2022年12月25日日曜日

キリストの降誕(2022年12月25日 降誕節礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

もろびとこぞりて
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「キリストの降誕」 

ルカによる福音書2章1~12節

関口 康 

 「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」 

 (2022年12月25日 降誕節礼拝)

2022年12月24日土曜日

クリスマスの意味(2022年12月24日 イヴ礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


「クリスマスの意味」

マタイによる福音書2章1~12節

関口 康

「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して御子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」

クリスマスおめでとうございます。クリスマスはわたしたちの救い主イエス・キリストのご降誕をお祝いする日です。

イエスさまがお生まれになった場所はユダヤのベツレヘムです。ベツレヘムは現在のイスラエル国の首都エルサレムから8キロ南に下ったところにあります。

イエスさまがお生まれになった年号は正確には分かりません。ぴったり「2022年前」ではないとされます。現在の歴史家は「紀元前7年から4年までの間」と推定しています。

今夜の聖書の箇所に登場するのは、東の国の占星術の学者たちです。その国はおそらくバビロニア(現在のイラク南部)です。

その人たちが、聖書を調べた結果としてではなく、自分たち自身が取り組んできた「占星術」という方法で、ユダヤのどこかに救い主がお生まれになるに違いないと確信し、バビロニアからエルサレムまで、そしてイエスさまがお生まれになったベツレヘムまで砂漠の中を旅してきた、というのが今夜の聖書の箇所の物語です。

バビロニアからエルサレムまでは1600キロ。1600キロは青森市から山口県下関市まで。新幹線でも大変、ラクダならもっと大変な旅です。

占星術の学者たちは、イエスさまに黄金、乳香、没薬を贈りました。「黄金」は王への贈り物(詩編72編15節)、「乳香」は古代世界で香水にするか、燃やして良い香りを得るためかに用いられました。「没薬」は、亡くなった人に塗る薬。

今夜の聖書の箇所の物語で分かるのは、イエスさまを最初に拝みに来た東の国の学者たちは、聖書を一生懸命勉強してきたわけではなく、聖書の神さまを信じていたわけでもなく、むしろそういうこととは全く無関係に生きて来た人たちだった、ということです。

しかし、それでも片道1600キロの砂漠の旅に出かけようとこの人たちが考えたのは、実際に現地に行ってみなければ事実かどうか分かるわけがないことを、実際に行ってみて自分の目で確かめなければならないと考えた、勇気と冒険心を持つ人たちだったからです。

わたしたちの人生も、途中、何度となく大きな壁にぶつかることがあります。この先、私は、私たちは、どうなるか分からなくて不安になります。

そのときわたしたちに必要なのは、勇気と冒険心です。イエスさまを訪ねてやってきたバビロニアの学者たちの勇気と冒険心からわたしたちが学べることは多いです。

これから何か大きな壁にぶつかったとき、今夜の聖書の箇所を思い出してください。そして、何度も聖書を読んでみてください。

教会は、そのようにして生きて来た人々の集まりです。初めから信仰を持っていたから教会に来たのではなく、悩んで苦しんで教会にたどり着いたのです。

(2022年12月24日 クリスマスイヴ音楽礼拝)

2022年12月11日日曜日

信仰と忍耐(2022年12月11日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 231番 久しく待ちにし
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん


「信仰と忍耐」
ルカによる福音書1章5~25節

関口 康

「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」

今日は待降節第3主日です。4本のロウソクすべてが点るのがクリスマス礼拝、というのがだいたい例年の流れですが、今年のクリスマス礼拝は来週ではなく再来週です。そういう年もあります。

今日の朗読箇所はルカによる福音書1章5節から25節です。ここに描かれているのは洗礼者ヨハネの誕生が天使ガブリエルによって予告されたときのことです。

洗礼者ヨハネは、多くの人に洗礼を授けた人です。洗礼そのものに重いとか軽いとかの差はないと言わなくてはなりません。しかし、ヨハネが世界と教会の歴史において果たした役割という観点からいえば、イエス・キリストに洗礼を授けた人であることは特筆すべきです。

しかも、ヨハネの役割は、多くの人々をイエス・キリストへの信仰へと導く道備えをすることにありました。その意味でイエス・キリストの先駆者としての働きがヨハネに与えられました。

新約聖書に4つある「福音書」の中で特にルカによる福音書は、まずヨハネの誕生を詳しく描いたうえでイエス・キリストの誕生を詳しく描くことによって2人の関係の深さを強調しています。

洗礼者ヨハネとイエス・キリストの共通点は同じ時代に生きたことです。「ユダヤの王ヘロデの時代」(5節a)です。マタイによる福音書も「ヘロデ王の時代」(2章1節)と記しています。

このヘロデは「ヘロデ大王」です。ユダヤ人でしたが、ローマ皇帝(ユリウス・カエサルの後継者の初代皇帝アウグストゥス)と友好関係になることで、パレスチナ全土の支配者になりました。

ヘロデの治世は紀元前37年から紀元4年までの41年間です。エルサレム神殿の改築に取り組んだ人ですが、猜疑心の強さから多くの人を殺害したことでも知られる悪名高い王です。

「アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった」(5節b)。このザカリア(ヘブライ語でゼカリヤ)とエリサベトがヨハネの両親です。

エリサベトが「アロン家の娘の一人」であるという説明は祭司の家庭で生まれ育った人であることを意味します。ユダヤ教の律法と伝統によれば、祭司である男性は必ず祭司家庭出身の女性と結婚しなければならなかったわけではありません。

しかし、この夫婦は「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった」(6節)と言われるほど、当時のユダヤ教の考え方に照らして理想的な夫婦とされました。

「祭司」がどのような働きを担う人たちだったのかが、8節以下に記されています。それは要するにエルサレム神殿の礼拝祭儀にかかわる様々な働きです。ただし「祭司」と「祭司長」は区別されます。

「祭司長」はエルサレムに住まなくてはならず、日常的に神殿で働いていました。しかし「祭司」は、どこに住んでもいいし、ふだんは別の職業に就いていても構いませんでした。

「祭司」は24組に分けられ、年2回、1週間、安息日から安息日まで、エルサレム神殿で奉仕しました。奉仕の内容はくじで決めました。特に人気があった仕事が「主の聖所で香をたくこと」(9節)でした。なぜ人気があったのかといえば「祭司」の人数が非常に多かったためで、人生で1度以上この奉仕当番がめぐって来ることはありえなかったからです。ザカリアはその当たりくじを引きました。

しかし、ザカリアと妻エリサベトは心に重荷を負っていました。理由は、子どもが与えられないことでした。あくまで当時の話ですが、子どもがいないというだけで中傷誹謗を受けました。子どもが多く生まれること、特に男子が生まれることが神の特別な祝福とみなされました。反対に、子どもがいないことは神の罰だと考えられました。そういう社会の中で、この夫婦は苦しい立場に置かれていました。

ところが、そのザカリアとエリサベトの身に大きな出来事が起こりました。ザカリアが当たりくじを引いてエルサレム神殿で香をたいていた最中に、神秘的な体験をしました。

主の天使ガブリエルがザカリアに「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」(13節)と言いました。

日本語訳を読むだけでは分からないことですが、「喜び」と訳されているギリシア語は特別な意味を持っている、と解説されていました。世界の終末において世界と人類が完成するとき、神と我々人間が共に分かち合う喜びです。ヨハネの誕生にそれほどの大きな意味があると天使が教えてくれました。

天使が続けます。「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」(15~16節)。当時のユダヤ教で「ぶどう酒と強い酒」はイスラエルが神から離れていることの象徴でした。それを絶対に(ウー・メー)飲まないことは、神の前で強い誓いを立てることを表しました。

そして、「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に決めさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(17節)と主の天使ガブリエルは言いました。

この「エリヤ」は、紀元前9世紀の北イスラエル王国で活躍した預言者です。なぜ「エリヤ」の名が出てくるのかと言えば、エリヤは真の神に背を向けて邪神バアルを神とする道へと走ったユダヤ人を真の信仰へと戻した預言者だからです(列王記上18章参照)。

エリヤの働きの特質は、民の進む方向を180度、正反対の方向へと向けかえることでした。それが「悔い改め」すなわち「回心」の意味です。このエリヤの働きをこれから生まれるヨハネが体現すると、父ザカリアに天使ガブリエルが告げました。

驚くべき知らせに、ザカリアは戸惑い、疑う思いさえ抱き、自分も妻ももう老人なので今さら子どもが生まれることはありえないと考え、そのようにガブリエルに言ったところ、ヨハネが生まれるまで口をきけなくされてしまいました。

妻エリサベトは自分が身ごもったとき、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(24節)と言いました。

「よい知らせ」(19節)の意味は「福音」です。これはローマ皇帝を賛美するために用いられた言葉でした。それが全く異なる意味で用いられています。真の神はローマ皇帝ではなくイエス・キリストであり、イエス・キリストの道備えをするのが洗礼者ヨハネです。

そのことを主の天使ガブリエルが告げました。ローマ皇帝とヘロデ大王の二重支配のもとで苦境に陥り、忍耐している人々に真の解放、真の救いをもたらすことを、神が天使を通して約束してくださいました。

だれもがみなこの夫婦のようになれるわけではないかもしれません。彼らは子どもが与えられないことで中傷誹謗を受け、苦しみました。その彼らに神が報いてくださいました。

苦しみを忍び、信仰をもって歩む人々を、主は決してお見捨てになりません。そう信じて生きようではありませんか。

(2022年12月11日 聖日礼拝)

2022年12月4日日曜日

主の恵みの福音(2022年12月4日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 231番 久しく待ちにし
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます


「主の恵みの福音」

ルカによる福音書4章14~30節

関口 康

「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」

今日の箇所に記されているのはイエスさまの宣教活動初期に起こった出来事です。「イエスは〝霊〟の力に満ちてガリラヤに帰られた」(14節a)とあります。このように言われる場合の「ガリラヤ」は広い意味です。パレスチナの北部一帯を指していると言えますし、「ガリラヤ」という言葉には「周辺」すなわち「地方」を意味すると説明されます。

ですから「その評判が周りの地方一帯に広まった」(14節b)とあるのは、ガリラヤという名前の町があって、そこから近隣地域へ広まったという意味ではありません。「イエスはお育ちになったナザレに来て」(16節)も、ガリラヤという町からナザレという村へ移動されたという意味ではありません。ガリラヤ地方の中にナザレという村があり、そこへ行かれました。

「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」(15節)とあるのも、ガリラヤ地方にユダヤ教の会堂(シナゴーグ)がいくつかあり、それらを巡回されて聖書の教えをお語りになることにおいて、みんなから尊敬される存在であられたということです。

しかし、それではなぜ、イエスさまがガリラヤ地方を最初の伝道拠点になさったのか、その理由は何でしょうか。考えられる理由が2つあります。

ひとつは、「周辺」や「地方」や「田舎」と言える地域から伝道することで、首都エルサレムや他の大都市のようなところで起こるのとは異なる、人と社会をめぐる様々な問題があるので、その問題にイエスさまが取り組もうとされたのではないかということです。あえてタイトルをつければ、イエスさまが「田舎伝道」に意義を見出された可能性です。

しかし、もうひとつ考えられる理由があります。ガリラヤ地方がイエスさまが幼少期を過ごされた故郷だったからです。つまり「郷里伝道」です。自分の親、兄弟、親戚、子どもの頃からの友人たち、同じ方言を使う人たち。その人たちに伝道したいとイエスさまが願われた可能性です。

どちらの可能性も否定できません。しかし、今日開いているルカによる福音書を読む限りにおいては、どちらかというと後者「郷里伝道」をイエスさまが願われた可能性が前面に出ています。たとえば、16節に「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあります。「お育ちになったナザレ」という言葉でナザレがイエスさまの故郷であることが強調されています。

「いつものとおり」は「慣例に従って」とも訳せる言葉ですが、このときの状況を鑑みると、イエスさまが物心つく頃から家族と共に通ったシナゴーグの昔ながらのあり方を踏襲してというニュアンスを読み取れます。イエスさまは宣教活動を開始されたのが30歳。30年程度では教会はやり方を変えません。50年でも100年でも、同じ讃美歌を歌い、同じ聖書を読み、同じ順序の礼拝を行います。

ナザレの会堂でイエスさまが聖書朗読のためにお立ちになり、「預言者イザヤの巻物が渡され」、お開きになりました(17節)。当時の会堂(シナゴーグ)の礼拝は、信仰告白(シェマー)、祈り、律法と預言者の各朗読、そして説教もしくは自由なお話で構成されていました。

すべてのユダヤ人男性は、律法の一部の朗読後、預言者の一部を朗読する権利がありました。律法の朗読は連続的な箇所が朗読されましたが、預言者は朗読者が自分で朗読箇所を選ぶならわしでした。つまり、このときイエスさまが開かれたイザヤ書は、ご自身がお選びになった箇所だということです。

