2013年6月30日日曜日

有限は無限をとらえることができません

ローマの信徒への手紙3・27~31

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」(27節)と書かれています。これはどういう意味でしょうか。その説明から始めます。

先週の個所でパウロは、わたしたち人間が罪の中から救い出されるために唯一残された道を教えていました。それは、わたしたちが神の言葉である聖書の教えを完璧に実行するという道ではありません。そうではなく、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる道です。それは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で」(24節)与えられる神の義です。

「無償で与えられる」ということは、人間の側からのいかなる支払いも、神はお受け取りにならないということです。神は人間のいかなる買収にも応じられません。人間がどれだけ支払ったから、どれだけがんばったから、どれだけたくさんのささげものをしたから、だから神は人間を救うということではありません。たくさん支払った人にはそれなりの見返りがあるということであれば、神と人間の関係は商売の関係になります。商売が悪いと言っているのではありません。神とわたしたち人間との関係はそのようなものではないと言っているのです。

わたしたちの支払いの多寡に応じて神の態度が変わるということであれば、神がわたしたち人間に与えてくださる救いの恵みには松・竹・梅の三種類か、それ以上の種類があるということになります。天国が、ものすごくがんばった人用の部屋と、少しがんばった人用の部屋と、がんばらなかった人用の部屋に分かれていることになります。

しかし「何の差別もありません」(22節)。支払う力のない人にも多く支払うことができた人と全く同じ部屋が用意されています。神の御子イエス・キリストが父なる神のみもとから地上の世界に遣わされて行ってくださった贖いの御業は、イエス・キリストを信じるすべての人に平等の神の義を約束してくれるのです。

こういう話をした後にパウロは「人の誇りは取り除かれた」(27節)と書いていますので、どういう意味であるか、もうお分かりでしょう。「人の誇り」とは人間の努力の証しです。しかし、その努力の多寡は、人が神に救われるかどうかに関係ないことだとパウロは言う。そのように言われると、私はこれまで一生懸命がんばって生きてきた、誰にも負けないほどの努力をしてきたと思っている人たちは傷つくのです。「もうやってられない」と自暴自棄になり、投げやりになることがありうるのです。

人の誇りが取り除かれる、つまり、わたしたちが神に救われることに関して努力の価値が失われるのは、「どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」(27節)とパウロは続けています。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(28節)。

神はわたしたちの買収に応じる方ではありません。天国の問題はお金で解決することはできません。また、これは私にとっても厳しい話になるのですが、この地上において神を信じて生きる信仰生活を何年続けてきたかは、天国においては関係ありません。教会において多くの奉仕をなし、献身した人と、今際の床でわずか数分、わずか数秒、イエス・キリストを信じる信仰を告白した方とは全く同じ天国に受け入れられるのです。

47歳の私は47年教会生活を送ってきました。6歳のクリスマスに成人洗礼を受けましたので、洗礼を受けてから41年経っています。しかし、神は「だから何なのだ」と私に問いかけます。そのようなことを私のプライドにすることを神御自身が許してくださらないのです。

教会生活を長く続けることには意味はないと申し上げているのではありません。意味はあります。ないはずがありません。しかし、その意味は、ただひたすら、これからイエス・キリストへの信仰をもって歩みはじめる人たちを歓迎し、受け入れ、祝福し、心から喜ぶことにあるのです。

なぜパウロは、このようなことを言わなくてはならないのでしょうか。人間はもっと努力すべきである。「神と教会にたくさん奉仕し、ささげものをし、やるべきことをしっかりやらないと、天国には行けません」と教えるほうが教会にもっと人が集まるのではないでしょうか。「がんばらない人は地獄行きですよ」と威嚇するほうが、不安や恐怖心にかられて教会生活を熱心に続ける人たちが増えるのではないでしょうか。

しかし、パウロの考えはそのようなものではありません。真の教会はそのような方法を選んではいけません。悪質な宗教ビジネスの手口です。そのようなやり方を神が許してくださいません。神が求めておられるのは、脅しや不安や恐怖に怯えて集まって来る人ではありません。全くの自由において神を愛し、隣人を愛して生きる、喜びと感謝にあふれている人をお求めになるのです。

「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に神は唯一だからです」(29~30節)とパウロは続けています。話が突如として飛躍して、ユダヤ人と異邦人の関係の問題が出てきたようでもありますが、もちろん関連があります。

