ワンクリックがダブルクリックになり、いろんな記事に「いいね」を押しても取り消されるので、「いいね」連打。そのたびに通知をたくさん送るご迷惑をおかけしていた旧マウスの後任マウスを本日購入した。「本日より配属されたマウスです。よろしくお願いいたします」と挨拶してくれた。実力は未知数。
もう日が暮れたのか。明日の説教の準備がちっとも進んでいない。
今日購入したマウスの調子が良くて安堵。コーナン柏中新宿店で税込842円。今の自宅(借家)に入居後まもなく集合住宅ゆえ電波障害が起こりやすいことが判明して以来、マウスもキーボードもLANも全有線化。LANはPLC(電力線通信)で隣室の親機から有線接続。
今の自宅(借家)に入居後まもない頃、集合住宅ゆえの電波障害に苦しんだ末に導入したPLC(電力線通信)の子機はこれ。スイッチ切り替えにより親機としても使用可能。現在4機(親1、子3)使用してわが家の全PCのLANを有線化。PLC導入から1年経過したが、接続障害に悩むことはなかった。
新メンバーのマウスくんを迎えて喜んでいるのは旧メンバーたち。「これからよろしくね」と言っているのは、もう何年使っているか分からないほど長い付き合いのビデオ通話用マイク付きウェブカメラ。カールツァイス社製レンズ採用。「わ、すごくきれいに見えるんだけど」とみんなに言ってもらえる良品。
「ようこそマウスくん」と言っているのは、これまた長い付き合いの大型スピーカー。デジタルのクリアな音を迫力あるヴォリュームで再生できる。ガーネット・クロウさんの曲は当然いつもこれで。「午前5時です!朝ですよ!起きてください!」と毎朝騒ぐしゃべる目覚まし時計のおっさんロボ声もこれで。
2017年1月21日土曜日
「次の仕事」を生み出すネット
| へぇ~ボタン(トリビアの泉) |
「私訳聖書」などはどんどん出てくればいいと思う。自分の翻訳でひと儲けしてやろうという野心でもあれば話は別だが、私訳のネット公開の自由はあるはずだ。だれもとがめはしないし、とがめる理由がない。聖書の原典テキスト(写本は無数にある)そのものは、もはや著作権を主張することはないだろう。
説教原稿を公開することも「情報の体系をネット上に構築すること」に該当する要素を含んでいるが、そうする場合は引用元の文献名や頁番号などを詳細に書くほうがよい。そういうのが「他の人に役立つ資料提供」になる。ネットで説教を読む人の多くは、その人自身の説教づくりの資料探しに追われている。
あれこれ考えているうちに、いつの間にか眠っていた。朝まで目を覚ますことはなかった。気がつけば、パソコンが、部屋や机のライトが、エアコンが、どれもこれもつけっぱなし。ガーネット・クロウさんの曲は流れっぱなし。家族は仕事や私用。私は明日の礼拝の説教準備。よくねたので、体調はいい感じ。
2017年1月19日木曜日
個人の趣味も長く続ければ何かにはなる
| ファン・ルーラーに関する拙論を掲載していただいた雑誌 |
それにしても、今ほどまでに教会からも学校からも組織神学への関心が失われている只中に呆然と立ち竦んでいると、組織神学は個人の趣味でしかないと見られているのかもしれないという疑念が確信に変わる。現実の組織神学は「書斎の本の並べ方の順序の研究」のようなものかもしれないが、まあそれでも。
組織神学のすべてがそうだという意味ではないが、私が関心を抱くようなタイプの組織神学は、出版社の経営危機を救うほどに飛ぶように売れるようなものではないし、学校や教会を人気スポットにするほど魅力的な内容でもないので、「個人の趣味然」とした紹介の仕方や営み方を細々と続けていくしかない。
そのようなことをずっと続けても鳴きもしないし飛びもしないものだと自分でも分かっているつもり。まあでも、人類史の中から完全に失われるようなことがあってはならない息の長い営みではあるだろうと、自分に言い聞かせている。20年研究を続けてもタテに立つ厚さの本にならない怠慢を許してほしい。
しかし小さな声で言いたいのは、私の仕事上の資格や免許(車の運転免許を除く)のいわば唯一の根拠は「大学と大学院で組織神学を勉強したことがある」ことだったりはする。そこから数えれば30年、ファン・ルーラーに特化した研究の開始時から数えれば20年。個人の趣味も長く続ければ何かにはなる。
「ファン・ルーラーの著作」のアドレスを変更しました
拙ブログの「ファン・ルーラーの著作」ページのアドレス(URL)を変更しました。旧アドレスは削除となります。画像データを増やしました。これからもよろしくお願いいたします。
ファン・ルーラーの著作
