2020年3月22日日曜日

香油を注がれた主

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-5)

ヨハネによる福音書12章1~8節

関口 康

「イエスは言われた。『その人のするままにさせておきなさい。』」(7節)
 
おはようございます。今日もマスクをしたままでお許しください。そして先週と同じように、時間を短縮してお話しいたします。

今わたしたちは受難節を過ごしています。わたしたちの救い主イエス・キリストの御受難を覚える季節です。しかしまた、折しもわたしたち自身が苦しみを味わっています。

わたしたちが味わっているのは「不安」の苦しみです。それは決して小さいものでも軽いものでもありません。世界がこれからどうなっていくかをだれひとり知りません。

だからこそ、今のわたしたちに最も必要なのは「心の平安」です。それは安心であり、平和です。そして、安心してもよいだけの「根拠」です。それが無い、あるいは分からないから、偽りの情報に翻弄されたりしています。

しかし、なんとかして、自分の心に強く言い聞かせてでも、落ち着きましょう。冷静であることが大事です。

いま私の心にしきりに去来する言葉があります。それは、16世紀ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが言ったとされながら出典は不明であるとされている「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える」という言葉です。

「世界が滅ぶ」などという言葉を今の状況の中で使いたくありませんが、大事なのは後半です。「私は今日りんごの木を植える」です。出典が不明である以上、マルティン・ルターの言葉だと断言することはできませんが、とにかく大事なことが言われているのは確かです。

どれほど不安なときも、明日世界が滅亡することが分かったとしても、そんなことはどうでもいいことだと軽く考えて、そんなことよりも神さまのおられる天国だけを見上げていればよいのだ、それでいいのだというようなことを私が言いたいわけではありません。そんな考えはよぎりもしません。

そうではありません。「わたしは今日りんごの木を植える」のです。落ち着いて、日常的な地上の事柄に取り組み、汗を流すのです。労働のたとえが含まれているかもしれません。働いて疲れて横になれば、ぐっすり眠ることができるでしょう。

今日朗読していただいた聖書の箇所に記されているのは、「過越祭の六日前に」(1節)イエスさまがベタニアという村に行かれ、ひとつの家庭に迎えられ、食事をなさった場面です。

そこにマルタ、マリア、ラザロの3人姉弟がいました。末の弟のラザロについては、病気にかかり一度死んだのにイエスさまによってよみがえらされたという驚くべき出来事があったことが、ヨハネによる福音書の11章1節以下にかなり詳しく記されています。

マルタとマリアについては、ルカによる福音書10章38節から42節に出てくる話がよく知られています。今日の箇所にも記されていますが、マルタは「給仕」の役回りだったようです。

そして妹のマリアは、ルカによる福音書に描かれていることとしては、お姉さんが給仕している最中でもイエスさまの前に座り込んで、じっと話を聞く。それでお姉さんの怒りを買ってしまうタイプの人でした。

この3人姉弟をイエスさまは心から愛しておられました。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(11章5節)と、ひとりひとりの名前を挙げて記されているとおりです。

そして、その3人と共にイエスさまは「過越祭の六日前に」食事をなさいました。六日後が過越祭であることは、イエスさまはもちろんマルタもマリアもラザロも知っていました。過越祭にもイエスさまは食事をなさいました。それが、12人の弟子たちと共に過ごされた「最後の晩餐」です。

ベタニアの3人姉弟の家で食事の前だったか、最中だったか、終わってからだったかは今日の箇所だけでは分かりませんが、マリアが半ば唐突に「純粋で非常に高価なナルドの香油」を一リトラ(約326グラム)持ってきて、イエスさまの足に塗り、自分の髪でぬぐいました(3節)。

もし食事の前あるいは最中だったとしたら、強烈な香りで食事がぶち壊しになったと考えられなくもありません。もしそうだとしたら、そういうことを後先考えず、迷惑をかえりみず、唐突にできてしまうマリアは、なんらかの配慮が必要な存在だったかもしれません。

そこで腹を立てたのがイスカリオテのユダでした。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)と言いました。

「1デナリオン」は、当時の労働者の1日の賃金です。それの300日分です。ひとりの労働者のほぼ年収です。

なぜ、それほど高価な香油がその家にあったのかは分かりません。憶測はよろしくありませんが、いろいろ想像できなくはありません。

それをマリアはイエスさまにささげました。お金に換えて別のものにしてではなく、ナルドの香油そのものをイエスさまのために使いました。「なぜそんなことをするのか、もったいない」とユダのようなことは考えないで。「純粋で非常に高価なナルドの香油」そのものをイエスさまに、マリアはささげました。

もっとも、ユダは「貧しい人々のことを心にかけていたから」そのように言ったわけではないと、ヨハネによる福音書は説明しています(6節)。別の理由があったのだ、と。しかし、この点を掘り下げていきますと別の話になりますので、今日は割愛いたします。

そのときイエスさまは、「この人のするままにさせておきなさい」とおっしゃいました。「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」(7節)と。

お金の使い道の話にしてしまうのは単純すぎるかもしれません。しかし、こういう使い方なら意味があるが、そういうことなら意味がないと、わたしたちもしょっちゅう考えたり議論したりします。

イエスさまのために使うのは無駄でしょうか。イエスさまへの愛と敬意、そして信仰のために、価値あるものを差し出すことは無意味でしょうか。イエスさまは、マリアのささげものを喜んでくださいました。わたしたちのささげものをも喜んでくださるでしょう。

他人(ひと)がすることを「それは無駄だ無意味だ」と非難することは、わたしたちもついしてしまうことです。社会や個人の経済が不安定なときはなおさらです。しかし、ここで最初の話に戻します。社会や個人が不安なときにこそ必要なのは「心の平安」です。

今日わたしたちが教会に集まってきたのは、それを得るためだったのではありませんか。私もそうです。他のどんな方法でも得ることができない「心の平安」を、ここ(教会!)に来れば得ることができると思ったからこそ集まってきたのではありませんか。私もそうです。

どうやら今日わたしたちが植えている「りんごの木」は「教会に来ること」でした。それが無駄だ無意味だと、イエスさまは決しておっしゃいません。

今申し上げていることに、今日の礼拝出席をお控えになっている方々を責めたり裁いたりする意味は全くありません。教会としての姿勢は「決して無理をしないでください」と毎週の週報に繰り返し書いているとおりです。

自宅で待機しておられる方々のために、そして全人類のために、共に祈ろうではありませんか。

(2020年3月22日、日本キリスト教団昭島教会主日礼拝)

2019年12月17日火曜日

学校は本番ではない

 

2021年12月17日に描く

【学校は本番ではない】

ファン・ルーラーが(オランダの超伝統校の)ユトレヒト大学の(超伝統的な)神学部教授だったときこそ「神学は遊び(spel)である」と言った意味が今なら少し分かる。神学とか中高でいえば聖書とか、言ってしまえば実害ない分野でさんざん生徒・学生も教員も失敗しとけと。学校も勉強もどのみち練習試合。

