あぁ、こういう感じかなと悟れるものがあります。
「パウロにつく」「アポロにつく」「ケファにつく」「キリストにつく」。パウロはどーれだ、という四択問題を出されることがありますが、正解はたぶんどれでもない。
出題自体が間違い。そうやって人をどの選択肢かに誘導しようとすること自体が間違い。
というか、「どれでもある」と答えるほうがいいのかも。パウロにもアポロにもケファにもキリストにもつけばいい。みんなリスペクトすればみんな相対化される。
ぼくがそうだと言ってるんじゃないですよ、パウロが言ってるのはそういう意味じゃないでしょうか、というくらいのことです。
* * *
日本教会史上最大の誤訳は「弟子」ではないか。これほど発語するたびに苦痛を感じる言葉も珍しい。
ペトロやパウロといった人たちはイエス・キリストの「弟子」ではないと思うし、テモテはパウロの「弟子」ではないと思う。
まして、言わずもがなであることを十分すぎるほど知りつつあえて書くが、どう間違えても教会員は牧師の「弟子」ではありえないと思う。根本的な日本語の誤りを感ぜざるをえない。
ちなみにぼくは生まれた日から教会に通い始めて48年経過する者で、かつ、教会の牧会を始めて24年目を迎えようとしている者だが、いまだかつて誰の「弟子」になった覚えもなく、かつ、誰をも「弟子」とした覚えはない。
それはぼくの職務怠慢ではなく、むしろ職務への忠実さの現れであると確信する。
「弟子」という日本語のもつ独特の卑屈さやみっともなさは、ぼくに言わせていただけば目を覆うばかりである。
教会に限らずどの世界の人についても、「私は○○の弟子である」という言葉を平気で使える人に接すると、「よくもそういうことを、恥ずかしげもなく言えるものだ」と、ぼくは内心で感じている。
* * *
「原資料の喪失が確実なので、原資料を根拠にして明瞭に語ることが不可能であるゆえに、あらゆる言説において、はっきり言いえないことを、はっきり言わないままにしておく」というのは、神学にとっては当然すぎるほどであるはずだが、そういう曖昧さを許そうとしない空気が神学の一部にあることは事実。
ただし、今のぼくは「神学論壇」のようなもの(がもし日本国内にあるのだとしたら、そのようなもの)からはすっかり離れた位置にいるので、そういう曖昧さを許そうとしない空気が神学の一部にあることは事実「のような気がする」としか、実は書くことができない。
曖昧なことを曖昧なままにしておく神学は「微妙な神学」だが、そういう神学、しかもそういう組織神学をぼくは目指したい。
「微妙な組織神学」とか「曖昧な教義学」というと、まるで概念矛盾のように思われてしまうかもしれないが、そんなことはない。それこそが神学本来の姿を取り戻すことだ。
「微妙な神学」というのは、神学の微分積分というべきことだ。数学的論理の神学的応用のようなことを言いたいのではない(数学は苦手なので)。
人の心理や行動、歴史的な事実や判断に接近し、そこに見られる曲線や曲面、しわやひだ、傷や血、汗や涙の意味や価値に目と手が届く認識が「微妙な神学」だ。
2014年1月3日金曜日
カール・バルト研究会が今月で一周年を迎えます
謹賀新年
2013年1月25日(金)に第1回目を行った「カール・バルト研究会」が
今月で一周年を迎えます。
最初はスカイプ、後にグーグルプラス・ハングアウトを利用して、
グループビデオ通話による読書会を続けてきました。
北海道、宮城県、茨城県、千葉県、大阪府、兵庫県、ドイツから
ご参加いただきました。
研究会の一年の歩みを簡単にまとめましたので、
下記の通り謹んでご報告いたします。
カール・バルトに関心がある方はどなたでもご参加いただけますが、
「バルト主義者にならないこと」
という条件をご理解いただける方に限ります。
お志ある方は、ぜひご参加ください。参加は無料です。
今年も続けます。次回(第22回)は1月10日(金)午後9時(日本時間)です。
「カール・バルト研究会」をどうかよろしくお願いいたします。
2013年1月3日
関口 康
ブログ http://barth-research.blogspot.jp
ツイッター http://twitter.com/barthresearch
--------------------------------------------------------------
「カール・バルト研究会」の歩み
