2013年2月26日火曜日

教皇の辞任は「教義の人」の限界なのか

なんとも後味が悪い文章を読んでしまった。

森一弘氏の教皇批判である(キリスト新聞、第3260号、2013年3月2日付け、第一面)。

「教義の人」の限界?

「『教義の人』としての教皇の辞任の背後には、現代世界における教会の『教義』の限界があったように思われる。」(森氏)

森氏が「教会の教義」と書く場合、それは常に狭義のカトリック教義の意味のみに限定されているようなら、有難い。いっそ、そうであってもらいたいと心から願う。

しかし、そうではなく、全キリスト教会、ないし全宗教の「教義」を意味しているのであれば、ハタ迷惑な話である。

森氏曰く「次に、教会は、教義に軸足を置いた人物を選ぶか、福音に軸足を置く人物を選ぶのか」。

キャッチーなフレーズではあると思うが、まるで「教義」と「福音」は対立関係にあるかのようだ。

「伝統的な教義はそんな人々〔※弱い立場にある人々〕を慰め照らし導く力を失い、ヨーロッパの教会離れは着実に進行している」(森氏)は確かな事実だ。

しかし、もしそうであるならば、森氏には、「教会は、これまで以上にもっと、教義と教義学に徹底的に取り組まねばならない」と言ってほしかった。

「教義の人」「教義に軸足を置いた人物」を十把一絡げにして切り捨てる論法ではなく。

「カトリック教会の従来の教義理解には限界がありました。弱い立場にある人々への視点が欠けておりました。わたくしどもはこれから教義の刷新、教義の改革に取り組んでまいります」とでも書いてほしかった。

「教義」ではなく「福音」で、という二者択一ではなく。

出るのはため息ばかりだ。


2013年2月19日火曜日

「カーニヴァル性」でも「価値観の宙づり」でもないです

もしパウロの時代にブログがあったら(1)  (2011年7月30日)
http://ysekiguchi.blogspot.jp/2011/07/blog-post_30.html

もしパウロの時代にブログがあったら(2)  (2011年7月31日)
http://ysekiguchi.blogspot.jp/2011/07/blog-post.html

「もしパウロの時代にブログがあったら」をめぐる穏やかな対話  (2011年8月2日)
http://ysekiguchi.blogspot.jp/2011/08/blog-post_02.html

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ありゃりゃ、えー、「2011年8月2日」と書いてある。この記事、もう一昨年のものですかね、時間が経つのは早いですね。

何の気なしに、ブログの過去記事を読み直していました。

この「対話」のお相手(zubi先生)が「パウロのカーニヴァル性」とか「価値観の宙づり」とかおっしゃったとき、正直言ってぼくは、その意味が分からなかったんです。

それで、ちんぷんかんぷんな答えをしてしまいました。

でも、さっき読み直してみて、「あ、違う」と分かりました。

ぼくの「パウロ超訳」の意図は、「カーニヴァル性」でも「価値観の宙づり」でもありません。

「からかう」意図も、「侮る」意図も、「蔑む」意図も、ぼくには皆無だからです。

もしそのように読まれてしまうとしたら、ぼくの負けです。

意図を伝えることができない、拙い文章力しか持ちえていないぼくの敗北です。

聖書や教会や宗教を、からかいや侮蔑という方法で「引きずりおろさなければならない」ほどの”権威”であると、いまだかつて感じたことがないからかもしれません。

もしぼくが、そのようなものを、そのような意味での”権威”だと思っていたら、そもそも牧師になどなろうと思ったはずがないです。

”権威”の座に着きたくて牧師になろうと思った人、います?

「手挙げてください」って言ってみたい。

ぼくの友達には、いないなぁ(笑)。

聖書や教会や宗教を、からかいや侮蔑という方法で「引きずりおろさなければならない」と思っている人は、悪い意味での権威主義者ですね、たぶん。

ぼく、そうじゃないもん。権威主義者に見えます、ぼく?

