2013年5月24日金曜日

本日「第9回 カール・バルト研究会」です


今日(2013年5月24日)は、二週に一度の「カール・バルト研究会」の日です。

なんと、9回目になります(これは快挙)。

前回(第8回)から、グループビデオ通話の方法を、

「スカイプ プレミアム」から「グーグルプラス ハングアウト」へ変更しました。

「スカイプ プレミアム」は有料(主催者のみ)で、5名くらいが限界でしたが、

「グーグルプラス ハングアウト」は無料で、10名までの同時通話が可能です。

「第9回 カール・バルト研究会」の開始時刻は、午後9時(日本時間)です。

・アメリカ東部(ミシガン州など)の方は、5月24日(金)午前8時からです。

・ドイツやオランダの方は、       5月24日(金)午後2時からです。

新規参加者を募集中ですので、ぜひお願いします。

参加条件は「バルト主義者にならないこと」だけです。参加無料です。

テキストはカール・バルト『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック)です。

テキストを輪読して感想を述べあっているだけです。それがけっこう面白いです。

よろしくどうぞ。

清々しい朝のうちに「96条の会」の誕生を絶賛しておきます


今日の松戸は、優しい朝です。

気持ちが良いのでなるべく肯定的な話題を。

9条の会に続き、おお、96条の会。こういう動きは、肯定的で素晴らしいです。

「護憲」か「改憲」か、という二者択一よりいいです。

二者択一を迫られればぼくは「護憲」ですが、すべて金科玉条とは思っていません。

しかし、現憲法の中に「金科玉条」も含まれているとは思っています。

各人に各自のそれ(最も大切にしたい・している法律・規則)があるでしょう。

それの会がもっと作られるといいのだなと、96条の会の誕生で啓蒙されました。

「それ、それ」と指示代名詞が多い文章を書くぼくは、機嫌がいいときです。

自分の脳内だけで納得して、ふんふんと鼻歌をうたっているようなときです。

昨年(2012年)6月29日(金)には、ぼくまで総理官邸前に行きました。

記者クラブのほうではなく官邸前の警官隊の前にいたのに排除されなかったのは、

スーツを着たぼくが「公安」に見えたからではないかと、ジョークになりました。

でも、6月29日(金)の警官隊は、まだ笑顔でした。

そこいらのイケメンにいちゃんたちが制服着てるだけの感じで

「え~、道が混雑しているので~、立ち止まらないでくださ~い、えへら、えへら」

という調子でした。

その「えへらえへら警官」を70代くらいの痩身でインテリ風の背広のじいさんが

「てめえら、うるせえ~んだよ。警察よりな、憲法のほうがえれ~んだ」(ママ)

と怒鳴りあげている(のに警官たちは、まだ「えへらえへら」している)のを見て、

「平和だな~」と笑いがこみあげてきたことを、忘れられません。

なんか、あーゆーふーな日本でいてほしいなと、なんとなく思いました。

あらら、この文章を書いているうちに、朝の清々しさより、憂鬱な気分のほうが...

そろそろ、出かける準備を始めなくてはなりません。

あーあ、なんだかな...

(8:00)

2013年5月21日火曜日

「十字架の神学研究会」が始まりました

今日は本来ならば東関東中会の教師会に出席すべき日でしたが、事情を伝えて教師会を欠席し、今日が新規立ち上げの神学研究会に出席しました。

会場は、千葉県内唯一のプロテスタント系キリスト教主義の高校である「千葉英和高等学校」(千葉県八千代市村上709-1)でした。

神学研究会の名称は「十字架の神学研究会」。

千葉英和高校の宗教主事である石黒義信先生(日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会牧師)の呼びかけにより、千葉英和高校の聖書科担当の先生たちと、千葉県内の超教派の牧師たちとで、合計10名が集まりました。

