2012年10月21日日曜日

この町に教会がある


2012年度 松戸小金原教会 秋の特別集会(2012年10月21日)説教全文

テモテへの手紙一4・6~16

「これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。これらのことを命じ、教えなさい。あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」

今日は毎年わたしたちの教会がおこなっている秋の特別集会です。まだ教会に来られたことがない方々にわたしたちの教会の存在を知っていただくために、3千枚のチラシをこの地域に配布しました。この中にそのチラシを見て来てくださった方々がおられましたら、わたしたちは心から歓迎します。その方々には、ぜひこれから教会に足を運んでいただきたいと願っています。

今日これからお話ししますテーマは、「この町に教会がある」ということです。この町とは、千葉県松戸市小金原のことです。そして、この町にある教会とは、わたしたち松戸小金原教会のことです。しかし、小金原にはわたしたちの教会以外にもう一つ、教会があります。小金原二丁目にある栗ケ沢バプテスト教会です。その教会の牧師は吉高叶先生という方です。しゅっちゅうお会いしているわけではありませんが、仲良くしていただいています。しかし、この町の教会はこの二つだけです。他にはありません。二つのうちの一つがわたしたちです。

その意味でわたしたちはこの町に対して大きな責任を感じています。それはキリスト教の教えをこの町に宣べ伝える責任です。また、キリスト教の教えに基づく奉仕活動を続けていく責任です。小金原地区の現在の人口は約2万2千人です。そこに教会が二つしかありません。ですから、わたしたちの教会は、少なくとも小金原地区の人口の半分の1万1千人に対して、いま申し上げたことを行う責任を担っているのです。それで今日の集会のために3千枚のチラシを配らせていただいた次第です。

しかし、わたしたちの教会は現在50人です。寂しいことを言わないでくださいと叱られてしまうかもしれません。でも、それが事実です。しかも、50人の会員のうちで小金原に住んでおられるのは、15人です。あとの方々は松戸市の別の地区や柏市や印西市などから通ってくださっています。茨城県から通ってくださっている方も数名おられます。わたしたちの願いはこの地域の方々に対する責任を果たしていくことですが、そのことはまだ十分に果たせていません。そのことを痛感しています。

しかし、私は今日、皆さんに愚痴を言いたいわけではありません。この町に教会があることの積極的な意味を、喜びと感謝をもってお話ししたいと願っています。しかしごめんなさい、もう少しだけ愚痴っぽいことを言わせてください。

実を言いますと、この町にキリスト教の信者はわたしたちの教会に属する15人しかいないわけではありません。もっとたくさんおられます。先ほどご紹介しました栗ケ沢バプテスト教会の方々のことを言いたいのではありません。日本のキリスト者人口は国民の1%と言われています。百人に一人。小金原に2万2千の人がいれば、220人くらいは最低でもいるはずです。しかし、わたしたちの教会には15人。栗ヶ沢バプテスト教会にも同じくらいの人数ではないかと想像します。

しかし、それでは計算が合いません。いったい、この町の教会に通っておられないキリスト者の方々はどこの教会に通っておられるのでしょうか。松戸市内の別の地域や柏市などの教会かもしれません。しかし、もっと考えられる可能性は東京の教会です。バスに乗って、電車に乗って、あるいは自動車で東京の教会に通っておられるのです。松戸市が東京都との県境にあることが関係しています。また、小金原に住んでいる多くの方々が、かつて東京から引っ越してこられたことが関係しています。

ですから、その方々は、御自分の家の近くにわたしたち松戸小金原教会や、栗ケ沢バプテスト教会があっても、この教会の建物を御覧になったり看板を御覧になったりしても、残念ながら前を素通りされていることになります。

しかし、時々、たいへん有難いことに、そのような方々の中でだんだん高齢になられて、遠く東京の教会までバスに乗って、電車に乗って、あるいは自動車で通われるのが困難になられた頃に、「あ、こんなところにも教会がある」ということにやっと気づいてくださって、わたしたちの教会を訪ねてくださるようになる方々がおられます。先ほどご紹介しましたこの教会の会員のうちの15人の小金原にお住まいの方々のうちの何人かがそのような方々です。文句を言いたいわけではありません。しかし、もっと早く気づいてくださっていれば、と思わないこともありません。