第 0回 2013年 1月11日(金) 2名
準備会
第 1回 2013年 1月25日(金) 4名
『教義学要綱』「1 課題」
第 2回 2013年 2月 8日(金) 4名
『教義学要綱』「1 課題」
第 3回 2013年 3月 1日(金) 4名
『教義学要綱』「2 信仰とは信頼を意味する」
第 4回 2013年 3月15日(金) 4名
『教義学要綱』「2 信仰とは信頼を意味する」
第 5回 2013年 3月29日(金) 4名
『教義学要綱』「3 信仰とは認識を意味する」
第 6回 2013年 4月12日(金) 3名
『教義学要綱』「3 信仰とは認識を意味する」
第 7回 2013年 4月26日(金) 5名
『教義学要綱』「4 信仰とは告白を意味する」
第 8回 2013年 5月10日(金) 4名
『教義学要綱』「4 信仰とは告白を意味する」
第 9回 2013年 5月24日(金) 4名
『教義学要綱』「5 高きにいます神」
第10回 2013年 6月 7日(金) 4名
『教義学要綱』「5 高きにいます神」(ニコ生神学部出演)
第11回 2013年 7月 5日(金) 4名
『教義学要綱』「6 父なる神」
第12回 2013年 7月19日(金) 6名
『教義学要綱』「7 全能の神」
第13回 2013年 8月 2日(金) 4名
『教義学要綱』「7 全能の神」
第14回 2013年 8月30日(金) 4名
『教義学要綱』「8 造り主なる神」
第15回 2013年 9月13日(金) 5名
『教義学要綱』「8 造り主なる神」
第16回 2013年 9月27日(金) 5名
『教義学要綱』「9 天地」
第17回 2013年10月11日(金) 4名
『教義学要綱』「9 天地」
第18回 2013年10月25日(金) 4名
『教義学要綱』「10 イエス・キリスト」
第19回 2013年11月 8日(金) 4名
『教義学要綱』「10 イエス・キリスト」
第20回 2013年12月 6日(金) 4名
『教義学要綱』「11 救い主にして神の僕」
第21回 2013年12月27日(金) 5名
『教義学要綱』「11 救い主にして神の僕」(忘年会)
第22回 2014年 1月10日(金) 予定
『教義学要綱』「11 救い主にして神の僕」
2013年1月25日(金)に第1回目を行った「カール・バルト研究会」が
今月で一周年を迎えます。
最初はスカイプ、後にグーグルプラス・ハングアウトを利用して、
グループビデオ通話による読書会を続けてきました。
北海道、宮城県、茨城県、千葉県、大阪府、兵庫県、ドイツから
ご参加いただきました。
研究会の一年の歩みを簡単にまとめましたので、
下記の通り謹んでご報告いたします。
カール・バルトに関心がある方はどなたでもご参加いただけますが、
「バルト主義者にならないこと」
という条件をご理解いただける方に限ります。
お志ある方は、ぜひご参加ください。参加は無料です。
今年も続けます。次回(第22回)は1月10日(金)午後9時(日本時間)です。
「カール・バルト研究会」をどうかよろしくお願いいたします。
2013年1月3日
関口 康
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「カール・バルト研究会」の歩み
第 0回 2013年 1月11日(金) 2名
準備会
第 1回 2013年 1月25日(金) 4名
『教義学要綱』「1 課題」
第 2回 2013年 2月 8日(金) 4名
『教義学要綱』「1 課題」
第 3回 2013年 3月 1日(金) 4名
『教義学要綱』「2 信仰とは信頼を意味する」
第 4回 2013年 3月15日(金) 4名
『教義学要綱』「2 信仰とは信頼を意味する」
第 5回 2013年 3月29日(金) 4名
『教義学要綱』「3 信仰とは認識を意味する」
第 6回 2013年 4月12日(金) 3名
『教義学要綱』「3 信仰とは認識を意味する」
第 7回 2013年 4月26日(金) 5名
『教義学要綱』「4 信仰とは告白を意味する」
第 8回 2013年 5月10日(金) 4名
『教義学要綱』「4 信仰とは告白を意味する」
第 9回 2013年 5月24日(金) 4名
『教義学要綱』「5 高きにいます神」
第10回 2013年 6月 7日(金) 4名