違う違う、ぜんっぜん違う。

パウロって普通の人でしょ。教会に通っている人たちも普通の人。

普通の人が、普通の人に、普通の言葉で話をすれば、こんな感じになるんじゃないかなと想像しながら「普通の言葉で」超訳してみただけです。

ぼくは”権威”をからかったことはないです。侮蔑したこともない。そんなこと、したくないもん。

つい、からかいたくなるのは、悪い意味での権威主義者のことだけです。

「大丈夫かよ?」と心配になってしまうだけです。

2013年2月10日日曜日

自分はいかに弱く小さな存在か


マタイによる福音書26・31~46

「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。』するとペトロが、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』ペトロは、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った。それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。』更に、二度目に向こうへ行って祈られた。『父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。』再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。』」

今日お読みしました個所に描かれているのは、イエスさまが弟子たちと一緒にオリーブ山のふもとのゲツセマネの園で、神さまに三度祈りをささげられたときの状況です。

その前にイエスさまは弟子たちに「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。新共同訳聖書が「つまずく」と訳している言葉の意味は、むしろ「見捨てる」です。「あなたたち全員が今夜わたしを見捨てます」とイエスさま御自身がおっしゃったのです。

するとペトロが言いました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。そのペトロの言葉を聞いた他の弟子たちは、腹を立てたかもしれません。「ペトロよ、あなただって我々と同じではないか。なぜ自分だけを特別扱いするのか」。そのように思ったかもしれません。しかし、彼らはそのようなことを、たとえ心の中で思ったかもしれないとしても、最初はそのようなことを口に出して言うことはありませんでした。

しかし、イエスさまはペトロに言い返されました。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。ペトロは反論しました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。

すると他の弟子たちも「同じように言った」と書かれています。彼らとしては「ペトロだけが特別ではない。わたしたちも同じ気持ちである」とイエスさまに対して言いたかったのでしょう。ペトロに対しては「あなた一人だけ抜け駆けするような言い方はやめてくれ」と言いたかったのでしょう。

イエスさまは、それ以上のことはおっしゃいませんでした。押し問答を続けようとはされませんでした。しかし、イエスさまは、彼らが御自分を見捨てることになると確信しておられました。

ここで考えてみたいと思うことは、このようにおっしゃりながら、イエスさまが弟子たちに願っておられたことは何だったのでしょうかという問題です。考えてみたいのは次のようなことです。

イエスさまは弟子たちには御自分と一緒に死んでほしいと願っておられたのでしょうか。イエスさまのことを「知らない」と言わないでほしかったのでしょうか。

イエスさまのことを弟子たちが「知らない」と言わないということは、彼らもイエスさまと同じように逮捕され、処刑されることになることを意味しています。イエスさまは彼らにも御自分と一緒に十字架の上で死んでほしいと願っておられたのでしょうか。それなのに、あなたたちは、わたしを見捨てる。あなたたちは、なんと冷たい、なんと卑怯な人間たちなのか。そのように、イエスさまは弟子たちをにらみつけ、恨み、さげすみ、腹を立てておられたのでしょうか。

そうではありません。すべて正反対です。イエスさまは弟子たちには死んでほしくなかったのです。生きてほしかったのです。「一緒に死ぬ覚悟」などしないでほしかったのです。「知らない」と言ってほしかったし、見捨ててほしかったし、逃げてもらいたかったのです。

もちろんそれは、弟子たちの側からいえば、イエスさまに対する裏切り行為であったことは間違いありません。彼らはこのあと実際にイエスさまを見捨てて逃げてしまったとき、激しく後悔しましたし、強い罪意識にとらわれました。ペトロは三度イエスさまを知らないと言った後、「激しく泣いた」(26・75)と記されているほどです。

しかし、ペトロに対しても、他の弟子たちに対しても、イエスさまは、御自分を見捨て、裏切った彼らのことを、恨みと怒りに満ちた目でにらみつけられたわけではありませんでした。むしろ、彼らが逃げてくれたこと、「知らない」と言ってくれたことを喜び、ほっと胸をなでおろされたに違いない。弟子たちには、安全なところまで逃げて、生き延びてほしかったのです。

そうでなければ、少なくとも歴史の事実として、イエスさまが十字架の上で死にゆくさまを世界中に宣べ伝えることになる弟子たちが生き残ることはありえませんでした。まさに全滅でした。そうなれば、教会が生み出されることはありませんでした。二千年の教会の歴史もありませんでした。

イエスさまが弟子たちに願われたことは、御自分と一緒に死んでほしいということではありませんでした。自分ひとりで死ぬのは寂しいから一緒に死んでくれ、というようなことを弟子に迫るような方ではありませんでした。自分ひとりが生き延びて弟子たちを見殺しにするような方でもありませんでした。

すべて正反対です。イエスさまは、ひとりで死ぬことを願われたのです。そうでなければ、御自分が十字架に架けられて死ぬことの意味はないと確信しておられたのです。それは、弟子たちを生かすためです。彼らに御自分の遺志を託そうとなさったのです。

