2019年12月17日火曜日

学校は本番ではない

 

2021年12月17日に描く

【学校は本番ではない】

ファン・ルーラーが(オランダの超伝統校の)ユトレヒト大学の(超伝統的な)神学部教授だったときこそ「神学は遊び(spel)である」と言った意味が今なら少し分かる。神学とか中高でいえば聖書とか、言ってしまえば実害ない分野でさんざん生徒・学生も教員も失敗しとけと。学校も勉強もどのみち練習試合。

そのあたりがおかしくなっているのか大昔からおかしいのか、学校こそ本番だと思い込まれている。そのように追いつめられて威嚇されて萎縮している。失敗が許されるほど世は甘くないと説くも結構。それはそうだが、学校の授業でこそリラックスできないのは不幸。学問の本質は遊びである。

おそらくもちろん超高層ビルや長大な大橋の設計中に計算ミスがあったとかいう話なら、とんでもない規模の被害があろう。「失敗は許されない」という言葉の現実味が違う。でも、だからこそ思うが、学校で失敗できなくてどこで失敗する。生徒だけが失敗するのではなく、先生も失敗していいだろう。

単純な話だよね。教員が授業中に「すみませんでした」と教室のみんなに謝って、改めて蓋然性の高い解を教えればいいだけのこと。そうすることが可能な信頼関係を築くことに、開講から何か月かけても構わない。「教師の私はパーフェクト。私の教えを聞いてちょうだい」スタンスの人は、はなから嫌われている。

有名人なので名指しをお許しいただきたいが、私の教師でもあった旧約学者の左近淑先生(故人)が講義中にチョークで板書しながらしょっちゅう言っておられたのは「ぼくこれ今考えながら話してるからね。次は違うこと言うかもしれないよ」。こういう講義なら聴ける(私は当時ハタチ)と思ったものだ。