2015年2月3日火曜日

すべては一人から始まる


「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった。」(ローマの信徒への手紙5:19)

この中で、「一人の罪」の一人はアダムなる一人物を指し、「一人の正しい行為」の一人はイエスを指しています。

趣旨はある程度単純化できそうです。アダムも一人、イエスも一人。一対一のタイマン勝負。アダムから始まった罪がすべての人に蔓延した。しかし、その罪の世界支配をよしとせず、土俵の外に押し出すまで突っ張り踏ん張っているイエスも一人。一人のイエスから始まった恵みがすべての人の心に満ちるまで。

それは聖書の話ですが、一つの応用として、しかし単純な比較はできないことを前提として確認しつつ考えさせられたのは、一国の首相なり凶悪な犯罪者なりがどれほど強力な軍隊を指揮し、どれほど強力な宣伝力や支配力を持っていようと、その人は最終的には一人である点で、我々と同じだということです。

一国の首相なり凶悪な犯罪者なりは「アダム」ではないし、我々は「イエス」ではない。その意味では、アダムとイエスの対峙を描く聖書の言葉をそのまま当てはめるわけにはいきません。しかし、使徒パウロの言葉の趣旨は、罪の始まりも、恵みの始まりも、初めは「一人」であった、ということにあります。

最終的に、相手が「一人」なら、我々と同じです。我々が「あーむなしい、無力だ。何をやっても、何を書いても、何の足しにもならない」と、ほぼ毎日ぶつぶつつぶやきながら「一人」でやっていること、書いていることは、最終的には、無駄でも無意味でもないわけです。だって、相手も「一人」ですから。

いま私が書いていることの趣旨、分かりませんかね。うまく言えないもどかしさはあるのですが。要するに「ビビることはないよね」というくらいのことですが。まじめっぽいタイトルをつけるとしたら「すべては一人から始まる」かな。かえって意味不明になっちゃうかな。

2015年2月2日月曜日

ファン・ルーラーについての講演が2月3月と続きます

2月になりました。私のお尻が大炎上中。

「ファン・ルーラーについての講演」を以下の日程で行います。どちらも「渋谷」です。どちらも「入場無料」です。

(1)思想とキリスト教研究会講演会

   日時 2015年2月16日(月)午後2時~5時
   会場 日本キリスト改革派東京恩寵教会(東京都渋谷区恵比寿)

   プログラム

   講演1「ファン・ルーラー研究の意義」
       松戸小金原教会牧師   関口 康

   講演2「アリウス――人物・運動・教説」
       京都大学名誉教授    水垣 渉

日本キリスト改革派東京恩寵教会(東京都渋谷区恵比寿)

(2)アジア・カルヴァン学会講演会

   日時 2015年3月9日(月)午後1時~5時
   会場 青山学院大学 総合研究所ビル5階(東京都渋谷区渋谷)

   プログラム

   講演1「ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来」
       松戸小金原教会牧師   関口 康

   講演2「カルヴァンの聖書解釈の技法」
       東北学院大学教授    野村 信

   研究発表「カルヴァンとルターのマリア理解」
       テュービンゲン大学在学 木村あすか

青山学院大学(東京都渋谷区渋谷)

大学の先生たちと張り合うつもりは毛頭ございません。「講演1」終了後にご来会いただけますと、私の心は平安です。

2015年1月30日金曜日

「バルト神学の受容」と「教会の戦争協力」の関係は「にもかかわらず」なのか「だからこそ」なのか

カール・バルト(Karl Barth [1886-1968])
K先生

興味深い記事をご紹介くださり、ありがとうございます。まだ印象の段階ですが、私はかなり違和感を覚えながらリンク先の記事を読ませていただきました。私の長年の問題意識の琴線に触れる内容でもあり、この問題は深刻に受けとめています。その上で申し上げたいのは、違うのではないかということです。

150年余に及ぶ日本プロテスタント教会史における「バルト神学の受容」と「教会の戦争協力」との関係は、①前者「にもかかわらず」後者なのか、それとも、②前者「だからこそ」後者なのかという二者択一において、現在の多くの神学者(国内外問わず)は、かなり無批判に①を選択してしまっています。