そのあたりがおかしくなっているのか大昔からおかしいのか、学校こそ本番だと思い込まれている。そのように追いつめられて威嚇されて萎縮している。失敗が許されるほど世は甘くないと説くも結構。それはそうだが、学校の授業でこそリラックスできないのは不幸。学問の本質は遊びである。

おそらくもちろん超高層ビルや長大な大橋の設計中に計算ミスがあったとかいう話なら、とんでもない規模の被害があろう。「失敗は許されない」という言葉の現実味が違う。でも、だからこそ思うが、学校で失敗できなくてどこで失敗する。生徒だけが失敗するのではなく、先生も失敗していいだろう。

単純な話だよね。教員が授業中に「すみませんでした」と教室のみんなに謝って、改めて蓋然性の高い解を教えればいいだけのこと。そうすることが可能な信頼関係を築くことに、開講から何か月かけても構わない。「教師の私はパーフェクト。私の教えを聞いてちょうだい」スタンスの人は、はなから嫌われている。

有名人なので名指しをお許しいただきたいが、私の教師でもあった旧約学者の左近淑先生(故人)が講義中にチョークで板書しながらしょっちゅう言っておられたのは「ぼくこれ今考えながら話してるからね。次は違うこと言うかもしれないよ」。こういう講義なら聴ける(私は当時ハタチ)と思ったものだ。

2019年12月8日日曜日

遣わされた神の御子


ヨハネによる福音書5章31~47節

関口 康

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」

今日はアドベント(待降節)第2主日の礼拝をささげています。しかし、私は今日の説教を、アフガニスタンで先週水曜日12月4日に銃撃を受けて亡くなられた中村哲さんのお名前を語らずに始めることに困難を覚えます。今日アフガニスタンで中村さんの国葬が行われるそうです。

しかし、たいへん申し訳ないことに、私は中村さんについてほとんど何も知らずに生きてきました。いま住まわせていただいている牧師館で役員会の許可を得て教会のテレビをお借りしていますが、私は1年以上前からテレビを見る習慣を失ってしまい、今回のことについてもテレビのスイッチを入れる勇気がわいてきません。

私が中村哲さんの名前を最初に知ったのは30年前です。私が東京神学大学大学院を1990年の春に卒業して最初に赴任したのが日本キリスト教団四国教区の南国教会でした。同じ高知分区のひとつの教会に、もう亡くなられましたが、医師をしておられた役員さんがいました。その方とはすぐに親しいお交わりをいただくようになりましたが、その方がおっしゃったことが、私はペシャワール会の中村哲さんを応援している、高知支部の責任者であるということでした。

それが1990年でした。その方からペシャワール会を紹介する本をいただいた記憶があります。その本は私の蔵書に今でもあると思いますが、見つけることができていません。

しかし、それだけです。その後は中村さんのことを全く知らずに生きてきましたので、その私に何かを語る資格はありません。しかし、ここ数日インターネット経由で流れてくる情報の中で、中村哲さんがクリスチャンだったということと、福岡にあるミッションスクールの西南学院中学校の卒業生だったということを知りました。中学時代に聖書に触れ、その後信仰を与えられ、洗礼を受けて、バプテスト教会に属するクリスチャンになられたそうです。

「それだから」大きな働きをすることができたのだ、というような関連づけをするのは、よろしくないでしょう。まるでクリスチャンでない人は大きな働きができないかのように響いてしまいかねません。しかし、人類の歴史に残るような大きな働きをしてこられた中村さんの歩みの原点が、中学時代に学校で学んだ聖書の教えであったということを知ることができたことで、私はとても励まされる気持ちになりました。

聖書を学ぶ人のすべてがそうなるという意味ではありません。しかし、たとえば私が今、明治学院中学校と東村山高校で聖書を教えている生徒の中から、将来、大きな働きをする人物が現れた場合、それは学校の手柄ではないし、教師の手柄でもありません。聖書の教えそのものがそれだけの力を持っていると言わねばならないでしょう。

しかしまた、今申し上げていることについて、別の観点から考えさせられたことがありました。それは、中村さんがクリスチャンだったというならなおさら、どうして神さまは中村さんの命を守ってくださらなかったのか、あのような惨たらしい最期を迎えることになったのかと、そのように考える方がおられるのではないかということです。神さまという方は、人の努力に全く報いてくださらない、なんと冷たいお方なのだろうかと。

わたしたちの神さまは、困った人を助けてくださり、病気の人をいやしてくださり、死んだ人をよみがえらせてくださり、求める人に永遠の命を与えてくださり、その神さまと共にわたしたちは、地上の人生を終えたのちも、天国において神と共に永遠に生きることを約束してくださっているのではないのだろうか。もしそうだというなら、中村さんがクリスチャンであったという事実とあの方の人生の最期の姿は矛盾するのではないだろうかと。

中村さんについての話をこのままずっと続けようとしているわけではありません。すでにお気づきの方がおられると思いますが、先ほど朗読された今日の聖書の箇所に記されていることが不思議なほど噛み合ってきています。

イエスさまは弟子たちに、あなたたちは聖書を勉強すれば永遠の命を与えられると思って、そういう動機があるから聖書を勉強しているわけでしょう、とおっしゃっています。しかも、ここで説明が必要なのは、聖書に記されている意味での「永遠の命」とはどのようなものかということです。

日本に住んでいるわたしたちが「永遠の命」とか「天国」とかいう言葉を聞くとどうしても思い浮かべるであろうイメージは、地上の時間的な人生が終わった後に、天使の翼が与えられて空の彼方に飛んでいき、そこに行けば神と共にまさに永遠に生きることができる、地上の世界とは全く無関係の別の国に移される、というようなことです。

しかし、聖書の意味での「永遠の命」はそういうものではありません。それがどのようにして実現するかについてはともかく、地上の時間的な人生がどこまでも続き、地上の世界が天国さながらになるというほうが、聖書の教えです。

その意味で、人は死なないのです。死んでもよみがえるのです。よみがえって再び地上の世界に戻ってくるのです。地上の世界が永遠に続くのです。だからこそ、地上の世界と地上の命は大事にしなくてはならないのです。いま送っているこの人生は、どうでもいいものではないのです。

その実現方法が聖書に記されているので、それを学ぶために聖書を研究する。それがあなたがたの聖書研究の目的でしょうと、イエスさまが言っておられます。しかし、イエスさまは、そのような聖書の学び方は間違っているとおっしゃっているのです。

そうではなく、聖書はこの私を、イエス・キリストを証ししていると、イエスさまがおっしゃっています。この本に書かれているのは私のことだよと、イエスさま御自身が御自分を指さしながらおっしゃっているのです。

しかし、それに続く次の言葉が気になります。「それなのに、あなたたちは、命を得るために、わたしのところへ来ようとしない」。この「命」の意味も、永遠の命です。これで分かるのは、イエスさまは、永遠の命を得る方法を知るために聖書を研究すること自体が間違っているとおっしゃっているわけではない、ということです。

