| 日本キリスト教団小金教会(千葉県松戸市小金174) |
2017年7月2日日曜日
小金教会の主日礼拝に出席しました
2017年7月1日土曜日
ブライダル報告
2017年6月27日火曜日
熱く生きろ!(東京女子大学)
| 東京女子大学(東京都杉並区) |
| 東京女子大学(東京都杉並区) |
ヨハネによる福音書11章32~35節
関口 康(日本基督教団牧師)
「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。イエスは涙を流された。」
東京女子大学の皆さま、おはようございます。日本基督教団教師の関口康です。千葉県柏市に住んでいます。今日はどうかよろしくお願いいたします。
「熱く生きろ!」というタイトルを付けさせていただきました。初対面の方々に命令形を使うのはアウトだと思いながら付けました。申し訳ありません。しかし私の気持ちとしては「もしよろしければ熱く生きていただけませんでしょうか」です。
どうしてこういうタイトルなのかといえば、今日の礼拝のために私が選ばせていただいた聖書の箇所に、やたら熱いイエス・キリストが出てくるからです。
この場面の説明をします。イエスさまの友人でもあったラザロという男の人が病気になりました。そして、その病気で亡くなりました。墓に葬られました。それから4日も経っていました。
人の死についてお話しするのは慎重でなければならないと思います。私がお話しすることでもし皆さんの中に差し障りがある方がおられるようでしたらどうかお許しください。とにかくはっきりしていたのは、ラザロが亡くなったことは、もはやだれにも疑う余地がない客観的な事実だったということです。
しかし、とても気になることが今日の朗読箇所の少し前のあたりに記されています。イエスさまはラザロが生きていたとき、そろそろ危ないので早く来てもらいたいと連絡を受けてもラザロのところに行きませんでした。ラザロが亡くなったとき、その知らせは届いているのにイエスさまはラザロのところに行きませんでした。イエスさまがラザロのところに行ったのはラザロが墓に葬られて4日も経ったときだったというのです。
それで、ラザロの2人のお姉さんがイエスさまに対してものすごく腹を立てました。名前はマルタとマリア。この2人がイエスさまに激しく食ってかかりました。「あなたがすぐに来てくだされば、弟は死ななかったでしょうに」とまで言いました。
そのように言われてイエスさまがどのように反応したかが今日の箇所に描かれています。「心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか』」。そして「イエスは涙を流された」。
こういうのをわたしたちは逆ギレと言うかもしれません。マルタとマリアだけでなく、そこにいた全員がイエスさまに腹を立てていたことが考えられるわけですが、そうしたら今度は逆にイエスさまのほうが腹を立てはじめ、興奮し、泣き出したというのです。
しかし問題はイエスさまが何に腹を立て、興奮し、涙を流したのかです。答えを言います。そこにいたすべての人がラザロの死を動かぬ事実であると固く信じ、あきらめ、泣いていたことに、です。そしてその勢いで、すぐに来なかったイエスさまのせいにしはじめたことに、です。
なぜあなたがたはあきらめているのか、泣いているのか。そのことにイエスさまは憤り、興奮し、涙を流したのです。その後ラザロがどうなったかについては、ぜひ続きをお読みください。
イエスさまがラザロのところにすぐ来てくださらなかったことの理由も言っておきます。ラザロのまわりの人たちに、もっと強く神さまを信じてほしかったからです。客観的に動かぬ事実を前にしても、それでもなお絶対にあきらめないで、人間の力を超えて働かれる神さまを信じてほしかったからです。
私が今日皆さんにお話ししようと思って来たのは、あきらめるのが早すぎる方々への励ましの言葉です。絶対にあきらめないでください。神さまを信じてください。必ず道は開けます。
私には皆さんと同じ世代の子どもが2人います。2人とも就活中の学生です。そして実は私も就活中です。昨年度は高校で聖書を教える常勤講師でしたが、「代用教員」でしたので1年で契約が終了しました。その前の25年は教会の牧師でした。私の願いは、もう一度、教会の牧師に戻ること、または、学校で聖書を教える先生に戻ることです。
同情してもらいたいのではありません。「おじさんも必死で生きています」と言いたいだけです。
私は絶対にあきらめません。皆さんも絶対にあきらめないでください。そして、神さまを信じてください。神さまが、人間には考えられない方法で、とにかくなんとかしてくださいます。
皆さんの将来が明るい希望に満ちたものでありますよう、お祈りいたします。
(2017年6月27日、東京女子大学 日々の礼拝)
| 東京女子大学(東京都杉並区) |
| 東京女子大学(東京都杉並区) |
2017年6月25日日曜日
心から神を礼拝しよう(千葉若葉教会)
ヨハネによる福音書4章21~23節
関口 康(日本基督教団教師)
「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。』」
ヨハネによる福音書の学びの4回目です。4章に入ります。今日の箇所に登場するのはイエスさまとサマリア人の女性です。
イエスさまの伝道が進展し、多くの人に洗礼を授け、バプテスマのヨハネの弟子の数よりもイエスさまの弟子の数が多くなりました。それがファリサイ派の人々の耳に入りました(1節)。ファリサイ派の人々からすると、彼らに反対し、自分たちの地位を脅かす勢力が増大していることを意味します。それは彼らの側にイエスさまへの迫害の動機が増えているということです。
それでイエスさまはユダヤからいったん退き、ガリラヤへ行かれました(2節)。ガリラヤはイエスさまが伝道活動を開始した地ですので、出発点にお戻りになったことを意味します。そのイエスさまがユダヤからガリラヤへお戻りになる途中に通られた町が今日の箇所の場面です。それがサマリアです。「しかし、サマリアを通らねばならなかった」(4節)と記されています。
ここで「サマリアを通らねばならなかった」と書かれていることには意味があります。ユダヤからガリラヤへ行く道はひとつだけではなかったからです。サマリアを通る道は最短距離ではありました。しかし別の道もありました。多くのユダヤ人は別の道、もっと遠回りの道を通りました。サマリアを避けて通る人々のほうがほとんどでした。なぜならサマリアは当時の特にユダヤ教主流派の人々と対立関係にあったユダヤ教サマリア派ないしサマリア教の人々が住む町だったからです。
ところがイエスさまはそのサマリアを「通らねば」なりませんでした。ご自分がこの町を通ることには必然性があるとお考えになりました。しかしその必然性は地理的な必然性ではありません。地理的な意味で別の道がなかったわけではないのですから。そうではなくて伝道的な必然性です。「わたしはこの町に伝道しなければならない、福音を宣べ伝えなければならない」というイエスさまご自身の伝道的な決心です。その意味での「サマリアを通らねばならない」です。