http://yasushisekiguchi.blogspot.com/p/vanrulerjp.html
『カイパーのキリスト教的文化の理念』(1939年)
『宗教と政治』(1945年)
『政治は聖なる事柄である』(1946年)
『よみがえれ喜びに』(1947年)
『ヴィジョンと展望』(1947年)
『国家と啓示』(1947年)
『律法の成就』(1947年)
『夢と形』(1947年)
『神の国と歴史』(1947年)
『新しい教会規程における告白教会』(1948年)
『教会の宣教(アポストラート)と教会規程草案』(1948年)
『被われた存在』(1949年)
『現代における執事職の基礎と視座』(1952年)
『特別職と一般職』(1952年)
『百年後の司教杖』(1953年)
『宣教(アポストラート)の神学』(1953年)
『われらの父よ』(1953年)
『世にかかわる勇気を持て』(1953年)
『中高等教育のキリスト教化』(1954年)
『信仰告白はどのような役割を果たすか』(1954年)
『キリスト教会と旧約聖書』(1955年)
『政府とヒューマニズム』(1955年)
『司牧書簡の背景』(1955年)
『安心して楽しみなさい』(1955年)
『世界においてキリストが形を取ること』(1956年)
『最も大いなるものは愛』(1957年)
『プロテスタンティズムと動物保護』(1957年)
『国民教会について語ることにまだ何か意味があるか』 (1958年)
『教会の政治的責任』(1963年)
『ローマ・カトリック教会との出会いにおけるプロテスタンティズムの立場』 (1965年)
『人生の愚かさ』 上巻(1966年)
『人生の愚かさ』 下巻(1966年)
『神学における人間性』(1967年)
『われ信ず』(1968年)
『ファン・ルーラー神学論文集』第1巻(1969年)
『ファン・ルーラー神学論文集』第2巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第3巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第4巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第5巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第6巻(1973年)
『ファン・ルーラーとの対話』(1969年)
『聖書との交わりの形成』(1970年)
『なぜ私は教会に通うのか』(1970年)
『使徒の権威において』(1971年)
『喜びをもって信じる』(1971年)
『マルコ14章』(1971年)
『マルコ14章(続)・15章・16章』(1972年)
『祝祭としての人生』(1972年)
『死は打ち負かされた』(1972年)
『幼子のように喜ぶ』(1972年)
『切り口鋭く』(1972年)
『詩編を物語る』(1973年)
『全地よ喜びの叫びをあげよ』(1973年)
『輪舞』(1974年)
『マルコの歌』(1974年)
『待望と成就』(1978年)
『炎のような舌』(1980年)
『日々の黙想』(1989年)
『ファン・ルーラー著作集』第1巻 神学の本質(2007年)
『ファン・ルーラー著作集』第2巻 聖書と啓示(2008年)
『ファン・ルーラー著作集』第3巻 神、創造、人間、罪(2009年)
『ファン・ルーラー著作集』第4巻上 キリスト、聖霊、救済(2011年)
『ファン・ルーラー著作集』第4巻下 キリスト、聖霊、救済(2011年)
『ファン・ルーラー著作集』第5巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第6巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第7巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第8巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第9巻(未刊)
『創造から神の国まで』 (2008年)
ファン・ルーラーの著作
http://yasushisekiguchi.blogspot.com/p/vanrulerjp.html
『カイパーのキリスト教的文化の理念』(1939年)
『宗教と政治』(1945年)
『政治は聖なる事柄である』(1946年)
『よみがえれ喜びに』(1947年)