しかし実際には、②の可能性もかなりあると考えるべきだと私は思います。はっきり言えば、私はどちらかというと②を選びます。その理由は、バルトおよびバルト主義者が第二次大戦後のヨーロッパにおいて「キリスト教政党」に対して採った態度ゆえです。彼らは「キリスト教政党全否定論」の立場でした。

バルトが起草したことでよく知られるいわゆる「バルメン宣言」や彼の影響下に書かれた諸文書のすべては「対教会的文書」です。それは「内向き」であり、その神学者が属する教派・教団と関係諸教会のメンバーたち、つまりキリスト者たちへの呼びかけです。直接的な「外向き」のアピールではありません。

もちろん、たとえそういうものであっても、まわり回って「対国家的文書」という意味の「外向き」の役割を果たすようになることは、もしかしたら、ありうるのかもしれません。しかし、それらの文書を埋めつくす概念のすべては神学と教会の専門用語であり、世間一般の人々には理解しようのない暗号です。

そういうものをもってバルト主義者たちは「反ナチ文書」と言いたがるかもしれませんが、それらの文書が実際に機能した場所は(せいぜい)「教会」の内部だけであり、「国家」や「社会」を動かした形跡はありません。

バルトとバルト主義者の「キリスト教政党」への全否定の態度はよく知られています。アメリカにも日本にも「キリスト教政党」は存在しませんので、バルト主義者たちの「キリスト教政党全否定論」の意味を理解できる素地がアメリカにも日本にもないため、これの問題性を認識しづらい面があると思います。

オランダの実例でいえば、第二次大戦後のオランダでバルト主義者が徒党をくんで始めたことは、19世紀に由来するオランダのキリスト教政党「反革命党」を政権与党の座から引きずり下ろし、「労働党」(共産党とコレスポンデンス)を支持すべきことをオランダのキリスト者に精力的に訴えることでした。

これが意味することは、オランダのバルト主義者(彼らはスイスのバルトと常に連絡を取り合っていました)は、キリスト者が「政党」という形で政治や社会にかかわることを中止させることに精力的に寄与したということです。言い方を換えれば、彼らのしたことは、キリスト教の政治的無効化への寄与です。

繰り返し言えば、バルトとバルト主義者がしたことは「キリスト教政党という形での教会の政治に対する直接的関与を否定すること」でした。それはキリスト教の政治的側面の無力化ないし「脱構築」を意味していました。代わりに彼らがしようとしたことは(せいぜい)「教会自身の政治的態度決定」でした。

それは、教派・教団の大会ないし総会で、多くの場合その議長名で、その国の総理大臣なり、大統領なりに宛てた文書を作成し、実際に郵送することです。それは、政府の側としては、官邸の郵便ポストに毎日届く大量の手紙の中の一通にすぎないものであり、まあたぶん、かなり確実に即ゴミ箱行きです。

そういう残念な結果に終わるであろうことは、その文書を書く人々の側でも、もちろん認識されています。それでも書こうというモチベーションが執筆者の中に保持されるのは、その人が書く文書には自分の属する教派・教団の人たちに対する「啓蒙活動」ないし「教化」としての意味があると思えるからです。

そしてまた、教会の「内向き」の文書に「対内的な政治的アジテーション」の意味は、なるほど確かにあるといえばあります。しかし、それは、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。私はいま皮肉や当てこすりを書いているのではなく、現実の教会が体験してきた事実を書いているだけです。

さて、くだんの「日本の教会の戦争協力」の問題に向かいます。当時の日本基督教団の「首脳部」(この表現おかしいですね)が発した文書が多くの人から糾弾の対象とみなされてきたことは、私もよく存じております。その人々を「かばう」意図は、私には皆無です。ただ、ここでの問題は、上記の二択です。

今考えているのは、70余年前の日本のプロテスタント教会の内部に起こった歴史的な事実は、かなり多くの人々がそう論じてきたように、はたして本当に、①バルト神学の受容「にもかかわらず」日本の教会の戦争協力だったのか、それとも、②バルト神学の受容「だからこそ」の戦争協力だったのか、です。