そして、その箇所をイエスさまがご自身で声を出して朗読されました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。

ただし、これがイザヤ書のどこかを探すのは難しいです。ひとつの箇所ではなく、いくつかの箇所をお読みになったからです。イザヤ書61章1節、58章6節、61章2節です。そしてイエスさまは巻物を巻いて係の人に返し、席に座られました。臨場感がある描写です。

イエスさまご自身が意図的にこのようにお読みになったのか、それともルカが要約しているのかは、どちらの可能性もあります。しかし、イエスさまが強調しようとされた核心部分が何であるかは明白です。それは「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた」という点です。

「貧しい」の他に「捕らわれている人」、「目の見えない人」「圧迫されている人」についても語られています。しかし、それらの人々も「貧しさ」と無関係とは言い切れませんし、「解放」と「視力」と「自由」を手に入れるのはその人々です。それは「心の貧しさ」(マタイ5章3節)でも物質的・金銭的な貧しさでもあります。「貧しさ」の中で傷つき、苦しみ、絶望している人々が解放され、自由を与えられることが「救い」であり、それが「主の恵みの年」を告げることだとイザヤ書が記しています。

この「主の恵みの年」は旧約聖書レビ記25章に規定された「ヨベルの年」を指します。ユダヤ人が奴隷の地エジプトから解放されたことを記念する50年ごとのお祝いの年。「7年×7=49年」の翌年。

そして、イエスさまは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と言われました。すると、そこにいた人々はイエスさまのことを「ほめ」、イエスさまの言葉に「驚き」ました。しかし、彼らの反応はそれだけでした。それ以上は何もしませんでしたし、それどころか、「この人はヨセフの子ではないか」と言い出しました。

この反応はイエスさまに対する疑問や反発です。大工の子ではないか、聖書の専門家ではないではないか。そんな人が「この聖書の言葉が今日実現した」とか言っている。実現できる力をお前ごときが持っているはずがない。お前のことは赤ん坊の頃から知っている、幼馴染み、同郷のよしみだと思っていたのに、我々に上から目線で指図するのはやめてくれと身構え始めている様子がうかがえます。

そのことをお察しになったイエスさまがおっしゃった言葉が「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)です。「自分の故郷」で神のみことばを語る人が嫉妬や嘲笑を受けやすい立場に置かれるのは昔も今も変わりません。横並びの関係だと思っていた相手に前に立たれると困るのです。

今日の箇所から学べることは「伝道の難しさ」かもしれません。イエスさまにとっても「郷里伝道」は難しいことでした。故郷の人々に殺されそうになりました。最も近い関係の相手にこそ、最も伝道が難しい。それはわたしたちも繰り返し体験してきたことです。

何が伝道の障害なのかをよく考えなくてはなりません。わたしたち自身の心が伝道を妨害している可能性があります。みことばを語る人に対する嫉妬ややっかみのような感情が心の中に渦巻いていると、素直に聞くことができないかもしれません。

しかし、「だれが語るか」よりも、「何が語られ、何を信じるか」が大事です。聖書の御言葉がおのずから働くその力を信じることが大事です。わたしたちはだれから算数を学んだでしょうか。小学校時代の先生の名前を思い出せなくても、算数ができればそれでいいのです。それと同じです。

(2022年12月4日 聖日礼拝)

2022年11月20日日曜日

十字架の愛(2022年11月20日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 386番 人は畑をよく耕し
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん




 「十字架の愛」

ルカによる福音書23章32~43節

関口 康

「するとイエスは『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」

今日の聖書の箇所は、昭島教会の週報の表紙イラストに長年描かれている場面です。いつごろから描かれるようになったかを調べました。1967年1月29日号(第792号)からだと分かりました。55年前です。石川献之助先生は49歳。昭島教会が「福島町」から現在の「中神町」に移転した直後です。

同年2月11日(日)に新会堂の献堂式が行われました。1月29日号の週報に「新会堂の十字架は、約10メートルの鉄塔を建設することになりました。献堂式までに完成の予定です」と記されています。3本の十字架が昭島教会の敷地に建てられました。なぜ3本なのかが今日の聖書の箇所で分かります。

まず「2人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」(32節)と記されています。「犯罪人」(κακουργοι)は「強盗」とも訳せますが「熱心党(ゼロテ)」とも訳せます。

「熱心党」はユダヤ教の中の熱心な人たちで、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちが政治的に解放されることを願っていました。もしその意味だとすれば、政治犯だった可能性があります。

彼らの名前は記されていません。古いラテン語の写本の中に、この2人に「ヨアタス」(Joathas)と「マガトラス」(Maggatras)という名前を付けているのがあります。後から考えられたものでしょう。

33節でルカが、他の福音書は「ゴルゴタ」と呼んでいるこの場所をその名前で呼んでいないことが分かります。「されこうべ」は頭蓋骨です。処刑場の形状が頭蓋骨のようだったことから名づけられたと考えられています。別の説として、創世記の「ノアの洪水」の後、ノアがアダムの頭蓋骨をその場所に埋めたことが名称の由来であるという古い伝説がありますが、信ぴょう性は低いです。

2人の犯罪人のうちの 1 人はイエスの十字架の右側の十字架に、もう 1 人は左側の十字架につけられました。マタイとマルコは、十字架にはりつけられる前のイエスさまに「没薬を混ぜたぶどう酒」が差し出されたが、イエスさまが拒否なさったことを記していますが、ルカは記していません。

34節の亀甲括弧が気になる方がおられるかもしれません。この括弧の意味は、新共同訳聖書の底本(聖書協会世界連盟「ギリシア語新約聖書」修正第3版)の立場で、当該箇所が「後代の加筆」の可能性があることを示しています。重要な写本(p75 vid B D* W 0124 1241 579 pc a sa Cyril etc.)で、この節が欠落しています。

しかし、私が最も重んじている註解書(J. T. Nielsen, Het Evangelie naar Lucas II, PNT, 1983)は、この節を除外すべきでないと記しています。キリスト教会の長い歴史と伝統において、イエスさまが十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、無知と無自覚ゆえに罪を犯した人々のために祈られたことが疑われたことはありません。

35節以降でイエスさまは3つの方向の人々から嘲笑をお受けになります。第1グループは最高法院(サンヘドリン)の議員たちです。

ルカは「民衆は立って見つめていた」(35節)とあえて記し、民衆が見守っていただけであることを強調しています。声を出して嘲笑したのは最高法院の議員たちだけで、他の人々はそこにいるだけで何もしていません。まるで民衆は中立の立場にいたかのようです。しかし、彼らは野次馬です。イエスさまを嘲笑する人々の側に立っています。

第2グループはローマの兵士たちです。彼らがイエスに飲ませようとした「酸いぶどう酒」(36節)の意味は「酢」です。アルコール分がすっかり抜けて酸っぱくなっています。安く買えるので、兵士や一般の人々には飲まれていました (Strack-Billerbeck II, 264)。

それをローマの兵士たちがイエスさまに飲ませようとしたのは侮辱です。イエスさまを「ユダヤ人の王」だと言いながら、「王」に安物のワインを提供することで侮辱しています。旧約聖書の詩編69編22節に「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」と記されています。苦しんでいる人に「酢」を飲ませるのは敵対的な嘲笑行為です。

そしてローマの兵士たちは、イエスさまの頭の上に掲げられた「これはユダヤ人の王」とギリシア語で書かれた札を見上げ、その字を読みながら、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)と嘲笑し、イエスさまに屈辱感を与えようとします。最もひどい場面です。

第3の嘲笑者はグループではなく個人です。イエスさまの隣りの十字架につけられていた犯罪人の 1 人までイエスさまを罵りました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)と言いました。「自分自身すら救えない。それどころか、今まさに十字架にはりつけられて、苦しみと呪いの中にいる。そのことがまさにお前がメシアでないことの証拠だ」と言いたかったのでしょう。

イエスさまを嘲笑した3つの方向のグループないし個人の共通点があるかもしれないと、私なりに考えました。最高法院の議員たちはローマ帝国の傀儡。ローマの兵士たちはローマ皇帝の奴隷。十字架の犯罪人は磔(はりつけ)にされて身動きがとれない。

3者とも圧倒的な力にねじ伏せられている人々です。その人々なりに抵抗を試みたことがあったかもしれませんが、抵抗に失敗しました。失敗者たちです。その人々がイエスさまを嘲笑しました。「我々ができなかったことをやれるならやってみろ。できないだろうけど」と言っているように思えます。

しかし、もうひとりの犯罪人はイエスさまを嘲笑した犯罪人をたしなめました。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40~41節)と言いました。その人は、自分の罪を認め、後悔や反省、そして悔い改める心を持つに至った人だと言えるでしょう。

そして、その人が続けた言葉は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)でした。この「わたしを思い出してください」という言葉は多くのユダヤ人が祈りの中で唱え、自分の墓に刻んできた言葉です。その言葉を、この人はイエスさまに言いました。

するとイエスさまは、その人に次のようにお答えになりました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。

これは、イエスさまがその人の罪を赦し、全き救いの中に受け入れ、イエスさまと共に天国に連れて行ってくださる約束です。「今日」は息を引き取る瞬間を指していますので、今すぐ、ただちに、です。イエスさまは、その人と一緒に楽園のパレードの場を飾ることを約束してくださいました。

しかし、それでは、イエスさまを罵ったもうひとりの犯罪人は、どうなるのでしょうか。最高法院の議員たちは、一般民衆は、ローマの兵士たちは、どうなるのでしょうか。「わたしのことを思い出してください」とイエスさまにお願いした人だけ天国に行くことができて、あとはみんな地獄でしょうか。

そうではないことを教えるのが今日の箇所の趣旨です。悔い改めるに越したことはないでしょう。しかし、イエスさまは御自分を罵り、嘲笑した人々のためにも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(34節)と祈ってくださいました。イエスさまはその人々のためにも死んでくださり、その人々を救ってくださいました。イエスさまの十字架の愛は広くて深いです。

(2022年11月20日 聖日礼拝)


2022年11月13日日曜日

復活の意味(2022年11月13日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 518番 主にありてぞ
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん





「復活の意味」

ルカによる福音書20章27~40節

関口 康

「すべての人は神によって生きている」

今日の聖書の箇所は、ルカによる福音書20章27節から40節です。この箇所の解説に入る前に申し上げたいのは2週続けた特別礼拝のことです。

先々週「永眠者記念礼拝」を行い、また先週「昭島教会創立70周年記念礼拝」を行いました。出席者は40名と60名。延べで100名。平均すれば50名。今日から通常礼拝です。

2つの特別礼拝に共通しているテーマがあります。しかもそれは70年という長さの歴史を経て来たゆえに共通しはじめたテーマです。「教会の歴史を祝うこと」と「信仰をもって召された先達がたを記念すること」は、全く同じではないとしても、かなり重なってきたということです。

先週「昭島教会創立70周年記念礼拝」で井上とも子先生が宣教で、わたしたちが毎週日曜日の礼拝のたびに唱える信仰告白としての使徒信条に出てくる言葉について解説してくださいました。それは「われは…聖なる公同の教会…を信ず」についてです。特に強く教えてくださったのは、父なる神とイエス・キリストを信じることと等しい重さで「教会」をわたしたちの信仰の対象と受け入れることの大切さです。

わたしたちにとっては、なかなか受け入れにくい教えです。なぜ受け入れにくいかといえば、教会は「人の集まり」だからです。使徒信条の「教会を信じる」は、教会の人々を神と等しい存在として信仰しなければならないという意味なのかと疑問を持つ方々が必ずおられるでしょう。

人間につまずいたから、人間に傷つけられたから、人間に嫌気がさしたから、教会に来ましたという方々がおられます。しかし、教会に来て「教会を信じなさい」と言われるならば、結局は「人間を信じなさい」と言われているのと同じように感じます。

実際に、教会で傷つけられたことがあります。わたしはこれからどうすればいいのでしょうかと絶望の声を聞くことがよくあります。私も理解できるし、共感できます。しかし、そういう方々のために「教会」があります、ぜひ「教会」に来てくださいと申し上げたくて仕方がありません。

今日の箇所にイエスさまとサドカイ派の人たちのやりとりが出てきます。新約聖書に描かれた西暦1世紀のユダヤ教においてサドカイ派はファリサイ派と並ぶ2大勢力のひとつでした。この2つのグループは対立関係にありました。

両者の違いはいろんな点に現われました。そのひとつが「死者の復活」の教えに対する立場の違いでした。ファリサイ派は「死者の復活」を信じていましたが、サドカイ派は信じていませんでした。ファリサイ派が「死者の復活」を信じていたということは、「死者の復活」を信じる宗教はキリスト教だけではなくユダヤ教もそうであることを意味します。しかし、今日の箇所に登場するのは「死者の復活」を信じないほうのユダヤ教のサドカイ派の人々です。

