mixiの中にどんなコミュニティがあるのかを興味津々で調べています。今のところいちばん興味をひかれているのは「宮台真司」というコミュニティです。宮台さんという人に関心を抱いたというよりも、コミュニティの紹介文に「あえて作りました。これは戦略なんです。処方箋なんです」とか書いてあったことが、かなり言い訳がましくて、微笑ましくて、共感しました。でも、「誰でも参加できる(公開)」となっているものにわざわざ勇気を出して参加するのも奇妙なものだと感じましたので、建物の外から遠巻きに眺めるだけにして、中に入らないことにしました。中でがんばっている方々を貶す意図はありません。
2008年8月22日金曜日
やっとログインできました
mixiにログインできるようになることを長年憧れていましたが、だれも誘ってくれず寂しく思っていました。今日やっと誘っていただけました。初めての国の飛行場に降り立った気分です。どんなコミュニティがあるかを調べているところです。そのうち私も何か新しいコミュニティを作ってみたいです。
2008年8月21日木曜日
本当は直接お目にかかりたいのです
「久々のデジタル音声公開」へのコメントに感謝して
こちらこそお久しぶりです。お元気そうで何よりです。私の願いとしては、最初から、礼拝全体の音声を公開したかったのですが、ブログの機能上の制限(一ファイルあたりの大きさの上限)があって、それができなかったのです。それで仕方なく、説教の部分だけを切り取って公開していました。しかし、そのうちだんだん大変になってきたのが、礼拝全体の中から説教の部分だけを「切り取る」というその作業でした。私が利用しているデジタル録音ソフトは、インターネット上で拾ってきた無料の単純なものですので、高度な編集作業などはできません。パソコンを二台用意し、一方を再生用(アウトプット)、もう一方を録音用(インプット)にして、その昔、家庭用のテープレコーダーでしていたような、きわめて原始的な編集作業をしていました。それを毎週月曜日にしていました。毎回、その作業に長時間を費やしました。それがなんだか疲れてしまったのです。しかし、ブログ機能の向上により、大容量のファイルをアップできるようになり、録音したままのすべてを公開できるようになりましたので、「切り取り」の作業が不要になりました。テキスト(ブログとメールマガジン)はともかく、デジタル音声までを毎週確実にアップできるかどうかは分かりませんが(すべてを一人で行っていますので)、なるべく続けるよう努力いたします。とはいえ、言うまでもないことですが、私の求めるところは、自分の説教や礼拝全体をインターネットで公開することができたというところで終わるわけではありません。それは私の願いでもなければ目的でもありません。私の本当の願いは、ブログやメールマガジンを読んでくださり、デジタル音声を聴いてくださった方々が、松戸小金原教会の礼拝に出席してくださり、共に神を賛美してくださることです。真の神を信じてくださり、楽しく元気に生きてくださることです。そして、願わくは松戸小金原教会の会員になってくださることです。すでに他の教会でキリスト者である方々には、矜持と確信、喜びと救いの解放感とをもって信仰生活を続けていただくことです。距離や状況ゆえに毎週の出席が無理な方でも、せめて一年に一度くらいはお目にかかりたいです。松戸市は、東京都との県境に位置し、江戸川を越えてすぐのところにあります。最寄りの駅は、JR常磐線「北小金駅」か、JR武蔵野線「新八柱駅」です。どちらの駅も東京駅から40分くらいです。あとは、駅前(北小金駅でも新八柱駅でも)からバスに乗り、15分くらいです。バス停からは徒歩5分。そのルートで、不定期ながら東京から礼拝に通ってくださっている方も何人かおられます。駐車場もありますので、自動車での来会も可能です。もはや誰にも信じていただけないことかもしれませんが、私はこのパソコンというものがいまだに苦手で大嫌いです。しょっちゅう壁に向かって投げつけたくなります。ノートパソコンを買って以来、投げつけやすくなりましたので、かえって自制心が働くようになりましたけれども。パソコンとのつき合いは20年、メールを始めてから(当初「パソコン通信」と呼ばれていました)12年を経ているにもかかわらず、です。それほど苦手で大嫌いなものをかなり無理して使っているのは(この文章もパソコンで書いているわけですが)、私が発信する言葉に触れていただけた方々に直接(ただしなるべくなら日曜日の礼拝で)お目にかかりたいからです。パウロの言葉を借りれば、「あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって励まし合いたい」(ローマの信徒への手紙1・12)からです。あとは、潤沢な資金でもあれば説教や論文を本にして出版したいところですが、それ(潤沢な資金なるもの)がないので、現時点では仕方なくインターネットに頼らざるをえないだけです。今年10月19日(日)には松戸小金原教会の特別伝道集会を行います。講師は私、関口康です。一生懸命に準備いたします。ぜひご参加くださいますようお願いいたします!
