2008年12月21日日曜日

苦しみを乗り越える力、それがキリスト


フィリピの信徒への手紙4・10~14、ルカによる福音書2・15~20

「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」(フィリピ4・10~14)

「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(ルカ2・15~20)

クリスマスおめでとうございます。先週の日曜学校クリスマス礼拝・祝会に引き続き、今日もクリスマス礼拝・祝会を行います。神の恵みを豊かに味わい、楽しく過ごしたいと願っております。

今年のアドベントは、フィリピの信徒への手紙とルカによる福音書を同時に学んできました。とくにフィリピの信徒への手紙については、パウロがそろそろこの手紙を終わりにしようとしている個所を学んできました。

今日の個所に書かれていることは、伝道旅行中のパウロを経済的ないし金銭的に支えてくれたフィリピ教会の人々への感謝の言葉です。以前学びましたとおり、フィリピ教会の人々は、旅先で物資が尽きてしまい苦しんでいたパウロの状況を知ったので、教会の中で献金を集め、また必要な物を集めて、それらすべてをエパフロディトという男性に託しました。エパフロディトはその大きな荷物を抱えて、パウロのもとまで長い旅をしたのです。ところが、エパフロディトはその旅の最中にひん死の病気にかかりました。彼自身も非常に大きな苦しみを味わったわけです。しかし彼はとにかく自分自身に託された使命を全うし、預かったものすべてをパウロに届けることができました。

このことをパウロはフィリピ教会の人々への感謝の言葉として今日の個所に書いているのです。いやそれどころか、客観的に眺めてみますと、実はこの手紙全体が、パウロからすれば自分の生活を支えてくれたフィリピ教会の人々への感謝を表すために書かれたものであると見ることも可能なほどです。実際にそのように主張する聖書学者もいます。その主張とは、パウロがこのフィリピの信徒への手紙を書いた目的は、教会の人々がささげてくれた「献金」に対する感謝を述べるためであったというものです。

私はなぜこのような話をしているかについては説明が必要でしょう。わたしたちが毎年行っているクリスマス礼拝がいつも一年の終わりの時期に行われることは意義深いことであると感じます。クリスマス礼拝においてわたしたちが思い巡らすべきことは、神の御子イエス・キリストが来てくださったことの意味であり、その恵みの豊かさです。神が独り子をお与えくださったほどに世を愛された、その愛の大きさです。クリスマスと言えば巷では「プレゼントをもらう日」ということになっていますが、そのすべてが悪いということはありません。しかし、ただもらうだけで終わるなら、ちょっと悪いかもしれません。プレゼントをもらった人は、くれた人に対して感謝しなければなりません。クリスマスは「プレゼントをもらったことへの感謝を述べる日」でもなくてはならないのです。

教会の牧師たちは、クリスマスだけではなく、まさに一年中、教会の皆さんから生活を支えていただいています。教会の皆さんのプレゼントによって牧師の生活が支えられています。そのことについて牧師がクリスマスのときだけ感謝を述べるというのでは足りないとは思いますが、こういうことはなかなか口にする機会がないものです。感謝が足りていないとしたら、どうかお許しください。この場をお借りしてお礼を申し上げます。いつも助けていただき、本当にありがとうございます!

この個所でパウロは自分の働きのために献金してくれたフィリピ教会の人々に対して、読み方によっては何となく奇妙な感じに響いてしまうような言葉を書いています。「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と。

何となく奇妙な感じと言いますのは、このように書いているパウロがまるで、わたしは別にあなたがたの献金を当てにしているわけではありませんとでも言っているかのようだという点です。献金が少なければ少ないなりに何とかしますので、どうぞご心配なくと。おやおやパウロ先生、教会の人々にしっかり助けてもらっていながらこのような言い方をするのは、教会の人々に対して失礼ではないかと感じなくもありません。