繰り返し申し上げているとおり、パウロが言う意味での「ユダヤ人」とは幼い頃から聖書に基づく教育を受け、安息日のたびに神殿や会堂に集まり、礼拝をささげ、奉仕を行ってきた人々です。そのこと自体は素晴らしいことですし、人から責められるようなことではないし、自分自身の誇りにすることが許されることでもあります。しかし、だからといって、「神はユダヤ人だけの神でしょうか」、そうではないでしょうと、パウロは言っているのです。ユダヤ人だけが「神」を専有すること、独り占めすることはできません。

この「神」を「教会」と言い換えてもほとんど同じ結論になると思います。教会はユダヤ人だけの教会でしょうか。教会は幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けてきた人たちだけの専有物でしょうか。初めて教会を訪ねる人、これからイエス・キリストを信じる信仰を求め、そういう人生を今から始めたいと願っている人のための教会でもあるのではないでしょうか。そして、そのような人のための神でもあるのではないでしょうか。そのようにパウロは言いたいのだと思います。なぜならパウロは「異邦人のための伝道者」であろうとしましたから。

「異邦人」とは異教徒です。幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けるどころか、そういうことは何も知らない、習ったことも触れたこともない人々です。軽んじる意味で言うのではありませんが、聖書の宗教に限って言えば、その人々は“子ども”です。誰からも教えてもらったことがないのですから仕方がありません。

その人々が聖書を読んだとき、いろいろと素朴な疑問が出てくるのは当然です。教会生活が長い人々が聞くとびっくりするような誤読や誤解をすることがあるのは当然です。あるいはまた、その人々が教会に通い始め、聖書を読み始めるより前から信じていたことや受け容れていたことを抱えたまま、引きずったまま、教会に通い、聖書を読むことになりますから、その人たちの心の中で聖書の教えとそれ以外の教えが混ざり合い、混乱・混同し、どこまでが聖書の教えで、どこからはそうでないかの区別がつかない状態になることも当然です。

ですから、そのような人々に対して教会がしなければならないことは、混合・混乱・混同した状態にあるその人々の心の中にあるものを、解きほぐすことです。それは、もつれあい、からみあった糸をほぐすようなことです。そして、先ほど申した意味での聖書的な宗教教育については“子ども”の状態の人々に、時間と労力を惜しみなく注ぎ、手とり足とり教えていくしかありません。そういうことを面倒くさがるような人は「異邦人のための伝道者」にはなれません。

だから私は、依然として圧倒的な「異邦人の国」である日本の教会がなすべきことは、子どもたちの先生のような仕事であるととらえています。何も知らない“子ども”に手とり足とり、そもそもの物事の成り立ちから、噛んで含んで教え、伝える仕事です。

パウロが言いたいことは、わたしたちにとって厳しい話なのだと思います。わたしたちは、イエス・キリストの教会に来る前から聖書の知識を持っていて、そんなことはもう分かっている、耳にたこができるほど聞きました、というような人々だけを集めて、それで教会にたくさん人が集まったということで満足しているようでは足りないのです。「伝道」とは、全くの異邦人、全くの異教徒をイエス・キリストを信じる信仰へと導き、洗礼を授けることです。そのことがわたしたちにできているだろうかと自らに問わなくてはなりません。

有限なる人間、有限なる教会は、無限の神をとらえることができません。天地万物の創造者である全能の神は、宗教的に熱心な人たちだけの専有物ではありません。わたしたちは世に出ていく必要があります。そこで「伝道」する必要があるのです。

(2013年6月30日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年6月29日土曜日

うんと長生きしてほしいのは、子どもたちのほうです


うちは、もう何とかするしかないし、

ある意味で開き直りましたけど

「これから」の人たちのことを、ぼくは心配しています。

子どもを産んで育てるということに、

親の心に後悔や罪悪感を覚えさせてしまうような社会はまずい。

「子どもなど産むんじゃなかった」と。

あるいは

「子どもがこれ以上進学すると家が破産するからやめて」と、

心の中で親が祈らざるをえなくなるような社会はまずい。

子どもはいつまでも「子ども」じゃあない。

「少子化」って、ですね、

半世紀くらい前は(もう「半世紀くらい前」です)

