2013年11月25日月曜日

実践神学概論の参考書

神学の第四部門としての「実践神学」の一教科としての「実践神学概論」に該当する文献で

ぼくが持っているのは、この写真に写っている本です。


8冊ありますが、翻訳本を含んでいる8冊ですので、実際には5冊です。

左から

ロスカム・アビンク『神学諸科解題』
『実践神学 ロスカム・アビンク教授退任記念論集』
ヘイティンク『実践神学』(オランダ語版、英語版)
ブラウニング『基礎的実践神学』
イミンク『信仰論』(オランダ語版、英語版、日本語版)

ロスカム・アビンク教授(1914-1996)はフローニンゲン大学で教えました。

ヘイティンク教授(1938-)はアムステルダム自由大学で教えました。

ブラウニング教授(1934-2010)はシカゴ大学で教えました。

イミンク教授(1951-)は現在プロテスタント神学大学の学長です。

それぞれの実践神学概論に、その著者独特の文体や論調があり、個性の強さを感じます。

強いて言えば、論理的に最も整理されているのは、ヘイティンク先生の『実践神学』だと思います。

聖書コーナーです


あくまでも相対的な話ですが、

オランダ語の教義学の本の話よりは、もう少し共感を得られやすい写真を公開します。

「聖書コーナー」です。

カイパーとバーフィンクの本です


本棚の話題は反応が温かいので、もう少し続けます。

この写真に写っている範囲内にあるのが、

「アムステルダム自由大学」を設立したカイパーと、

カイパーの同僚バーフィンクの本です。

ぼくが持っているカイパーの本は、

左から

『一般恩恵論』全3巻(オランダ語)
『天使論』(オランダ語)
『聖霊論』(英語版)
『カルヴァン主義』(オランダ語版、英語版、日本語版)

などです。

カイパーについて書かれた本(伝記、思想)もあります。

真ん中の黒っぽい四巻本から始まり、その右にあるのが

バーフィンクの本です。

その四巻本が『改革派教義学』(オランダ語)です。

その右側に、同書の英語版を並べています。

あとは

『啓示の哲学』(オランダ語版、日本語版)
『改革派組織神学』(日本語版、原題『神の偉大さ』)
『賛美の供えもの』(オランダ語版)

です。バーフィンクの伝記や研究書もあります。

2013年11月24日日曜日

惜しみなく分け与えなさい

テモテへの手紙一6・17~21

「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。」

いまお読みしました個所も「聖書はすごい」と思わされるところです。二千年も前に書かれたものなのに、まるで今のわたしたちの状況を手に取るように見ているかのようなことが書かれています。

今は深刻な格差社会です。アメリカで年収が上がっている人は上位1%だけだそうです。100人に1人は右肩上がりの裕福な生活をしているのかもしれませんが、99人はそうではないのです。日本も今すでに、ほとんど同じ状況ではないかと思います。

1%の人になるための競争を、早い人は幼稚園の頃から始めています。負けないように、蹴落とされないように、必死でがんばっています。がんばることが悪いと言いたいのではありません。しかし、お金は天下の回りものだと、昔から言われてきたではありませんか。ある人の分が多ければ、他の人の分は少なくなるのです。

今の日本の経済政策はお札をたくさん印刷してお金を増やし、それで経済を活性化することだそうですが、それはただのごまかしです。いま本当にしなければならないことは、上位1%の人たちの年収を守ることではなく、99%の人々になるべく公平に配分することです。

みんなが完全に等分に分ければよいというような単純な話ではありません。しかし、持っている人が持っていない人に対して「あの人たちは頑張らなかったからこうなったのだ。自業自得なのだ」とだけ言って済ますことはできません。そちらのほうも単純な話ではないのです。

しかし、そのように単純に考え、実際にそのような言葉を口にし、持っていない人を見くだし、傷つける。まさにそれが、今日の聖書の個所で言われている、この世で富んでいる人が陥る「高慢」の意味だと思います。

「不確かな富に望みを置くのではなく」と書かれています。「富」はたしかに「不確かな」ものです。株をなさる方々は、株の価値は秒単位で変動しているものであることをご存じでしょう。悪口を言いたいわけではありませんが、株で利益を得ようと思うことは、賭博をするのと変わりません。会社で無理やり株を買わされている方々も多くおられると思うので、本当にこれは悪口で言っていることではありません。ただ、株の運命そのものは、一寸先は闇です。これは悪口ではなく事実です。

株も投資も非常に危険なものです。賭博は論外中の論外です。人より多くのお金を持つことが悪いわけではありません。しかし、大切なことは、いかに人より多くのお金を持つかではなく、そのお金で何をするかです。人それぞれの生き方や価値観をとやかく言うと叱られますので、そういうことはしないでおきます。そこから先は、自分の頭と心で考えてくださいとしか言いようがありません。

