勤務校からの帰り、PC-DEPOT松戸店(千葉県松戸市新作225-1)で自作機用の冷却ファンを購入し、帰宅後ただちに交換しました。
2016年5月15日日曜日
小金教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年5月15日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)の聖霊降臨日礼拝に出席しました。借家から徒歩20分、車5分(1.6キロ)。最も近い教会です。今泉幹夫先生の説教に感動しました。ありがとうございました。
2016年5月8日日曜日
主の祈りの目標(千葉若葉教会)
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| 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年5月8日、千葉市若葉区千城台東) |
「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』」
今日開いていただきましたのは、「主の祈り」が記されている箇所です。この祈りは新約聖書の中に2箇所出てきます。今開いていただいているマタイによる福音書6章9~13節と、ルカによる福音書11章2~4節です。
両者を比較すると分かることがあります。第一は文脈が異なることです。マタイでは、5章から7章までの「山上の説教」の中でこの祈りが教えられています。イエスさまがこれを教えている相手は、複数の「弟子たち」(5・1)です。しかし、ルカでは、イエスさまは「弟子の一人」(11・1)に教えておられます。その弟子が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とイエスさまにお願いしたことにお応えくださる形で、この祈りを教えておられます。
もう一つの違いは、ルカによる福音書の主の祈りは、マタイによる福音書のそれより短いことです。細かく見ていきますと、マタイの「天におられるわたしたちの父よ」はルカでは「父よ」だけです。マタイの「御心が行われますように、天におけるように地の上でも」はルカにはありません。マタイの「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」はルカでは「毎日与えてください」です。マタイの「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」はルカでは「皆赦しますから」です。マタイの「悪い者から救ってください」はルカにはありません。
いま行ったのは原文の比較ではなく、新共同訳聖書の比較です。訳者が違うのかもしれませんが、新共同訳聖書はどの箇所をどの人が訳したかは非公開です。好ましいと私が思うことは、両者を無理に一致させようとしていないところです。しかし別の祈りではありません。同じ祈りがマタイとルカに記されていると考えるべきです。ただし、強調点に違いがあると考えることは可能です。最も注目すべき違いは、ルカには「天」も「地」も出てこないし、「悪い者」も出てこないことです。
この違いが何を意味するのかは分かりませんが、思い当たることはあります。「天」は神のおられる天国です。「天」も「天国」も「神の国」もみな同じです。それぞれ別々にあるわけではありません。そして「地」とは人の住む地上の世界です。大地も地球も含みますが、宇宙も「地」です。
その「天」と「地」との差、神と人間の上下関係をはっきり語る垂直的な世界観がマタイの主の祈りに見え隠れしています。それに対して、ルカの主の祈りには、そのような上下関係を表す表現が出てきません。比較的水平的な世界観に立っているように見えます。
聖書学の最近の研究動向を私はほとんど知らないのですが、だいぶ前から、マタイよりルカのほうが後に書かれたと言われています。そのことと主の祈りの違いがどう関係しているかは分かりません。マタイの長い祈りをルカが短く要約したのでしょうか。歴史の事実がどうだったかは分かりませんが、要約は要点を押さえるものです。短い言葉にエッセンスを詰め込むものです。そのことを考えれば、主の祈りの「心」は、ルカのほうにこそあるかもしれません。
しかし、今日開いていただいているのはマタイのほうです。天と地の関係、神と人間の上下関係をはっきり言葉にする、垂直的な世界観が強調されているほうです。そして代々の教会が重んじてきたのは、マタイのほうの主の祈りです。日曜学校から教会に通っている子どもたちは、幼い頃から主の祈りを暗記しています。私が勤める高校では、聖書科の1年生の最初の授業で主の祈りを学ぶことになっています。それは学校礼拝の中で主の祈りを唱えるからです。
さて、今日みなさんにお話ししようと思っているのは、主の祈りの「目標」は何かということです。しかし皆さんにとって耳慣れない表現だと思います。私も、誰かが言っていたとか何かの本に書いてあったのを引っぱってきたわけではなく、自分で思いついた表現です。