この二択において、あまりにも無批判に①を選択してしまう人たちの多さに、私は呆れる思いしかありません。まるでバルトとバルト神学は「常に正義」であるかのようです。この問題は、私にとってはどうしても見過ごすことができないものがありましたので、スレ汚しのコメントを書かせていただきました。

2015年1月29日

関口 康

2015年1月29日木曜日

緊急祈り会に出席させていただきました

日本基督教団富士見町教会(東京都千代田区)
今日は、日本基督教団富士見町教会で午後2時から行われた、日本基督教団の緊急祈り会「シリアで拘束されている日本人の解放とシリアの平和のために祈る会」に出席させていただきました。

正確な情報は、主催者発表をお待ちいただきたく思いますが、出席者は約80名くらいでした。私の勝手な印象で申し訳ありませんが、集まったみんなの心は熱く、でも良い意味で抑えの利いた、とても落ち着いた良い祈祷会でした。

シリアで拘束されている日本人の解放とシリアの平和のために祈る会
出席させていただこうと思った私の気持ちは、やや不遜かもしれませんが、「出席したい」という願いをお持ちになりながら、「東京ははるか遠いので願いが叶わない」という方々の「代わり」になれば、というものでした。

プログラムの内容は、石橋秀雄先生(日本基督教団総会議長)の奨励、佐々木美知夫先生(同副議長)の司式と祈祷、力強い会衆賛美、出席者の自由祈祷などでした。

帰り道のバス停で、学校帰りの高2の長女と鉢合わせしました。長女と二人でバスに乗るのは初めてかもしれません。

長女と二人でバスを下りて家まで一緒に歩き、「ただいまー」したとき「おかえりー」の声が聞こえ、手作りのシュークリームが待っていたりすると、ちょっとテンション上がりました。

おいしかったです

2015年1月22日木曜日

ケータイの形のスマホでも、それがスマホである以上、私は無理です

ケータイに戻して2年7ヶ月になります

スマホに換えて、懲りて、ケータイに戻して2年7ヶ月になります。ケータイのボディが、さすがに劣化してきました。そろそろ機種変したいのですが、我慢我慢。スマホへの逆行はないので、次のケータイはどれにしようかと夢をふくらませています。ケータイメールは相変わらず家族とのやりとりだけです。

スマホは手に馴染まなかったので、電話回線を止めて、今はWIFIカメラとしてだけ使っています。ケータイとタブレット(中古で購入)とパソコン(自作デスクトップ)を使っています。LINEは、アカウントだけはだいぶ前に取得しましたが、友達ゼロ状態で放置しています。誰も相手してくれません。

スマホに致命的な問題を感じたのは、「電話」と「他のもろもろの機能」とが並列関係で一緒くたにぎゅうぎゅう詰まっている状態の道具である点です。ケータイにもいろいろ付いているといえばついていますけど(写メとかです)、ケータイとは比較できないほど大量のアプリを、スマホは入れられますよね。

つまり、スマホが「電話」に与えている位置づけは、多くのアプリの中の一つにすぎないものでしかないと私には見えます。激しく相対化されている。全体の中の一パート。しかし私は、電話というのは、他のもろもろのアプリとは比較できないほど「別格の存在」だと思うんです、重要度と危険度とにおいて。

他のアプリの操作をしているうちにとか、スマホを胸ポケットに入れて歩いていたら、うっかり誤操作でかける意志のない相手に電話がかかってしまったなどということは、絶対にあってはならないことだと、私は思うのです。間違い電話やいたずら電話と、スマホ誤操作電話とは、受ける側の迷惑は同じです。

スマホを短期間使ってみて、これは無理だと思ったのは、「なんでもかんでも一緒くた感」です。特に「電話」と「他のもろもろ」は完全にベツモノとして分離されていなくては不安でたまらない。ひたすら恐ろしい。