テキストは、青野太潮先生の『「十字架の神学」をめぐって 講演集』(新教新書268、新教出版社、2011年)です。

初回からとても充実した議論になりました。楽しかったです。

次回(第2回)は、6月18日(火)午後5時30分より千葉英和高校で行います。

懐かしい先生とお会いしました。大串眞先生(日本基督教団千葉北総教会牧師)です。直接お目にかかるのは1996年3月以来だと思いますので、17年ぶりです。

大串眞先生は東京神学大学の先輩です。卒業後も日本基督教団四国教区高知分区でご一緒させていただきました。

大串先生は宿毛教会(高知県宿毛市)の牧師として、ぼくは南国教会(高知県南国市)の牧師として働きました。

いま、再び大串先生とぼくが同じ千葉県内の教会で牧師として働いていることを神の不思議な導きと信じ、感謝するばかりです。

2013年5月19日日曜日

聖書の教えと人間の良心の関係は何ですか


ローマの信徒への手紙2・11~16

「神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」

先週からローマの信徒への手紙の2章に入っています。先週は1節から10節まで読みました。切り方として正しいかどうかは迷いましたが、先週読んだ個所と今日お読みしました11節から16節までの個所とで語られている内容に違いがありますので、10節と11節の間で区切りました。

今日の個所に書かれていることを、また最初に一言でまとめておきたいと思います。しかし、その前に説明しておかなくてはならないことがあります。それは、今日の個所に繰り返し出てくる「律法」は、「聖書」または「聖書のみことば」という言葉で置き換えるほうが分かりやすいし、きっと皆さんに納得していただける話になるだろうということです。実際にやってみます。

「神は人を分け隔てなさいません。聖書を知らないで罪を犯した者は皆、この聖書と関係なく滅び、また、聖書の下にあって罪を犯した者は皆、聖書によって裁かれます。聖書のみことばを聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ聖書を持たない異邦人も、聖書の命じるところを自然に行えば、聖書を持たなくとも、自分自身が聖書なのです。こういう人々は、聖書の要求することがその心に記されていることを示しています。」

いかがでしょうか。ほとんど違和感なくお聞きいただけたはずです。違和感がないということは、西暦一世紀にパウロが書いた「律法」という言葉の意味は、今のわたしたちが「聖書」という言葉で理解していることとほとんど同じであるということを意味しています。

実際にそうでした。はっきりしていることは、ローマの信徒への手紙をパウロが書いている時点では、わたしたちの言うところの新約聖書は存在しなかったということです。彼らにとって聖書といえば、わたしたちの言うところの旧約聖書だけです。

旧約聖書がなぜ「旧い」のかといえば、聖書に「新しい」部分が後から加わったからです。しかも、二千年前の聖書は今の旧約聖書と中身は同じですが、形式が違いました。当時の聖書の形式についての歴史的に正確で詳細な説明をすることは、私にはできません。

しかし大雑把にいえば、律法と預言者と諸書という三つの部分に分かれていました。それで「律法」や「預言者」という言葉だけでわたしたちの言う旧約聖書全体のことが言われることもありました。

そのため、今日の個所でも、パウロがたとえば「律法を聞く者が神の前に正しいのではなく」(13節)と書いているところを、わたしたちが「聖書のみことばを聞く者が神の前に正しいのではなく」と読み替えることは、間違いでもこじつけでもありません。むしろ、パウロの意図を正確に理解できる読み方なのです。

ですから、今日の個所を一言でまとめる場合も、今まさに触れた「聖書のみことばを聞く者が神の前に正しいのではない」と読み替えた点を考えればよいのです。それはつまり、一人の人間が神の前に正しい生き方をしているかどうかは、その人が聖書の御言葉を聞いて学んで知っているかどうかということと完全に一致しているとは言えない、ということです。

聖書の御言葉を学んだことがない人でも、神の前に正しい生き方をすることは可能である。また、それとは逆に、聖書の御言葉をいつも聞き学んでいる人でも、神の前に正しくない生き方をすることはありうる、ということです。

しかも、わたしたちにとって聖書の御言葉を聞くということは、自分ひとりで、個人で聖書を学ぶという以上に、教会で聖書を学ぶことを意味しています。ですから、パウロが言っていることをさらに言い換えれば、教会に通っていない人でも神の前に正しい生き方をすることはできるし、逆に教会に通っている人でも神の前に間違った生き方をしていることがありうるということになるでしょう。

私はこのようなことをパウロが書いているということが重要であると考えます。そして、このようなことをパウロが書き、それが聖書としてまとめられ、聖書の中に書かれているということが重要であると考えます。

なぜ重要なのでしょうか。わたしたちはこのような言葉を、教会において聖書を学ぶことにおいて常に確認し続けることができるからです。そのようにしてわたしたちは、聖書の御言葉を聞いている者だけが独占的に神の前に正しい生き方をしているわけではないということを、聖書が教えているということを知ることができます。聖書はわたしたちが傲慢に陥ることを防いでくれるのです。