ですから、このやりとりの次に記されている、イエスさまが祈っておられる間、弟子たちが居眠りしていたことに対して、イエスさまがやや厳しい言葉を語っておられる個所も、イエスさまが恨み、さげすみ、腹を立てられたのだと、もしそういうふうに読むとしたら、その読み方は間違っています。

そうではありません。弟子たちに対するイエスさまのまなざしは、慈愛に満ちた、温かいものです。彼らを責め、裁き、ののしっておられるわけではないのです。

しかし、そうは言いましても、激しく悩み苦しまれていたイエスさまの近くで、弟子たちが居眠りしていたことは事実です。イエスさま御自身は彼らのことを憎んだり、恨んだりなさいませんでしたが、彼ら自身はひどく後悔したことでしょう。

イエスさまは「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と弟子たちに言われました。一緒に祈ってほしい、起きていてほしいと、イエスさまが願われたことは確かです。「あなたがたはこのように、わずか一時でもわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。これはやはり、厳しい言葉ではあります。

そして、イエスさまは、弟子たちがいる所から少し離れた所でうつ伏せになられ、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。

イエスさまは死ぬのが嫌だったのでしょうか。逮捕され、処刑されるのが怖かったのでしょうか。そういうお気持ちを持たれたのではないかという可能性を否定することはできないと思います。変な言い方になりますが、イエスさまは何も「死にたい」と思っておられたわけではないのです。「わたしはもう早く死にたいのだ。だから一思いに殺してくれ」というようなことを願っておられたわけではありません。

それどころか、罪のないイエスさまを逮捕し、死刑にする人たちは、そのことによってその人たち自身が罪を犯すことになります。そのようなことを誰にもさせてはなりません。そのことをイエスさまもお考えになっていたに違いありません。

しかし、イエスさまを憎む人々の勢いが止まる様子はありませんでした。新しい教えを語るイエスという男を殺せば、すべては元のさやに納まる。そのように彼らは信じていました。しかし、歴史の事実はそのようには進んで行きませんでした。むしろ、全く正反対になりました。「神の御心」がそのようなものではなかったからです。

イエスさまの死にゆく姿こそが、新しい教えとして宣べ伝えられるようになりました。イエスさまは弟子たちをかばい、ひとりで十字架にかけられました。一粒の麦が地に落ちて死ぬことによって、多くの実を結び、新しい命を生み出すことになりました。イエスさまの肉を食べ、イエスさまの血を飲むことによって、イエスさまがこのわたしの中に生きて働いてくださると信じられるようになりました。

それが「神の御心」であるとイエスさまは信じておられましたので、悩みと苦しみをお感じになっても、十字架への道を歩まれたのです。

今日の個所からわたしたちは何を学ぶことができるのでしょうか。私は今日、ごく一般的な結論を申し上げたいと思います。

人は、怒鳴りつけられても、厳しく責められても、反省することも、自分の罪を自覚することも、ありません。体罰で人が良い方向に変わることもありません。人が変わるのは、愛されるときです。愛されて、赦されて、すべてが受け容れられたときに初めて、その愛に応えることのできない自分の弱さや愚かさを自覚するのです。

鶏が泣いたとき、ペトロは激しく泣きました。しかし、それは「わたしは決してつまずきません」という自分で立てた誓いを自分で守れなかったから泣いたのではないのです。「あなたは三度わたしのことを知らないというであろう」とおっしゃったときイエスさまが何を思っておられたかが分かったから泣いたのです。イエスさまはわたしのためにそのように言ってくださったのだと分かったのです。

(2013年2月10日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年2月8日金曜日

「第3回 カール・バルト研究会」報告

本日(2月8日)午後5時から7時まで、「第3回 カール・バルト研究会」をスカイプで行いました。

今日は新しいメンバーが加わってくださいました!

藤崎裕之先生(北海道亀田郡七飯町)です!

あとは前回どおりの面々でした(匿名氏は欠席)。

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)
匿名氏(住所非公開)



今日のテキストは『教義学要綱』の「2、信仰とは信頼を意味する」(Glauben heisst Vertrauen)の章でした。日本語版21ページ上段18行目まで読みました。

「キリスト教信仰とは出会いの贈物である。」

Die christliche Glaube ist das Geschenk der Begegnung.

「『われ…を信ず』――これは、『私は孤独ではない』ということにほかならない。この栄光の中にあるわれわれ人間、また悲惨の中にあるわれわれ人間が、孤独ではないのである。神は、われわれ人間に歩み寄り給う。そして、われわれの主また師として、徹頭徹尾われわれを守り給う。」

Ich glaube a n , credo in, das heisst eben: ich bin nicht allein. Wir Menschen in unserer Herrlichkeit und in unserem Elend sind nicht allein. Uns tritt Gott entgegen, und er tritt als unser Herr und Meister ganz und gar für uns ein.