結論から先に言えば、主の祈りの「目標」は「地上」にあります。その場合の「目標」とは、主の祈りを唱える人の視線の先にあるゴールであり、行き先です。そのことが最もはっきり示されているのが第三の願いです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。
雑な言い方をお許しいただきたいのですが、「天で御心が行われること」は、当たり前です。「天」は神のおられるところを指す。「主の名をみだりに唱えてはならない」という掟のもとに置かれている人は、主とか神とかいう言葉を口にせず、その代わりに「天」という言葉で主なる神をあらわす場合もあります。
その「天」で「神の御心」が行われるのは当たり前です。人があえて祈る必要すらない。もし人がそれを祈らないなら天で御心が行われない可能性がありうるということはありえない。人が祈ろうと祈るまいと、神は天で御自身の意志を遠慮なく貫徹なさるでしょう。
しかし、「地上」は別です。地上では神の御心は人の目と心から隠されています。よく分かりません。むしろよく分かるのは、人が生きている現実の世界は、まるで神がおられないかのようであり、神の御心が行われていないかのようだということです。
だからこそ熱心に祈る必要があります。血のような汗と涙を流しながら必死で祈る必要があります。そして「地上」は、人を用いて神がお働きになる場所でもあります。人は祈らなくても、神おひとりで御心を行ってくださるというのではありません。地上における神の御心の実現のためには、人の祈りが必要です。
主の祈りの「目標」と私が呼びたがっているのは、まさに今申し上げていることです。第三の願いの趣旨は「我々が生きている地上の世界がまるで天国であるかのようになりますように」という祈りです。
それは、地上の世界は今のところ少しもそうではないということの表明でもあります。天国で神の御心が実現しているのは当たり前です。それが地上でも実現するというなら世界はもっと幸せで喜びに満ち満ちたものであるはずですが、今のところ全くそうではない。暴虐と悲しみと嘆きのほうこそ満ち満ちている。だからこそ、わたしたちは祈るのです。御心が地上で実現しますように、と。
「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」の「地にも」の「も」は、ついでに、という意味ではありません。「天」のほうが大事で、「地」のほうはついで、ではありません。正反対です。地上のほうが大事です。主の祈りの「目標」は「地上」にあります。
取り上げる順序が逆になりましたが、第二の祈りの主旨も同じです。「御国が来ますように」。「御国」と「天国」は同じです。私も含めて多くの人は「天国」は「行くところ」であるととらえています。そのとらえ方のすべてが間違っているわけではありません。しかし、イエスさまが弟子たちに教えた祈りは「天国」が「来ますように」です。
「行く」(ゴー)ではなく「来る」(カム)です。天国のほうが地上へと近づいてくるという思想です。空中に浮かぶ巨大な大陸のようなものが落ちてきて、地上の世界をめちゃくちゃに破壊するような情景を思い浮かべてもよいかもしれません。
つまりそれは、地上の現実がまるで天国のようになることを求める祈りです。地上の現実の変革を求める祈りです。地上の現実は罪と悪と暴虐に満ちているということを是認し、どうせそんなものだと諦め、変革などありえないと断念し、「早く死んで天国に行きたい」と言い出すことの正反対です。背中に羽根がはえて天使のように飛んで行くことの正反対です。むしろ、我々の足はしっかり大地を踏みしめています。神さま早く来てくださいよ、天国のほうがこっちに来てくださいよ、我々の現実を変えてくださいよ、なんとかしてくださいよと、神さまに悪態をつく祈りです。
第一の願いも同じです。「御名が崇められますように」。主の御名を崇めるのは人です。第一の願いの主語は人です。名は体を表す。主の御名は主御自身を表す。「崇める」の原意は「聖とする」であり、転じて、重んじること、尊重すること、礼拝することを意味します。
ですから、第一の願いの趣旨は「人が神を重んじますように」です。その人の足も大地をしっかり踏みしめています。ジャンプしていません。ふわふわ浮いていません。生きている人が礼拝するのです。「死んでから礼拝します」では遅いです。地上の世界に神を礼拝する民がもっと多く引き起こされますように。神を礼拝する「教会」がもっと多く生み出されますように。その民が神に用いられ、御心を行いますようにという祈りです。
第一から第三までの願いは、いわば理念です。主の祈りの思想の枠組みです。そのすべての視線は「地上」に向いています。そしてその第一から第三までの願いにおける理念が、第四から第六までの願いにおいて具体的に展開されます。毎日の食事の確保の問題(第四)、対人関係における罪のとがの赦しの問題(第五)。そして、罪を犯すことへの誘惑と試練からの解放の問題(第六)。