教会の中だけに神の前に正しい生き方をしている人々がおり、教会に通わない人たちはすべて神の前に間違った生き方をしているとは言い切れないということを、聖書が教えてくれるのです。

「神は人を分け隔てなさいません」(11節)と書かれていることが、まさに私がいま申し上げたことであると考えていただいて構いません。教会に通っているわたしたちは、教会に通っていない人たちを見くだすようなことをしてはならないのです。

教会に通っている人と、通っていない人とが全く同じであるという意味ではありません。違いがないわけではありません。しかし、教会に通っている人には罪がないとは言えません。罪という点においては、神は、教会の中の人と外の人とを差別されないのです。このことをわたしたちは自分自身に言い聞かせなければなりません。

しかし、私はここで話をやめることはできません。ここで話をやめると誤解を招いてしまいます。教会に通わないし、聖書の御言葉を聞いたことも学んだこともない人でも、神の前に正しい生き方をすることはありうると言いましたのは、あくまでも可能性の話であって、実際にそうだということではありません。

パウロは、わたしたちはすでに学んだこの手紙の1章18節以下の部分で、すべての人に罪があるということを断言していました。それが意味することは、教会に通ったことはなく、聖書の御言葉を聞いたことも学んだこともない、そのような人にも罪があるということです。

何が罪で、何が罪ではないかを見分けるための判断基準としての聖書の御言葉を知らないからと言って、その人がしていることは罪ではないとは言えません。知らないうちに罪を犯しているということがありうるのです。しかしまた、その人々は、神のことも、神の御心のことも、全く知らないとも言えません。神の御心は、神御自身が創造されたこの世界のあらゆる現実の中ではっきり示されているからです。

しかし、人間はこの世界を破壊し、隣人を傷つけ、自分を傷つける罪を犯してしまいます。その罪に対して神は怒りを現され、裁きを行われます。「私は神など知らないし、信じていない」と言い張る人たちに対しても、神は裁きを行われます。この点においても、神は人を分け隔てなさらないのです。

しかしいま申し上げたことは、いわば神の側からの見方です。「神など知らないし、信じていない」と言い張る人たちにとっては関係ない話だと思われてしまうことでしょう。だからこそパウロは今日の個所に次のように書いています。「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び(る)」(12節)。次のようにも書いています。「たとえ律法を持たない異邦人でも、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです」(14節)。

これは何を意味するのでしょうか。ここでも「律法」は「聖書の御言葉」と読み替えることが可能です。すると、どうなるか。聖書を読んだことがない人にとっては、その人自身が、いわばその人の聖書になるということです。聖書を知らず、神の御心を知らない人にとっては、その人自身がその人の神になるということです。そのような人にとっては、頼るものは自分だけです。自分の信念とか、自分の理想とか、自分の哲学とか、そのようなものがまるで神であるかのようにみなし、そのようなものを頼りにして生きていくしかありません。

しかし、パウロの結論は、まさかそのようなことにあるわけではありません。パウロが書いている、律法を持たない異邦人が律法の命じるところを自然に行う可能性があるとしたら、その根拠はすべての人が生まれつき持っていると言われるいわゆる人間の良心が正常に機能する場合の可能性を指していることは明らかです。

パウロが書いている「自分自身が律法である」(14節)という場合の「律法」とは明らかに、人間の良心の中に映し出された神の御心を指しています。すべての人は神に造られた存在なのですから、すべての人の心の中に何らかの仕方で神の御心が映し出されているということは、わたしたちも語ってよいことですし、信じてよいことです。聖書を学んだことがない人たちでも悪いことをすれば良心に呵責が生じるのはそのためです。どんなに悪いことをしても何も感じないというのは「良心が壊れている」と言わざるをえないのですが、良心が全く無いし、生まれたときからその人に神が良心を与えておられないということはないのです。

しかし、わたしたち人間の良心だけを頼りにして生きていくことは、だれにとっても心もとない、不安な人生になることは避けられません。「自分自身が律法である」ということは「我こそが裁判官である」と言っているのと同じです。しかし、自分の善悪のすべてを自分で判断することはできません。そんなことができるなら、それこそ警察も裁判所も要りません。

