2014年2月24日月曜日

カール・バルト先生の「全くネイティヴの発音でない」英語講義に慰めを覚えます



これはカール・バルト先生(スイス人)の英語での講義の音声です。

全くネイティヴの発音ではないことに慰めを覚えます。

まるでぼくらの英語みたい。

そんなもんですて。

ネイティヴじゃない人がネイティヴの発音ができないことを笑うな。

ぼくは岡山生まれだけど、

岡山弁のネイティヴの発音ができない人を笑ったりはしない。

かえって、とってつけた岡山弁を偽装的にしゃべる人はイヤだと思う。

どの町の出身者でも同じようなことを感じてるんじゃないの。

なんで英語だけネイティヴ発音を求めるの?

で、できない人を笑うの?  

演劇やるなら別だけど、大切なのは言いたい内容を正確に伝えること。

発音なんかどうでもいいよ。

自信がなきゃ、完全原稿配ればいいだけ。

2014年2月22日土曜日

日記「『発話しにくいこと』と『真理・真実でないこと』は区別しなくてはならない」

私は、ごく最近、ある場所で  「発話しにくいこと(Things that are difficult to speech)と真理・真実でないこと(Things that are not truth)は区別しなくてはなりませんよね?」 と言いました。

どのような文脈で、私がこういうことを言ったのかについては、まさしく「発話しにくいこと」なので、今は書きません。その代わり、もう少し発話しやすい例を一つ挙げておきます。

太った人(私のことです)に「太ってますね」と言うのは、ある人たちにとっては「発話しにくいこと」かもしれません。しかし、それがいくら「発話しにくいこと」だからといって、実際の私は「太っていない」のかと言うと、決してそんなことはありません。たしかに太っています。

しかし、その「発話しにくいこと」と「真理・真実でないこと」とが混同されていることがあるような気がします。

「失言」というのは、「発話しにくいことを発話してしまった場合」と、「真理・真実でないことをあたかもそうであるかのように虚偽的に発話してしまった場合」とがあるのかな、ということも考えさせられました。しかし、後者は「失言」とは呼ばれないかもしれません。分かりません。

これ、ここ数日の「政治」の話ではありませんので、悪しからず。「あの子は大事な場面で必ず転ぶ」とか「戦後教育はマインドコントロール」とか言っているあの人たちを庇う意図などは一ミクロンもありません。

私はオブラートに包んでも言えないクチです。思っていることの1割も口にできません。だけど心の中では思っていますので、もっと悪いですよね。ズケズケ物を言えるのは牧師たちだけです。相手が先輩であろうと恩師であろうと、牧師相手なら「あなたの説教は異端です」とかくらいまで言えます。

だけど、牧師以外の人たちには全く言えません。だから、はっきり言われたことありますよ、「あなたは『生かさず殺さず』なんですね」と。それは自覚ありますし、終始一貫、そうです。ネットでもリアルでも、ぼくの基本は「生かさず殺さず」です。だから友達少ないんでしょうね(涙)。

2014年2月21日金曜日

「飼い慣らされたネムイ神学」がぼくの理想です

たぶん何度となく書いてきたことですが、

聖書も、教会の教義も、そして説教も、教会という重くて硬い鎖にしっかりとつながれているとき初めて、凶暴化をある程度防ぐことができると、私は信じてきました。

だって、言い方は乱暴になってしまいますけどね、実際問題として「神」とか語っちゃうわけですからね。鎖につながれていない存在が「神」とか言っちゃうのは危険すぎるわけです。

そして、その話を耳を澄ましてよく聞けば、「神」とか語っているその本人自身が「ぼく/あたしが神だ~、ぼく/あたしが神だ~」と言ってる話なんだな、これは、と感じてしまうケースは多々あります。そういうふうにならないために、聖書、教義、説教は「教会」につながれていなければならない。

しかし、そういう「教会」にがんじがらめにされた聖書、教義、説教は、まあその、なんて言うか、あんまり面白いものではないです。保守的で、事務的で、無難。結論は予定調和で、驚嘆する要素はほとんど皆無で、だいたいネムイ。

まあ、そんなもんですよ、と言いたいだけです。

「飼い慣らされたネムイ神学」が、ぼくの理想です。

あ、ほんとにネムクなりましたので、今夜はこれにて。

2014年2月16日日曜日

あの宮台真司さんも出ている『ミニストリー』誌にぼくが出ています

次世代の教会をゲンキにする応援マガジン

『ミニストリー』2014年冬号(キリスト新聞社)が、

見開き2ページも使って、ぼくの写真付きで

カール・バルト研究会を紹介してくださいました。

ありがとうございます。

でもって、この記事の中で、

ぼくは「電脳牧師」だそうです。

別の場所で、「ブロガー牧師」と紹介されたこともあります。

もうね、ナニ牧師でもいいや。

『ミニストリー』誌、初めて手に取りました。

申し訳ないことに、触ったことがなかったです。

でもこれ、けっこう面白いです。驚くほど面白い。

ええっ、「あの」宮台真司さんが出てる。すごい!