しかしまたそれは「本当は通りたくないし、全く気乗りがしない。しかしこれが自分の義務であり使命なのだから、私は嫌でもなんでもこの道を通らなければならないのである」というような否定的な消極的な意味で考える必要はありません。もっと肯定的な積極的な意味です。この町に福音を宣べ伝えるのだ、喜びの知らせを告げに行くのだ、私はそうせざるをえないのだというイエスさまの決意表明です。そのようにとらえるのがいちばんよいと思います。
わたしたちはどうでしょうかと、ここでついわたしたち自身のことを考えたくなります。教会に来ること、礼拝をささげること、いろんな集会や活動に参加すること、献金すること。これらのことについてわたしたちは、しなければならないからする、嫌々ながらでもするというような感覚ばかりを持っていないでしょうか。
そういう感覚を持ってはいけないとは私は思いません。信仰生活、教会生活は一生ものですから。長い年月の間に、山あり谷あり、浮き沈み、熱いとき冷たいときがあります。わたしたちは皆そのようなところを通ってきました。しかし、義務だ責任だというだけだとつまらないです。面白くない。
今申し上げているのはイエスさまが「サマリアを通らなければならなかった」と記されていることから出発した連想です。イエスさまは、義務だから責任だから、嫌でもなんでもその町を通らなければならなかったのでしょうか。そのような感覚は、私たちにはあるかもしれませんが、イエスさまにまで押し付けなくてもよいでしょう。
ただひとつはっきりしているのは、イエスさまがサマリアを通った行為は当時のユダヤ人の常識ないし一般的な感覚に対して明確に逆らうことを意味していたということです。ほとんどの人が「行きたくない」と思っているところにあえて突入されました。
だれかがそれをしなければ新しい道が開くことはありえないと思われたからです。その意味でイエスさまは新しい道の開拓者(パイオニア)であり、常識や既存の価値観を打ち破る挑戦者(チャレンジャー)であったと言えます。
さて、イエスさまがサマリアに到着しました。するとイエスさまの前にひとりの女性が現れました。「そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」(4節)と記されています。
当たり前のことを言いますが、イエスさまは「疲れる」体を持っていました。のども乾くし、お腹もすく。わたしたちと同じです。のどが渇いたので井戸のそばに座り、疲れたので休憩しておられました。そうしたら、そのイエスさまの前に井戸から水をくむために来た女性が現れたというのですから、その女性の出現はある意味で必然的です。誰も来ないということはありえませんでした。毎日必ず人が集まるところにイエスさまがおられたのですから。
そしてその女性とイエスさまとの会話が始まりました。初対面の女性に気軽に声をかけるイエスさまが描かれています。「水を飲ませてください」とイエスさまが言いました。すると「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私にどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と返ってきました。このやりとりにも必然性があります。それが当時の常識であり一般的な感覚だったからです。
「あなたがたはわたしたちのことを嫌っているのでしょ。わたしたちだって嫌われている相手のことを好きになることなんかできませんよ。はっきり言わせてもらえば、わたしたちもあなたがたのことが嫌いですよ。だってあなたがたはわたしたちを嫌っているのですから。お互いさまですよ。そのユダヤ人であるあなたがどうしてサマリア人である私に『水を飲ませてください』などと言うのですか。けんかを売っているのですか」というような意味です。
するとイエスさまは、これまたものすごい変化球でお返しになる。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。
このイエスさまのお答えを聞いて、女性はいよいよカチンと来たようです。「なんなのあなた、偉そうに」と。ものすごく腹を立てていると思います。「主よ、あなたはくむ物をもお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供も家畜も、この井戸から水を飲んだのです」(11~12節)。
女性が言おうとしていることは2つあります。ひとつは「水を飲ませてください」と言っておきながら私があなたに生きた水を与えるであろうとか、わけの分からないことを言う。それで水をくむものを持ってもいない。飲ませてほしいなら「お願いします」でしょうに。くむものがなければ「貸してください」でしょうに。自分が頭を下げてお願いすることもできないでいて、なんでそんな偉そうなことが言えるのですかということでしょう。
もうひとつはその井戸の由来です。この女性が言っているとおりの歴史的に由緒正しい井戸でした。その井戸を掘り当てたヤコブをあなたは侮辱するつもりですか。この井戸でどれだけの人が助けられ、そこに人が住み、町ができ、歴史が刻まれてきたかを分かっているのですか。もしそれを知らずにいて「私が生きた水を飲ませてやる」というような偉そうなことを言うのであれば、歴史に対する冒瀆であり、侮辱ですよと言っているわけです。猛然たる抗議です。
するとイエスさまは、またお答えになる。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(13~14節)と言われました。
だんだん禅問答です。女性としては、ますます腹が立ってくるような、しかし自分がふだん考えているようなこととは全く異なる次元のことへと誘導されているような、不思議な感覚を味わったのではないでしょうか。
「井戸の水は飲んでもまた渇く」。それは確かにそのとおり。「しかし渇かない水がある。それをわたしが飲ませてあげよう」とこの人は言い出した。大丈夫なのかこの人は。おかしい人ではないかと、この女性としてはだんだん心配になってきた可能性があります。
「だったらその水を見せてくださいよ。はいどうぞ、今すぐ。ほらすぐに。見せられるものなら見せなさいよ。そんな水があるわけないでしょ。やっぱり私をばかにしているのではないですか。悪いけどさっさとどこかに行ってください」と言いたくなるような。
しかしまたイエスさまはこの女性の心の中にあるものを言い当てられました。その内容は時間の関係で今日は割愛します。ぜひおうちで読んでみてください。理解するためのヒントとして申し上げられるのは以下の点です。
あなたの心の中に「乾き」がある。それは具体的にこのことではないか、そしてその「渇き」についてはいくら水を飲んでもそれで潤うこともいやされることもない。別の次元の解決が必要であるということを本人が気づくようなことをイエスさまがおっしゃっています。
そしてその意味での人の心の「渇き」の問題に対する解決策として、この女性自身が辿り着いたのが「礼拝」の問題でした。いくら水を飲んでも解決しない「心の乾き」を潤し、いやしてもらえる「礼拝」とは何かという問題に、この二人のやりとりがたどり着きました。
そのようにイエスさまが誘導なさいました。「誘導」という言葉がきつすぎるとしたら、彼女の発想の転換を助けてくださいました。決して押し付けるのではなく、すうっとうまく導いてくださいました。