しかし、牧師の仕事をしている者たちからすれば(その中には私も含まれるわけですが)、パウロがこのように書いていることの意味はよく分かるものです。やや俗っぽい言い方かもしれませんが、「わたしたち(牧師たち)は、お金のためにこの仕事をしているわけではない」という自覚と自負を持っているからです。パウロは「物欲しさにこう言っているのではありません」と書いています。今の牧師たちなら「格好をつけてこう言っているのではありません」と書くかもしれません。無ければ無いなりに何とかする。このような考え方を全く持っていないような牧師には、この仕事を続けていくことは不可能です。

パウロは続けて「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と書いています。「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても、不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を知っています」と。もちろんこのことが今のわたしたち牧師たち全員に当てはまることかどうかは分かりません。しかし、私自身が本当に幸せであると感じてきたことは、牧師の仕事をするということは、まさにパウロが書いているとおり、実にさまざまな状況を体験することができるということであり、神から与えられた人生の中でいろんな変化やいろんな苦しみを味わうことができ、しかしまた同時に、その苦しみを乗り越える「すべ」もしくは「秘訣」を身につけ、強くなっていくことができるということです。

私の長男は、1994年のクリスマス礼拝の次の日に生れました。翌年のクリスマスは同じ場所で迎えましたが、その翌年のクリスマスは、私が次に働くことになった教会で迎えました。さらにその翌年のクリスマスは神戸改革派神学校で迎えました。その翌年は山梨県でクリスマスを祝いました。そのとき子どもは二人に増えていました。長男は4歳になるまで、ほぼ毎年違う場所でクリスマスと自分の誕生日を迎えました。親の都合で引きずり回されているという感覚を、幼心に抱いていたかもしれません。本人に聞きますと「何も覚えてないよ」と言ってくれますが、私自身は申し訳ないことをしたという気持ちを未だに持っています。

しかし、そのような大きな変化の中で子どもたちも妻も、そして私も非常に鍛えられてきたと感じています。とくに長男はその町に友達ができたと思ったらまた引っ越しという体験をまだ十分に物心がつかないうちに、何度も繰り返させてしまいました。そのことを本人は「覚えていない」と言うのですが、友達を大切にする人間になってくれたと思っています。長女のことも言わないと不公平なので言いますが、長女も同じです。妻のことは本人に聞いてください。

わたしたち牧師たちとその家族は、自分が仕えている教会に生活を支えてもらうことによって、まさにいろんな人生を体験することができます。今の日本の牧師たちが豊かさを体験するということはあまりないかもしれませんが、それでももっと大きな苦しさの中にある人々のことを考えるならば、わたしたちなりの豊かさを体験もし、しかしまた厳しい生活も体験する。体験できるのです。そしてそうしているうちに、実にさまざまな、ありとあらゆる状況のなかで生きていくことができる「すべ」または「秘訣」を身につけることができます。これらのことは、願ってもなかなか得ることができない貴重な体験であり、まさに神の恵みであると信じることができるものなのです。

そして、そこからさらに、パウロの言葉を借りれば「習い覚える」、つまり「レッスンを受ける」ことができるのは、次のようなことです。

すなわち、わたしたちは、まさにこの世界全体の中に生きている人々が体験しているいろんな苦しみを理解することができます。その人々の悩みや叫び、また愚痴のようなものに共感することができます。しかしまた、そのような人々がどうしたら喜びや幸せを見出すことができ、感謝の人生を始めることができるのかについて自分たち自身の体験に基づく言葉を語ることができます。「牧師たちは世間知らずである」とは言われたくありません。「苦しみも涙も知っているよ」と言いたいです。「それでもどっこい生きているよ」と言いたいです。わたしをも強めてくださる方、わたしたちの救い主イエス・キリストのお陰で、わたしにもすべてが可能ですとパウロと共に言いたいです。本当に、真実に、そのように語ることができるのです。