『教義学要綱』「5 高きにいます神」(ニコ生神学部出演)
第11回 2013年 7月 5日(金) 4名
『教義学要綱』「6 父なる神」
第12回 2013年 7月19日(金) 6名
『教義学要綱』「7 全能の神」
第13回 2013年 8月 2日(金) 4名
『教義学要綱』「7 全能の神」
第14回 2013年 8月30日(金) 4名
『教義学要綱』「8 造り主なる神」
第15回 2013年 9月13日(金) 5名
『教義学要綱』「8 造り主なる神」
第16回 2013年 9月27日(金) 5名
『教義学要綱』「9 天地」
第17回 2013年10月11日(金) 4名
『教義学要綱』「9 天地」
第18回 2013年10月25日(金) 4名
『教義学要綱』「10 イエス・キリスト」
第19回 2013年11月 8日(金) 4名
『教義学要綱』「10 イエス・キリスト」
第20回 2013年12月 6日(金) 4名
『教義学要綱』「11 救い主にして神の僕」
第21回 2013年12月27日(金) 5名
『教義学要綱』「11 救い主にして神の僕」(忘年会)
第22回 2014年 1月10日(金) 予定
『教義学要綱』「11 救い主にして神の僕」
2013年12月31日火曜日
今年最大の「偽装」はぼく自身でした
各位
「関口康が選ぶ THE BOOK OF THE YEAR(今年最高の本)2013」は、
やろうかなと思っただけで、できませんでした。申し訳ございません。
そういうことを考えている心理的余裕がない、険しいつらい一年でした。
「偽装」という言葉をよく見かけた一年でもありましたが、
ぼくにとって今年最大の「偽装」は、ぼく自身だったなと思っています。
ブログやfacebookやツイッターの明るい書き込みも、
人前に見せる顔も、
すべて「偽装」。
そういうのはね、だいたいすぐにバレるものですけどね。
今年最後の一句。
「偽装して いると思っているのは 自分だけ」(字余り)
皆さまどうか良いお年をお迎えくださいませ。それではまた来年。
2013年 大晦日
関口 康
「関口康が選ぶ THE BOOK OF THE YEAR(今年最高の本)2013」は、
やろうかなと思っただけで、できませんでした。申し訳ございません。
そういうことを考えている心理的余裕がない、険しいつらい一年でした。
「偽装」という言葉をよく見かけた一年でもありましたが、
ぼくにとって今年最大の「偽装」は、ぼく自身だったなと思っています。
ブログやfacebookやツイッターの明るい書き込みも、
人前に見せる顔も、
すべて「偽装」。
そういうのはね、だいたいすぐにバレるものですけどね。
今年最後の一句。
「偽装して いると思っているのは 自分だけ」(字余り)
皆さまどうか良いお年をお迎えくださいませ。それではまた来年。
2013年 大晦日
関口 康
2013年12月30日月曜日
日記「ぼくのカンコレです」
ぼくのカントコレクションです。(カンコレ)
カントの本はあともうちょっとだけ持っていますが、とりあえず主要なものだけ公開。
ぼくが岩波文庫の『純粋理性批判』を最初に買ったのは、東京神学大学に入学した年だと思うので、18歳です。今からちょうど30年前です。
高校の倫理・社会で名前だけ覚えて、興味は持っていました。
しかし、岩波文庫を読んでも分からず、天野貞祐訳の講談社学術文庫版を読んでも分からず、でした。
とにかく30年、カント、カントと思いながら来ました。
2008年1月に始めたこのブログ「関口康日記」も、いちばん最初の話題はカントでした。
ぼくの記憶が正しければ、dogmaticという言葉を見れば独断論的と訳す、というルールをぼくが最初に教えられたのは岡山朝日高校の倫理・社会の授業だったはずです。
そして、今のぼくの最も主要な神学的関心事は、くだんのDogmaticsです。
果たしてぼくが取り組んでいるのは「独断論」なのでしょうか、それともーつの正規に自立した一学問分野としての「教義学」なのでしょうか。
ぼくは30年以上、この問いに悩まされ続けてきたと言っても決して過言ではありません。
それはカントの問題提起です。
現代の教義学はカントの問題提起に誠実に応えることなしに前進することは不可能だと思っています。
東大の熊野純彦先生訳の「純粋理性批判」欲しい!
だけど8000円以上する!
我慢だ我慢!
英語版でしのげ!