この内容で「1,575円」(税込)は安いぞ。いいね!

2014年2月14日金曜日

フレッド・サンダース氏の「キリスト論は聖霊論ではない(A. A. ファン・ルーラー)」という文章の一部を訳しました

リンク先の記事の前半3分の1くらいを訳してみました。

誤訳や読みこみすぎのところがあるかもしれませんが、あくまでもご参考までに、という程度でお許しください。

しかし、訳してみて分かったことは、サンダース氏の見方、そしてサンダース氏が紹介しているオランダの二人の神学者の見方には、同意できるところと、同意できないところがある、ということです。

ファン・ルーラーのことに限っては「あとだしじゃんけんだ」というようなことは言われたくない私ですが、彼らが指摘している点については、私もずいぶん前から気づいていました。しかし、私の見方は、彼らが言っていることよりも、あと一歩先のことです。彼らの指摘だけでは不十分だと、私には思えます。

私の見方は、3月24日(月)の「日本基督教学会関東支部会」(会場・東京女子大学)で申し上げます。それまでは、な・い・しょ、です。

フレッド・サンダース氏は、現在、米国バイオラ大学の組織神学の助教授です。

出典URL
http://www.patheos.com/blogs/scriptorium/2009/07/christology-is-not-pneumatology-aa-van-ruler/

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「キリスト論は聖霊論ではない」(A. A. ファン・ルーラー)

フレッド・サンダース

『組織神学国際雑誌』(International Journal of Systematic Theology)最新号でヘイスベルト・ファン・デン・ブリンク氏とシュテファン・ファン・エルプ氏が、20世紀のオランダの神学者による三位一体論的神学の再発見への貢献が欠如していたことを嘆いている。 論文のタイトルは「神が三位一体であることを無視しているのか――オランダ神学における三位一体論について」である。彼らは次のように述べている。「いくつかの重要な教理史的な研究書を除けば、20世紀オランダのプロテスタント神学において三位一体論とその影響について論じた本は一冊も出版されなかった」。この点はオランダのカトリック教会のほうがましだったと彼らは証言する。ファン・デン・ブリンク氏とファン・エルプ氏の報告によれば、オランダの有力なすべての神学者は三位一体論を無視し、放置した。あるいは自己目的に適応するようにねじ曲げ、大胆に再解釈した。あるいは完全に否定した。

二人の論者はアーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])も取り上げている。しかし、彼らはファン・ルーラーを、影響力のあるオランダの神学者ではあるが、三位一体論自体に関心があったわけではなく、自己目的のために三位一体論を利用した神学者の一例として取り上げている。それで私は驚いた。これまで読んできたファン・ルーラーの本は三位一体論の諸命題で満ちていたからである。ファン・ルーラーがしばしば述べたことは、「キリスト論的神学だとか、聖霊論的神学だとか、そのようなものはあってはならない。キリスト論も聖霊論も神学全体の中の部分にすぎない。我々の目標は三位一体論的神学であるとしか言いようがない」ということであった。

しかし私は、ファン・デン・ブリンク氏とファン・エルプ氏の指摘を受けて、ファン・ルーラーの文章を自分で確かめた。それで分かったことは、ファン・ルーラーが実際に関心を持っていたのは神学の包括性(comprehensiveness)の問題であったということである。彼は三位一体論のカテゴリーを、神学の包括性を獲得する方法であると考えていたのだ。彼が好んで用いた言葉は「○○だけではなく(not only)、△△もまた(but also)」である。彼が願ったことは、なるべく広く網を張ることであり、より多くの知識や情報を獲得することだったからである。二人の論者は、ファン・ルーラーの方法を「三位一体論的拡張」(trinitarian spreading)の技法であるとみなす。そして、この点こそが「ファン・ルーラーは自己目的のために三位一体論を利用した神学者である」という彼らの指摘の根拠になっている。「開放的な多様性において、ありとあらゆることが未解決のままであり続けること」を確保することがファン・ルーラー自身の計画でもあったということが、「三位一体論的神学の必要性」という彼の論文を読むと分かる。多くの現代的な神学者がいまだにそうであるように、ファン・ルーラーは、多様性(三位!)についてのきわめて抽象的な概念が同時に究極的に一致すること(一体!)に興奮を覚えた人である(ちなみに私は、現代神学者たちの三位一体論の捉え方は間違っていると考えている)。そして彼は、三位一体の神存在に秘められた「区別性と関係性」という概念を発見した。その線に沿ってどこまでも進んでいけばよい。そうすれば、「三位一体論的発想法」(trinitarian thinking)という大いなる関心事に辿り着くだろう。しかしそれは、三位一体論そのものについて考えることではないのである。