その人々がイエスさまのところに来て質問しているのは、旧約聖書の律法の解釈についてです。しかし、これは明らかに、イエスさまの教えをあざわらうことを最初から意図した質問であると考える解説者がいます。私も同意します。全く可能性がないとは言い切れないかもしれないけれどもいかにも極端な例を持ち出してイエスさまに突きつけて、どうだ、あなたの教えからその例の答えを見出そうとしても無理だろう、矛盾があるだろうとイエスさまに言うために不遜な態度で寄ってきた人たちだということです。

「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」というルールは、申命記25章5節に出てきます。古代社会の家族観を反映しているとしか言いようがありません。しかしサドカイ派の人たちが持ち出したのは、いちばん上の兄から順に7人の兄弟と結婚することになり、なおかつどの夫との子どもも生まれなかった、つまりその家族の跡継ぎをもうけなかった女性は、復活したときだれの妻なのかという問題です。

先ほども言いましたが、これはイエスさまをからかうために言っていることなので、真面目ではありません、ふざけています。子どもが生まれるか生まれないか、だれがだれと結婚するかというような問題はきわめてデリケートで深刻な内容を持っているのであって、ふざけてうんぬんしてよいようなことではありえません。

イエスさまもそういう手合いは相手にしなければいいのですが、そうではないのがイエスさまらしさです。きちんとお答えになりました。イエスさまのお答えは次の通りです。

「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(34~36節)。

イエスさまがおっしゃっているのは、次のような意味です。

(1)結婚制度は地上の世界だけのものなので、亡くなった人はその制度から解放されている。

(2)なんぴとも、亡くなった後で、地上の世界以外のところで別の人と結婚することはない。

(3)なんぴとも、亡くなった後で、跡継ぎをもうけることはありえない。

私はイエスさまのこのご説明が面白いと思います。ユーモアすら感じます。サドカイ派は下品な態度でからかいに来ているのに対し、イエスさまが誠実さとユーモアがある姿勢で反論されている気がします。結婚制度が地上の世界だけのものだという点は、神の国(天国)においては、男女の関係は兄弟姉妹の関係のようになる、という教えとおそらく関係しています。

なぜ亡くなった後で跡継ぎをもうけないのかといえば、天国に入った人はもう二度と死なないからです。死ぬのは1回きりです。死が繰り返されることはありません。跡継ぎが必要なのは、人が死ぬからです。もう死なないのであれば、跡継ぎは要りません。死んだあとに恋愛したり、失恋したりすることもありません。

そのことと関係してくるのが、イエスさまが28節でおっしゃっている言葉です。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」とおっしゃっています。

なぜ神は人を復活させるのかといえば、それが神の本質だからです。神は「生きている者の神」(28節)なので、死んでしまった人と神はかかわることができなくなるので、それでは困るので、神は死んだ人を復活させて、永遠に関係し続けてくださる、ということです。

人間の視点からいえば、特に熱心な信仰の持ち主は、神に仕え、神のために奉仕しつくして、神のために死ぬのが本望だという考えになりがちですが、神の視点からいえば、神は人に生きてもらいたいのです、死んでもらいたくないのです。死んでもよみがえらせてくださるのです。

わたしたちの悩みの多くは、最も身近な人に関するものです。恋人、夫婦、親子、家族、親戚。イエスさまの教えは、わたしたちが悩んで落ち込んでいるときに明るい光を与えてくださいます。

(2022年11月13日 聖日礼拝)

2022年10月30日日曜日

御国を待ち望む(2022年10月30日 永眠者記念礼拝 宗教改革記念礼拝)


日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

旧讃美歌 320番 主よ、みもとに
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

関口 康

「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」

今日は「永眠者記念礼拝」にお集まりいただき、ありがとうございます。特に遠方からご出席くださった方々に特別な感謝を申し上げます。

時々お尋ねがあります。「キリスト教には仏教で毎年行われる何回忌などの法事はないのか」というご質問です。私がいつもお答えするのは、「しなければならない」とか「してはいけない」というルールはなく、すべて自由ですということです。「してもいい」し、「しなくてもいい」です。

そういう答え方をしますと曖昧で分かりにくいと思われて、「キリスト教は難しい」という反応が返って来ます。ご質問の意図は理解しています。面倒な理屈ではありません。だいたいその線を守れば大丈夫と安心できる相場ないし基準をお知りになりたいはずです。

しかし、キリスト教の立場で、どうしても譲ることができないことがあります。教会は経済的・社会的に弱い立場にある方々の生活状況に配慮しなくてはなりません。ご家庭にご負担がかかるようなことを「これは教会のルールだから」というような仕方で押し付けることは、してはいけませんし、したくありません。イエス・キリストは弱い立場の人々の側に立ちます。わたしたち教会はイエス・キリストの弟子です。

しかし、ご遺族にとっては何もしないのは寂しいことですし、不安なことでもあるでしょう。だからこそ教会は合同記念会を毎年行います。全世界の教会で行われます。11月1日が「諸聖徒の日」。「万聖節」とも呼ばれます。西暦4世紀以来の伝統です。

前日10月31日が「ハロウィン」です。またハロウィンと同じ日が「宗教改革記念日」です。すべては関係しています。なぜ宗教改革記念日が諸聖徒の日の前日なのか。ひとつは宗教改革の意図が当時のカトリック教会の死と葬儀についての理解に対する批判だったから。もうひとつは、諸聖徒の日に教会に人が大勢集まるから、です。だからこそマルティン・ルターは諸聖徒の日の前日に教会の前に「95か条の提題」を貼りだしました。しかし、今日は宗教改革について詳しくお話しするいとまはありません。

今日申し上げたいのは、キリスト教の歴史が二千年以上続いているということは、わたしたちと同じこの信仰を抱いて召された多くの先達がたの歩みなしにはありえない、ということです。その多くの方々の中に、今日わたしたちが思い返す昭島教会の歴史的歩みをお支えくださった方々とそのご関係の方々がおられます。

本来でしたら、おひとりおひとりの生前の思い出を語らう場であるほうが望ましいことです。しかし、教会がなすべきこと、教会にできることは、今日思い返すおひとりおひとりが、抱いて召されたその「わたしたちと同じこの信仰」とは具体的に何なのかを確かめ合うことです。

少し言いにくいことを申し上げます。今日お集まりの皆さまの中に、正直に言えば教会のことがあまりお好きでないとお感じになっている方がおられるかもしれません。お父さんお母さんご兄弟が、あまりにも熱心に教会に通い、家に帰れば聖書の話、教会の話ばかりなのがつまらないと反発なさった方がおられるかもしれません。

今日は私の話をする日ではないので個人的なことを申し上げるのはなるべく控えます。しかし、ほんの少しだけお許しいただけば、私も10日ほど前に永眠者の遺族になりました。それで先週の日曜日は体調を崩してしまいました。申し訳ありません。私の母も兄も、父の葬儀後、しばらく具合が悪かったようです。家族を失うと何が起こるのかを、具体的に体験できました。皆さまが体験なさったこと、皆さまのお気持ちに少しでも近づくことができたように思います。

10日前に亡くなったのは父で、母は存命しています。私の両親もきわめて熱心な部類の教会員でした。両親とも公務員で、私も兄もいわゆる「鍵っ子」で、平日は誰も家にいなくて寂しいのに、日曜日は朝から晩まで「教会、教会」で、家族で旅行に行ったり遊園地に行ったりしたことがありませんでした。

それでも今の私が教会で牧師の仕事をしているのは、私が両親と同じくらいに熱心だったからではありません。むしろ逆の気持ちでした。両親がそこまで熱心になるキリスト教とは、教会とは、いったい何なのかを知りたくなりました。それを知るためには教会内部の奥深くまで入ってみなければ分からないだろうと思ったので牧師になることにしました。

しかし、私のような変わった考え方をする人ばかりでないこともよく分かっているつもりです。家に帰ると教会の話ばかりする親とは付き合いにくいとお思いになる方は少なくないでしょう。私が皆さんのお父さんお母さんおひとりおひとりにお尋ねしたわけではありませんが、だいたい分かります。みなさんに伝えたかったことがおありだったのです。

今日の聖書箇所に「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」(22~23節)と記されています。ほとんど同じ言葉がその後でも繰り返されていて、「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」(29節)と記されています。そして、「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」(30節)とあります。

イエスさまがおっしゃっているのは、あなたがたには食べ物も飲み物も着る服も不要であるということではありません。正反対です。すべて必要であることを「父」なる神がご存じであるとおっしゃっています。

しかし、強いて言えば、食べ物も飲み物も着る服も、それを得たら終わりではないでしょう。食べて飲んで、暑さ寒さをしのげる服を着て、それでどうするかが大切でしょう。衣食住は目的というより手段でしょう。目的でなくて手段であるから大事ではないという意味ではありません。しかし、どこへ行くか、何をするかがはっきりしていると衣食住の意味が変わってくるでしょう。イエスさまがおっしゃっているのは、そういうことです。

同じところをぐるぐる回ることが悪いわけではありません。散歩することもジョギングも大事です。しかし、ひとつの目的や目標をもって、ゴールを目指してまっすぐ進むことも大事です。目標が定まれば、そこから逆算して、その目標にたどり着くまでの準備として何をしなければならないかが分かるので、早く目標を決めなさい、というのは、受験を控えた受験生たちに学校や親が口を酸っぱくして言うことです。

イエスさまが弟子たちに教えた目標は「ただ、神の国を求めなさい」(31節)ということです。この話は今しにくくなりました。カルト宗教のようだ、と思われてしまう可能性があります。

しかし、今日お集まりの皆様にはお分かりいただけるでしょう。今日この場所は、皆様の大切なご家族が熱心に作り上げた昭島教会です。「神の国」すなわち「御国」とは、神が支配しておられる全領域を指します。亡くなってからしか行けないところではなく、「教会」も「神の国」です。ここにしかないもの、他で味わうことができない平安と祝福が「教会」にあります。これからもぜひ教会においでください。

(2022年10月30日 永眠者記念礼拝 宗教改革記念礼拝)

2022年10月16日日曜日

山上の説教(2022年10月16日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 504 主よみ手もて
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「山上の説教」

マタイによる福音書5章1~12節

関口 康

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

今日の聖書の箇所はマタイによる福音書5章1節から12節までです。イエスさまが山の上から説教されたという意味で「山上の説教」と呼ばれてきた箇所の最初の部分です。

「山上の説教」は5章から7章まであります。一度にすべてをお話しすることはできません。今日取り上げますのは新共同訳聖書が「幸い」という小見出しを付けている段落だけです。

しかし、この今日取り上げる「幸い」という部分こそが、5章から7章まで続く「山上の説教」全体の焦点です。法律でいえば憲法に当たる、最も基本的なことが語られている部分です。

「何々な人々は幸いである」と9つ出てきますが、最後の11節と12節は10節の「義のために迫害される人々」に含まれると考えることができるので、この箇所が「8つの幸い」や「八福(はちふく)」などと呼ばれることがあります。カトリック教会は「真福八端(しんぷくはったん)」と言うそうです。

また、8つの幸いが無秩序に並んでいるのではなく、3つのグループに分けることができます。第1グループは、3節から6節までの4つの幸いです。第2グループは、7節から10節までの4つの幸いです。そして第3グループは11節と12節ですが、先ほど申し上げたことから言えば第2グループに含めるほうがよいとも考えられますが、11節と12節に出てくるのは「わたし(イエスさま)のために迫害される人々」に限定されていますので、別グループのほうがよいとも考えられます。

第1グループと第2グループの差は、わたしたちの常識的な感覚や判断に逆らっているという意味で、逆説性が強いか弱いかです。

逆説性が強いのは第1グループです。「心の貧しい人々」(3節)、「悲しむ人々」(4節)、「柔和な人々」(5節)、「義に飢え渇く人々」(6節)が「幸いである」(?!)と言われているのですから驚きです。多くの人々は「正反対ではないか。それは不幸なことに決まっている」と感じるに違いありません。

「柔和な人々」(5節)が「幸いである」と言われているのは逆説ではないのではないかとお考えになる方がおられるかもしれません。しかし、これは逆説です。

このマタイ5章5節は詩編37編11節(旧約聖書869ページ)に基づいています。またヘブライ語とイエスさまがお用いになったアラム語とで「柔和な人々」は、第1グループ最初の「心の貧しい人々」と語源が同じです。つまりそれは否定的な意味を持つ言葉であるということです。

言葉の意味は「温和な性格で、短気でなく、すぐに腹を立てたりしない」など良いこと尽くめのようですが、裏返せば「何をされても反撃しない、あきらめて黙って忍耐する」という意味です。それは「飼い慣らされた、家畜のような」という意味です。それを肯定的な意味だととらえるのは、そういう人々を迫害し、支配したい側の人々の発想です。イエスさまは、そちら側の立場にはおられません。