2013年12月28日土曜日
ファン・ルーラーについての拙論の掲載誌が10冊目になりました
『途上』第28号の発行により、ファン・ルーラーについての拙論(翻訳含む)が掲載された雑誌・紀要は、ちょうど10冊目になりました。
最初の掲載誌は、『形成』第327号(2002年1月号)でした。当時のぼくは山梨県民でした。
拙論掲載の『途上』第28号が発売されました
『途上』第28号が発売されました。
常葉謙二先生による「編集後記」から引用させていただきます。
「遅ればせながら、『途上』第28号の刊行に至りました。本号の特質は、常連の水垣氏・小泉氏の論考に加えて、野島邦夫・関口康・田上雅徳・吉馴明子の4氏が新たに寄稿されたことでしょう。4氏とも『途上』にとっては新顔ですが、それぞれの分野・専門では既に活躍中の研究者であり、今回の論考もおのおの鋭い問題提起を携えた濃い内容の力作であります。」
目次
水垣 渉「思考者パウロとその高揚した語り―ローマ書8:38-39を中心にして―故泉治典氏の記念に」
野島邦夫「パウロにおけるεις δοξαν θεου定式について」
小泉一太郎「19世紀オックスフォド大学史 7」
関口 康「A. A. ファン・ルーラーの神学思想の特質」
田上雅徳「逢坂元吉郎、未完の政治神学」
吉馴明子「日韓のキリスト教と田中剛二の『政教分離』」
編集後記
発行日 2013年12月25日
編集・発行 思想とキリスト教研究会(大村晴雄)
発行所 キリスト新聞社出版事業課
価格 本体1,700円 送料240円
ISSN 0388-2179
ISBN 978-4-87395-647-3 C0016(日キ販)
ぜひお買い求めください。よろしくお願いします。
2013年12月24日火曜日
クリスマスイヴも「らせん階段」で目を回している牧師のぼくです
こういうのを「らせん階段」ていうんですかね。
何年か前から牧師仲間の一人から、
ぼくがこれまでいろんな雑誌や紀要に書き散らしてきた
ファン・ルーラーについての論文や文章を
一冊の本にしろ、と言われているのですが、
しそびれています。
同じ雑誌や紀要に連載したようなものなら、まとめやすいのですが、
かれこれ5つほどの雑誌・紀要に書いてきました。
それぞれの読者層が異なるので、
雑誌・紀要ごとに、いちいち事のイロハから書き起こす必要があり、
全部を一つにまとめると、かなりの重複箇所があるのです。
それを自分で編集しなくてはならないのですが、
それが面倒くさいんです。
書き散らしたものを今さら読み返してまとめる、という作業をするのが、
後ろ向きな姿勢のように思えてしまって、
ぼくの脳が拒絶反応を起こすんです。
しかし、
ぼくの恩師から言われた言葉ですから、自慢げに書かせていただきますが、
「関口くん、どんなにいいこと言っても、
単行本にしなきゃ誰も関心持ってくれないよ」
と昨年3月に言われました。赤木善光先生です。
とかなんとか、モタモタしているうちに、どんどん新しい研究者が参入してきて、
ぼくの出番は無くなるのでしょう。
いっそ、そうなってほしいのですが!
ファン・ルーラー、面白いですよ!
みんなでオランダ語を読みましょう!
