日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年5月8日、千葉市若葉区千城台東) |
「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』」
今日開いていただきましたのは、「主の祈り」が記されている箇所です。この祈りは新約聖書の中に2箇所出てきます。今開いていただいているマタイによる福音書6章9~13節と、ルカによる福音書11章2~4節です。
両者を比較すると分かることがあります。第一は文脈が異なることです。マタイでは、5章から7章までの「山上の説教」の中でこの祈りが教えられています。イエスさまがこれを教えている相手は、複数の「弟子たち」(5・1)です。しかし、ルカでは、イエスさまは「弟子の一人」(11・1)に教えておられます。その弟子が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とイエスさまにお願いしたことにお応えくださる形で、この祈りを教えておられます。
もう一つの違いは、ルカによる福音書の主の祈りは、マタイによる福音書のそれより短いことです。細かく見ていきますと、マタイの「天におられるわたしたちの父よ」はルカでは「父よ」だけです。マタイの「御心が行われますように、天におけるように地の上でも」はルカにはありません。マタイの「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」はルカでは「毎日与えてください」です。マタイの「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」はルカでは「皆赦しますから」です。マタイの「悪い者から救ってください」はルカにはありません。
いま行ったのは原文の比較ではなく、新共同訳聖書の比較です。訳者が違うのかもしれませんが、新共同訳聖書はどの箇所をどの人が訳したかは非公開です。好ましいと私が思うことは、両者を無理に一致させようとしていないところです。しかし別の祈りではありません。同じ祈りがマタイとルカに記されていると考えるべきです。ただし、強調点に違いがあると考えることは可能です。最も注目すべき違いは、ルカには「天」も「地」も出てこないし、「悪い者」も出てこないことです。
この違いが何を意味するのかは分かりませんが、思い当たることはあります。「天」は神のおられる天国です。「天」も「天国」も「神の国」もみな同じです。それぞれ別々にあるわけではありません。そして「地」とは人の住む地上の世界です。大地も地球も含みますが、宇宙も「地」です。
その「天」と「地」との差、神と人間の上下関係をはっきり語る垂直的な世界観がマタイの主の祈りに見え隠れしています。それに対して、ルカの主の祈りには、そのような上下関係を表す表現が出てきません。比較的水平的な世界観に立っているように見えます。
聖書学の最近の研究動向を私はほとんど知らないのですが、だいぶ前から、マタイよりルカのほうが後に書かれたと言われています。そのことと主の祈りの違いがどう関係しているかは分かりません。マタイの長い祈りをルカが短く要約したのでしょうか。歴史の事実がどうだったかは分かりませんが、要約は要点を押さえるものです。短い言葉にエッセンスを詰め込むものです。そのことを考えれば、主の祈りの「心」は、ルカのほうにこそあるかもしれません。
しかし、今日開いていただいているのはマタイのほうです。天と地の関係、神と人間の上下関係をはっきり言葉にする、垂直的な世界観が強調されているほうです。そして代々の教会が重んじてきたのは、マタイのほうの主の祈りです。日曜学校から教会に通っている子どもたちは、幼い頃から主の祈りを暗記しています。私が勤める高校では、聖書科の1年生の最初の授業で主の祈りを学ぶことになっています。それは学校礼拝の中で主の祈りを唱えるからです。
さて、今日みなさんにお話ししようと思っているのは、主の祈りの「目標」は何かということです。しかし皆さんにとって耳慣れない表現だと思います。私も、誰かが言っていたとか何かの本に書いてあったのを引っぱってきたわけではなく、自分で思いついた表現です。
結論から先に言えば、主の祈りの「目標」は「地上」にあります。その場合の「目標」とは、主の祈りを唱える人の視線の先にあるゴールであり、行き先です。そのことが最もはっきり示されているのが第三の願いです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。
雑な言い方をお許しいただきたいのですが、「天で御心が行われること」は、当たり前です。「天」は神のおられるところを指す。「主の名をみだりに唱えてはならない」という掟のもとに置かれている人は、主とか神とかいう言葉を口にせず、その代わりに「天」という言葉で主なる神をあらわす場合もあります。
その「天」で「神の御心」が行われるのは当たり前です。人があえて祈る必要すらない。もし人がそれを祈らないなら天で御心が行われない可能性がありうるということはありえない。人が祈ろうと祈るまいと、神は天で御自身の意志を遠慮なく貫徹なさるでしょう。
しかし、「地上」は別です。地上では神の御心は人の目と心から隠されています。よく分かりません。むしろよく分かるのは、人が生きている現実の世界は、まるで神がおられないかのようであり、神の御心が行われていないかのようだということです。