イエス・キリストがお生まれになった夜に天使がベツレヘムの羊飼いに語ったことは、「救い主」が「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であることが「あなたがたへのしるし」であるということでした。この天使の言葉の趣旨はどう考えてもやはり「あなたがた貧しい人々へのしるし」であるということです。通常、豊かな人の子どもが飼い葉桶の中に寝かされることはありえないからです。貧しさの中で苦しんでいる人々のところに救い主が来てくださった。救い主は貧しい姿をしておられる。天使の言葉はそのように理解することが可能です。

逆に考えてみて、満ち満ちた豊かさを持った人が「わたしが救い主です」と言いながら登場するとしたらどんなふうだろうかと思わされます。たとえば、自分に与えられた権力を思いのままに振い、贅沢三昧の暮らしをしていたローマ皇帝が、あるいは当時のユダヤの王たちが「わたしが救い主です」と言っている姿は、彼らの暴力的支配のもとで苦しみを味わわされていた人々からすれば、何とも滑稽に見えたでしょうし、怒りや憎しみさえ覚えたでしょう。「わたしたちはあなたに救ってもらいたくはない。あなたから救われたい」と願ったことでしょう。ベツレヘムの羊飼いたちの前で起こった出来事を理解するために、今申し上げた点は重要であると思います。

クリスマスは贅沢三昧にふるまってよい日ではありません。正反対です!貧しさの中で苦しんでいる人々を助けてくださるために、救い主イエス・キリストが、御自身も貧しい姿をとって来てくださったことを感謝する日です。わたしたちの救いはお金に代えがたいものであることを知る日です。わたしたちがたとえどのような状況にあっても、救い主がそのような方であることを信じることができるときに絶望することがないと信じる日です。

今の世界的な経済不況の中で絶望している人は、どうか私の言葉に耳を傾けてください。

あなたの人生は、まだ終わっていません!

キリストがあなたを救ってくださる。そのことを信じていただきたいのです。

(2008年12月21日、松戸小金原教会クリスマス礼拝)

2008年12月14日日曜日

平和の神はあなたがたと共におられます


フィリピの信徒への手紙4・8~9、ルカによる福音書2・13~14

「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」(フィリピ4・8~9)

「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」(ルカ2・13~14)

「終わりに」と書いてパウロは、今度こそ手紙を締めくくろうとしています。もちろん実際にはまだ終わりません。なお続きがあります。しかしそれでもパウロの気持ちの中では、とにかくこのあたりでそろそろ終わろうとしたのです。

手紙にせよ、論文のようなものにせよ、最後に書くのは、たいていの場合は、これまで書いてきたことのまとめであり、結論です。わたしは要するに何が言いたいのか、です。そのようなことをパウロは、ここにまとめているのです。

「すべて」の真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なことを心に留めなさいとパウロは書いています。また、「徳や称賛に値すること」もそうだと言っています。

ここにパウロが数え上げているのは、いわゆるギリシア的な美徳です。旧約聖書的な、ヘブライズム的な美徳ではありません。ヘレニズム的な美徳です。別の言い方をすれば、これらのことは、必ずしも聖書に書かれていない、聖書とは別の要素です。ユダヤ人が、イスラエルの民が、長年語り継いできたこと、信じてきたこととは別の要素です。もっと別の言い方をすれば、あるいは事柄をはっきりさせる言い方をするとしたら、異教的要素です。教会の伝統とは異なる要素です。教会の外にあるものです。

それらのこと「すべて」を心に留めなさいとパウロはフィリピ教会の人々に勧めているのです。もちろん心に留めるということには、それらを大事にすること、重んじることが含まれています。「はい分かりました、覚えておきます」というだけでは済みません。無視したり、軽んじたりすることの反対です。軽蔑したり、泥を塗ったりすることの反対です。

ですから、パウロが書いていることの趣旨をくみとりながら大胆に翻訳し直すとしたら、「教会の皆さん、あなたがたは教会の外側にあるすべてのものをきちんと重んじなさい」です。馬鹿にしてはいけません。「くだらない」と言って見くだしたり、「そんなのは異教的なものだからわたしたちとは関係ない」と言って切り捨てたりしてはいけませんということです。