あるいはまた、もし自分が間違っていることを自分で自覚したとき、その罪を誰が赦してくれるのでしょうか。具体的に傷つけた相手がいる場合は、その相手が赦してくれれば済むかもしれません。しかし、そうでない場合はどうするのでしょうか。自分で自分を赦すのでしょうか。それで済むのでしょうか。

パウロの結論は、聖書を読まなくても神の前に正しい生き方ができるということではありません。正反対です。聖書は読むべきです。聖書から神の御心を知るべきです。そして、その御心は人間を罪の中から救い出してくださることにあることを知るべきです。神に従い、より頼んで生きていくことこそが大切であるということを、すべての人が知るべきなのです。

聖書の教えと人間の良心の関係は何ですか。聖書の教えは明瞭であるが、人間の良心は不明瞭である。聖書の教えの背後には神の愛と赦しがあるが、人間の良心にはそれがない。自分で自分を愛し、自分で自分を赦すしかないのです。

今日は一年に一度のペンテコステの礼拝です。教会がこの地上に誕生したことをお祝いする日曜日です。教会はわたしたちにとってなぜ必要なのでしょうか。どんなに間違っても、わたしたちを傲慢にし、教会に通わない人たちを見くだすために、教会が存在するのではありえません。自分を頼りにする生き方の限界を知り、聖書を通して示されている神の御心はわたしたちに対する深い愛であるということを知り、自分の罪を悔い改めて世と人を愛して生きていくことが大切であることを生涯学び続けるために、教会があるのです。

(2013年5月19日、松戸小金原教会ペンテコステ礼拝)

2013年5月17日金曜日

テレビの音声で聞くと「浮遊層」に聞こえて仕方ないです


20年周期説でも30年周期説でもなんでもいいです。

「隔世遺伝」とかいう言葉もありますね。

ぼくらの世代(40代とか50代とか)は、たぶんあなたたちより先に死にますから、スキップしていいです。

70年前に苦労した、という記憶をお持ちの方々は、今の10代20代の子たちの苦労に共感できるものをもっておられるはずなんですけどね。

なんとかミクスで「富裕層」の人たちの財布のヒモが緩んで、どうの、とかいう話を聞くと、食べたものが戻ってくるほど気持ち悪いです。

あ、テレビの音声で聞くと「浮遊層」に聞こえて仕方が無いんですが。

完全に暴言でしたね、お許しください。不快に思われた「としたら」お詫びします。

2013年5月16日木曜日

「罪に市民権を与えること」に対するファン・ルーラーの批判、そしてオランダの「ウルトラ改革派」と「リベラル派」をめぐる鼎談

私が5月14日に書いた日記 (「体」と「欲」と「罪」の関係は「当然」でも「必要」でも「必然」でもない)について藤崎裕之先生と沼田和也先生から貴重なコメントをいただきました。

------------------------------------------------

(藤崎)原罪とこれから私が犯す罪との違いも自覚しなければならないと感じています。「罪人である」ということと「罪を軽く見る」ということは全く違うことですよね。ましてこれから罪を犯しても神様から許してもらえると考えるのは、傲慢ではないかと思うわけです。それでも罪はさけられないですけれど。

(沼田)去年ペリカンの教理史を読んでいて、もっぱら西方のキリスト教界において原罪の教理が発展したのだと知りました(ことにアウグスティヌスにおいて)。この「原罪」を、自己卑下や自己嫌悪ではなくて、神さまのもとに自己の限界を(可能な限り)正しく知るような、そういうありかたとして学んでゆきたいと思います。間違っても「どうせ原罪があるんだから、罪人なんだから、ワルイことすんのはあたりまえ」みたいなところに落ち着かないために。

(関口)藤崎先生、沼田先生、貴重なコメントありがとうございます。私が「罪の問題」について考えるときにいつも思い浮かべるテキストは、私訳で申し訳ないのですが、ファン・ルーラーの「ウルトラ改革派とリベラル派」(1970年)という論文の第4章「罪に市民権を与えること」です。

「ウルトラ改革派」というのはオランダ国内にある(いまでも生き延びている)独特の改革派教会の一群のことです。オランダとは異なる教派構成をもつ日本のキリスト教界の”現象”の中にファン・ルーラーが指摘しているのとぴったり合致する具体例を言うのは難しいのですが、まあ、でも、推して知るべし的な類推はできそうな話だと、私なりに受けとめています。可能でしたら、ぜひご一読くださいませ。そして、ご感想などいただけますと、どんなことでも(お答えできることなら)お答えいたします。

