【サボる牧師】
珍しい例ではないだろうが、生後から半世紀以上クリスチャンしかしたことがないのに、パターン化されたキリスト教の常識のようなことが一向に身に着かない。理由はたぶん、神学校以外のキリスト教学校に通った経験がないとか、カトリック経験も福音派経験もないとか、劇的な回心体験もないとかだろう。
反発を食らいそうなことをあえて言えば、そういうのが植村正久的というか、私が(2つの)神学校で覚えた空気だったりはする。パターン化を嫌うというか、毎回「えっと聖書では」「えっと歴史では」とイチから考えなおして解を求める。レシピ無いのか見ないのかと叱られそうなほど毎回料理の味が違う。
パターンに安心や安定を見出す向きの方々はノーコン投手の危険球のような恐怖を抱くかもしれない。私だけがそうだと言いたいのではない。私が習ってきたキリスト教というか牧師教育の範囲内の神学というかは、概ねそういう空気感を持ち続けている。パターン無き恐怖の神学であると言えるかもしれない。
その意味で私は「自分で考えること」に何の躊躇もない。「神を考える(Gott denken)」(ドロテー・ゼレ)と言われても何の反発も感じない。逆に、考えるのをやめると終わると思っている。生ける神を信じていないという意味ではない。考えるのをやめることが信仰であるわけではないと言いたいだけだ。
「神を考える(Gott denken)」ことに躊躇がないのは、ファン・ルーラーの影響ではない。彼の本を読み始めたのは30歳を過ぎてからなので。しかし、ファン・ルーラーが補強し、励ましてくれた面はある。「神義論(theodicee)は温かく擁護されるべきだ」と書いてくれる神学者に初めて出会って驚いた。
「神が世界を作っただとか、あんたらは言う。もしそうだというのなら、この世に悪がはびこっているのは神のせいだというわけだ。そんなひっでえ話をあんたらよく信じてられるね。うちはまっぴらごめんだよ。ほぼほぼ恨みしかねーわ。はい、さようなら」。ぶっちゃけこれが神義論(theodicee)だろう。
神義論(theodicee)の問いは、創造と終末の関係は何かという問いの中に生じるとファン・ルーラーは言う。ざっくりいえば、もし終末(おわり)が創造(はじめ)と全く同じなら、途中の歴史はすっとばされて無視されたことになるよね、ということだ。「救いもある」と言えなくては、まさに救いがない。
しかし、ここから先はファン・ルーラーの引用ではないが、「実際の」神義論は抽象でもなんでもなく、きわめて具体的な眼前の悪に脅かされている人の悩みであることが決して少なくない。「神はいない」「救いはない」としてしまうと思考が止まる。すっきり絶望できるかもしれないが、未練は残るだろう。
私の話に戻る。私は何十年経ってもキリスト教の常識的なパターンのようなものが一向に身に着かない。「この問いかけにはこう答える」というような模範回答例をうさんくさいと思う。尊重はするが、とらわれない。毎回改めて新しく考え直す。分からないことは「私には分かりません」と説教原稿に書く。
30年牧師を名乗り、牧師しかしたことがないのに「牧師に向いていない」と自覚しているのも同じ理由だ。やめればいいのに未練がある。「神はいる」「救いはある」と言い続けることに未練がある。言うだけなら牧師なんかやめても変わりはないだろうと自分でも思うが、現実はそこまですっきりしていない。
幸か不幸か、牧師の職務に未練があるので、やめたいと思ったことはない。躊躇なく言うが「神が」私をやめさせてくれない。自分で願い、計画し、実行してきたことは、ことごとく道を閉ざされた。しかし、なぜかいつも、すきま風が吹いてきた。小さな穴が開いていた。「すきま牧師」と呼んでください。
今日は出勤日ではないが、学校に行く気でいた。明日は授業だし、期末試験が近い。シャワーして着替えた後、考えごとをしているうちに雨が降り出した。非常勤は出勤日以外は交通費は当然自腹。それでもいいやと思っていたが、雨で心が折られた。今日はサボる。二度寝するか(やめとけ昼夜が逆転する)。