そうではなくイエスさまは、そのために「わたしのところへ来ようとしない」ことが間違っているとおっしゃっています。永遠の命は欲しいので、そちらには近づくが、それを得るためにイエス・キリストには近づかないわけです。

その気持ちは、よく分かります。永遠の命を得るためにイエス・キリストのほうに行くとどうなるかは、わたしたちはよく知っていることです。

イエス・キリストは、まさに御自分の命を投げ出し、困っている人を助け、病気の人をいやし、悩んでいる人の相談に乗り、多くの人々をまさに救ってくださいました。しかし、その結果として妬まれたり嫌われたりし、とうとう御自身は十字架にかけられて殺されるという残酷な最期をお迎えになるのです。

それは大変なことだということは誰でも分かることなので、できるだけラクな道を通りたい人はイエス・キリストのほうの道を決して通ろうとしないのです。しかし、イエス・キリストのほうの道を通ろうとする人は、イエス・キリストが味わったのと同じ苦しみを味わうのです。

中村哲さんの話に戻すことは、もうしません。ここから先はわたしたち自身の問題です。

わたしたち自身は、イエス・キリストではありませんし、救い主でもありません。もし仮に、わたしたち自身が十字架にかけられて死んだとしても、わたしたちの死が世の罪の贖いになるわけではありません。イエス・キリストによる贖いのみわざは、すでに完成しています。わたしたちはそれになにひとつ付け加えることができませんし、そうする必要がありません。

しかしまた、それではわたしたちにできることは何もないのかというと、そうではありません。わたしたちはイエス・キリストの死にあずかることができます。イエス・キリストの死のさまにあやかり、ならうことができます。それは、へりくだって世と人に仕え、自分の命を投げ出して献身と奉仕の人生を送り、それを全うすることです。

それはわたしたちに可能なことです。あの先生にしかできない、あの人にしかできない、というようなことではありません。すべての人に可能です。クリスチャンではない人にも可能です。

イエス・キリストは、わたしたちの人生の模範になってくださるために、父なる神のもとから遣わされた神の御子なのです。

(2019年12月8日、日本キリスト教団昭島教会)

2019年12月2日月曜日

サボる牧師

【サボる牧師】

珍しい例ではないだろうが、生後から半世紀以上クリスチャンしかしたことがないのに、パターン化されたキリスト教の常識のようなことが一向に身に着かない。理由はたぶん、神学校以外のキリスト教学校に通った経験がないとか、カトリック経験も福音派経験もないとか、劇的な回心体験もないとかだろう。

反発を食らいそうなことをあえて言えば、そういうのが植村正久的というか、私が(2つの)神学校で覚えた空気だったりはする。パターン化を嫌うというか、毎回「えっと聖書では」「えっと歴史では」とイチから考えなおして解を求める。レシピ無いのか見ないのかと叱られそうなほど毎回料理の味が違う。

パターンに安心や安定を見出す向きの方々はノーコン投手の危険球のような恐怖を抱くかもしれない。私だけがそうだと言いたいのではない。私が習ってきたキリスト教というか牧師教育の範囲内の神学というかは、概ねそういう空気感を持ち続けている。パターン無き恐怖の神学であると言えるかもしれない。

その意味で私は「自分で考えること」に何の躊躇もない。「神を考える(Gott denken)」(ドロテー・ゼレ)と言われても何の反発も感じない。逆に、考えるのをやめると終わると思っている。生ける神を信じていないという意味ではない。考えるのをやめることが信仰であるわけではないと言いたいだけだ。

「神を考える(Gott denken)」ことに躊躇がないのは、ファン・ルーラーの影響ではない。彼の本を読み始めたのは30歳を過ぎてからなので。しかし、ファン・ルーラーが補強し、励ましてくれた面はある。「神義論(theodicee)は温かく擁護されるべきだ」と書いてくれる神学者に初めて出会って驚いた。

「神が世界を作っただとか、あんたらは言う。もしそうだというのなら、この世に悪がはびこっているのは神のせいだというわけだ。そんなひっでえ話をあんたらよく信じてられるね。うちはまっぴらごめんだよ。ほぼほぼ恨みしかねーわ。はい、さようなら」。ぶっちゃけこれが神義論(theodicee)だろう。

神義論(theodicee)の問いは、創造と終末の関係は何かという問いの中に生じるとファン・ルーラーは言う。ざっくりいえば、もし終末(おわり)が創造(はじめ)と全く同じなら、途中の歴史はすっとばされて無視されたことになるよね、ということだ。「救いもある」と言えなくては、まさに救いがない。

しかし、ここから先はファン・ルーラーの引用ではないが、「実際の」神義論は抽象でもなんでもなく、きわめて具体的な眼前の悪に脅かされている人の悩みであることが決して少なくない。「神はいない」「救いはない」としてしまうと思考が止まる。すっきり絶望できるかもしれないが、未練は残るだろう。

私の話に戻る。私は何十年経ってもキリスト教の常識的なパターンのようなものが一向に身に着かない。「この問いかけにはこう答える」というような模範回答例をうさんくさいと思う。尊重はするが、とらわれない。毎回改めて新しく考え直す。分からないことは「私には分かりません」と説教原稿に書く。

30年牧師を名乗り、牧師しかしたことがないのに「牧師に向いていない」と自覚しているのも同じ理由だ。やめればいいのに未練がある。「神はいる」「救いはある」と言い続けることに未練がある。言うだけなら牧師なんかやめても変わりはないだろうと自分でも思うが、現実はそこまですっきりしていない。

幸か不幸か、牧師の職務に未練があるので、やめたいと思ったことはない。躊躇なく言うが「神が」私をやめさせてくれない。自分で願い、計画し、実行してきたことは、ことごとく道を閉ざされた。しかし、なぜかいつも、すきま風が吹いてきた。小さな穴が開いていた。「すきま牧師」と呼んでください。

今日は出勤日ではないが、学校に行く気でいた。明日は授業だし、期末試験が近い。シャワーして着替えた後、考えごとをしているうちに雨が降り出した。非常勤は出勤日以外は交通費は当然自腹。それでもいいやと思っていたが、雨で心が折られた。今日はサボる。二度寝するか(やめとけ昼夜が逆転する)。

2019年12月1日日曜日

じわじわくるキリスト教

【じわじわくるキリスト教】

何十年も前から国民の 1 %未満国民の 1 %未満と自他ともに認めてきた日本のキリスト教人口のことで話し合っていたとき、それは日本の教会が怠慢だったからではなく、強制の要素を自ら嫌い、万人の自由を尊重しつつ「丁寧に」伝道してきた結果ではないかと言いたくなった。じわじわくるキリスト教の線で。

それと、ありえない話だと思えるから書ける面があるが、もし仮に日本にまもなく突然キリスト教ブームが起こったら、現存する教会はキャパシティオーバーで、押し寄せる人を「お断り」することになると思う。建物の大きさの問題ではなく、応対する体勢の問題。商品を製造して販売するというのとは違う。