「私は、この出会いを、贈物と言い表わした。それは、そこで人間が神の御言葉を聞くように自由になる出会いである。」

Ich habe diese Begegnung als ein G e s c h e n k bezeichnet. Es ist die Begegnung, in der Menschen f r e i w e r d e n , das Wort Gottes zu hören.

感動的な言葉が力強く語られていました。

『教義学要綱』、面白いです!

次回(第4回)は3月1日(金)午後5時から7時まで。場所は各自のパソコン前です。

試してみたことはありませんが、スカイプ(プレミアム)の機能上、10人までは参加可能だそうですので、ご関心がある方はぜひご参加くださいませ。

2013年2月7日木曜日

カール・バルト『教義学要綱』の序文(超訳)

じゃあ、ちょっとだけ、ご要望にお応えして(笑)。

ただし、「なんら」厳密な訳ではありませんので、あしからず。

でも、以下の文章を書きながら、ほろりと泣けるところが数か所ありました。

バルトって、いい先生だったんだと思いました。

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カール・バルト『教義学要綱』の序文

関口 康/超訳

この本に収録されたぼくの講義は、かつてはボンの選帝侯が住んでいたというゴージャスなお城の中でおこなったものです。お城の中にボン大学が作られたのですね。でも、ぼくがこの講義をしたとき、お城はほとんど廃墟の状態でした。だって、1946年の夏だったわけですからね。

講義はね、みんなが元気になるように、ジュネーヴ詩編歌か賛美歌を歌ってから始めました。講義の開始は朝7時にしました。だって、8時になると、ぶっ壊れた建物の残骸を細かく砕いたり、新しく建て直したりする工事が中庭あたりで始まるので、その音がうるっさくてね。

ちょっと面白い話しますけどね、ほんとにもうグッチャグチャに壊れた建物のがれきの中を、ぼくが興味本位で歩いてたら、シュライアマハー先生の胸像が無傷のままで倒れてるのを見つけちゃいました。それはちゃんと保管されて、あとで建て直されたようですけどね。

ぼくの講義を聴いてくれたのは、半分くらいは神学部の学生たちでしたけど、もう半分かそれ以上は他の学部の学生たちでした。今のドイツ人たちは、いろんな形で、いろんなところで、めいっぱいの苦労をして、生き延びてきたんです。そういう姿が、ぼくの講義を聴いてくれた学生たちにも滲み出てましたよ。

ぼくはもう、ずっと前から雑誌だ新聞だでさんざん叩かれてきた人間で、しかもドイツ人じゃないですしね。学生たちには、ぼくは珍しかったでしょうね。でも、ぼくのほうから見ますとね、やっと笑うことを覚えはじめたばかりのような、まだまだしかめっ面の彼らの姿が、目の奥に焼き付いてますよ。ぼくは、この講義の情景を一生忘れない。

ですしね、たまたまのことですけど、この講義はぼくのちょうど50回目の学期だったんです。終わったときに思ったことは、この学期がいちばん素晴らしかった、ということです。

でも、じつは、この講義を本にすることは、けっこう悩んだんですよね。

だってもうね、ぼくは1935年に『われ信ず』(Credo)という本を出しました。1943年には『教会の信仰告白』(Confession de la Foi de l’Eglise)という本を出しました。ふたつとも使徒信条を講解したものです。なので、この本で使徒信条の講解は三冊目になるわけですが、この本をじっくり読んでいただけばすぐにバレてしまうのですが、新しい内容はほとんど全く出てきません。まして、ぼくの『教会教義学』を読んでくれちゃってる人たちにとっては、何をかいわんやです。

そして、ぼくはそのとき生まれて初めてやったことなのですが、きちんと書いた完全原稿なしでしゃべりました。いくつかの命題を書いたレジュメだけ配ってね、それを見ながら、自由にしゃべりまくったんです。だって、言っちゃ悪いですけど、ほとんど原始時代のような状態のドイツの中で話したわけですよ。だからぼく自身も、原始人になってね、「原稿を読む」んじゃなくて、「しゃべる」ことが必要だと思ったんです。