このように言うことにおいて、パウロは、教会の人々に不信仰を勧めているとか、無理難題を吹っかけているわけでは、もちろんありません。彼は至極当たり前のことを言っているだけです。すべてのキリスト者は「教会の内側」だけで生きていないからです。言葉の正しい意味で「教会の外側」においても生きているからです。

牧師だってそうです。牧師の家族もそうです。もし牧師や牧師の家族が教会の内側だけで生きているとしたら、そして教会の内側だけでしか通用しない言葉ばかりを語っているとしたら、伝道は不可能です。伝道とは、教会の外側にいる人々に語りかけることだからです。それは教会の内側にいる者たちが固い砦に引きこもることの正反対です。外に出て行かなければ、外の人々と触れあわなければ、伝道は不可能なのです。

しかもその場合問題になることは、外に出て行き、外の人々と触れ合って、そのとき何をするかです。けんか腰で出て行き、啖呵を切って「あなたがたのしてきたこと、考えてきたことはすべて間違っている。わたしたちが持っているもの、教会の中にあるものだけが正しいものである。だから、ここに、教会にどうぞおいでなさい」と大声で叫び続けることが伝道でしょうか。そのように言われて教会に通い始める人が何人いるでしょうか。多くの人々は、ただ反発を感じるだけでしょう。「もう二度と教会には足を踏み入れません。決して近づきません」と、多くの人が心に誓うでしょう。

パウロが勧めているのは、そのような行き方の正反対です。もちろんパウロ自身も伝道者としての歩みの中で、何度となく失敗や挫折を繰り返してきました。けんか腰の態度や相手を傷つけるやり方もしました。しかしそれでは伝道が進まない。福音が前進しない。そのことにも気づかされてきたに違いないのです。

もちろん、次のような意見が必ず出てくることも私は知っています。「朱に交われば赤くなる。ミイラ取りはミイラになる。不信仰な人々の異教的なやり方に近づきすぎると、我々の確信が鈍り、教会の進むべき方向を間違ってしまう。守るべきものを守りぬくために、頑丈な砦が必要である。そのようなものがないかぎり、我々はあっという間にすべてのものを失ってしまう」。そうだと言われれば、そうなのかもしれません。全く間違っているとも言い切れません。しかし、それでもやはり私はそのあたりでとても慎重な気持ちにならざるをえません。

私は自分がとても弱い信仰の持ち主であると自覚しております。だからこそ、私のこの信仰をしっかりと守ってくれる頑丈な砦があればよいのにという強い憧れを持っています。それは喉から手が出るほど求めてきたことでもあります。しかしその願いは、少なくとも私にとっては未だに叶っていません。未だに叶っていないのですが、しかしまた、それが未だに叶っていないということ自体に意義を見出している面もあります。もし本当にそのような固くて頑丈な砦が手に入ってしまい、その中だけで生きて行くことができるようになり、その砦の外側には一歩も出ないで済むようになったとしたら、果して私はどのような人間になってしまうのだろうかということに不安を抱く面もあるからです。

かつてのヨーロッパはたしかにそのような時期を何世紀も過ごしました。国民のすべてが洗礼を受けている。キリスト教信仰が国民の常識である。そのような中に一度でいいから私も生きてみたいという憧れや願いが、私のなかに確かにあります。しかしまた、その憧れや願いは、私にとっては今の現実から逃げ出したくなる誘惑のようなもの、あるいは大きな落とし穴、危険な罠のようなものに近いと感じられるのです。

パウロがその中にいた現実は、どちらかというと、かつてのヨーロッパが体験した状況のほうではありません。むしろ今のわたしたち日本のキリスト者たちが置かれている状況のほうに近いものがありました。周りを見渡しても、キリスト者はきわめて少数である。文字どおり一握りの人しかいない。いつもさびしい思いを味わっている。理解してくれる人は少なく、むしろ危険視されたり異端視されたりするばかり。

