日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂 |
マルコによる福音書6・45~56
「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」
来週の日曜日がクリスマス礼拝です。いまわたしたちはアドベントの季節を過ごしています。いまお読みしました聖書の個所に書かれていることは、必ずしもクリスマスと直接関係あるようなこととは言えないかもしれませんが、救い主イエス・キリストが来てくださったことの意味を考えるための非常に良いテキストであると思いますので、今日はこの個所を共に学ばせていただくことにしました。
「それからすぐ」(45節)と書いています。「パンの出来事」(52節)の直後であることを指しています。イエスさまのもとに集まって来た五千人もの人々の前で、イエスさまが、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配されました。すべての人が食べて満腹し、パンの屑と魚の残りを集めると十二の籠にいっぱいになりました。パンを食べた人は男が五千人でした、という出来事です。
しかし、この「パンの出来事」は、その前から続いている話の中で出てくることでもあるということを先週お話ししました。もちろんすべての話はつながっています。しかし、直接的に関係があるとはっきり言えるのは、「十二人を派遣する」という小見出しのついた段落からです(6・6b以下)。
イエスさまの伝道によって、イエスさまを信じます、従います、というところまではまだ至っていなくても、イエスさまに興味があります、イエスさまがしておられる働きはすごいと思いますというくらいの気持ちを持ち、イエスさまのもとに集まってくる人が非常に多くなりました。ブームという言葉を使ってよいと思います。集まっているのは、いわばイエスさまのファンです。実際、ブームは長続きはしませんでした。しかし、一時的にせよ、とにかくそういう状態になりました。
それで、さすがのイエスさまでも、おひとりですべての人のお世話をすることが物理的に不可能になられました。それでイエスさまは、十二人の弟子に「汚れた霊に対する権能」をお授けになることによってイエスと同じ働きができるように免許をお与えになり、二人一組にして、つまり、十二人を六組に分けて、イエスさまから離れたところで伝道するように、彼らを派遣なさったのです。
しかし、弟子たちの働きには、もちろんいろんな点で限界があったのだと思います。イエスさまと同じことができる免許を与えられたと言っても、まだ初心者運転中でもあり、訓練中の身でもあった彼らです。行く先々で失敗や挫折があったでしょう。そのこともイエスさまは十分に分かっておられますので、おそらく定期的に彼らがイエスさまのところに帰ってきて、みんなで集まって伝道報告会ができるような仕組みをお作りになりました。
それで彼らがさっそくイエスさまのところに帰ってきました。案の定、ぼろぼろに疲れていました。だから、イエスさまは、彼らを休ませてあげたいと思ってくださり、きみたちだけで人里離れたところで休んできていいよと言ってくださったのですが、するとまたそこに、イエスさまのファンが追いかけ、押しかけてきました。弟子たちの休養先に先回りして待ち伏せするほどの熱狂ぶり。それでもイエスさまは弟子たちをかばわれました。集まって来た大勢の人たちに対してイエスさまは、疲れている弟子たちの代わりに、御自分でまた説教をおはじめになりました。
しかし、遅い時間になりました。そこで弟子たちが「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」(35~36節)と言ったら、イエスさまの顔色が変わりました。そうだね、そうしようというお返事ではなく、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)と言われました。
そうしたら今度は弟子たちの顔色が変わりました。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」(37節)。
わたしたちが疲れていることを、イエスさま、あなたがいちばんご存じでしょう。あなたの言うとおりにしたじゃないですか。さんざん働いてきました。ぼろぼろに疲れています。だからあなたはわたしたちに、人里離れたところで休んでいいよと言ってくださったじゃないですか。だけどなんだかわけがわからないほどたくさんの人たちが集まってくる。もう勘弁してほしいです。早く帰らせてほしい。わたしたちにも家庭があります。だから人々を解散させてくださいと言っているのに、あなたがたが彼らに食べ物を与えなさいと言う。これ以上まだ、わたしたちをこき使うつもりですか。冗談じゃありません。弟子たちはキレたのだと思います。
しかしイエスさまは、そこで一切お譲りになりません。そうかそうか分かったよ、きみたちの言うとおりだよとはおっしゃらない。ご自身のもとに集まった大勢の人々の「飼い主のいない羊のような有様」を深く憐れんでくださったイエスさまは、飼い主になることをご自身で買って出られた以上、とことんまで付き合ってくださいます。