久々のデジタル音声公開
日本キリスト改革派松戸小金原教会の毎週の礼拝説教を公開してきました「今週の説教」ブログに、久しぶりにデジタル音声(MP3形式)を公開しました。2008年8月10日(日)の説教です。タイトルは「生きぬけ」(使徒言行録27・27~44)です。
今週の説教 ブログ
http://www.reformed.jp/
これまでと異なるのは、説教だけでなく、松戸小金原教会の主日礼拝(2008年8月10日)の全体の音声を公開した点です。利用しているブログ(ココログ)の機能が最近大幅に向上し、大容量のファイルをアップできるようになりましたので、このたび初めて礼拝全体の音声を公開することができました。関心をもっていただきたいのは、説教よりも、リタージ(礼拝式文)や賛美の歌声、オルガン演奏のほうです。奏楽者は佐々木冬彦さんです。おそらくは改革派教会以外の方々にとって目新しく感じていただける要素があるはずです。「ジュネーヴ詩編歌」や「ハイデルベルク信仰問答の交読」や「罪の告白と赦しの宣言」などがあります。「主の祈り」は献金の後です。わたしたちのリタージは、日本キリスト改革派教会に共通なものであるわけではありません。私の前任者、澤谷実牧師が熟考して作成なさったものをベースにして、若干の改定を試みてきました。私が言うと変かもしれませんが、非常に優れたリタージであり、私はとても満足しています。
日本のファン・ルーラー研究会がオランダで
昨年2007年9月26日ユトレヒト・ヤンス教会で行われた「ファン・ルーラー著作集出版記念祝賀会」の席上、ファン・ルーラーの二男ケース・ファン・ルーラー氏が日本の「ファン・ルーラー研究会」について紹介してくださったときのラジオ音声が、インターネット上に公開されています。
「出版記念祝賀会」のラジオ音声(ケース氏の音声は「12:00」あたりから始まります)
http://www.eo.nl/media/spelert.jsp?aflid=8948162
そして、つい最近のことですが、このケース・ファン・ルーラー氏の発言のテキスト(全文)が、『ファン・ルーラー著作集』を扱っている出版社(ブーケンセントルム社)のホームページで公開されました。それを以下、拙訳にてご紹介いたします。微妙な気持ちにさせられる部分もあります。「誤解」がとかれる日の到来を期待しています。
写真で見る「出版記念祝賀会」(ここでケース氏のテキストを入手できます)
http://www.aavanruler.nl/index.php?cId=236
■ 『ファン・ルーラー著作集』出版感謝祝賀会でのケース・ファン・ルーラー氏のことば(関口 康 訳)
何人かの方々のお話を伺いながら思い出されたことは、ハンス・ハッセラー氏のことです。二つの思い出があります。
第一は、私が最初に受けた予備試験がハッセラー氏によるものであったことです。3時に始まり、それはそれは長く続き、やがて暗くなり(10月か11月でした)私の記憶では7時半を過ぎていました。
第二は、スポーツのことです。父がサッカーを非常に愛したことについては、すでに他の方々が話してくださいました。しかし、それは真理の半面にすぎません。父が重んじたもう一つの球技は、ビリヤードでした。我が家にはビリヤード台がありました。多くの日曜日の午後、父とわたしたち家族と友人たちがビリヤードに熱中しました。さらにハッセラー氏や他の教授たちまで加わりました。彼らはビリヤードをするために来ているのではないかと思うほどでした。
紳士淑女の皆様、私はファン・ルーラーの子どもを代表して謹んでご挨拶申し上げます。私の名前はケースと申します。この美しいロマネスク様式の教会で、1960年代に学生運動が起こりました。父は当時、この教会に通っていました。私も父と共に毎週通っていました。ここで父の『著作集』の第一巻を紹介させていただける機会を与えられましたことを感謝しております。
ファン・ルーラーの子どもとして最初に応答することができますことは名誉なことです。次にお話しになるバース・プレシール氏は、私もよく覚えておりますが、学生でいらした頃、父の情報カード整理箱の中身を並べたり補充したりしておられました。情報カード整理箱は計画の開始と共にカンペンに運ばれました。ディルク・ファン・ケーレン氏が上手に使いこなしておられます。私個人はファン・ルーラー協会(Stichting Van Ruler)の会長という立場でこの計画に関与することになるかもしれないという特別な経験をさせていただいております。
出版準備会に参加させていただいた初めの頃は、専門家たちが何か非常に曇った表情で私の父について聞いたり話したりしておられることに、しばしば疎遠なものを感じておりました。それは時おり私に、昔の感覚を思い起こさせるものでした。当時私は(新米の神学者としての)父の講義が、父とは異なる立場の人々のところまで飛んで行って、彼らを高く評価するものである(私にとって父は「ふつうの」人でもありました)と感じていました。第一巻の準備の際に、わたしたちは定期的に講義のテキストを送りました。私が特別に魅了され、かつ記憶に残っているのは、1956年の『エルセフィアー』誌に父が書いた論文です。真理について論じたものであり、「真理はいまだ已まず」というタイトルがついています。
その論文の中で父は、真理をめぐる対話における共産主義者たちの貢献に全く魅了されていると告白しています。父は、真理とは物質的現実と等しいものであるという彼らの見方を、自分の命題である「真理はいまだ已まず」に取り入れたのです。内容的に全く魅了されたのであり、時代の中で際立っていたのです。その論文は第一巻の68ページ以下にありますので、すべてお読みいただくことができます。それは祭日の午後のことでした。しかし、私はここでいかなる仲たがいについても言及するつもりはありません。そのようなことを皆さんにお考えいただくことは、少しも楽しいことではありません。それは昔話であり、父が教授をしていた頃の話ではないでしょうか。今とは違います。