そのぼくのおしゃべりを速記してくれた人がいましてね。もちろん、ぼくもちょっとくらいは手を入れましたけど、とにかくそういうものです、この本は。

ぼくは、これまではけっこう物事を厳密に扱うことのために努力してきた人間ですし、今でもそのつもりです。だけど、この本に限っては、いろんな点で厳密ではないです。最後あたりは、ぼくの都合で急がなくてはならなくなってますし、この講義以外のことで身辺が多忙になってしまっていたことがバレてしまうような内容です。

まあ、でも、生(なま)というかライブ感覚というのを分かる人には、この本の欠点こそが逆にこの本の良いところだと思ってもらえるかもしれません。このときぼくはトークライブをやらかしたのですが、ぼく自身、しゃべっている間、うれしくて楽しくて仕方なかったんです。

でも、それが活字として印刷されますとね、欠点があることくらい、そりゃ気づきますよ。その欠点をあげつらって批判する人がいても、ぼくは別に構わないと思っています。恨んだりはしません。

もとはといえば、ツォリコン出版社の社長さんが、「この本を出版しろ」とぼくに圧力をかけてきたので仕方なく出すことにしたんですけどね。ぼくもそれを承知したわけですけど。でも、これを出版する気になったことには理由がある。

ぼくは、他の本ではもっと厳密に書いてきましたし、あるいはもっと簡潔に書いたところもあります。でも、それは、ほんの一握りの人にしか分からないマニアックな話です。だから、この本のような、ざっくりした話し方で書かれた本があれば、マニア向けの話についての分かりやすい説明になるんじゃないかと思ったんです。

マニアじゃない人たちにとってもね、この本が「時の間」の(ドイツに限らず)新しい一時代の記録のようなものになっているという理由で(そのつながりははっきりとは分からないと思いますけどね)、この本を読んで嫌な気持ちになる人はいないんじゃないかなと思っています。

もう一つ言えば、そもそも使徒信条というのは、この本の中でぼくがしゃべりまくっているような、まさにこういう口ぶりやテンポで説明されるほうがよいものではないか、いや、そうすべきなのではないか、ということも、この本を出版することを決めたときに自分に言い聞かせたことです。

もしこの本を誰かに献呈するとしたら、1946年の夏、ぼくのこの講義を聴いてくれたボン大学の学生たちと聴講生たちに献呈します。

ぼくは、きみたちと一緒に、この講義をしている間(そりゃ当たり前のことだね!)、本当に幸せな時間を過ごしたよ!

1947年2月、バーゼル

「不信仰」に悩む友へ ~贈る言葉~

「もう寝ます!」と宣言してからが長い!

ウダウダなう...。

バルトの『教義学要綱』予習してました。

日本語版:

「われわれは、確かに混乱せしめられたり、疑ったりすることがありうる。しかし、一度信ずる人は「消えざる印章」(character indelebilis)のようなものを、持つのである。信じる人は、自分が支えられているという事実に、恃(たの)むことができる。不信仰と戦わねばならぬすべての人に対して、『あなたは自分の不信仰を余り重大に考えてはならない』と、勧めなければならない。信仰だけが、重大視さるべきである。そして、もしわれわれに芥子種(からしだね)一粒ほどの信仰があるならば、悪魔が敗北するには、それで十分なのである。」
(バルト『教義学要綱』新教出版社、新教セミナーブック、1993年、23ページ)

英語版:

One may, of course, be confused and one may doubt; but whoever once believes has something like a character indelibilis. He may take comfort of the fact that he is being upheld. Everyone who has to contend with unbelief should be advised that he ought not to take his own unbelief too seriously. Only faith is to be taken seriously; and if we have faith as a grain of mustard seed, that suffices for the devil to have lost his game.
(Karl Barth, Dogmatics in Outline, Harper & Row, 1959, p. 20-21)

ドイツ語版:

Man kann gewiss verwirrt sein und man kann zweifeln, aber wer einmal glaubt, der hat so etwas wie einem character indelebilis. Er darf sich dessen getrösten, dass er gehalten i s t . Es ist Jedem, der mit dem Unglauben zu ringen hat, zu raten, dass er seinen eigenen Unglauben nicht zu ernst nehmen solle. Nur der Glaube ist ernst zu nehmen, und wenn wir Glauben haben wie ein Senfkorn, so genuegt das, dass der Teufel sein Spiel verloren hat.
(Karl Barth, Dogmatik im Grundriß, Theologischer Verlag Zürich, 1947, S. 23)

超訳:

「まあね、もちろんさ、アタマ混乱、ワケ分からんくなったり、『んなことありえねー』と思ったりすることくらい、だれでもありますよ。だけどさ、もうね、いったん信じた人には『不滅の焼き印』(character indelebilis)みたいなのを押してもらえるのよ。そしたらね、『もうぼくは何があってもガチッと守られてるんだから大丈夫だぜ』と安心してもいいのね。不信仰っつーかね、そういうのはダメだと葛藤してる人がいたら、『え、不信仰?んなの、べつに大したことじゃないっすよ』と言ってあげてくださいね。『信仰ってすげえもんなんだよ』とね。パンとかに塗るマスタードあるじゃん、あの中のちっちゃい黒い粒あるでしょ、あれの一粒くらいの信仰があれば、悪魔の口はまっかっか。ブーッと噴き出して血相変えて逃げちゃうからね(笑)。だから安心していいんです、はい。」

えっと、ですね、「はしがき」を読むと分かるのですが、

バルトの『教義学要綱』って、いわゆる「トークライブ」だったらしいんです。

だから、それ風に(笑)。

2013年2月6日水曜日

今日の午後は「編集」に没頭していました

今日は午前中は祈祷会、午後は「編集」に没頭していました。

あ、いえ、「編集」といっても、将来の日本語版『ファン・ルーラー著作集』刊行に備えて、オランダ語版(現在第4巻まで配本済み。全9巻の予定)のとおりに訳文を並べ替えてファイルして、ファイルの題字を付けただけですけどね(汗)。

少しでも見栄えをよくするために、コピーが重複している場合はひとつだけ残してあとは捨てるとか、古くなったり汚れていたりするコピーは新しく印刷しなおすとか、訳はできているのに印刷してなかった分を印刷するとか。

大したことなさそうなのに、シロウトがやると、たったそれだけのことに、半日もかかってしまいました。

各巻ごとにファイルしてみると、すでにある程度の分量になりそうな巻もあると思えば、まだタテに立ちもしない「薄い」巻もあるなと気づかされます。

道なお遠し。

あ、でも、まさか、ぼくひとりで全部やれるとかは思ってませんからね(汗だく)。

「ファン・ルーラー研究」というタイトルを付けたファイルには、ぼくが過去に発表した論文やそのために調べたことだけを綴じました。

まあ、新教出版社の『カール・バルト著作集』全17巻の完成までに40年(1967年~2007年)かかったという偉大なる前例がありますので(笑)、ぼくはもう焦らないことにしました(笑)。

いまパソコンの壁紙は、ライデン大学の校舎です。「壮麗なゴシック建築もひとつひとつのレンガから」と自分に言い聞かせながら過ごしてきたつもりです。ぼくにはデカイ仕事はできません。せめてレンガを何個か遺して死ねたらと願っています。


今週金曜日は「第3回 カール・バルト研究会」です

今週2月6日(金)午後5時から7時まで、「第3回 カール・バルト研究会」をスカイプで行います。二週に一度の勉強会が待ち遠しくなってきました。

スカイプの性能上、参加者を5人くらいに抑えなくてはならないのですが、ほんとは300人くらいに参加してほしいと思っています。間違いなく紛糾すると思いますけど(笑)。

読んでいるテキストは『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック)ですが、まだ最初の「1、課題」(Die Aufgabe)をやっと読み終えたところです。今週は「2、信仰とは信頼を意味する」(Glauben heisst Vertrauen)です。

以下、ちょっぴりネタばらし。

「1、課題」の中でバルトが書いている「教義学の主体はキリスト教会である」(Das Subjekt der Dogmatik ist die christliche Kirche.)というおそらく非常に有名な主張については、これまでの2回のスカイプのやりとりの中で反芻され、面白がっていることの一つです。

バルトはこのように言いながら、そのすぐあとに「われわれが教義学の主体は教会であると規定する場合、それは決して、学問としての教義学の概念を制限したり、傷つけたりすることを意味しない」(Es kann also keine Einschraenkung und keine Schaedigung des Begriffs der Dogmatik als Wissenschaft bedeuten, wenn wir konstatieren: das Subjekt dieser Wissenschaft ist die Kirche.)とも述べていますので、バルトは事実上「教会は学問をおこなう場所でもある」と言っていることになります。

バルトにとって「教義学は学問」(Dogmatik ist eine Wissenschaft)だからです。

この主張については、今のメンバーとしては、ぼく自身を含めて、バルトに賛成できる点だと思っています。

そして、このことについて、ある人からの受け売りとして、ぼくが言ったことは、次のようなことです。

「逆にいえば、教義学というのは、教会という檻の中に閉じ込めておかないかぎり、凶悪なものとして暴走しかねない魔物である。牧師の説教とか、教会の礼拝とか、そのような愚直としか言いようがない方法でしか広がることも伝わることもないくらいで、ちょうどよい。教義学がヘーゲルの絶対哲学みたいになっちゃって、教会の枠を超えた普遍性などを主張しはじめたらエライことになる。」