『ヴィジョンと展望』(1947年)
『国家と啓示』(1947年)
『律法の成就』(1947年)
『夢と形』(1947年)
『神の国と歴史』(1947年)
『新しい教会規程における告白教会』(1948年)
『教会の宣教(アポストラート)と教会規程草案』(1948年)
『被われた存在』(1949年)
『現代における執事職の基礎と視座』(1952年)
『特別職と一般職』(1952年)
『百年後の司教杖』(1953年)
『宣教(アポストラート)の神学』(1953年)
『われらの父よ』(1953年)
『世にかかわる勇気を持て』(1953年)
『中高等教育のキリスト教化』(1954年)
『信仰告白はどのような役割を果たすか』(1954年)
『キリスト教会と旧約聖書』(1955年)
『政府とヒューマニズム』(1955年)
『司牧書簡の背景』(1955年)
『安心して楽しみなさい』(1955年)
『世界においてキリストが形を取ること』(1956年)
『最も大いなるものは愛』(1957年)
『プロテスタンティズムと動物保護』(1957年)
『国民教会について語ることにまだ何か意味があるか』 (1958年)
『教会の政治的責任』(1963年)
『ローマ・カトリック教会との出会いにおけるプロテスタンティズムの立場』 (1965年)
『人生の愚かさ』 上巻(1966年)
『人生の愚かさ』 下巻(1966年)
『神学における人間性』(1967年)
『われ信ず』(1968年)
『ファン・ルーラー神学論文集』第1巻(1969年)
『ファン・ルーラー神学論文集』第2巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第3巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第4巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第5巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第6巻(1973年)
『ファン・ルーラーとの対話』(1969年)
『聖書との交わりの形成』(1970年)
『なぜ私は教会に通うのか』(1970年)
『使徒の権威において』(1971年)
『喜びをもって信じる』(1971年)
『マルコ14章』(1971年)
『マルコ14章(続)・15章・16章』(1972年)
『祝祭としての人生』(1972年)
『死は打ち負かされた』(1972年)
『幼子のように喜ぶ』(1972年)
『切り口鋭く』(1972年)
『詩編を物語る』(1973年)
『全地よ喜びの叫びをあげよ』(1973年)
『輪舞』(1974年)
『マルコの歌』(1974年)
『待望と成就』(1978年)
『炎のような舌』(1980年)
『日々の黙想』(1989年)
『ファン・ルーラー著作集』第1巻 神学の本質(2007年)
『ファン・ルーラー著作集』第2巻 聖書と啓示(2008年)
『ファン・ルーラー著作集』第3巻 神、創造、人間、罪(2009年)
『ファン・ルーラー著作集』第4巻上 キリスト、聖霊、救済(2011年)
『ファン・ルーラー著作集』第4巻下 キリスト、聖霊、救済(2011年)
『ファン・ルーラー著作集』第5巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第6巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第7巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第8巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第9巻(未刊)
『創造から神の国まで』 (2008年)
2017年1月15日日曜日
古本屋でもカオスでもない私の書斎
拙ブログにも楽屋裏があり、どの記事にどれだけアクセスがあったかが分かる。各記事のアクセスは少ない。寂しくはない。世と人に役立つことを書いていないので当然だ。なるべく目立たないことを書こうと意識している。騒ぎになることは絶対書かない。
古本屋ではない。私の書斎。カオスではない。多様性。
増強の願いはある。たとえばシュライアマハー。今あるのは『宗教論』(日本語2種)、『独り語る』(日本語2種、英語)、『解釈学の構想』、渡邊泰三『シュライエルマッヘル』、A. A. Vogelsangの博士論文『シュライアマハーの説教』(オランダ語、1916年)。もうちょっと欲しい。