しかしまだ問題が残っていました。それは「どこで」礼拝をするかという問題でした。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(20節)と女性は言いました。それは、サマリア人である私は「どこで」礼拝すればよいのでしょうかという意味です。
この女性の言葉には、私の心の「渇き」を見抜き、それを潤し、癒してくださる「あなたの説教」はどこで聞けるのでしょうかという意味が含まれていたと私は考えます。どこで行われる礼拝でならば私は救われますか。あなたの御言葉を私はどこで聞けますか。このサマリア人の女性が、自分の目の前にいる、まだ名前すら聞いていないその人のことをやっと信頼することができた、その瞬間に浮かんだ問いが「私はどこで礼拝すべきですか」ということでした。
その彼女の問いに対するイエスさまの答えが今日の朗読箇所に記されていることです。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(21節)。その意味は、場所は関係ないということです。
エルサレムに行かなくては本物の礼拝をささげたことにはならないなどということはありえない。場所はどこも構わない。ヴァチカンに行かなくては、歴史と格式のある伝統教会でなければ、著名な牧師がいる都会の巨大な教会でなければわたしたちの心が満たされることはありえないということはありえない。
そのような有名な場所の礼拝が「本物の礼拝」であって、他はすべて「偽物の礼拝」だなどということはありえない。ひとつひとつの教会の礼拝が「真実の礼拝」です。
バプテスト教会は「各個教会主義」ですので、この点は皆さんが最も強く主張してこられたところでしょう。
そして宗教の対立、教派の対立、民族の対立をすべて乗り越え、みんなで喜んで感謝して父を礼拝する時が来る。それがこの女性に向かって語られたイエスさまの約束です。
この約束は必ず実現するということに大きな希望をもって、わたしたちはこれからも歩んでいくのです。
(2017年6月25日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)
2017年6月23日金曜日
受肉(じゅにく)とは何か
「エンヒュポスターシス」や「二性一人格」を図解するスライドを作ってみた。ひたすら分かりやすさのみを追求したが、どう書いても差し障りが出てきそうな内容ではある。理解の鍵は、ロゴスが摂取した「肉」になぜ「人格(human person)」があってはならないかという問いにかかっている。
「肉(サルクス)」のイラストとしてあえてこれを選んだのは、「人性(human nature)がある」としながら、たとえば「人の顔」を付したものを選ぶとかえって危険なイメージに誘導してしまうと思ったからであって他意はない。厳しいご批判や叱責は甘受する他ない。あらかじめお詫びしたい。
ふざけているわけではなく真面目な話をしているつもりだが、我々が牛肉や豚肉や鶏肉を食べても、だからといって牛にも豚にも鶏にもならないのは、それらの肉そのものには、各動物の「性質」(味や香りなどいろいろ)はあっても、牛格も豚格も鶏格も(この「格」がペルソナ)、もはやないからである。
「ロゴスがサルクスから人性(human nature)を摂取した」としても「人格(human person)を摂取した」という意味で「人間になった」(became human being)わけではない。荒唐無稽だと言われれば返す言葉に困るばかりだが、イメージ膨らむ話題ではあろう。
こういう話の持って行き方や理屈のこねまわし方がとにかくイヤで、単純に元々ただの普通の人間が宗教的に崇拝される存在になっただけだとか、結局宗教はすべてほぼ妄想の共同幻想だとか言い放ってしまうほうが我々の腹に収まりやすいのはある意味当然でもあるが、そういうのは当然すぎて面白くはない。
ただ、「性」(nature)と「格」(person)の区別の問題は、すでにいろんな場面で直面しているはずだ。献体、臓器移植、サイボーグ。自分もしくは他者の身体の一部あるいは全体をどこまで客観的に「格」(person)なきモノとして見られるか。そもそもそういうのは全くありえないか。
2017年6月22日木曜日
ファン・ルーラーの「人間尊重」の神学
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| アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(1908-1970) |
これも古代由来の神学用語だが、「エンヒュポスターシス」と「アンヒュポスターシス」がある。両者共にキリスト論の用語であり、三位一体の第二位格が非人格的人間性を摂取することを指す。しかし両者の違いもある。前者は、人間としてのイエスの存在は神的「我」における我として見いだされるとする。
後者は、人間としてのイエスの存在はいかなる固有の人間的な我をも有しないとする。両者は、キリストの「二性一人格」の教理、すなわちイエス・キリストは真の人性と真の神性との二つの性質を持ちながら、二重人格者ではなく統一人格を持っている、という教理の説明についての異なる2つの説明である。
前者(エンヒュポスターシス論)は、神の言(ロゴス)がマリアから人性(サルクス)を摂取した(humana natura assumpta)とき、その人性(サルクス=肉)には自立した固有の「人格」はないとする。そうでないとイエス・キリストが二重人格者になり、ネストリウス主義になる。
後者(アンヒュポスターシス論)も、言ってみれば論理的によく似ている気もするが、神の言(ロゴス)の「受肉」(incarnatio)という論理は後退し、イエス・キリストの存在においては「人間的な我」としての人間的な人格(ペルソナ)は存在せず、もっぱら神としてのペルソナがあるとする。
つまり両者に共通しているのは、要するにイエス・キリストの「二性一人格」を言いたいだけであるということだ。神としてのペルソナと人間としてのペルソナの両方を自らの存在の内部に抱え込む仕方で内的に葛藤するイエス・キリストではなく、あくまでも統一人格の持ち主であると言いたがっている。
しかし、ここから先が「現代の論争点」である。このイエス・キリストの「二性一人格の教理」(エンヒュポスターシス論であれアンヒュポスターシス論であれ)を中核とする「キリスト論の論理」と「聖霊論の論理」を混同するとキリスト教の信仰も神学もめちゃくちゃに破壊されてしまうと言った人がいる。
ファン・ルーラーである。たとえば教会や信仰について考える場合、イエス・キリストにおける「二性一人格」の論理をそのまま当てはめると、教会や信仰において機能すべき「人間性」について、それ自体において自立した人格性はなく、非人格的なサルクス(肉)があるだけだと言わなくてはならなくなる。
そんなのはめちゃくちゃだとファン・ルーラーは主張した。教会や信仰には必ず「葛藤」がある。神のみこころと人間の思いとの激突がある。ファン・ルーラーは「葛藤こそが聖霊の働きの特徴である」というような言い方をした。聖霊論については「二性二人格」(ネストリウス主義)で構わないと言った。