すべては、あえて説明する必要もないほど「地上の事柄」です。特殊な要素は何もない。すべてはきわめてありふれた日常生活の出来事です。これで分かるのは、主の祈りの前半で祈られる「地上の現実がまるで天国であるかのようになりますように」という目標の具体的な内容は「なにげない日常生活を普通に営むことができますように」と言っているのと同じであるということです。
今申し上げていることと直接関係あるかどうかは、まだ十分に調べがついていませんが、私が最も尊敬する教義学の神学者であるアーノルト・ファン・ルーラーが「神の国と世事は同義語である」と書きました。オランダ人で、もうだいぶ前に亡くなりました。ユトレヒト大学神学部の教授だった人です。
しかし、もしかしたらこれは、みなさんをがっかりさせる言葉かもしれません。なぜならそれは、天国と地上の連続性を主張する言葉だからです。天国は地上と大差ないとする思想だからです。
「なんだ、がっかり。こんな嫌な世界を我慢して生きてきて、やっと天国に行けると思っていたら、天国も地上も大差ないと言われる。天国に行っても、まるで砂を噛むような今のこの日常と同じようなところで生き続けなければならないのか。そんなの嫌だ。行きたくない」という感想がありえます。
それでいいではありませんか。そんな天国には行きたくないと思うのなら、生きていきましょう。しつこく、粘り強く、しがみついてでも。
地上の現実が耐えがたいと思うなら、変革を祈りましょう。
日常生活がつまらないと思うのは贅沢な悩みでもあるでしょう。突然家から出されて外で生活することを余儀なくされている人々が大勢います。早く普通の日常生活に戻りたいと願っておられる人々が。その人々のことを忘れてはなりません。
主の祈りの目標は「日常生活」にある。それは、とても大事なことです。
(2016年5月8日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)
2016年5月5日木曜日
今春受験した日本基督教団教師転入試験の回答内容を公開しました
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| 試験回答を書いたのは岡山の実家でした(2016年2月6日~13日帰省) |
「連休なのに何やってるんだ」と言われることを覚悟しながらも、連休にしかできないことだとも思いましたので、今春(2016年度春季)受験した「日本基督教団教師転入試験」の提出(郵送)分の回答内容をブログで公開しました。「課題論文」は非公開とします。
なお、試験回答を最も集中して書いた場所は、2016年2月6日(土)から13日(土)まで帰省した岡山の実家でした。
加えて、「教憲教規および諸規則・宗教法人法」の筆記試験が2016年2月23日(火)、面接試験が2月25日(木)、いずれも日本基督教団信濃町教会(東京都新宿区信濃町)で行われました。
日本基督教団教師転入は、2016年3月22日(火)に完了しました。教務教師登録は4月12日(火)に完了しました。
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日本基督教団教師転入試験提出(郵送)分の回答内容
「旧約聖書説教」
ゼカリヤ書14章1~9節についての説教(提出期限2016年2月15日)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/02/0215PAT.html
「旧約聖書釈義」
ゼカリヤ書14章1~9節についての釈義(提出期限2016年2月15日)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/02/0215EAT.html
「新約聖書説教」
テトスへの手紙2章11~15節についての説教(提出期限2016年2月15日)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/02/0215PNT.html
「新約聖書釈義」
テトスへの手紙2章11~15節についての釈義(提出期限2016年2月15日)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/02/0215ENT.html
「教憲教規および諸規則・宗教法人法」
追試レポート(提出期限2016年3月9日)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/03/0309.html
「課題論文」
(非公開、提出期限2016年2月15日)
2016年5月1日日曜日