だからこそ熱心に祈る必要があります。血のような汗と涙を流しながら必死で祈る必要があります。そして「地上」は、人を用いて神がお働きになる場所でもあります。人は祈らなくても、神おひとりで御心を行ってくださるというのではありません。地上における神の御心の実現のためには、人の祈りが必要です。
主の祈りの「目標」と私が呼びたがっているのは、まさに今申し上げていることです。第三の願いの趣旨は「我々が生きている地上の世界がまるで天国であるかのようになりますように」という祈りです。
それは、地上の世界は今のところ少しもそうではないということの表明でもあります。天国で神の御心が実現しているのは当たり前です。それが地上でも実現するというなら世界はもっと幸せで喜びに満ち満ちたものであるはずですが、今のところ全くそうではない。暴虐と悲しみと嘆きのほうこそ満ち満ちている。だからこそ、わたしたちは祈るのです。御心が地上で実現しますように、と。
「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」の「地にも」の「も」は、ついでに、という意味ではありません。「天」のほうが大事で、「地」のほうはついで、ではありません。正反対です。地上のほうが大事です。主の祈りの「目標」は「地上」にあります。
取り上げる順序が逆になりましたが、第二の祈りの主旨も同じです。「御国が来ますように」。「御国」と「天国」は同じです。私も含めて多くの人は「天国」は「行くところ」であるととらえています。そのとらえ方のすべてが間違っているわけではありません。しかし、イエスさまが弟子たちに教えた祈りは「天国」が「来ますように」です。
「行く」(ゴー)ではなく「来る」(カム)です。天国のほうが地上へと近づいてくるという思想です。空中に浮かぶ巨大な大陸のようなものが落ちてきて、地上の世界をめちゃくちゃに破壊するような情景を思い浮かべてもよいかもしれません。
つまりそれは、地上の現実がまるで天国のようになることを求める祈りです。地上の現実の変革を求める祈りです。地上の現実は罪と悪と暴虐に満ちているということを是認し、どうせそんなものだと諦め、変革などありえないと断念し、「早く死んで天国に行きたい」と言い出すことの正反対です。背中に羽根がはえて天使のように飛んで行くことの正反対です。むしろ、我々の足はしっかり大地を踏みしめています。神さま早く来てくださいよ、天国のほうがこっちに来てくださいよ、我々の現実を変えてくださいよ、なんとかしてくださいよと、神さまに悪態をつく祈りです。
第一の願いも同じです。「御名が崇められますように」。主の御名を崇めるのは人です。第一の願いの主語は人です。名は体を表す。主の御名は主御自身を表す。「崇める」の原意は「聖とする」であり、転じて、重んじること、尊重すること、礼拝することを意味します。
ですから、第一の願いの趣旨は「人が神を重んじますように」です。その人の足も大地をしっかり踏みしめています。ジャンプしていません。ふわふわ浮いていません。生きている人が礼拝するのです。「死んでから礼拝します」では遅いです。地上の世界に神を礼拝する民がもっと多く引き起こされますように。神を礼拝する「教会」がもっと多く生み出されますように。その民が神に用いられ、御心を行いますようにという祈りです。
第一から第三までの願いは、いわば理念です。主の祈りの思想の枠組みです。そのすべての視線は「地上」に向いています。そしてその第一から第三までの願いにおける理念が、第四から第六までの願いにおいて具体的に展開されます。毎日の食事の確保の問題(第四)、対人関係における罪のとがの赦しの問題(第五)。そして、罪を犯すことへの誘惑と試練からの解放の問題(第六)。
すべては、あえて説明する必要もないほど「地上の事柄」です。特殊な要素は何もない。すべてはきわめてありふれた日常生活の出来事です。これで分かるのは、主の祈りの前半で祈られる「地上の現実がまるで天国であるかのようになりますように」という目標の具体的な内容は「なにげない日常生活を普通に営むことができますように」と言っているのと同じであるということです。
今申し上げていることと直接関係あるかどうかは、まだ十分に調べがついていませんが、私が最も尊敬する教義学の神学者であるアーノルト・ファン・ルーラーが「神の国と世事は同義語である」と書きました。オランダ人で、もうだいぶ前に亡くなりました。ユトレヒト大学神学部の教授だった人です。
しかし、もしかしたらこれは、みなさんをがっかりさせる言葉かもしれません。なぜならそれは、天国と地上の連続性を主張する言葉だからです。天国は地上と大差ないとする思想だからです。
「なんだ、がっかり。こんな嫌な世界を我慢して生きてきて、やっと天国に行けると思っていたら、天国も地上も大差ないと言われる。天国に行っても、まるで砂を噛むような今のこの日常と同じようなところで生き続けなければならないのか。そんなの嫌だ。行きたくない」という感想がありえます。
それでいいではありませんか。そんな天国には行きたくないと思うのなら、生きていきましょう。しつこく、粘り強く、しがみついてでも。
地上の現実が耐えがたいと思うなら、変革を祈りましょう。
日常生活がつまらないと思うのは贅沢な悩みでもあるでしょう。突然家から出されて外で生活することを余儀なくされている人々が大勢います。早く普通の日常生活に戻りたいと願っておられる人々が。その人々のことを忘れてはなりません。
主の祈りの目標は「日常生活」にある。それは、とても大事なことです。
(2016年5月8日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)