そこが無理なので、「ケータイの形のスマホ」も、それがスマホである以上、私は無理です。

あと、スマホで電話かけようとする人を見ているとけっこう共通しているのは、取り出してから電話かけるまでに時間がかかること。「えーと、これ押して、ここ出して」。そのうち他のアプリのボタンを誤って押して、「あ、別のが立ち上がっちゃった。あ、メモリが少ない。え?あ?や?」イライライラ。

というわけで私、スマホに換えれないんじゃなくて(いえ、換えれないんです笑)、一度はスマホにしたけど、これはツールとして非常に危険なものだと察知するものがあったのでスマホは使わないことにしたんです。

こんな釈明文、他の方にはどーでもいいことですが、いつか書いておこうと思っていました。

私はとにかく「電話」と「他のアプリ」がバリアフリーですーっと移動できるような状態にあることに戦慄すら覚えます。遊園地に爆弾が仕掛けられているような感じとまで言うのは大げさすぎるでしょうか。「電話番号」は名刺に書くほどのものですよ。

大きな声では言えませんが(とネットに大っぴらに書く)私も「電話」はあまり好きではありません。心臓に悪いですね。メールかSNSでお願いします。

スマホを利用されている方への嫌がらせとかでは全くないですからね。スマホが「通話もできるパソコン」であっても構いませんけど、とにかく有料の電話回線とはメカ的にベツモノであってほしい。何の誤操作で課金が始まるか分からない不安とかは真っ平だと言いたいだけです。

2015年1月20日火曜日

両極の高低差をつけすぎるな

私のネットの書き込みが毒にも薬にもならない理由は、具体的な記述はほとんどなく、だいたいが抽象的で人を幻惑する内容で埋め尽くすくせがあるからだ。ネットごときに核心に触れることを書いたためしがない。「言質とったぞ」とかしたり顔されるのがとにかく嫌なので、尻尾をつかませない自信がある。

そんな私であるが、たまには具体的なことを書く気になるときがないわけではない。なぜ人は、自分で自分を死なせてはならないか。そういう質問を私にすると、ほぼ確実にけむに巻かれることを知っている人が多いらしく、その質問をされたことがない。しかし、質問されたらこう答えようと準備はしている。

その答えはこうだ。「死んでも楽にはならないからです」。そういうふうに、10年以上前ではあるが、あるパンフレットに書いたことがある。死んだら楽になるなんて、だれが言ったのか。いまの現実よりも高級で至福の現実が我々の死後に待っているなんて、だれが教えたのか。だまされちゃいけないよと。

詳細な議論を展開する気力はない。天上と地上でも、彼岸と此岸でも、形而上と形而下でも、自分の腹にはまる表現で構わない。二極の「連続性」と「非連続性」の関係の問題であるといえばピンとくる方もおられるだろう。私の考えは、ほとんど「連続性」の線である。天上の現実と地上の現実は、大差ない。

それは自らへの戒めでもある。地上の現実からのエスケイプを後押しするほど天国をキラキラに描きすぎるな。ウィークデーの現実は地獄の闇であるかのようにサンデーの現実を称賛しすぎるな。両極に高低差をつけすぎるな。なるべくフラットに描け。ふらっと教会に来て、ふらっと現実に戻れるほうがいい。

こういうこと書くと嫌われることは分かっている。変身願望のある方には特に。だけど私には譲れないものがある。宗教や神学の論理的整合性の問題ではない。「死んでも楽にはならない。だから生きていよう」は私の信仰だ。自分の「ありのままの」現実を受け入れろとは言わない。そんなえらそうなことは。

顔文字の肯定的意味

あとは推して知るべし
遺言をしかるべき人と場所に預けて厳重に保管してもらうことと、古代人が硬い石に字を刻んで後世に何かを伝えようとしたこととの共通点は「敵の存在」だよなということを最近読んだ本(マンガではない)で考えさせられた。空中に消える声だけでは、家族や味方が全滅した場合、あとに何も伝えられない。