「学問をおこなうのは大学であって、教会ではない。教会に難しい話を持ち込まないでくれ」というような区分をしてしまいますと、ぼくたちは、教会の中から「教義学」を締めだしてしまうことになります。そして、「難しいこと」は、大学の先生たちに任せきりになる。

だけど、大学の側としては、そんなふうに教会から丸投げされても困る。大学は学生の確保をしなくてはならないし、人気のない学問は採算が合わないので切り捨てざるをえない。

そのようなときに、ヘーゲルみたいなのが、いつの間にか教会の中で、教義学の位置に置き換えられてしまうときがくる。「教義学」を教会も大学も厄介もの扱いして遠巻きにしてしまうと、いつの間にか、我々を不当に支配する「絶対的なるもの」が、教会にしのびこんでくるのです。

というふうな話をしています。

「バルト主義者にならないこと」を唯一の入会条件に掲げている我々「カール・バルト研究会」ですが、バルトの本は読むとハマりますね(笑)。

2013年2月3日日曜日

聖餐式には何の意味があるのですか


マタイによる福音書26・17~30

「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、『どこに、過越の食事をなさる用意をしましょうか』と言った。イエスは言われた。『都のあの人のところに行ってこう言いなさい。「先生が、『わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする』と言っています。」』弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。『わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。』イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』と言うと、イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ。』一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」

いまお読みしました個所に記されているのは、イエスさまが十字架にかけられる前の夜、弟子たちと最後の食事をなさったときの様子です。その食事はいわゆる「最後の晩餐」と呼ばれるものです。それは、旧約聖書に定められている過越の食事でした。

過越について旧約聖書に最初に出てくるのは出エジプト記12章です。次のように記されています。

「イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である』」(出エジプト記12・3~11)。

なぜ「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる」のでしょうか。このあとイスラエルの民はエジプトを脱出するからです。過越の食事は、彼らにとっては出かける前の準備としての腹ごしらえという意味を持っていたのです。

なぜ「小羊の血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」のでしょうか。その血が塗られている家の前を神が過ぎ越してくださるためです。そして、それ以外の家の人々、つまりエジプト人たちに神が裁きをおこなってくださるためです。

そして、イスラエルの民がエジプトから脱出することは、彼らにとっての救いを意味していました。彼らはエジプトの地で奴隷状態にありました。その奴隷状態から解放され、イスラエルの民の先祖の故郷であるパレスチナの地に帰ることが、彼らの救いだったのです。

先ほど読んだ出エジプト記12章の続きに次のように記されています。

「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(出エジプト記12・13~14)。

イエスさまが十字架にかけられる前の夜に弟子たちとなさった最後の食事は、過越の食事でした。ただし、小羊も山羊も用意されませんでした。どこにもいなかったからではありません。お金がなくて買えなかったからでもありません。実はちゃんと用意されていました。ただしそれは、わたしたちが通常それを小羊とか山羊とか呼んでいる動物ではありません。動物の代わりに用意されたのは、イエスさま御自身でした。イエスさまの肉と血、それがその日の過越の祝いのために用意された犠牲の供え物だったのです。

しかし、まさか弟子たちは、イエスさまをその場で殺して食べるわけには行きません。そのことはイエスさまも分かっておられました。イエスさまはパンとぶどう酒を用意されました。そして、パンを裂くときに「これはわたしの体である」と言われて弟子たちにお与えになりました。同じように、ぶどう酒の杯をとり、「これはわたしの血である」と言われました。弟子たちはイエスさまのみことばを聞きながら、パンを食べ、ぶどう酒を飲みました。そのようにしてイエスさまは、小羊でも山羊でもなく、イエスさま御自身を食べるように、弟子たちにお命じになったのです。

そしてそれは、旧約聖書の過越祭が持つ意味と同じように、出かける前の準備としての腹ごしらえの意味を持っています。イエスさまが弟子たちに願われたことは、わたしを食べて、力を与えられて出かけなさいということでした。実際に彼らが食べたのはパンであり、ぶどう酒です。しかしそれはイエスさまが語られる御言葉と共に食べたのです。このパンはイエスさまの体であり、このぶどう酒はイエスさまの血であるという信仰をもって食べたのです。

