千葉と茨城の県境(利根川)の位置から富士山が大きく見えました |
もしファン・ルーラーがbeddingを地質学の概念としての「地層」という意味で言っているとしたら、traditie (naar achteren en naar voren)は、「(以前からも、それ以降からも影響を受ける)伝統」とか「(以降に影響を与えると同様に、以前からも影響を受けている)伝統」という意味ではないかと考えてくださいました。
そのとおりだと思います。その先生曰く「地層が形成されるのは、以前の地層の上にしかそれ以降の層はないし、その層だけはその層以上の層の重みで、変性していきますから」とのこと。ドンピシャです。さすが理系の先生、ありがとうございます。
私は英語がからきしダメなので申し訳ないのですが、
Ook van de theologische arbeid is de gemeenschap het subject en de traditie (naar achteren en naar voren) de bedding.
という原文を無理に英語っぽくすれば、
最初のookはalsoで、van de theologische arbeidは、of the theological taskです。
続くis de gemeenschap het subjectはthe community is the subjectで、
en de traditie (naar achteren en naar voren) de beddingはand the tradition (backwards and forwards) is the stratum.てな感じだと思います。
問題は、この場合のsubjectをどう訳すかです。
今のところの暫定訳としては、一つ前の文章から行くと、
「誰々さんの神学」というのは「誰々さんの地質学」ほどありえない言い方(直訳「表現」)である。
または、もうちょっと固く訳せば、
固有名詞の神学は固有名詞の地質学ほどありえない。
神学の場合も(地質学と同じように)共同体が運営主体(subject)であり、伝統(過去への伝統、未来への伝統)が地層である。
ファン・ルーラー、オランダ語、難しいです。
まあでも、前後の文脈からいえば、「地層」のことは、たぶんほんとにダジャレのレベルの話(セオロジーとジオロジー、オランダ語ではテオロヒーとヘオロヒー)だと思うので、あまり深みにはまりすぎないほうが良いと思います。
ファン・ルーラーが言いたいことを別の言葉に言い換えれば、私の『神学著作集』は私の『組織神学』じゃないですからね、ということだと思います。
いろんな時代にいろんなテーマで私が書いた雑誌論文を集めてきましたけど、古い雑誌を入手したり閲覧したりするのが難しくなってしまった若い世代の人や外国人を助けてあげるために集めてあげただけであって、この『神学著作集』をもって「ファン・ルーラーの神学体系」を論じられても困りますからねと、釘をさしているのだと思います。
そこまで書いて、ファン・ルーラーの胸のうちに、現代神学の風潮へのへ不満がこみ上げて来る。
「カール・バルトの神学」「パウル・ティリッヒの神学」「ディートリッヒ・ボンヘッファーの神学」とか言ってる人たちがいるけど、一人の人間に「神学」のすべてを代表させることなんかできませんよと。「○○さんの神学」とかいう言い草は「○○さんの地質学」ほどありえないことですよと。
神学は個人プレーではなく、共同体(というか教会!)がやるものだし、伝統を相手にするものですよ。地層の年代調査のようなものですよ。そんなこと一人でできるわけがないことくらい分かりますよね。
だから、最初から最後まで(神学序論、神論、キリスト論、救済論、終末論など)全部の体系を自分一人で作り上げてやるという野望などは捨てたほうがいいですよ。え、私ですか?そんな野望は、持ってない持ってない(ありえないありえない)、というような話ではないかと思います。
ですが、ファン・ルーラーのこの言葉にはどこかしら悔しさが含まれているような気がする(あくまでも「気がする」だけですが)というのが私の見方です。本当にこの第一巻(1969年)を出版した翌年(1970年)に亡くなりました。病気がちであったことは確実です。
ファン・ルーラーは、一冊の『組織神学』の教科書を書く意志が全くない組織神学者だったのだと言ってしまえば、それまでです。実際「教科書を書く気はない」と学生たちに言ったことがあるそうです(石原知弘先生調べ)。
それはファン・ルーラーの神学思想の特質に由来することでもあると思いますが、同時に、体力的なことと無関係であるとは私には思えないのです。
しかし、神学は地質学のようなものであるとファン・ルーラーが考えていたことは間違いなさそうです。それは「地に足をつけろ」的な意味合いがあると思います。
ファン・ルーラーが繰り返し「キリスト教こそが真の唯物論(マテリアリズム)である」とか「使徒パウロほどの唯物論者(マテリアリスト)はいない」とか「共産主義はキリスト教よりブルジョア的だ」とか言うのも、趣旨は同じだと思います。
鎖国中の日本が唯一オランダだけ貿易を許可したのは「キリスト教を持ち込まない」という約束ゆえだったわけで、杉田さんの『解体新書』(1774年だそうで)はその時代の産物です。
『解体新書』出版240年の2014年、ついにネットで和蘭神学事始ということですかね。「神学解体新書」は過激なネーミングですけどね。
プレートテクトニクス理論が主張されはじめたのは、1960年代から1970年代にかけてだと教えていただきました。そうだとすれば、この『神学著作集』第一巻(1969年)の「序文」はその新しい理論を知った上で書いていることが分かります。。
ファン・ルーラーはアポロ11号の月面着陸(1969年7月)も知っています。そのことについて書いた文章が残っています。
それでだんだんわかってくることは、ファン・ルーラーは「地質学」にものすごく深い意味をこめているらしいということです。私はまだダジャレ説を撤回しませんけどね。ものすごく神学的に考えぬいたダジャレですね、これは。
神学と地質学のアナロジーでファン・ルーラーが言いたいのは、神学はまさに地質学ほどに緻密なサイエンスだということだと思います。聖書と何冊かの教理の本を読めば、それで十分「神学」をやったことになるというような感覚はファン・ルーラーには皆無です。
ファン・ルーラーが改革派神学者として特に徹底的に調べぬいたのは、17世紀の改革派スコラ神学者と今日では呼ばれる人々の本です。ファン・ルーラーの死後20年ほど経った1990年代に古書店に売却された蔵書は四千冊ほどでした。乱暴な言い方をお許しいただけば「神学をなめるな。十分立派なサイエンスだよ。文句あるか」と言っているのだと思います。
ファン・ルーラーの時代に始まったことではありませんが、ヨーロッパの「国立大学神学部」は、自然科学こそがサイエンスであり、それに反する神学はサイエンスではないとか、単一宗教(キリスト教)を絶対化して教えることは民主主義(政教分離原則)に反するとか、資本主義に反する(神学を勉強しても金にならない)とか、いろんな理由をつけられて排除されてきた斜陽学部です。
そういう中でファン・ルーラーは必死の思いで「国立大学神学部」を守ろうとした人です。神学が「教会のファンクション」(にすぎない)と見られることを拒否し、神学は「キリスト教化された国家のファンクション」であると、最後まで主張し続けました。負け犬の遠吠えだと見ていた人たちもいたでしょうね。
いちばん早い話をすれば、神学を本格的に営むためには「国家予算」が必要だということです。「そんなホグワーツの魔術学校みたいなことは、お前たちの自費でやってろ」的な嘲笑が、ファン・ルーラーには耐えられなかったのだと思います。