アドベントは「待つ」ではない。もしその意味なら主語は「人」だろう。原意は「来る」で、主語は「神」。キリスト教の「行事ブーム」や「書籍ブーム」や「学校ブーム」はありうるかもしれないとしても、それは「キリスト教ブーム」ではない。「回心ブーム」は不気味だろう。作為で起こすものではない。

だらだら書きながらいいこと思いついた。来年は2020年。キリスト教のブームなど期待しなくてよろしい。そういうのは熱しやすく冷めやすい。ブームは去るときが来る。「2(じ)0(わ)2(じ)0(わ)くる」年にしよう。「遠赤外線伝道」とか名付けるといいかも。何言っているのかさっぱり分からないぞ。

2019年9月1日日曜日

信仰の証し


ヤコブの手紙1章19~27節

関口 康

「あらゆる汚れとあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉はあなたがたの魂を救うことができます。」

今日は主任牧師の説教の当番日ですが、昨日の午後4時頃お電話があり、「体調がすぐれないので、もしかしたら明日教会に行けないかもしれない」とお知らせいただきました。

「そういうときのための副牧師ですので、ご安心ください」とお返事し、その後ただちに説教準備を始めました。予告なく説教者が変更となりましたことをお詫びいたします。

主任牧師はもっと以前からですが、私は今年4月から聖日礼拝の聖書箇所を日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選んでいます。週報に印刷した今日の聖書箇所は、もし今日が私の説教担当日だったとすれば、私も必ず選んだ箇所です。

新約聖書のヤコブの手紙は、私の大好きな書物です。なぜ大好きなのかと言えば、「どんなことにも両面ある」ということを深い次元で教えてもらえる書物だと思えるからです。

何がどのように「両面」になっているのかは、この手紙を読めば分かります。先ほど朗読していただいた範囲だけでも分かりますが、最も鮮烈な響きを持つ言葉が2章18節に記されています。

「しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」。

2章20節にも同様のことが記されています。「ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか」。

新共同訳聖書の中で「愚かな者」と訳されている箇所はすべて「バカ」と言っているのを和らげているだけです。バカ野郎と言っています。

これで著者ヤコブが何を言おうとしているのかについては説明を加える必要があると感じます。しかし、著者自身が言葉を変え、角度を変え、視点を変えながら自分で説明しようとしています。

著者が最も言いたいのは、行いが伴わない信仰はむなしい、ということです。それはもはや信仰ではない、ということです。

著者がなぜこのようなことを、ものすごく強い調子で、まるでだれかを叱り飛ばしているかのような勢いで書いているのかについては、物事を論理的に順序立てて考えた結果として出てきた抽象的な結論がこうであるというような事情ではないと思われます。何らかの具体的な「事件」が背景にあると思われます。

しかも、それはおそらく、信仰者の共同体としての「教会」の内部で起こったであろう出来事です。あろうことか教会で、とんでもないことが起こった。しかもそれは、一度や二度でなく、恒常的に続いている。

具体的に何があったのかについては、本当のところは分かりません。しかし、それを読むだけで当時の情景がありありとした映像として浮かんでくるような描写が2章2節以下に出てきます。次のように記されています。

「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」。

こういうことが当時の教会の中で実際にあったのか単なるたとえなのかは分かりません。そして、はっきり言いますが、教会は金の指輪をしてはいけないところだと思わないでください。「ああ、しまった。今日は金の指輪をつけてきてしまった」と手を隠したりしないでください。そんなことを言いたいわけではありません。

もうひとつの面も同様です。書いてあるとおりではありますが、「汚(きたな)らしい服装」とはなんだ、どういう状態を指して「汚らしい」と言うのか、失礼ではないかと、私もこの箇所を読んでいて、むかむかします。「申し訳ありません」と著者に代わってお詫びしたくなります。

それらのことが枝葉末節であると私は決して思いません。しかし、著者の意図をくみとる必要があると思います。

身なりとか経済的格差とかで人を分け隔てし、「あなたはこちらの席に座ってください」とか、「あなたには席がありません」とか、そんなことを言い出すのが教会だとしたら、そんなものを信仰の共同体と呼ぶことができるのですか、できるはずがないではありませんかと、厳しいかもしれませんが、きわめて真っ当な問いかけがなされていることは間違いありません。

しかし、次のことも言っておきます。わたしたちがはっきり気づかなければならないのは、このようなことを書くのは、教会を心から愛している人だということです。教会などどうでもいいと思っている人は、こんなことは書けません。言っても意味がありません。

最初に私が、ヤコブの手紙が大好きだとする理由として、「どんなことにも両面ある」ということを教えてくれるからだと言いました。しかし私は、いま申し上げたことを次のようなことだと誤解されたくありません。

人を分け隔てするなんらかの「忌まわしい」事件が当時の教会の中に実際にあったと仮定したうえで、「しかし、そうは言っても、現実の教会はヤコブが書いているとおりである。教会も人間の集まりなので差別は当然ある。どんなことにも両面ある」というようなことを、私が言おうとしているのではありません。

言い方は悪いですが、教会を外から眺めるだけで批判している人たちがいます。ひとつふたつの教会を体験して、「ここもあそこも同じだった。私は教会の中でひどい差別を受けた。だから私はすべての教会が信用できない」とおっしゃる方々もおられます。

そのような方々が、教会であるわたしたちへと向ける厳しい視線に、わたしたちが鈍感であるわけには行きません。しかし、本当にそうなのかと、私は言いたくなります。すべての教会がそうであると言えるのか。

教会のわたしたちのだれもかれもが「そうは言っても現実はね」と、物陰でぺろりと舌を出して、ほくそ笑んでいるのか。本当にそうなのか。

私は今、べつに怒っているのではありません。しかし、あまりにも一方的で一面的な中傷誹謗のようなことを言われると、黙っていられなくなるところが私にはあります。ひとつふたつの教会だけ見て、そこで苦痛を味わったという理由で、すべての教会を非難するのは「木を見て森を見ず」ではありませんかと。

「どんなことにも両面ある」と私が申し上げたのは、そのような意味ではありません。そんなことを言いたいわけではありません。

それでは、それは何のことかをそろそろ言わなくてはなりません。それは、聖書や教会の歴史や神学を学んでこられた方々は「ああ、あのことか」とすぐにお察しになるであろうことです。しかし、専門家同士の間だけでしか分からない言葉で会話しても意味がありませんし、それこそ差別に通じます。言い方を換えなくてはなりません。

それで思い至ったのは、一カ月ほど前(7月28日)、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙を聖日礼拝で取り上げてお話ししたことです。それを思い出しました。パウロとペトロが大げんかしたことが書かれていた、あの手紙です。

あのガラテヤの信徒への手紙において使徒パウロが書いていたことが、今日のヤコブの手紙に書かれていることと真っ向から対立する、正反対の内容になっているというのが「どんなことにも両面ある」と私が申し上げたことの趣旨です。