A. A. ファン・ルーラー「ウルトラ改革派とリベラル派」(1970年)
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1970.html

(藤崎)印刷してじっくり読みますね。

(沼田)拝読しました。リベラルへの批判は、そのまま私自身へのそれとして深く響きました。それにしても、ウルトラ改革派への批判としてファンルーラーが論じていることは、以前私もぼんやりと「罪という言葉のインフレ」として感じていたことを、とても論理的に代弁してくれていているように読めて、嬉しく思いました。

悔い改めの言葉としての「罪」が、連発されるうちに安くなり、あって当たり前の前提みたいなものに成り下がり、いつでもどこでも罪→絶望→キリスト→希望、みたいな説教「のみ」になってしまうこと。これに対しても、私自身において、彼の批判するリベラル的な傾向同様に自戒し続けたいです。

ところで原罪について、幼児洗礼の正当性を弁証するために「生まれた時から罪がある」と、ことにアウグスティヌスが主張したとペリカンは語りますが、もしかするとペリカンの歴史認識においてもファンルーラー的な問題意識が働いたのかもしれません。過剰に(教理史としてはやや踏み込み過ぎた表現で)アウグスティヌスの原罪論と予定論を批判しているように思えましたので。

(関口)藤崎先生、沼田先生、ファン・ルーラーの論文「ウルトラ改革派とリベラル派」(1970年)に興味を持っていただき、ありがとうございます。この論文はファン・ルーラー62歳の絶筆です。これを書き終えた後、おくさんに「終わったよ」(het is af)と言ったそうです。それからまもなくして(どれくらいの時間が経ったかは分かりません)三度目の心筋梗塞が起こり、絶命しました。

この最期の論文の中でファン・ルーラーは、「改革派の右翼には異端が潜んでいる。彼らの横に立つとリベラル派の異端が児戯に見える」という”命題”の論証を行いました。私はまだ全訳できておらず、ネットに公開しているところまでがマックスですが、なるべく完訳したいと願っています。

完訳できない(途中で止まってしまっている)理由は、私に時間と心理の余裕が無かったことや、オランダ語というマイナー言語の取っつきにくさもさることながら、上記したとおり、「リベラル派」のほうはともかく、オランダにおける「ウルトラ改革派」は、日本にはぴったり合致する対応物としての教派やグループが存在しないので、日本の中で「改革派」を名乗る人たちの中で自称・他称の「やや極端な」人たちのすべてが、ファン・ルーラーの名を借りて批判されてしまうようなことになっては困るなという私の中の躊躇があって、訳し方や扱い方・扱われ方は慎重にしなければならないなと思っているうちに、訳出が停滞してしまいました。

(藤崎)なるほど。日本には対象がないということは重要ですね。完読しましたが、その点が僕には不明だったのであり難い指摘です。難しい論文ですね。もう少し熟考してみます。蛇足ではありますが、リベラル派の描写が面白いですね。リベラル派になぜ教会が必要なのか、そりゃもう、今や教会しか耳を貸してくれないですからね。そういう意味では教会は親切ですね。本当に耳を貸してくれているのかさえ疑わしいですけれど。ファン・ルーラーの尺度では僕はリベラルではないのかもしれませんね。

ついでに蛇足ですけれど、日本基督教団の中にある聖霊刷新運動の方々はもともと社会派リベラルでした。この人たちはウルトラ改革派に近いかもしれません。右派と左派というのはころころと入れ替わるから面白いですね。蛇足でした。

(関口)藤崎先生、ありがとうございます。いえいえ、蛇足とは思いません。とても有難いお言葉です。実際問題、ファン・ルーラーの「リベラル派」の描写は、笑いながら訳せる、かなりコミカルなものです。私も、藤崎先生はファン・ルーラーの基準に当てはめれば「リベラル派」ではないと思います。さりとて藤崎先生が「ウルトラ改革派」であることはありえないです。ちょうど良い線ではないでしょうか。お世辞抜きでそう思います。