この種の仲たがいは世界中のどこにでもあると言っておきます。それは、どうやら日本にもあるようです。わたしたち家族は、何年か前に日本のプロテスタント神学者のグループと会いました。彼らは父の本を日本語に翻訳するための特別で敬意を表すべき計画をもっています。彼らは近いうちに著作集を刊行するための計画までもっています。ついでに申せば、二年前に彼の前任者がオランダに来たときに(私の息子のドゥーウェと姪のロサリーと共に)私も会っていたらしいのです。彼らのリクエストがありました。私はファン・ルーラーの生活や知る価値のある事柄についての彼らの無邪気な考えを重んじるつもりでした。彼らは私の父が飼っていた小犬のことにまで興味を示してくれました。そのレベルのことを私は考えていました。
皆さんが期待されるでありましょうことは、多くの礼儀作法と共に開始される日本式の会話がなされただろうということでしょう。それはまさに真実でした。わたしたちは(ホテルの寝室でした)まだ座ってもいませんでしたのに、炎のような口ぶりで最初に問いかけられたことは「ファン・ルーラーは自分の神学のなかで『存在』(het Zijn)という言葉をどのような意味で語ったのでしょうか。この件についてお聞かせいただけませんでしょうか」というものでした。
それ以外の点では、すべては順調に運びました。しかし、そのグループは『われ信ず』という父の本をファン・ルーラー家の承諾なしに日本語に訳した日本の他のグループと争っています。
それは日本のなかでの問題です。ここユトレヒトにおいては、大きな一致と感謝において、私の父の著作集の素晴らしい第一巻を見ています。本当にうれしく思っています。
ニコ・ドゥ・ヴァール社長のもとにあるブーケンセントルム出版社の皆さま、ファン・デン・ブリンク教授ならびに出版会の皆さま、そして編集者のディルク・ファン・ケーレン氏に心からの感謝を申し上げます。ありがとうございます。
2008年8月10日日曜日
生きぬけ
使徒言行録27・27~4
先週の個所に記されていましたのは、恐ろしい出来事でした。囚人としてローマ皇帝のもとに護送されることになった使徒パウロを乗せた船が、地中海の上で激しい暴風に遭い、漂流しはじめたというのです。「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた」(27・20)と書かれていました。
その船に乗っていた人の数は276人であったと、今日の個所の37節に記されています。これだけの数の人々が、暗闇の海の上でほとんど絶望してしまったのです。
しかし、そのような状況とその人々のなかで、パウロは、非常に毅然とした態度を貫きました。それは、ある意味で不思議なことでもあります。そもそもパウロは囚人でした。一人の囚人に過ぎない存在でした。その船のなかでパウロは、いかなる意味でも指導的な立場にはありませんでした。指導的な立場にあったのは、ローマの百人隊長であり、軍人たちであり、船長であり、船主でした。
もしその人々がその船に乗っている人々を励まし助けたというならば、よく分かる話になるわけです。しかし、彼らはおろおろするばかりでした。その中で一人、パウロが語りはじめました。護送中の囚人の一人にすぎなかったパウロが、とにかく一生懸命になってみんなを励まし、力づける言葉を語ったのです。そしておそらくはパウロの言葉が、絶望していた人々を勇気づけるものとなったのです。
「十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った。そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。」
27節以下に描かれていますのは、航海についての専門的な知識をもっていた船員たちが、どこかの陸地に近づいていることを察知したとき、船が暗礁に乗り上げて難破することを恐れ、自分たちだけがその船から逃げ出そうとした様子です。しかし、その怪しい動きにパウロが気づきました。そして、そのパウロが即座に取った行動は、百人隊長と兵士たちに船員たちの逃亡計画を知らせ、それを阻止してもらうことでした。
このパウロの行動の意味は、次のように説明できると思います。専門的な知識をもっている人が自分たちの命を守るために逃げ出し、彼ら以外の人々、つまり、専門的な知識をもっていない人々の命を犠牲にすることは重大な犯罪であるということです。そのことをパウロが「百人隊長と兵士たち」に知らせたことの意味は、その人々の軍事力、あるいは警察力に訴えることであるということです。
ここで皆さんにお考えいただきたい点は、わたしたちが何らかの専門的な知識をもつとは、まさにそのようなことであるということです。話は飛躍しているかもしれませんが、いわゆるインサイダー取引がなぜ犯罪なのかを考えていただくと、私が申し上げたいことをすぐご理解いただけるに違いありません。これから株価が上がることを事前に知りうる少数の専門的な知識をもった人々が、値上がりする直前に株を買い、値上がりした直後に売り抜けて一儲けする。これは重大な犯罪なのです。
他にも例を挙げて行くと、きりがありません。わたしたちが考えなければならないことは専門的な知識をもつとはどういうことなのかということです。そこにどのような責任が伴い、果たすべき役割が伴うのかです。もちろんわたしたちが専門的な知識をもつためには一生懸命に勉強する必要があるでしょう。つまりその問いは、わたしたちが一生懸命に勉強することの目的は何なのかという問いでもあるでしょう。