(あとは、大きい声では言えませんけど、
単著の出版には、やっぱりある程度「立場」が必要ですよね。
経歴とか肩書きとかいう意味じゃないですよ。
なんていうか、
その本をその人が書くことの必然性(necessity / nootzakelijkheid)を
客観的に保証してくれるような「何か」。
大学にも神学校にもアクセスしたことない人間(ぼくのことですよ)は無理ですね。
市井の一マニアの本で悪いわけではないですが、
そんなのは開学400年の伝統を誇る超名門・ユトレヒト大学神学部の
有名教授ファン・ルーラー大先生の業績を扱うのにふさわしい態度ではありませぬ。
なんたって、2007年から刊行が始まった新版の『ファン・ルーラー著作集』の出版祝賀会で
「これは国民的事件(nationale belang)だ!」と騒ぎになったほどですからね。
日本のファン・ルーラー研究も「立場」ある人にやってもらいたいです。
いつまでもネタみたいな扱いのままだと、相手に失礼です。
ぼそぼそ)
2013年12月23日月曜日
わたしが命のパンである
ヨハネによる福音書6・34~40
「そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその日を終わりの日に復活させることだからである。』」
今日皆さんに覚えていただきたい聖書の御言葉は、たった一言です。
それは「わたしが命のパンである」というイエス・キリストの御言葉です。
この御言葉が出てくるのは、新約聖書のヨハネによる福音書の6章35節です。その前後の文脈が分かるように、いま少し長めに朗読しました。
イエスさまが「わたしが命のパンである」とおっしゃった文脈は、イエスさまとイエスさまのもとに集まって来た群衆との対話です。
その「群衆」の中にいたのはイエスさまの弟子たちだけではありません。イエスさまの弟子とはイエスさまを信じている人のことです。しかし、そこにはまだイエスさまを信じていない人々もいました。その人たちの前で、イエスさまは「わたしが命のパンである」とおっしゃったのです。
そのときの状況について聖書に記されているのは次のようなことです。イエスさまのお話を聞くためにたくさんの人が集まって来ました。なんと5千人もの大集会が行われたというのです。
すると、そのときイエスさまが、一つのことを気にかけられたというのです。なんとイエスさまは、ご自分の話を聴くために集まって来てくれた5千人の人々の食事の心配をしてくださったというのです。みんなお腹がすいただろうと心配してくださったというのです。しかし、イエスさまの弟子たちは、5千人の食事の準備などは考えてもいませんでした。
そこでイエスさまは一つの奇跡を行われたというのです。一人の少年が持っていた大麦のパン5つと魚2匹を手に取られ、それを5千人の人たちにお分けになりました。
どういう方法でかは分かりません。とにかく5千人で分けた。すると、みんながそれで満足し、満腹したというのです。驚くべき奇跡です。
それでどうなったか。イエスさまを信じる人たちが増えたというのです。驚くべき奇跡的な出来事を目の当たりにして、それをきっかけにして、イエスさまを信じるようになった人たちがいたというのです。わたしたちも信仰の道に入るときには、いろいろなきっかけがあります。
ところが、イエスさまは、その人々に対して、ものすごく厳しいことをおっしゃいました。それは震えあがるほど厳しい言葉です。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(6・26)。
イエスさまがおっしゃっていることの意味は、あなたがたは、私を信じているのではなくて、ごはんが食べたいだけなのだ、ということです。
ごはんを食べさせてくれるから、わたしのもとに集まっているのだろう。ごはんを食べさせてもらえなくなったら、わたしのもとから去るだろう、ということです。これは厳しい言葉です。
しかし、その人たちにも言い分がありました。彼らはイエスさまに言いました。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」(30節)。
あなたを信じることは、やぶさかではない。信じろというなら、信じてもいい。だけど、そこまで言うなら、あなたを信じるに価するだけの根拠を見せてくれ、それを見せてくれるなら信じてあげてもいい、というわけです。彼らの言い分も、よく分かります。
その人々に対してイエスさまがおっしゃったのが「わたしが命のパンである」という御言葉でした。その意味は、「わたしがパンだ。わたしを食べなさい」ということです。
これはとてもひどい話だ、人の体を食べるという話なのか、気持ち悪い、というような意味のこととして聴いた人たちもいたようです。しかし、イエスさまがおっしゃっていることは、もちろんそのような意味ではありません。
しかし、それでは、イエスさまがおっしゃりたいことは、何でしょうか。考えられるのは、次のことです。「イエスさまを食べる」とは、イエスさまの存在を丸ごと受け容れることです。イエスさまを丸飲みすることです。それはイエスさまを心から愛し、共に生きることです。
気持ち悪いでしょうか。そういう面もあるかもしれません。しかし、たとえば結婚の直前や直後のカップルは、相手を食べてしまいたい(?)と思うくらいの気持ちを持っているのではないでしょうか。