今申し上げていることは、教会の皆さんに申し上げていることではありません。教会の皆さんはよく分かっておられる、あえて言う必要がないことばかりです。多くの財産を手にすることが悪いわけではありません。しかし、厳粛な事実は、それらはすべて、いつまでも自分のものであり続けるわけではないということです。わたしたちの命には必ず終わりの日が来るからです。そのときには、誰かに手渡さなければなりません。

しかし、それを誰に手渡すのでしょうか。わたしたちは10月に、キリスト教葬儀社の方に来ていただいて「遺言セミナー」をしました。講師の方から「遺言をちゃんと書いてください」と教えられました。何も書かなければ、法律に基づいて、自動的に財産分与がなされます。それでも構いません。しかし、世のため、人のために遺す分はないのでしょうか。あるいは、神さまのため、信仰のために遺す分は。

こういう話をしますと「おやおや、牧師が信者に金銭を要求しているぞ」というような話になってしまいかねないので、私は本当はこんなことをあんまり言いたくないのです。しかし、教会は非営利団体です。皆さんの献金、あるいは寄進のみによって支えられている存在です。それ以外にどうすることもできません。皆さんの生活に負担をおかけしようなどという気持ちは全くありません。しかし、教会「も」助けていただきたいのです。今はこのようなことを真剣にお願いしなくてはならない状況でもあります。

長男が中学に入ったときからですから、もうかれこれ7年前からということになります。妻が仕事をするようになりましたので、私が家事をするようになりました。結婚して22年になりますが、最初の15年間は、私は家事を全くしませんでした。だから、今はお詫びのような気持ちでやっています。ほとんど毎日買い物に出かけ、妻が留守の日はごはんを作り、皿を洗い、洗濯し、掃除し、朝はゴミ出ししています。

偉そうに言うつもりはありません。当たり前のことなのです。それを15年間も全くしたことがなかったことのほうが問題です。妻には本当に申し訳ないことをしました。

自分で家事をするようになって、「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置く」(17節)という御言葉の意味が沁みるように分かります。高級な食材を使えば美味しい料理ができるのは当たり前です。私が追求しているのは、いかに安い食材で美味しい料理を作れるかです。お肉や野菜の安売りの日は何曜日かというようなことも、だんだん分かってきました。そういうことを全く知らないで生きてきたことのほうが問題です。大失敗です。

「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神」の意味は、「わたしたちに高級なものをいつもくださり、贅沢な生活をさせてもらえる神」ということではないと思うのです。そういうのは全く正反対です。楽しくありませんし、実は豊かでもありません。いろいろと自分で考える必要がないからです。

私は今、楽しくて仕方がないです。自分でいろいろなことができるようになりました。ありがたいことです。遅ればせながら、毎日の家事に人生の喜びを見いだしている今日この頃である、ということを、この機会にお話ししておきます。

(2013年11月24日、松戸小金原教会主日夕拝)

ぼくの「ファン・ルーラー文庫」は四種に分類できます


ぼくの「ファン・ルーラー文庫」は次の四種に分類できます。

(1)左端から緑色の本までが旧・新の「著作集」。

(2)その隣から中央の赤い本まで「論文集」。

(3)その隣から右から四分の一あたりまでが「黙想集」。

(4)残りはファン・ルーラーを取り上げた「研究集」です。

ある出版社の方が、ファン・ルーラーの新しいほうの「著作集」(写真の中の緑色の本)を全訳しようと提案してくださったことがあるのですが、

それを実現するためには改革派神学とオランダ語に習熟した最低10人くらいの人材が一致協力して訳業に専念できるようなシステムが必要だと、ぼくは思います。

22世紀ですね。

2013年11月23日土曜日

みなさん、オランダ語を勉強しましょう!

前の記事にアップした本棚の写真の下の三段分がすべて

カール・バルトの本と、バルトについて書かれた本です。


「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」

という言葉は、バルトにも当てはまると思います。ビビるほどの量ではありません。

我々が一人の学者を偶像にしないためにできそうなことは、

複数の神学者たちの本を「揃える」ことかもしれません。

日本では知られていない神学者たちが、

カルヴァンやバルトほど本を書きました。我々が知らないだけです。

複数の神学者の本を「揃える」ことで、何が起こるのか。

メディアなどが作りだした「偉大な」神学者の相対化です。

日本で知られている「偉大な」神学者の代表は

アウグスティヌス、トマス、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルトでしょうか。

彼らを相対化することができるようになります。

ベルカウワーもファン・ルーラーも、ドイツ語でも書きましたが、

二人ともオランダ人ですので、著作の大半はオランダ語です。

オランダ語はドイツ語に似ています。ドイツ語の基礎が分かれば、すぐ読めるようになります。

講談社オランダ語辞典は画期的でした。これなしには、ぼくは読めません。

みなさん、オランダ語を勉強しましょう!