この「キリスト論の視点」と「聖霊論の視点」の構造的な違いについての主張が、ファン・ルーラーを最も有名にした。ボーレンやモルトマンに影響を与え、「バルト後の神学」の道を開いた。この議論の中で「エンヒュポスターシス」や「アンヒュポスターシス」という古代の神学用語が繰り返し用いられた。
エンは英語のin(中に)。アンは「無い」。エンヒュポスターシスを「位格内」、アンヒュポスターシスを「非位格」と訳す人がいる。前者は「神的ロゴスのペルソナ(位格)の中に非人格的サルクスが摂取される」で、後者は「神としてのペルソナ(位格)には人間としてのペルソナ(位格)はない」。
ファン・ルーラーのこの議論は、カール・バルトの「キリスト論的集中の神学」への明確なアンチテーゼとして提示されたものである。ファン・ルーラーはバルトの神学を「キリスト一元論」(Christomonisme)と呼んだ。それは「キリスト一辺倒の神学」などと呼びかえることもできるだろう。
精密に書くと「ワケワカラン」の一言で封殺されてしまうので、最後に簡単にまとめておく。ファン・ルーラーの主張はいとも単純だ。教会と信仰における「人間性」(humanity)と「人間的なるもの」(Human beings)を侮辱するな、と言っているだけだ。「モノじゃねえよ人間だ」と。
三位一体の神は「外向き」に働く
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| 「出かける人」のイラストを描きました |
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| 「見送る人」のイラストを描きました |
古代由来の神学用語だが、opera Dei trinitatis ad intraとopera Dei trinitatis ad extraが区別される。前者は「三位一体の神の内なるみわざ」、後者は「~の外なるみわざ」。「内なる」の意味は内向きで「外なる」の意味は外向きである。
神が「内向き」であったり「外向き」であったりするとは何を意味するか。「内向き」とは三位一体の父・子・霊がいわば自己完結している状態を指す。神に欠乏はなく、いかなる他者の助けも要らない。世界も人間も、神の欠乏を補う存在ではない。その意味で、神にとって世界と人間の存在に必然性はない。
しかしその「内向き」でもありえた神があえて「外向き」になった。神は世界と人間を創造し、保持することを決意し、実行した。人間は神に逆らう存在になったが、神は人間を見捨てず、世界と人間を罪の中から取り戻すことを決意し、実行した。その神の「外向き」の働きは終末における完成の日まで続く。
おとぎ話のようではあるが、含蓄は深い。まるで神が我々のようだ。あなたが望むなら、他者との交流をすべて断ち切り、自己完結して引きこもってもいられるが、あえて面倒くさい「外」へと出ていく。「外」には争いがあり、傷つきもする。しかし、「外」でこそ世のため人のために貢献できることがある。
神も「外出」する。外で働く。出張もする。どこへでも行く。世のため人のために貢献する。面白い話ではないか。神が「外向き」でこそあるなら、教会が「内向き」であってよいはずがない。そもそも「教会」自体は「神」ではない。教会が自己完結することは「すべきでない」だけでなく「不可能」である。
2017年6月21日水曜日
教会が「内向き」になりすぎている
| 記事とは関係ありません |
遠い過去のことなのでそろそろ書かせていただくが、ある教会で「教会の奉仕」について牧師から話してほしいと依頼されたので、「教会の、世界に対する奉仕」について話したら、依頼者から不評を買った。「教会の受付当番や掃除当番などの役割分担」について話すことが、どうやら求められていたらしい。
正直に言えば、依頼者の意図は初めから分かっていた。「教会の受付当番や掃除当番など」の意味での「教会の奉仕」なしに教会は立ち行かないと言われれば、そうかもしれない。しかし私は、「教会が世界に対して奉仕する」という意味でないような「教会の奉仕」に意味はないと考えてきたし、今も変わらない。
使徒たちが「御言葉」に専念するために「奉仕者」(「執事」と訳す伝統もある)を選出したという使徒言行録の記事は有名だが、「奉仕者」の役割は狭い意味の「教会内のいろいろ」にもっぱら限定されることだっただろうか。その「奉仕者」に最初の殉教者ステファノが含まれていたことを忘れてはなるまい。
「教会の奉仕」が「外」に向かうものでないようなら、それは何だろう。同じことが「教会の伝道」にも当てはまる。「外」に向かうのでなければ、何が「伝道」だろうか。他の教会で十分に訓練を受けてきた人に来てもらえれば百人力だ、などと考えないほうがよいだろう。それだと差し引きゼロではないか。
「それは伝道ではない」で思い出したが、かつて近隣教会との講壇交換のとき「日曜日はうちの教会に来ないでください」と説教後の挨拶で言ったら、1年後、その教会の方から、自分の教会に不満を持っていたのでそちらに移る気でいたが先生の言葉で思いとどまったと言われた。ぜひ思いとどまってほしい。
「教会での奉仕」なしには「教会の、世界に対する奉仕」はありえないという貴重なご意見をいただいた。どちらが「大事」でどちらが「小事」かは難しいが、「小事に忠実な者は大事に忠実である」という教えの線でいえばご指摘のとおりである。ただ、その場合、「キリスト者とは誰か」という問題がある。
「キリスト者」とは「教会員」であり「教会で活動している人」を指すというのはひとつの立場だが、たとえば幼児洗礼を行う教会は「教会で活動している人」と「キリスト者」を同一視できない。また高齢者はじめ「教会で活動が困難な人」や「活動実態がない人」も「キリスト者」であり「教会員」である。
少し心配になったので日本基督教団教憲教規を確かめた。教規135条「信徒は、陪餐会員および未陪餐会員に分けて登録しなければならない」。幼児洗礼を受けて信仰告白をしていない人は「未陪餐」の「会員」、つまり「教会員」であり「キリスト者」であるという点は日本基督教団の定めに合致している。
教規140条「信徒が次の各号の一つに該当するときは、役員会の議決を経て、会員別帳に移すことができる。(1)3年以上住所が不明であるとき(2)理由なく3年以上教会に出席せず、かつ献金その他の義務を怠ったとき」。教会での活動実態がない人でも「別帳」の「会員」、つまり「教会員」である。
活動実態のない「教会員」を必ず含む「教会」が「世界に対して」何の「奉仕」ができるのか、現実問題として不可能ではないかという問いは当然出てこよう。だからこそそこから先が我々の考えどころなのだ。活動実態がないからといって「教会員」である人を「教会」自身が切り捨てることはできないのだ。
「未陪餐会員」も「別帳会員」も「教会員」であり「キリスト者」であると書いているのは詭弁を弄しているのでも教会統計をごまかしたいのでもない。この問題で現実に苦しんでいる人々がいる。日曜朝の数時間を教会活動に費やせる人々だけが「教会員」ではない。「教会」はもっと広く大きい存在である。
牧師が同じ教会にずっといるのでなく、いくつかの教会を経験することには良い面がある。どの教会も必ず直面する様々な問題について具体的な事例を挙げて話すことができる。しかし、牧師が同じ教会にずっといると、その具体例が「あの人のことだ」「あのことだ」とすぐに分かり、該当者の居場所を奪う。