自分自身や家族や友人たちだけを助けるためだけでしょうか。そうではないでしょう。わたしたちは、多くの人々のために、公共の福祉のために、自分の専門的知識が用いられるようになるために一生懸命に勉強すべきなのです。そして多くの人々と共に力を合わせて危機的な状況を乗り越えていくために真剣に働くべきなのです。そうでなければわたしたちの勉強にも仕事にも意味がないでしょう。いかにもケチくさい、自分のことしか考えないような生き方は、明らかにまずいでしょう。
もちろんその中に自分自身や家族や親しい友人たちが含まれていることは許されてよいことでしょう。しかし、自分たちだけが逃げ延びて、他の多くの人々が犠牲になっていく様子を、まるで対岸の火事でも見るように、遠くから眺めているというのでは、何のための専門的知識なのか、何のための勉強なのかが真剣に問われなければならないでしょう。
先週も申し上げましたように、パウロには、航海に関する専門的な知識はなかったかもしれません。しかし、そのパウロが、彼の全力を尽くして危機的状況の中にあった人々を助けることができたのです。その意味をよく考える必要があるように思われます。
「夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。『今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。』こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。」
その船に乗っていた人々は、14日間、つまり二週間もの間、全く何も食べずに過ごしました。その中でパウロが語った言葉は「どうぞ何か食べてください」ということでした。先週の個所でパウロは、人々に「元気を出しなさい」と語り、また「わたしは神を信じています」と語りました(25節)。私が興味深く感じたことは、パウロがこの場面で口にしていない言葉がある、ということです。
それは「皆さん、どうか神を信じてください」という言葉です。また「皆さん、どうか祈ってください」という言葉です。このような場面ではそういう言葉を語るべきではないということを、私が言いたいわけではありません。事実としてパウロはそのような言葉を口にしていないということを申し上げているのです。そのようなことよりもむしろ、この場面でパウロが積極的に語った言葉は「元気を出しなさい」であり、「何か食べてください」という言葉であったという事実です。
「神を信じてください」「祈ってください」という言葉のほうを“宗教的な”言葉と呼ぶとしたら、「元気を出しなさい」「何か食べてください」という言葉はいわば“一般的な”言葉です。あるいは、前者を“精神的な”言葉と呼ぶならば、後者はいわば“肉体的な”言葉です。さらに言い換えれば、後者は“人間的な”言葉であると呼べるでしょう。
もちろんパウロは自分自身の告白として「わたしは神を信じています」と語っていますし、また彼自身の一つの態度決定として神に祈りをささげています。しかし問題は、そのパウロが自分以外の他の人々に対して何を語り、どのような態度をとったかです。今日の個所を見るかぎりパウロはきわめて積極的に“一般的”な言葉、あるいはきわめて“人間的な”言葉をもって人々を励ましました。この事実が、私にとっては大変興味深く感じられたのです。
この点は、わたしたち自身の姿と重ね合わせて見ることができるでしょう。より根本的な問いとしては、教会と牧師は“人間的な”言葉を語ってはならないだろうかということでもあるでしょう。わたしたちが苦しみの中にある人々を励ましたり慰めたりするために語るべき言葉は何なのかを考えるための、重要な材料になるでしょう。それこそ二週間も食事をとれない状態のなかで全く絶望しかかっている人々に向かって、ここぞとばかりに伝道しなければならないでしょうか。それが彼らを助けることになるでしょうか。
この場面でパウロが語っている言葉に対して私が感じることは人間的な温かさ、あるいはデリカシーです。
伝道者になりたての頃のパウロは、語る言葉の一つ一つがけんか腰のようでした。噛みつくような調子で語っていました。しかし、そのパウロも本当に苦しみ抜いてきたのではないでしょうか。人の苦しみや痛みがよく分かるようになってきたのではないでしょうか。人が生きるために、「生き延びるために」(34節)何が必要であるかを、人としての心の深い次元で知るようになってきたのではないでしょうか。ここにパウロの人格的成長を読み取ることができるように思います。
「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」というのは、もちろん真剣そのものの言葉であるに違いないのですが、どこかしらユーモラスな響きがあります。これと似た表現は、旧約聖書のサムエル記上14・45、サムエル記下14・11、列王記上1・52、また新約聖書のマタイによる福音書10・30、ルカによる福音書12・7に出てきます。
その個所を見ると分かることは、問題は髪の毛の本数ではないということです。「主なる神があなたの命をしっかりと守ってくださる」という点を強調して語る、励ましの言葉です。人を勇気づける言葉です。
「朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。」
船がついに陸地にたどり着きました。しかし、船員たちが予測したとおり、浅瀬にぶつかってしまい、船が壊れてしまいました。兵士たちが、囚人たちが逃げないように殺そうとしたのは、彼らに与えられた任務を全うしようとしたからではありません。囚人に逃げられてしまうと彼らの責任を追及され罰せられることを恐れての行為です。ここにも自分が助かることしか考えない、自己保身的な人々の姿が描かれています。
しかし、彼らの計画は、百人隊長が阻止しました。「パウロを助けたいと思った」とあります。パウロを大事に思う気持ちを、百人隊長が持ってくれたのです。そのおかげで誰も殺されずに済んだのです。全員が助かったのです。