パウロが次のように書いています。

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(ガラテヤ2章16節)。

パウロがはっきり書いているのは、わたしたちが救われるのは信仰によるのであって、行いによるのではない、ということです。行いのない信仰によってわたしたちは救われるのであって、行いは問われない、ということです。

それに対して今日のヤコブの手紙が書いているのは、行いのない信仰を見せてみろ。それほどむなしいことが他にあるのか、ありえないということになりますので、パウロの手紙とヤコブの手紙を並べて読むと「どんなことにも両面ある」と言わざるをえなくなるという次第です。

しかし、ここで私はみなさんにお尋ねしたいのです。「どちらが正しいか」という議論が必要でしょうか。そのような議論は要らないと私は思います。だって両方正しいですから。わたしたちが救われるのは信仰によるのであって、行いによるのではない。しかし、行いが伴わない信仰はむなしい。どちらとも、どこも間違っていません。

そして、両者はあるグループと他のグループとに分かれて言い争うようなことでもありません。両者はむしろ、ひとりの人間の心の中の葛藤のようなものだと言えます。

あるいは、私が子どもの頃によく見ていたアニメの「トムとジェリー」の関係。仲良くけんかするネコとネズミの関係。

もしそうだとすれば、一方が他方の反省材料になると思います。わたしたちの信仰を点検する必要があるときに、わたしたちの行いをチェックする。わたしたちの行いを点検する必要があるときに、わたしたちの信仰をチェックする。

両者に共通しているのは、教会を心から愛する思いです。そこは一致しています。

(2019年9月1日)

2019年8月18日日曜日

隣人を自分のように愛しなさい(行田教会)

日本キリスト教団行田教会(埼玉県行田市)

ローマの信徒への手紙12章9~21節

関口 康

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」

みなさま、おはようございます。今日は行田教会の特別伝道礼拝の説教者として初めてお招きいただき、ありがとうございます。

今日の聖書箇所は日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』の今日の箇所です。なぜわざわざこのことを言うのかといえば、私の心の中に、行田教会の皆さんにこういうことを言ってやろうと企むものがあらかじめあって、それに合う聖書の箇所を選んだというような事情ではない、と申し上げたいからです。そのような企みも下心も、私にはありません。

そして、初対面の皆さまですので、距離を縮めるために自己紹介のようなことをお話ししたい気持ちが起こってこないわけではありません。しかし、今日の午後、ごちそうをいただきながらの懇談の時間が設けられているとのことですので、自己紹介は午後にします。すぐに聖書のお話に入らせていただきます。

しかし、ひとつ、西川晃充先生が今日の週報に書いてくださった私の略歴の中に、現在の私が教会の牧師をしながら中学と高校で聖書を教えているという点がありますので、そこだけは触れさせていただきます。

今の学校で教えるようになったのは、今年4月からです。夏休み前の4か月がやっと終わっただけです。1学期の中学の授業で取り上げたテーマが「キリスト教の隣人愛」でした。それが今日の聖書の箇所のテーマと共通していますので、私の中で結びつくものがあります。

多感な生徒たちが実にいろんな反応をしてくれました。学期末レポートを書いてもらいました。そのレポートを読むのが私の夏休みの宿題です。今それに取り組んでいる最中です。その影響が今日の説教にも出るかもしれません。そのことをご了解いただきたいと思いました。

さて、今日開いていただいた聖書の箇所は、新約聖書のローマの信徒への手紙の12章9節から21節までです。私はこの箇所を開くたびに思い出すことがあります。それがいつだったのかも、そのように教えてくださったのがどなたであるかも覚えていませんので、あやしい耳学問で申し訳ないのですが、とても印象に残っています。

それは、今日の箇所の冒頭の「愛には偽りがあってはなりません」(9節)から始まり、13章10節の「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです」まで続く一連の記事は「愛」というテーマで貫かれている。これを「愛の鎖」と呼ぶ、という説明です。

ラブ・チェーンでしょうか、チェーン・オブ・ラブでしょうか、どちらでもいいと思いますが、鎖のようにすべてがつながっているというわけです。「愛の数珠つなぎ」のほうが分かりやすいかもしれませんが、数珠(じゅず)というより鎖(くさり)。

そして、この箇所を「愛の鎖」と呼ぶと説明してくださった方が教えてくださったと私は記憶していますが、途中に挟まる形で別の話題が出てきているようでもある13章1節から7節までの「支配者への従順」という段落も、やはり同じ「愛の鎖」の文脈の中で理解すべきであると説明されました。そのことも私にとっては驚くべきことだったので、記憶に残っています。

13章1節から7節までに書かれているのは、国家権力との関係の問題です。使徒パウロは国家権力に対して従順であれと教えています。そのこと自体は隣人愛の問題と何の関係もないことのように感じられます。

しかし、かつて私に、この箇所を「愛の鎖」と呼ぶと教えてくださった先生は、13章1節以下も関係があるとおっしゃいました。どのように関係しているのかを説明してくださったかどうかまでは覚えていません。ですから、ここから先に申し上げるのは、その方から教えていただいたことではなく、私の考えです。

隣人愛の問題と国家権力の問題が結びつくかもしれないと思えるのは、12章19節以下に出てくる「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」という言葉です。「隣人を愛する」ということは、何をされても自分で復讐しないことを意味する。悪は神が裁いてくださるのだ、というわけです。しかし、「神が悪を裁く」とは、具体的に何がどうなることでしょうか。その具体性を考える必要があると思います。

たとえば、わらで人形を作って釘で打つようなことをすれば、直接手を下さなくても、祟りや呪いなどの形で相手に災いが降り注ぐというようなことなのか。そのような呪術的な話なのか。それとも、悪に対しては国家権力や法秩序が厳正に対処するので個人的な復讐はしてはならない、という意味なのか。もし後者だとすれば、隣人愛の問題と国家権力の問題は、なるほど結びつくところが出てきます。

いまお話ししているのは、今日の箇所に記されている事柄からすれば脱線しています。しかし、今日の箇所の12章9節から21節までよりもさらに広がる13章10節までの全体を「愛の鎖」としてひとまとめにして見ることが大切だということを、まずお話ししたいと思いました。

そして、その全体を通して読むと、だんだん分かってくることがあります。それは、隣人愛についてパウロが書いていることは、どちらかというと動きが少ないということです。「隣人愛とは具体的に何をすることなのか」という問いをもって読んでも、その答えに具体性がほとんどないということです。

1節ずつ見ていくと、いま私が申し上げていることの意味をご理解いただけると思います。

今日の箇所に記されていることの中で、能動的な行為であると言いうるのは、「たゆまず祈りなさい」(12節)と、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」(13節)と、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」(14節)と、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(15節)と、「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」(16節)、そして先ほど触れた「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(19節)です。