「未陪餐会員」「別帳会員」について書いたのは自明といえば自明だが、あえて主張したいのは「全教会員の同等性」である。やっぱり優劣で考えてしまうし、「幽霊会員」だのと言い出される。日本だけではないと思うが日本の教会は、悪い意味でのアクティヴィズム(行為主義)に陥りすぎのところがある。
「礼拝に来た」か「来なかった」かが、すべてのすべて。何回か来なかったら「どうしたどうした」。心配するのはいいと思うが、いろんな詮索や中傷誹謗に近い話まで出てきたりして。何年か来なかったら「信仰を捨てた」。コミュニケーションが難しい人だったりすると「せいせいした」。どうかしている。
もっとはっきり言えば、目の前に「いる」か「いない」かがすべてのすべて。「いれば」求道者でも新来者でも「教会員」扱い。「いない」となると70年80年教会に通ってきた人でも無視、全否定。いくらなんでもまずい。指摘される前に気付いてほしいと思うが、指摘されても故意にしている場合もある。
2017年6月18日日曜日
いつも喜んでいなさい(青戸教会)
テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節
関口 康(日本基督教団教師)
「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、
神があなたがたに望んでおられることです。」
青戸教会の皆さま、おはようございます。
この教会で2回目の説教をさせていただきます。日本基督教団教師の関口康です。前回は5月14日(日)でした。早1か月が経過しました。今日もどうかよろしくお願いいたします。
今日開いていただきましたのは、聖書の中でも大変有名な箇所です。多くの人を励まし、力づけてきた言葉です。私もこの箇所の説教はこれまで何度もしました。主日礼拝でも、伝道集会でも、クリスマス礼拝でも、結婚式でも、葬式でもしました。
そのたびにこれはどのような場面にもふさわしい慰めと力に満ちた言葉であると感じてきました。この箇所を自分の愛唱聖句にしている方は大勢おられると思います。
今日は最初にこれらの言葉の辞書的な意味の説明をさせていただきます。そしてその後、これが現代に生きるわたしたちにとってどのような意味を持つかを申し上げたいと願っています。
第一の言葉は「いつも喜んでいなさい」(パントーテ・カイレーテ)です。書いてあるとおりの意味ですが、大事なことがあります。それは、「喜んでいなさい」と訳されているカイレーテは二人称複数の命令形で書かれているということです。
ですから、これを直訳すれば「あなたがたは常に喜べ」です。「喜んでもよいし、喜ばなくてもよい。どうぞご自由に」というニュアンスはありません。喜ぶことが命令されています。喜ばないと叱られます。
命令という言葉を聞くだけで反発されてしまうかもしれません。「私に命令するな。指図するな。あなたに何の権限があるのか。内容は何であれ命令されることに耐えられない」という反発がありえます。しかし今申し上げているのはとにかくここに書かれている言葉の辞書的意味です。反発や葛藤は必ずあると思いますが、すべて後回しにします。
第二の言葉は「絶えず祈りなさい」(アディアレイプトース・プロセウケスセ)です。これも書いてあるとおりの意味です。しかし大事なことがあります。
それは、「絶えず」と訳されているアディアレイプトースは「中断する」を意味するディアレイポーを、否定を意味する「ア」を最初に付けて否定している言葉であるということです。「中断する」の否定形で「中断しない」となり、それが「絶えず」とか「いつも」という意味になります。
大事なことはまだあります。「祈りなさい」と訳されているプロセウケスセも「喜んでいなさい」と同じく二人称複数の命令形で書かれています。「あなたがたは祈れ」です。先ほどと同じ言い方をしますが、「祈ってもよいし、祈らなくてもよい。どうぞご自由に」というニュアンスはありません。祈ることが命令されています。祈らないと叱られます。
しかし問題は、何を叱られるのかです。「祈らないこと」が叱られます。それはそのとおりです。しかし、ここで「絶えず」の意味は「中断しない」であると先ほど申し上げたことが重要です。その意味を生かして直訳すれば「中断しないで祈りなさい」です。つまりこの言葉で命令されているのは「祈ること」だけでなく「中断しないこと」です。
しかも、「祈り」を「中断する」とか「中断しない」とかいうのは、たとえば教会の礼拝や諸集会、あるいは家庭や職場などで目を閉じ、手を組み、祈りの姿勢をとり、祈りの言葉を唱えるのを途中でやめるとかやめないとかいうのとは全く次元が違うことです。それは常識的に考えれば分かることです。
たとえばわたしたちが自動車の運転中や家で料理をしているときに目を閉じ、手を組み、祈りの姿勢をとり、祈りの言葉を唱え続けることを「中断してはならない」などと言われますと事故を起こすか、やけどするか、包丁で手を痛めます。日常生活に支障が出ます。
もっとも、学校の授業中や教会の礼拝中に居眠りをしているときに「私は絶えず祈っています」と言い逃れるのは、ありかもしれません。
しかしそういうことではなく、「祈り」の意味は神に期待することです。神に訴えることです。神に求めることです。それをやめてしまうことが「祈りを中断すること」です。それは神との関係を自分の側から一方的に断つことです。
ですからそれは「信仰を捨てること」とほとんど同じ意味であるとさえ言えます。かなり厳しい言い方ですが、はっきり言えばそうなります。つまり「絶えず祈りなさい」という言葉は「信仰を捨ててはならない」というのとほとんど同じ意味であるということです。
第三の言葉は「どんなことにも感謝しなさい」(エン・パンティ・ユーカリステイテ)です。これも「ハードルが高い。困った、どうしよう」と、おそらくわたしたちがしばしば感じる言葉です。
なぜなら、「感謝しなさい」と訳されているユーカリステイテも二人称複数の命令形で書かれているからです。「あなたがたは感謝しろ」です。同じ言い方をまた繰り返しておきます。この言葉には「感謝してもよいし、感謝しなくてもよい。どうぞご自由に」というニュアンスはありません。感謝することが命令されています。感謝しないと叱られます。
しかし、この第三の言葉にはもしかしたら翻訳の問題があります。「どんなことにも」と訳されているエン・パンティの「エン」は英語のinであり、「パンティ」は英語のall thingsであるということを本当はよく考えて訳さなければならないはずですが、新共同訳はそのあたりが表現できていません。
英語のinを意味する「エン」を生かして直訳すれば「あなたがたはどんなことにおいても(エン)感謝しなさい」、あるいは「すべてのことの中で(エン)感謝しなさい」という感じになるはずです。そして、もしそうだとすれば、この言葉の意味合いは変わってくるはずです。
感謝できないこともある。いやいや、とんでもない。ほとんど何ひとつ感謝できない。ひどすぎる事実が世界を埋め尽くしている。わたしたちの心は怒りと悲しみと嘆きで満ちている。そう思っている人は多いです。ヨブが「自分の生まれた日」を呪い、自分の人生のすべてを否定しようとしたように。
しかし、そのような「すべてのことの中で」(エン・パンティ)、それにもかかわらず(notwithstanding)「あなたがたは感謝しろ」と命令されています。つまりこれは逆説的(パラドキシカル)な言葉なのです。