どこの教会の日曜学校にも100人くらい集まっていたちびっこたちが

今は来なくなったねえ、日曜学校が寂しくなったねえ、

という話ではないです。

「少子化」は人口減少です。人がだんだんいなくなることです。

今の10代、20代の子たちが絶望死していく報道を横目で見ながら

あと10年の命を悠々自適に暮らそうとしている社会はまずい。

うんと長生きしてほしいのは、子どもたちのほうです。

嫌われる言葉かもしれませんが、

ぼくには、そうとしか言いようがないです。

2013年6月27日木曜日

今夜はマカロニグラタンを作りました

文句なし!「マカロニグラタン」~\(^o^)/

マカロニ、牛乳、鶏もも肉、チョリソー、ほうれんそう、アスパラガス、長ねぎ、ぶなしめじ、粉チーズ、(お好みでタバスコ)。

マカロニグラタンは、疲れた日に簡単にできる最高のごちそうです。

妻は今夜も保育園の夜勤です。おつかれさま。


立教大学「キリスト教の歩み」ゲスト講義


立教大学 全学共通カリキュラム「キリスト教の歩み」ゲスト講義

日時 2013年6月27日(木)午後3時
    2013年7月 4 日(木)午後3時

場所 立教大学池袋キャンパス 11号館 A203教室

主題 「現代プロテスタント神学の一断面 カール・バルトの神学をどう乗り越えるのか」

講師 関口 康(日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師)

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画像は、今日の様子です。ほぼ満席でした。

素晴らしい学生さんたちでした。熱心に聴いてくださいました。ご清聴ありがとうございます。

これは本当にやりがいがある仕事だと実感。ぼくの子どもと同世代の方々です。楽しかったです。

まあ、でも、生まれて初めての大学の教壇なのに、いきなり二百人教室とは...。

心臓が口から出そうでした。





2013年6月25日火曜日

悪夢から覚めた朝のポエム(頭いたい)


同じようなことを何度も書いてきた自覚があるが、それは仕方ない。

ネット開始は1996年8月なので(最初はパソコン通信)、17年になる。

こんなこと誓って言う必要はないが、

ぼくがネットに書いたことを読んで

教会に通いはじめ、洗礼を受けたという人は

(少なくとも「そうである」と言っ(てくれ)た人は)、

まだ一人もいない。

17年で、まだ一人も。

その理由ないし原因は

ぼくがネットに書く内容が「悪い」からであることは明白なのだが、

そこで開き直って

「ネットは伝道に向かない」とか言うもんだから

ぼくは、ぼくが始末におえない。

しかし、このことにぼくががっかりしているわけではないし、

卑屈にも思っていない。

「だから意味が無い」とも思っていない。

ここで話を中断して、論理を飛躍させる。

ぼくは日本の教会の「内部取引」を「伝道」だと思っていない。

こっちの教会がイヤになったから、あっちの教会に移った。

これは「伝道」ではない。ただの「内部取引」だ。

バランスシート上ではプラマイゼロ。

いや、結果はゼロではないね、マイナスだ。

どうやら「内部消費」してるようだ。

外に向かうべきだろう。新規を求めるべきだろう。

テレビのCM出したり、番組に出演しますか?

ポスティングのチラシは読んでもらえますか?

それが「悪い」とも「効果が無い」とも言うつもりはない。

言いたいことは、そこで起こる、いろんな省略や割引や水増しの問題だ。

省略とは、割引とは、水増しとは何であるかは詳しく書かない。

論点をずらされて、話の腰を折られるのはめんどくさい。

ただぼくは「内部取引」と「内部消費」は「伝道」ではないと

言葉の定義の問題を言ってるだけだ。

あとは、

この国の現状に満足している人は、たぶん「伝道」には向かない。

そう言いたいだけだ。

2013年6月24日月曜日

あの党の「センター」は鳩山さんだった


不謹慎かもしれませんし、的外れかもしれませんけど、

あの党の「センター」は鳩山さんだったんだと、ぼくはやっぱり思う。

前田さんが”卒業”したAKなんとかは、もうAKなんとかでないのと同様

鳩山さんが”卒業”した民なんとかは、もう民なんとかではないと思う。

「凋落」っていうかベツモノなんですよ、もはや。それがぼくの見方。

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社説:都議選自民圧勝 民主党の危機的な凋落
毎日新聞 2013年06月24日 02時31分
http://mainichi.jp/opinion/news/20130624k0000m070108000c.html