どうか言わせてください。囚人にすぎない一人のパウロが、276人全員の生命を救ったのです。他の誰よりも強く立ち、全力を尽くして、与えられた知恵と力を用いて。
その際、“自分のことしか考えないわがままな人々との戦い”という点を無視することができません。自分自身を含む(これが重要です!)全員が生き延びるために、パウロは、その頭と心をフル稼働させて、最後まで戦い抜いたのです。
(2008年8月10日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年8月3日日曜日
わたしは神を信じています
使徒言行録27・1~26
使徒言行録の学びも、大詰めを迎えています。今日の個所から始まりますのは、言ってみるならば、パウロの第四回目の伝道旅行の様子です。ただし、第四回目という数え方が正しいかどうかは微妙です。
これより前に行われました三回の伝道旅行は、パウロ自身の祈りと計画に基づくものでした。しかし、今回は違います。今やパウロは囚人です。彼は囚人として、ローマ帝国の軍隊に引き連れられて、新しい旅行を始めることになったのです。
目的地は、イタリアの首都ローマでした。パウロがカイサリアで行われた裁判の結果を不服としてローマ皇帝に上訴したのを受けて、ローマに護送されることになったのです。それは、この(事実上の)第四回伝道旅行は、パウロの祈りと計画に基づくものではなかったことを意味しています。
とはいえ、今申し上げた事実にもかかわらず、これはパウロにとって事実上の第四回目の伝道旅行であったとみなすことができます。なぜなら、ローマに行くことそれ自体は、すでに十分な意味でパウロ自身の祈りと計画の中にあったことだからです。そのことは、ローマの信徒への手紙の中に記されています。「わたしは、祈るときにはいつもあなたがた〔ローマの教会の信徒たち〕のことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(ローマ1・9~10)。
ところが、パウロはその続きに「何回もそちら〔ローマ〕に行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」とも書いています。つまりパウロにとってローマは、何とかしてそこに行きたいと願いつつ、いろんな要素に妨げられて、なかなか行くことができなかった場所だったのです。
そのためわたしたちは、事情は何であれ、パウロの願いはかなったのだと信じてよいのではないでしょうか。生きておられる神御自身が全く不思議な仕方で、パウロをローマへと導いてくださった。そのように見ることができると思います。
「わたしたちがイタリアへ向かって船出することに決まったとき、パウロと他の数名の囚人は、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスという者に引き渡された。わたしたちは、アジア州沿岸の各地に寄港することになっている、アドラミティオン港の船に乗って出港した。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも一緒であった。翌日シドンに着いたが、ユリウスはパウロを親切に扱い、友人のところへ行ってもてなしを受けることを許してくれた。そこから船出したが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いた。ここで百人隊長は、イタリアに行くアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた。」
船を用いて海をわたってパウロと何人かの囚人をローマへと護送する責任を負うたのは、ローマの百人隊長ユリウスでした。
このユリウスがパウロを「親切に」扱ったと言われていますが、「親切に」は「人道的に」または「人に優しい仕方で」と訳すこともできる言葉です。その意味として考えられるのは、パウロは確かに囚人でしたが、非人道的な仕方で拘束されておらず、かなり自由に行動できる状態にしてもらっていたということでしょう。当時のローマ人たちの寛大さや見識を垣間見ることができるエピソードと言えるでしょう。
「幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い『良い港』と呼ばれる所に着いた。かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。『皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。』しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した。」
今日の個所から分かることは、パウロの時代の海の旅は決して順調なものではなかったということです。当時のローマ軍の船の大きさや性能がどれほどであったかは知りません。しかし、向かい風が吹けば進むことができず、陸や島を見ながら針路を決めたりしていることを見るかぎり、いかにも危なっかしい古代の原始的な船を想像すべきでしょう。
そして、もたもたしている間に冬が訪れました。すると、この時期の航海は危険であるとパウロは判断し、そのように人々に忠告したと記されています。ここで問題になることは、はたしてパウロに航海についての専門的な知識があったのかということです。書物や勉強によって得た知識くらいは持っていたと考えてよいかもしれません。また、これまで三回の伝道旅行の中には船に乗る場面もありましたので、そのたびに船長たちから教えられた知識があったのかもしれません。しかし、これとてあくまでも想像にすぎません。