イエスさまとしては、弟子たちの言い方を不服とされたのではないかと思います。もし弟子たちがイエスさまに「わたしたちが疲れました。わたしたちのお腹がすいています。だから、もう帰らせてください」と言ったなら、別の答えをしてくださったかもしれません。弟子たちが疲れていることは、イエスさまがいちばんよく分かっておられることだからです。
しかし彼らが言ったのは、人々を解散させてください、自分で食べ物を買いに行くでしょうということでした。問題のすり替えがあります。人のせいにしています。十二人の使徒もイエスさまの弟子であることには変わりないのですが、我々はあの群衆とは格が違うと言いたげです。そういう弟子たちの口ぶりがイエスさまにとってはご不満だったのだと思います。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という意味は、あなたがたが最後まで責任を取りなさいということです。
しかし今日は「パンの出来事」の話を繰り返す時間はもうありません。それは先週終わった話です。イエスさまの奇跡的な力により、五つのパンと二匹の魚が分配され、五千人の人々が満腹するという出来事が起こりました。「それからすぐ」(45節)です。
さすがに弟子たちの疲労も限界に達したのでしょう。イエスさまは彼らをかばい、逃げ道を与えるために「強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ」てくださり、「その間に御自分は群衆を解散させ」(45節)ました。優しいイエスさまです。
解散も一苦労です。集まっている人たちは皆、イエスさまのところに行きたい人たちであり、一緒にいたい人たちであり、家に帰りたくない人たちです。そういう人たちが五千人もいたわけです。五千人を怒らせてしまったら暴動が起きるでしょう。怒らせてはならない。笑顔になってもらわなくてはならない。だからイエスさまがすごいことをしてくださり、みんなが笑顔になったので素直に帰ってくれたのです。そういうことをすべてイエスさまがしてくださったのです。弟子たちには、そういうのは、疲れ果てていたことと面倒くさかったことで、できなかったし、やりたくなかったことでした。
そしてすべての人が帰りました。イエスさまは一人になられました。イエスさまもお疲れになったので、祈るために山に行かれました。その間に弟子たちの舟は湖の真ん中あたりまで進みましたが、そこで逆風が起こりました。前に進まない。後ろに押し戻される感じだったのかもしれません。
そのような中でイエスさまが、またすごいことをなさいました。書かれていることをそのまま読みます。「夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである」(48~49節)。
イエスさまは何をなさったのでしょうか。書いてあるとおりですとしか言いようがありませんが、サーフィンみたいなことでしょうか。嵐のガリラヤ湖でイエスさまがサーフボードに乗って弟子たちの舟まで来られたという話でしょうか。そういう話だと面白いかもしれませんが、おそらくそういうことではなさそうです。これもやはり、奇跡としか言いようがないことです。イエスさまだけに可能な方法があったに違いないと言わなくてはならないと思います。
ただ、イエスさまがこういうことをなさった理由ないし目的は、はっきりしています。弟子たちに安心してもらいたかっただけです。
私が先ほどから繰り返し言っているのは、弟子たちは疲れている、弟子たちは疲れているということばかりです。派遣先から疲れて帰ってきて、休みをとろうとしても追いかけられて、いつまでも帰らない群衆を帰らせてくださいとイエスさまに言ったら、あなたがたが食事を用意しなさいと言われてしまい。やっとすべて終わって、休養先に行くために舟に乗ったら嵐に襲いかかられて。弟子たちとしては踏んだり蹴ったりの状態。わたしたちは神さまに見捨てられているのではないかと言いたくなるような状態だったのだと思います。
私の目には、この弟子たちの姿が、今のわたしたちの姿、21世紀の日本の教会の姿と重なりあって見えます。疲れ果ててしまっている。
そのような疲れ果てた弟子たちのところにイエスさまが追いかけて来てくださったという話です。ここに書かれていることの意図はそれだけです。どういう方法で来てくださったのかは分からないことですが、とにかく来てくださいました。弟子たちを助けてくださるために。そして「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださいました。それで十分ではありませんか。
「幽霊だと思った」と書かれているのはユーモラスでさえあります。弟子たちがイエスさまを幽霊呼ばわりです。しかし、これで分かることは、イエスさまと弟子たちの絆の深さです。イエスさまは、弟子たちを見捨てない。わたしたちもイエスさまの弟子です。イエスさまはわたしたちを見捨てない。イエスさまは、なんとかして、強引な方法を使ってでも、わたしたちのところに来てくださる方です。
(2014年12月14日、松戸小金原教会主日礼拝)