もちろんお互いは独立した人格同士ですから、食べてしまってはいけません。しかし、「愛する」というのは、相手と自分を明確に区別することができないほどに、いつも一緒にいたい、一緒でありたいと願うことです。
イエスさまを愛すること、イエスさまの御言葉に従い、イエスさまの行いを模範にして生きること。それが「イエスさまを食べること」です。そのことをイエスさまは、ご自分の弟子たちに対してだけではなく、まだイエスさまを信じていない多くの人たちにお勧めになったのです。
それは、わたしたちにとって毎日の食事に匹敵するほど大切なことです。いま私は「匹敵するほど」と言いました。どちらが大事なのか、というような比較はできません。両方、大切です。
両方が大切であるということは、イエスさま御自身のお考えでもあります。イエスさまがそういうお考えでなければ、5千人の人々の食事の心配などなさったはずがないのです。
「食事のことなどどうでもいい。そんなことは個人の自己責任だ。わたしには関係ないことだ。食べずに我慢しろ。そんなことよりも、わたしの話を聴くことのほうが大事だ」とは、イエスさまはおっしゃいませんでした。
ですから、私も牧師として、そのようなことを言ったことは一度もありません。毎日の食事のことなどどうでもいい。それよりも信仰のほうが大切だ。そのようなことを考えたこともありません。
日々の食事の問題は、わたしたちの人生の大問題です。それはイエスさまを信じることに匹敵するほど重要です。
しかし、そのことを十分に確認したうえで、もう一言付け加えさせていただきたいことがあります。
毎日の食事のためだけに働くことには、どこかしら空しさが伴います。その人生にプラスアルファが欲しくなります。汗水たらして働いて、その全精力を自分と家族の生活だけに費やしてしまうということには、空しさが伴います。
生活の余裕など1ミリもないかもしれません。それもよく分かります。しかし、だからと言って、世のためにも、人のためにも、そして神や教会や宗教のために、1ミリの関心も持たないというような人生になってしまってよいでしょうか。そこには空しさが伴います。
人生のプラスアルファとしてでもいいです。イエス・キリストを信じてみませんか。「命のパン」を食べてみませんか。イエスさまが願われたことは、そのことです。
(2013年12月23日、松戸小金原教会クリスマスキャンドル礼拝)
「そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその日を終わりの日に復活させることだからである。』」
今日皆さんに覚えていただきたい聖書の御言葉は、たった一言です。
それは「わたしが命のパンである」というイエス・キリストの御言葉です。
この御言葉が出てくるのは、新約聖書のヨハネによる福音書の6章35節です。その前後の文脈が分かるように、いま少し長めに朗読しました。
イエスさまが「わたしが命のパンである」とおっしゃった文脈は、イエスさまとイエスさまのもとに集まって来た群衆との対話です。
その「群衆」の中にいたのはイエスさまの弟子たちだけではありません。イエスさまの弟子とはイエスさまを信じている人のことです。しかし、そこにはまだイエスさまを信じていない人々もいました。その人たちの前で、イエスさまは「わたしが命のパンである」とおっしゃったのです。
そのときの状況について聖書に記されているのは次のようなことです。イエスさまのお話を聞くためにたくさんの人が集まって来ました。なんと5千人もの大集会が行われたというのです。
すると、そのときイエスさまが、一つのことを気にかけられたというのです。なんとイエスさまは、ご自分の話を聴くために集まって来てくれた5千人の人々の食事の心配をしてくださったというのです。みんなお腹がすいただろうと心配してくださったというのです。しかし、イエスさまの弟子たちは、5千人の食事の準備などは考えてもいませんでした。
そこでイエスさまは一つの奇跡を行われたというのです。一人の少年が持っていた大麦のパン5つと魚2匹を手に取られ、それを5千人の人たちにお分けになりました。
どういう方法でかは分かりません。とにかく5千人で分けた。すると、みんながそれで満足し、満腹したというのです。驚くべき奇跡です。
それでどうなったか。イエスさまを信じる人たちが増えたというのです。驚くべき奇跡的な出来事を目の当たりにして、それをきっかけにして、イエスさまを信じるようになった人たちがいたというのです。わたしたちも信仰の道に入るときには、いろいろなきっかけがあります。
ところが、イエスさまは、その人々に対して、ものすごく厳しいことをおっしゃいました。それは震えあがるほど厳しい言葉です。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(6・26)。
イエスさまがおっしゃっていることの意味は、あなたがたは、私を信じているのではなくて、ごはんが食べたいだけなのだ、ということです。
ごはんを食べさせてくれるから、わたしのもとに集まっているのだろう。ごはんを食べさせてもらえなくなったら、わたしのもとから去るだろう、ということです。これは厳しい言葉です。
