2014年12月6日土曜日

松戸朝祷会奨励

カトリック松戸教会 会堂

マルコによる福音書1・1~8

「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。』」

おはようございます。今日初めて松戸朝祷会でお話しさせていただきます関口康と申します。日本キリスト改革派松戸小金原教会は小金原7丁目にあります。よろしくお願いいたします。

私は10年半前の2004年4月から松戸にいます。皆さまにご挨拶させていただくのが初めてなのは、私の怠慢ゆえです。どうかお許しください。

最初ですので長々と自己紹介したくなりますが、そういう場所ではないように思います。しかし、少しだけお許しいただきたいです。私の話ではなく、私の父の話です。

父は千葉大学園芸学部の出身者です。1950年代に日本基督教団松戸教会で洗礼を受けました。その後、父は岡山県の農業高校の園芸科教員になりました。今も岡山にいます。私は岡山で生まれました。

その父にとっての松戸の思い出が強烈だったようです。私も幼いころからよく話を聞かされました。10年半前に松戸に来たとき、初めて来たような気がしなかったのは、父の影響です。

あと少しだけ、私のことになりますが、松戸に来てから私の子どもたちが小学生とか中学生の頃、松戸市少年補導員をさせていただいたり、栗ケ沢中学校のPTA会長をさせていただいたりしました。そのようにして松戸の皆さまのお仲間に加えていただきたく願ってきました。

さて今日お話しすることを命ぜられた聖書の箇所は、マルコによる福音書の初めの段落です。

いまはアドベントですので、今日イエスさまのご降誕についてのお話をするほうがよいのかもしれないのですが、他の福音書と異なり、マルコによる福音書の冒頭にはイエスさまのご降誕についての記事が出てきません。その箇所についてお話しするようにとのご指示です。

しかし、私はマルコによる福音書が好きです。この福音書は他の福音書とは違う魅力があります。いくつかの特徵を挙げてみます。

第一は、いま申し上げたとおりイエスさまのご降誕の記事がないことです。

第二は、4つの福音書で最も短い福音書であることです。コンパクトなイエス伝です。

第三は、きっちり前半部分と後半部分に分けることができる単純な構造なので、話が分かりやすいことです。前半部分が「ガリラヤ編」、後半部分は「エルサレム編」です。後半に描かれているのは、イエスさまがエルサレムに入城された日から一週間分の出来事です。前半が二年か三年分です。

第四は、前半と後半とのコントラストが明瞭であることです。それは、イエスさまの言葉から想像できるイエスさまの表情のコントラストです。

前半部分のイエスさまは明るい。言葉が優しいです。ガリラヤの民衆の仲間です。

しかし、後半部分のイエスさまの言葉は暗い。苦虫をかみつぶしたような表情が思い浮かびます。他の福音書では裁判の最中や十字架上でもいろいろとお話しになるのですが、マルコは違います。最後はほとんど無口になられます。暗い表情で黙ってすべてを耐えておられるイエスさまが描かれています。

しかし、そういうイエスさまが私にとっては魅力的です。人間くさい、人間らしいイエスさまです。わたしたちにとって身近に感じる、親しい気持ちをもつことができるイエスさまです。

しかし、みなさんから私にお知らせいただいた聖書の箇所には、イエスさまご自身は出てきません。ここに出てくるのは、イエスさまではなく洗礼者ヨハネです。

ヨハネはイエスさまが救い主としておいでになるための道備えをする役割を果たした最も重要な人物の一人です。人間的な言い方がすぎるかもしれませんが、イエスさまよりも前に活動していた先輩伝道者という面がありました。このヨハネがイエスさまに洗礼を授けました。

そして、イエスさまが神の国の福音を宣べ伝える伝道のお働きをおはじめになったのは、「ヨハネが捕らえられた後」(1・14)であると、マルコははっきりとヨハネの逮捕との関係を記しています。

さらに、マルコは、ヨハネがだれに何のために逮捕され、どのような非業の死を遂げたかを記しています(6・14~)。朝する話ではありませんが、盆に載せられたヨハネの生首の描写まで出てきます。

これで分かることは、洗礼者ヨハネがイエスさまにとっての道備えの役割を果たした人物であるということの意味は、単にイエスさまよりも前に伝道していたとか、イエスさまに洗礼を授けたとか、そのようなことだけではないということです。

当時の政治権力者によって、彼らの宴会の余興の場で、実にくだらない理由で、命を奪われた人物、それがヨハネでした。そして、ヨハネが殺害されたのと同じ時代に、イエスさまも殺害されました。それが意味していることは、ヨハネとイエスさまがご活躍になった時代は、悪い政治が行われている暗い時代だったということです。

その中でイエスさまは、ガリラヤの民衆に対しては「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」(6・34)んでくださいました。ガリラヤ地方の人々に向けられたイエスさまの言葉と表情は、優しく温かく慈愛に満ちたものでした。

しかし、後半部分「エルサレム編」のイエスさまの言葉と表情は暗い。苦渋に満ちておられます。しかし、それはイエスさまが悪いのではなく、その時代が悪く、暗かったのです。イエスさまはその悪い時代に立ち向かわれたのです。厳しい表情で。辛辣な言葉で。

少し乱暴な言い方をお許しいただけば、この福音書の後半のイエスさまは、へらへら笑っておられなかったのです。そのような厳しいイエスさまにこそ、私は慰められるものがあります。

わたしたちはどうでしょうか。今の時代は良い時代でしょうか。良い時代であるとは私にはとても思えません。

わたしたちもこの時代に立ち向かおうではありませんか。イエスさまのお姿を思い起こし。ヨハネの姿を思い起こし。

(2014年12月6日、松戸朝祷会奨励、於カトリック松戸教会)