2022年10月2日日曜日

最後の晩餐(2022年10月2日 聖日礼拝)

創立70周年記念礼拝(11月6日)のポスターができました
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ぜひご活用ください
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌43番 みかみのたまいし(1、5節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん




「最後の晩餐」

マルコによる福音書14章10~26節

関口 康

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』」

今日の礼拝から、完全に元通りではありませんがコロナ流行前の礼拝順序に戻すことを、先月の役員会で決めました。いま申し上げたことは正確ではありません。詳しく言う必要があります。

2019年12月から始まった新型コロナウィルスの世界的感染に対応するために日本政府が緊急事態宣言を発出した2020年4月7日から5月25日まで当教会は各自自宅礼拝に切り替えました。

宣言解除後しばらくは元の形の礼拝を続けましたが、再び日本政府から緊急事態宣言が2021年1月8日から3月21日まで発出されたときに各自自宅礼拝を再開しました。しかし、そのときは感染対策の方法がそれ以前より分かるようになりました。それで、2度目の緊急事態宣言はまだ解除されていませんでしたが、2021年2月28日の日曜日から礼拝堂での礼拝を再開しました。

そして、その日から「短縮礼拝」に切り替えました。およそ1年半前からです。具体的な変更点は、懺悔の祈り、詩編交読、讃栄、説教後の讃美歌を割愛し、聖餐式を取りやめ、説教の長さを3分の2(約20分)にし、冒頭の讃美歌を最初と最後の節だけを歌うことにしました。この形にすれば、礼拝開始から終了まで、ちょうど1時間(60分)にすることができました。

詳しく申し上げる理由は、1年半も続けた「短縮礼拝」をすぐに元通りに戻すと疲れてしまうので、段階を踏む必要があることをご説明したいからです。何ごとにもリハビリ期間が必要です。説教の長さは、しばらく短いままにします。「元に戻さないでほしい」というご意見があれば考慮します。讃美歌についても、ただちにフルコーラス歌う形に戻さず、少しずつ戻すことにします。

しかし、聖餐式に関しては、毎月のように役員会で相談していますが、再開する決断に至っていません。今日は教会暦の「世界聖餐日」です。しかし決断できません。誤解されたくないのは、わたしたちは聖餐式を面倒くさがっているわけではないという点です。私ひとりが自分の考えで聖餐式を止めているのでもありません。あくまでも感染症拡大防止の観点から延期しています。

聖餐式の考え方について、石川献之助先生とも鈴木正三先生とも秋場治憲先生とも相談したり議論したりしたことがありません。しかし、特に何も言わなくても、理解に齟齬はありません。牧師たち同士の間だけでなく、教会の皆さんとの間でも同じです。

完全に一致できると思うのは、聖餐式は「飲食」であるという点です。だからこそ取りやめています。「教会」は「家族」にたとえられる存在ですが、ふだんから同居する関係ではありません。

病院や高齢者ホームでは家族との面会を禁じている状況が続いています。キリスト教主義学校の礼拝でみんなで讃美歌を歌うことをやめています。だれも面倒くさがっていません。どの団体も、どの施設も、自分の命のように大切にしてきたことを我慢しています。

教会にとっての聖餐式の重要性は、私が声を大にして言いたいことです。しかし、再開しうる段階にまだ至っていないというのが現時点の役員会の判断です。ご理解いただけますと幸いです。

今日の聖書の箇所は、前後の文脈が分かるように長く朗読していただきました。今わたしたちが取りやめている「聖餐式」の出発点であるイエスさまと弟子たちの「最後の晩餐」の箇所です。

同じ状況が描かれた並行記事がマタイによる福音書26章26~30節(53ページ)、ルカによる福音書22章15~20節(153ページ)、コリントの信徒への手紙一11章23~25節(314ページ)にあるということが今日の箇所に新共同訳聖書がつけた小見出しの中に記されています。

ヨハネによる福音書が含まれていないことにお気づきになった方は鋭いです。しかしヨハネが最後の晩餐を描いていないと考えるのは間違いです。説明するのが難しいですが、まるでヨハネ福音書全体が「最後の晩餐」の描写であるかのようです。

「言は肉となった」とイエスさまの肉体性を強調する言葉が出てくるのは、ヨハネ福音書1章14節です(163ページ)。「わたしが命のパンである」というイエスさまの御言葉が記されているのはヨハネ福音書です(6章35節、175ページ)。「飲食」と関係するのは肉体性を持つ存在です。

また、ヨハネ福音書13章から17章は、最後の晩餐の席でイエスさまがお語りになった「遺言」です。特に15章1節の「わたしはまことのぶどうの木」という御言葉が聖餐式との関係において重要です。しかし、たしかにヨハネ福音書には、イエスさまがパンを裂いて弟子たちにお与えになり、杯も同じようになさったことについての描写はありません。

前後の文脈が分かるように長く朗読していただいて、何が分かるのかと言えば、イエスさまと共に「最後の晩餐」を囲んだ12人の弟子たちの中にイエスさまを裏切ったイスカリオテのユダが含まれていたことです。しかもイエスさまはユダが裏切ることをご存じでした。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)と、イエスさまがはっきりおっしゃっているとおりです。

イエスさまはユダの不意打ちに遭われたのではありません。すべてご存じのうえで、これから起こることからお逃げにならず、ユダを排除なさらず、それどころか、パンと杯をご自身の体と血にたとえられて、それらをお分けになり、12人の弟子たちひとりひとりに手渡されました。

イスカリオテのユダだけを悪者にすべきではありません。ペトロもそして他の弟子たちも結局最後は全員逃げてしまいましたので、全員がユダと同罪です。しかし、そのこともすべてイエスさまはご存じでした。ご存じなかったのであれば、すべては不意打ちだったことになりますが、もしそうだったとすれば、イエスさまは十字架の上で、裏切った弟子たちひとりひとりの名前を叫び、「あの者たちもわたしと同じように十字架につけよ」とおっしゃったでしょう。

しかし、そうではありませんでした。イエスさまは、すべてをご存じのうえで、すべてを受け容れ、弟子たちひとりひとりを心から愛し、御自身の体と血、御自身のいのちそのものを彼らに託し、お献げになりました。それがイエスさまと弟子たちの「最後の晩餐」です。

私が「最後の晩餐」(Last Supper)について思い巡らすたびに考えこむのは、「最後」(last)の意味は何かということです。イエスさまの「地上の生涯の最後」の晩餐になりましたが、それは結果論です。わたしたちの人生は、いつが最後なのかがあらかじめ分かるものではありません。

しかし、今回、ひとつたどり着くものがあったのは、今日のこの食事が「弟子たちとの最後」の晩餐であることは、あらかじめ分かる、ということです。「別離」は自然的に起こるだけでなく、自分の自覚と明確な意志をもって行うことでもあります。

ユダやペトロや他の弟子たちの裏切りも、御自身の死も、イエスさまにとって偶発的なことではなく、御自身の意志で選び取られたことです。それは罪人を赦し、受け容れ、愛してくださるイエスさまの深い愛の意志です。

「最後の晩餐」を思い起こし、記念するのが「聖餐式」です。状況が整い次第、再開します。

(2022年10月2日 聖日礼拝)