自分にとって都合の悪いことを「どぞどぞ、遠慮なく書き残してください」と言える人はそんなにはいない。人は自分に都合のいい歴史を編む。しかしそれが歴史のすべてではありえない。裏側がある。側面がある。闇があり、恥がある。それを書き残し、後世に伝える責任を痛感する者が、どの時代にもいる。

しかし、今考えているのは、大げさなことではない。眼前のネットのことだ。「ネットに書いた」で大炎上。職や命さえ失う人が後を絶たない。思いつきで書いた字が「動かぬ言質」とみなされ、責任を厳しく問われる。削除してもダメ。「○○氏は○○と書いたがそれをあとで削除した」と永久に記録される。

それで考えさせられるのは、ネットの中で行き交う、字でも画像でも動画でもない、顔文字やスタンプの肯定的な意味だったりする。字なるものを「動かぬ言質」とみなして徹底追及の口上で襲いかかってくる人々の存在を熟知している人々が、「字ではないよ、字ではないよ」と明示しながらの意思表示方法。

すべての人が永久に仲良くて、だれに対しても温かい理解力と親切を示す世界でありえたら、石に刻んだ文字も、厳重に保管された遺言も、要らない。次元は違うかもしれないが顔文字もスタンプも要らない。しかし現実はそうでないので、それらのものが必要だった。それは「必要悪」などではありえない。

その意味ではやはり「字」だけでコミュニケーションが完結することは、当然のことながらありえない。ネットにしてますますその度合いが強まるとさえ言える。顔文字やスタンプなどのそれぞれの意味があることはさることながら、それを「使用することの意味」がある。それは「あとは推して知るべし」だ。

しかし「あとは推して知るべし」を意味する顔文字やスタンプを用いる相手との間に必要なのは、かなりの範囲の共通理解や共通体験でもあるだろう。そうでないかぎり、推しえないし知りえない。「読者よ悟れ」は迫害者の検閲や追及を免れるための暗号なのだから。真に分かり合ったもの同士の酌み交わし。

すみません、特定のだれかへの批判とかではありません。ネット生活17年の中で考えてきたことを「書き残し」たくなっただけです。

あとは前稿の続き。制度としての学校と教師から完全にエスケイプできる社会はないと私は(私も)考えているが、それを「見透かす」ような格好で漁夫の利を得る人々(それが誰だかは必ずしも明瞭でない)に縛られなければならない道理もない。引き算で考えられないものかと、いつも悩んでいる。

本さえあれば教師も学校も要らないか

私の読解力はきわめて乏しい
「書店や古書店で買ってきた本を読みさえすれば、その中に書いてある内容は誰でも分かるというなら教師は要らない、学校は要らない」ということを、私は、教師と学校の存在理由の擁護のためと同時に、何度読んでも理解できない本があるこの私自身の読解力の無さの自己弁護のために言ってきた面がある。

しかし、そんないかにも見苦しい自己弁護を繰り返しさえすれば事が足りるというわけではありえないことに、今夜ふと気づく。単純な話だ。それでは逆に、教師と学校があれば、字で書かれた本は要らないのかと考えてみた。本が紙でできているかPCやタブレットの画面かは、この際どうでもいいことだ。

字だけにこだわるものでもなく、写真や絵は大いに加えられてよい。ただ、音声や動画は、相当迷うところだが、話を単純にするなら、別にしておくほうがよさそうだ。しかし、音声や動画も、「本さえあれば誰でも分かるというなら教師と学校は要らない」という論理の中でいえば「本」の側だと私は思う。

「本を読んでも分からない」数多くの理由の中の一つは、本には著者が書かないことがあるからだ。考えることはできる、口では言える、黒板に書くことくらいはできる。だけど、印刷して配布する、書店で販売する、家庭の書斎や図書館に長期保存される物体になるようなものには書くべきでないことがある。

著者が本には書かないことがある。「だから」教師と学校が必要だ。ナマの語りが大切だ、トークライヴが必要だと、私は確かに考えてきた面がある。しかし本当にそうだろうか。教師と学校は本当に必要だろうか。もちろん無くては困るだろう。しかし教師と学校は我々にとって「どれくらい」必要だろうか。

