2014年2月21日金曜日

「飼い慣らされたネムイ神学」がぼくの理想です

たぶん何度となく書いてきたことですが、

聖書も、教会の教義も、そして説教も、教会という重くて硬い鎖にしっかりとつながれているとき初めて、凶暴化をある程度防ぐことができると、私は信じてきました。

だって、言い方は乱暴になってしまいますけどね、実際問題として「神」とか語っちゃうわけですからね。鎖につながれていない存在が「神」とか言っちゃうのは危険すぎるわけです。

そして、その話を耳を澄ましてよく聞けば、「神」とか語っているその本人自身が「ぼく/あたしが神だ~、ぼく/あたしが神だ~」と言ってる話なんだな、これは、と感じてしまうケースは多々あります。そういうふうにならないために、聖書、教義、説教は「教会」につながれていなければならない。

しかし、そういう「教会」にがんじがらめにされた聖書、教義、説教は、まあその、なんて言うか、あんまり面白いものではないです。保守的で、事務的で、無難。結論は予定調和で、驚嘆する要素はほとんど皆無で、だいたいネムイ。

まあ、そんなもんですよ、と言いたいだけです。

「飼い慣らされたネムイ神学」が、ぼくの理想です。

あ、ほんとにネムクなりましたので、今夜はこれにて。