ファン・ルーラーは依然として、読むと非常に刺激を受ける本を書いた神学者である。彼の株価は今後数十年で上昇するだろうと私は予想する。彼の著作集を出版し続ける愛読者がいる。英語や日本語に翻訳されている。あなたは二色の蛍光ペンを用いて彼の本を読むことができる。そのペンの一本は、彼の全作品に見つかる燦然と輝く黄金の命題をチェックするために用いればよい。もう一本は、これもまた彼の本のすべてのページの至るところに散りばめられた、ひどく間違っていて危険極まりない言葉をチェックするために用いるべきだ。ファン・ルーラーの三位一体論についての発言が三位一体論そのものとは異なる関心によって動機づけられていたことを指摘してくださったファン・デン・ブリンク氏とファン・エルプ氏に、感謝を申し上げたい。

2014年2月13日木曜日

日本基督教学会関東支部会(3月24日)の研究発表に加えていただきました

2014年3月24日(月)「日本基督教学会関東支部会」(会場 東京女子大学)の研究発表に加えていただきました。


拙論掲載誌『途上』第28号の広告が出ています

『途上』第28号の広告です。

「キリスト新聞」第3301号(2014年2月15日付け)の一面に掲載されています。

拙論「A. A. ファン・ルーラーの神学思想の特質」も掲載されています。

税込1,785円です。ぜひお買い求めください。


2014年2月8日土曜日

「第24回 カール・バルト研究会」報告


2014年2月7日(金)午後9時から午前0時30分まで

「第24回 カール・バルト研究会」を行いました!

参加者は以下の5名でした(五十音順、敬称略)

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
齋藤 篤(いま東京都内某所)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)
藤崎裕之(北海道七飯町)

齋藤先生は時差ボケ中とのことでしたが、

カール・バルト研究会で目が覚めたとのことです(たぶん)。

今日も面白かったです。

次回は2月21日(金)午後9時からです。

2014年2月7日金曜日

今年のテーマは「神学一筋30年」で行きます

2014年のテーマは「神学一筋30年」にしておきます。

実践神学部門の教科別の紹介です。

「実践神学概論」

イチオシは、左から4冊目の本です。

アムステルダム自由大学神学部で長らく牧会学を教えたヘルベン・ヘイティンク教授の『実践神学』です。右隣は英語版です。

Gerben Heitink, Praktische Theologie, Kampen, 1993.


「説教学」

説教学は今の日本の教会の「ブーム」と言ってよいのではないでしょうか。

ぼくは完全に乗り遅れてしまっていますけどね。


「説教学」(真ん中から左)
「牧会学」(真ん中から右)

左から二番目の大きな二巻本は、1948年に出版された『説教の手引き』(Handboek voor de prediking)という本です。

ユトレヒト大学神学部のファン・ルーラーのポストの前任者だった教義学者S. F. H. J. ベルケルバッハ・ファン・デア・スプレンケル教授とフローニンゲン大学の実践神学者P. J. ロスカム・アビンク教授を中心に編纂されたオランダ改革派教会(NHK)の説教黙想集です。


「礼拝学」

いちばん左の本は、改革派教会の礼拝学についての博士論文です。

1950年にフローニンゲン大学神学部に受理されたE. ファン・デア・スコート著『改革派教会の礼拝 オランダ改革派教会(NHK)のリタージカルな発展について』です。

Ebel van der Schoot, Hervormde eredienst : de liturgische ontwikkeling van de Ned. Herv. Kerk (Rijksuniversiteit Groningen 1950)


「賛美歌・聖歌・詩編歌」

讃美歌21は持っていません。


2014年2月6日木曜日

牧師室の本棚公開(2)

ちょっとだけですが、

牧師室の本棚公開の続き、やります。

日本教会史コーナー 一段目。


日本教会史コーナー、二段目。


日本教会史コーナー、三段目。


実践神学コーナー(実践神学概論、説教学、牧会学、礼拝学)。


宣教と社会コーナー。


牧師室の本棚公開(1)