しかし、そのような中であっても、あるいはそのような中であるからこそ、パウロは、教会の内側にあるものだけでなく、教会の外側にある「すべてのもの」も心に留めなさい。それらのものを十分に重んじなさいと勧めていることは、やはり特筆すべき点です。それは教会の中だけで自己完結してはならないという勧めでもあるでしょう。あるいは教会の外なる世界ないし社会との接点を持ち続けなければならないという命令でもあるでしょう。

自分たちの要塞の中にあるものだけが真実であり、気高く、正しく、清いものであり、愛すべきものであり、名誉なものであり、それ以外のすべてはそのようなものではありえないというような絶対的で排他的で独善的な確信を持つことを慎むべきであるという戒めでもあるでしょう。

もし我々がそのような確信を持ってしまうならば、なるほどたしかに、我々の存在は、外側から見ればとんでもなく鼻もちならないものに映るでしょう。また、もし我々がそのような要塞の中に立てこもってしまうならば、自分たち自身はこの上ない安心を得て満足できるかもしれませんが、外側から見ると我々の存在は、どこかしら自信のない、ひ弱な人間のように映るでしょう。

教会の外側の社会ないし世界の中にあるすべての善きものを心に留め、大切にすべきであるという教えには、この個所でパウロ自身がそのことに直接触れているわけではありませんが、間違いなく重要な信仰的・神学的な根拠があります。それは、わたしたちの神は全世界を創造された方であるという点です。

わたしたちの神は、教会だけを創造されたのではなく、世界を創造されました。信仰をもって生きている者たちだけを創造されたのではなく、いまだ信仰に至っていない人々も、神が創造されました。教会の中に生きている者たちは神によって創造されたが、それ以外の人々は悪魔によって創造されたというような事情には全くありません。そのような思想は異端的なものです。創造者なる神への信仰は、わたしたちが教会の外側にあるすべてのものに目を向けるべき明確な根拠を提供しているのです。

パウロは次のように続けています。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」。

ここで勧められていることは「教えられたことを実行すること」です。理解はできても行動に移せないことの反対です。自分の砦、自分の要塞の中に立てこもってしまい、外側には一歩も出ることができないことの反対です。

大切なことは、言われているとおりに実際にやってみることです。自分の砦の外に出て行くとき、まるで丸腰で戦場に出ていくかのような不安や恐怖心を感じるかもしれません。しかし、そのときわたしたちを神御自身が守ってくださる。そのことを確信し、またそのことに安心すべきなのです。「平和の神」とは「わたしたちを平安で満たしてくださる神」また「安心させていただける神」なのです。

今日はもう一個所の御言葉を読みました。ルカによる福音書です。わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになった日に、ベツレヘムの羊飼いたちに主の御使が語った言葉です。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。

ここにもまた「平和」という言葉が出てきます。神の御子イエス・キリストがこの地上に来てくださいました。それは、この地上の世界に平和をもたらすためでした。ただし、御使が語っているように、その平和は「御心」すなわち「神の御心」に適う人々のところにもたらされるのです。

今日私がお話ししたことは、次のように誤解されたくはありません。教会も社会も同じであるとか、社会の人々に嫌われないように教会は敷居を低くすべきであるとか、教会か社会かそのどちらかを選ばなければならないような場面がもしあるとしたら、迷わず社会のほうを選ぶべきであるとか、そのようなことを言おうとしているわけではありません。申し上げている重要な点は、ただ一つ、わたしたちが伝道する相手は教会の外側にいるということです。教会の外側に出て行かないかぎり神の救いを必要としている人々に出会うことはありえないということだけです。

パウロはこの手紙の中にすでに書いていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。

このようにパウロが書いていることこそが、クリスマスの出来事の本質です。イエス・キリストもまた御自身の砦の中に引きこもられなかったのです。そこから出てきて、地上の人々を救う働きに就いてくださった!それがクリスマスの出来事なのです。