どれほど偉大な神学者でもバケモノではありません

ふいに思い出したのは、学生時代の先輩の言葉です。

三鷹の学生寮のぼくの部屋の本棚を見て

 「きみは揃いものが好きなんだね」

と言われたことがあります。

その先輩が誰だったのかは覚えていません。その人の顔が思い浮かびません。

でも、先輩のおっしゃったこと、当たっていました。

ぼくは揃えたくなる人間です。「収集癖」のようなものが、たぶんあります。

なぜ揃えたくなるのかは分かりません。その理由を知りたいわけではありません。

ただ、分かったことがあります。

それは、どんなに偉大な先生でも  一生の間にできる仕事は限られている、ということです。

当たり前のことですが、揃えてみて納得できました。


この写真の上の段は、ベルカウワー(1903-1996)の本とベルカウワーについて書かれた本です。

下の段は、ファン・ルーラー(1908-1970)の本とファン・ルーラーについて書かれた本です。

いずれもパーフェクトなコレクションではありませんが、かなり網羅できていると思います。

ベルカウワーとファン・ルーラーは二人ともオランダの改革派神学者でした。

ほぼ同時代に活躍しましたが、所属教団が異なるため、主張に違いはありました。

二人の関係を研究することは、大きな意義があります。

それよりぼくがいま言いたいことは、二人の著作の量です。

「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」

ということです。

どれほど偉大な神学者でもバケモノではありません。人間です。

人ひとりの一生の間に書き残しうる言葉には、限界があります。

「揃えて」みて初めて、そのことが分かりました。

それでぼくは、ほっとしたのです。

神学をなめてはいけません。しかし、むやみに恐れることもありません。

何を言ってるのか分からなくなってきましたので、このへんで終わります。

2013年11月22日金曜日

ぼくに安住の地は無いような気がします

いま気づきました。

ぼくは今週月曜日のブログ

「まあ、ぼくは『岡山県人』ですから、

 千葉の空気も、東京の空気も、読んであげる義理はありません。」

と得意気に書きましたが、

その三日後の、昨日木曜日のブログには、

岡山の空気をけがすようなことを書いてしまっています。

あーあ、こうしてぼくは日々、世間を狭くしています。

外国語できないから「日本から出て行け」とか言われても無理だし。

ぼくに安住の地は無いんですね、たぶん。

しゅるしゅる(煙)。

2013年11月21日木曜日

違憲状態国会が決めた法律に逆らうと禁固刑何十年という話になるのはグロテスクすぎます

違憲状態選挙で選出された(確定)

違憲状態議員による(確定)

違憲状態国会で(確定)

明白に違憲的ななんちゃら法案が審議され(いま)

その法案が「数の力で」成立した場合でも(?)、

その法律に従わなければ、禁固刑何十年(ええーっ?!)という話、

バカバカしすぎて、グロテスクすぎて、ついて行けないです。

ただちに解散総選挙すべきだと思います。

ただし、一票の格差の問題は解決したうえでの再選挙です。

または、なんちゃら法案は審議未了廃案とする。

どちらかです。

ぜひお願いいたします。

【追記】

ぼくごときの意見を無視するのは、そりゃいとも簡単なことですよ。

だけど、ぼくが書いたことは、ごく普通の庶民感覚だと思いますよ。

まさか強行採決するんですか。

違憲状態国会の強行採決。ずいぶんアナーキーですね。前代未聞ですな。

そういうことすると、皆さんの輝かしい経歴に傷がつくんじゃないですかね。

もう二度と法律だの憲法だのという言葉を口にできなくなるんじゃないですか。

恥ずかしいと思わないのかな。結局、権力の亡者だったのか。がっかりですね。

2013年11月20日水曜日

2012年12月衆議院議員選挙「違憲状態」についての最高裁大法廷判決に寄せて

1票の格差:12年衆院選は違憲状態 最高裁大法廷(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/m20131120k0000e040232000c.html

ついに最高裁判決出ました。

竹崎博允裁判長は、ぼくらの高校、岡山朝日高校の先輩だったんですね。知りませんでした。

竹崎博允 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/竹崎博允

今日の判決によると、選挙そのものは有効だそうですので、

せめて「違憲状態議員」と「合憲議員」の区別はされるべきだと思います。

この判決が出ても議席に堂々と座れる人の神経を、ぼくは疑います。

「違憲状態議員」は自主的に傍聴席に座るべきです。

それが不服なら自主的に議員バッジを外すべきです。

考えてもみてください。

「違憲状態議員」を含む国会で決められた法律に、

ぼくらは、どの顔して従えばいいのか。

冗談じゃない。

「違憲状態議員」たちを、どの国民が尊敬できるのか。

ぼくには無理です。

というか、その人自身、国会議員としてのプライドを持てるのか。

ぼくには甚だ疑問です。

早く解散総選挙してあげるほうが、その人たちの尊厳を守れると思います。