しかし問題は、なぜイエスさまは、あえて常識に逆らうようなことを言われたのかということです。「幸いである」と訳されているギリシア語(マカリオス)は、長生きしている人々、財産や家族や地位や名誉に恵まれている人々を指して用いられる言葉でした。それは古代ギリシア・ローマの価値観に基づいていますが、西暦1世紀のユダヤ人たちもその影響を強く受けていましたので、言葉の用い方は同じです。イエスさまがその価値観と正反対のことを、意図的・対立的に言われたのです。

しかも、逆説性が強い第1グループの中で、イエスさまが明らかに最も中心に置かれているのは、最初の「心の貧しい人々は、幸いである」という教えです。「心の豊かな」人々ではなく「心の貧しい」人々が「幸いである」とイエスさまが言われました。

この件に関しては、ルカによる福音書の並行記事(ルカ6章20節)に「心の」がつかない「貧しい人々」が「幸いである」と記されていますので、どちらのほうがイエスさまの真正のお言葉であるかについて議論があります。元々のイエスさまの言葉に「心の」があったのをルカが省略したのでしょうか、それとも、元々無かった「心の」をマタイが追加したのでしょうか。その議論に立ち入るつもりはありませんが、ルカのほうも経済的社会的貧困だけを意味していないということを指摘しておきます。

イエスさまが言われた「心の貧しい人々」に近い旧約聖書の言葉があります。それはすべてイザヤ書の中に出てくる(57章15節、61章1節、66章1節)「打ち砕かれた心の人」という言葉です。イザヤ書の場合は、経済的社会的な意味での貧困経験の中で、差別や偏見や冷笑や罵倒などを受けて心理的・精神的・霊的に疲れ果ててしまい、心が完全に折れてしまった人たちです。

「私がこんなに苦しんでいるのに、神は何もしてくれないし、何も言ってくれない。そんな神は要らないし、神など存在しないと言うほかない。生きる意味も分からないので死ぬしかない」と人生と世界と神に完全に絶望した人たちです。

そうである人たちは、いつも固定しているある一定の社会的貧困層に属する人たちに限りません。いつでもだれでも、その立場に置かれうる可能性があります。油断も隙も無い競争社会の中で、何かの拍子に足を滑らして、あっという間に生活だけでなく精神的に打ちのめされてしまうことがあります。

いま申し上げていることを私はまるで他人事のように言っていますが、全くそうではありません。しかし、今は私の話をする時間ではありません。私のことなどよりもはるかに大事なことがあります。

それは、マタイが記しているように「心の貧しい人々」であれ、ルカが記しているように「心の」がついていない「貧しい人々」であれ、そうなることは、いつでもだれでも起こりうることではありますが、実際に自分がそうなったということを自覚するのは実際にそうなった瞬間であるということです。実際に自分が経済的にも精神的にも空っぽの無一文になるまで、人は自分が「貧しい人間」であることを受け容れることができないし、自覚もできないということです。

わたしたちは、すべてを失う最後の最後まで、まだチャンスがあるかもしれないと期待し続けています。そうなるかもしれないといくら予測していても、すべてを完全に失うまであきらめていません。だからこそ、完全に失ったときの絶望が恐ろしいのです。いま自分が立っている地面か床の板が突然抜けて、真っ逆さまに落ちる感覚を味わうのです。

しかし、わたしたちは、まだすべてを失っていないし、すべてを失うことはありません。床が抜けて真っ逆さまに落ちても、そこで受け止めてくださり、しっかりと支えてくださる「神」がおられます。イエスさまがおっしゃっているのはそのことです。すべてを失って絶望している人々のために天の国があります。神はその人々に永遠の命と居場所を用意してくださる方です。それは死後の世界という意味だけではありません。イエス・キリストの十字架の愛を信じる信仰に基づく交わりを意味します。

「心の貧しい人々」とは「神に来ていただく場所が心にある人」のことです(ファン・ルーラー)。熱心な信仰の持ち主という意味ではありません。むしろ空洞です。むしろ完全に空しい心です。むしろ絶望です。その空洞の中に神が入ってくださいます。喜びと希望と力を与えてくださいます。

(2022年10月16日 聖日礼拝)

2022年10月9日日曜日

主イエスの愛(2022年10月9日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 ああ主のひとみ 197番(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

教会創立70周年記念礼拝のポスターPDFはここからダウンロードできます




「主イエスの愛」

マルコによる福音書14章53~72節

関口 康
「ペトロは『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」

今日の聖書の箇所は、マルコによる福音書14章53節から72節までです。この箇所に描かれているのは、わたしたちの救い主イエス・キリストが、直接的なきっかけとしては、12人の弟子のひとりだったイスカリオテのユダの裏切りによって身柄を拘束され、その直後に最高法院に連行され、裁判をお受けになるまでの状況です。

最高法院(サンヘドリン)とは、ローマ帝国の属国だった頃のユダヤの宗教と政治を司る人々の自治組織というべきものでした。メンバーは議長を含めて71人。ただし、会議は23人以上の出席で成立しました。3分の1です。このときは最高法院の「皆」(53節)が集合したとマルコが記していますが、もし仮に3分の2の議員が欠席しても会議は成立しました。

もちろん全員ユダヤ教徒です。ユダヤ教の聖職者の中のサドカイ派の代表者、ファリサイ派の律法学者と長老、信徒、そして聖職者ではない貴族の中から選ばれた人々で構成されました。

イエスさまの裁判が行われた場所は「大祭司の屋敷」でした(53節)。「大祭司」とはユダヤ教の祭司職の最高の地位にある人。当時の大祭司はカイアファでした(マタイ26章57節、ヨハネ18章24節)。カイアファが大祭司だったのは西暦18年から36年までです。

この最高法院の人々がイエスさまに死刑判決を言い渡しました。しかし、そのやり方は拙速、強引、卑怯でした。死刑判決が言い渡される可能性がある裁判の場合は、その前に2回の公聴会を行う義務がありましたが、このときの公聴会は1回で、その直後に有罪判決が下されました。

最高法院の会議はかろうじて2回行われました。しかし調査結果は事前に決定されていました。しかも、2回行われたのは、死刑宣告を夜中に行うことが禁じられていたからです。「夜が明けるとすぐ」(15章1節)2回目の会議を行ったのは、一刻も早く死刑宣告をしたかったからです。

最高法院のメンバーが休んでいた夜、イエスさまは見張りの人たちから徹底的に暴行を受けておられました。侮辱され、殴られ、目隠しをされて「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と罵倒されました(ルカ22章63~64節)。しかし、イエスさまは何もお答えになりませんでした。

裁判に必要な公聴会の目的は判決結果の正当性を保証するための証言を得ることです。被告に不利な証言だけを集めるための公聴会は公正ではありません。死刑判決の場合はなおさらです。

しかし、最高法院の人々の目論見は成功しませんでした。死刑判決には有罪証言の完全な一致が必要でしたが、多くの人々の証言が食い違い(56~59節)、完全な一致には至りませんでした。このときもイエスさまは、何を言われても何もお答えになりませんでした。

そこで大祭司カイアファが立ち上がり、イエスさまに「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」(60節)と言いました。それでもイエスさまは黙っておられましたが、大祭司が最後に投げかけてきた「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という質問に対してだけ、「そうです」とはっきりお答えになりました(61~62節)。

それが有罪判決の理由になりました。大祭司は衣を引き裂きながら「これでもまだ証言が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか」(63~64節)と言いました。

当時、何が「冒瀆」の罪に該当するかについての議論がありました。「冒瀆」の意味は「神へと手を差し伸べること」、すなわち、だれかが神と人間の境界を越えて、神と同等になること、神と共に人を裁く者であることを宣言することです。冒瀆罪の刑罰は石打ちによる死刑です(レビ記24章16節、民数記15章30節)。

イエスさまがその罪を犯したと、大祭司の耳に聞こえたので、最高法院の人々に「諸君はどう考えるか」と尋ねました。結果は満場一致可決です。しかし、イエスさまは石打ちの刑ではなく、十字架にかけられました。それはイエスさまに対する彼らの憎しみがエスカレートした結果です。

その最高法院の裁判と公聴会の様子を、イエスさまがおられた位置から遠いところからでしたが、使徒ペトロが見ていました。ただし、イエスさまの弟子であることを隠し、大祭司の屋敷の中庭まで入り、下役たちと一緒に座り、火に当たって体を温めていました(54節)。

その場所が「下の中庭」(66節)と呼ばれているのは、会議が行われていたのは建物の2階で、ペトロがいたのは1階の建物の外だったことを示しています。ただし、そこには「出口」(68節)があり、道路から隔絶された閉鎖空間でした。そこにペトロはなんらかの仕方で入ることに成功しましたが、素性が知られると確実に逮捕されたであろう、非常に危険な状態にありました。

そしてペトロはその危険に遭遇しました。そのときの様子が66節以下の段落に詳しく記されています。「大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。『あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた』」(66~67節)。

そう言われたペトロは「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と否定しました(68節)。このペトロの否定の言葉には、まだイエスさまを否定することまでは含まれていません。言っていることの意味が分からないと、とぼけているだけです。しかし、ペトロは自分の身の危険を察知して、中庭から逃げるために「出口」に向かいました。そのとき1回目の鶏の鳴き声が聞こえました。

しかし、その女性は、逃げようとする人間は怪しいと、周りの人々に「この人は、あの人たちの仲間です」と騒ぎ始めたので(69節)、再びペトロは否定しました(70節)。2回目の否定です。

しかし、女性が騒いでいる声を聞いた人たちが「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と追及しはじめました。エルサレムの人たちがペトロの言葉に混ざるガリラヤ地方の方言に気づきました。するとペトロは、「呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始め」ました(71節)。

3回目の否定は1回目より深刻です。「言っていることの意味が分からない」から「そんな人は知らない」へ話が進んでいます。2回目の否定の言葉をマルコは記していませんが、「あの人たちの仲間だ」と言われたのを否定したのですから「仲間ではない」と答えたはずです。3回目はついに、イエスさまとの関係を完全に否定しました。そのとき2回目の鶏の鳴き声が響き渡りました。

しかし、ペトロがそうなることをイエスさまがあらかじめご存じだったというのが聖書の証言です。しかもイエスさまには、ペトロの弱さを断罪するお気持ちはありませんでした。むしろ、彼を完全に赦しておられました。そしてそのイエスさまの赦しの福音があったからこそ、ペトロは初代教会のリーダーになることができました。

イエスさまにとって、そしてイエスさまの福音に拠って立つ教会にとっても、「人間の弱さ」は断罪の対象ではありません。擁護され、愛されるべき対象です。教会は弱い人の味方です。

(2022年10月9日 聖日礼拝)

2022年10月2日日曜日

最後の晩餐(2022年10月2日 聖日礼拝)

創立70周年記念礼拝(11月6日)のポスターができました
上の画像をクリックするとPDFをダウンロードできます
ぜひご活用ください
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌43番 みかみのたまいし(1、5節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん




「最後の晩餐」

マルコによる福音書14章10~26節

関口 康

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』」

今日の礼拝から、完全に元通りではありませんがコロナ流行前の礼拝順序に戻すことを、先月の役員会で決めました。いま申し上げたことは正確ではありません。詳しく言う必要があります。

2019年12月から始まった新型コロナウィルスの世界的感染に対応するために日本政府が緊急事態宣言を発出した2020年4月7日から5月25日まで当教会は各自自宅礼拝に切り替えました。

宣言解除後しばらくは元の形の礼拝を続けましたが、再び日本政府から緊急事態宣言が2021年1月8日から3月21日まで発出されたときに各自自宅礼拝を再開しました。しかし、そのときは感染対策の方法がそれ以前より分かるようになりました。それで、2度目の緊急事態宣言はまだ解除されていませんでしたが、2021年2月28日の日曜日から礼拝堂での礼拝を再開しました。

そして、その日から「短縮礼拝」に切り替えました。およそ1年半前からです。具体的な変更点は、懺悔の祈り、詩編交読、讃栄、説教後の讃美歌を割愛し、聖餐式を取りやめ、説教の長さを3分の2(約20分)にし、冒頭の讃美歌を最初と最後の節だけを歌うことにしました。この形にすれば、礼拝開始から終了まで、ちょうど1時間(60分)にすることができました。

詳しく申し上げる理由は、1年半も続けた「短縮礼拝」をすぐに元通りに戻すと疲れてしまうので、段階を踏む必要があることをご説明したいからです。何ごとにもリハビリ期間が必要です。説教の長さは、しばらく短いままにします。「元に戻さないでほしい」というご意見があれば考慮します。讃美歌についても、ただちにフルコーラス歌う形に戻さず、少しずつ戻すことにします。