ぼくが「最終的に」守りたいもの

ぼくが「最終的に」守りたいものは何だろうかと、ここ何年も堂々めぐり。

で、結論はだいたい毎回同じ。といっても、うまく言葉にならない。

「日本語で日常会話と感情移入ができる時空が続きますように。」

「肩の凝らない普段着で気楽に歩き回れる時空が続きますように。」

なんか、いつもそんな感じのことです。その程度のことっていうか。

それさえ守れたら、あとはなんでもいいや、という投げやりな気分。

ブリリアントな世界の人たちの足を引っ張りたいわけじゃないけどね。

どーでもいいや。ほんと。ぶつぶつ。

「誰から勧められたわけでもない」のに「誰にも相談せずに」決めました

夕食後、気を失っていたのですが(ねてただけです)、

22時頃、電話で起こされて、

なんだか不自然な覚醒状態のまま、

ねむいような、ねれないような。

そういうときに書く文章はろくなものではないのですが、

あしたの朝にはもう忘れていそうなので

覚えているうちに書き遺しておきます(ゆいごん)。

考えてみれば、ぼくは

「誰から勧められたわけでもない」のに

「誰にも相談せずに」

決めたことが3回あるな、と気づきました。

それは

(1)洗礼を受ける決心(6歳)

(2)牧師という仕事をする決心(17歳)

(3)日本キリスト改革派教会の教師になる決心(31歳)

です(現在47歳)。

だから、ぼくは常に(過去の全人生において)

不安を抱えて生きてきました。

上記三つのことについては

「誰から勧められたわけでもない」ので(ホントです)

自分が「ふさわしい」かどうかが分かりません。

「○○さんが、○○先生が、

ぼくに○○を勧めてくださった”ので”

決心できました」

と語ることができません。

傲慢のキワミのような気がするんですよ、

「すべて自分で決めた」みたいな感じがして。

まあ、でも、人のせいにしなくて済む、という気楽さはあります。

だから、ぼくは感謝しています。

ぼくが洗礼を受けることと、

牧師という仕事をすることと、

日本キリスト改革派教会の教師になることを

ぼくに勧めて”くださらなかった”皆さまに感謝しています。

本当にありがとうございます。

2013年6月23日日曜日

教会の責任は重いものです


テモテへの手紙一5・17~25

「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。聖書には、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と書かれています。長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります。神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。同じように、良い行いも明白です、そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。」

こういう個所をどのように読むかは、本当に悩むところです。

パウロは非常に率直に書いています。ちょっとストレートすぎです。しかしそのことも、この手紙の宛て先がパウロの親しい後輩伝道者テモテであると考えれば、納得できます。ごく個人的な関係の中でのやりとりであることは明白です。

パウロとしては、このやりとりが自分が亡くなった後に公になるとは考えていなかったのではないでしょうか。しかも、それが新約聖書に収められ、二千年後の今でも読み継がれるものになるとは。

この個所でパウロが何を言っているのかを説明させていただきます。しかし、最初にお断りしておきたいことは、これは私の意見ではないということです。パウロの意見です。どうか誤解なさらぬようにお願いいたします。

「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たち」(17節)というのは、御言葉と教えのためにがんばっている長老と、サボっている長老とがいるという話ではありません。

「御言葉を教えのために労苦している長老」とは、日本キリスト改革派教会における職務名で言えば、「教師」のことです。わたしたちの言うところの「宣教長老」です。「宣教長老」に対して「治会長老」がいます。治会長老がいわゆる「長老」です。

ですからパウロが書いているのは、「宣教長老」である「教師」は「二倍の報酬を受けるにふさわしい」ということです。ここで「報酬」とは、明らかに給料のことです。わたしたちの教会では「謝儀」と呼んでいますが、「給料」と呼んでも間違いではありません。

そのあとに続く「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」という文章の意味は、牛は人間の畑仕事を手伝いながら畑のものを食べている、ということです。要するに、腹が減っては仕事はできない、という意味です。牧師の仕事も牛と同じである、ということです。

それを「二倍」受けるにふさわしいというのは、他の仕事に就いている人たちの二倍という意味だと思います。しかし、これは厳密な話ではなく、大雑把な話です。それは具体的にどの職業の人たちの二倍なのかとか、それは具体的に言うといくらぐらいになるのかというように、神経質に突き詰めるような読み方は間違っています。これは具体的な話というよりも、気持ちの問題ではないでしょうか。