カール・バルトの(「についての」含む)本は180×90cmの本棚の奥側をすべて提供しても足りず、前側まで要求してきた。さすがは前世紀「最大」の神学者だ。『教会教義学』の英語版は持っていない。デジタル版には興味ない。バルト関係の蔵書リストは作っていないが、そろそろ必要かもしれない。
そう。こんなに邪魔な存在でも紙の本の蒐集にこだわり、デジタル版に興味ない理由は、本は内容だけがデータではないからだ。本の存在そのものがデータだ。どうしてこういう装丁なのか、どれくらい邪魔な存在かも重要なデータ。写真を撮ればある程度のイメージは保存できるが、撮影者の主観にとどまる。
古本屋ではない。私の書斎。カオスではない。多様性。
増強の願いはある。たとえばシュライアマハー。今あるのは『宗教論』(日本語2種)、『独り語る』(日本語2種、英語)、『解釈学の構想』、渡邊泰三『シュライエルマッヘル』、A. A. Vogelsangの博士論文『シュライアマハーの説教』(オランダ語、1916年)。もうちょっと欲しい。
カール・バルトの(「についての」含む)本は180×90cmの本棚の奥側をすべて提供しても足りず、前側まで要求してきた。さすがは前世紀「最大」の神学者だ。『教会教義学』の英語版は持っていない。デジタル版には興味ない。バルト関係の蔵書リストは作っていないが、そろそろ必要かもしれない。
そう。こんなに邪魔な存在でも紙の本の蒐集にこだわり、デジタル版に興味ない理由は、本は内容だけがデータではないからだ。本の存在そのものがデータだ。どうしてこういう装丁なのか、どれくらい邪魔な存在かも重要なデータ。写真を撮ればある程度のイメージは保存できるが、撮影者の主観にとどまる。
勝田台教会の主日礼拝に出席しました
今日(2017年1月15日日曜日)は日本基督教団勝田台教会(千葉県八千代市勝田台北3-13-5)の主日礼拝に出席させていただきました。少し(いやかなり)遅刻してしまって申し訳なかったのですが、水谷勤牧師はじめ教会の皆さまがとても温かく歓迎してくださいました。ありがとうございます。
2017年1月14日土曜日
週末は「また」または「まだ」書斎整理
某社から書評依頼を一昨日いただいた新刊書の原著ドイツ語版を昨日の昼休みにアマゾンで注文したら24時間以内に自宅(借家)に届いたことに、ひたすら驚愕している。このウルトラハイスピード社会に全くついていけていない。恩恵を享受しているものの血圧の上昇を感じる。いやべつに血圧は関係ない。
週末は「また」または「まだ」書斎整理。左上から。すべて奥側。一列目プラトン、アリストテレス、フィヒテ、ヒューム、カント、ヘーゲル、デリダ、レヴィナス、ハーバーマス、ジンメル、フルキエ、ホルクハイマー、宗教学、政治学、社会学。二列目聖書学。三列目トレルチ、ヴェーバー、キリスト教史。
依然平積みだった本を整理中、昨冬お世話になった本を掘り出した。昨年すでに50歳だったので人生最初で最後の更新だった。25年どこに行ったか分からない状態で放置していた教員免許状のほこりをはたいて使うことになったのは神の恩寵としか言いようがない。更新講習修了認定試験は緊張しまくった。
15年も更新していない中学と高校の同窓会名簿。悪い卒業生で申し訳ない。
書斎がすっかり片付いたので、今夜も安心して眠れそうだ。
週末は「また」または「まだ」書斎整理。左上から。すべて奥側。一列目プラトン、アリストテレス、フィヒテ、ヒューム、カント、ヘーゲル、デリダ、レヴィナス、ハーバーマス、ジンメル、フルキエ、ホルクハイマー、宗教学、政治学、社会学。二列目聖書学。三列目トレルチ、ヴェーバー、キリスト教史。
依然平積みだった本を整理中、昨冬お世話になった本を掘り出した。昨年すでに50歳だったので人生最初で最後の更新だった。25年どこに行ったか分からない状態で放置していた教員免許状のほこりをはたいて使うことになったのは神の恩寵としか言いようがない。更新講習修了認定試験は緊張しまくった。
15年も更新していない中学と高校の同窓会名簿。悪い卒業生で申し訳ない。
書斎がすっかり片付いたので、今夜も安心して眠れそうだ。
2017年1月12日木曜日
うれしいことがありました
| 2017年1月12日午前6時40分、自宅(借家)にて撮影 |
今月で拙ブログが9周年を迎えたことも忘れていた。2008年1月1日に開設した。早くやめるつもりだった。1997年から始めたファン・ルーラーの翻訳の「翻訳調」を脱したく流暢な日本語を書けるようになるための練習帳だった。ブログをやめられないのは、いまだに流暢な日本語が書けないからだ。