鳥居坂教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年5月1日日曜日)は日本基督教団鳥居坂教会(港区六本木)の主日礼拝に26年ぶりに出席しました。1986年10月から1990年3月まで3年半、東京神学大学の神学生として通った奉仕教会です。これからもよろしくお願いします。
2016年4月24日日曜日
千歳船橋教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年4月24日日曜日)は日本基督教団千歳船橋教会(東京都世田谷区桜丘)の主日礼拝に出席させていただきました。首都高経由でちょうど1時間でした(片道57キロ)。東京神学大学の教授でもあられる朴憲郁牧師の説教に感動しました。
2016年4月17日日曜日
柏教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年4月17日日曜日)は日本基督教団柏教会(千葉県柏市)の主日礼拝に出席させていただきました。自動車で20分(5キロ)。春原朱理先生の説教は素晴らしかったです。礼拝の中で熊本地震の被災者のための祈祷のときが持たれました。
2016年4月16日土曜日
いつも喜んでいなさい(東京プレヤーセンター)
| 東京プレヤーセンター礼拝(2016年4月16日、御茶ノ水クリスチャンセンター、東京都千代田区) |
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
今日、私が選ばせていただいた聖書のことばは、使徒パウロの言葉です。聖書の御言は神の言葉です。そして同時に紛れもなく人間の言葉です。
その意味では、今日のみことばは、ムチャクチャです。これを書いているパウロ本人が、そのことをいちばんよく自覚していたに違いありません。パウロは人間ですから。疲れやすい、傷つきやすい肉体を持っている人間ですから。
「いつも喜んで」など、いられるはずがないではありませんか。ムチャを言うなと言いたくなります。「絶えず祈っているか」と問われれば、絶句するしかないでしょう。形式的に祈りのポーズをとっているかもしれないが、その祈りにいつも心が伴っているのかと問われれば答えられないでしょう。
そして、感謝。どんなことにも感謝することなどできるわけがないではありませんか。「感謝しろ」と無理強いされれば、形式的に感謝のポーズをとることはできるかもしれない。しかし、心の中は荒れている。無理強いされた感謝など、ナチス式敬礼と大差ありません。
そういうことを、これを書いているパウロ自身が知らずにいるわけがないのです。彼こそ弱い人間でした。腹も立つ、落胆もする、涙も流す、絶望もする。その人間パウロがこの言葉を書き記したのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と。
今日は東京プレヤーセンターにお招きいただき、ありがとうございます。上野九五先生から依頼の連絡をいただいたのが今年(2016年)1月7日でした。そのとき私は無職の状態でした。昨年12月末に、それまで11年9ヶ月働かせていただいた教会の牧師を辞職しました。同時にそれまで19年所属していた教派を退会しました。
その後3ヶ月間は、無職で無所属でした。3ヶ月間、全く無関係のアルバイトをしていました。同時に家事をしました。主夫をしました。自分で望んで計画的にそうなったのではありません。私の願う方向とは真逆の方向に引きずられて、そうなりました。詳しい事情はお話しできません。ぞっとする要素を含みますので、お話ししたくないという意味です。
それで、上野先生から1月7日にご連絡いただいたとき一瞬どうしようかと迷いました。無職だし無所属だし。教会の牧師の仕事を辞めれば牧師館に住むことはできないので、近所のマンションに転居しましたが、私の書斎は片付かないし、これから先の見通しが全く立たない状態でした。
高校の常勤講師になることについては、内定をいただいてはいましたが、手元にあるのは紙一枚。一度もしたことがない仕事ですし、どういうことになるのか何も分からない状態の1月7日でした。
上野先生から最初は3月頃にメッセージをお願いできませんかというご連絡でしたが、せめて高校での仕事が始まる4月以降にしていただけませんかと私のほうからお願いしました。それで最終的に今日(4月16日)私がお話しさせていただくことに決まったのが1月26日でした。
そして昨日(4月15日)が、高校教員としての初めての授業でした。45分授業を2コマ続ける形で90分。それを第1学年と第2学年で1クラスずつ担当しました。多くの大学の講義が1コマ90分ですので、それを2つしたのと同じです。
しかし私は、無職で無所属になった直後に上野先生からご連絡をいただいたとき、今日(4月16日)の私がどういう状態になっているかを知りたいという思いを持ちました。そして同時に、この「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というみことばについてお話ししようと決めました。