私の口ぐせは、病院と学校と教会はできるだけ家から近いほうがよい、ということです。何かあればすぐに駆け込める距離。病院はまさにそのようなところにあると便利です。学校もなるべく近いと便利です。教会も同じです。何かあればすぐに駆けこめる距離。反対に、牧師がその方のお宅に駆けつけることができる距離。そのような教会に皆さんが属していることは、長い目で見ていただけば、悪いことではないと思うのです。

私が自分で言わないほうがよいかもしれませんが、「この町に教会がある」という言葉の中に、この町に牧師という仕事をしている人間が住んでいる、ということが少しくらいは含まれているということが意外に重要だったりします。残念ながら私自身はあまり人の役に立つような者ではないのですが、私以外の牧師たちは、けっこう役に立つ有用な人だったりします。

「牧師さんは日曜日以外は何をしているんですか」と尋ねられることが私も時々あります。そういうことを聞かれても、「ははは、ほんと、何してるんでしょうかねえ」と私はただ笑っているだけです。遊んでいると思われているのかもしれません。べつにどう思われようと構いません。私がふだん何をしているのかは今は申しません。バスに乗って、電車に乗って、自動車で会社に行くというような生活はしていませんので、ひまだと思われているかもしれません。しかし、そういう人間がこの町に住んでいることには意味があると思っていただけるような働きができるようになりたいと願っています。

教会がこの町にあり、牧師がこの町に住んでいることには、どのような意味があるのでしょうか。それは先ほどから申し上げていますとおり、何も無理して遠くの教会に通わなくても済むということです。つまりそれは、純粋に物理的な距離の問題です。徒歩や自転車で通える距離なら、バス代も、電車代も、ガソリン代も要りません。本質的でない話をしていると思われるかもしれませんが、意外に重要なことです。また、実を言いますと、非常に本質的な話をしているつもりです。

一つの点を申せば、昨年の東日本大震災の経験があります。皆さんの中にも、東京の会社や学校に通っておられる方々の中に、いわゆる帰宅困難者になられた方がおられました。距離が遠いということは、そのようなことにも関係してきます。

しかし、それだけではありません。宗教の本質的な点からも距離の問題を考えることができます。わたしたちの教会は「改革派教会」と言います。いわゆるプロテスタントの教会の中に属しています。プロテスタントの教会には無い考え方なのですが、キリスト教の中のカトリックと呼ばれる教会にはある考え方、他の多くの宗教にもある考え方は、いわゆる総本山のような場所があるということです。

カトリック教会のいわゆる総本山はローマのヴァティカンにあります。他の多くの宗教にもいわゆる総本山があります。しかし、わたしたちプロテスタントの教会にはありませんし、あってはならないと考えています。総本山がある宗教と、無い宗教との決定的な違いは距離の問題です。バスに乗って、電車に乗って、自動車に乗って、あるいは飛行機に乗って、そこに行かなければ本物の宗教に出会うことができないという考え方が、わたしたちの教会には無いのです。自分の家から近ければ近いほどよい。徒歩や自転車で通える、自分の生活圏と共にある宗教。日常生活の一部としての教会。それが、わたしたちの教会が理想とする宗教のあり方なのです。

だからこそです。わたしたちが「伝道」という言葉で呼んでいる、日本国内や世界各地にどんなに小さくても教会を作り、そこで日曜日ごとに礼拝を行い、他の曜日にもいろいろな集会を行っている理由は、いま私が申し上げた、わたしたちの教会が理想とする宗教のあり方とダイレクトに関係していることなのです。最も決定的な理由はわたしたちの教会には総本山が無いことです。もし総本山という言葉をあえて使えば、すべての教会が総本山なのです。松戸小金原教会が総本山です。会員50人の総本山などありえないと世間の人々からは思われてしまうかもしれません。しかし、わたしたちが毎週ここに集まることと、他の宗教の人々が総本山に集まることは、本質的に同じことなのです。

ここで最初に朗読しました聖書のみことばに注目していただきたいと思います。これは今から2千年前に書かれた手紙です。当時活躍したキリスト教の伝道者である使徒パウロが弟子のテモテに書き送った手紙です。このときテモテはエフェソと呼ばれる町に立てられた、おそらく当時はまだ小さな教会で働いていました。そのテモテにパウロが書いているのは、励ましの言葉です。「これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります」(6節)と書かれています。