しかし、聖餐式に関しては、毎月のように役員会で相談していますが、再開する決断に至っていません。今日は教会暦の「世界聖餐日」です。しかし決断できません。誤解されたくないのは、わたしたちは聖餐式を面倒くさがっているわけではないという点です。私ひとりが自分の考えで聖餐式を止めているのでもありません。あくまでも感染症拡大防止の観点から延期しています。

聖餐式の考え方について、石川献之助先生とも鈴木正三先生とも秋場治憲先生とも相談したり議論したりしたことがありません。しかし、特に何も言わなくても、理解に齟齬はありません。牧師たち同士の間だけでなく、教会の皆さんとの間でも同じです。

完全に一致できると思うのは、聖餐式は「飲食」であるという点です。だからこそ取りやめています。「教会」は「家族」にたとえられる存在ですが、ふだんから同居する関係ではありません。

病院や高齢者ホームでは家族との面会を禁じている状況が続いています。キリスト教主義学校の礼拝でみんなで讃美歌を歌うことをやめています。だれも面倒くさがっていません。どの団体も、どの施設も、自分の命のように大切にしてきたことを我慢しています。

教会にとっての聖餐式の重要性は、私が声を大にして言いたいことです。しかし、再開しうる段階にまだ至っていないというのが現時点の役員会の判断です。ご理解いただけますと幸いです。

今日の聖書の箇所は、前後の文脈が分かるように長く朗読していただきました。今わたしたちが取りやめている「聖餐式」の出発点であるイエスさまと弟子たちの「最後の晩餐」の箇所です。

同じ状況が描かれた並行記事がマタイによる福音書26章26~30節(53ページ)、ルカによる福音書22章15~20節(153ページ)、コリントの信徒への手紙一11章23~25節(314ページ)にあるということが今日の箇所に新共同訳聖書がつけた小見出しの中に記されています。

ヨハネによる福音書が含まれていないことにお気づきになった方は鋭いです。しかしヨハネが最後の晩餐を描いていないと考えるのは間違いです。説明するのが難しいですが、まるでヨハネ福音書全体が「最後の晩餐」の描写であるかのようです。

「言は肉となった」とイエスさまの肉体性を強調する言葉が出てくるのは、ヨハネ福音書1章14節です(163ページ)。「わたしが命のパンである」というイエスさまの御言葉が記されているのはヨハネ福音書です(6章35節、175ページ)。「飲食」と関係するのは肉体性を持つ存在です。

また、ヨハネ福音書13章から17章は、最後の晩餐の席でイエスさまがお語りになった「遺言」です。特に15章1節の「わたしはまことのぶどうの木」という御言葉が聖餐式との関係において重要です。しかし、たしかにヨハネ福音書には、イエスさまがパンを裂いて弟子たちにお与えになり、杯も同じようになさったことについての描写はありません。

前後の文脈が分かるように長く朗読していただいて、何が分かるのかと言えば、イエスさまと共に「最後の晩餐」を囲んだ12人の弟子たちの中にイエスさまを裏切ったイスカリオテのユダが含まれていたことです。しかもイエスさまはユダが裏切ることをご存じでした。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)と、イエスさまがはっきりおっしゃっているとおりです。

イエスさまはユダの不意打ちに遭われたのではありません。すべてご存じのうえで、これから起こることからお逃げにならず、ユダを排除なさらず、それどころか、パンと杯をご自身の体と血にたとえられて、それらをお分けになり、12人の弟子たちひとりひとりに手渡されました。

イスカリオテのユダだけを悪者にすべきではありません。ペトロもそして他の弟子たちも結局最後は全員逃げてしまいましたので、全員がユダと同罪です。しかし、そのこともすべてイエスさまはご存じでした。ご存じなかったのであれば、すべては不意打ちだったことになりますが、もしそうだったとすれば、イエスさまは十字架の上で、裏切った弟子たちひとりひとりの名前を叫び、「あの者たちもわたしと同じように十字架につけよ」とおっしゃったでしょう。

しかし、そうではありませんでした。イエスさまは、すべてをご存じのうえで、すべてを受け容れ、弟子たちひとりひとりを心から愛し、御自身の体と血、御自身のいのちそのものを彼らに託し、お献げになりました。それがイエスさまと弟子たちの「最後の晩餐」です。

私が「最後の晩餐」(Last Supper)について思い巡らすたびに考えこむのは、「最後」(last)の意味は何かということです。イエスさまの「地上の生涯の最後」の晩餐になりましたが、それは結果論です。わたしたちの人生は、いつが最後なのかがあらかじめ分かるものではありません。

しかし、今回、ひとつたどり着くものがあったのは、今日のこの食事が「弟子たちとの最後」の晩餐であることは、あらかじめ分かる、ということです。「別離」は自然的に起こるだけでなく、自分の自覚と明確な意志をもって行うことでもあります。

ユダやペトロや他の弟子たちの裏切りも、御自身の死も、イエスさまにとって偶発的なことではなく、御自身の意志で選び取られたことです。それは罪人を赦し、受け容れ、愛してくださるイエスさまの深い愛の意志です。

「最後の晩餐」を思い起こし、記念するのが「聖餐式」です。状況が整い次第、再開します。

(2022年10月2日 聖日礼拝)

2022年9月18日日曜日

真心をこめて(2022年9月18日 昭島教会)

 

昭島教会の教職(左から関口康、石川献之助、秋場治憲)

讃美歌21 520番 真実に清く生きたい(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん




「真心をこめて」

マルコによる福音書12章35~44節

関口 康

「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。』」

今日の箇所は先週の続きです。3つの段落を朗読していただきました。イエスさまはエルサレム神殿の境内におられます。イエスさまが何をお語りになり、何をなさったかが記されています。

35節以下の段落でイエスさまは、ひとつの問題を取り上げておられます。それは「メシア」についてユダヤ教の律法学者が誤った見解を主張していたことに対する反論です。

当時のユダヤ教の人々は「メシア」が来ることを信じていました。「メシア」(マーシーアハ)はヘブライ語で、ギリシア語訳が「キリスト」(クリストゥス)ですので、彼らが「キリスト」の到来を信じていたと言っても同じです。

ただし、彼らにとって「メシア」は人間であり、しかも「ダビデの子孫」でした。「ダビデ」は紀元前11世紀に建国されたイスラエル王国の第2代国王です。ダビデの国王在位は紀元前1000年ごろから967年まで。当時のユダヤ教の理解では、「ダビデの子孫」として生まれる「メシア」は、ユダヤ人をローマ帝国の支配から解放して独立国家を打ち立てる王となるべき存在でした。

「メシア」が「ダビデの子孫」であることの根拠はすべて旧約聖書の言葉です。イザヤ書11章1~10節(「エッサイの株」)、エレミヤ書23章5節(「わたしはダビデのために若枝を起こす」)、エレミヤ書33章15節(「わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる」)、エレミヤ書33章17節(「ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は絶えることがない」)、エゼキエル書3章23節(「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである」)、エゼキエル書3章24節「わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる」)、詩編89編21節(「わたしはわたしの僕ダビデを見いだし、彼に聖なる油を注いだ」)。

イエスさまは「メシア」が「ダビデの子孫」であること自体については反論しておられません。この信仰は初代教会にも受け継がれました。ローマの信徒への手紙1章3節(「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」)、テモテへの手紙二2章8節(「この方はダビデの子孫で、死者の中から復活された」)、ヨハネの黙示録5章5節(「ダビデのひこばえが勝利を得た」)が証拠です。

イエスさまがおっしゃっているのは、「メシア」は単なる「ダビデの子孫」ではなく「主」でもあるということです。「主」はヤーウェ、すなわち神です。メシアは「神」です。そのことを証明するために、イエスさまが詩編110編1節を引用しておられます。旧約聖書(952ページ)のほうを読むと「ダビデの詩、賛歌。わが主に賜った主の御言葉」と記されています。これが「メシア」が「主」であることの根拠であると、イエスさまがお示しになりました。

代々のキリスト教会の信仰によれば、イエス・キリストは父・子・聖霊なる三位一体の神です。イエス・キリストは単なる人間ではなく神です。そのことをイエスさま御自身が述べられたことが証言されています。

38節以下の段落でイエスさまは、律法学者たちを激しく非難しておられます。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(37~40節)。

前の段落のイエスさまは律法学者の〝教え〟の間違いを指摘しておられますが、この段落では彼らの〝生活〟の間違いを指摘しておられます。ここまで言われれば彼らは激怒したでしょうし、関係修復は不可能です。そのことをイエスさまは恐れておられません。旧約聖書の預言者の姿を彷彿します(アモス書全体、エレミヤ書3章、エゼキエル書8章、13章、34章など)。

イエスさまが抗議しておられるのは、彼らの見せかけの真面目さと偽善です。目立ちたがり、注目を集めたがり、尊敬されたがるエゴイズムです。「やもめ」(40節)は戦争や病気や事故などで配偶者と死別した女性です。その女性を律法学者が「食い物にする」とは、自分の身の回りの世話をさせたり、当時のユダヤ教ではラビが報酬を受け取ることは禁じられていましたが、その規定を無視して報酬を受け取ったりしているという意味です(Bolkestein, ebd. P. 283)。

旧約聖書には「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない」(出エジプト記22章22節)、「〔主は〕孤児と寡婦の権利を守る」(申命記10章18節)と明記されています。しかし、律法学者は貧しい女性たちを犠牲にしているというのが、イエスさまのおっしゃっていることの趣旨です。

ぞっとするほど激しいイエスさまの言葉を読んだ後、41節以下の段落を読むと、ほっとします。イエスさまがひとりの女性を擁護しておられるお姿が描かれているからです。

当時のエルサレム神殿は、紀元前63年に王位についたヘロデ大王が修復したものです。入口の階段を上ると最初に異邦人でもだれでも入れる庭があり、次にユダヤ人だけが入れる庭があり、その次に祭司だけが入れる庭があったそうです。そして、その先に「聖所」があり、いちばん奥に「至聖所」があるという構造です。

二番目の「ユダヤ人だけが入れる庭」に異邦人が入ると死刑でした。そしてそこは「女性の庭」とも呼ばれました。祭司は男性なので、「祭司の庭」よりも奥は男性しか入れなかったからです。これで分かるのは、このときイエスさまは、その「女性の庭」におられたようだということです。

その「女性の庭」に宝物庫と、ラッパ形の 13 個の賽銭箱があり、祭司の助けを借りてお金を入れることができました(Strack-Billerbeck II, p. 37. Vlg.)。しかも、お金を入れる人や、祭司に手渡すお金の金額を誰でも見ることができました。それは一種の見世物で、献金の金額の見せ合いの場でもありえました。そのほうが競争心を煽り、たくさん献金が集まるからでしょう。

その様子をイエスさまがご覧になっていました。お金持ちの人がたくさん献金しました。その次に「一人の貧しいやもめ」が「レプトン銅貨2枚」を献金しました。当時の最小の銅貨でした。

新共同訳聖書巻末付録「度量衡および通貨」によれば「1レプトン=1デナリオン(1日の労働賃金)÷128」です。わたしたちの「100円」に満たない銅貨2枚です。しかし、イエスさまは、それがあの女性にとっては「乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費の全部」(44節)であるとおっしゃいました。イエスさまは金額でなく、その人の真心を評価してくださいました。

イエスさまは「生活費の全部」をささげることが大事であるとおっしゃっているでしょうか。同じことがわたしたちにも求められているでしょうか。違います。イエスさまは貧しい人が衆人の目にさらされ、はずかしめられる状態にあることを非難し、屈辱に堪えているひとりの女性を全力で擁護され、その女性のひとりの人間としての尊厳をお守りになったのです。

わたしたちはどうでしょうか。教会はどうでしょうか。はずかしめを受けていると感じている方がおられるようでしたら、教会のあり方を反省し、改革しなくてはなりません。

(2022年9月18日 聖日礼拝)

2022年9月11日日曜日

神と隣人を愛する(2022年9月11日 昭島教会

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 とびらの外に 430番(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「神と隣人を愛する」

マルコによる福音書12章28~34節

関口 康

「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」

先週の礼拝後のご挨拶のときに申しましたが、岡山にいる父の命の時間がわずかであることを医師から告げられました。もう全くコミュニケーションはとれません。1933年11月生まれですので、今年の誕生日を迎えることが許されれば89歳になりますが、たどり着けそうにありません。

基本的にあっけらかんとした信仰の人です。死ぬことに対して、ずっと昔から全く恐れる様子がない人でした。とはいえ、やや口が重いタイプでしたので、本心がどうかは分かりません。

皆さんがきっと体験してこられたことを私はこれから体験することになります。悔しいという感情とは違うものを感じますが、神さまがお決めになった日まで、私は父に対して何をすることもできないことを寂しく思うところはあります。神に委ねるとはこのことかと実感しています。

兄が実家を守ってくれていますので、私は自由気ままに生きています。先日、秋場治憲先生が2回に分けてルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ」をお話しくださいました。私はあのたとえ話の弟息子そっくりです。父は父で、あのたとえ話の父親のような人なので、今となっては申し訳ない気持ちでいっぱいです。