また、この個所を読む際に重要だと思われることは、これを書いているパウロも、この手紙の宛て先であるテモテも「教師」であるということです。その教師同士が「ぼくたちの仕事は他の人の二倍の報酬を受けるにふさわしい」と言い合っているのですから、これは要するに愚痴です。実際に人の二倍の謝儀を受けとっているわけではなかった可能性のほうが高い。

先ほど私が「これは私の意見ではなくて、パウロの意見である」と申し上げたのは、パウロの権威を借りて私が皆さんに何ごとかを要求しているわけではありませんという意味です。

日本の教会の牧師たちの生活がいま非常に深刻な状態にあることは事実です。しかし今日の個所のようなところは、しかめっつらしながら読むような個所ではありません。教師たちは、愚痴をこぼしながらも、何とかかんとかやっています。

「長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります」と書かれています。

この「長老」は、わたしたちでいえば宣教長老と治会長老の区別のない、両方を合わせた「長老」のことです。それは教会の運営責任者です。小会・中会・大会の人たちです。この人々は教会運営の全責任を負っています。「責任」という漢字は「責められることを任される」と書きます。責任者とは、内外からのいろいろな苦情や批判を聞き、重く受けとめ、改善する立場の人です。

たとえば、教会の中に問題が起こった。そのことを小会に訴える人が、小会自身の責任も同時に問うことがありえます。「牧師や長老たちがちゃんとやってくださらないから、こういうことになった」と言われます。それだけではなく、牧師や長老は教会の中では目立つ場所にいますので、長所だけではなく、短所や欠点がよく見える。批判の対象にされやすい立場です。

だからこそ、教会の中で長老たちに反対する訴えは、「二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません」という話になります。個人的な恨みが教会で公の問題にされるようなことがあってはならないということです。そういうことをしはじめると、教会が壊れてしまうからです。

「神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい」(21~22節)。後輩テモテに対する親心を感じます。

そして、次の個所は、なんと聖書の中に「お酒を飲みなさい」という言葉が明言されている(!)個所があるということで有名です。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい」(23節)。

しかし、この個所は変なふうに悪用されてはならないと思います。どんどんお酒を飲みましょうと、そのようなことをパウロが言っているわけではありません。また、ぶどう酒に病気(病名不明)を治す薬効があるのかどうか、また本当にそのような(ぶどう酒には薬効があるというような)意味でパウロが書いているのかどうかも分かりません。私は違うと思っています。

パウロが言いたいことは、教会の仕事はたいへんなのだから、あまり神経質にならずに大らかにやりましょう、お酒の少しくらい飲んでもいいんじゃないの、というくらいのことを言って、気分が沈みがちの後輩を励まそうとしている、ただそれだけではないかと、私は思う。そのくらいの、のんびりした言葉として読むくらいでちょうどよいと思います。

パウロが言いたいことは、教会の責任は重いということです。教会の責任だけが重いということではありません。また、牧師の責任だけが重いということでもありません。長老・執事の責任とか、小会・執事会の責任とか、そういうことだけでもない。一全体としての教会に与えられた責任は重いのです。

神が地上に教会をお立てになったのは、教会の存在と働きを通して、神御自身が働いてくださるためです。教会の働きが、神のみわざなのです。神は教会の働きを用いて、地上でお働きになるのです。

ですから、そのようにして神のみわざに参加する教会の働きは、光栄な職務であり、働きなのです。喜んで感謝して神に仕えることが、わたしたちにふさわしいことです。

じくじくと恨みつらみを言い、口を開けば愚痴だ批判だ、というのは暗い。

明るく楽しい教会、そして、公明正大な教会として歩んで行くことが、わたしたちに最もふさわしいことです。

(2013年6月23日、松戸小金原教会主日夕拝)

胸裂けるばかりに罪を悔い、キリストにすがれ


ローマの信徒への手紙3・21~26

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

最初に申し上げておきますが、今日の個所は非常に難しいところです。しかし、非常に大切な個所でもあります。この個所にローマの信徒への手紙の心臓があると言っても決して過言ではありません。この個所の難しさは、短い言葉で書かれていることに関係していると思われます。詳しく丁寧に説明する必要がある、奥深い内容を持つ真理が、簡潔な言葉で要約されているのです。

