いまヒトケタとか10代くらいの人が字を書く側になる時代が来るのを待っている。字を書く人の視点で世界が動かされている面があると思うからだ。「親にキラキラした名前つけられたけど案外大丈夫でしたよ」とか、「少子高齢化のほうがラッキーでした」とか、「大学全入でよかったです」とか、ぜひ教えてほしい。
皮肉で書いているのではない。大真面目である。私のネットのお友達の世代は、20代くらいから80代くらいまでとかなりワイドレンジなので、「世代」に関わることを私が書くと、どの世代かの人に必ず反発されるし、憎まれる筋書きになっている。ある世代の人に歓迎されても、他の世代の人に嫌われる。
ただ、名前がキラキラしているかどうかにしても、少子高齢化や大学全入にしても、それがダメだ問題だと言っているのは、いまヒトケタや10代の人ではなく、もっと上の世代の、自分が書いた字で世界を動かしてやろうとしている人たちなわけだ。その人たちは実は「当事者」ではない。傍観者じゃないか。
10年も前ではない。当時中学生だった長男や小学生だった長女に「家が教会だとかで友達に何か言われることないか」と聞いたことがある。二人とも何を質問されているのか分からないという顔をしている。もう一歩踏み込んで「宗教がどうのとか言われないか」と聞いた。それで返ってきた答えはこうだ。
「はあ。まあ、いまの中学生は神社と寺の違いも知らないからな。おれは知ってるけど。おれの友達が、教会が何してるかなんか知るわけないじゃん。おれの家が教会だからとかで、誰も何も言わないよ」だそうで。いいんだか悪いんだか、いまのヒトケタや10代の人に宗教アレルギーはもはやないようだ。
それで、ここいらで、今朝の第一声へと話が戻ることになる。「1990年というのは大昔ですからね。自覚ありますかね」とfacebookに書いた。「1990年度に約40万人いた浪人は、今年度は約5万人しかいない」(朝日新聞デジタル2014年12月22日)という一文を目にした感想だった。
自戒をこめた厳しい言い方になるが、今の私くらい(来年50)の世代が幼少期からアニメを見て育ったことと関係あるのかないのかは分からないが、今の子どもたち(ヒトケタや10代の人)と自分たちは「共通感覚を持っている」とか「同世代人である」と《錯覚》している可能性があると、私は思うのだ。
その我々(私と同世代くらいの方々)の意識は、今の子どもたち(ヒトケタや10代の人)にとっては、はっきり言って《迷惑》なものだと思う。「きみらの考えていることは手に取るように分かる分かる」みたいな顔をされるのが不快だろうし、「共通感覚もってるよ」的にすり寄られるのは怖いだけだろう。
あと、これ理解してもらえるかどうか分かりませんが、私、ネットのけっこうなヘビーユーザーだと自覚していますが、いまだに「インターネット」とか「ブログ」とか「フェイスブック」とか「ツイッター」という言葉を人前で発語することに、非常に強度な躊躇があります。恥ずかしいと感じてしまいます。
「ブログ読みました」とか「フェイスブックの書き込み、いつも楽しみにしています」とかいう字のやりとりに慣れてしまっているからでしょうか、「ブログ」とか「フェイスブック」という《音声》を聴くとビクッとしてしまう。その場から逃げ出したくなります。なんなんでしょうね、この感覚は。
日曜日の礼拝の説教の中で「ブログ」とか「フェイスブック」とか言える人の気が知れないと思う。全くありえないことです、私にとっては。両耳をふさいで大声でわーわー叫びたいくらいです。