教師と学校は我々にとって「どれくらい」必要かという問いは教会や宗教の話とダイレクトに結びつけないほうがいいかもしれない。しかし、そこはお許しいただこう。教会に一生通わない人はいくらでもいる。牧師の説教など聞いたことがない人も少なくない。それで困ったという人の話をほとんど聞かない。

教会がこれほど無視されうる存在なのであれば学校はどうか。「本さえあれば(紙でできているかどうかは問わない)教師も学校も要らない」。そういうことをもっと明言しうる可能性はないのだろうか。ただしいま書いているのは「教師不要論」や「学校廃止論」ではない。「字の可能性」を肯定することだ。

2015年1月17日土曜日

阪神・淡路大震災の記憶

1995年1月16日-17日「ニケア信条を学ぶ研修会」のレジュメ
このところ毎年同じことを書いていますが、20年前の今日の朝、私は実家にいました。前日1995年1月16日(月)から17日(火)まで日本基督教団蕃山町教会(岡山市)で行われた「ニケア信条を学ぶ研修会」(講師 関川泰寛先生)に出席していました。私は日本基督教団南国教会の牧師でした。

1月16日(月)の夜は実家で宿泊。さほど強くはないが不気味な地震で目を覚ましたのが1月17日(火)の早朝。枕が左右に揺さぶられて、なんとなく脳がくらくらした状態で、布団に潜っていました。テレビをつけた父が「康、神戸がたいへんだ!」と言った声と顔を、いまでも忘れることができません。

妻は、前年1994年12月26日に生まれた長男(生後2週間)と二人で、日本基督教団南国教会(高知県南国市)の牧師館で留守番してくれていました。岡山よりも高知のほうが強く揺れたようです。被害うんぬんというほどではありませんでしたが、そんなときに不在だったことを申し訳なく思いました。

当然「ニケア信条を学ぶ研修会」二日目のプログラムは中止。全員帰宅することになりました。しかし、少なからぬ参加者が兵庫、大阪、和歌山、三重の方面から来ておられました。鉄道も道路もストップしているとの報道を受けました。帰るに帰れない。しかし、家族と連絡が取れない。心配なので帰りたい。

そんな中、徳島港から出ている大阪南港行きのフェリーは動いているらしいという情報を得ました。その情報を信じて近畿地方からの参加者を何台かの自動車で徳島港までお送りしました。私の自動車にも乗っていただき、徳島港でお別れしたのち、高知南国の牧師館に戻りました。これが20年前の記憶です。

2015年1月12日月曜日

講演会のお知らせです

『途上』第28号(キリスト新聞社、2013年) 好評発売中

私もお話しさせていただく講演会のご案内を拝受しましたので、謹んでご紹介いたします。

主催者は雑誌『途上』(最新号は第28号、キリスト新聞社)の「思想とキリスト教研究会」です。

                   記

「思想とキリスト教研究会」 講演会のご案内

日時 2015年2月16日(月)午後2時~午後5時
会場 日本キリスト改革派 東京恩寵教会(東京都渋谷区恵比寿西1-33-9)
      JR 山手線 恵比寿駅より徒歩8分
      東京メトロ日比谷線 恵比寿駅より徒歩6分
      東急東横線 代官山駅より徒歩5分 地図(googleマップ)

プログラム

挨拶・礼拝(14:00)

講演Ⅰ(14:20)
「ファン・ルーラー研究の意義」 日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師   関口 康

休憩(15:10)

講演Ⅱ(15:20) 
「アリウス――人物・運動・教説」 京都大学名誉教授  水垣 渉
                                                                     
報告・話し合い(16:40) 

*講演の内容は、歴史的展開におけるキリスト教会・思想・神学に関する考察であり、時代的には現代(ファン・ルーラー、20世紀のオランダの神学者)、そして遠く遡って古代(アリウス、4世紀前半)がテーマになっています。大変、興味深い内容です.奮ってご来聴ください。
 
連絡先  常葉謙二 TEL:044-797-2581 mail:hamtokiwa@cilas.net