なんだ、「すること」は、たくさんあるではないか、具体性もあるではないかとお思いになるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。この箇所でパウロが勧めている隣人愛の行為は「祈ること」と「助けること」と「もてなすこと」と「交わること」です。しかも、それらの内容について、具体的なことは何も書かれていません。

もちろん、それらがすべて能動的な行為であることは間違いありません。しかし、それでは、それは具体的に何をすることでしょうか。どのような祈り方、どのような助け方やもてなし方、どのような交わり方が、キリスト教に基づく隣人愛の具体的なあり方でしょうかと問われると、答えるのが急に難しくなると思います。

とても印象的な言葉として「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(15節)と記されていますが、これは何をすることでしょうか。俳優が演技や芝居として笑ったり泣いたりするのとは違うことでなければならないはずです。

「よし、ここは笑う場面だ」「よし、ここは泣く場面だ」と自分の感情を意図的にコントロールして喜んだり泣いたりしなさいと言われているわけではないはずです。作為的に喜んであげるとか、作為的に泣いてあげる、というようなことではないはずです。そんな芝居はすぐにばれますし。ここで言われているのは、もっと自然なことでしょう。

もしそうだとすれば、今日の箇所でパウロが勧めている「隣人愛」とは、具体的に言って何をすることでしょうか。パウロは「何をしなさい」「何をしなさい」と多くのことを書いているようでもありますが、そのひとつひとつの勧めの具体性を探しても、ほとんど何も見当たりません。

これで分かるのは、少なくとも今日の箇所で使徒パウロが勧めている「隣人愛」の形は、能動的というより受動的であるということです。

積極的というより消極的です。動的(ダイナミック)というより静的(スタティック)です。隣人愛のためにこれこれこういう何かをするというより、どちらかというとじっとしていることのほうが多く、見て感じて受けとめる姿勢です。前に出ていくのではなく、「悪に悪を返さない」「自分で復讐しない」「自分を賢い者とうぬぼれない」と、後ろに引き下がる方向です。

私はそれでいいと思っていますので、パウロを擁護します。「あなたの擁護は要らない」と断られるかもしれませんが。それは、もしかしたら、相手に伝わりにくい愛の形です。激しい怒りを買うかもしれないほどに。

わたしたちに求められている「愛」の形は、そういうのとは全く違うかもしれません。高価なプレゼントをあげる。あなたの長年の夢を実現してあげる。行きたければ月でも火星でも連れて行ってあげる。大きな家を建ててあげる、それが「愛」だと。能動的で、積極的で、ダイナミックな隣人愛には、具体的に目に見える形があるはずだと。しかし、パウロが書いているのは、その正反対であるということです。

私はパウロが書いていることのほうが、今のわたしたちにとっての慰めになり、希望になると思う次第です。

教会も、社会も、個人も、みんな貧しくなってしまいました。昔はもっと羽振りが良かったのに。今は、お金もないし、してあげられることは何もない。そのように多くの人が感じている、今はそのような時代です。

プレゼントしたくても、できない。何かしてあげようと思っても、できない。持っていたものは、何もかも失った。

それでも、あなたを愛している。大切に思っている。祈っている。そんなのは何の足しにも助けにもならないかもしれないけれども、それでもあなたを愛している。

今日の箇所に記されていることを、もしそのように理解してよいなら、多くの人が救われると思います。私も救われます。お金や生活のことで毎日苦労していますので。

救われるような、救われないような話になって、ごめんなさい。

(2019年8月18日、日本キリスト教団行田教会 特別伝道礼拝)

2019年7月21日日曜日

生命の回復


使徒言行録20章7~12節

関口 康

「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

こういうことは本当はすべて黙っていたい人間ではありますが、行きがかり上と言いますか責任上、何人かの方々にお知らせする必要があり、ご心配いただいていることでもあります。

先週木曜日に学校の今学期の私の仕事が終わりましたが、その翌日の金曜日の朝から激しい頭痛と全身の筋肉痛が始まり、熱まで出てきました。それで一昨日と昨日の2日間、牧師館でずっと寝込んでおりました。

今まで体験したことがないような強い頭痛でしたし、熱が出るのは10年ぶりくらいか、もっと前以来でしたので、いろいろ驚きました。

原因ははっきり分かります。私が担当している中高生の期末試験と提出されたレポート類の採点を、成績処理の締め切りに間に合うように一気にしました。それの反動が出たのだと思います。

前に働かせていただいた高校でも同じようなことをしなかったわけではありません。しかし、そのときの私は常勤講師でした。教会の責任は持っていませんでした。今年の私は非常勤講師です。教会の仕事が私の本業です。

駅前のドラッグストアでアイスノンを買ってきて、頭を冷やしてぐっすり休みましたので、今日はかなり大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません。

最初に私の話になってしまって、ごめんなさい。今日の聖書の箇所も、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に従って選びました。説教題の「生命の回復」も『日毎の糧』どおりです。

『日毎の糧』をどういう人たちが作っているのかを私は知りませんが、今日のこの聖書箇所と説教題で何を言わせようとしているのだろうと、つい考えてしまいました。

今日の箇所に書かれていることを、ざっとまとめます。このときわたしたちと同じように日曜日にみんなで集まって礼拝が行われていました。説教者は使徒パウロでした。パウロの伝道旅行の途中に立ち寄った地での礼拝でもあり、翌朝にはお別れすることになっていました。

それでおそらくパウロのほうも去りがたい思いを持ち、集まった人々のほうもパウロの言葉に熱心に耳を傾けていましたが、パウロの説教がどんどん長くなり、夜遅くなってしまい、それでもまだ続くものだから、つい寝込んでしまったエウティコという青年が、みんなが集まっていた建物の3階の窓から転落して死んでしまったというのです。

わっと騒ぎになったのでしょう。パウロもいったん説教を中断して、エウティコのところまで駆け寄り、抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」とみんなをなだめました。

しかし、ここでわたしたちにとっては驚くべきことが起こります。それは、パウロがまた元の位置に戻り、今のわたしたちがいわゆる「聖餐式」として受け継いでいるパン裂きの儀式を行い、夜が明けるまで説教を続けたことです。

パウロだからできたことでしょうか、二千年前だからできたことでしょうか。いずれにせよ、わたしたちにはいろんな意味で驚かされる話だと思います。

教会の礼拝だから特別扱いであるという面が全くないとは言えないかもしれません。しかし、大勢の人が集まっている場所で、ひとりの人が死んだというのです。それでもその集会をその時点で解散せずに、予定したプログラムが終了するまで続けるのは、いろんな意味で難しいことだと思います。

よほど動かしがたい行事の場合は、生き返ったのだから大丈夫なのだ、集会を続けましょうという話になるでしょうか。パウロ先生にお会いできるのは今日が最後だから、死んだ人のことなどどうでもいいという話になっていないことには安心します。とにかくパウロは説教を途中で中断して青年のもとに駆けつけ、抱き上げたと書かれているのですから。