さて今日の聖書の箇所に、イエスさまがひとりの律法学者から「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(28節)と問われたことに対してお答えになる場面が描かれています。

当時は「新約聖書」はありませんでしたので、「あらゆる掟」が旧約聖書の律法を指していると説明することは大きな間違いではないはずです。明文化されていない口伝などまで含めることを考えなくてはならないかどうかは分かりません。はっきり分かるのは当時のユダヤ教がとにかく戒律ずくめだったということです。「248の命令と365の禁止事項」に区別されていたと言われています(Strack-Billerbeck I, p.900 vlg)。

その多くの戒律の中で「どれが第一でしょうか」と律法学者がイエスさまに問うているのは、イエスさまを試したのだと思います。すべての掟を比較したうえで、その中で最も重要な内容を持ち、他よりも秀でて最も質が高い掟はどれなのか、という意味の質問です。

その質問に対するイエスさまのお答えが、29節から31節までに記されています。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(29~31節)。

「第一の掟」は申命記6章4~5節(新共同訳、旧約291ページ)です。「第二の掟」はレビ記19章18節(同、192ページ)です。

第一の掟の「イスラエルよ、聞け」は、ヘブライ語で「シェマー・イスラエル」と言います。「シェマー」(聞け)は、ユダヤ教の最も簡潔な信仰告白です。ユダヤ教では一日2回、朝と夕に「シェマー・イスラエル」を唱えます。

申命記はモーセの遺言です。しかし、イエスさまはそれをユダヤ人だけに関係する掟であると、とらえておられません。世界のすべての人が対象です。

それを「心」と「精神」と「思い」と「力」を尽くして行います。この4つを合わせて「人間存在すべて」を意味します(G. Wohlenberg, p. 319. Vlg. M.H. Bolkestein, Marcus, PNT, 1966)。

第二の掟のレビ記19章18節は、文脈が大事です。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」の次に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章17~18節)と記されています。

「同胞を率直に戒めなさい」とあるように、ユダヤ人仲間(同胞)に限定されているのが旧約聖書の掟の限界と言えるかもしれません。イエスさまにとって「隣人」とは、ルカによる福音書10章の「善いサマリア人のたとえ」で示されたほど広い意味です。すべての人が「隣人」です。

しかし、レビ記19章18節の内容で大事な点は、たとえ「同胞」であるユダヤ人であっても、あなたに罪を犯すならば、あなたの「敵」になりうる存在であるということが前提されたうえで、その相手を憎むことも、復讐することも、恨むこともしないことが相手を「愛する」ことを意味すると教えられていることです。つまり「身内の中の敵を愛する」という意味が含まれています。

この掟に付加されている「自分を愛するように」という言葉の解釈は、真っ二つに分かれています。「自己愛を肯定している」ととらえる人もいれば(テルトゥリアヌス、クリュソストモス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、キルケゴール)、「自己愛の肯定ではない」ととらえる人もいます(ルター、カルヴァン、カール・バルト)。

この問題の詳細が、バルトの『教会教義学 神の言葉 Ⅱ/1 神の啓示〈下〉』新教出版社、2版1996年、353ページ以下に記されています。どちらの理解が正しいかの判断するための助けになります。私個人は、肯定する側に近いです。

ところで、このときイエスさまは、律法学者から「どれが第一でしょうか」と問われたのに、ひとつの掟でなく、ふたつの掟をお答えになっていることを、わたしたちはどのように考えればよいでしょうか。問い方を換えれば、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」というふたつの掟を比べると、どちらのほうが上なのかと問うこともできます。

「神」が「人間」よりも上であるのは自明のことであり、やはり結局、どこまで行っても「神を愛すること」が「第一」なのであって「隣人を愛すること」は二次的・副次的・従属的な掟であると言わなくてはならないでしょうか。それともイエスさまは「そうではない」とお考えになったからこそ、あえて「ふたつ」お答えになったのでしょうか。

この問題について、オランダの聖書学者が次のように記しています。「第一の掟〔神への愛〕は第二の掟〔隣人愛〕よりも劣ってはいない。イエスは旧約聖書に従っている。神秘主義に起こるように、神への愛が隣人愛を飲み込んではならないし、リアリズム(現実主義)に起こるように、隣人愛が神への愛に置き換えられてもならない」(Bolkestein, ebd.277)。

この意見に私も同意します。「神」と「人間」という次元が違う存在同士を比較して、どちらが大切かと考えること自体が間違っています。「神への愛」と「隣人愛」は同時に成り立ちます。

「教会を第一にするか、それとも家庭を第一にするか」という問いとも次元が違います。教会は「神への愛」だけでなく、十分な意味で「隣人愛」を実現する場でもあります。教会において、わたしたちが互いに助け合い、励まし合い、祈り合うことによって、どれほど大きな試練や難局を乗り越えてきたかは、数えきれないほどです。

イエスさまが「ふたつ」答えてくださったことが、わたしたちの慰めです。

わたしたちは「神を愛するように隣人を愛する」ことができます。

(2022年9月11日 聖日礼拝)

神と隣人を愛する(2022年9月11日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 とびらの外に 430番(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「神と隣人を愛する」

マルコによる福音書12章28~34節

関口 康

「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」

先週の礼拝後のご挨拶のときに申しましたが、岡山にいる父の命の時間がわずかであることを医師から告げられました。もう全くコミュニケーションはとれません。1933年11月生まれですので、今年の誕生日を迎えることが許されれば89歳になりますが、たどり着けそうにありません。

基本的にあっけらかんとした信仰の人です。死ぬことに対して、ずっと昔から全く恐れる様子がない人でした。とはいえ、やや口が重いタイプでしたので、本心がどうかは分かりません。

皆さんがきっと体験してこられたことを私はこれから体験することになります。悔しいという感情とは違うものを感じますが、神さまがお決めになった日まで、私は父に対して何をすることもできないことを寂しく思うところはあります。神に委ねるとはこのことかと実感しています。

兄が実家を守ってくれていますので、私は自由気ままに生きています。先日、秋場治憲先生が2回に分けてルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ」をお話しくださいました。私はあのたとえ話の弟息子そっくりです。父は父で、あのたとえ話の父親のような人なので、今となっては申し訳ない気持ちでいっぱいです。

さて今日の聖書の箇所に、イエスさまがひとりの律法学者から「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(28節)と問われたことに対してお答えになる場面が描かれています。

当時は「新約聖書」はありませんでしたので、「あらゆる掟」が旧約聖書の律法を指していると説明することは大きな間違いではないはずです。明文化されていない口伝などまで含めることを考えなくてはならないかどうかは分かりません。はっきり分かるのは当時のユダヤ教がとにかく戒律ずくめだったということです。「248の命令と365の禁止事項」に区別されていたと言われています(Strack-Billerbeck I, p.900 vlg)。

その多くの戒律の中で「どれが第一でしょうか」と律法学者がイエスさまに問うているのは、イエスさまを試したのだと思います。すべての掟を比較したうえで、その中で最も重要な内容を持ち、他よりも秀でて最も質が高い掟はどれなのか、という意味の質問です。

その質問に対するイエスさまのお答えが、29節から31節までに記されています。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(29~31節)。

「第一の掟」は申命記6章4~5節(新共同訳、旧約291ページ)です。「第二の掟」はレビ記19章18節(同、192ページ)です。

第一の掟の「イスラエルよ、聞け」は、ヘブライ語で「シェマー・イスラエル」と言います。「シェマー」(聞け)は、ユダヤ教の最も簡潔な信仰告白です。ユダヤ教では一日2回、朝と夕に「シェマー・イスラエル」を唱えます。

申命記はモーセの遺言です。しかし、イエスさまはそれをユダヤ人だけに関係する掟であると、とらえておられません。世界のすべての人が対象です。

それを「心」と「精神」と「思い」と「力」を尽くして行います。この4つを合わせて「人間存在すべて」を意味します(G. Wohlenberg, p. 319. Vlg. M.H. Bolkestein, Marcus, PNT, 1966)。

第二の掟のレビ記19章18節は、文脈が大事です。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」の次に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章17~18節)と記されています。

「同胞を率直に戒めなさい」とあるように、ユダヤ人仲間(同胞)に限定されているのが旧約聖書の掟の限界と言えるかもしれません。イエスさまにとって「隣人」とは、ルカによる福音書10章の「善いサマリア人のたとえ」で示されたほど広い意味です。すべての人が「隣人」です。

しかし、レビ記19章18節の内容で大事な点は、たとえ「同胞」であるユダヤ人であっても、あなたに罪を犯すならば、あなたの「敵」になりうる存在であるということが前提されたうえで、その相手を憎むことも、復讐することも、恨むこともしないことが相手を「愛する」ことを意味すると教えられていることです。つまり「身内の中の敵を愛する」という意味が含まれています。

この掟に付加されている「自分を愛するように」という言葉の解釈は、真っ二つに分かれています。「自己愛を肯定している」ととらえる人もいれば(テルトゥリアヌス、クリュソストモス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、キルケゴール)、「自己愛の肯定ではない」ととらえる人もいます(ルター、カルヴァン、カール・バルト)。

この問題の詳細が、バルトの『教会教義学 神の言葉 Ⅱ/1 神の啓示〈下〉』新教出版社、2版1996年、353ページ以下に記されています。どちらの理解が正しいかの判断するための助けになります。私個人は、肯定する側に近いです。

ところで、このときイエスさまは、律法学者から「どれが第一でしょうか」と問われたのに、ひとつの掟でなく、ふたつの掟をお答えになっていることを、わたしたちはどのように考えればよいでしょうか。問い方を換えれば、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」というふたつの掟を比べると、どちらのほうが上なのかと問うこともできます。

「神」が「人間」よりも上であるのは自明のことであり、やはり結局、どこまで行っても「神を愛すること」が「第一」なのであって「隣人を愛すること」は二次的・副次的・従属的な掟であると言わなくてはならないでしょうか。それともイエスさまは「そうではない」とお考えになったからこそ、あえて「ふたつ」お答えになったのでしょうか。

この問題について、オランダの聖書学者が次のように記しています。「第一の掟〔神への愛〕は第二の掟〔隣人愛〕よりも劣ってはいない。イエスは旧約聖書に従っている。神秘主義に起こるように、神への愛が隣人愛を飲み込んではならないし、リアリズム(現実主義)に起こるように、隣人愛が神への愛に置き換えられてもならない」(Bolkestein, ebd.277)。

この意見に私も同意します。「神」と「人間」という次元が違う存在同士を比較して、どちらが大切かと考えること自体が間違っています。「神への愛」と「隣人愛」は同時に成り立ちます。

「教会を第一にするか、それとも家庭を第一にするか」という問いとも次元が違います。教会は「神への愛」だけでなく、十分な意味で「隣人愛」を実現する場でもあります。教会において、わたしたちが互いに助け合い、励まし合い、祈り合うことによって、どれほど大きな試練や難局を乗り越えてきたかは、数えきれないほどです。

イエスさまが「ふたつ」答えてくださったことが、わたしたちの慰めです。

わたしたちは「神を愛するように隣人を愛する」ことができます。

(2022年9月11日 聖日礼拝)

2022年9月4日日曜日

ぶどう園のたとえ(2022年9月4日 昭島教会)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 403番 聞けよ、愛と真理の(1、3番)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「ぶどう園のたとえ」

マルコによる福音書12章1~12節

関口 康

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

先週8月28日(日)私は昭島教会の皆様から1日だけ夏季休暇をいただき、他の教会の礼拝に出席しました。休暇中の行き先についての報告義務はないかもしれませんが、興味を持っていただけるところもあるだろうと思いますので、この場をお借りして短く報告させていただきます。

朝の礼拝は港区赤坂の日本キリスト教団霊南坂教会に出席しました。日曜日の朝の礼拝に出席するのは、先週が初めてでした。しかし、日曜日の朝以外であれば、霊南坂教会で行われた礼拝に出席したことがあります。正確な日時は覚えていません。私が東京神学大学の学生だったのは1980年代の後半ですので、35年ほど前です。その頃に私の記憶では2回、いずれも夕方でしたが、東京教区西南支区主催のクリスマス礼拝などに出席しました。

先週霊南坂教会の会員の方にそのことをお話しし、「当時と同じ会堂ですか」と尋ねたところ、「同じです」と教えてくださいました。なぜその質問をしたかといえば、35年ほど前の私の記憶が夕方の礼拝と結びついていたこととおそらく関係して、かなり様子が違って見えたからです。

調べてみましたら、霊南坂教会は1985年に現会堂を新築されたようで、どうやら私は真新しい会堂での礼拝に出席したようだと分かりました。それも様子が違って見えた理由かもしれません。