(2008年12月14日、松戸小金原教会主日礼拝)

2008年12月12日金曜日

ライデン Leiden

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ユトレヒト大学図書館 Universiteitsbibliotheek Utrecht

ついにオランダを去る日が来ました。月曜日から金曜日までのわずか五日間の旅程でしたが、オランダで学びたいこと、取り組んでみたいこと、私にもできそうなことはたくさんあるということがよく分かりましたが、 おそらくもう二度と行くことはできないでしょう。悲壮感というほどのことを感じたわけではありませんが、夢の限界を悟る瞬間というのはなるほどちょっぴり寂しいものだと分かりました。



オランダ旅行最後の日、石原先生とユトレヒト中央駅(Utrecht Centraal)で再合流し、最初に行ったのはユトレヒト大学の図書館でした。



我々の目当ては、同図書館内に設置されている「ファン・ルーラー文庫」(A. A. Van Ruler Archief)です。石原先生が事前にメールで閲覧許可申請を行ってくださっていたので、入館はとてもスムーズでした。



しかし、我々は「ファン・ルーラー文庫」なるものがどのような形態のものであるのかを全く知りませんでした。予想していた可能性は、せいぜい広い図書館の一角に閉架式の文庫があって、許可を得た者たちがそこに入って本を手に取ることができるのだろう、くらいのことでした。



ところが、それがとんでもない見当違いであったということに気づくのに、それほど時間は要りませんでした。まずガラス張りの部屋に通され、図書館員の厳重な監視体制のもとに置かれました。そこで、いくつかの誓約事項が記された念書にサインを求められました。一文書の閲覧時間は30分間に限られました。



そして、あらかじめ閲覧希望を予約していた文書が、図書館員の手で運ばれてきました。もちろんその手には白い手袋。文書には封筒がかけられていました。その封筒から恐る恐る取り出したのは、ファン・ルーラーの自筆ノートの切れっ端でした。



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鉛筆を持つ私の右手より右側にあるのがファン・ルーラーの自筆文書です。1945年8月15日、日本が第二次世界大戦における敗戦を認め、降伏したときにファン・ルーラーがラジオ(名称は「オランダ復興ラジオ」)に出演して語った内容の元原稿です。そのタイトルは「大空に善き知らせあり」(Er zit goed nieuws in de lucht)というものでした。自由の喜びを謳歌する内容でした。



同図書館の規定に「自分の手で書き写すことや写真を撮ることは許可する」と定められていることにほっと胸をなでおろしながら、限られたわずかな時間で必死で書き写しているのが上の写真の状況です。



私の向かい側に座って仕事をしていた人もファン・ルーラーの文書を扱っていました。ただし、その方は、我々のような観光客ではなく、現在刊行中の『ファン・ルーラー著作集』(A. A. van Ruler Verzameld Werk)の校正担当者(学生アルバイト)でした!



(修道士のような)ものすごい集中力をもって仕事しておられましたが、我々が話しかけると気さくに応じてくださいました。日本でファン・ルーラーが研究されているということをお伝えしましたところ非常に喜んでくださいました。このような方々の努力に対して我々は日本語版『ファン・ルーラー著作集』の実現をもって応えなければならないと心に誓いました。



石原知弘先生 Ds. Tomohiro Ishihara

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感動と興奮冷めやらぬフローニンゲンに後ろ髪を引かれながら、再びフローニンゲン駅に戻り、レーワルデンまで電車に乗り、レーワルデンから自動車でアペルドールンの石原家まで帰りました。



丸一日のドライブでお疲れ気味のお父さんと、変なおじさんを温かく迎えてくれたのが石原家の若き美人姉妹でした(写真)。



子どもさんたちはすでにすっかりオランダ生活に慣れておられるご様子で、オランダ語の歌をうたってくださいました。夜遅い時刻になっていましたのに、ご夫人手作りの夕食までいただいてしまい(五つ星の美味しさでした!)、生涯の思い出になりました。ありがとうございました。