ここで再び私の話になって申し訳ありません。皆さんにはまだお話ししていないことです。

2007年2月17日ですので12年前ですが、当時私が牧師をしていた教会の礼拝中に、私が救急車で運ばれたことがあります。当時41歳でした。

その教会では、説教者が聖書朗読をしてすぐに説教を始める方式をとっていましたが、私が講壇に立って聖書朗読を始めようとしたときに気を失い、聖書朗読も説教も続行不可能になりました。妻が救急車を呼んでくれて、教会の礼拝はそこで中断されました。

私の気持ちとしては説教原稿をどなたかに読んでいただきたかったし、礼拝を続けていただきたかったですが、そういう状況でなくなりました。申し訳ないことをしました。

そのときの原因も過労といえば過労ですが、直接的には脱水症状でした。12年前は、私の娘がまだ小学生でしたが、自分の目の前で、日曜日の礼拝中に、自分の父親が死んだと、一時本気で受け取ったようで、大きな声で泣いたようです。その声が聞こえないくらい、私は気を失っていました。

私の話はもうやめます。礼拝中に説教者が死ぬ(死ぬ死ぬと不快な言葉を重ねて申し訳ありません)、またはなんらかの事故で礼拝の続行が不可能になる場合がないわけではない、ということのひとつの実例として、私の恥ずかしい過去をさらしました。

しかし、これは本当に難しい問題であると私はとらえています。話の筋がずれるかもしれませんが、東日本大震災の直後の日曜日(2011年3月13日)の礼拝中、私がいた千葉県松戸市の教会でもかなり大きな余震がありました。東京の教会のみなさんも同じ状況を体験されたに違いありません。礼拝堂の窓が割れたかと思うほど激しい音までしました。

そういうときに、それでも神にささげる礼拝なのだから、中断など一切考えずに続行すべきであると考えてよいでしょうか。今日の箇所のようにエウティコが死んだのに、まだ礼拝を続ける、まだ説教を続ける、生き返ったのだから構わないという話になるでしょうか。

話の筋はずれているかもしれませんが、いろんな意味で考えさせられるテーマを含んでいると、今日の箇所を読み直して思わされました。

こういう話もしておく必要があるでしょうか。それは、今日の聖書の箇所に記されている出来事は、キリスト教信仰の根幹にかかわる「死者の復活」とは全く異なることであるということです。

二千年前の人々にとってのいわゆる死亡判定の基準がどういうものだったかは私には分かりませんが、今のわたしたちとは違うかもしれません。今の基準を調べてみました。こういうこともすぐ分かる時代です。

「睫毛(しょうもう(まつげ))反射の消失、対光反射の消失、心音の消失、呼吸音の消失、前腕の橈骨(とうこつ)動脈および頸動脈の触診、心電図モニターで脈拍ゼロの確認」で死亡診断となるそうです。最近大切なお身内を亡くされた方々もおられる前で、このような話をずけずけして申し訳ありません。

二千年前はどうだったでしょう。息をしていないし、心臓が止まっている。それで死んだという感じではなかったかと思います。AEDでドンと刺激すれば、心臓が動き出し、息を吹き返すかもしれない。今日の箇所の出来事は、そういう話だと思っていただくほうがよいと思います。奇跡的な出来事ではありますが、「死者の復活」とは全く異なります。

今日は日本キリスト教団の聖書日課に基づく聖書箇所と「生命の回復」という説教題でお話ししています。先ほどから考えさせられているのは、私は何を話せばよいのだろうということです。今もなおそのことを考えながら話しているところがあります。

冗談のような話にするわけには行かないのですが、今日の箇所からわたしたちが教訓として学びうることは、「ひとりの人が眠り込んで転落死するほど長い説教をしてはいけない」とか、「人がひとりみんなの前で死んだのに、それでもなお礼拝を続行しようとするのはいかがなものか」とか、そのようなことばかりが思い浮かびます。不謹慎で申し訳ありません。

しかし、今申し上げていることを私は、まるで冗談のような言い方をしてはいますが、きわめて深刻に受け止めている面があります。「私の話はもうやめます」と言いましたが、最初の話に戻ります。私が2日間寝込むことになった「原因」に。「せいにする」意味ではありません。

生徒たちが書いてくれた大量のレポートを赤ペンでコメントしながらすべて読みました。かなり多く出てくる意見は「礼拝の説教が長い」「退屈過ぎて死にそうだ」ということでした。

私の説教のことではありません。私の説教は中学校と高校それぞれ月に1回ずつだけです。しかし、そうでない意見もありました。「元気になる」「励まされる」「心が落ち着く」。そのように書いてくれた生徒も大勢いました。

学校の話にしているのは、いくらか逃げの要素を含んでいます。教会ももちろん同じだと思っています。

それぞれ忙しい毎日を過ごしておられる皆さんが、まさに万難を排して日曜日ごとに礼拝に出席してくださっています。なかには遠くから電車やバスや自動車に乗ってきてくださる方々もおられます。

その皆さんにとって「今日は教会に来て本当によかった」と思っていただける礼拝と説教でなければならないと心から願う次第です。

死んでいたのに息を吹き返せるような礼拝を、生命が回復されるような説教を、祈り求めてやみません。

(2019年7月21日)

2019年6月25日火曜日

自分で自分を治めよ(2019年6月25日、高等学校礼拝)


ルカによる福音書18章9~17節

関口 康

みなさん、おはようございます。

「6月は読書月間なので、礼拝の中で本の紹介をしていただけると幸いです」と書かれたプリントを見たことを昨日思い出し、今日がまだ6月であることに気づきました。それで昨日、大急ぎで一冊の本を読みました。

「この本です」とお見せしたいところですが、アマゾンのキンドル版で読みました。自分のパソコンにダウンロードしました。パソコンをチャペルに持ってくるわけには行きませんので、著者とタイトルをご紹介することでお許しください。

著者は三浦綾子さんです。タイトルは『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』(三浦綾子電子全集、小学館、2013年)。単行本が1999年に出版されています。図書館にありますので、ぜひ読んでみてください。

本書の主人公である矢嶋楫子(やじまかじこ)さんは、今の熊本県に当たる肥後国に、まだ江戸時代だった1833年に生まれ、1925年に92歳の生涯を閉じるまで活躍した教育者です。

矢嶋先生の存在を有名にしたのは、東京都千代田区の女子学院(現在の女子学院中学校・高等学校)の初代院長になられたことと、日本キリスト教婦人矯風会という社会活動団体の初代会頭になられたことです。

三浦綾子さんが描いているのは、矢嶋先生が生まれたときから亡くなるまでの生涯全体ですが、三浦さん自身があとがきに書いているように、伝記のようで伝記でない、小説のようで小説でない、評伝のようで評伝でない、不思議な内容を私も感じました。

悪い意味ではありません。これほど数奇な生涯をリアルに送る人が本当に存在したことを知ることができて、激しく心を揺さぶられました。「事実は小説より奇なり」という言葉通りの人生を送った矢嶋先生の人となりが、よく分かりました。