その場合の問題は「感謝」の対象はだれかです。この文脈では明確に「神」です。神への感謝です。
「こんな私に誰がした。こんな世界に誰がした。責任者出てこい。もし神が存在するなら、なぜ世界がこれほどまでにひどいのか。なぜ私の人生はこれほどまでに不幸なのか」と叫びたくなるすべての現実の中で(エン・パンティ)、それにもかかわらず(notwithstanding)、この世界と人類を創造し、愛してくださっている神へ感謝することが求められています。
そして、これら3つの言葉をまとめて言われているのが「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」です。これで間違いではありませんが、原文を直訳すると「イエス・キリストにおいてあなたがたに示された神の意志である」と訳すことができます。
今「神の意志である」と言いました。新共同訳は「神が望んでおられることです」と訳しています。原文はセレマ・セウーです。セレマは「御心」とも「定め」とも「計画」とも訳すことができます。
つまりセレマ・セウーは「神の御心」であり「神の定め」であり「神の計画」です。ですからここでわたしたちが考えなければならないのは、パウロが書いている三つの命令はどれも、わたしたち人間の側に主導権があるのではなく、すべては神の側に主導権があるということです。
その意味は、喜びについても、祈りについても、感謝についても、そうすることがわたしたちにできるように神がしてくださっているということです。神はわたしたちをなんとかして喜ばせようとしてくださっていますし、わたしたちがなんとかして祈り続け、なんとかして感謝し続けることができるように、神がわたしたちの信仰をしっかりと支えてくださっています。
同じことを別の言葉で言い換えておきます。
喜びについても、祈りについても、感謝についても、それらすべての根拠はわたしたち人間の側にもこの世界の側にもありません。それはそのとおりです。しかし、ここから先の理屈を説明するのが難しい。人間の側にも世界の側にも根拠はないのですが、しかしその根拠を神が人間と世界に何とかして与えようとしてくださっているので、喜び、祈り、感謝するための根拠がわたしたちの側に次第に生み出されていくのだということです。
しかし、新共同訳のように「神が望んでおられることです」と訳してしまいますと、私の感覚がひねくれているだけかもしれませんが、まるで神と我々との間に距離があって、神が遠くから、喜びもせず祈りもせず感謝もしないわたしたち人間に対していつも不満を抱いておられるかのようです。「お前たちに期待して、せっかく大きな愛と恵みをくれてやっているのに、お前たちは一向に私の望みをかなえてくれない」と言いたそうに。
私が申し上げたいのは「決してそういう意味ではありません」ということです。わたしたちはすでに喜んでいます、祈っています、感謝しています。そういう人生を、すでに歩んでいます、続けています。その歩みはすでに始まっているのです。
それをこれからも長く続けていくことができるように、イエス・キリストにおいて神が、わたしたちの存在をしっかりと支えてくださることを信じようではないかという、未来をめざす希望のメッセージがここに記されているのです。
以上が今日の御言葉の辞書的な意味の説明です。これからお話しするのは現代に生きるわたしたちにとってこれらの言葉がどのような意味を持っているのかということです。二つ申し上げます。
第一は、これらすべてはキリスト教会に宛てて書かれた言葉であるという意味で「教会のための言葉」であるということです。「教会を見つめる視点」を失うとほとんど意味不明な言葉であるということです。
その場合の「教会」は個人にとどまらない人間集団としての共同体を指します。喜びも祈りも感謝も、それをいつもする、絶えずする、いかなる状況の中でもするというのは、個人には不可能です。個人的に解決できる問題ではありません。
そうではないでしょうか。皆さんはおできになりますか。私は無理です。「牧師のくせに何を言う」と思われそうですが、私は無理です。不可能です。個人では無理です。私などはほとんど毎日怒っています。感謝を忘れて愚痴だらけ不満だらけです。社会に対しても家族に対しても教会に対しても、言いたいことは山ほどあります。
しかしそういうのは孤立を深める道です。言いたいことを言ってしまう。それで周りの人がみんな傷ついて離れていく。まるでこの世界に自分だけがいるかのようです。その自分はいつも被害者意識、劣等感、怒りを抱えて孤立し、絶望しています。そのような出口のない固い殻の中に引きこもった状態から解放される道が「教会」です。
教会に集まるとすぐ分かるのは、みんな同じだということです。みんな不満だらけです。だからこそ、みんなで知恵を出し合って「どうしたらいつも喜んでいられるのか、どうしたら祈れるのか、どうしたら感謝できるのか」を真剣に考えるのが教会です。
そして、そういうことを教会のみんなで一緒に考えることができる、そのこと自体が喜びです。こんな低レベルのことまで(!)一緒に考えてくれる仲間がいると思える、そのこと自体が喜びです。
第二は、だからこそ、わたしたちは「教会」において互いに赦し合わなければならないし、何より「教会を赦す」必要があるということです。私も含めてわたしたちは、たぶん「教会」に不満だらけです。しかしそういうときに「教会には喜びがない。祈りも感謝も足りない」と、まさに今日の箇所の言葉を、教会を裁くための言葉として用いてしまうことがあります。
しかしそれではだめです。それ「だけ」ではだめです。もちろんお互いに対する厳しさが必要な場面もあります。「教会に言いたいことが山ほどある」と私も先ほど言いました。しかしそのほとんどは、よく見ると鏡に映した自分の姿です。
つまりそれはわたしたちが自分自身を受け容れることができていないということです。自分を赦せていない。自分を愛せていない。その赦すことも愛することもできていない自分の姿が「教会」の中に見えてしまうときに、わたしたちは「教会」を裁きはじめます。
しかし、「イエス・キリストにおいて示された神の意志」は、わたしたちが喜び、祈り、感謝することです。そのためにわたしたちが一番最初にすべきことは、自分自身を愛することからです。自分を愛し、自分を赦すところからです。
そして次にしなければならないことは、わたしたち自身が「教会を赦すこと」です。教会はいつも責められてばかりです。文句しか言われたことがありません。そのように感じている牧師や役員はたくさんいます。すべて放り投げて逃げ出したいと何度思ったか分からないほどです。
わたしたちは「教会を赦す」必要があります。そして「教会において互いに赦し合う」必要があります。「教会」をどうか赦してください。
神は「教会」を愛してくださっています。わたしたち自身は、なんだか毎週毎週集まって礼拝して、こんなことに何の意味があるのか、世のため人のために役立っているのかがさっぱり分からなくなっているようなときも、神は「わたしたち教会の存在」を喜んでくださっています。
青戸教会の皆さまのためにこれからもお祈りさせていただきます。2度にわたり説教の機会を与えていただき、本当にありがとうございました!