ですから、ご安心ください。さっぱり分からないとお感じになる方は御自分を責めないでください。パウロの言葉が足りていないのです。たくさんのことがぎゅっと詰まった言葉が書かれているのです。そういうふうに考えてくださって構いません。勇気づけられるのは、そのように解説している注解書があることです。「この個所は難しい」と書いています。だから、どうかご安心ください。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)と書かれています。「ところが今や」という言葉に、パウロは深い意味を込めています。その意味を説明するために何ページも割いている注解書があるほどです。私自身には、それほど深い意味を読みとる力はありませんので、単純なことを申し上げておきます。

それは、「今」という言葉が一つの時間を表わす言葉であるとしたら、「今」と対比されるのは「昔」であるということです。あるいは「現在」に対する「過去」です。そのような意味での「昔」あるいは「過去」に対する「今」あるいは「現在」のことをパウロは書いているのです。

「過去」においてはどうだったのかについては、すでに学んだ個所に書かれていました。特に今日の個所に直接関係しているのは直前の次の御言葉です。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(3・20)。

繰り返し申し上げてきたことですが、この手紙の中でパウロが「律法」と書いている言葉は、ほとんど「聖書の御言葉」という言葉で言い換えることができます。そのルールはここでも当てはめることができます。次のように言い換えることができます。「聖書の御言葉を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。聖書の御言葉によっては、罪の自覚しか生じないのです」。

このように言い換えますと驚かれる方は必ずおられると思います。「聖書の御言葉を実行することが間違っていると言いたいのか」と反発されてしまうかもしれません。その反発は、ある意味で当然のことだと思います。

しかし、「聖書の御言葉を実行すること」が間違っていると言いたいのではありませんが、「律法を実行すること」と結果は同じであると言わざるをえません。律法を実行することも、聖書の御言葉を実行することも、その結果として生じるのは罪の自覚だけだからです。

それは「やってみれば分かる」としか言いようがありません。聖書に書いてあることをそのとおりに実行してみてください。それで分かるのは、聖書のとおりに実行することは不可能であるということです。もしそれが不可能であることが分からないとしたら、その人は聖書のとおりに実行していないのです。

なぜ結果が同じになるのでしょうか。わたしたちが聖書の御言葉を実行しようとすると、罪の自覚が生じます。その自覚の内容は、書いてあるとおりを守ること、遵守することは難しいことであり、できないことであるということです。

なぜ難しいのでしょうか。なぜ不可能なのでしょうか。何か例を挙げてお話しすれば、少しは話が分かりやすくなるかもしれません。聖書の御言葉そのものでなくてもいいです。最も単純で簡単なことでもいいです。たとえば、「私は毎朝5時に目を覚まします」と誓いを立てるとします。その誓いを何があっても守る。自分が病気になろうと、家庭や仕事との関係で生活上の変化や困難が起ころうと、天変地異が起ころうと、自分で立てた誓いを自分で破ることができない。それを守り抜こうとする。

しかし、それは実際には不可能であるということはお分かりになるはずです。さまざまな悪条件が重なることは人生の中にはいくらでもあります。天変地異もある。家庭や仕事との関係で悩むことはいくらでもあります。どちらが優先されるべきかと選択を迫られ、苦しむことはいくらでもあります。

そして、その場合はどちらを選んでも、罪の自覚が生じることになるでしょう。自分の誓いのほうを優先すれば、家族や仕事を犠牲にしてしまったことに苦しむでしょうし、家族や仕事を優先すれば、自分の誓いを裏切ったことに苦しむでしょう。しかし、それがわたしたちの現実なのです。

今申し上げたことはほんの一例です。しかし、これだけでも、わたしたちにとっては「時間を守る」というような単純で簡単な誓いを守ることさえ難しいことであるし、できないことであるということをお分かりいただけるはずです。

しかし、まだ納得していただけないかもしれません。今あげた例は「自分で立てた誓い」であると言いました。しかし、聖書に書かれていることは、神との約束であり、誓いである。人間の誓いは、神との約束とは次元が違うことである。神との約束は絶対に破ってはならない。次元が違う話を持ち込んで一緒くたにするのはけしからん、というふうに叱られてしまうかもしれません。

しかし、そのことについても私は、結果は同じであると言わざるをえません。神との約束であろうと、人間の誓いであろうと、それをわたしたちは完璧に守ることはできません。できると思い込むこと自体が間違いです。なぜ間違いなのかといえば、そこには必ずごまかしがあるからです。「完璧」の意味を自分流に広げたうえで、「自分は完璧である」と言い張っているだけです。

