日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 403番 聞けよ、愛と真理の(1、3番)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん
宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます
「ぶどう園のたとえ」
マルコによる福音書12章1~12節
関口 康
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」
先週8月28日(日)私は昭島教会の皆様から1日だけ夏季休暇をいただき、他の教会の礼拝に出席しました。休暇中の行き先についての報告義務はないかもしれませんが、興味を持っていただけるところもあるだろうと思いますので、この場をお借りして短く報告させていただきます。
朝の礼拝は港区赤坂の日本キリスト教団霊南坂教会に出席しました。日曜日の朝の礼拝に出席するのは、先週が初めてでした。しかし、日曜日の朝以外であれば、霊南坂教会で行われた礼拝に出席したことがあります。正確な日時は覚えていません。私が東京神学大学の学生だったのは1980年代の後半ですので、35年ほど前です。その頃に私の記憶では2回、いずれも夕方でしたが、東京教区西南支区主催のクリスマス礼拝などに出席しました。
先週霊南坂教会の会員の方にそのことをお話しし、「当時と同じ会堂ですか」と尋ねたところ、「同じです」と教えてくださいました。なぜその質問をしたかといえば、35年ほど前の私の記憶が夕方の礼拝と結びついていたこととおそらく関係して、かなり様子が違って見えたからです。
調べてみましたら、霊南坂教会は1985年に現会堂を新築されたようで、どうやら私は真新しい会堂での礼拝に出席したようだと分かりました。それも様子が違って見えた理由かもしれません。
新築の5年前の1980年に、当時最も有名な芸能人だった山口百恵さんと三浦友和さんの結婚式が霊南坂教会で行われたことも分かりました。その結婚式のとき私は中学生でしたので、岡山にいました。テレビで見た記憶が残っていますが、そのときは旧会堂だったようです。
わたしたちにとって参考になりそうなことは、先週の時点で非常に大勢の出席者がおられたことです。午前中は強い雨が降っていましたが、それにもかかわらず、です。ご高齢の方々も大勢おられました。会堂が広いから実現できることだろうと言えば言えなくはありませんが、大勢の聖歌隊による合唱がありましたし、もちろん全員マスク着用で、讃美歌の1節と4節を歌うなど短縮しながらも、いつもと同じように賛美がささげられ、礼拝が行われました。
インターネットでの同時中継も行われていましたので、自宅礼拝の方もおられたに違いありません。感染症に対するさまざまな考え方があるのは分かりますし、尊重されるべきです。しかし、むやみに恐れるのではなく、正しく気を付けることの大切さを思わされました。
とにかくみんながひとつに集まって礼拝をささげるとき、教会は大きな力を得、互いに励まし合うことができます。そのことを実感できました。霊南坂教会の皆さんに感謝いたします。
さて、今日の聖書箇所は、マルコによる福音書12章1節から12節までです。ここに記されているのは、イエスさまのたとえ話と、それを聴いた人々の反応です。
暗い話になるのはなるべく避けたいと願います。しかし、今日の箇所の最後の節に「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕えようとした」(12節)と記されているのは穏やかではありません。気になりましたので原文を調べてみました。それで分かったのは、少し強すぎる訳のようだということです。
ギリシア語の原文には「イエスが〝自分たちに対して〟(プロス・アウトゥース(προς αυτους))このたとえを話された」と記されているだけです。古い英語聖書では「アゲインスト・ゼム(against them)」と訳されていますので、最も強く訳して「彼らに反対する」です。比較的新しい英語聖書の中に「エイム(aim)」という動詞の例がありました。「狙う」「当てつける」などの意味です。
あえて取り上げるほど重要な問題ではないとお感じになるかもしれません。しかし、日本語の「当てつける」に「はっきりそれと言わずに、何かにかこつけて悪く言う」(広辞苑)という意味を感じるのは私だけではないはずです。まるでイエスさまが陰険な嫌味を言われたかのようです。
「陰険」の意味は「表面はよく見せかけて、心のうちでは悪意をもっていること。陰気で意地わるそうなさま」。「嫌味」は「相手に不快感を抱かせる言葉や態度。いやがらせ」です(いずれも広辞苑)。わたしたちが思い描くイエスさまのイメージに大きく影響するでしょう。
昔の文語聖書(改譯)に「この譬(たとえ)の己(おのれ)らを指して言い給へる」と訳されていました。この訳が私は最も腑に落ちましたのでご紹介します。
このときの場所は、11章27節によると「エルサレム神殿の境内」です。そこにいた「祭司長、律法学者、長老たち」が「彼ら」です。当時のユダヤ教の指導者です。イエスさまは持って回った嫌味をおっしゃったのではありません。むしろはっきり分かるように正面から対決されたのです。
彼らは「イエスが我々に当てこすった」と感じたかもしれませんが、それは彼らの受け止め方です。イエスさまが彼らを恐れて、逃げの一手で遠回しの話をされたのではありません。恐れていたのは彼らのほうです。「群衆を恐れた」(12節)と記されているとおりです。
たとえ話の内容は次の通りです。ある人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して、自分は旅に出かけました。収穫のときになったので主人が自分の僕を農夫たちのところに送ったところ、農夫たちはこの僕を捕まえて袋叩きにし、何も持たせずに主人のもとに帰しました。
主人は他の僕を送りましたが、農夫たちは頭を殴り、侮辱しました。次に送った僕は殺されました。他にも多くの僕を送りましたが、ある者は殴られ、ある者は殺されました。
最後に主人は愛する息子を送りました。主人の期待は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」(6節)というものでした。しかし農夫たちは、主人の跡取りを殺してしまえば「相続財産は我々のものになる」(7節)と言い出し、その息子を殺してぶどう園の外に放り出しました。
「さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか」(9節)とイエスさまが問いかけられました。これが何のたとえなのかがユダヤ教の指導者たちにははっきり分かりました。
ぶどう園の主人は神さまです。主人の僕たちは旧約聖書に描かれた預言者たちです。そして、最後の「息子」はイエスさまご自身です。「ぶどう園」は直接的にはエルサレム神殿ですが、広い意味で受け取れば、真の信仰をもって生きることを志す人々の信仰共同体です。
そうであるはずの大切な「ぶどう園」を、神から奪って自分たちのものにしようとし、神から遣わされた預言者たちをはずかしめ、本来の目的から外れた邪悪なものにしてしまったのは誰なのか。そして、わたしのことまで殺そうとしている、それは誰なのか、あなたがただと、分かるように、イエスさまは「彼ら」を「指して」(文語訳)言われました。
イエスさまはご自身の命をかけてその人々に、真の信仰と命に至る悔い改めを迫られたのです。しかし、イエスさまは十字架にかけられて殺されました。そのイエスさまが「隅の親石」です。イエスさまの命が、新しい信仰共同体としての「教会」の土台です。
わたしたちの教会をイエスさまが支えてくださっていることを、心に刻んでまいりましょう。
(2022年9月4日 聖日礼拝)