オランダの「ウルトラ改革派」は、摂理信仰ゆえに生命保険への加入を拒否するとか、黒ずくめの服装(靴下に至るまで黒ずくめ)をいつも着ているとか、そういう人たちですから、日本に全く対応物が無いとは言い切れないのですが、私の知るかぎり、そういうタイプの信仰の持ち主は日本ではたいていアルミニウス主義の側にいると思うのですが、オランダの「ウルトラ改革派」は根っからのカルヴァン主義者であるという点が違うと思います。

この機会に訳文をいじくりました。語尾の「のである」をすべて削除してみました。わりとすっきりした文章になったのではないかと思いますので、また読んでみてくださいませ。以下のくだりなどは、私はとても面白く読める部分です。名指しは避けますが、ここの部分の「リベラル派」と「ウルトラ改革派」は、具体的に顔が思い浮かぶ対象がいます(笑)。

(以下、ファン・ルーラー「ウルトラ改革派とリベラル派」(1970年)からの引用)

この点でリベラル派はたいてい違っていた。たいてい彼らは自分は何者であるかを公表してきた。彼らはリベラル派(vrijzinnig)を名乗ってきた。その意味は常に、「正統主義ではない」(niet-orthodox)ということだった。彼らは、教義とか教会の信仰告白のようなものとは明らかに馬が合わない。そのような言葉にだけは近づかない。リベラル派の側においては、正統主義と正統主義者に対する明らかな反感や敵意や憎悪が語られることさえある。リベラル派の人々は、たいてい、洗練されていて、親切で、信頼できる人物である場合が多い。ところが、正統主義に立ち向かう場面での彼らの態度には、熱狂的で憎悪に満ちたものがある。その原因はおそらく、彼らが過去に味わった何らかの体験にあるのだろう。

この点が、やはり、ウルトラ改革派とリベラル派との大きな差をつくる。ウルトラ改革派の人々は、正統主義と真の内面的な敬虔性の旗のもとで航海する。彼らの船の積荷は、教義の根本構造に全く対立する異端である。しかし、教義そのものは高くマストの上ではためき続けている。それに対して、リベラル派の人々はこの旗を引きずりおろす。彼らの船の積荷は、教会の教義と競い合う十分な異端である。彼らは三位一体、受肉、贖いの犠牲、復活、サクラメント、予定などを問題にする。リベラリズムの中にまだ残っている教会の教義は何だろうか〔もはや何も残っていないのではないかと思うほどである〕。ところが、リベラル派の人々は、代々の教会が教えてきたのとは対立することを彼らが教えているということを公然と述べる。

(沼田)おもしろいし、みみがいたい・・・・

(関口)そうですかね?(笑)私の目から見れば、沼田先生はファン・ルーラーが言うほどの「リベラル派」ではないように見えますけどね。まあ、明言・断言できるほどの根拠はありませんが、オランダにおいて「リベラル派」(Vrijzinnig)は、まさに反動というか、「正統的カルヴァン主義者」のアンチとして生まれたものだと思いますので、純粋で極端なリベラルが生まれやすい環境ではないかと思うのです。

具体例を挙げていくと語弊が生じはじめること必至ですが、最近のオランダを有名にしている特定の薬物の合法化とか、産婦人科系のある問題の合法化とか、あるいは「積極的安楽死」(positief euthanasie)など、世界のどの国よりも先んじて「新しい」道を開いてきたのはオランダの「リベラル派」(Vrijzinnig)のキリスト者たちと、教会には一切かかわらないタイプの「人道主義者」(humanisten)です。

(藤崎)ファン・ルーラーの言わんとするところは「閉じた信仰の世界で毅然としている人」よりも「無秩序な信仰の世界で溺れている人」の方がよっぽど「まし」だという事でしょうか。ファン・ルーラーのいうリベラル派は、いわゆる「社会派」ではないのですね。自由神学を指しているように思うのですが、それでよろしいですか。

(関口)藤崎先生、二つのご質問ありがとうございます。

第一の問いに対する答えは、微妙です。ファン・ルーラーなら、両方大事、というような答え方をするのではないかと思います。「閉じた信仰の世界で毅然とすること」と「無秩序な信仰の世界で溺れること」と、「無秩序な世界の現実を勇気をもって引き受けること」の、どれを選べばいいですかとか聞くと、全部大事なことだから、四の五の言わないで全部やり遂げなさいと叱られてしまう、そういう鬼教師だったのではないかと、私は想像しています。