そしてそれは、他人に厳しく自分に甘い生き方にもなっていくでしょう。それは考えれば考えるほど最悪の結末でもあります。パウロが書いている「律法によっては、罪の自覚しか生じない」というのが自分自身の罪の自覚であれば、まだましです。しかし、完璧主義的な生き方を他人に押しつけることをしてしまいますと、他人に罪の自覚を生じさせるだけで、自分は少しも悪くないと思い込むことにもなります。

自分には自分流の「完璧」でいいのだと、自分を甘やかす。しかし、それは聖書の基準からはかけ離れている。それでいて他人には聖書の基準の「完璧」を押しつけているだけです。そういうことをしはじめると、その人はもはや、他人を地獄の苦しみに突き落とすだけで自分は平気な顔をしている邪悪な存在でしかありません。

しかし、いまお話ししていることは、先週学んだ個所までに書かれていたことです。それは「昔」であり、「過去」です。「ところが今や」(21節)と、パウロは続けているのです。

「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)。この文章も難しいです。しかし、難しいのは複数の文章が入り組んでいるからです。理解可能な文章にするためには、入り組んだ複数の文章を切り離す必要があります。していただきたいことは、「しかも律法と預言者によって立証されて」という一文を隠して「律法とは関係なく」と「神の義が示されました」を続けて読んでみることです。

これでもまだ分かりにくいでしょうか。「律法(聖書と読み替えることができる)とは関係なく」とは、噛み砕いて言えば「聖書の御言葉を完璧に実行することによってではなく」ということです。

「神の義」という言葉の意味も説明する必要があります。これは神だけの話ではなく、神と人間との関係の話です。神とわたしたち人間との間の正常な関係のことを指しています。

正常な関係があるということは、異常な関係もあるということです。ノーマルに対するアブノーマルです。しかし、最初から異常な関係だったわけではありません。最初は、そして本来は、正常な関係でした。しかし、正常な関係が壊れました。人間が罪を犯して神に背いたときに壊れました。正常な関係が罪によって異常な関係になりました。しかし、その関係がもう一度正常な関係へと回復されること、これが「救い」です。その神と人間との正常な関係のことを、パウロは「神の義」と呼んでいるのです。

しかし、その「神の義」、すなわち神と人間との間の正常な関係が回復されることがどのようにして起こるのかという問いに対するパウロの答えは、わたしたちが「律法」、すなわち聖書の御言葉を完璧に実行するという方法によってではないというものです。それが「律法とは関係なく、神の義が示された」と言われている意味です。

そういう方法ではない、別の方法が神御自身によって備えられた。それが「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(22節)と書かれている方法です。

ここでご理解いただきたいことは、パウロの言う「イエス・キリストを信じる信仰」は、私が申し上げている意味での「完璧主義」とは対立するものであるということです。完璧主義がわたしたちを自由にすることはありません。完璧主義は、わたしたちを追い詰め、心も体も破壊します。

しかし、だからと言って私は、聖書を読まなくてもよいというようなことを申し上げているのではありません。聖書は読むべきです。聖書に書かれていることを完璧に守ることができなくても、聖書は読むべきです。しかし、この本を読むとわたしたちはどうなるのかといえば、この私がいかに神の言葉を実行することができないか、神との約束を守ることができないかを自覚することができるだけです。そのことを自覚できるまで徹底的に聖書を読み、聖書の御言葉を実行することが必要です。

しかし、それではわたしたちは、自分の罪を自覚した後、どうすればよいのでしょうか。罪を自覚したうえで開き直りなさいと言っているのではありません。自分の罪深さを胸裂けるばかりに悔いる必要があります。しかしそれは、「自分は駄目だ駄目だ」と自己卑下し、自分を責めるだけの憂うつな人生を送りましょうという意味ではありません。自分の罪を自覚するということは、この私を罪の中から救い出してくださる方(それが「救い主」)が必要であると自覚することです。

救い主であるイエス・キリストを信じ、すがる。それが新しい道です。それによってわたしたちは神との正常な関係に戻ることができます。そのとき神は、もはや怒っておられません。明るく笑っておられます。温かい笑顔でわたしたちを見つめてくださっています。

(2013年6月23日、松戸小金原教会主日礼拝)