それは一種の人体実験です。聖書の御言を自分に当てはめて、実験する。どんなふうに想像してもボロボロの状態になっていることが容易に予想できる日に、あえて「いつも喜んでいなさい」という御言について語ることを自分に強いるように設定する実験です。
聖書のみことばを自分に当てはめることをしないで、他人に説教するようなことをしてはダメです。それは危険なことです。しかし、人体実験のほうも一般的には禁止事項です。専門家の指導のもとでやってください。
さて、人体実験の結果を発表します。なるほどそういうことかということが分かるものがありました。パウロが書いていることの意味が必ずそういう意味であるという意味ではありませんが、私なりに分かったと思えることがあります。
それは、喜びと祈りと感謝を失うと、そこで私の中の「何か」が本当に終わってしまうので、立つことも歩くこともできない状態になるということです。そして、とくに大事なのは「喜び」だということも改めて分かりました。
しかも、この「喜び」は普通の喜びです。普通の喜びということで私が言いたいのは、日常生活を普通に営むことができること自体を喜ぶことです。一日一日を丁寧に生きることが大事です。
人生の「微分」が必要です。1億円をもらって1億円のものを買うというような大雑把な生き方でなく、千円なら千円を徹底的に細かく割って配分する生き方です。そのほうが、よほど豊かで贅沢な生活です。
だいこん一本、にんじん一本の価値と味を知る。どのように料理すれば美味しいごちそうになるかを知る。探求し続ける。そういう人生は毎日本当に楽しいです。「いつも喜んでいる」とは、私に言わせていただけば、そのようなことです。
無理に作り笑いをする必要はありません。そういうのはすぐバレます。楽しいイベントを常に企画して、精神的・心理的な高揚を図り続けることではありません。そんなことではなく、普通の喜びが大切であり、必要です。
自分で食事を作り、皿を洗い、掃除し、洗濯することです。「そういうことはすべていつも自分でやっています」などと、いばる必要はありません。当たり前のことなのですから。
私が言いたいのは、そういうことを自分で全くやらないで、「私の日常生活には何の喜びも楽しみもない。だから感謝の思いはまるでない」と言い出す人たちに対する懲らしめです。身に覚えのある人は懲らしめられてください。
4月16日、私はまだ立っています。歩いています。笑うことができます。ガードを下げたボクサーが顔面を打たれるだけ打たれたような状態でそれでも立っている。それと似たような状況です。その状態でもなお、私の心に「喜び」があります。「祈り」があります。「感謝」があります。まだ残っています。
ただし、その「喜び」は、感覚的には、私の垂直的な真上ではなく、私の前にあります。垂直的な真上を見上げて、わたしたちには神さまのおられる天国に行ける希望があるということを強調するのが悪いわけではありません。しかし、私の希望は「上」というより「前」です。「上」を目指しながら地に足がついている、その意味での「前」です。「斜め上」かもしれません。あくまで感覚的な話です。
それでも、さすがの私も疲れていますので、ズルをしようと思いまして、今日の聖書の箇所について私のブログに貼り付けてある過去に教会で行った私自身の説教の原稿を探してみました。他人の説教の盗作はいけませんが、自分の説教であれば使い回しは可能だろうと。
すると、ブログで公開している今日の箇所についての説教の原稿が、2つ見つかりました。自分で驚いたのは、ひとつは「葬儀説教」で、またもうひとつは「結婚式説教」だったということです。それで説教原稿の使い回しのほうは断念しました。
そのとき何を話したかは、今でも自分でよく覚えています。ああ私は、結婚式でもお葬式でも「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と説教する牧師だったのかと、思い返せるものがありました。
「喜び」と「祈り」と「感謝」は、状況によってあってもなくてもよいようなものではありません。特に「喜び」は、あればラッキーで、無くても構わないというようなものではないです。
「喜び」は人生の付録(オプション)ではなく、土台(ベース)です。それがないと立てないし、生きていけない。それほど切迫しているものです。
4月16日、私は今日立っています。これが人体実験の結果です。
(2016年4月16日、東京プレヤーセンター礼拝、御茶ノ水クリスチャンセンター404号室)
2016年4月13日水曜日
「日本基督教団教務教師」登録のお知らせ
2016年4月10日日曜日
人生をもっと楽しめ(千葉若葉教会)
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| 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年4月10日、千葉市若葉区千城台東) |