しかし、その人たちにも言い分がありました。彼らはイエスさまに言いました。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」(30節)。
あなたを信じることは、やぶさかではない。信じろというなら、信じてもいい。だけど、そこまで言うなら、あなたを信じるに価するだけの根拠を見せてくれ、それを見せてくれるなら信じてあげてもいい、というわけです。彼らの言い分も、よく分かります。
その人々に対してイエスさまがおっしゃったのが「わたしが命のパンである」という御言葉でした。その意味は、「わたしがパンだ。わたしを食べなさい」ということです。
これはとてもひどい話だ、人の体を食べるという話なのか、気持ち悪い、というような意味のこととして聴いた人たちもいたようです。しかし、イエスさまがおっしゃっていることは、もちろんそのような意味ではありません。
しかし、それでは、イエスさまがおっしゃりたいことは、何でしょうか。考えられるのは、次のことです。「イエスさまを食べる」とは、イエスさまの存在を丸ごと受け容れることです。イエスさまを丸飲みすることです。それはイエスさまを心から愛し、共に生きることです。
気持ち悪いでしょうか。そういう面もあるかもしれません。しかし、たとえば結婚の直前や直後のカップルは、相手を食べてしまいたい(?)と思うくらいの気持ちを持っているのではないでしょうか。
もちろんお互いは独立した人格同士ですから、食べてしまってはいけません。しかし、「愛する」というのは、相手と自分を明確に区別することができないほどに、いつも一緒にいたい、一緒でありたいと願うことです。
イエスさまを愛すること、イエスさまの御言葉に従い、イエスさまの行いを模範にして生きること。それが「イエスさまを食べること」です。そのことをイエスさまは、ご自分の弟子たちに対してだけではなく、まだイエスさまを信じていない多くの人たちにお勧めになったのです。
それは、わたしたちにとって毎日の食事に匹敵するほど大切なことです。いま私は「匹敵するほど」と言いました。どちらが大事なのか、というような比較はできません。両方、大切です。
両方が大切であるということは、イエスさま御自身のお考えでもあります。イエスさまがそういうお考えでなければ、5千人の人々の食事の心配などなさったはずがないのです。
「食事のことなどどうでもいい。そんなことは個人の自己責任だ。わたしには関係ないことだ。食べずに我慢しろ。そんなことよりも、わたしの話を聴くことのほうが大事だ」とは、イエスさまはおっしゃいませんでした。
ですから、私も牧師として、そのようなことを言ったことは一度もありません。毎日の食事のことなどどうでもいい。それよりも信仰のほうが大切だ。そのようなことを考えたこともありません。
日々の食事の問題は、わたしたちの人生の大問題です。それはイエスさまを信じることに匹敵するほど重要です。
しかし、そのことを十分に確認したうえで、もう一言付け加えさせていただきたいことがあります。
毎日の食事のためだけに働くことには、どこかしら空しさが伴います。その人生にプラスアルファが欲しくなります。汗水たらして働いて、その全精力を自分と家族の生活だけに費やしてしまうということには、空しさが伴います。
生活の余裕など1ミリもないかもしれません。それもよく分かります。しかし、だからと言って、世のためにも、人のためにも、そして神や教会や宗教のために、1ミリの関心も持たないというような人生になってしまってよいでしょうか。そこには空しさが伴います。
人生のプラスアルファとしてでもいいです。イエス・キリストを信じてみませんか。「命のパン」を食べてみませんか。イエスさまが願われたことは、そのことです。
(2013年12月23日、松戸小金原教会クリスマスキャンドル礼拝)
2013年12月22日日曜日
愛用マシン大公開
私がメインで使っているマシンは自作です。外箱は10年以上前のものです。
CPUはセレロン E3300(2.50GHz)です。デュアルコアです。
ハードディスクは、壊れたノートパソコンから引き抜いた3.5インチのものです。
フロッピードライブ、CD-ROMドライブ、DVDドライブ、いずれも作動しません。
不要なので電源を引き抜いているからでもあるのですが、電源をつないでも動きません。
ちなみに、奥のコンセントに差し込まれている握りこぶし大くらいのプラグは
「電力線通信」(PLC)の親機です。
電力線を利用して、
無線LANが届かない二階の事務室のパソコンをネット回線につないでいます。
CPUはセレロン E3300(2.50GHz)です。デュアルコアです。
ハードディスクは、壊れたノートパソコンから引き抜いた3.5インチのものです。
フロッピードライブ、CD-ROMドライブ、DVDドライブ、いずれも作動しません。
不要なので電源を引き抜いているからでもあるのですが、電源をつないでも動きません。
ちなみに、奥のコンセントに差し込まれている握りこぶし大くらいのプラグは
「電力線通信」(PLC)の親機です。
電力線を利用して、
無線LANが届かない二階の事務室のパソコンをネット回線につないでいます。
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