むしろ事実に近いと思われることは、パウロの判断は、彼自身が「わたしの見るところでは」と言っている点を重く受けとめるとしたら、一種の直感あるいは霊感のようなものに基づくものであったということです。別の言い方をすれば、パウロはこの件に関しては素人(しろうと)であると見られても仕方がない人であったということです。
だからこそ、というべきでしょう、百人隊長はパウロの判断を受け入れず、船長や船主の判断のほうを信用しました。これはある意味で仕方がないことです。専門分野を越えて口を出すと、いろんな反発が返って来ます。「素人である」と批判されます。
ところが、です。パウロの判断が的中しました。彼らの船は、その時期に発生する暴風の直撃に遭い、太陽も星も見えない闇の中で、行く先も分からぬ状態になり、漂流することになったのです。
「この港は冬を越すのに適していなかった。それで、大多数の者の意見により、ここから船出し、できるならばクレタ島で南西と北西に面しているフェニクス港に行き、そこで冬を過ごすことになった。ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。人々は長い間、食事をとっていなかった。」
私自身は、暴風のなか海の上を漂流するというようなことを経験したことはありません。強いて挙げるとしたら、一度だけ少し似ている状況に遭遇したのは、ギリシア発エジプト行きの飛行機に乗っているときでした。積乱雲に突入し、機体が激しく揺れたり、垂直に落ちたりして、私の目の前に座っていた客室乗務員の女性たちが乗客より大きな声で悲鳴を上げているのを見て、こちらが不安になってしまったことくらいです。
しかしまた、もう少し視野を広げて考えてみるとしたら、パウロが実際に遭遇した嵐の中のこの漂流体験は、わたしたちが人生のなかで何度となく味わう生活上の苦労の体験になぞらえることができるように思われます。
ここで二回繰り返されている印象的な表現は「流されるにまかせた」です。わたしたちも「流されるにまかせる」という体験をしたことがあるのではないでしょうか。
また彼らは「積み荷」(!)を捨て、ついには「船具」(?!)までも捨てました。こういう体験も、わたしたちは何度となく味わったことがあるのではないでしょうか。決して捨ててはならない大切なもの、それを捨てると先の人生を生きていくことさえも(精神的・肉体的に)困難になるほどのものまでも、仕方なく、涙を流しながら、捨てなければならない場面が、何度となくあるのではないでしょうか。
わたしたちの人生も、そして教会も同じです。教会も様々な困難、経済的な行き詰まりなどまで味わいます。あらゆることを切り詰めながら難しい局面を必死で乗り切っていかねばならないときがあります。
パウロが知っていたのは、おそらくその面なのです。彼には、船や海についての専門的な知識はなかったかもしれません。しかしパウロは、教会という船の船長を務めてきた人です。伝道の嵐と戦ってきた人です。海よりも恐ろしい反対者や迫害者に囲まれて、その中で死ぬほどの苦しみを味わってきた人です。
興味深いことは、そのパウロこそが、この嵐の中の恐ろしい漂流体験の中で、その面での専門家であったはずの船長よりも船主よりも、さらにローマ軍の兵隊たちよりも力強い言葉を語って、みんなを励ましたのだということです。パウロの強さは、明らかに、教会と伝道の戦いの中で身につけてきたものなのです。
「そのときパウロは彼らの中に立って言った。『皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。』」
パウロには一言多いところがありました。言わなくてもいいことを、つい言ってしまう。「わたしの言ったとおりにしていれば、このような目に遭うことはなかったのに」。
これは、苦しんでいる人をますます追い詰める言葉です。語られなければならない言葉かもしれませんが、これを聞く人の心は必ず傷つくでしょう。
パウロとしては、つい出てきた言葉だったかもしれません。しかし、それ以上は続けていません。実際に苦しんでいる人々を前にして、「その苦しみを招いたのは、あなたがたの責任である。そもそもあなたがたの最初の判断が間違っていたのである」というようなことをいくら言っても、彼らを助けることにならないことくらい、パウロにも分かっていたのです。
原因や責任の追究は、後回しでよい。今必要なことは、現実となったこの苦しい状況をみんなで乗り越えていくことである。そのことをパウロはよく分かっていたのです。
むしろこの場面でパウロが語ったことは「元気を出しなさい」でした。そして「わたしは神を信じています」という言葉でした。
「わたしは」にも「神を」にも「信じています」にも、それぞれ重い意味が込められていると感じる非常に味わい深い言葉です。もちろんその意味は、「神がこの絶望的な状況を切り開いてくださる。そのことをわたしは信じています」ということでしょう。
しかしパウロが「神を信じてください」とは言っていない点も重要です。この場面でパウロは、押しつけがましいことを少しも言っていないのです。
今、苦しみの中にいる方々へ。わたしたちもパウロと同じ言葉を送ります。
「わたしは神を信じています」。神がわたしたちを必ず助けてくださるでしょう。
(2008年8月3日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年7月27日日曜日
時が良くても悪くても
使徒言行録26・19~32
使徒パウロがユダヤの王アグリッパとローマ人総督フェストゥスの前で行った弁明が、もう少し残っています。パウロの言葉は、最後まで力強いものでした。
「『アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。』」
「私は天から示されたことに背かず」とあります。しかし「背かず」とたった三文字で訳されますと、さっと読み飛ばされてしまいそうです。語られている事柄の重大さを考えますと、「背かず」だけでは物足りません。もう少し丁寧に訳す必要があります。