今日うれしいことがあった。新刊書の書評の依頼を何年かぶりに受けた。もちろん即答で受諾した。そういう世界からは完全に忘れ去られたと思っていた。そういう世界に加えていただいたと実感したことは一度もないが。「軽薄だ」なんだと私を叩く人がいることを知っている。よく分かっているではないか。
2017年1月10日火曜日
「書斎の本の説明」への追記
このたび書斎の本を本棚に並べてみた感じでいえば、A5判ハードカバーの本1冊を500グラムとすれば、ひとつの本棚に前後入れれば(ひとつの棚に2列置く)120冊入るので500グラム✕120冊=60キロ。ハードカバーの本ばかりではないので、本棚1台につきざっと50キロの本があるとする。
その本棚をこのたび6.5台(うち半分量のもの1台)揃える。50キロ✕6.5台で325キロ。あとは押し入れにしまったのが150キロから200キロの間くらいありそうなので、全部でざっと500キロちょっと。「推定1トン」と言い続けてきたのは大げさすぎる目分量だったことになり申し訳ない。
500キロちょっとなら、私が5人と半分くらいいるだけなので、大したことない。むしろ安定感が出てしっかりすると思う。それと本棚そのものが1台28キロなので、180キロほど加わる。全部でざっと700キロ。私が8人いるだけだ。大したことない。床なんて抜けるわけない(だんだん自信ない)。
その本棚をこのたび6.5台(うち半分量のもの1台)揃える。50キロ✕6.5台で325キロ。あとは押し入れにしまったのが150キロから200キロの間くらいありそうなので、全部でざっと500キロちょっと。「推定1トン」と言い続けてきたのは大げさすぎる目分量だったことになり申し訳ない。
500キロちょっとなら、私が5人と半分くらいいるだけなので、大したことない。むしろ安定感が出てしっかりすると思う。それと本棚そのものが1台28キロなので、180キロほど加わる。全部でざっと700キロ。私が8人いるだけだ。大したことない。床なんて抜けるわけない(だんだん自信ない)。
書斎の本の説明
画像の説明、左上から。一列目古代教父、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、リュースブルク、ルター、カルヴァン、ウェスレー、二列目バルト、三列目ノールトマンス、ミスコッテ、ベルカウワー、ティリッヒ、ボンヘッファー、カイパー、バーフィンク、四列目ファン・ルーラー、現代神学、辞書類。
ノールトマンス(Noordmans)、ミスコッテ(Miskotte)、ファン・ルーラー(Van Ruler)は、20世紀オランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)の「三大神学者」(derde grote theoloog)と呼ばれている存在。
ノールトマンス、ミスコッテ、ファン・ルーラーが20世紀に属した「オランダ改革派教会」(NHK)は今は存在しない。もうひとつのオランダ改革派教会(GKN)とオランダ福音ルーテル教会とNHKが合同して「オランダプロテスタント教会」(PKN)として現存する。「三大」神学はPKNに継承。
「改革された(英語でもドイツ語でもオランダ語でも過去形で表現する)教会」を名乗るかぎり16世紀に縛られているイメージを保持し続けてしまう。「プロテスタント教会」だって何かにプロテストしていると言いたいのだろうと見られてしまうかもしれないが、歴史的名称としては他に名乗りようがない。
プロテスタント教会の神学は、カトリック教会、オーソドックス教会に次ぐいわば「第三の」神学なので、すべてをカバーしうるような蔵書は個人的には不可能であるにしても、どうしても相対的に蔵書量が多くなってしまうと言えると思う。「第三の」神学は前二者を「包括する」という自負を持つがゆえに。
1月5日(木)千葉県北西部(現住所の柏市含む)震度3以上(震源地福島M5.8)でピクリともしなかった。東日本大震災のとき千葉県北西部は震度4だが、当時の住所地(松戸市)の本棚から1冊も本は落ちなかった。震度5以上の経験はないが、その場合はうちだけではなく首都圏全体の問題だと思う。
説教もまた「言葉」であるかぎり、それなりの結果責任は生じるので、何らかの根拠に基づいて語らざるをえない。それが蔵書が増えていく理由。単なる蔵書趣味ではないつもり。
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