その後はアペルドールン駅まで自動車で送っていただき、石原先生とその日はお別れ。アペルドールン駅からアムステルダム中央駅まで電車に乗り、アムステルダムのホテルに戻りました。



フローニンゲン Groningen

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この日は、朝早くアペルドールンを出発し、カンペン、フラネカーと、ひたすら北上してきました。石原知弘先生の運転するフォルクスワーゲンゴルフに乗せていただいて、石原先生ご自身が綿密に計画してくださったルートに従って、すべて順調に事が運びました。



そして、レーワルデン(Leeuwarden)という町に駐車し、駅から電車に飛び乗り、オランダの北の最果て、フローニンゲンを目指しました。フローニンゲンに到着したときにはすでに日が暮れていました(上の写真はフローニンゲン駅前)。



いま「フローニンゲン」と書きました。外国の地名や人名のカタカナ表記にはこれまでも難儀してきましたが、この「フローニンゲン」も悩みの種でした。日本では「グロニンゲン」と書く人もいます。しかし、現地に行ってみて分かったことは、これをカタカナ表記することは至難の業であるということでした。



レーワルデンからフローニンゲンまでの電車の中で聞いた車掌のアナウンス(録音かコンピュータ音声かもしれません)に驚きました。Groningenと言ったらしき声を私が聞いたままに表記するとしたら「フローニエン」です。しかも、「ロー」のあたりにアクセントがあり、そこだけははっきり聞こえるのですが、最初の「フ」と後半の「ニエン」のあたりはよく聞こえません。メゾピアノでふわっとフェードインしてきて、「ロー」だけはっきり聞こえて、すぐにフェードアウトしていくように発音されていました。



これをどんなカタカナで書けるというのでしょうか。翻訳者たちは自説をなかなか譲りませんが、これはお互いに我慢するしかなさそうだなあと痛感しました。



さて、フローニンゲンに来た目的は、もちろん「フローニンゲン大学」(Rijksuniversiteit Groningen)です。ファン・ルーラーが卒業した神学部を擁する大学です。フローニンゲン駅から徒歩10分くらいだったでしょうか、巨大なゴシック式の本部棟に着きました。



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本部棟の中にも、外にも、前の通りにも、学生や教授らしき人々がたくさんいましたが、日本からの珍客はそういうことをあまり気にせずに、ズカズカと本部棟の内部に入って行きました(写真は日中の本部棟正面。Wikipedia「フローニンゲン大学」より転載させていただきました)。



そして、正面入り口から入ってすぐのところに大きな階段がありましたので、登ってみましたところ、なんと、「神学部」(Faculteit van Godgeleerdheid)という字が刻まれた古めかしい木彫りの看板がかかった扉を見つけることができました。



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まさにここです!ファン・ルーラーがかなり苦学して辿り着いたとされる最高学府の建物の中にいるのかと思うと、なぜかちょっとした武者ぶるいが襲ってきました。ファン・ルーラーの在学当時、ここで教えていた人々の中には、『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)』や『中世の秋』の著者として世界的に有名なホイジンガもいました。ファン・ルーラーが「遊び」(spel)という概念を好んで用いたことの背景にホイジンガの影響があると見ることは、何ら不自然ではありません。



また当時の神学部には、オランダで初めてカール・バルトの神学を研究・紹介したテオドール・ハイチェマがいました。ハイチェマはアペルドールン教会の牧師だったときにすでにファン・ルーラーと出会っていましたが、この地で再会し、さらにファン・ルーラーの学位論文(神学博士号請求論文)の指導教授まで引き受けた人物です。



本部棟の向かい側にきわめて近代的なビル(本部棟とは全く対照的!)の「図書館」がありましたので、ちょっとだけ中に入ってみましたが、本当にちょっとだけでした。



フローニンゲンの「大教会」(Grote Kerk)も、外から見ただけですが、とにかく素晴らしいものでした。二人ともちょっとお腹がすいたので、「大教会」の前の広場に面したところにあったハンバーガー屋(だったと思う)の自動販売機で「フライドポテト」を購入し、それを食べながら、またしばらく「大教会」に見惚れていました。立ち去りがたい思いを抱きながら。