よりよい訳の可能性としては「私は天から示されたことに従わざるをえませんでした」です。または「背くことができませんでした」です。イエス・キリストとの出会いの体験がパウロの人生を変えたのです。パウロが進もうとしていた道をキリストが遮ったのです。その先には一歩も進ませないと言わんばかりに立ちふさがったのです。キリストはパウロと同行者たちを“転倒”させたのです。
しかし、パウロがそのことを、これまた文字どおりの「“天から”示されたこと」として語っている点が重要であると私は思います。これは人によって違うことかもしれません。わたしたちは「私の人生を変えてくださったのは神である」と端的に語ることができるでしょうか。パウロが言っていることは、要するにそういうことなのです。彼の言っている「天」とは、神御自身を指しているのです。
わたしたちは、そういう場合におそらくいくらか躊躇があります。「何々さんが私を教会に誘ってくれたから今日の私がある」と言いたくなります。「たまたま目の前に教会があり、たまたま立ち寄ったのがこの教会だった」と言いたくなります。
そのようなわたしたち自身の言葉遣いが間違っているわけではありません。事実を事実として率直に述べているだけです。私が申し上げたいことは、パウロの語り方は、わたしたちの語り方とは明らかに違うものであるということだけです。
しかし、です。パウロの言葉には力強さがあります。果てしないまでの底力を感じます。彼の信仰の最終的な根拠は人間ではないということが語られているからです。神がパウロの人生を全く新しいものへと作り変えてくださったのです。パウロは「天から」、すなわち「神から」示されたことに服従したのです。
信仰の最終的な根拠が人ではないと語ることが、なぜ力強いのでしょうか。最も単純に言えば、人間は裏切ることがありうるからです。これは、人を信用して裏切られたことがある方々にはご理解いただける話でしょう。
パウロの場合も、そのことが関係していると思われます。間違いなく言いうることは、パウロが最初に神を信じたとき、彼を「神」へと導いたのは同胞であるユダヤ人であったということです。しかし、そのパウロが今やユダヤ人たちによって殺されようとしているのです。このわたしを神へと導いてくれたユダヤ人たちによって、わたしは殺されようとしている。もしパウロが信仰の最終的な根拠を人間に置いていたとしたら、自分はユダヤ人たちに裏切られたというような思いの中で、彼は全く絶望するしかなかったのです。
しかし、パウロは絶望しませんでした。信仰の最終的な根拠が人間ではなく、神御自身に置かれていたからです。人間につまずいても、パウロの信仰は揺るぎません。誰が何と言おうとも、パウロの信仰が失われることはありません。
これらの点について、わたしたちはどうでしょうか。わが身を振り返って、よく考えてみなければならないように思われてなりません。
「『ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。』」
しかし、です。パウロの信仰の根拠は、「突然輝いた天からの光」というおそらく時間にすればたった一瞬にすぎない、神秘的で不思議な出来事という、ただそれだけのものではなかったと言うべきです。根拠は今日の個所の中に、少なくともあと二つあります。
第一の根拠は「天からの光」です。しかし、第二の根拠は「聖書」です。「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません」と言っているとおりです。第三の根拠については後ほど述べます。
イエス・キリストへの信仰の根拠は聖書にある。そのことをパウロは確信していました。これも彼の信仰の強さを表しています。
聖書は、わたしたち人間のように、昨日言ったことと今日言っていることとが違っているというような、曖昧で変わりやすい言葉の持ち主ではありません。今日ここで語ったことを来週「あれは無かったことにしてください」と語ることは、ある意味での勇気や謙遜さが必要なことではあります。しかし書かれた文字、あるいは印刷された文字には、そのようなあやふやさはありません。聖書の言葉を根拠にする信仰は、そのようなあやふやさの余地を残さない、きわめて明確な確信に至るのです。
「パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。『パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。』パウロは言った。『フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。』」
パウロはまだ弁明を続けていました。しかし、フェストゥスは「大声」でパウロの言葉を遮りました。それ以上語らせないように妨害したのです。そして、「お前は頭がおかしい」という言葉でパウロを侮辱しました。
「学問のしすぎで」とあります。これでも間違いではないと思います。しかし、原典を見ると、フェストゥスの言葉の中に“マニア”の語源と思われるギリシア語が記されています。つまり、フェストゥスが言っていることは、「お前は特定の宗教にのめり込みすぎている」というようなことです。「宗教かぶれである」とか「宗教マニアである」というようなことです。
この点から分かることは、ローマ人フェストゥスにとっては、教養の一つとして宗教についてのある程度の知識をもつということくらいは許容できるとしても、何か特定の宗教にのめり込むとか、“ハマる”ことは、精神的なバランスが崩れている、偏った人間であることの何よりの証拠に見えたのだろうということです。フェストゥスの目に映るパウロはマニアのようなものだったのです。一種の熱狂主義、視野の狭さ、精神の不安定さなどを感じ取ったのです。