新築の5年前の1980年に、当時最も有名な芸能人だった山口百恵さんと三浦友和さんの結婚式が霊南坂教会で行われたことも分かりました。その結婚式のとき私は中学生でしたので、岡山にいました。テレビで見た記憶が残っていますが、そのときは旧会堂だったようです。

わたしたちにとって参考になりそうなことは、先週の時点で非常に大勢の出席者がおられたことです。午前中は強い雨が降っていましたが、それにもかかわらず、です。ご高齢の方々も大勢おられました。会堂が広いから実現できることだろうと言えば言えなくはありませんが、大勢の聖歌隊による合唱がありましたし、もちろん全員マスク着用で、讃美歌の1節と4節を歌うなど短縮しながらも、いつもと同じように賛美がささげられ、礼拝が行われました。

インターネットでの同時中継も行われていましたので、自宅礼拝の方もおられたに違いありません。感染症に対するさまざまな考え方があるのは分かりますし、尊重されるべきです。しかし、むやみに恐れるのではなく、正しく気を付けることの大切さを思わされました。

とにかくみんながひとつに集まって礼拝をささげるとき、教会は大きな力を得、互いに励まし合うことができます。そのことを実感できました。霊南坂教会の皆さんに感謝いたします。

さて、今日の聖書箇所は、マルコによる福音書12章1節から12節までです。ここに記されているのは、イエスさまのたとえ話と、それを聴いた人々の反応です。

暗い話になるのはなるべく避けたいと願います。しかし、今日の箇所の最後の節に「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕えようとした」(12節)と記されているのは穏やかではありません。気になりましたので原文を調べてみました。それで分かったのは、少し強すぎる訳のようだということです。

ギリシア語の原文には「イエスが〝自分たちに対して〟(プロス・アウトゥース(προς αυτους))このたとえを話された」と記されているだけです。古い英語聖書では「アゲインスト・ゼム(against them)」と訳されていますので、最も強く訳して「彼らに反対する」です。比較的新しい英語聖書の中に「エイム(aim)」という動詞の例がありました。「狙う」「当てつける」などの意味です。

あえて取り上げるほど重要な問題ではないとお感じになるかもしれません。しかし、日本語の「当てつける」に「はっきりそれと言わずに、何かにかこつけて悪く言う」(広辞苑)という意味を感じるのは私だけではないはずです。まるでイエスさまが陰険な嫌味を言われたかのようです。

「陰険」の意味は「表面はよく見せかけて、心のうちでは悪意をもっていること。陰気で意地わるそうなさま」。「嫌味」は「相手に不快感を抱かせる言葉や態度。いやがらせ」です(いずれも広辞苑)。わたしたちが思い描くイエスさまのイメージに大きく影響するでしょう。

昔の文語聖書(改譯)に「この譬(たとえ)の己(おのれ)らを指して言い給へる」と訳されていました。この訳が私は最も腑に落ちましたのでご紹介します。

このときの場所は、11章27節によると「エルサレム神殿の境内」です。そこにいた「祭司長、律法学者、長老たち」が「彼ら」です。当時のユダヤ教の指導者です。イエスさまは持って回った嫌味をおっしゃったのではありません。むしろはっきり分かるように正面から対決されたのです。

彼らは「イエスが我々に当てこすった」と感じたかもしれませんが、それは彼らの受け止め方です。イエスさまが彼らを恐れて、逃げの一手で遠回しの話をされたのではありません。恐れていたのは彼らのほうです。「群衆を恐れた」(12節)と記されているとおりです。

たとえ話の内容は次の通りです。ある人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して、自分は旅に出かけました。収穫のときになったので主人が自分の僕を農夫たちのところに送ったところ、農夫たちはこの僕を捕まえて袋叩きにし、何も持たせずに主人のもとに帰しました。

主人は他の僕を送りましたが、農夫たちは頭を殴り、侮辱しました。次に送った僕は殺されました。他にも多くの僕を送りましたが、ある者は殴られ、ある者は殺されました。

最後に主人は愛する息子を送りました。主人の期待は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」(6節)というものでした。しかし農夫たちは、主人の跡取りを殺してしまえば「相続財産は我々のものになる」(7節)と言い出し、その息子を殺してぶどう園の外に放り出しました。

「さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか」(9節)とイエスさまが問いかけられました。これが何のたとえなのかがユダヤ教の指導者たちにははっきり分かりました。

ぶどう園の主人は神さまです。主人の僕たちは旧約聖書に描かれた預言者たちです。そして、最後の「息子」はイエスさまご自身です。「ぶどう園」は直接的にはエルサレム神殿ですが、広い意味で受け取れば、真の信仰をもって生きることを志す人々の信仰共同体です。

そうであるはずの大切な「ぶどう園」を、神から奪って自分たちのものにしようとし、神から遣わされた預言者たちをはずかしめ、本来の目的から外れた邪悪なものにしてしまったのは誰なのか。そして、わたしのことまで殺そうとしている、それは誰なのか、あなたがただと、分かるように、イエスさまは「彼ら」を「指して」(文語訳)言われました。

イエスさまはご自身の命をかけてその人々に、真の信仰と命に至る悔い改めを迫られたのです。しかし、イエスさまは十字架にかけられて殺されました。そのイエスさまが「隅の親石」です。イエスさまの命が、新しい信仰共同体としての「教会」の土台です。

わたしたちの教会をイエスさまが支えてくださっていることを、心に刻んでまいりましょう。

(2022年9月4日 聖日礼拝)

2022年8月21日日曜日

友なるイエス(2022年8月21日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 493番 いつくしみ深い(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「友なるイエス」

ルカによる福音書18章9~14節

関口 康

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」

今日の聖書箇所は私が選びました。いつもは日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』どおりに選んでいますが、『日毎の糧』の今日の箇所が6月12日(日)の花の日・子どもの日礼拝の聖書箇所と同じだと気づきましたので、変更しました。しかし、今日の準備のために読み直した結果、解釈がとても難しい箇所であるということが分かりました。後悔先に立たず、です。

まずこれは「たとえ話」です。「イエスは次のたとえを話された」と書かれているとおりです。分かりやすく大げさな表現が用いられている可能性があることは否定できません。イエスさまが例示されたことを実際に言ったりしたりしていた特定の誰かが本当にいたかどうかは不明です。

しかし、イエスさまがこの話をなさったとき、共感する人がいたに違いありません。ただし、その共感には2種類ありました。なぜ「2種類」なのかといえば、このたとえ話の登場人物の姿を、自分に当てはめて「自分のことが言い当てられた」と感じるか、それとも自分以外のだれかに当てはめて「あの人のことだ」と感じるかの、どちらかの可能性しかないからです。

これが「何のたとえ」なのかは、はっきり記されています。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対する」たとえです。「対する」の意味は「反対する」です。抗議です。「自分は正しい人間だとうぬぼれてはいけない。他人を見下してはいけない」という非難です。

だからこそ、この話にどういう意味で共感するかが重要です。イエスさまのお言葉に共感しているときの自分の心の中に自分自身の姿が浮かぶか、そうでないかで、読み方が変わります。

私は今すでに結論的なことを申し上げています。イエスさまのご趣旨を考えれば、このたとえ話は自分以外のだれかに当てはめてはいけません。「あの人のことだ」と決めつけてはいけません。私自身も強く自戒します。このたとえ話を他人を非難する手段に使うだけなら最も悪いことです。もしほんの少しでもそのような誤解が広まるようなら、今日この箇所を取り上げて話さないほうがよかったと思えてきます。

中身に入ります。登場人物は2人です。ひとりは「ファリサイ派の人」、もうひとりは「徴税人」です。「ファリサイ派」の説明は新共同訳聖書巻末付録「用語解説」39頁以下に記されています。

「ハスモン王朝時代に形成されたユダヤ教の一派。イエス時代にはサドカイ派と並んで民衆に大きな影響力を持っていた。(中略)ヘブライ語『ペルシーム』は『分離した者』の意味であり、この名称の由来については種々の説があるが、恐らく律法を守らない一般の人々から自分たちを『分離した』という意味であろう」。

この説明によるとファリサイ派は「分離派」です。だれからの分離かといえば「一般人」です。最近は「芸能人でない人」が「一般人」と呼ばれます。私の嫌いな言葉です。「一般」の対義語が「特別」か「特殊」かで意味が変わってくるからです。自分たちは「特別」な存在だと自負する人が言う「一般人」は見下げる響きをまといます。逆に「一般性」が重んじられる場合(「一般常識」など)の対義語は「特殊」でしょう。見下げる響きがあるかどうかは、文脈に拠ります。

ファリサイ派の場合は、自分たちが「特別」であり、かつ「上の者」であると自負しているからこそ「見下す」のです。英語聖書ではlook down(ルックダウン)、オランダ語聖書ではneerkijken(ネールケイケン)(neer(ネール)が「下」の意味)という言葉です。いずれも「下を見る」という意味なので、見る人が「上」にいなければ成立しません。「上から」が省略されています。

このたとえ話に登場するファリサイ派の人が、どこで(where)、どのようにして(how)、だれ(who)を見下したかについてはイエスさまのお言葉に従うしかありません。

「どこで」(where)は「神殿」です。ただし、たとえ話ですので意味を広げて考えるほうがいいです。宗教施設です。「教会」も含めて。その最も典型としての「神殿」です。

「どのようにして」(how)は「祈り」です。この箇所に多様な解釈があると分かりました。この人が祈るとき「立って」いた(11節)ことが傲慢であるとか、「心の中で」祈った(同上節)のは、神に対してでなく自分に対する祈りなので、これも傲慢であるという解釈があるそうです。

結論を言えば、祈るときに立っていたことも、心の中で祈ったことも、そのこと自体が傲慢であることを意味しません。当時のユダヤ教で普通になされていたことです。普通だからこそ問題の範囲が広がります。わたしたちの祈りと本質的に同じ「祈り」で「他人を見下した」のです。

「最善の堕落は最悪」(corruptio optimi pessima コラプティオ・オプティミ・ペッシマ)というラテン語の格言があります。私の好きな言葉です。神殿で祈る行為は、人間の最高善です。最高善を用いて「他人を見下げる」最悪の行為に及ぶ人をイエスさまが描き出しておられます。

「だれを」(who)見下したのか。イエスさまはいろんなタイプの人を例に挙げておられます。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、この徴税人のような者」(同上節)。しかし、イエスさまがおっしゃっていることの趣旨に照らして最も意味がある言葉は「ほかの人たちのように」です。その意味は「自分以外の全人類」です。自分だけを除いて、残るすべての人を見下げています。

違うでしょうか。このファリサイ派の人は、イエスさまが例に挙げておられないタイプの人のことは尊敬するでしょうか。そうではないと私には思えます。どんな相手であれ、あら探しをし、どんな小さな欠点や落ち度であれ見つけて、「神さま、私はあの人のようでないことを感謝します」と祈るだけです。相手はだれでもいいし、落ち度や失敗の内容もどうでもいい。「自分がいちばん上である」と言いたいだけです。「自分以上の存在はいない」と無差別に見下げるだけです。

この人のことを私が弁護するのは変かもしれません。もちろんすべて想像です。おそらくこの人は孤独です。人の目がこわいし、他の人から批判されることを最も嫌がります。だからこそ、常に自分以外のすべての人を攻撃し、批判する側に自分の身を置こうとします。その究極形態が「神殿で全人類を見下げる祈りをささげる人」の姿です。

もうひとりの人は、正反対の祈りをささげました。「徴税人」はユダヤ社会で見下げられる存在でした。その人が「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)と祈りました。

どちらの祈りが「義とされる」(=「正しいと神さまに認めていただける」)ものであったかを考えてみてくださいというのが、このたとえ話の意図です。答えも記されています。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)。

そしてイエスさまは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)とおっしゃいました。「低くする」ではなく「低くされる」、また「高める」ではなく「高められる」と受け身で言われていることが大事です。「神さまが」そのことをしてくださる、という意味です。

イエスさまは、傲慢な人たちに踏みつけられている人を弁護してくださいます。イエスさまは、そのような苦しみの中にいる人たちの「友」です。

(2022年8月21日 聖日礼拝)

2022年8月14日日曜日

子どもを守る(2022年8月14日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌 主われを愛す(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「子どもを守る」

ルカによる福音書17章1~4節

関口 康

「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」

お気づきの方がおられるかもしれません。今日の聖書箇所は、先週の週報で予告した箇所から変更しました。今日開いたのはルカによる福音書17章1~4節ですが、先週予告したのはマルコによる福音書9章42~50節でした。

両者は「並行記事」ですが、先週予告したマルコの箇所は読めば読むほど「逃げ道がない」ことが分かりましたので、「逃げ道がある」ルカに切り替えました。「逃げてはいけない」かもしれませんが、とにかくお許しください。

しかしわたしたちは、イエスさまの本心の内容まで、都合よく勝手に決めてよいわけではありません。マルコ(9章42~50節)の内容は、わたしたちの救い主、神の御子、イエス・キリストが、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42節)とおっしゃった、ということです。