牧師室の本棚公開。

新約学の本は、注解書を除けば、本棚三段分だけです。この写真の上の段が新約緒論、下の段がイエスさまだな(棚)です。


新約学の本、続き。三段目(この写真の下の段)は弟子だな(棚)です。


旧約学の本も少ないです。最弱ゆえに要強化ポイントです。


カルヴァン関係です。専門家の世界は遥か彼方。いえいえ、挑戦しようなんて思ってませんから。


2014年2月5日水曜日

古本を古本でアップデートしています

日本中の書店が「愛国・反アジア本」だらけになっているそうですね。

ぼくは繰り返し「最近、本屋に行ってない」と書いてきましたが、

「行っても虚しいだけ」という思いが含まれていることを書くのは、もしかしたら初めてかもしれません。

「行きたくない」原因が、やっとなんとなく分かった気がします。

 ***

「最近本屋に行ってない」んですが、

書斎の本は増える一方です。

ぼくの哲コレのカンコレとヘーコレに新コレ。

『精神現象学』は30年前ペーパーバック版を入手しましたが、ついにハードカバー版購入!

写真の3冊すべてヤフオクです。合計1900円。


 ***

まったくどうでもいい話ですが、

ぼくにとって今年(2014年)は神学大学入学(1984年)からちょうど30年です。

「神学30周年、おめでとう、ぼく!」

それもあって書斎の本がやたら古くなってきました。背表紙がパックリ割れているのをセロテープでくっつけてるのとかもいくつかあります。

ぼくの本棚にあるものは当時すでに古本として購入したものばかりなので、今では、いったいどんだけ古いんだな本だらけです。

それで最近、

すでにもっている本ではあるけど汚くなった本を思いきって捨てるために、同じ本の少しはきれいなものを古本屋で(もっぱらヤフオクですが)購入しはじめています。

「内容が同じ」(第○版などが一致)な本を入手できれば、古いほうの本を捨てることに、ぼくはあまり躊躇はありません。

人間の肉体も、分子レベルで言えば、一年もすればすべてが新しい細胞に入れ替わると言うじゃないですか。あれと同じですよ(同じかなあ...)。

「紙の本」には強い思い入れがありますが、さりとて、本の「紙」そのものに執着する思いは、ぼくにはほとんどありません。

辞典・事典類は、ほんとは最新版にアップデートしたいんですけどね。広辞苑はいまだに第4版のままだし。まあ、一度にすべて更新するのは不可能ですので、ボチボチですね。

2014年2月3日月曜日

ファン・ルーラーにおける「宗教と芸術」についての根本主張

ファン・ルーラーへの関心から私にご連絡くださった方(ありがとうございます)に、以下のことを書かせていただきました。

「宗教と芸術」というテーマは、ファン・ルーラーの神学思想のかなり中心部分にあります。彼は「世」あるいは「地上の生」を、「罪」の問題をいささかも軽視しないで、なおかつ非常に肯定的に評価するからです。

「自己愛」といえば、特に心理学方面の発想からすれば非常に悪いもののように言われる昨今です。しかし、ファン・ルーラーは堂々と「自分を愛しなさい」と語ることができます。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」です。世と人と自分自身に対して「全面的肯定」をするように呼びかける神学です。

ですから、人間文化の最大かつ最良の美的表現としての芸術に対するファン・ルーラーの評価も全面的なものです。しかも、そこでの彼の鋭い問いかけは、キリスト者が取り組む芸術はいつでも「キリスト教的な芸術」なのか、そうでなければならないのか、ということです。

そしてそこで彼が必ず問うことは、その場合の「キリスト教的」とは何かという問いです。それはたとえば、聖書の登場人物を描いたり彫ったりすることだけが「キリスト教芸術」なのでしょうか、それ以外はいかなる意味でも「キリスト教芸術」ではないのでしょうか、というような問いです。

ファン・ルーラーの答えは、もちろん「否」です。彼自身の言葉でいえば、「キリスト教的なパンの焼き方とか、キリスト教的な石の積み方とか、そんなものはない」という感じになります。しかし、彼が言いたいことの中に、キリスト者が芸術に取り組むことを軽んじる意図は全くなく、むしろ逆です。

彼の意図は、人がそれに取り組む範囲を狭く小さく切り取るような意味で「キリスト教的なるもの」へと、芸術や人間文化全体を我々自身で自己規制したり狭隘化したりすべきでない、ということです。

つまりは、「キリスト者よ、自由かつ大胆に芸術せよ!」ということです。