(2017年6月18日、日本基督教団青戸教会 主日礼拝)
関口 康(日本基督教団教師)
「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、
神があなたがたに望んでおられることです。」
青戸教会の皆さま、おはようございます。
この教会で2回目の説教をさせていただきます。日本基督教団教師の関口康です。前回は5月14日(日)でした。早1か月が経過しました。今日もどうかよろしくお願いいたします。
今日開いていただきましたのは、聖書の中でも大変有名な箇所です。多くの人を励まし、力づけてきた言葉です。私もこの箇所の説教はこれまで何度もしました。主日礼拝でも、伝道集会でも、クリスマス礼拝でも、結婚式でも、葬式でもしました。
そのたびにこれはどのような場面にもふさわしい慰めと力に満ちた言葉であると感じてきました。この箇所を自分の愛唱聖句にしている方は大勢おられると思います。
今日は最初にこれらの言葉の辞書的な意味の説明をさせていただきます。そしてその後、これが現代に生きるわたしたちにとってどのような意味を持つかを申し上げたいと願っています。
第一の言葉は「いつも喜んでいなさい」(パントーテ・カイレーテ)です。書いてあるとおりの意味ですが、大事なことがあります。それは、「喜んでいなさい」と訳されているカイレーテは二人称複数の命令形で書かれているということです。
ですから、これを直訳すれば「あなたがたは常に喜べ」です。「喜んでもよいし、喜ばなくてもよい。どうぞご自由に」というニュアンスはありません。喜ぶことが命令されています。喜ばないと叱られます。
命令という言葉を聞くだけで反発されてしまうかもしれません。「私に命令するな。指図するな。あなたに何の権限があるのか。内容は何であれ命令されることに耐えられない」という反発がありえます。しかし今申し上げているのはとにかくここに書かれている言葉の辞書的意味です。反発や葛藤は必ずあると思いますが、すべて後回しにします。
第二の言葉は「絶えず祈りなさい」(アディアレイプトース・プロセウケスセ)です。これも書いてあるとおりの意味です。しかし大事なことがあります。
それは、「絶えず」と訳されているアディアレイプトースは「中断する」を意味するディアレイポーを、否定を意味する「ア」を最初に付けて否定している言葉であるということです。「中断する」の否定形で「中断しない」となり、それが「絶えず」とか「いつも」という意味になります。
大事なことはまだあります。「祈りなさい」と訳されているプロセウケスセも「喜んでいなさい」と同じく二人称複数の命令形で書かれています。「あなたがたは祈れ」です。先ほどと同じ言い方をしますが、「祈ってもよいし、祈らなくてもよい。どうぞご自由に」というニュアンスはありません。祈ることが命令されています。祈らないと叱られます。
しかし問題は、何を叱られるのかです。「祈らないこと」が叱られます。それはそのとおりです。しかし、ここで「絶えず」の意味は「中断しない」であると先ほど申し上げたことが重要です。その意味を生かして直訳すれば「中断しないで祈りなさい」です。つまりこの言葉で命令されているのは「祈ること」だけでなく「中断しないこと」です。
しかも、「祈り」を「中断する」とか「中断しない」とかいうのは、たとえば教会の礼拝や諸集会、あるいは家庭や職場などで目を閉じ、手を組み、祈りの姿勢をとり、祈りの言葉を唱えるのを途中でやめるとかやめないとかいうのとは全く次元が違うことです。それは常識的に考えれば分かることです。
たとえばわたしたちが自動車の運転中や家で料理をしているときに目を閉じ、手を組み、祈りの姿勢をとり、祈りの言葉を唱え続けることを「中断してはならない」などと言われますと事故を起こすか、やけどするか、包丁で手を痛めます。日常生活に支障が出ます。
もっとも、学校の授業中や教会の礼拝中に居眠りをしているときに「私は絶えず祈っています」と言い逃れるのは、ありかもしれません。
しかしそういうことではなく、「祈り」の意味は神に期待することです。神に訴えることです。神に求めることです。それをやめてしまうことが「祈りを中断すること」です。それは神との関係を自分の側から一方的に断つことです。
ですからそれは「信仰を捨てること」とほとんど同じ意味であるとさえ言えます。かなり厳しい言い方ですが、はっきり言えばそうなります。つまり「絶えず祈りなさい」という言葉は「信仰を捨ててはならない」というのとほとんど同じ意味であるということです。
第三の言葉は「どんなことにも感謝しなさい」(エン・パンティ・ユーカリステイテ)です。これも「ハードルが高い。困った、どうしよう」と、おそらくわたしたちがしばしば感じる言葉です。
なぜなら、「感謝しなさい」と訳されているユーカリステイテも二人称複数の命令形で書かれているからです。「あなたがたは感謝しろ」です。同じ言い方をまた繰り返しておきます。この言葉には「感謝してもよいし、感謝しなくてもよい。どうぞご自由に」というニュアンスはありません。感謝することが命令されています。感謝しないと叱られます。
しかし、この第三の言葉にはもしかしたら翻訳の問題があります。「どんなことにも」と訳されているエン・パンティの「エン」は英語のinであり、「パンティ」は英語のall thingsであるということを本当はよく考えて訳さなければならないはずですが、新共同訳はそのあたりが表現できていません。
英語のinを意味する「エン」を生かして直訳すれば「あなたがたはどんなことにおいても(エン)感謝しなさい」、あるいは「すべてのことの中で(エン)感謝しなさい」という感じになるはずです。そして、もしそうだとすれば、この言葉の意味合いは変わってくるはずです。
感謝できないこともある。いやいや、とんでもない。ほとんど何ひとつ感謝できない。ひどすぎる事実が世界を埋め尽くしている。わたしたちの心は怒りと悲しみと嘆きで満ちている。そう思っている人は多いです。ヨブが「自分の生まれた日」を呪い、自分の人生のすべてを否定しようとしたように。
しかし、そのような「すべてのことの中で」(エン・パンティ)、それにもかかわらず(notwithstanding)「あなたがたは感謝しろ」と命令されています。つまりこれは逆説的(パラドキシカル)な言葉なのです。
その場合の問題は「感謝」の対象はだれかです。この文脈では明確に「神」です。神への感謝です。
「こんな私に誰がした。こんな世界に誰がした。責任者出てこい。もし神が存在するなら、なぜ世界がこれほどまでにひどいのか。なぜ私の人生はこれほどまでに不幸なのか」と叫びたくなるすべての現実の中で(エン・パンティ)、それにもかかわらず(notwithstanding)、この世界と人類を創造し、愛してくださっている神へ感謝することが求められています。
そして、これら3つの言葉をまとめて言われているのが「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」です。これで間違いではありませんが、原文を直訳すると「イエス・キリストにおいてあなたがたに示された神の意志である」と訳すことができます。
今「神の意志である」と言いました。新共同訳は「神が望んでおられることです」と訳しています。原文はセレマ・セウーです。セレマは「御心」とも「定め」とも「計画」とも訳すことができます。
つまりセレマ・セウーは「神の御心」であり「神の定め」であり「神の計画」です。ですからここでわたしたちが考えなければならないのは、パウロが書いている三つの命令はどれも、わたしたち人間の側に主導権があるのではなく、すべては神の側に主導権があるということです。