イエスさまが配られたパンはどれくらいの大きさだったか、ぶどう酒はどれくらいの量だったかなどは分かりません。しかし、そのようなことはあまり重要なことではありません。イエスさまにとって重要なことは、弟子たちが御自分の肉を食べ、血を飲むことでした。それはイエスさま御自身がお使いになった言葉づかいです。変な意味でとらないでほしい。それは、イエスさまの御言葉を聞き、信仰をもって生きることを意味しています。それ以上の意味も、それ以下の意味も無いのです。

さて、ここでもう一度、旧約聖書の過越の定めの個所に戻りたいと思います。次のように記されています。

「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と」(出エジプト記12・24~27)。

この個所に書かれていることは、エジプトから脱出した当事者であるイスラエルの民にとってよりも、彼らの子孫にとって重要な定めです。「あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるとき」が来るというわけです。

どのような儀式でも、それが最初に行われたときの様子や状況を覚えている世代がだんだん少なくなり、やがていなくなってしまうときが来ます。そのとき、その儀式は形骸化してしまう恐れが無きにしもあらずです。そのとき子どもたちが親や大人に「この儀式にはどういう意味があるのですか」と素朴な疑問を投げかけてくる。そのことが前もって想定されているのです。

考えてみれば、そのような疑問を子どもたちが持つことは、ある意味で当然のことでもあるのです。いま自分たちは何をしているのか、その意味が分からないと彼らが感じるのは当然です。「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べなさい」と言われる。エジプトから脱出した世代のイスラエルの民にとっては、なぜそうしなければならないのかは分かります。しかし、あとの世代の人にとっては意味が分かりません。

ですから、その疑問を子どもたちがもったときが、その意味を説明するチャンスでもあるわけです。「この儀式にはどういう意味があるのですか」という質問が出てきたときこそが、それを説明することができるチャンスなのです。

それと同じことが、わたしたちの教会でおこなっている聖餐式にも当てはまるのです。今日はこのあと、聖餐式を行います。そのとき私がお読みする式文には「聖餐式は、主イエスが、十字架に架けられる前の夜、弟子たちと最後の食事をしたときに制定された礼典です」と記されています。つまり、わたしたちが行う聖餐式は、イエスさまと弟子たちとの最後の晩餐から始まったものであると、わたしたちは理解しています。

しかし、わたしたちが聖餐式でしていることの意味は、もしかしたら、子どもたちには分からないことかもしれません。あるいは新来者や求道者にとっても意味不明かもしれません。「何をやっているのだろうか、さっぱり分からない。奇妙な儀式だなあ」と疑問や不満を感じるかもしれません。

でも、そのような疑問を抱いていただけたら、それがチャンスなのです。私の願いは、子どもたちや新来者や求道者の方々には、ぜひともそのような疑問を感じてほしい、遠慮なく質問してほしいということです。「聖餐式には何の意味があるのですか」と。そのときこそが、わたしたちのチャンスだからです。逆にいえば、わたしたちがどれだけ多くの言葉で語ろうとも、自分自身の中に疑問や不満が無い人には、興味が無い話かもしれません。疑問がわいてきたときがチャンスなのです。

そのときわたしたちは説明いたします。聖餐式というのは、イエスさまが十字架に架けられる前の夜に定められた礼典です。その中でイエスさまは、「これはわたしの体です」「これはわたしの血です」とおっしゃりながらパンとぶどう酒を弟子たちにお渡しになりました。イエスさまの肉と血を食べるとは、イエスさまの御言葉を聞き、信仰をもって生きることです。そして罪のないイエスさまを十字架に架けてしまうほどに罪深いわたしたち人間の罪を悔い改めることです。自分の生き方を根本的に見つめ直すことです。イエスさまの教えに従って生きる新しい人生を始め、続けることです。それが聖餐式の意味です。

しかし、私にとっては残念なことなのですが、そういう質問をしてくれる人がほとんどいません。宗教に対する関心が薄いです。いっそ反発してくれるほうがまだ手ごたえがあります。しかし、最近の傾向はとにかく無関心です。のれんに腕押し、糠に釘。手ごたえがありません。

聖餐式のやり方を変えても、おそらく問題は解決しません。どうすればよいのかは分かりません。しかし、わたしたちにできることは、イエスさまが定められたとおりに、これからも聖餐式を続けていくことです。たとえマンネリ化していると思われたとしても。いや、むしろマンネリ化こそがチャンスなのです。教会がしている一つ一つのことについて「これには何の意味があるのですか」という質問を教会は待っているのです。

(2013年2月3日、松戸小金原教会主日礼拝)