どこに最も感動したかといえば、これも三浦綾子さんがあとがきで、本書で伝えたかったことの要点を書いておられましたので、私の読み間違いでないことが分かって安心しました。

それは、矢嶋楫子先生の言葉として紹介されている「あなたがたには聖書がある。自分で自分を治めよ」という教えです。矢嶋先生は、プロテスタントの教会で洗礼を受けたクリスチャンの方です。学校では聖書を教える先生でした。

女子学院の前身の桜井女学校時代のころ、矢嶋先生ご自身のお考えで、学校に校則がなく、定期試験のときに試験監督を置かなかったそうです。それでも校風を乱す生徒はいなかったし、カンニングする生徒もいなかったそうです。

私が感動したのは、これと同じことを今の時代でもすべきであると思った、というような、そんな単純な理由ではありません。しかしとても反省させられました。

私もこの学校で4月から聖書の授業を担当させていただいていますが、矢嶋先生ほど強い確信をもって「あなたがたには聖書がある」と言えるような授業ができていないことを反省しました。申し訳ない気持ちでいっぱいです。

矢嶋先生が次のようにおっしゃっています。三浦綾子さんがお書きになった文章の中から引用します。

「人間という者は、規則がたった一つしかなくても、いったん誘惑に遭えば、たちまち規則違反をしてしまうものなのです。一つの規則さえ守れぬ者が、どうして二十も三十もの規則を守ることができますか。(中略)わたしは、罪の問題は、神の力に、神の愛にすがるより、しかたのないことだと思います。わたしたちの罪を代わりに負ってくださったキリストの十字架を、しっかりと見上げる以外に、守られる道はないと思います。わたしたちは生徒たちに、『あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい』と、口を開くたびに申しているわけです。」

今朝朗読していただいた聖書の箇所に出てくる、自分は聖書の戒めを守っているので正しい人間であるということを理由にして他人を見下している人々にイエスさまがおっしゃった言葉を、重く受けとめましょう。

その自分は聖書の御言葉を守っているので正しい生き方ができていると思い込んでいる人のほうが、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、貫通を犯す者でなく、この徴税人のような者でもないことを感謝します」とお祈りしました。

他方、自分の罪を自覚している人が「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、神さまの前にへりくだってお祈りしました。

どちらの祈りが、神の前にふさわしいでしょうか。そして、どちらの祈りの言葉が、人を慰め、励ますことができるでしょうか。

聖書は人を謙遜にするためにあります。そしてそのうえで聖書は、矢嶋楫子先生がおっしゃったとおり「自分で自分を治める」ためにあります。

三浦綾子さんの『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』をぜひ読んでみてください。心からお勧めいたします。

(2019年6月25日、高等学校礼拝)

2019年4月27日土曜日

百人隊長の謙遜(2019年4月27日、中学校礼拝)


ルカによる福音書7章1~10節

関口 康

みなさん、おはようございます。今月から3年生の聖書の授業を担当しています。日本キリスト教団昭島教会牧師の関口康です。

3年生の方々への挨拶は済んでいますが、1年生と2年生の方々は今日が初めてです。しかし、2年生の方々は一度お会いしました。昨年12月20日クリスマス礼拝で私がお話ししました。またお会いできたことに感謝しています。

今日の聖書の箇所に書かれていることをお話しします。イエスさまのもとに何人かの人が血相を変えて訪ねてきました。話の内容は、「百人隊長」と呼ばれる人の部下が重い病気で死にそうになっているので早く行ってあげてほしいということでした。

理解できる話です。しかし、そのときその人たちが余計なことを言うのです。それは次の言葉です。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4~5節)。

「あの方」とは百人隊長です。軍隊の人です。百人の兵隊を率いるリーダーです。部下に信頼される上司です。ユダヤ人のために会堂を建ててくれた人だとも言われています。自分のお金をたくさんささげてそれを建ててくれた人だということで、多くの人々に大変尊敬されていました。

いま病気で苦しんでいて死にそうになっているのは、その百人隊長さまの部下ですというわけです。つまり、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」というのは、あれほど尊敬されているあの方とその部下を助けるのは、あなたにとって当然のことですと、この人々は言っているのです。

しかし、それは余計なことです。悪気などは全くなかったでしょう。しかし、言葉を選ぶセンスがありません。「あの人を助けるのは、あなたにとって当然である」と言っているように聞こえることを言っています。少なくとも二つの意味で問題です。

一つは、もしそうだというなら、助けなくてもよい人がいるのかという問題です。「尊敬されていない人は助けなくてもよい」のですか。

もう一つの問題は、今困っている人がいるからその人を助けなくてはならないと、そのように言っている人たち自身がその人を助けるのではなく、イエスさまにそれをさせようとするのは何を意味するか、です。

彼らが言っているのは、レッツ・ゴーではなく、レット・ユー・ゴーです。もっとはっきり言えばゴーです。彼らはイエスさまに「行け」と命令しているのです。何の権限でイエスさまに命令するのですか。

しかし、なんと驚くべきことに、イエスさまは、その人たちにそう言われてすぐに腰を上げて、百人隊長の家へと向かってくださったというのです。「私に命令するな」と腹を立てないで。ここに、イエスさまの謙遜な姿を見ることができます。

しかし、ここで間違えてはならないのは、このときイエスさまは多くの人から尊敬されている百人隊長だから助けようとなさったのではない、ということです。どんな人でも分け隔てなく、イエスさまは助けてくださいます。これこれの業績がある人だから助けるのは当然であるが、そうでない人は助けないというような差別を、イエスさまはなさいません。

もう一つ、これも間違えてはならないのは、そういうふうにイエスさまに言ったのは百人隊長自身ではなかったことです。百人隊長自身が私の部下を助けるのはあなたにとって当然であると、イエスさまに対して考えていたわけではありません。

実際にそうであったことが分かるように記されています。イエスさまが途中まで来られたとき、百人隊長の友人がイエスさまのもとまで来て言いました。

「主よ、ご足労に及びません。わたしはあなたを自分の家の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(6~7節)。

この百人隊長は、本当に謙遜な人でした。だからこそ多くの人に尊敬されたのです。逆に言えば、謙遜でない人は尊敬されません。命令して人を動かすことしか考えない人は。それと、差別する人は。

今日の結論を言います。わたしたちみんな謙遜になりましょう。先生たちも謙遜になります。私も謙遜になります。生徒の皆さんも謙遜になりましょう。今日の聖書の箇所のイエスさまの謙遜や、百人隊長の謙遜に学びましょう。

私はこの学校のみなさんにお会いできるのが、うれしくて楽しくて仕方ありません。みなさんのことが大好きです。愛しています。だからこそ、みなさんには立派な大人になってほしいと心から願って、厳しいことを言います。

今日も一日、がんばりましょう。連休の間、みなさんの健康と安全が守られるようにお祈りしています。

(2019年4月27日、中学校礼拝)