実を言いますと、このときテモテはまだ若い人でした。青年と呼ばれる年齢だった可能性が高いです。それでパウロは次のように書いています。「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範になりなさい」(12節)。

これで分かるのは、使徒パウロが弟子のテモテと、テモテが働いているエフェソの教会に対して、どのような見方をしていたのかということです。

それは次のようなことです。あなたはたしかに年齢的に若いかもしれないが、だからといって、あなたの働きは不十分であるとか、あなたが働いている教会は未熟であるとか、そのようなことは無いし、人からそのように思われるようなことがあってはならないということです。ベテランの牧師が働いている教会は、いわゆる総本山で、新米の牧師が働いている教会は、周辺的な教会だ、というような考え方は、キリスト教の教えの中には無いし、あってはならない。

パウロはこのようにも書いています。「自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかり守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります」(16節)。

ここでとくに注目していただきたいのは、最後に書かれている「あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになる」というパウロの言葉です。これで何が分かるのかといいますと、テモテの年齢がどれほど若かろうと、エフェソの教会がどれほど小さかろうと、テモテが語る言葉によって、その町に住んでいる人々の「救い」が起こる、ということです。

しかし、テモテがその町の人々を救うのではありません。人を救うのは神です。テモテは、神御自身がその町の人々を救うために用いられる道具にすぎません。しかし、テモテの存在は神御自身が用いてくださる道具ではあるのです。道具なしに、テモテの存在なしに、神はその町の人々をお救いにならないのです。

松戸小金原教会が「地方の教会」であるというと、腹を立てる人たちがいるかもしれません。「何を言っているんだ、松戸は都会じゃないか」と言われてしまうかもしれない。「都会か地方か」という話の枠組みの中で見れば、わたしたちの教会は都会の教会だと言わなくてはならないのかもしれません。

しかし、わたしたちがどうしても意識するのは、お隣に東京という巨大な都市があり、そこにかなり年配のベテランの牧師がいる、かなり大きな規模の教会があり、そのような教会と比べれば、わたしたちは、小規模の、比較的若い牧師(私)がいる教会だということになる。この町に教会があるのに、前を通り過ぎられてしまう、中まで入っていただけないこともある、そういう教会の中に数えられてしまうことがあるので、その意味では「地方の教会」とみなされてしまう面があるかもしれません。

しかし、今日、皆さんにぜひご理解いただきたいと願っていることは、なんだか悪あがきのような言い方に聞こえてしまうかもしれませんが、初めから大規模の教会は存在しません、ということです。すべての教会が最初は小さな教会でした。また、もう一つ悪あがき。初めからベテランである牧師は存在しません。すべての牧師が最初は若い牧師でした。いま私は冗談のような話をしているわけですが、大真面目です。小さな教会、若い牧師が、長い年月の中で、次第次第に、少しずつ成長していくのです。最初は小さな働きしかできないのですが、次第次第に、少しずつ大きな働きができるようになるのです。

牧師だけの話をしてはいけません。教会が成長するということは、その教会に属する会員一人一人が成長していくことです。初めからベテランの教会員はいません。すべての人が最初は赤ちゃんでした。自分では何もできませんでした。何かができるようになるためには、社会的に大きな責任を果たせるようになるためには、多くの時間と努力が必要なのです。

ですから、今日、私から皆さんにお願いしたいと思っていることは、せっかく皆さんの家の近くにある、スープの冷めない距離にある、今はまだ小さくて若いこの教会が、大きく熟練した教会へと成長していくことのために祈っていただきたいし、まだこの教会の仲間に加わっておられない方々にはぜひこの教会の仲間に加わっていただきたいということです。皆さんに加わっていただくことがこの教会の成長です。

この町から教会が無くなってしまえば、この町に住んでいる方々がもしキリスト教の教えを学びたいと願われたときには、また繰り返して言いますが、バスに乗って、電車に乗って、自動車に乗って、遠くの町の教会まで通わなくてはならなくなります。元気なうちは、それもできる。しかし、わたしたちは、いつまでも元気なわけではありません。

松戸小金原教会の灯が消えないように、皆さんの祈りが必要です。もっと多くの仲間をわたしたちは求めています。どうか皆さん、わたしたちのためにお祈りください。ぜひ教会に来てください。

(2012年10月21日、松戸小金原教会 秋の特別集会)