さらにイエスさまは、人間の体に2つある「手、足、目」のどちらか一方があなたをつまずかせるなら、つまずきの原因になっているほうの側を「切り捨てなさい」とか「えぐり出しなさい」とおっしゃった、ということです。

もちろんこれは、いま私たち自身が聖書を開いて目で見て確認しているとおり、聖書に確かに記されている言葉です。しかもイエスさまがおっしゃった言葉として紹介されているのですから、権威ある言葉に属しますし、見て見ぬふりなど絶対できません。

しかし、だからといって、この言葉どおりに本当に実行しなくてはならないと、わたしたちが考えなければならないかどうかは別問題です。

実例があるのです。多くは「手」ないし手首です。「足」や「目」の可能性がないわけではありません。「切り捨てる」「えぐり出す」までは行かなくても、「切り刻む」方々がおられます。

今はインターネットがあります。自分で自分の体を傷つけた写真をメールで特定の相手に送信したり、ソーシャルメディアで全世界に公開したりすることができます。

私も受け取ったことがあります。インターネットを私が使い始めたのは1998年ですので24年前です。これまでに何通かそのようなメールを受け取りました。1度2度ではありません。

「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれるほうがましだ」のほうは、そういうことを本当にすれば二度と浮かび上がって来ませんので、「試してみました」というわけに行きません。しかし、それに近いこと、あるいはそれに等しいことを実行する方々が現実におられます。

そのようなことをなさる方々が、聖書の言葉、イエス・キリストの言葉、神の言葉に基づいてなさるかどうかは、その方自身しか分からないことです。しかし「そうである」と言われたことがあります。「聖書にそう書かれていたのでしました」。そういうことが現実にあるということを、わたしたちは認識する必要があります。大げさな作り話ではありません。

私がいま申し上げていることは、イエスさまに対する批判ではないし、聖書に対する批判でもありませんが、だからといって、自分の体を自分で傷つける方々を責めているのでもありません。「だれが悪い」「だれのせいだ」と言い合って解決する問題ではないと私には思えます。

しかし、たとえイエスさまであっても、言いたい放題ではまずいのではないでしょうか、いくらなんでも言い過ぎではないでしょうか、酷すぎではないでしょうか、くらいは言っておくほうがよさそうに思います。本当に実行する方々がおられるからです。実行する方々を責めているのではありません。「お願いですからやめてください。そんなことをなさらないでください」と懇願したい気持ちがあるだけです。

しかし、なぜイエスさまはこれほどまでに過激なことをおっしゃっているのでしょうか。その意図を考える必要があります。

「小さい者」(マルコ9章42節、ルカ17章2節)の意味は「子ども」です。「つまずかせる」と訳されているギリシア語は「罠(わな)」や「餌(えさ)」という意味を持つスカンダロン(σκανδαλον)という名詞の動詞形のスカンダリゾー(σκανδαλίζω)で、英語「スキャンダル(scandal)」の語源であるという話は、教会生活が長い方はお聞きになっているでしょうし、今日初めての方は、これから何度も聞かされる話ですので、ぜひ覚えてください。

「つまずかせる」というと、柔道の足払いや大外刈りのように足をひっかける技を仕掛けること、あるいは石や木の棒などを地面に置いてだれかの足を引っかける悪さをすることなどを連想するでしょう。

しかし、ギリシア語の意味はそちらのほうでなく、餌を仕掛けて動物や鳥などをおびき寄せ、餌を食べている隙を狙って上から網をかけて、捕縛することです。そのような意味だという意味のことが、岩隈直(いわくま・なおし)氏の『新約ギリシア語辞典』に記されています。

いま申し上げたことをまとめれば、「小さい者の一人をつまずかせる」の意味は、子どもに餌を与えて罠にかけるような騙し方をして、罠をかけた側の人(「子ども」と比較される存在は「大人」)の食い物にすることで、その子どもの心身をめちゃくちゃに破壊し、将来と人生から光を奪い、落胆と絶望へと陥れることです。

そのようなことが許されていいはずがないと、イエスさまが、実際に罠にかけられて食い物にされてボロボロに傷つけられ、自分の言葉で物も言えなくなってしまっているかもしれないその子どもたちの代わりに、ほとんど怒り狂うほどの勢いで激しい言葉を発しておられるのです。

「大人になるまでは誰からも傷つけられたことがなく、大人になって初めて傷つけられた」という方々が、現実の世界にどれくらいおられるかは、私には分かりません。しかし、傷を受けた年齢が低ければ低いほど、その傷を背負って生きなければならない年月が長くなります。

私は今、算数の問題のような話をしました。治る傷ならば問題ないと言えるかどうかも難しい問題です。しかし、まだ子どもであるときに、一生治ることのない傷を、大人である人から明確な悪意をもって、または悪ふざけで、心身につけられて、それを70年も80年も90年も背負って行かねばならないとなれば、だれにとっても大問題でしょう。

そのようなことを大人がしてはいけない、させてはいけない、という明確な警告をイエスさまが発しておられると考えることができるなら、最初に申し上げた自傷行為の問題とは違った次元と角度から、今日の箇所のイエスさまの言葉を理解することができるのではないかと思います。

しかし、今日マルコでなくルカを選んだ理由は、子どもを罠にかけて騙して食い物にするような悪党でさえ、子どもだけでなく大人相手の犯罪をしでかす人でさえ、もしその人が悔い改めるなら「赦してやりなさい」(3節、4節)と、イエスさまがおっしゃっているからです。

「そんな都合のいい話があるか」と私も何度も言われてきました。「キリスト教はずるい教えだ」と。たしかにそうかもしれません。しかし、今こそわたしたちは、自分の胸に手を当てて考えるべきです。「私は今までだれも傷つけたことがないだろうか。私のために苦しんでいる人がいないだろうか。赦してもらわないかぎり生きてはならないのは私自身ではないだろうか」と。

しかし、覆水盆に返らず、考えることしかできないし、考えても無駄かもしれませんが、全く考えないよりは、少しはましです。私も他人事ではありません。重い言葉であることは確実です。

(2022年8月14日 聖日礼拝)

2022年8月7日日曜日

平和に過ごす(2022年8月7日 平和聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌531番 こころのおごとに(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

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「平和に過ごす」

マルコによる福音書9章33~41節

関口 康

「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」

今日は8月第1日曜日です。日本キリスト教団が1962年に定め、翌1963年から実施している「平和聖日」です。1960年の日米安全保障条約に反対する国内の平和運動との関係で定められた日です。そのことを昨年度も申し上げました。

しかし、私には軍隊経験はありませんし、戦争の現場にいたことも無いし、キリスト教や他の平和運動の団体に属していません。私にできることがあるとすれば、聖書の中で「平和」は何を意味するかを解説することと、戦争が終わることを祈ることです。

無力さを痛感していないわけではありません。しかし、長年私を支えている言葉があります。メールのやりとりでした。20年ほど前です。現在、首都圏の国立大学で政治学を教えておられる教授です。私とほぼ同世代で、日本キリスト教団の教会に属するキリスト者の方です。

なぜ20年ほど前か。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件への報復を理由に始まったアフガニスタン戦争の勃発当初、私は30代でしたが、そのときも何もできない無力さを痛感し、悩んだからです。戦地に乗り込んで平和運動をする人がいることを知り、「あんなふうにできたらいいのに」と考えました。私はそういう人間です。考えるだけで行動が伴いません。

私の思いをその先生に伝えたところ、慰めの言葉をくださいました。「戦地に行って平和のために行動することと、自分が今いる場所で平和を享受し、平和に過ごすことは、本質的に同じ意味と価値を持つので、悩むことはない」(大意)というものでした。

目から鱗が落ちる思いでした。平和運動を日々展開しておられる方々には、まるで言い逃れをしているかのように響く言葉かもしれません。しかし、決して言い逃れではありません。事柄の本質に迫る言葉です。まさに20年、大切に受け止めてきました。

「自分が今いる場所で平和を享受し、平和に過ごすこと」は簡単で当たり前のことでしょうか。何十年も前から「平和ボケ」という言葉を耳にしますが、失礼極まりない言いがかりです。

平和憲法があるかぎり、わたしたちが徴兵されることはなく、自分が武器を取って戦地に立つこともありません。その平和憲法を、現政府が力ずくで変えようとしています。

徴兵が始まれば、戦地に行かされるのは今の子どもたちです。「教え子を戦地に行かせない」という言葉をまさか私が学校の教室で高校生たち相手に力説する日が来るとは想像していませんでした。本当にそうなる可能性がゼロでなくなっています。肯定する意味ではありません。

今日の聖書箇所の中で特に取り上げたいのは、40節の「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」というイエス・キリストの言葉です。

聖書のどの言葉も同じですが、ひとつの言葉だけを前後の文脈から切り離して、勝手な意味を押し付けてはいけませんので、本来ならば文脈の説明を欠かすことはできません。しかし、今日は特別に、別の方法を採らせていただきます。

今日ご紹介したいのは、新約聖書の最初の3つの福音書の中に、いずれもイエスさまの言葉として紹介され、おおむね同じ趣旨でありながら、内容が異なる並行記事がある、ということです。

マタイによる福音書12章30節(新共同訳22ページ)には「わたしに味方しない者は、わたしに敵対し(ている)」と記されています。ルカによる福音書9章50節(新共同訳124ページ)は「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と記されています。

今日の箇所のマルコ福音書の言葉に近いのはルカ福音書のほうですが、マルコで「わたしたち」と書かれているところが、ルカでは「あなたがた」になっています。

言葉どおりに考えれば、イエスさまが範囲に含まれるかどうかの違いです。「わたしたち」にはイエスさまが含まれ、「あなたがた」にはイエスさまは含まれません。その場合「あなたがた」の意味は「教会」です。そして同時に「聖書の読者」です。あなたのことです。

マルコ福音書の言葉と、もしかしたら正反対の意味にもとれるのが、マタイ福音書の言葉です。「味方でない者は敵である」と言うのと、「わたしに逆らわない者」つまり「わたしの敵でない者は味方である」と言うのとで正反対の意味になるかどうかは考えどころですが、かなり違います。

いま挙げた3つの福音書の並行記事の中で、本当にイエスさまがおっしゃった言葉はどれなのかを決定するのは不可能です。それよりも大事なことは、3つすべてが同じひとりのイエスさまから発せられた言葉であると受け入れたうえで、その意味を重層的に考えることです。

このようなことは、私の考えを披歴するより、信頼されてきた参考書の言葉を紹介するほうがよいと思います。日本の教会で古くから読まれてきたアドルフ・シュラッター(Adolf Schlatter [1852-1938])の『新約聖書講解2 マルコによる福音書』(新教出版社、1977年)の今日の箇所のところにマタイ福音書12章30節についての素晴らしい解説があることが分かりました。

「決意のある、忠実な交わりだけが、どこまでもイエスに結びついて行く道である。真心からイエスの側に立たない人は、イエスの戦いの相手、戦って雌雄を決する、世の戦いの相手であるもろもろの力に奉仕し続けている。そこには真剣で、痛切な悔い改めへの呼びかけがあり、決断と決意を求め、どっちつかずの人びとを奮い立たせ、中途半端を裁き、ひそかな敵意を明るみに出し、その人がわれとわが身を投げ込む危険を教えている」(同上書105ページ)。

私なりの言葉で言い換えれば、マタイ福音書のほうの「わたしの味方でない者は敵である」というイエスさまのみことばは、その「敵」とイエスさまが戦闘なさるのではなく、「戦って雌雄を決する世の戦い」から決別して、「戦わないわたしの側につきなさい」という呼びかけを意味するということです。「戦わない決心と約束をしなさい」ということです。

この理解で正しいならマタイ福音書とマルコ福音書は矛盾していません。シュラッターが次のように整理してくれています。「前者〔マタイ〕は、私たちが自分たちのなまぬるいどっちつかずの行き方が気に入ってしまわないように防ぎとめる。後者〔マルコ〕は、私たちが自分たちの弱々しく、未熟な在り方のために気落ちしてしまわないよう防ぎとめている」(同上書106ページ)。

もう一度読みます。シュラッターによるとマルコのイエスさまの言葉には「私たちが自分たちの弱々しく、未熟な在り方のために気落ちしてしまわないように防ぎとめる」意味があります。

自分は安全地帯にいて、平和のために具体的な行動を起こせず、何をすればよいか分からないし、手をこまねいて状況を観察しているだけであることを苦にし、ただ悩むばかりだとしても、「戦わない決心と約束」をお求めになるイエスさまに逆らわないならば、その人々と共にわたしはいると、イエスさまが慰めてくださっている、ということです。

決して言い逃れではありません。「わたしたちが戦いを避け、平和に過ごすこと」が「イエス・キリストの味方」であることを意味します。それは日々の平和運動です。

(2022年8月7日 平和聖日礼拝)