石原先生が言われた次の言葉には、大いに共感しながら聞きました。



「ぼくはこれまで、オランダでいちばん美しい町はユトレヒトとライデンのどちらか、またはどちらもだと思ってきましたが、今日からフローニンゲンが加わりました。これはいい!」



こんな感じでかなりハイテンションな我々でしたが、日付が変わらないうちに帰宅するためには(私はアムステルダムのホテルに、石原先生はアペルドールンの滞在先に)、フローニンゲンに長居することはできませんでした。



2008年12月11日木曜日

フラネカー Franeker

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クバートの次に訪れたのはフラネカーでした。上の写真は、いつもインターネットを通じてお世話になっているフラネカーの古書店Antiquariaat Wever van Wijnen の前で撮りました。



フラネカーはオランダの最北部、フリースラント地方に位置する小さな町ですが(この日も寒かった!)、17世紀の錚々たる改革派神学者、ウィリアム・エイムズ(アメシウス)、ヨハネス・コクツェーユス、ヘルマン・ヴィトジウスらとの関係が深い町です。



フラネカーの「大教会」に大学が置かれ、そこでエイムズが教えていました。そのエイムズのもとでコクツェーユスが学びました。エイムズはフラネカーに1622年から1633年まで滞在した後(1626年には学長職)ロッテルダムに移りましたが、風邪を患いその年に亡くなりました。エイムズが去った後のフラネカーには1636年から1650年までコクツェーユスが滞在し、ヘブライ語と神学を教えました。コクツェーユスは1650年以降はライデン大学神学部で教えるようになりましたが、少し時を置いた1675年から1680年までの5年間、今度はヴィトジウスがフラネカーで神学を教えました。



神学の世界、とくに教理史の講義などでは、エイムズ、コクツェーユス、ヴィトジウスと言えば「契約神学」(Federal Theology)の一言で括られ、この神学の特徴(善し悪し)が手早く紹介されることになっています。しかも、カルヴァンの神学を正統的に継承したというよりも、行き過ぎや逸脱があったというふうに教えられることのほうが多い実情です。



しかし、結論を急ぐなかれ。我々は17世紀の改革派神学者たちのことをほとんどまだ何も知りません。言論の自由は保障されています。批判することも自由です。しかし、何を言うにしても、彼らの書いた本の中のわずか一冊でもきちんと読んでからのほうがよいのではないでしょうか、と申し上げておきます。



クバート Kubbard

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いよいよクバート。この町にはファン・ルーラーがフローニンゲン大学神学部卒業後、最初に牧会した「クバート教会」 があります。



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クバート教会に到着。カンペンの「大教会」(文字通りの「大」教会)を見た後ですのでクバート教会の建物は小さく見えましたが、規模はともかく、たたずまいはなかなか立派なものでした。



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クバート教会の歴史を記した看板。そのうちきちんと全訳したいと思いますが、書かれていることは教会の歴史というよりは、紀元前500年頃から2500年間(!)に及ぶ町の歴史です。「この地に教会が立ったのは西暦1275年のことであるが、現在のゴシック式建築のものになったのは西暦1500年のことである」と書かれています。



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クバート教会の内部。鍵がしまっていたので入れませんでしたが(勝手に入ると不法侵入)、ここで若きファン・ルーラーが説教をしていた様子を思い巡らしながら、窓の外からパチリ。



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クバート教会の境内に立っている墓碑。前列右のFrans TJ. Robijn氏が亡くなられた日「1938年5月17日」にはファン・ルーラーがこの教会の牧師でしたので、葬儀から納骨までのすべてをファン・ルーラーが行ったものと思われます。



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「墓碑が教会の境内にあるのは良いことだなあ」と思いながら。