第二の問いに対する答えは、「はい、そのとおりです」です。オランダの改革派教会は、こと19世紀以降は基本的にすべて「社会派」です。キリスト教政党(反革命党→キリスト教民主党)を作って直接世の問題に関与しようとする姿勢をもっていますので、ほとんどすべて「社会派」です。第二次大戦後、キリスト教政党を支持せず労働党(共産党)の支持に回った改革派(バルト主義)の人も出てきましたが、それはそれで十分な意味で「社会派」です。

「教会は政治の問題にかかわるべきでない」という人たちもオランダ改革派にもいますが、それは「教会」と「キリスト教政党」を区別した上で言っていることです。つまり、「教会自体は政治的なことからなるべくニュートラルであるべきだ。そのかわり教会はキリスト教政党を応援すべきだ」という考えです。それが良い判断であるかどうかはともかく、その人たちの考えはそのようなものです。

日本のある人たちは「教会は政治の問題にかかわるべきでない」と言いますが、キリスト教政党もないところでそれを言うのは、キリスト教社会倫理の放棄を意味すると私は思いますので、その人たちの信仰は身体的・倫理的表現を伴わない、完全に脳内の妄想にとどまると思います。つまり、それを凶悪なグノーシス主義と呼ぶのだと思います。

(沼田)関口先生の仰る通りだと思います。その「身体的・倫理的表現」が、強力に忌避されるんですよね、教会では・・・やはり、諸テーマをいかに「この私のリアルな」問題として語るか/聴き取るか、みたいな部分が難しいのかなあと思っています。わずかでも自分の身体から離れて語られる/聴かれると、それはとたんに「賛成か?反対か?」の踏み絵、「これを理解しないとはキリスト者といえるか?」の分断に陥ってしまう、と。

(関口)沼田先生、ご理解いただき、ありがとうございます。身も蓋も無いことを書いちゃいますが、日本にも散見する欧米由来の「リベラル」を名乗る思想家たちは、なんていうか、キリスト教というか、神学というか、その中でも「ウルトラ右翼」のそれのアンチとして成立してきた起源も歴史もあると思うので(マルクス然り、ニーチェ然り、フロイト然り)、逆に言えば、キリスト教も神学も機能していないところではカラ振りしてしまうんじゃないかなと思います。

で、いま書いたことは沼田先生の直前のコメントとは直接関係ないことでしたが、ファン・ルーラーにとっての「ウルトラ改革派」と「リベラル派」は「あれか・これか」ではなかったんです。両方大事だと言い切れるところがファン・ルーラーにあり、どっちかにしてしまおうとする単純一元論思考のひと・グループに対して猛然と反対したために、教会政治的に窮地に立たされ、急激に寿命を縮めてしまったようです。

一つの教団・教派の中で、「我々のほうが神に近い。お前たちは人間的だ」とか「お前たちは神の名を借りた傲慢」とか互いに言い合って分裂しあうのは世の常、教会の常ですが、実はお互いがお互いを必要とし合ってるんじゃないでしょうか。「愛」が必要だと思いますよ、私は。

(沼田)関口先生の、リベラルと保守との愛の関係について言うなら、さらに、リベラルという価値観は保守という価値観があるから成立するのであり、保守という価値観もまた逆向きに然り、だと、最近強く思っています。対極の両端を眺めるあれかこれかも時には決断として重要ではあります。しかし、むしろその愛における両者の関係性を、私は考えてゆきたいのです。

2013年5月14日火曜日

「体」と「欲」と「罪」の関係は「当然」でも「必要」でも「必然」でもない


えっとですね、

哲学や神学の思想的文脈でかなり重要なのは、「体」と「欲」と「罪」の区別と関係はどうなっているのかという問題だとぼくは思います。

いまぼくは日曜日の礼拝で、使徒パウロの「ローマの信徒への手紙」の連続講解説教をしていますのでね、上記の問題は、この手紙の中心テーマと言ってもよいのではないでしょうか。

ややもすると、全部一緒くたにされてしまうんですね。「体」と「欲」と「罪」が一緒くた。

まあ、たしかに、本人の意識感覚だけからすると、区別がつきにくいですしね。「体」が「欲」を持ち、「欲」が余って「罪」へと暴走する。

すべてが切れ目なく、なだらかに・なめらかにつながっていたりすると、どこからどこまでが「体」で、ここからは「欲」で、ここからは「罪」というあたりが自分では分からなくなる。