「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
前回の説教を「次回に続く」という形で終わらせていただきました。先ほどお読みいただきましたマタイによる福音書25章の「タラントンのたとえ」を前回も取り上げました。このたとえ話についての説教の続きをこれからお話しします。内容をなるべく繰り返さないようにと願っていますが、前回いらしていなかった方々もおられますので、少しだけ振り返ります。
このたとえ話は「天の国」(14節)、すなわち天国のたとえです。天国にはどのような人が歓迎され、どのような人は歓迎されないのかという話であると考えることができます。ある人が必ず戻ってくる「旅行」(14節)に出かけました。その前にその人は3人の僕を呼んで1タラントン、2タラントン、1タラントンを預けました。タラントンは当時のお金の単位で、今の日本円に換算すればざっと5億円、2億円、1億円だと言ってよいほど莫大な規模のお金です。
今の日本では資本金5億円以上か、あるいは200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社を「大会社」と呼びます。資本金2億円でも1億円でも小さな会社とは言えないでしょう。つまり、このたとえ話を読んでわたしたちが思い描いてよいイメージは、資本金5億円、2億円、1億円のそれぞれ大会社の社長が3人いて、その人々が「僕」で、3つの会社を統合するグループの会長が「主人」であるというようなことです。
そういう話であると言ってしまえば、なんとなく身も蓋もない感じになってしまうかもしれません。これは天国のたとえ話であると、すでに申し上げました。天国というのは結局のところ、生きている間に仕事がうまく行ってたくさんお金を儲けて成功した勝ち組だけが入ることができて、そうでない人は地獄の火に焼かれてしまう。それがイエス・キリストの教えの趣旨なのかと考えられてしまうかもしれません。そのあたりで私は、前回の説教を終わりました。
しかし、私がそのあたりで説教を終えることができたのは、皆さんに対する信頼ゆえです。それは、皆さんがそのような誤解をなさることはありえないだろうという信頼です。「天国」なるところが成功者だけの集まりで、失敗者は地獄送りであるというのがイエス・キリストの教えであるというようなことを、よもやみなさんがお考えになるはずはないだろうと信頼しました。
もちろん、そんな話ではありません。私自身もそのようなことを全く考えたこともないし、信じたこともありませんので、どうぞご安心ください。ただ、今日これからお話しさせていただきたいのは、このたとえ話の中で比較的見落とされやすいのではないかと思われる要素です。
それは、五タラントン預けられた僕と二タラントン預けられた僕の二人について、「商売」(16節)をしたと書かれているところです。彼らは商売をしたのです。つまり働いたのです。仕事をしました。そして、それによって主人から預かったお金を倍に増やすことができました。このことは重要な点だと思いますが、案外見落とされやすいところです。
私自身は本当に会社勤めをしたことがないので、会社というのがどのようなものかは想像でものを言うしかない面があります。ただ、そんな私でも想像できるのは、資本金5億円の会社の社員が一人だけということは考えにくいということです。必ず多くの社員を雇うのではないでしょうか。
また、商売というのは、ただ金儲けをすることだけが目的ではないでしょう。何かを作ったり生み出したりする。しかも、良いものを作り、生み出す努力をする。悪いものを売って暴利を貪るだけなら商売ではなく詐欺です。良いものを売って、買ってもらって世と人にとって役立つことをする。それが会社の仕事でしょう。そして、そのような仕事をした結果として、あるいは報酬として利益を得ることができるのであって、何もしないのに収入を得られるということは、通常考えにくいわけです。
しかしまた、いま私が申し上げていることの中に仕事していない人を責める意図は全くありません。私が言いたいのは「商売」には必ずリスクが伴うということだけです。必ず成功する商売はありえません。5億円が自動的に10億円になるわけではありません。そういうことが書いてある本があれば、それは商売ではなく詐欺の本です。
ちゃんとした商売をしようと思うなら、社員に給料を払わなくてはならないし、社員の家族の面倒を見なくてはならないし、新しくて良いものを作り、生み出すことにも莫大な費用がかかります。「商売」を始めれば、お金が増えるどころか、どんどん減っていくものです。
先ほども申しましたが、今の日本の「大会社」の定義は、5億円以上の資本金か、200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社を指します。200億円以上の負債を抱えるリスクを背負うのが会社の使命です。
