書の箇所に記されているのは、「過越祭の六日前に」(1節)イエスさまがベタニアという村に行かれ、ひとつの家庭に迎えられ、食事をなさった場面です。

そこにマルタ、マリア、ラザロの3人姉弟がいました。末の弟のラザロについては、病気にかかり一度死んだのにイエスさまによってよみがえらされたという驚くべき出来事があったことが、ヨハネによる福音書の11章1節以下にかなり詳しく記されています。

マルタとマリアについては、ルカによる福音書10章38節から42節に出てくる話がよく知られています。今日の箇所にも記されていますが、マルタは「給仕」の役回りだったようです。

そして妹のマリアは、ルカによる福音書に描かれていることとしては、お姉さんが給仕している最中でもイエスさまの前に座り込んで、じっと話を聞く。それでお姉さんの怒りを買ってしまうタイプの人でした。

この3人姉弟をイエスさまは心から愛しておられました。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(11章5節)と、ひとりひとりの名前を挙げて記されているとおりです。

そして、その3人と共にイエスさまは「過越祭の六日前に」食事をなさいました。六日後が過越祭であることは、イエスさまはもちろんマルタもマリアもラザロも知っていました。過越祭にもイエスさまは食事をなさいました。それが、12人の弟子たちと共に過ごされた「最後の晩餐」です。

ベタニアの3人姉弟の家で食事の前だったか、最中だったか、終わってからだったかは今日の箇所だけでは分かりませんが、マリアが半ば唐突に「純粋で非常に高価なナルドの香油」を一リトラ(約326グラム)持ってきて、イエスさまの足に塗り、自分の髪でぬぐいました(3節)。

もし食事の前あるいは最中だったとしたら、強烈な香りで食事がぶち壊しになったと考えられなくもありません。もしそうだとしたら、そういうことを後先考えず、迷惑をかえりみず、唐突にできてしまうマリアは、なんらかの配慮が必要な存在だったかもしれません。

そこで腹を立てたのがイスカリオテのユダでした。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)と言いました。

「1デナリオン」は、当時の労働者の1日の賃金です。それの300日分です。ひとりの労働者のほぼ年収です。

なぜ、それほど高価な香油がその家にあったのかは分かりません。憶測はよろしくありませんが、いろいろ想像できなくはありません。

それをマリアはイエスさまにささげました。お金に換えて別のものにしてではなく、ナルドの香油そのものをイエスさまのために使いました。「なぜそんなことをするのか、もったいない」とユダのようなことは考えないで。「純粋で非常に高価なナルドの香油」そのものをイエスさまに、マリアはささげました。

もっとも、ユダは「貧しい人々のことを心にかけていたから」そのように言ったわけではないと、ヨハネによる福音書は説明しています(6節)。別の理由があったのだ、と。しかし、この点を掘り下げていきますと別の話になりますので、今日は割愛いたします。

そのときイエスさまは、「この人のするままにさせておきなさい」とおっしゃいました。「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」(7節)と。

お金の使い道の話にしてしまうのは単純すぎるかもしれません。しかし、こういう使い方なら意味があるが、そういうことなら意味がないと、わたしたちもしょっちゅう考えたり議論したりします。

イエスさまのために使うのは無駄でしょうか。イエスさまへの愛と敬意、そして信仰のために、価値あるものを差し出すことは無意味でしょうか。イエスさまは、マリアのささげものを喜んでくださいました。わたしたちのささげものをも喜んでくださるでしょう。

他人(ひと)がすることを「それは無駄だ無意味だ」と非難することは、わたしたちもついしてしまうことです。社会や個人の経済が不安定なときはなおさらです。しかし、ここで最初の話に戻します。社会や個人が不安なときにこそ必要なのは「心の平安」です。

今日わたしたちが教会に集まってきたのは、それを得るためだったのではありませんか。私もそうです。他のどんな方法でも得ることができない「心の平安」を、ここ(教会!)に来れば得ることができると思ったからこそ集まってきたのではありませんか。私もそうです。

どうやら今日わたしたちが植えている「りんごの木」は「教会に来ること」でした。それが無駄だ無意味だと、イエスさまは決しておっしゃいません。

今申し上げていることに、今日の礼拝出席をお控えになっている方々を責めたり裁いたりする意味は全くありません。教会としての姿勢は「決して無理をしないでください」と毎週の週報に繰り返し書いているとおりです。

自宅で待機しておられる方々のために、そして全人類のために、共に祈ろうではありませんか。

(2020年3月22日、日本キリスト教団昭島教会主日礼拝)