ですが、「体」と「欲」と「罪」の関係を「当然だ」とか「必要だ」とか「必然だ」とか言いのけて開き直るのは、罪に市民権を与えることになるので、思想的には最悪の部類です。

あとは、「欲」と一言でいっても、衣・食・住その他いろんなこと・もの・ひとを求めて生きるのが人間ではありますが、

「衣・食・住」だけ言っても、「衣の欲」と「食の欲」と「住の欲」は、それぞれ内容が異なるものです。

なんでもかんでも一緒くたにしてはなりません。

というわけで、ぼくはとりあえず昼食にします。

若干出足が遅かったので、300円台の弁当は残っていませんでした。残念!


豚スタミナ丼 460円 698キロカロリー

2013年5月11日土曜日

「第8回 カール・バルト研究会」を行いました


(日付変わって)昨日(2013年5月10日金曜日)21時から23時まで「第8回 カール・バルト研究会」を行いました。






今回からの大きな変更点は、前回まで利用してきたスカイプ(プレミアム)ではなく、グーグルプラス(Google+)の「ハングアウト」を試してみたことです。

「ハングアウト」スゴイです!全くエラーもストレスもなく実にスムーズなコミュニケーションができました。

夕方、「ハングアウト」への移行の準備をしているときに、一人の先生が外出先からアイフォンでビデオ連絡してくださいましたが、これまた全くストレスなく、美しい映像が送られてきて、たまげました。まさに昔見たSF映画の世界そのものでした。

今日のテキストはカール・バルト『教義学要綱』の「5.高きにいます神」(§5 Gott in der Höhe)でした。大いに盛り上がりました。

「第8回 カール・バルト研究会」参加者名簿(五十音順、敬称略)

小宮山裕一(茨木県)
関口 康(千葉県)
中井大介(大阪府)
藤崎裕之(北海道)

次回(第9回)は、2013年5月24日(金)21時から23時までです。

なお、新規参加者を募集いたします。グーグルプラス(Google+)の「ハングアウト」は10名までの同時ビデオ通話が可能だそうです。まだまだ余裕があります。

2013年5月10日金曜日

「名誉」な人たちと大差ない年齢であることに気づくのに時間がかかります


こういうのをどう言ったらいいのか、「遠近感がおかしい」というか、とにかく最近、違和感の連続です。

世間では当たり前のことなのでしょうけど、60代くらいで「名誉教授」とか名乗っておられる方々を、最近よくネットで見かけます。

「名誉教授」って昔はひたすらおじいさん、という感覚でしたし、とがったヒゲとかはやした人というイメージなんかもあって、果てしなく遠い存在でした。

しかし、最近では、まだかなり若く見える、年齢的にはぼくのちょっと上の先輩?というくらいの人たちが「名誉」うんぬん...。

だけど、

そうじゃないんだ、そうじゃないんだ。

そこでぼくが考えなくちゃならないことは、若いのに「名誉」とかなんだい、のほうじゃなくて、

あのね、もうぼくは若くないんだよ、「名誉」な人たちと大差ない年齢なんだよ、

ということなのだと気付くのに、けっこう時間がかかるし、切り替えが難しい。

ぼくも「名誉」が欲しい、という話ではないですよ、要らん要らん。邪魔そうだし。

称号とか要らないけど、ぼくには欲しいものがあります。

説得力が欲しい。それだけですね。

あと、日本の大学を無料にしてほしい。

かないそうもない夢ばかりです。

2013年5月9日木曜日

デジタルから紙にしても、またデジタルに戻されるなら、初めからデジタルのままでも同じかも(という主旨です)

最近のパターンは、Facebookに書き散らして、ブログで清書して、Twitterで広報する「三段ロケット方式」です。

そこまでは、まあいいんですけど、その先にはなっかなか進めないもんですねぇ。

「紙の本を目指してます」とか言うと「デジタルでいいじゃん」とか言われてしまうし。

あ、出版社の若い人に、「リソグラフで刷ってホッチキスどめするの手伝いましょうか」とか言われたこともあるな(むかむか)。

デジタルだけなら相当やってきたつもりなので、ぼくの仕事はもう終わりですね。紙にしたところで「自炊」とかされちゃう時代ですしね。

あーあ、サインとか握手会とかしたかったなあ(ウソです。したくありません)。