しかし、だからといって、「商売」は、ただひたすら苦痛に耐えて、嫌々ながら、借金を返さなければならないからする、というような暗くネガティヴな思いだけで取り組むようなことなのだろうかということをよく考える必要があると思います。そういう感覚で取り組む人がいないとは思いません。しかし、5タラントン預けられた僕と2タラントン預けられた僕の二人には、そのような悲壮感がないと思われるのです。
「借りた金は返さなければならない、借りた金は返さなければならない」と、ただひたすら憂うつな気持ちでいる。「それを返すために働かなければならない。失敗したらどうしよう。返せなかったら貸してもらった人に怒られる。ああ、どうしよう、どうしよう」と、そのようなことばかり考えて、身動きがとれなくなってしまう。そのような悲壮な面持ちを前二者の僕には感じられません。
イエスさまは、5タラントンを10タラントンに増やした人も、2タラントンを4タラントンに増やした人も「商売」をしたと、ちゃんとおっしゃっています。手品ではなく(手品が悪いという意味ではありません)、タネも仕掛けもある方法で、彼らは利益を得たのです。その彼らの努力は決して過小評価されてはならないと私は思います。
そういうことを全くしなかった人が三番目の僕です。そして、次のように言う。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる恐ろしい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」(24~25節)。
これを読んで私が思うことは、もし私自身がこの主人の立場でこんなことを言う人の言葉を聞くと腹が立つだろうということです。私を馬鹿にするなと言いたくなります。「あなたは恐ろしい人だ」とか言われると、あなたに私の何が分かるのかと言いたくなります。もし本当に、あなたの言うとおり私が恐ろしい人間であるならば、最初から1タラントン(1億円相当)を預けたりはしない。何のためにあなたにそれだけのものを託したか、その思いと期待をなぜそうやって踏みにじり、裏切るのかと言いたくなります。
私は会社勤めはしたことがありませんが、子どもを2人育ててきました。子どもたちの教育にお金がかかります。親が借金しなければならないほど。それでやっと分かるようになりました。親が子どもに期待するとはどういうことか、が。
もし子どもたちが私に三番目の僕と同じようなことを言ってきたら、手を出したりはしませんが、こっぴどく説教すると思います。何のために私がお前たちのためにリスクを背負っているのか。将来何かを返してもらいたいからではない。世で成功してもらいたいからでもない。世のため人のために役立つ働きができるようになってもらいたいだけだ。そして、人の役に立つことができるようになることが、お前たち自身の喜びや楽しみになる。人生を楽しめ。そのための投資を惜しむことはない。私ならそう言います。
イエスさまが私とは全く違うお考えを持っておられるかどうかは分かりません。ただ、言えることは、自分に預けられた1億円を地に埋めて隠した僕は、こっぴどく叱られた、ということだけです。
わたしたちの人生にチャンスがあるのではありません。わたしたちの人生そのものがチャンスです。生きていること自体がチャンスです。一人で生まれる人はいません。必ず親がいます。一人で生きる人はいません。必ず他者がいます。社会があります。国があります。世界も宇宙もあります。
意識が自分ひとりだけの中に閉じこもってしまうことは、わたしたちによくあることです。その状態がひどくなると病気になります。なんとかして意識を自分の外側に向けることが必要です。
この主人は僕たちに、預けたタラントンを増やしてもらいたかったのでしょうか、それとも、使ってもらいたかったのでしょうか。私は後者だと思います。使ってもらいたかったのです。増やすことができた僕たちは、使ったから増えたのです。それが「商売」です。
地に埋めて隠した僕が叱られたのは、増やせなかったからではなく、使わなかったからです。世のためにも、人のためにも、そして自分のためにも使わなかったので、叱られたのです。
結論:人生は楽しむものです。お金は使うものです。飾っておくものではないし、しまいこむものでもありません。そして、お金は使わなければ増えません。
神さまはわたしたちに、生命と課題と目標を与えてくださいました。世のため、人のため、そして自分のためにも生きることが、わたしたちの主人である神さまの御心です。その御心を踏みにじる人は、神さまから叱られます。
神さまから叱られるのは、人生を楽しもうとしない人です。悔い改めて、もっと人生を楽しんでください。そのことを今日はみなさんにお伝えしに来ました。
(2016年4月10日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)
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