その意味は、喜びについても、祈りについても、感謝についても、そうすることがわたしたちにできるように神がしてくださっているということです。神はわたしたちをなんとかして喜ばせようとしてくださっていますし、わたしたちがなんとかして祈り続け、なんとかして感謝し続けることができるように、神がわたしたちの信仰をしっかりと支えてくださっています。
同じことを別の言葉で言い換えておきます。
喜びについても、祈りについても、感謝についても、それらすべての根拠はわたしたち人間の側にもこの世界の側にもありません。それはそのとおりです。しかし、ここから先の理屈を説明するのが難しい。人間の側にも世界の側にも根拠はないのですが、しかしその根拠を神が人間と世界に何とかして与えようとしてくださっているので、喜び、祈り、感謝するための根拠がわたしたちの側に次第に生み出されていくのだということです。
しかし、新共同訳のように「神が望んでおられることです」と訳してしまいますと、私の感覚がひねくれているだけかもしれませんが、まるで神と我々との間に距離があって、神が遠くから、喜びもせず祈りもせず感謝もしないわたしたち人間に対していつも不満を抱いておられるかのようです。「お前たちに期待して、せっかく大きな愛と恵みをくれてやっているのに、お前たちは一向に私の望みをかなえてくれない」と言いたそうに。
私が申し上げたいのは「決してそういう意味ではありません」ということです。わたしたちはすでに喜んでいます、祈っています、感謝しています。そういう人生を、すでに歩んでいます、続けています。その歩みはすでに始まっているのです。
それをこれからも長く続けていくことができるように、イエス・キリストにおいて神が、わたしたちの存在をしっかりと支えてくださることを信じようではないかという、未来をめざす希望のメッセージがここに記されているのです。
以上が今日の御言葉の辞書的な意味の説明です。これからお話しするのは現代に生きるわたしたちにとってこれらの言葉がどのような意味を持っているのかということです。二つ申し上げます。
第一は、これらすべてはキリスト教会に宛てて書かれた言葉であるという意味で「教会のための言葉」であるということです。「教会を見つめる視点」を失うとほとんど意味不明な言葉であるということです。
その場合の「教会」は個人にとどまらない人間集団としての共同体を指します。喜びも祈りも感謝も、それをいつもする、絶えずする、いかなる状況の中でもするというのは、個人には不可能です。個人的に解決できる問題ではありません。
そうではないでしょうか。皆さんはおできになりますか。私は無理です。「牧師のくせに何を言う」と思われそうですが、私は無理です。不可能です。個人では無理です。私などはほとんど毎日怒っています。感謝を忘れて愚痴だらけ不満だらけです。社会に対しても家族に対しても教会に対しても、言いたいことは山ほどあります。
しかしそういうのは孤立を深める道です。言いたいことを言ってしまう。それで周りの人がみんな傷ついて離れていく。まるでこの世界に自分だけがいるかのようです。その自分はいつも被害者意識、劣等感、怒りを抱えて孤立し、絶望しています。そのような出口のない固い殻の中に引きこもった状態から解放される道が「教会」です。
教会に集まるとすぐ分かるのは、みんな同じだということです。みんな不満だらけです。だからこそ、みんなで知恵を出し合って「どうしたらいつも喜んでいられるのか、どうしたら祈れるのか、どうしたら感謝できるのか」を真剣に考えるのが教会です。
そして、そういうことを教会のみんなで一緒に考えることができる、そのこと自体が喜びです。こんな低レベルのことまで(!)一緒に考えてくれる仲間がいると思える、そのこと自体が喜びです。
第二は、だからこそ、わたしたちは「教会」において互いに赦し合わなければならないし、何より「教会を赦す」必要があるということです。私も含めてわたしたちは、たぶん「教会」に不満だらけです。しかしそういうときに「教会には喜びがない。祈りも感謝も足りない」と、まさに今日の箇所の言葉を、教会を裁くための言葉として用いてしまうことがあります。
しかしそれではだめです。それ「だけ」ではだめです。もちろんお互いに対する厳しさが必要な場面もあります。「教会に言いたいことが山ほどある」と私も先ほど言いました。しかしそのほとんどは、よく見ると鏡に映した自分の姿です。
つまりそれはわたしたちが自分自身を受け容れることができていないということです。自分を赦せていない。自分を愛せていない。その赦すことも愛することもできていない自分の姿が「教会」の中に見えてしまうときに、わたしたちは「教会」を裁きはじめます。
しかし、「イエス・キリストにおいて示された神の意志」は、わたしたちが喜び、祈り、感謝することです。そのためにわたしたちが一番最初にすべきことは、自分自身を愛することからです。自分を愛し、自分を赦すところからです。
そして次にしなければならないことは、わたしたち自身が「教会を赦すこと」です。教会はいつも責められてばかりです。文句しか言われたことがありません。そのように感じている牧師や役員はたくさんいます。すべて放り投げて逃げ出したいと何度思ったか分からないほどです。
わたしたちは「教会を赦す」必要があります。そして「教会において互いに赦し合う」必要があります。「教会」をどうか赦してください。
神は「教会」を愛してくださっています。わたしたち自身は、なんだか毎週毎週集まって礼拝して、こんなことに何の意味があるのか、世のため人のために役立っているのかがさっぱり分からなくなっているようなときも、神は「わたしたち教会の存在」を喜んでくださっています。
青戸教会の皆さまのためにこれからもお祈りさせていただきます。2度にわたり説教の機会を与えていただき、本当にありがとうございました!
(2017年6月18日、日本基督教団青戸教会 主日礼拝)
2017年6月15日木曜日
胃痛から解放されました
| モバイル系を除いて現在唯一稼働中の6千円中古デスクトップ(2017年3月31日購入) |
先週末から続いた胃痛からやっと解放。ほぼ確信。「う」ない。「イテテ」ない。来週日曜の説教原稿のドラフトを急ピッチ書き上げ中。説教「いつも喜んでいなさい」(テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節)。胃痛のままで語るのはつらそうだと思っていたテーマだったので解放感謝。解放記念日。
あーしかし、過去4日完全絶食ではなかったが、朝食はのむヨーグルト無糖と野菜ジュースと軽いサンドイッチ、昼食なし、夕食は妻が作ってくれる美味しい料理をちょびちょびつまむだけだったのを胃痛終息と同時にがっつり食べたら、胃がまたびっくりしている。「食べすぎ飲みすぎ」の胃薬飲まなくちゃ。
欲をいえば、中古でなく自作でもない信頼できる高速のWindows10デスクトップパソコンが欲しい。自作機がすべてダメになり、サブもサブもサブサブのつもりで買った6千円中古デスクトップが大活躍している現状。過去の経験からすれば6千円中古はそう長くは持たない。ワンポイントリリーフだ。
しかし、今の窮乏の中での現実的選択肢は、今の6千円中古デスクトップが壊れるまでに新たな6千円中古デスクトップを探してつなぐことだ。そのほうが6万円の新品を買うより得策だろう。それにしても今夜の月はなんとも不気味。肝臓が悪そうな黄疸色のガイコツ顔。まるで私の近未来。人生は実に楽しい。
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