宗教というものがたしかにそのような人間を生み出すことがありうることについては、わたしたちも知らずにいるわけではありません。やや誤解を恐れながら申し上げますと、もしわたしたちの信仰が先ほど申し上げた二つの根拠、すなわち「天からの光」と「聖書」という根拠だけにとどまるものであるならば、パウロがその言葉で批判された“マニア”のようなものと大差ないと見られても仕方がないのではないでしょうか。
しかし、今日私が最も強調してお話ししたいと願っていることは、パウロはこの二つの根拠だけにとどまっていなかったということです。彼の信仰には第三の根拠がありました。それは「このことはどこかの片隅で起こったことではありません」という点です。
ここで「このこと」とはイエス・キリストに関するすべての出来事です。その出来事は、どこかの片隅で起こったことではなく、アグリッパさん御自身もよくご存じのことです。このパウロの言葉の意図は、イエス・キリストに関するすべての出来事は「歴史的な事実」として起こったものであるということです。つまりパウロの信仰の第三の根拠とは「事実」です。もう少し丁寧に言えば「歴史的事実」です。これは重要な要素なのです。
パウロの意図は、次のように説明できます。
もし私が宣べ伝えているキリスト教信仰が「天からの光」と「聖書」だけを根拠にしている宗教であるとするならば、わたしたちの姿はたしかに、宗教マニアのようなものに見えてしまうかもしれません。しかし、わたしたちの場合はそれだけではありません。わたしたちの宗教は「歴史的事実」を重んじるものです。
アグリッパさん、あなたもよく知っているあの出来事。誰もが目の前で見た現実の出来事。ひとりのナザレ人イエスが十字架の上にかけられて殺されたあの出来事、それがわたしたちのキリスト教信仰の根拠です。あの出来事だけは、いくらなんでも無かったことにすることはできないでしょう。
ですから、私の頭は少しもおかしくありません。私が歴史的事実に基づいて語っていることを「頭がおかしい」などと、もし本当に言われなければならないのだとしたら、その事実を事実として認めているすべての人の頭も「おかしい」と言われなければならないではありませんか。そんな馬鹿な話はないでしょう。
「アグリッパはパウロに言った。『短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。』パウロは言った。『短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。』そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。彼らは退場してから、『あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない』と話し合った。アグリッパ王はフェストゥスに、『あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに』と言った。」
パウロの弁明を聞いたアグリッパの心は、ほんの少しくらいは動いているような気がしますが、皆さんはどのようにお読みになりますでしょうか。短い時間で私をクリスチャンにする気かと、皮肉とも冗談ともとれる言葉を述べています。「おやおや、不覚にもあなたの言葉に説得されそうになったじゃないか」と冗談めかして言っているのかもしれません。そしてアグリッパは、パウロが上訴さえしていなければ彼は釈放されただろうと、同情のことばさえ口にしています。
もちろん、それ以上のことは言えません。たとえば、アグリッパはパウロの言葉に納得したとか、アグリッパにも信仰が芽生えたというようなことまで語るのは無理でしょう。それほど甘くはないと思います。しかし、です。アグリッパはパウロの言葉に相当な迫力と説得力を感じたであろうということくらいは言ってもよさそうです。
言い逃れとして申し上げるつもりはありませんが、伝道には時間がかかるのです。相手がほんの少しでも心を動かしてくれたなら、その日の働きとしては十分すぎるほどです。相手が誰であれ、時が良くても悪くても、わたしたちは語り続けなければならないのです。
(2008年7月27日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年7月26日土曜日
「今週の説教」と検索してみてください
それからこれも今日知ったことです。著名な検索サイトで「今週の説教」という語で検索すると、グーグルでは第1位、ヤフーでは第3位、MSNでは第1位で、私の説教のサイトを探し当ててくれるようです(順位は本日現在です。この種の順位は日々変動しているものであることは承知しております)。ちなみに、私がブログを始めたのは2006年5月からですが、累計アクセス数が最近やっと10万件を超えたことも知りました。これが多いのか少ないのかは私には判断がつきませんが、多くの方々のお助けとお支えあってのことと感謝しています(「累計アクセス」のカウント対象はreformed.jpかprotestant.jpというアドレスがついているサイトです。その中には「ファン・ルーラー研究会」「アジア・カルヴァン学会」なども含まれています)。
関根正雄氏とファン・ルーラー
本日ある方から興味深い情報をいただきました。関根正雄先生がファン・ルーラーに言及しておられる、というのです。「わたくしはこの頃、預言者をヴァン・リューラーの言葉『神律的相互関係』を借りて見うるように思っている。歴史における自由な神の行動に律せられ、厳密に神の言葉と霊の働きに自由に服従した人々として預言者を見たいのである。終末論的に預言者を受け取ることは新約聖書から旧約聖書を受け取ることでもある」(『関根正雄著作集 別巻 補遺』、教文館、2004年、170ページ)。とても感動しました。興奮で今夜眠れないかもしれません。